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125 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:43:10 ID:NdS3V1VX  今このときの俺が追い詰められているのだとすれば、それはどれほどのものだと言えるだろうか。  ちょっとだけ、考えてみる。  夏休みの宿題が終わらず、膝ががくがくと貧乏揺すりをするほどか?  違う。あれはただ、時間に追われているというのにいつまで経っても終わらずイライラしているだけだ。  今の俺はぐらぐらしてはいるが、がくがくもイライラもしていない。  では、修学旅行のバスの中で尿意をもよおした時、次の目的地まであと三十分はかかると知らされたときか?  これも違う。さすがにあそこまで絶体絶命のピンチの状態にまでは至っていない。  中学の修学旅行で実際にそんな目に遭ったが、今の俺はあの時のように白い便器と四角のタイルを恋しく 思っているわけでもないし、周囲に異常を悟らせないように苦心しているわけでもない。  時間に追われているわけでも、危機的状況に置かれているわけでもない。  それなのに追い詰められていると言えるのか? と問われたら、イエスと答えよう。  なぜなら、今の俺はとても眠いのである。  昨今の秋と冬の混じり合った季節においては、日光の暖かさがとてもありがたく感じられる。  自分から陽の当たる方向へと向かっていって、両腕を目一杯広げて幸せを噛みしめたくなる。  今の俺には陽が射しているわけではない。  しかし、それを浴びているときと同じ恍惚状態に置かれている。  うっとりとしつつ、ぼんやりとしている。とでも言えばわかりやすい。  ずっと前から眠気を覚まそうと、背筋を伸ばしたり目を強くつぶったりしているが、効果無し。  ものの十秒もしないうちに、意識が抜け落ちて倒れそうになる。  睡眠というのは人間の本能的な欲求であり、古代より金をかけずに人を幸福にさせてくれるものだ。  もしかしたら寝ることを趣味にしている人もいるかもしれない。  そんなに素晴らしい、眠りへの誘いを俺がなぜ断り続けているのか。  それはもちろん、眠る以上に大事なことがあるからだ。  眠いのに、大事な用がある。大事な用があるから、眠れない。  だから、いくら眠たくても我慢するしかないのである。  以上を踏まえ、俺がどれほど追い詰められているかを喩えて言うならば、決して赤点をとってはならない 学期末テストにおいて一夜漬けのツケによる睡眠不足で眠りたくて仕方なくなってしまった状態、ということになる。 「お……お待たせ……」  衝動と理性による苛烈な意識の縄張り争いを脳内にて繰り広げていると、控えめな声が耳に入った。  声の主は葉月さん。彼女が風邪をひきでもして声に曇りがあらわれてしまわないか、時々俺は心配になる。 「目、開けてもいいよ……でも恥ずかしいから、その、……あんまりじろじろ見ちゃ、やだよ?」  ずるい。そんな台詞を言って俺の男心をくすぐるのもずるいし、じろじろ見るなというお願いもずるい。  そんなことを言われたら、まだ活動していない俺の目玉に向けて、反骨精神をむき出しにして葉月さんを 見つめ続けろ、という命令を下したくなるじゃないか。  俺は、同化してしまったようにくっついていた上下のまぶたをゆっくりと開いた。 126 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:44:34 ID:NdS3V1VX 「! う……、むぅぅ……」  そして、目の前にいる葉月さんの、制服姿とは違う装いを目にして、目がはっきりと覚め、感嘆に呻いた。  葉月さんが身に纏っているのは、二年D組が文化祭の出し物として行う純文学喫茶の女性用衣装である、 振袖と袴、それに草履という組み合わせであった。  淡い紫色の振袖には白いカトレアの花が咲いている。  胸の下の辺りで着付けられた袴。こちらは濃厚な紫色に染まっている。  足下を飾るのは真っ白い足袋と鼻緒のついた草履である。  とどめと言わんばかりに強いインパクトを与えるのは葉月さんの髪型だ。  