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771 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:33:29 ID:l.6o34l6  ヘビセンと呼ばれるショッピングモールがある。  設立されたのは今から一年前と比較的新しい、大規模な商業施設だ。郊外にある広大な土地を使った複合型のモールで、その規模は非常に大きく、他県から訪れる人も少なくないと聞いている。  元は市主導で自然公園をつくるはずの土地だったらしいが、重役の献金問題等で話がこじれ、結局は頓挫してしまったという背景を持つ。  しかしながら、ここら周辺にも大きな自然公園はあるので、市民としては公園よりもショッピングモールができたほうがありがたかったのかもしれない。  モールの外観は近代ヨーロッパをモチーフにしており、レンガ敷きの遊歩道、ガス灯をイメージした街灯など、精巧な小道具で場を盛り上げている。  そのためか、買い物をせずともぶらぶらと歩いているだけでもそれなりに楽しめてしまうので、金銭の乏しい学生にも大変な人気があった。我が校の生徒も例外に漏れず、平日休日問わず多くの生徒がヘビセンを訪れていた。  ところで、ヘビセンというのはあくまで非公式の愛称であり、実際にはもっと長ったらしい正式名称が存在しているということにも触れておこう。なら、何故このモールはヘビセンなどと呼ばれ始めたのか。それは、モールの全体図を見れば一目瞭然である。  先端にある円形の映画館に、ぐにゃぐにゃとくねり曲がった遊歩道。その姿が、ちょうどヘビのように見えるからだ。ヘビのようなショッピングセンター。略してヘビセン。どうも、そういう由来らしい。私自身、人づてに聞いたことなので確証はないが。  それが製作者の意図してつくったものなのか、そうでないのかはわからないし知らない。とにかく、そういう風変わりな名前のショッピングモールがあるのだということを覚えて欲しい。  さて。前置きが長くなったが、私は今、そのヘビセンの中にある、とある喫茶店にいた。ヘビの姿になぞらえると、ちょうど尻尾の一番先の辺り。その客の足取りが最も悪いであろう場所に位置する喫茶店で、私はひとりコーヒーを啜っていた。  昨夜の前田かん子との通話時に、私は本日の会合場所を此処に指定した。この喫茶店が、自分にとって慣れ親しんだホームグラウンドであり、少ないとはいえ一応は人の目があることが、此処を選んだ理由だ。 いや、実をいうと、もっと大きな理由がある。自分の住む街からはそこそこ遠いヘビセンを、わざわざ選んだ理由が。 「…………」  ぼんやりと、窓に映る自分の冴えない顔を見つめた。  そういえば、結局、昨夜は彼女からはハッキリとした返事はもらえなかったな、と思い出す。  今日はちゃんと来てくれるかしら。ちょっと不安になってくる。予定の時間は刻一刻と迫ってきていた。といっても、どちらにせよ私には待つことしか出来ないのだが。 772 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:35:10 ID:l.6o34l6  珍しく緊張していたのか、肩のこりがひどい。私は丹念にこりをほぐしながら、店内の様子を再度顧みた。  落ち着いた、と言えば響きはいいが、実際はただ寂れただけの喫茶店。店内にはモダン・ジャズが気にならない程度の音量で流れ、雰囲気を出す為か、照明はわざと薄暗くしていた。  来店している客は、私を含め五人。皆どこか気だるげな空気を醸していて、それが店の活気のなさに拍車をかけている。  日曜日だというのに、どうしてこうも客が少ないのだろうか。他人事ながら、私は少し心配になってきた。  この店も、端っことはいえヘビセン内に含まれているのだから、立地条件としては申しぶんないはずなのに。しかし、ヘビセンのフードコートには全国にチェーン展開しているコーヒー店もあるし、それも仕方ないかもしれないけど。  この喫茶店はサイドメニューの数が極端に少なく、しかも肝心のコーヒーが値段のわりに美味しくないときているので、そもそもフードコートの店とは勝負にすらなっていなかった。というか、店側に張り合う気力が見られない。  けど、私はそんなやる気のない店の態度を気に入っていた。それが、此処を贔屓に利用する要因なのかもしれない。客層は見ての通り、疲れた人々ばかりでとても静かだし、勉強や考え事をするのには最適といえよう。  店内を一通り見渡し終えると、私は窓の外を眺めた。現在、私は窓際の二人席を陣取っているので、外の様子はよく見て取れた。  今朝の天気予報でも言っていたのだが、どうやら本日は午後から雨が降るらしく、雲行きが怪しかった。曇天が広がる空には、こぼれる日差しが一筋もなく、昼間にも関わらず辺りは夕方のように薄暗い。そのせいか、街灯にはさっそく灯がともっていた。  いつもなら、行きかう人々で溢れている街道も、普段よりは淋しく感じた。通行人がぽつぽつとしか見受けられない。そして、その手には皆折りたたまれて細くなった傘を握られていて、今にも降り出しそうな雨に備えている。 「…………」  良くない流れだな、と思う。正直、私は焦りを感じていた。このままでは、計画に支障をきたすかもしれない。窓に映る自分の顔も、不安そうに複雑に歪んでいた。 「うまくいけばいいけど……」  ぽつりと、そんな弱音のような独り言を吐き出した時だった。突然、目の前の窓がカタカタと音を立てて震え始めたのは。  地震だろうか、そう思って瞬時に身構えたのだが、どうも地震とは勝手が違う気がした。ハッキリ言えば、もっと人工的な匂いがする。  その振動に気付いたのは、どうやら私だけではないらしく、店内に居座る客も何事かと顔を上げていた。気だるげな空気が幾分か引き締まり、ささいな緊張が発生する。 773 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:36:56 ID:l.6o34l6  音だ。加えて音も聞こえ始めた。まるで牛の鳴き声のような。いや、牛といっても闘牛だ。闘争心を抱えた、低い唸り声。その音はどんどんと激しさを増していき、それに比例して窓の震えも大きくなっていた。  店内の視線は、全て窓の外に集中していた。何かが現れる。皆、そんな予感を感じていたからだろう。かくいう私も同じ気持ちだった。何かが来訪するのを、恐れと共に待っていた。  そして、振動と音が頂点に達した時、遂にそれは現れた。  轟音を轟かせながら、突如横合いから飛び出してきた真っ黒な物体。それは店の前で大きく旋回すると、摩擦による白い煙を巻き上げながら急停止した。どっどっどっ、と耳をつんざくような重低音が周囲に響き渡る。  それは、素人目から見ても明らかに違法改造だとわかる無骨な形をしたバイクだった。黒のメタリックボディが眩い光沢を放っている。跨るライダーもバイク同様に黒尽くめで、黒のフルフェイスヘルメットにライダースーツ。そしてブーツを履いていた。  ヘビセンは、自転車等での進入を禁じている。ましてや、目の前で唸っているような巨大なバイクなどはもってのほかだ。本来なら、きちんと所定の駐輪場で駐車しなければならない。  けれど目の前のライダーは、そんなルールは与り知らぬとばかりに、白昼堂々と違法行為をやってのけていた。