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380 名前:たった三人のディストピア ◆JX6XvolL/Y[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 00:12:37 ID:B9xUgdKQ [2/7]  俺はうすぼんやりと漂う何かだった。集中しようとしても、思考が霧が晴れるように散逸していってしまう。  だから考えるにも必死だった。俺はどこにいる? 俺はどうしている? 俺はいったい何者なんだ?  まとまらない思考。何時間経っただろうか。時間など意味をなさないこの世界で、光明が差すように闇の中から小さな光がこぼれてきた。  俺はそれに吸い寄せられるように走っていく。いや、走るという感覚すらも分からなくなっていた。  ただ無心に、誘蛾灯に魅了される夜光虫のようにして、俺は進む。  その内に俺は段々と光に包まれていった。  その光は遠くから見たときは小さく見えたが、自分が中に入ってしまうと予想以上に大きいものだと気づいた。  俺は辺りを見渡す。ただ淡く、暖かく白光する光たち。  外は一切に見えないが、そこにはのっぺりとした人間味のない白などではなく、人を包み込んでくれるような白があった。  やがて、淡く輝く白が溶け去っていくのが分かった。  またあの闇の中に取り残されるのは嫌だ! 俺は必死で光に食らいつこうとするが、段々と光芒は失われていく。  俺が悲鳴をあげようとしたそのとき、世界は現実味を帯びた。俺の思考は徐々にまとまってきて、無意味な恐怖はなくなっていた。  まだぼんやりとした、まるで綿飴に包まれているような感覚は残っているものの、俺はやっと一息を付いた。  そして下に見慣れたフローリングの床を見つければ俺はなんとなくここがどこだか理解したような気がする。  俺は周囲に視線をやった。紙クロスの白い壁紙。廊下の傘が被さった電球。見覚えのあるドアの配置。そこは紛れもなく俺の家だった。  どことなく薄暗い。俺が突き当たりにある木製のガラスが嵌っているドアに眼を向けると、そこから光が漏れていた。  なんとなく分かる。今は夜なのだ。  俺がドアにふらふらと近づくと、中から怒鳴り声が響きわたってくる。男の声と女の声だ。  俺はそうっとドアを開ける。室内灯の光が眼に入ってきた。そこは、間違いなく見慣れた感のある我が家のリビングで。  そこにはテーブルを挟んで佇立した二人の人間がいた。  男と女。男のほうはもうすぐ中年に差し掛かりそうだった。眉を顰め、額に青筋が浮かんでいる。  女のほうはまだ若々しく、険のある美貌を怒りで歪めていた。それは間違いなく俺の母親と父親だった。  俺は何か声を出そうとするが、何も出てこない。仕方なく、二人の言い争いを見守った。 「なによ! 私が仕事を辞めて家にいれば調子に乗って! か……お……ちゃ……から……き……いたわよ! 浮気なんて!」 「そういうときもあるんだよ! ちくしょう! こっちは仕事が忙しくてストレス溜まってるんだ!」 381 名前:たった三人のディストピア ◆JX6XvolL/Y[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 00:13:17 ID:B9xUgdKQ [3/7]  ジジッと、母親の言葉に途中でノイズが走った。父親はそれに何事か激昂する。  止めてくれ。俺はそう叫んだつもりだったが、掠れた声しか出なかった。いや、それすらも錯覚かもしれない。  そのまま二人の争いはヒートアップし、ついに母親がいった。 「前々から考えてたけど、もう終わりよ!」 「ああ、そうだな。出て行くさ。勝手にしろよ、クソアマめ」  父親がそう吐き捨てる。その黒々とした瞳に軽蔑と憤怒の色を浮かべて、かれはこちらを見た。  どきりと俺の心臓が高鳴る。