ポニーテール。髪留めは濃紺のリボン。  しかも葉月さんたら黒のロングをそのまま後ろに流すのではなく、両肩にちょっとだけ乗せている。  そんなさりげないところが小粋で、いやなんともお美しい。 「どう? 似合うかな? ちょっと地味じゃ、ないかな?」  決してそんなことはない。  もし袴姿の葉月さんを目の前にして似合わないなどという暴言を吐く人間がいるなら、そいつの美的センスは 著しく劣化していると言っても大袈裟ではない。  総じて地味な色の組み合わせではあるが、素材のいい葉月さんのような人が着ると、紫の着物が瀟洒なものに見えてくる。  ビバ、着物。  日本の文化、万歳。 「うん、とってもよく似合ってるよ。葉月さん」  言った後で、なんだか陳腐な褒め言葉だな、と思ったが他に言い様が無かったのでどうしようもない。 「そ、そう? えへへ、ありがと」  はにかんだ笑顔を葉月さんが見せた。  いつもより数段魅力が増しているように感じるのは、着物の魔力のせいだろうか。  それとも、二人きりの状態で着物姿を拝ませてもらっているという特殊な状況によるものなのか。   「ところでさ、葉月さん」 「ん? なあに?」  葉月さんが手を後ろに回して前傾姿勢を取り、上目遣いで覗き込んでくる。  抱きしめたい誘惑を問答無用で殴り飛ばし、努めて冷静な気持ちで問う。 「どうして、俺をこんなところに連れ出したの?」 「えっと……それは、そのね」  俺の喉元の辺りに視線を送りながら、葉月さんが答える。 「あなたに、最初に着物姿を見てもらいたかったんだ。クラスの、他の誰よりも先に」  ――しゃっくりが出そうになった。びっくらこいた。  どうして葉月さんは、俺の心の純な部分をピンポイントに責めてくるのだろう。  これが葉月さん流のアプローチなのか。回りくどい部分の一切無い、正攻法。  してやられた。この場が決闘場であったならば、間違いなく俺は絶命している。 127 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:45:45 ID:NdS3V1VX  熱くなった心を抑えるため、状況を整理・確認してみる。  まず、俺がいる場所は校舎二階の女子トイレの前である。隣接して、男子トイレが設置してある。  俺をここまで連れ出したのは葉月さんだ。……と、葉月さんが言っていた。  なんと、葉月さんは教室からここまで、眠りこけていた俺の手を引っ張ってきたのである。  教室から連れ出されたときのことを、俺はまったく覚えていない。  だから、目を覚ましたときトイレの前に立っていたから驚いた。  そして、葉月さんがすぐ目の前にいたのにはそれ以上に驚かされた。  俺がなぜ教室で眠っていたのかというと、単純に寝不足だから。  なぜ寝不足かというと、昨日の夜から今朝の五時まで眠っていないからだ。  俺は、学校で一晩過ごしたのである。  今日から明日にかけて催される、文化祭の準備を終わらせるために。  文化祭の準備と言っても、俺のクラスであるD組はとっくに準備を終わらせている。  俺が準備していたのは、自分のクラスの出し物ではなく、弟のクラスの出し物だ。  コスチュームプレイ喫茶。略してコスプレ喫茶。それが弟のクラスの催し物である。  なぜ学年の違う弟のクラスを俺が手伝ったのかというと、その出し物に魅力を感じたからだ。  別にメイドさんや巫女さん、婦警さんや女騎士が好きなわけではない。  多種多様な衣装作りを楽しみたかった。ただそれだけの理由で弟の同胞に力を貸したのだ。  プラモデル作りを趣味にしている俺であるが、作りたいものも、作れるものもプラモデルだけではない。  小学校時代に家庭科の授業で裁縫の技術を身につけて以来、服の修繕などは自力でできるようになった。  それだけでなく、作成可能なもので、必要な材料さえ揃っていれば衣装だって作れる。  弟もそのことを分かっているから、安心して俺に任せたのだろう。そしてその判断は正解だった。  俺が弟のクラスを手伝いに行った時点では、衣装作成の作業は三割、よくて四割といったところまでしか 済んでいなかった。当然だ。