そして、私はこんなことを平然としてみせる人物を一人知っていた。  エンジンが切られた。すると、先程までの騒音はなんだったのか、水を打ったような静けさが取り戻される。  騎乗するライダーが、バイクから降りた。続けて、装着するフルフェイスヘルメットに手をかける。  砂金の如き金髪が、中空を舞う。  ヘルメットの下から現れた端正な容姿をした女性は、私の予期していた通り、前田かん子その人ならなかった。  その映画のワンシーンみたいな光景に目を奪われたのは、私だけでなく、店内にいる人間全員も同じであっただろう。尤も、薔薇の茎にひそむ棘のように、感じ取ったのは美しさばかりではないと思うが。  彼女はそのまま店の前でバイクを停めると、大股で出入り口まで歩いていき、乱暴にドアを開けた。付属するベルが、ガチャガチャと汚い音を奏でる。 「い、いらっしゃいませ……」  店員さん(おそらく大学生のバイトだろう。温和そうな笑顔が特徴的だ)の震える笑顔を無視して、前田かん子はぎろりと視線を一周させた。  客達は、その視線上に入ることを恐れ、亀のごとく首を引っ込めていた。そして彼女は窓際に座る私を見つけ出すと、カツカツとブーツを鳴らして接近してきた。  私はいつもの柔和な笑みを浮かべて、片手を上げながら挨拶する。 「こんにちは前田さん。今日はわざわざ貴重な休日に・・」  バン、と前田かん子がテーブルを思い切り叩いた。机上のコーヒーカップが、怯えて一跳ねする。 「なぜ私を呼び出した」  今となっては聞き慣れてきたハスキーボイスで、短くそう告げる。  どうやら、機嫌は見ての通りあまりよろしくないらしい。といっても、私は機嫌のよい彼女なぞ見たことがないのだけど。 774 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:39:41 ID:HRoXok2Y 「わけは話しますよ。ですからまず、席に着いたらどうでしょうか?」 「私はお前とお喋りしに来たんじゃない」  提示した提案を、即座に突っぱねる。金剛像のような仁王立ちが、お前とは一秒でも顔を合わせていたくないと暗に告げていた。  やれやれ、とさしもの私も肩をすくめるしかない。まさか、ここまできっぱり拒絶されるとは。  さっきから気付いていることではあるが、店の雰囲気が剣呑なものに取り替わっていて、非常に居心地が悪くなっていた。普段とは大違いだ。店内にいる客も、そわそわと落ち着きなく身体を揺らしていた。  なんだか悪いことをしてしまったな。ひどく罪悪感を感じる。せっかくの日曜日なのに、これでは店にも客にも迷惑をかけてしまう。関係のない人を巻き込みたくはなかった。なんとかしなくてはならない。  それなら、と私は意気込む。空気が張り詰めているのなら、解きほぐしてやればいい。私は場の空気を和ませてやろうと、とっておきのジョークを口にした。 「いやはや、これは手厳しいですね。会っていきなりこれでは、まさに取り付く島も無いといったところですかね・・鳥島だけに」  そう言い終えると、したり顔で前田かん子を見た。けど、 「…………」  彼女には何の変化も見て取れなかった。相変わらず、刃物のような鋭い視線で私を見ているだけだ。それに店の空気も全然弛緩していなかった。むしろ嫌な感じが増しているような……。 「あの、今のわからなかったですかね? 取り付く島と、自分の名前の鳥島をかけたダジャレだったのですが、あの、面白かったですよね?」 「…………」 「あ、いや、やっぱりなんでもないです。なんか、すいませんでした」  私はゆるゆると頭を下げた。そして顔を上げようとしたのだが、ショックが大きすぎたのか、動きはかなり緩慢になった。  数少ない持ちネタが不発だったことにより、私は決して少なくないダメージを負っていた。というか、重傷だ。割と本気に傷ついている。深夜寝る前とかに必死で考えてニヤニヤしていたのに……死にたくなる。  切り替えよう。  ふぅ、と息を吐き、今の出来事なんて無かったとばかりに、私は冷静に続けた。 「非常に言い難いことなんですが、今日前田さんを呼び出したのは、そのお喋りをするためなんですよ」  何か突っ込まれないうちに、素早く言葉を継ぎ足す。 「といっても、なにも世間話をしようってわけじゃありません。私がしようとしているのは、もっと有意義な話です」  慎重に、本題へ切り出した。 「前田さんには、田中キリエに関する情報を話して欲しい」 775 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:41:22 ID:HRoXok2Y  そこで初めて、前田かん子の態度に変化が現れた。仏頂面に少し、ヒビが入る。 「鳥島タロウ。私が初めてお前と会ったときに言った言葉を、もう忘れたのか?」 「忘れちゃいませんよ。お互いのことを知らないなら、付き合ってからお互いのことを知っていけばいい、でしたよね?  前田さんのその言葉には全面的に同意します。だけど、今回は状況が状況でして、どうしても前田さんの力が必要になるんですよ。どうか、協力していただけませんか?」  少しでも誠意を見せようと、深々と頭を垂れてみせる。  しかし、前田かん子は付き合ってられないとばかりに渇いた笑いを漏らした。 「くだらない。お前が何を言おうと、私は前言を撤回する気は無い。その程度の用で呼び出したというのなら、帰る」  そう言うやいなや、彼女は一度も席に着くことなく、くるりと踵を返して、宣言通り出入り口へと戻っていく。説得は失敗した。このままでは、彼女は本当に帰ってしまうだろう。  仕方がない、か。私は下唇を噛む。目的の為だ。やはり多少のリスクは負わざるを得ないだろう。  一歩、二歩、三歩と進んだところで、私は遠のいていく前田かん子の背中に、言葉をひとつ投げかけた。縫い針を指に指したように小さい、ちょっとした傷を負わせる程度の切れ味を備えて。 「あまり調子に乗るなよ、前田かん子」  ぴたり、とまるで影を楔で止めたかのように、前田かん子の足が止まった。そして、ゆっくりと首だけを動かし、横顔をこちらに見せる。 「おい、お前、いま、なんて言った?」  全身の肌が粟立った。明らかな殺意の宿る隻眼が、容赦なく私を射抜く。殺される、と思わされてしまうほどの凶暴性。片目でこれなのだ。もし両目で睨みつけられていたら、私は失禁していたかもしれない。 「無責任なんですよ」  しかし、こちらも怯まない。なるべく感情のない顔をつくって、悠然と言い返す。 「先程の台詞、そっくりそのまま返させていただきましょう。あなたこそ、自分が言ったことをお忘れになっているんじゃありませんか?  もし田中キリエを悲しませたのなら、私を殺す。あの時、たしかに前田さんはそう言いましたよね?」 「ああ、言ったよ」 「それが無責任なんですよ。あなただって、もうとっくに気付いているのでしょう? 私が他人の心情を慮るのを非常に不得手にしているのは。いい機会ですからハッキリ言っておきますが、このままでは私は、百パーセント田中さんのことを悲しませますよ」  舌がカラカラに渇いているのに気付く。コーヒーで口内を湿らせようかと思ったが、カップの中は空っぽだった。しょうがないので、そのまま続ける。 776 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:43:36 ID:HRoXok2Y 「田中さんのことを知らないのなら、本人に訊けばいい。