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752 名前:雌豚のにおい@774人目[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 09:31:30 ID:2rwAFZNA [2/5] 【プロローグ】  喫茶店《テラローシャ》の一番奥の席で、黒山散(くろやま・ちる)は新聞を読みながら待っていた。冴えないサラリーマンみたいな姿だ。全く似合っていない。  私が慌てて駆け込むと、席には既にコーヒーが用意されていた。 「ごめん。ちょっと仕事が遅れた」  黒山は「たいして待ってない」と無感情に言った。「ただ"眼球"か"骨格"だったら、確実に怒ってただろうな。これからは気をつけろよ、ナーシャ」  ナーシャは私の愛称だ。本名はナターリア・マクシモーブナ・シューキナ。 「うん、ごめんごめん。あ、ちょっと重めのものを頼んでもいい?」 「別にいいけど、先に髪を直せよ。変な感じになってるぞ」黒山は新聞を横に置いて、髪の毛がぼさぼさになっているというジェスチャーをした。  私は手鏡を取り出し、走ってしまって乱れた髪の毛を手でちょこちょこと整えた。赤くなった顔が映って、ますます恥ずかしくなる。普通の乙女だったら、と思った。  普通の乙女だったら、好きな男の目の前で、いくら髪の毛と言っても、化粧を直すようなことをやるだろうか。と言っても、直さないわけにもいかないのだが。  整え終わったところで、ちょうど店員がお茶を持ってくる。 「マテにペッパーミントのブレンドティーのお客様は」  マテ茶と聞いて私は顔をしかめる。疲労回復に役立つというが、あの風味は私にはどうにも受け容れがたい。  黒山だろうと思っていたら、案の定黒山が手をあげていた。 「こっちだ」  日本人とブラジル人の混血らしく、しかも生まれたときからブラジルに住んでいたという黒山は、マテ茶にさほど違和感を覚えないらしい。 「あとメインのメニューを頼む。連れが何かほしいらしい」 「承知しました」  確かに、既にメニューを片付けられている。「もう食べたの?」 「ああ。さっき"心臓"が一人やってきたんで、一緒にステーキ食べてた。ここは随分とメイン料理の種類が豊富だな」 「……それじゃ、もう夕食は済ませたのね」 「ああ。だから重めのものを頼むんだろ? お前はまだ夕飯食べてないだろうが」  重めのものと言っても、サンドイッチくらいだと思っていたのだが、  デートみたいなものだと思っていたので、先に食事を済まされたのはショックだった。  私はそのことが腹立たしくて、黒山に向かって自分でも気にしていないことを注意する。 「……コードネームを人前で使うのはよした方がいいと思うんだけど」 「全員の名前なんか覚えてられるか」  けっ、と黒山は悪辣そうな笑みを浮かべた。「俺たちが幾ら進化した個体と言ったって、百万人以上もいるんだぞ。種族だけでも千と数百だ。種族だけならまだしも、一人一人の名前なんか覚えてられるかっつうの」 「そうは言っても、機密保持が」  何が機密だよ、と黒山は新聞を畳んで、天井を睨みつけた。そして私を見つめた。獣のように鋭かったが、確かな美しさのある、綺麗な瞳だった。 「大体が進化した個体だの何だのと言って、人類に気にされてないだけの突然変異だよ、俺たちは」 753 名前:雌豚のにおい@774人目[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 09:34:33 ID:2rwAFZNA [3/5]  今にも唾を吐きだしそうな言葉だった。 「そりゃそうだけどね」 「大体名前で言ったって、組織のことなんか分からねえじゃねえか」  別に私だって、組織のことなんか興味ない。  どうせ私を排除した組織なのだ。そんな奴らの話題をするより、黒山と一緒に普通の話題、料理とか仕事とか、映画とか小説とか、そういう普通の話を、普通に話していたい。  他の人たちの名前は覚えないで、私の名前は覚えてくれているというのにも、優越感を感じないでもない。彼自身はそんな、特別な意味は持たせていないんだろうけど。  そんなことを考えていると、いつのまにか黒山は私を見つめていた。 「お前は組織に興味持ってねえかもしれねえけどな」  どきりとした。「そんなことないわよ」 「そうかな。まあ、俺からするとお前は組織から逃げたがってるように見えるってことだ」 「そんなことないって」 「どっちだっていいんだ。俺はお前を守りたいんだからな」  そういうことをさらりと言うなって。特別な意味もないくせに。  口を尖らせてそう言おうかとも思ったが、彼は本気の眼をしていた。ちょっと驚く。 「竜享夢(ろん・しゃんめん)はまだいいんだよ。あいつには市街戦でも十分に生存できる戦闘能力があっからな。でもお前はどうするんだ」 「……分かってるよ、そんなことくらい」 「お前が自分の能力を役立てられるのは水中だけなんだぞ。