裁縫に慣れている人間が片手で数えられる人数しかいなかったのだから。  おまけに段取りも悪かった。女子の中に一人だけ明らかに裁縫に手慣れている人がいたのだが、 彼女にばかり負担が強くかかっていた。  他の生徒は、彼女からの指示を聞いてから動いていたのだ。衣装作成の段取りを掴めていなかったからだろう。  その結果、彼女の作業も遅れてしまい、いつまで経っても作業が進まなかったのだ。  そこで登場したのが俺である。  初めのうちはそれこそ腫れ物扱いだったが、クラスメイト(弟)の兄であると知り、俺のミシン捌きや針捌きを 見ていくうちに考えが変わったらしく、いつのまにか頼ってくるようになった。  その後は簡単だった。俺が難しい作業を請け負い、代わりに手空きになった裁縫上手な女子生徒に クラスメイトへの指示を出してもらった。  力を合わせた甲斐があり、見事に文化祭前日の昨日の夕方、全ての衣装作りを終わらせた。  後輩の男女にお礼を言われる経験をしたのは昨日が初めてだった。  自分の欲求不満を解消することが目的で始めた手伝いだったが、昨日の後輩たちの泣きそうな笑い顔を 見ていると、ああ手伝って良かったな、という感想を抱いた。柄にもなく、心と目頭にジンときた。  まあ、そんなわけで衣装作成は終わったわけである。  が、どうしても俺には我慢できないことがあった。  顎の下にあるほくろから生えた毛が気になるくらいに、どうしても看過できないものがあった。  衣装作成班とは別の班が作った、鎧やブーツなどの金属系の小道具の出来が非常に悪かったのだ。  銀色のスプレーを吹くだけの仕上げなど、俺は認めない。  新品の鎧を着ている歴戦の騎士や、砂にまみれた痕の無いプロテクターを着たヒーローがいるわけがない。  俺は、あいつらを汚さずにはいられなかったのだ。  放課後に家へ帰り愛用のツールをひっつかみ、学校へ引き返して、一人で黙々と作業を進めていくうちに、 次第にハイなテンションになってしまい、気づけば日付が変わっていた。  家に帰るのも面倒になったので、そのまま作業を続行。  宿直の教師に小言を言われ、後になって夜食の差し入れを頂き、途中で何度か記憶を失いつつ、朝を迎えた。  納得のいく出来になった作品を眺めていたら弟がやってきて、強制的に二年D組に連行された。  自分の席に着くなり俺は眠った。そして次に目を覚ましたとき、トイレの前に居て、葉月さんに見つめられていたのである。 128 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:50:37 ID:NdS3V1VX  葉月さんの着物姿を視覚で堪能していると、次第に眠くなってきた。  劣情を催すほどに美しいものでも、睡眠欲求をゼロにしてしまうのはさすがに難しいらしい。  葉月さんに教室へ戻る旨を伝え、一路教室へ向かう。  教室内では、着物を纏ったクラスメイトがちらほらと居り、室内を喫茶店として改装すべく動いていた。  クラスメイト――主に男子が、葉月さんの姿を確認して視線を向けてくる。  ……まあ、なんだ。気持ちはわかる。  今日の葉月さんは着物姿だし、それに普段はしていない化粧までしている。  近づいたらいい匂いもする。いや、俺が匂いフェチ、もしくは変態なわけではなくて、香水の匂いがするという意味。  他の女子も普段より綺麗になっているが、葉月さんは頭一つ飛び抜けて煌びやかだ。  しかし、だからといってじろじろ見ていいわけではないのだぞ、男子諸君。  葉月さんに失礼だ。それに、君たちの反応は周りにいる女子達に対する侮辱も同然だぞ。  ほら、我がクラスきってのイケメンである西田君を見ろ。  いつまでも葉月さんをじっと見つめているから、彼の恋人(を自称している)の三越さんがやきもちを妬いて 西田君の足を机の脚で踏みにじっているじゃないか。  西田君が悲鳴をあげてうずくまったところに、無言で後ろからケリまで入れている。  総員、即刻葉月さんを観賞することをやめたまえ。このままではクラス崩壊の危機だ。  それに、だ。他の女子だっていつもよりイイじゃないか。  袴姿というのは人をおしとやかに見せる効果があるらしい。  