ええ、大いに結構ですよ。しかし私は、彼女の触れられて欲しくない領域にズケズケと踏み込んでいきますよ、間違いなく。  私には田中さんの心の機微を感じ取るなんて器用な真似はおそらく出来ないでしょう。平気な顔して、彼女の心を蹂躙してしまう。嫌な思いをさせてしまう。  そんな地雷原の中を全力疾走で進んでいくような行為を、あなたは望んでいるのですか? 少なくとも私は御免ですね。攻略本どころか、説明書も無しにワンコインクリアをするようなものですよ」  返事はない。もう少し畳み掛ける必要があるか。 「私が田中さんの告白を断ったのは、自分のそういう性分をよく理解していたからです。言うならば、彼女のことを想ってこその結果だった。だけれど、それを無理矢理つなぎ合わせたのは他ならぬあなたですよ、前田さん。  あなたには、私に情報を与える義務がある。田中さんのことを悲しませないために、わたしには彼女の基礎知識を教える必要がある。そしてその義務を放棄するということは、畢竟、前田さんが田中さんを傷つけるのと同義です」 「私がキリエを傷つけているって言うのか? お前は」 「はい。このままでは前田さんは間接的に田中さんを傷つけることになります。私、鳥島タロウが田中さんを傷つけることを十二分に知りつつも放置するのだから、当然でしょう? おかしなことは言っちゃいませんよ」  前田かん子は揺らいでいた。まさか自分が田中キリエの傷害に加担しているとは思ってもいなかったのだろう。ぶっちゃけた話、私はそうとうにズルイこじ付けを言っているのだが、前田かん子は気付かない。こと田中キリエのことになると、正常な考えが出来ないことは知っていた。  いけるな、とここで私は確信する。後はちょっと、ほんの少し背中を押すだけ。 「私は前田さんに殺されたくない。前田さんは田中さんを悲しませたくない。互いの利益は一致しています。なにも悩むことはないでしょう。ここで意固地になるのは、あまり得策とはいえませんよ。  さて。これで、私の言いたいことは全て終わりです。後は、前田さん次第ですよ」  私は一仕事を終えた後のように大きく息を吐き、腕を組んで、椅子にもたれかかった。コーヒーを飲みたかったが、中身が空なので我慢する。  前田かん子はしばらく私を見つめていた。ここまで説得されておきながら 、なお決めあぐねているらしい。  おそらく、私の提案にそのまま乗っかるのが気に喰わないのだろう。彼女はものすごく私のことを嫌っている。けど、結果はわかっていた。 777 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:45:43 ID:HRoXok2Y 「…………」  前田かん子は、帰りかけていた足を元に戻すと、無言のまま私の対面の席に腰掛けた。 「わかって貰えたようで嬉しいです」  とりあえず、これで第一関門は突破。今日こなさなくてはならなかった最低限のミッションは達成した。彼女が交渉のテーブルにつかずあのまま帰っていたら、一番困っていたのは私だっただろう。  前田かん子は、投げやりな口調で言う。 「御託はいい。さっさと訊きたいことを訊け」 「まあまあ、そう急かさずに。せっかく店に来たのですから、まずは注文しないと。私も、ちょうどコーヒーのおかわりを頼もうとしていたんです」  横に立て掛けられていたメニュー表を彼女に向かって差し出したが、前田かん子は受け取ろうともしなかった。仕方がないので、見えるようにしてテーブルに置いておく。  いやあ、嫌われてるなあ、とことん。まあ、わかってはいることだけどさ。  自分としては、出来ればもっと仲良くなりたいと思っているので、なんとか今日その糸口を掴めればなと密かに考えていた。  前田かん子はメニューに一応目を通しているらしく、眼球が上下左右に動いていた。そしてその動きが停止した頃を見計らって、私は未だびくびくと怯えている女性店員さんを呼んだ。オーダーを告げる。前田かん子は結局、私と同じコーヒーをたのんだ。  それからは互いに無言だった。なんとなく、注文の品が到着してから話そうという空気が出来あがっていた。なので、私も黙ってそれにならっていた。  そして私は、ここぞとばかりに、前田かん子のことを改めて観察した。考えてみれば、彼女のことを仔細に見るのは初めてかもしれない。私達が会うときは、大抵が穏やかでない。  まじまじと無遠慮に見つめる。彼女は、本当に綺麗な人だった。お人形さんみたいだな、とありふれた決まり文句しか頭に浮かばない。  長い睫毛に、日本人にしては高い鼻、そして決め細やかな白い肌。一番の特徴である軽く巻いた金髪は、オレンジ色の照明に照らされてきらきらと光っている。  一見すると、その髪は天然物のようにしか見えない。もしかしたら本物かもしれなかった。彼女には異国の血が混じっているのかしら。  そのまま視線はずるずると下がっていき、最終的には首の下、彼女の豊かな乳房の辺りにとまった。  思わず、感嘆の息を漏らしそうになる。  大きい。前田かん子の胸は、とにかく大きかった。こんなに大きな胸を、私は画像や動画等の媒体以外では一度だって見たことがなかった。  ピッタリとしたライダースーツを着ているせいか、形のよさがくっきりと表れていて、その存在を更に強調していた。張りも弾力も中々ありそうで、対の張り上がった球体は、みずみずしい西瓜を連想させた。  後はもう少し、首元まで上げたジッパーを、後もう少しだけ下げてくれたのなら……。 778 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:47:40 ID:HRoXok2Y 「なに見てんだよ」  突如、向かいから飛んできた声に、私はひどく混乱してしまった。あ、え、と訳のわからぬ言語を吐き出した後に、慌てて自己弁護をする。 「あ、ええとですね、思わず感心してしまって、大きいなあって」 「大きい? なにがだよ」 「おっぱいがです」 「…………」 「あっと、違うんです。今のは本当に違うんです。言葉のあやというか、なんというか、いや、でもおっぱいが大きいのは事実ですし……。  そ、そうですっ。私は褒めているんです。だって、滅多にいないじゃないですか、そこまで胸の大きい人って。いやあ、いいなあ。セックスアピールとしては申し分ないですし、得することも多いんでしょうねえ。ははは……」 「…………」 「ですから、別に決していやらしい意味で言ったんじゃ……」 「…………」  駄目だ。これまでの経験則から推測するに、私はまたやってしまったのだろう。いつもの空気の読めていない発言を。前田かん子の目は言葉を重ねるごとに険しくなっていくし、とんでもないヘマをやらかしてしまったのだ。  というわけで、大人しく口をつぐむことにした。これ以上、藪をつついてヘビを出すわけにはいかない。いま居るところが、ヘビセンだけにね。  二人の間に、再び沈黙が訪れる。今度は多大な気まずさを抱えて。  落ち着かなくって、視線を横に逸らす。そして、おや、と気付く。いつの間にか店内の空気が穏やかになっていた。  もともと、他人に無関心なへんてこな人間しか集まらない店なのだ。徐々に前田かん子への耐性がついてきたのだろう。全くをもって、たくましい人達である。もはや尊敬の念すら抱いてしまう。こっちは未だ、これっぽっちも慣れていないというのに。 