もう十数年ぶりなのだ。かれ、父親を見ることは。俺の胸中で複雑な感情が入り乱れる。  父親は急に声のトーンを落としてささやくようにいった。 「冬悟」  俺が見えているのかと眼を見張る。だがしかし、それは俺じゃなくて後ろにいる何者かに向けられた声だというにはすぐに気づいた。  恐る恐る後ろを振り向く。そこには顔に恐怖と不安を貼りつけた幼い頃の俺がいた。  父親が無表情に言葉を続ける。 「すまないが、もう無理だよ。お前のことは可愛かったが、せいぜい上手くやるんだな」  最後にふっと寂しげな笑みを浮かべると、かれは昔の俺の横を通りすぎて二階へと向かっていった。  恐らく自分の部屋に戻って荷造りをするのだろう。このあとのことはよく分かっている。  父親の一種大人に向けるような言葉は、いまでも破片となって俺の心に突き刺さっていた。  すぐに父親の後を追うようにして母親が歩いてきて、幼い俺を抱きしめる。  あんな男だのなんだのと父親に対する罵詈雑言を並び立て、守ってあげるとでもいった。小さな嫌悪感が生まれる。  母親は常に俺を支配下に置きたがっていた。本人は無自覚なのだ。ただ、彼女は本当に――。  急に吐き気が生まれて俺はその場に膝をつく。喉にせり上がってくる何かを必死に押し込めようとしている最中、背後で誰かの声が聞こえた。 「ねえ、冬悟」  ぶるりと背筋を震えが走る。俺は咄嗟に『彼女』のほうへと振り向こうとしたが、それは出来なかった。  誰かに抱きしめられたからだ。背中から。そう、彼女に。彼女は言葉を耳元で囁いた。俺の耳朶を震わすような、その声。  特別蠱惑的でもないのに、空恐ろしいほどに俺の脳内に浸透しようとしてくる。  彼女――槐園薫はいった。 「君のことを 守 っ て あ げ る 」 382 名前:たった三人のディストピア ◆JX6XvolL/Y[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 00:14:26 ID:B9xUgdKQ [4/7]  叫んだかどうかは知らない。ただありえないような恐怖とともに俺はベッドから跳ね起きたのだ。  それを理解するまでは数秒ぐらいかかった。ここは俺の部屋だ。そう、さっきのは夢で気にすることなんてない。  それなのに、両手を眼前に持ってくれば右手も左手もがたがたと小刻みに振動していた。俺は馬鹿らしいと思い込もうとする。  なんであんな記憶がいまさらに降り掛かってくるのだろう。  何時だったか、俺は軽い人間不信と女性恐怖症なんじゃないのかと言われたことがある。誰だったか、思い出せないけれど。  たぶんそれは事実なんだろう。俺はだから友人だろうと誰だろうと信じることができない。長続きした人間関係なんて俺にはなかった。  いつもいつも崩れてしまう。自然と疎遠になって、結果として憎悪してしまうのだ。  狐が身の丈で取れない木の果実を、あれはきっと酸っぱくて食べれたもんじゃないと断定するようにして。  俺は離れていった人間を憎悪する。そうして自己嫌悪にも陥ってしまうのだ。どうしてなのだろうと考えたことはなんどもある。  その度に俺が繋ぎとめようとする努力をしてこなかったからなのだという結論に至るのだ。俺はクズで、どうしようもない。  かぶる仮面は社交的でお人よしみたいだが、その中身はドロドロと腐りかかった醜いものなのだ。  きっと誰だってそれを見抜くのだろう。だから俺から離れていく。それは自然なことだ。だから、俺は自分が嫌いだ。とてつもなく。  薫のいうことも最もなのだ。彼女は小さい頃から俺と親交がある。だからこそ彼女が俺に対していったことは当たっているし、俺に反論することは赦されない。  彼女に勧めてもらった本の言葉だったか。人間の良心と出来は他人の評価に任せよう。まさしくその通りだ。  彼女は俺なんかよりもよっぽど優れた眼をもっている。