小うるさい女子グループでさえも、今日ばかりはその姿を拝みたい気分になってくる。  こうやって見回してみると、うちのクラスの女子って結構容姿のレベルが高い――――? 「ん……んん?」  おかしなものを見つけてしまった。教壇の上に立って、クラスメイトに指示を出している女。  誰だろう。女子が身につけている振袖とは違い、普段着のような印象を思わせる地味なものを身につけている。  日常を思わせる、数世代前の女学生のような着物姿である。  ただ、細いフレームの眼鏡をかけたその顔、どこかで見たことがあるような。……誰だろう?  教室の入り口近くで立ち止まっていると、クラスメイトの一人がやってきた。  他人に人畜無害な印象を与えるスキルにおいては俺以上のレベルを誇る、友人の高橋だ。  だがその印象は、話をしているうちに得体の知れない違和感と共に変わっていく。  もちろん、悪い方向にである。 「やあ、戻ったのか。モテ男」 「誰がモテ男だ。俺はいまだかつて彼女を作ったことさえないんだぞ」  ごく短い期間だけ似たような相手はいたが、あれはノーカウントだ。 「ほお……たった今まで葉月嬢とこそこそ逢引していたくせに、よく言えたな」 「ぐっ……」 「自分のいる位置というものをしっかり把握しておくべきだな、君は。自分のためにも、大事な人のためにも」  この男の台詞の中に毒は含まれていない。スーパーで売られている果物以上に毒素が薄い。  悪意がないのだ。からかっているだけなのだ。そして、だからこそ性質が悪い。  心に思い当たるもの――ちょっとした罪悪感とか――を自覚させる台詞を口にする。  しかも言っていることが正論だったり、時には荒唐無稽なものだったりする。  どの場合も同じ表情、平坦な口調で言うから、心が読めない。  本気か冗談か、喜んでいるか怒っているのか、ということさえわからない。  129 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:52:11 ID:NdS3V1VX 「聞きたいことがある。あそこにいる眼鏡の――」 「それよりも、だ。こっちの質問に先に答えるんだ。今まで、どこに行っていた?」 「どこと言われても……」  一瞬隠した方がいいと思ったが、やはり正直に答えることにする。 「葉月さんに連れられて」 「ふんふん」 「トイレに」 「あーあー、もういいよ。皆まで言わずとも、わかった。つまり、そういうことか」 「何がわかったってんだ」  高橋は目をつぶりながら右手を自分の頭に当て、左手の掌を俺に向けてくる。  そこで止まれ、と言いたげな動作であった。 「朝から盛んだな、君は」 「……何を誤解しているのかわからんが、盛るようなことは何一つなかったと言えるぞ」  葉月さんの着物姿に心を震わされたが、あれは興奮したのとは違うだろう。  眼鏡をかけた勘違い高橋君は、俺に耳打ちしてきた。 「いいんだよ。僕は君の味方だ。それに僕は、他の皆みたいに葉月さんに執着しているわけじゃない。  だから、君と葉月さんがどこに行こうが、どこに逃避しようが、どこで心中しようが看過しよう」  最後のひとつは看過したら駄目だろう。クラスメイトというより、人として。 「だが、他の皆はどうだろう。君が葉月さんとどこかに行ったとき、葉月さんが君を連れ出したところは  皆が見ているが、そこは問題じゃない。  問題になるのは、葉月さんに連れ去られるほど思われている君の身の安全が、皆の手によって脅かされる  かもしれない、というところにある」  脅しか、この野郎。いや……違うな。こいつの言っていることは――。 「脅しじゃなくて、事実と状況を踏まえたうえで僕が君に厚意で行う、警告だよ。  気をつけた方がいい。不幸にも今日は学校内に人があふれる一日だ。……と、明日もか。  とにかく、一人で行動するのは避けた方がいい」  どこぞのサバイバルゲームでは、危険な状況でも一人で立ち向かっているが、やっぱり真似したら駄目か。  俺の場合、あのゲームではあえて行動しやすくするために、敵を消しているのだが。  ――無理か。俺を取り巻く環境では誰が敵かわからないし、敵になりそうな奴が多すぎる。 