「話に入る前に、ひとつだけ訊きたいことがある」  沈黙を打ち破ったのは、意外なことに前田かん子からだった。それに、何か訊きたいことがあるという。  まさか、彼女から何か質問してくるとは思わなかったので、一瞬、呆気にとられてしまった。が、この気まずい沈黙を打破したかった私は、渡りに船だとばかりに飛びついた。 「ぜひぜひ、ひとつと言わずに、どうぞ何度だって訊いてください。どうせ、後ほどは質問責めになるのでしょうし、情報は出し惜しみしませんよ」  私は笑顔で受け入れた。すると、 「そ、そうか……」  コホン、とわざとらしい空咳きして、前田かん子は頬を赤らめた。 779 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:49:12 ID:HRoXok2Y  頬を赤らめた? 私は疑問に思う。何故、彼女の頬は上気しているのだろうか。もしかして、店内の暖房がきついのかしら。それなら、自分が店側に言うのだけれど……。  コホン、と彼女は空咳きをもうひとつ挟み、 「えーと、だな……お前らは……実際のところ、どこまでいったんだ?」  ぼそぼそと小さな声で話すので、聞き取るのに苦労した。私は尋ね返す。 「どこまで、とはどういう意味でしょうか? すいません。そういうの察するの苦手なんで、もっとはっきり言ってもらえると助かります」 「だから、あれだよ。あるだろう、恋愛の、AとかBとかCとかさ。私が訊きたいのは、そういうことだよ」 「えっ」  いつもより半音高い、素っ頓狂な声をあげてしまう。今、前田かん子はなんて言ったのだ? 恋愛のABC? 「なんだよ。別におかしなことは訊いていないだろう」 「はい。まあ、おかしくはないですが……」  なんというかすごく意外だ。意外なのは質問の内容ではなくて、彼女の態度だった。どう見ても、恥ずかしがっているようにしか見えない。  うーん。頬が赤いのは暑いからではなく、単に恥ずかしかったからなのか。まさか恋愛関係の質問に躊躇してしまういじらしさを持つとは。普段のイメージと差がありすぎて。なんていうか、頬が自然と緩んでしまう。  前田かん子は一見すると、恋愛経験がとても豊富そうな外見をしている。けれど、もしや実際は違ったりするのかもしれない。意外と中身は乙女乙女しているのだろうか。  でも、もしそうだとしたら、あれだよね、外見とのギャップで、なんかこう、くるものがあるよね。すごくグッとくる。  頬と一緒に、きっと心まで緩んでしまったのだろう。抑えとけばいいのに、悪戯心がわいてしまった。私は正直には返答せず、冗談を言ってみることにする。尤も、その数秒後に、私はひどく後悔することになるのだが。 「どこまで進んだか、でしたよね」  私は一拍おき、 「田中さんにはもう受精させましたよ」  すぐだった。私がそう言った瞬間、否、言い終える前に、前田かん子が肉食獣のような俊敏さで飛び掛ってきた。 780 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:50:51 ID:HRoXok2Y  動物的な本能が警鐘を鳴らす。殺される。私はそう思って、ほぼ反射的に椅子を後ろに引いた。が、寸でのところで遅かったらしい。彼女の右手は私の後頭部をしっかりとホールドし、もう片方の手で右目に何かを突きつけた。  視界に見えるは、三つの黒い点。フォークだ、と気付いた。テーブルの横に備え付けられていたフォークを、私の右目のすぐそこに向けているのだ。  近い。眼球とフォークとの距離は、おそろしく近かった。緊張のせいか、鼻の頭にぽつぽつと汗の玉が浮かび始める。もし少しでも頭を動かしたら……。そんな想像をしてしまうと、怖くなって瞬きすら出来ない。 「確認する」  冷え切った声で、前田かん子は言った。 「いま言ったのは、事実か?」 「冗談です」  私は即答した。 「今のは、味気のない会話に彩りを与えようとした、ただのジョークですよ。実際には、まだ手すら繋いじゃいません。私は、プラトニック・ラブを信条としているので」 「…………」 「な、なんなら、田中さんに電話で訊いてみたらいかがですか? 彼女はそんなことはしていないと即座に否定するでしょう。断言できます」 「…………」 「ですから、いい加減に、手、放してもらえませんかね。フォーク。このままじゃ、眼球を傷つけてしまいますよ。そんなの、シャレになりません」 「…………」 「それに、店内の注目もすごい集めちゃってますし、ほら、せっかく店員さんが注文の品を持ってきてくれたのに、そこで盆を持ったまま怯えて固まっていますよ」 「…………」 「そもそも、今日はこんなことをするために来たのではないでしょう。私達は話し合いをするはずです。ですから、もっと、穏便にいきましょうよ、穏便に」 「…………」 「それに、私の身体に傷がついて悲しむのは、私だけでなく田中さんもですよ。あなたは彼女に、負わせる必要のない不要な心労を負わせるつもりなのですか?」 「……ちっ」  田中キリエの名を出し、彼女の暴走は漸く止まった。忌々しい舌打ちを返事代わりにして、私を解放してくれる。  私は即座に安全な距離をとった。高鳴っている鼓動をしずませる。けど、しずまらない。背中にかいている汗は、決して暖房のせいではないだろう。腋の下にも汗をかいていた。 781 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:52:29 ID:HRoXok2Y  なんというやつだ。私は驚愕してしまう。  あれほどのささいなことで怒るのか、という点に関してはまだいい。そっちのほうは想定内だ。田中キリエ関連のこととなると前田かん子が杓子定規になるのは、自分だってよく知っていた。  私が驚いたのは、人体を破壊するときに生じる心理的抵抗が、彼女から全く感じられなかったことだった。  普通、人は激しい感情に身を任せてでもいない限り、他者を攻撃するのに大きな抵抗を感じる。だが、前田かん子はあくまで冷静に、些か冷静すぎるほどに私を破壊しようとした。これは驚くべき事実である。  今のだって、もし私が選択をとり間違えていたら、彼女は本当にフォークで眼球をえぐっていたかもしれない。いや、間違いなくえぐっていただろう。私は危うく、右目を失っていたのだ。  気をつけなくてはならない。己に言い聞かせる。脅しと本気との境界線が曖昧すぎて、そう自由には動けない。もっと、もっと慎重に進まなくては。 「ご、ご、ご注文の品を、お持ちしました……」  私達の傍らで事の成り行きを見届けていた店員さんが、恐怖に駆られながらも己の職務を全うしてくれた。  店員さんは私と前田かん子の前に恐る恐るコーヒーを置くと(ソーサーを持つ手が震えていたので、中身が少しこぼれていた)脱兎のごとくキッチンへと避難してしまった。  その姿を見て、私は苦笑してしまう。可能ならば、自分も彼女のように、さっさとこの場所から逃げ出してしまいたいものだ。  けど、そんなわけにもいかない。私にはやるべきことがあるのだ。筋書き通りに物事を進めるためには、少しでも前田かん子と長く居る必要がある。  果たして今日は、この会談を五体満足で終わらせることが出来るのだろうか。カビのようにしつこくこびりついた不安を胸に感じつつも、私は必死でポーカーフェイスを装い、ブラックのコーヒーをのんびりと啜ったのだった。