その眼が弾きだした答えがあるならば、否定することなんて出来やしない。  それに、彼女に嫌われたらどうすればいい? 俺の周りからは誰もいなくなってしまう。  薫は幼い頃からなんでも手助けしてくれた。そうして選んでもくれたのだ。優柔不断で腐った泥みたいな性根の俺に。  母親が仕事にかかりきりになって、クラスメイトからも除け者にされて、俺自身いつも部屋で泣いていたあの時、薫は何度も俺のところへ来てくれた。  慰めてくれた。認めてくれた。俺を正当化してくれた。 俺自身言葉にできなかった鬱憤を、彼女は卓越した詩人のように言葉にしてくれた。  部屋に篭りきりになって、母親から侮蔑と怒りを受けた時も、彼女だけは憐れみと理解と愛情をくれた。  そうなのだ。辛い時にいつも肯定してくれたのは薫だけで……。 「逆らうことなんて」 383 名前:たった三人のディストピア ◆JX6XvolL/Y[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 00:15:05 ID:B9xUgdKQ [5/7]  出来るわけがない。彼女は俺にとって酸素みたいなものなのだ。離れることなどできはなしない。そこで俺ははたと思いだした。  ならば、どうしてあの時俺は彼女に抗いがたい恐怖を感じたのだろう? 薫という存在がなにかとてつもなく恐ろしいものに思えたことは確かだ。  でもそんなはずはない。俺にとっていつも素晴らしい結果を持ってきてくれるのは彼女なのに。  と、そんなことを考えた途端に目覚ましがアラームを告げた。甲高く鳴り響くそれを瞬時に右手で叩くとゆらりとベッドから立ち上がる。  思案していてもしょうがない。今日は別に休日ってわけでもないのだからさっさと登校する準備をしよう。  俺は部屋の扉を開け、階下へと降りる。朝の陽が静かにリビングへと差している。しんと静まり返っていた。  俺の母親はバリバリのキャリアウーマンで、とにかく仕事仕事といった人だ。  両親が揃っていた頃はもう少しばかり母親らしかったとは思うのだが、今思えばかなり我慢をしていたのだろう。  要は主婦なんてやっていられる人種ではないのだ。父親がこの家から出て行ってからは仕事に熱中し、おのずと相当な業績を出しているらしい。  そんなことだから朝も早い。弁当はささっと作ってくれるが、顔を合わせることもなかった。  愛してくれているとは思うが、俺とは違いすぎる人だとも思う。朝飯はいつも途中で買っていく。  そのための金はいくらか貰ってあるし、別に朝飯が抜きでもあまり問題のない性質だったからどうということもなかった。  俺は背伸びするとまぶたを拭い、顔を洗おうと――。 「冬悟」  びくりと全身が震える。背後から聞こえてきたその声と状況に激しいデジャヴを感じて、俺は脳裏に黒い液体のようなものが広がっていくのを知覚した。  それは恐怖だ。俺は嘘だと呟きながら背後に振り返る。そこにはエプロン姿の、窓から射す光に照らされた薫がいた。  彼女は海外の俳優がやるみたいに、ニッと皮肉っぽい笑みを浮かべる。それがまたひどく様になっていて、俺は不覚にも見惚れてしまった。  驚きのあまり凍り付いている俺に、彼女はいたずらっぽく近づくと人差し指を俺の唇に当てた。  鴉の濡れ羽色をした一つ縛りの長髪が、一瞬だけふわりと宙を漂う。  彼女はいった。 「なにをそんなに驚いてるの?」 「あ、その……なんで俺の家に……」 「今日はね。君が昨日みたいに電柱に頭をぶつけないよう、一緒に登校しようと思って。どうせなら君の寝顔も見てみたいからね。ご迷惑がかかるといけないから、君のお母様に電話したらさ。今日はお弁当作るのを忘れちゃったみたいでね。で、それはいけないから持ってきたんだよ。家から」  ひょいっと背後から洒落た弁当箱が姿を見せる。俺が怪訝そうな顔をしたのを見て彼女はくくっと微笑んだ。 「安心して、僕は作ってないよ。うちの使用人だ。