本当はこんな内陸に引きこもらないで、沿岸部にいてほしいんだ。でも仕事のためって言うから仕方がなく、なんだ」  彼は私を真っ直ぐに見つめてきたが、こればかりは譲れない。  これ以上あなたと離れるなんて、絶対に嫌だ。  きっと黒山は気付いていないだろうけど、私だってこれでも、すごく我慢しているくらいだ。  本当はもっと、ずっと一緒にいたいのに。  私があなたと一緒にいたいって言ったら、あなたは来てくれるんですか?  ……無論、できないだろう。  彼はこちらの仕事でブラジル人の母親を養っている。それをやめることはできない。  でもそれなら、彼と一緒の場所に、こちらから行くだけだ。  私は彼と睨み合った。  顔が触れそうなほど、じっと睨み合っている。 「メニューですよ」  は、と横を眺めた。店員がにやにやと笑って「仲良くね」と言った。キスでもするような姿勢に見えたのだろうか。私は顔を赤らめる。  黒山を見ると、困惑しているような、不審そうな視線を店員に向けた。どうして笑われたのかなど、まるで気付いていないらしい。私は脱力して、メニューを眺めた。 「俺がとりあえず言いたいことは、お前はもっと組織のことを真剣に取り組むべきだぜって、そういうことだ。たとえ嫌いだとしてもな」 「……散は、嫌いじゃないの?」 「嫌いな奴もいるけど、俺は"脳"とか"眼球"とかとは親しいからな。"血管"とか"骨格"の奴らは、やっちまいたいくらいだけどな」  眼球。その言葉を聞いて、すごく苛立つ。  "眼球"はプロポーションのよい、とても綺麗な女性だ。組織の幹部として働いていて、組織が創設された当初からのメンバーの一人らしい。私は組織にだって受け容れてもらえないのに、組織の、しかも幹部に位置する彼女が、黒山と一緒にいる。  何か理不尽な感じがした。  しかしそんなことは気にしていないらしい。黒山は溜息を吐いた。 「それに好きでも嫌いでも、知らないわけにはいかない」  黒山は鋭い目つきをにっこりと細めた。戦慄が背筋を駆け抜ける。 「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」  だろ? と言う黒山の笑みは、獣が大きすぎる獲物を、口いっぱいに咀嚼しているようでもあった。  私は「うん」と頷くしかない。黒山は笑みを消し、 「でも、俺にとっての組織は敵なんかじゃないんだよな」  私は思わず黒山を見つめた。しかし黒山は何だか心ここにあらずという感じで呟いた。 「俺は組織のことなんかどうだっていいんだ」  どういうことだ、と思った。それは初めて聞く話だった。黒山はぼんやりと呟いた。 「もっと下らねえことでいいんだ。俺はそれだけでいいんだ」  私は問いかけようと思ったが、黒山はぶるぶると首を振った。「もうこの話はやめておこうぜ。さっさと夕食を頼んでくれ」 「こんな下らねえこと、話したくもない」 754 名前:雌豚のにおい@774人目[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 09:35:16 ID:2rwAFZNA [4/5]  喫茶店から出て、渋谷駅で黒山と別れるときだった。  黒山が東急のデパートを眺めて、遠い顔をしているのが、ひどく辛くなった。きっとあの娘のことを考えているのだ。  私は黒山に向かって、唐突に「キスして」と言った。呆れられるだろうことは予想がついていた。  しかし予想よりも、よほどひどかった。 「……まだ足りないのか」  黒山は悲しそうな顔をしていた。その表情に浮かんでいるのは、失望とか悲しみとか、同情とか憐れみとか、そういうものだった。  まだ愛が足りないのか、と言っているのだった。 「分かってるけど」  私は自分の情けなさに歯を噛み締めた。そうだ。彼はいつも言っていた。他者に頼るな、と。  "他者に自分を依存させるな"と。 「ああ、分かってる。でも」  足りない。黒山が好きだ。愛している。愛している。愛している。  だから愛してほしい。  そう思わないわけがあるのか? 愛しているから、愛してほしいって、そう思わないわけがあるのか?  私は黒山の頬を両手で掴んだ。その獣みたいな目は、今だけは母親のような、優しい目つきをしていた。  私は思う存分黒山の唇を吸った。ほとんど舌を絡めるくらい、濃厚なキスだった。  好きだ。愛してる。愛してる。愛してる。その気持ちが浮かんできた。と同時に欲望が生まれた。  だから、愛して。今だけでいいから。  三十秒ほどしたところで、黒山は肩を押してきた。 「愛の中毒だな。比喩表現じゃなく」  黒山は悲しそうに言った。  私はひどく恥ずかしくなって、情けなさで縮こまって、それでも黒山をぎゅっと抱きしめた。愛してる、と呟いた。  それで、その日は別れた。

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