771 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:33:29 ID:l.6o34l6 [1/11]  ヘビセンと呼ばれるショッピングモールがある。  設立されたのは今から一年前と比較的新しい、大規模な商業施設だ。郊外にある広大な土地を使った複合型のモールで、その規模は非常に大きく、他県から訪れる人も少なくないと聞いている。  元は市主導で自然公園をつくるはずの土地だったらしいが、重役の献金問題等で話がこじれ、結局は頓挫してしまったという背景を持つ。  しかしながら、ここら周辺にも大きな自然公園はあるので、市民としては公園よりもショッピングモールができたほうがありがたかったのかもしれない。  モールの外観は近代ヨーロッパをモチーフにしており、レンガ敷きの遊歩道、ガス灯をイメージした街灯など、精巧な小道具で場を盛り上げている。  そのためか、買い物をせずともぶらぶらと歩いているだけでもそれなりに楽しめてしまうので、金銭の乏しい学生にも大変な人気があった。我が校の生徒も例外に漏れず、平日休日問わず多くの生徒がヘビセンを訪れていた。  ところで、ヘビセンというのはあくまで非公式の愛称であり、実際にはもっと長ったらしい正式名称が存在しているということにも触れておこう。なら、何故このモールはヘビセンなどと呼ばれ始めたのか。それは、モールの全体図を見れば一目瞭然である。  先端にある円形の映画館に、ぐにゃぐにゃとくねり曲がった遊歩道。その姿が、ちょうどヘビのように見えるからだ。ヘビのようなショッピングセンター。略してヘビセン。どうも、そういう由来らしい。私自身、人づてに聞いたことなので確証はないが。  それが製作者の意図してつくったものなのか、そうでないのかはわからないし知らない。とにかく、そういう風変わりな名前のショッピングモールがあるのだということを覚えて欲しい。  さて。前置きが長くなったが、私は今、そのヘビセンの中にある、とある喫茶店にいた。ヘビの姿になぞらえると、ちょうど尻尾の一番先の辺り。その客の足取りが最も悪いであろう場所に位置する喫茶店で、私はひとりコーヒーを啜っていた。  昨夜の前田かん子との通話時に、私は本日の会合場所を此処に指定した。この喫茶店が、自分にとって慣れ親しんだホームグラウンドであり、少ないとはいえ一応は人の目があることが、此処を選んだ理由だ。 いや、実をいうと、もっと大きな理由がある。自分の住む街からはそこそこ遠いヘビセンを、わざわざ選んだ理由が。 「…………」  ぼんやりと、窓に映る自分の冴えない顔を見つめた。  そういえば、結局、昨夜は彼女からはハッキリとした返事はもらえなかったな、と思い出す。  今日はちゃんと来てくれるかしら。ちょっと不安になってくる。予定の時間は刻一刻と迫ってきていた。といっても、どちらにせよ私には待つことしか出来ないのだが。 772 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:35:10 ID:l.6o34l6 [2/11]  珍しく緊張していたのか、肩のこりがひどい。私は丹念にこりをほぐしながら、店内の様子を再度顧みた。  落ち着いた、と言えば響きはいいが、実際はただ寂れただけの喫茶店。店内にはモダン・ジャズが気にならない程度の音量で流れ、雰囲気を出す為か、照明はわざと薄暗くしていた。  来店している客は、私を含め五人。皆どこか気だるげな空気を醸していて、それが店の活気のなさに拍車をかけている。  日曜日だというのに、どうしてこうも客が少ないのだろうか。他人事ながら、私は少し心配になってきた。  この店も、端っことはいえヘビセン内に含まれているのだから、立地条件としては申しぶんないはずなのに。しかし、ヘビセンのフードコートには全国にチェーン展開しているコーヒー店もあるし、それも仕方ないかもしれないけど。  この喫茶店はサイドメニューの数が極端に少なく、しかも肝心のコーヒーが値段のわりに美味しくないときているので、そもそもフードコートの店とは勝負にすらなっていなかった。というか、店側に張り合う気力が見られない。  けど、私はそんなやる気のない店の態度を気に入っていた。それが、此処を贔屓に利用する要因なのかもしれない。客層は見ての通り、疲れた人々ばかりでとても静かだし、勉強や考え事をするのには最適といえよう。  店内を一通り見渡し終えると、私は窓の外を眺めた。現在、私は窓際の二人席を陣取っているので、外の様子はよく見て取れた。  今朝の天気予報でも言っていたのだが、どうやら本日は午後から雨が降るらしく、雲行きが怪しかった。曇天が広がる空には、こぼれる日差しが一筋もなく、昼間にも関わらず辺りは夕方のように薄暗い。そのせいか、街灯にはさっそく灯がともっていた。  いつもなら、行きかう人々で溢れている街道も、普段よりは淋しく感じた。通行人がぽつぽつとしか見受けられない。そして、その手には皆折りたたまれて細くなった傘を握られていて、今にも降り出しそうな雨に備えている。 「…………」  良くない流れだな、と思う。正直、私は焦りを感じていた。このままでは、計画に支障をきたすかもしれない。窓に映る自分の顔も、不安そうに複雑に歪んでいた。 「うまくいけばいいけど……」  ぽつりと、そんな弱音のような独り言を吐き出した時だった。突然、目の前の窓がカタカタと音を立てて震え始めたのは。  地震だろうか、そう思って瞬時に身構えたのだが、どうも地震とは勝手が違う気がした。ハッキリ言えば、もっと人工的な匂いがする。  その振動に気付いたのは、どうやら私だけではないらしく、店内に居座る客も何事かと顔を上げていた。気だるげな空気が幾分か引き締まり、ささいな緊張が発生する。 773 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:36:56 ID:l.6o34l6 [3/11]  音だ。加えて音も聞こえ始めた。まるで牛の鳴き声のような。いや、牛といっても闘牛だ。闘争心を抱えた、低い唸り声。その音はどんどんと激しさを増していき、それに比例して窓の震えも大きくなっていた。  店内の視線は、全て窓の外に集中していた。何かが現れる。皆、そんな予感を感じていたからだろう。かくいう私も同じ気持ちだった。何かが来訪するのを、恐れと共に待っていた。  そして、振動と音が頂点に達した時、遂にそれは現れた。  轟音を轟かせながら、突如横合いから飛び出してきた真っ黒な物体。それは店の前で大きく旋回すると、摩擦による白い煙を巻き上げながら急停止した。どっどっどっ、と耳をつんざくような重低音が周囲に響き渡る。  それは、素人目から見ても明らかに違法改造だとわかる無骨な形をしたバイクだった。黒のメタリックボディが眩い光沢を放っている。跨るライダーもバイク同様に黒尽くめで、黒のフルフェイスヘルメットにライダースーツ。そしてブーツを履いていた。  ヘビセンは、自転車等での進入を禁じている。ましてや、目の前で唸っているような巨大なバイクなどはもってのほかだ。本来なら、きちんと所定の駐輪場で駐車しなければならない。  けれど目の前のライダーは、そんなルールは与り知らぬとばかりに、白昼堂々と違法行為をやってのけていた。そして、私はこんなことを平然としてみせる人物を一人知っていた。  エンジンが切られた。すると、先程までの騒音はなんだったのか、水を打ったような静けさが取り戻される。  