「そうだ。君の今日の運勢を占ってあげよう」 「要らん」  お前の占いは占術に頼って出したものじゃない。状況を把握したうえで割り出した推測だろう。 「そう言うな。今日の僕は冴えているんだ。機嫌がいいからね」  人差し指の先を額の中心に当て、エセ占い師は答えを紡ぐ。 「――君は今日、危機的な状況に陥る」 「……」  当たるも八卦当たらぬも八卦って、便利な言葉だよな。何を言ったってごまかせる。  言い訳に使える言葉の中では、ランクの最上級に位置するんじゃないか。 「黒い……場所。夕方だな。君は、男……女? に、凶器をつきつけられている」 「夕方、気をつけていればいいんだな?」 「うん、そうだ。けど、けれど……多分君は、自分からその状況に関わっていく。そう、出ているよ」 「はあ……?」 「僕に言えるのはここまでだ。あとは君次第で、状況は変わっていく。君の無事を祈っているよ」 「ああ、そうかい。ありがとさん」  不吉なことを言い残し、高橋は俺の前から立ち去ろうとする――って、おい。 130 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:53:45 ID:NdS3V1VX 「ちょっと待て。聞きたいことがあったんだ」  肩を掴み、強制的に動きを止める。  振り向いたときの男は、なんだか意外そうな表情をしていた。 「何だ? 君から俺に話を持ちかけてくるなんて珍しい。事件か? いつぞや口にしていた弟と妹が、  とうとう一線を越えてしまったのか?」 「違う。そっちじゃない」  仮にそうだったとしたら、今頃俺は学校になんて来ていない。  妹と弟を前にして、今からでも間に合うから普通の兄弟に戻ろう、とか言っているはずだ。  その後、妹によってどんな目に合わされるかはわからないけど。  俺の身――いや、命の安全も保証できないけど。 「ほれ、あそこにいる女の人」  教壇の上に立ち、クラスメイトの動きを見守っている女を指す。 「あの人、誰だ?」  極めて単純に、的確に質問したつもりだった。  だが、どうやら俺の問いかけは、珍しいことに高橋の逆鱗の袖に触れてしまったようだ。  高橋の不機嫌は隠されもせず、眉間に皺となってあらわれた。 「君は馬鹿なのか?」  いきなりそれかよ。 「……どうだろうな。馬鹿にならないために日々頭を使っているつもりだけど」 「いいや。君は馬鹿だ。君が馬鹿じゃなければ僕はなんだ? なんだと思う?」  なんだかその質問変だぞ、という言葉は飲み込む。咄嗟に浮かんだ台詞を口にする。 「知らねえ」 「そんなこともわからないのか。やはり君は馬鹿だ」  嘆息。  やっぱり飲み込まずに言っておけばよかった。たぶん聞いてきたこいつもわかっていないに違いない。  高橋はこうやってわけのわからない台詞を吐いて煙に巻くのだ。  シュールなギャグ漫画のネタみたいな喋りをする野郎だ。  でたらめな方向に会話を持っていってなんとか生き残ってやがる。  あえてこっちもペースに合わせてやっていいんだが、高橋はどうやら怒っている様子なので、下手に出る。 「すまん。お前の言う通り俺は馬鹿だ。謝る」 「気にするな。それに……僕はそんな馬鹿が嫌いじゃない」 「そいつは光栄だ。で、すまんのだが」 「ああ、さっきの質問の答えだな。教えてあげよう。  あそこにいるのは我が二年D組の担任にして守護女神――篤子先生だ」  ……とうとう女神にまで昇格したか、篤子女史。  昨日までなんたらエルとかいう天使の一人娘だったように記憶しているが。  ちなみに担任はれっきとした人間だ。全ては高橋の妄想である。  俺としては、担任が天使でも悪魔でも神でも魔界の王でも構うところはない。  美人だったらそれでいい。見ているだけなら目の保養になる。 「そうか、先生だったのか。見違えたよ」 「だろう。今日は眼鏡までかけている。あれは僕が貸したものだ」  流石、普段から「篤子先生には眼鏡が似合う。かけてくれないかな。かけさせたいなあ」とか言っているだけのことはある。  ばっちり担任の細面に似合うフレームを選んでいる。  あの眼鏡、今日のために高橋が特注したんだろうな。