僕は少しばかり料理に適性がないみたいだからね」 「……合鍵は持ってたんだっけ」 「君のお母さんからもらったよ。薫ちゃんなら任せられるってね」 384 名前:たった三人のディストピア ◆JX6XvolL/Y[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 00:15:44 ID:B9xUgdKQ [6/7]  もういちど笑みを漏らすと、彼女はその弁当箱を俺に押し付けてキッチンのほうへと進んだ。  なにをするつもりなんだと思えば持ってきたのは簡単なトーストとコーヒーで。  なるほど、あんなものは複雑な手順を経なくても作れるものだし、いくら薫でも失敗はしないものなのだろう。  それが理解できているように彼女は軽く手招きして、テーブルに二人分のそれを置いた。見た目はふつうのトーストだ。香ばしい匂いが鼻孔をつく。  俺は彼女に促されて席へと着く。向かい側に薫が腰を下ろした。自然と声が出る。いただきます。彼女が「よろしい」と嬉しそうに口元を緩める。  こういうところの行儀は彼女にタコができるほどうるさくいわれた。思い出す。しっかりやらないなんてなると彼女はただ黙って俺を見つめたのだった。  そう、怒鳴るわけでもなく悲しむわけでもなく、ただ見つめられる。無表情に。彼女の瞳の奥に宿る、なにかうごめくものがあったと記憶している。  たぶん子供の幻想だろうが。そういう時分のときにはよくそういうことが起こる。ともかくそのうごめくものがなんだか俺には怖くてたまらなかった。  いつもは良き保護者代わりであり、俺のすべてを誘導してくれる彼女が、そのときはこの世界に生きる生物とはまったく別のものだと感じられたのだ。  そのうごめくものは俺を『見る』と狂喜したように身体を震わせた。おぞましく、冒涜的ななにか。それが当時の俺には恐ろしくてたまらなかった。  だからおのずと俺は彼女のいうことには従うようになったし、こういうところのけじめもつけられるようになったと思う。  たぶん、あのままいってたら放任主義の母親に憎悪を抱く歪んだ人間になっていたのではなかろうか。薫には感謝しきれない。  ぽーっとしていると、手元を白魚のような指が叩いていた。彼女が肩をすくめる。 「ぼけっとしてたら学校に走っていかなくちゃならなくなるね」 「ご、ごめん。すぐに済ませるよ」  俺は慌ててトーストをかじると、彼女もくすりと笑みをたててトーストに口を付けた。不味くはない。  料理法が単純だからだろう。失敗しようにも失敗できないのだ。俺はちょっぴり薫に失礼なことを思いながら、トーストをコーヒーで流し込んだ。  一〇分ほどしてふたりとも食べ終える。彼女が食器をキッチンに持っていく間、俺は洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、髪を整えた。  そうして二階に行って早々と制服を着込む。階下に降りると、リビングのソファで薫が足を組んで座っている。  いまさらだが彼女は足が長い。容姿の端麗さもあいまってどんな服でも様になってしまう。  うちの制服はどちらかというと落ち着いたものだが、彼女が身に付けるとそれにあいまって気品すら感じられるのだ。  まあ、彼女の家はこの辺りでは名家として知られる槐園だし、不思議なことではないのかもしれないけれども。  彼女は俺に視線をやると一瞬だけ眉を上げて、そのあとにふふっと微笑んだ。  なにを笑われているのかも分からず、俺が怪訝そうにしていると彼女が近づいてきて胸元に手をやる。 「……タイが曲がってるよ?」  耳元でそう囁かれれば、俺は情けない気持ちで俯くしかなく、彼女は対照的に上機嫌で俺のタイを直してくれた。 「さ、行こうか」  俺はふうとため息をつきながら首肯した。

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