騎乗するライダーが、バイクから降りた。続けて、装着するフルフェイスヘルメットに手をかける。  砂金の如き金髪が、中空を舞う。  ヘルメットの下から現れた端正な容姿をした女性は、私の予期していた通り、前田かん子その人ならなかった。  その映画のワンシーンみたいな光景に目を奪われたのは、私だけでなく、店内にいる人間全員も同じであっただろう。尤も、薔薇の茎にひそむ棘のように、感じ取ったのは美しさばかりではないと思うが。  彼女はそのまま店の前でバイクを停めると、大股で出入り口まで歩いていき、乱暴にドアを開けた。付属するベルが、ガチャガチャと汚い音を奏でる。 「い、いらっしゃいませ……」  店員さん(おそらく大学生のバイトだろう。温和そうな笑顔が特徴的だ)の震える笑顔を無視して、前田かん子はぎろりと視線を一周させた。  客達は、その視線上に入ることを恐れ、亀のごとく首を引っ込めていた。そして彼女は窓際に座る私を見つけ出すと、カツカツとブーツを鳴らして接近してきた。  私はいつもの柔和な笑みを浮かべて、片手を上げながら挨拶する。 「こんにちは前田さん。今日はわざわざ貴重な休日に・・」  バン、と前田かん子がテーブルを思い切り叩いた。机上のコーヒーカップが、怯えて一跳ねする。 「なぜ私を呼び出した」  今となっては聞き慣れてきたハスキーボイスで、短くそう告げる。  どうやら、機嫌は見ての通りあまりよろしくないらしい。といっても、私は機嫌のよい彼女なぞ見たことがないのだけど。 774 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:39:41 ID:HRoXok2Y [4/11] 「わけは話しますよ。ですからまず、席に着いたらどうでしょうか?」 「私はお前とお喋りしに来たんじゃない」  提示した提案を、即座に突っぱねる。金剛像のような仁王立ちが、お前とは一秒でも顔を合わせていたくないと暗に告げていた。  やれやれ、とさしもの私も肩をすくめるしかない。まさか、ここまできっぱり拒絶されるとは。  さっきから気付いていることではあるが、店の雰囲気が剣呑なものに取り替わっていて、非常に居心地が悪くなっていた。普段とは大違いだ。店内にいる客も、そわそわと落ち着きなく身体を揺らしていた。  なんだか悪いことをしてしまったな。ひどく罪悪感を感じる。せっかくの日曜日なのに、これでは店にも客にも迷惑をかけてしまう。関係のない人を巻き込みたくはなかった。なんとかしなくてはならない。  それなら、と私は意気込む。空気が張り詰めているのなら、解きほぐしてやればいい。私は場の空気を和ませてやろうと、とっておきのジョークを口にした。 「いやはや、これは手厳しいですね。会っていきなりこれでは、まさに取り付く島も無いといったところですかね・・鳥島だけに」  そう言い終えると、したり顔で前田かん子を見た。けど、 「…………」  彼女には何の変化も見て取れなかった。相変わらず、刃物のような鋭い視線で私を見ているだけだ。それに店の空気も全然弛緩していなかった。むしろ嫌な感じが増しているような……。 「あの、今のわからなかったですかね? 取り付く島と、自分の名前の鳥島をかけたダジャレだったのですが、あの、面白かったですよね?」 「…………」 「あ、いや、やっぱりなんでもないです。なんか、すいませんでした」  私はゆるゆると頭を下げた。そして顔を上げようとしたのだが、ショックが大きすぎたのか、動きはかなり緩慢になった。  数少ない持ちネタが不発だったことにより、私は決して少なくないダメージを負っていた。というか、重傷だ。割と本気に傷ついている。深夜寝る前とかに必死で考えてニヤニヤしていたのに……死にたくなる。  切り替えよう。  ふぅ、と息を吐き、今の出来事なんて無かったとばかりに、私は冷静に続けた。 「非常に言い難いことなんですが、今日前田さんを呼び出したのは、そのお喋りをするためなんですよ」  何か突っ込まれないうちに、素早く言葉を継ぎ足す。 「といっても、なにも世間話をしようってわけじゃありません。私がしようとしているのは、もっと有意義な話です」  慎重に、本題へ切り出した。 「前田さんには、田中キリエに関する情報を話して欲しい」 775 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:41:22 ID:HRoXok2Y [5/11]  そこで初めて、前田かん子の態度に変化が現れた。仏頂面に少し、ヒビが入る。 「鳥島タロウ。私が初めてお前と会ったときに言った言葉を、もう忘れたのか?」 「忘れちゃいませんよ。お互いのことを知らないなら、付き合ってからお互いのことを知っていけばいい、でしたよね?  前田さんのその言葉には全面的に同意します。だけど、今回は状況が状況でして、どうしても前田さんの力が必要になるんですよ。どうか、協力していただけませんか?」  少しでも誠意を見せようと、深々と頭を垂れてみせる。  しかし、前田かん子は付き合ってられないとばかりに渇いた笑いを漏らした。 「くだらない。お前が何を言おうと、私は前言を撤回する気は無い。その程度の用で呼び出したというのなら、帰る」  そう言うやいなや、彼女は一度も席に着くことなく、くるりと踵を返して、宣言通り出入り口へと戻っていく。説得は失敗した。このままでは、彼女は本当に帰ってしまうだろう。  仕方がない、か。私は下唇を噛む。目的の為だ。やはり多少のリスクは負わざるを得ないだろう。  一歩、二歩、三歩と進んだところで、私は遠のいていく前田かん子の背中に、言葉をひとつ投げかけた。縫い針を指に指したように小さい、ちょっとした傷を負わせる程度の切れ味を備えて。 「あまり調子に乗るなよ、前田かん子」  ぴたり、とまるで影を楔で止めたかのように、前田かん子の足が止まった。そして、ゆっくりと首だけを動かし、横顔をこちらに見せる。 「おい、お前、いま、なんて言った?」  全身の肌が粟立った。明らかな殺意の宿る隻眼が、容赦なく私を射抜く。殺される、と思わされてしまうほどの凶暴性。片目でこれなのだ。もし両目で睨みつけられていたら、私は失禁していたかもしれない。 「無責任なんですよ」  しかし、こちらも怯まない。なるべく感情のない顔をつくって、悠然と言い返す。 「先程の台詞、そっくりそのまま返させていただきましょう。あなたこそ、自分が言ったことをお忘れになっているんじゃありませんか?  もし田中キリエを悲しませたのなら、私を殺す。あの時、たしかに前田さんはそう言いましたよね?」 「ああ、言ったよ」 「それが無責任なんですよ。あなただって、もうとっくに気付いているのでしょう? 私が他人の心情を慮るのを非常に不得手にしているのは。いい機会ですからハッキリ言っておきますが、このままでは私は、百パーセント田中さんのことを悲しませますよ」  舌がカラカラに渇いているのに気付く。コーヒーで口内を湿らせようかと思ったが、カップの中は空っぽだった。しょうがないので、そのまま続ける。 776 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:43:36 ID:HRoXok2Y [6/11] 「田中さんのことを知らないのなら、本人に訊けばいい。ええ、大いに結構ですよ。