こいつならそこまでやりそうだ。 131 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:55:35 ID:NdS3V1VX 「お前としては、あれで満足か?」 「……八十七点というところかな。あとは髪の毛を肩の辺りで切りそろえてくれれば完璧だ。  いつもの髪型も決して悪くはないが、僕の好みをジャストミートしていないんだ。  もちろん、どんな髪型であっても僕の気持ちは変わらないが」 「言ってみたらどうだ? 髪の毛を少し短くしたらもっと綺麗になりますよ、とか」 「既に言っている」  あ、言ってるんだ。いや、言っていないはずもないか。 「でも先生は……これぐらいの長さがいいと言っていたから、と断った」 「そうなのか?」 「いったい、誰に言われたんだ。もしかして……心に決めた男が居て、そいつに言われたのでは……」  断言してもいい。それはない。  おおかた、小説に出てくる好きな主人公が「髪の長い女が好きだ」と言っていたから、みたいなオチだろう。  そりゃ、担任のプライベートまで知らないし知りたくもないから、恋人の有無なんてわからない。  だけど、担任の身に纏うあの空気を見ているとわかる。  彼女は、恋人とのラブロマンスより、文字の群れが紡ぐ恋愛模様の方が好きだ。  なぜわかるのかというと、俺が担任と似ているから。  葉月さんと出会ってからは考えが変わってしまったが、昔の俺は恋人と乳繰り合うよりニッパーを繰っている方が ずっと楽しいんだ、それ以外に幸せなんてあり得ない、とまで考えていたのだ。  おそらく、数ヶ月前の俺みたいな奴が成長し進化を遂げたら篤子女史のようになるのだろう。  担任と俺は、趣味に生きる人間という点に於いて同類なのである。  ちなみに、高橋がここまで担任に執心しているのは、話を聞いていればわかるように、恋をしているからだ。  俺には、担任のどこが魅力的なのかが理解できない。  年はずっと離れているし、純文学オタクだし、口の滑りがちょっとばかし良すぎるし――良すぎて滑って転んでいるし。  だが、人が恋をするのは自由だ。相手が異性である限り、俺としては友人の恋を応援してやりたい。  もちろんエールを送るだけ。エールさえ邪魔かな。生暖かい視線を送るだけにしておこう。     ぶつぶつ言いながら立ち尽くしている高橋を置き去りにして、クラスメイトの元へ。  教室の後ろ側はカーテンで仕切られている。そこが店員の控え室になっているようだ。  薄布のカーテンの向こうからは、準備に追われている女子の声が飛んでくる。  そこまで急がなくても、今日学校に来るような人間の年齢層の好みにかすりもしない喫茶店が忙しくなりは しないと思うのだが。やる気を出しているのはいいことだけど。  いくら美麗な衣装を身に纏った女子がいるにしても、古本屋のしけった本の匂いがする店に入ってきてまで 見物しようとする物好きな男もいないだろう。もし居たら、そいつはどうしようもない女好きだ。  ナンパ目的の男が入りそうにないものを選んだという点では、担任の出し物のチョイスを評価してもいい。  しかし、利益をあげそうにない喫茶店であることは否めない。  茶と菓子を出すところ以外、小説のみを扱う図書館みたいなもんじゃないか。  担任はどんな客層をターゲットにしているつもりだ。  もしかして……純文学喫茶を経営するのが担任の夢、なんだろうか。  二日間だけでもいい、夢を叶えたい。そんな想いで、この出し物をやらせたのか。  夢を追う大人ってかっこいい――――なんて思わないぞ。やはり担任の行いは許し難いものだ。  ……今更だな。文化祭当日になって、許すも許さないもない。 132 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 03:58:10 ID:NdS3V1VX  しかし、喫茶店業務の各担当はどのように割り振られているのだろう。  弟のクラスを手伝い始めた日から、ずっと自分のクラスのミーティングをさぼっていたからさっぱりわからない。  確定しているのは、葉月さんがウェイトレスだということ、担任が窓際の席を占領して本を読みふける迷惑な客の役 だということ、だな。