しかし私は、彼女の触れられて欲しくない領域にズケズケと踏み込んでいきますよ、間違いなく。  私には田中さんの心の機微を感じ取るなんて器用な真似はおそらく出来ないでしょう。平気な顔して、彼女の心を蹂躙してしまう。嫌な思いをさせてしまう。  そんな地雷原の中を全力疾走で進んでいくような行為を、あなたは望んでいるのですか? 少なくとも私は御免ですね。攻略本どころか、説明書も無しにワンコインクリアをするようなものですよ」  返事はない。もう少し畳み掛ける必要があるか。 「私が田中さんの告白を断ったのは、自分のそういう性分をよく理解していたからです。言うならば、彼女のことを想ってこその結果だった。だけれど、それを無理矢理つなぎ合わせたのは他ならぬあなたですよ、前田さん。  あなたには、私に情報を与える義務がある。田中さんのことを悲しませないために、わたしには彼女の基礎知識を教える必要がある。そしてその義務を放棄するということは、畢竟、前田さんが田中さんを傷つけるのと同義です」 「私がキリエを傷つけているって言うのか? お前は」 「はい。このままでは前田さんは間接的に田中さんを傷つけることになります。私、鳥島タロウが田中さんを傷つけることを十二分に知りつつも放置するのだから、当然でしょう? おかしなことは言っちゃいませんよ」  前田かん子は揺らいでいた。まさか自分が田中キリエの傷害に加担しているとは思ってもいなかったのだろう。ぶっちゃけた話、私はそうとうにズルイこじ付けを言っているのだが、前田かん子は気付かない。こと田中キリエのことになると、正常な考えが出来ないことは知っていた。  いけるな、とここで私は確信する。後はちょっと、ほんの少し背中を押すだけ。 「私は前田さんに殺されたくない。前田さんは田中さんを悲しませたくない。互いの利益は一致しています。なにも悩むことはないでしょう。ここで意固地になるのは、あまり得策とはいえませんよ。  さて。これで、私の言いたいことは全て終わりです。後は、前田さん次第ですよ」  私は一仕事を終えた後のように大きく息を吐き、腕を組んで、椅子にもたれかかった。コーヒーを飲みたかったが、中身が空なので我慢する。  前田かん子はしばらく私を見つめていた。ここまで説得されておきながら 、なお決めあぐねているらしい。  おそらく、私の提案にそのまま乗っかるのが気に喰わないのだろう。彼女はものすごく私のことを嫌っている。けど、結果はわかっていた。 777 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:45:43 ID:HRoXok2Y [7/11] 「…………」  前田かん子は、帰りかけていた足を元に戻すと、無言のまま私の対面の席に腰掛けた。 「わかって貰えたようで嬉しいです」  とりあえず、これで第一関門は突破。今日こなさなくてはならなかった最低限のミッションは達成した。彼女が交渉のテーブルにつかずあのまま帰っていたら、一番困っていたのは私だっただろう。  前田かん子は、投げやりな口調で言う。 「御託はいい。さっさと訊きたいことを訊け」 「まあまあ、そう急かさずに。せっかく店に来たのですから、まずは注文しないと。私も、ちょうどコーヒーのおかわりを頼もうとしていたんです」  横に立て掛けられていたメニュー表を彼女に向かって差し出したが、前田かん子は受け取ろうともしなかった。仕方がないので、見えるようにしてテーブルに置いておく。  いやあ、嫌われてるなあ、とことん。まあ、わかってはいることだけどさ。  自分としては、出来ればもっと仲良くなりたいと思っているので、なんとか今日その糸口を掴めればなと密かに考えていた。  前田かん子はメニューに一応目を通しているらしく、眼球が上下左右に動いていた。そしてその動きが停止した頃を見計らって、私は未だびくびくと怯えている女性店員さんを呼んだ。オーダーを告げる。前田かん子は結局、私と同じコーヒーをたのんだ。  それからは互いに無言だった。なんとなく、注文の品が到着してから話そうという空気が出来あがっていた。なので、私も黙ってそれにならっていた。  そして私は、ここぞとばかりに、前田かん子のことを改めて観察した。考えてみれば、彼女のことを仔細に見るのは初めてかもしれない。私達が会うときは、大抵が穏やかでない。  まじまじと無遠慮に見つめる。彼女は、本当に綺麗な人だった。お人形さんみたいだな、とありふれた決まり文句しか頭に浮かばない。  長い睫毛に、日本人にしては高い鼻、そして決め細やかな白い肌。一番の特徴である軽く巻いた金髪は、オレンジ色の照明に照らされてきらきらと光っている。  一見すると、その髪は天然物のようにしか見えない。もしかしたら本物かもしれなかった。彼女には異国の血が混じっているのかしら。  そのまま視線はずるずると下がっていき、最終的には首の下、彼女の豊かな乳房の辺りにとまった。  思わず、感嘆の息を漏らしそうになる。  大きい。前田かん子の胸は、とにかく大きかった。こんなに大きな胸を、私は画像や動画等の媒体以外では一度だって見たことがなかった。  ピッタリとしたライダースーツを着ているせいか、形のよさがくっきりと表れていて、その存在を更に強調していた。張りも弾力も中々ありそうで、対の張り上がった球体は、みずみずしい西瓜を連想させた。  後はもう少し、首元まで上げたジッパーを、後もう少しだけ下げてくれたのなら……。 778 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:47:40 ID:HRoXok2Y [8/11] 「なに見てんだよ」  突如、向かいから飛んできた声に、私はひどく混乱してしまった。あ、え、と訳のわからぬ言語を吐き出した後に、慌てて自己弁護をする。 「あ、ええとですね、思わず感心してしまって、大きいなあって」 「大きい? なにがだよ」 「おっぱいがです」 「…………」 「あっと、違うんです。今のは本当に違うんです。言葉のあやというか、なんというか、いや、でもおっぱいが大きいのは事実ですし……。  そ、そうですっ。私は褒めているんです。だって、滅多にいないじゃないですか、そこまで胸の大きい人って。いやあ、いいなあ。セックスアピールとしては申し分ないですし、得することも多いんでしょうねえ。ははは……」 「…………」 「ですから、別に決していやらしい意味で言ったんじゃ……」 「…………」  駄目だ。これまでの経験則から推測するに、私はまたやってしまったのだろう。いつもの空気の読めていない発言を。前田かん子の目は言葉を重ねるごとに険しくなっていくし、とんでもないヘマをやらかしてしまったのだ。  というわけで、大人しく口をつぐむことにした。これ以上、藪をつついてヘビを出すわけにはいかない。いま居るところが、ヘビセンだけにね。  二人の間に、再び沈黙が訪れる。今度は多大な気まずさを抱えて。  落ち着かなくって、視線を横に逸らす。そして、おや、と気付く。いつの間にか店内の空気が穏やかになっていた。  もともと、他人に無関心なへんてこな人間しか集まらない店なのだ。徐々に前田かん子への耐性がついてきたのだろう。全くをもって、たくましい人達である。もはや尊敬の念すら抱いてしまう。こっちは未だ、これっぽっちも慣れていないというのに。 「話に入る前に、ひとつだけ訊きたいことがある」  沈黙を打ち破ったのは、意外なことに前田かん子からだった。それに、何か訊きたいことがあるという。  まさか、彼女から何か質問してくるとは思わなかったので、一瞬、呆気にとられてしまった。が、この気まずい沈黙を打破したかった私は、渡りに船だとばかりに飛びついた。 「ぜひぜひ、ひとつと言わずに、どうぞ何度だって訊いてください。どうせ、後ほどは質問責めになるのでしょうし、情報は出し惜しみしませんよ」  私は笑顔で受け入れた。すると、 「そ、そうか……」  コホン、とわざとらしい空咳きして、前田かん子は頬を赤らめた。 779 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:49:12 ID:HRoXok2Y [9/11]  頬を赤らめた? 私は疑問に思う。何故、彼女の頬は上気しているのだろうか。もしかして、店内の暖房がきついのかしら。それなら、自分が店側に言うのだけれど……。  コホン、と彼女は空咳きをもうひとつ挟み、 「えーと、だな……お前らは……実際のところ、どこまでいったんだ?」  ぼそぼそと小さな声で話すので、聞き取るのに苦労した。私は尋ね返す。 「どこまで、とはどういう意味でしょうか? すいません。そういうの察するの苦手なんで、もっとはっきり言ってもらえると助かります」 「だから、あれだよ。あるだろう、恋愛の、AとかBとかCとかさ。私が訊きたいのは、そういうことだよ」 「えっ」  いつもより半音高い、素っ頓狂な声をあげてしまう。今、前田かん子はなんて言ったのだ? 恋愛のABC? 「なんだよ。別におかしなことは訊いていないだろう」 「はい。まあ、おかしくはないですが……」  なんというかすごく意外だ。意外なのは質問の内容ではなくて、彼女の態度だった。どう見ても、恥ずかしがっているようにしか見えない。  うーん。頬が赤いのは暑いからではなく、単に恥ずかしかったからなのか。まさか恋愛関係の質問に躊躇してしまういじらしさを持つとは。普段のイメージと差がありすぎて。なんていうか、頬が自然と緩んでしまう。  前田かん子は一見すると、恋愛経験がとても豊富そうな外見をしている。けれど、もしや実際は違ったりするのかもしれない。意外と中身は乙女乙女しているのだろうか。  でも、もしそうだとしたら、あれだよね、外見とのギャップで、なんかこう、くるものがあるよね。すごくグッとくる。  頬と一緒に、きっと心まで緩んでしまったのだろう。抑えとけばいいのに、悪戯心がわいてしまった。私は正直には返答せず、冗談を言ってみることにする。尤も、その数秒後に、私はひどく後悔することになるのだが。 「どこまで進んだか、でしたよね」  私は一拍おき、 「田中さんにはもう受精させましたよ」  すぐだった。私がそう言った瞬間、否、言い終える前に、前田かん子が肉食獣のような俊敏さで飛び掛ってきた。 780 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:50:51 ID:HRoXok2Y [10/11]  動物的な本能が警鐘を鳴らす。殺される。私はそう思って、ほぼ反射的に椅子を後ろに引いた。が、寸でのところで遅かったらしい。彼女の右手は私の後頭部をしっかりとホールドし、もう片方の手で右目に何かを突きつけた。  視界に見えるは、三つの黒い点。フォークだ、と気付いた。テーブルの横に備え付けられていたフォークを、私の右目のすぐそこに向けているのだ。  近い。眼球とフォークとの距離は、おそろしく近かった。緊張のせいか、鼻の頭にぽつぽつと汗の玉が浮かび始める。もし少しでも頭を動かしたら……。そんな想像をしてしまうと、怖くなって瞬きすら出来ない。 「確認する」  冷え切った声で、前田かん子は言った。 「いま言ったのは、事実か?」 「冗談です」  私は即答した。 「今のは、味気のない会話に彩りを与えようとした、ただのジョークですよ。実際には、まだ手すら繋いじゃいません。私は、プラトニック・ラブを信条としているので」 「…………」 「な、なんなら、田中さんに電話で訊いてみたらいかがですか? 彼女はそんなことはしていないと即座に否定するでしょう。断言できます」 「…………」 「ですから、いい加減に、手、放してもらえませんかね。フォーク。このままじゃ、眼球を傷つけてしまいますよ。そんなの、シャレになりません」 「…………」 「それに、店内の注目もすごい集めちゃってますし、ほら、せっかく店員さんが注文の品を持ってきてくれたのに、そこで盆を持ったまま怯えて固まっていますよ」 「…………」 「そもそも、今日はこんなことをするために来たのではないでしょう。私達は話し合いをするはずです。ですから、もっと、穏便にいきましょうよ、穏便に」 「…………」 「それに、私の身体に傷がついて悲しむのは、私だけでなく田中さんもですよ。あなたは彼女に、負わせる必要のない不要な心労を負わせるつもりなのですか?」 「……ちっ」  田中キリエの名を出し、彼女の暴走は漸く止まった。忌々しい舌打ちを返事代わりにして、私を解放してくれる。  私は即座に安全な距離をとった。高鳴っている鼓動をしずませる。けど、しずまらない。背中にかいている汗は、決して暖房のせいではないだろう。腋の下にも汗をかいていた。 781 :私は人がわからない:2012/08/07(火) 08:52:29 ID:HRoXok2Y [11/11]  なんというやつだ。私は驚愕してしまう。  あれほどのささいなことで怒るのか、という点に関してはまだいい。そっちのほうは想定内だ。田中キリエ関連のこととなると前田かん子が杓子定規になるのは、自分だってよく知っていた。  私が驚いたのは、人体を破壊するときに生じる心理的抵抗が、彼女から全く感じられなかったことだった。  普通、人は激しい感情に身を任せてでもいない限り、他者を攻撃するのに大きな抵抗を感じる。だが、前田かん子はあくまで冷静に、些か冷静すぎるほどに私を破壊しようとした。これは驚くべき事実である。  今のだって、もし私が選択をとり間違えていたら、彼女は本当にフォークで眼球をえぐっていたかもしれない。いや、間違いなくえぐっていただろう。私は危うく、右目を失っていたのだ。  気をつけなくてはならない。己に言い聞かせる。脅しと本気との境界線が曖昧すぎて、そう自由には動けない。もっと、もっと慎重に進まなくては。 「ご、ご、ご注文の品を、お持ちしました……」  私達の傍らで事の成り行きを見届けていた店員さんが、恐怖に駆られながらも己の職務を全うしてくれた。  店員さんは私と前田かん子の前に恐る恐るコーヒーを置くと(ソーサーを持つ手が震えていたので、中身が少しこぼれていた)脱兎のごとくキッチンへと避難してしまった。  その姿を見て、私は苦笑してしまう。可能ならば、自分も彼女のように、さっさとこの場所から逃げ出してしまいたいものだ。  けど、そんなわけにもいかない。私にはやるべきことがあるのだ。筋書き通りに物事を進めるためには、少しでも前田かん子と長く居る必要がある。  果たして今日は、この会談を五体満足で終わらせることが出来るのだろうか。カビのようにしつこくこびりついた不安を胸に感じつつも、私は必死でポーカーフェイスを装い、ブラックのコーヒーをのんびりと啜ったのだった。

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