だとすると、高橋も教室に入り浸るだろう。  俺は何を任されているんだろう。壁に貼ってある、担当者の割り振りが書かれたプリントを見る。  ウェイター……はやっぱりないか。臨むところだ。  お茶を沸かす役、菓子を皿に盛る役……でもない。  消耗品の買い出し役……ですらない?  おいおい、俺の名前がどこにも書かれていないぞ。  名前と役がずらりと書かれた一覧表を、上から下、下から上へと何度も見る。……が、俺の名前はない。  とうとう皆は一致団結して、俺に対してスルーで対応することにしてしまったのか?  いや、それも違う気がする。  高橋と話した時もだったが、クラスメイトから感じる気配に不快なものを覚えない。  では、なぜ俺に何の役も任せていないのだ?  やめてくれよ。なんか、こう――家にいるときみたいに、のけ者になった気分になるじゃないか。 「どうかされましたか?」  切なさのあまり、心の中の雪原で粉雪を浴びていたら、担任に声をかけられた。  ポーカーフェイスの篤子先生がパン屋の優しいおばさんに見えてしまった俺は、寂しがり屋なんだろうか。  そろそろカウンセリングでも受けた方がいいのかもしれない。 「先生、黄昏れたい気分になったこと、ありますか……?」 「ええ。ほぼ毎日です。なぜ私は、あれほど美しい小説の登場人物ではないのだろう。  私が着の身着のまま列車に飛び乗り、車窓から遠い故郷を思っても、彼らのように様にはならない。  所詮、私は現実に生きる人間でしかないのだ、と思うと……切なくなりますね」  ……なんか違う。むしろこっちが切ない気分にさせられた。  この三十路が担任だったという経験は、俺の人生にとってなんらかのプラスになるんだろうか。  反面教師にせよ、という天啓が俺の知らぬ間に下っていたとでもいうのか。聞いていないぞ、天の人。 「先生、これ、見てください」 「はい……皆さんの役割分担が書いてありますね。でも、あなたの名前はどこにも書かれていない。  なるほど。それで、沈んでおられるのですね」 「なんで俺の名前が書かれてないんですかね……」  ああ、ため息、また一つ。 「……まじめですね。準備期間中は毎日熱心に相談を持ちかけてこられましたし。  他の皆さんもそうです。出し物が決まったときは不満そうだったのに、今では全員で協力して喫茶店を  成功させようという気概が感じられます」 「当日になってまでごねる奴なんていませんよ。当日になって暇になる男はいますけど」  ちくしょう。なんで俺は担任を相手に弱音なんて吐いているんだ。情けない。 「時間があるのはよいことではないですか。今日と明日は文化祭です。退屈はせずに済むはずですよ」 「一人で回っても面白くないですよ」 「一人もそれほど悪いものではないですよ。自分の時間を、他人に邪魔されずに自分のペースで楽しめます」 「そう、ですかね……」  ええ、と言って担任は頷いた。  俺は一人。これから、一人で生きていくんだ。  目の前にいる独身、三十路、オタクの三拍子そろった担任みたいに。 133 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 04:00:00 ID:NdS3V1VX 「先生、俺は――」  口を開こうとしたら、かざされた右手によって言葉を遮られた。  担任は俺の顔を見ていない。今まで目につかなかったところに貼ってあるもう一枚のプリントに目を向けている。 「……なんです、一体?」 「あなたの役は、きちんとあるじゃないですか」 「えっ!」 「ほら、あそこのプリントに、書いてありますよ。大事な仕事です。しっかりやり遂げてくださいね」  返事をせずにもう一枚のプリントの元へ向かう。  皆、疑って悪かった。俺のことをしっかり覚えていてくれたんだな。  どんな仕事だろう。なんでもやるぞ。客引きだって、店の用心棒だって喜んでやってやる。  福沢諭吉の印刷されてある紙幣よりも輝いて見える文書の元へ、俺はたどり着いた。  そして、そこに書かれている四行の文字の羅列を見て――へけっ、と笑った。  頬がひきつっている。初めこそ笑い顔だったが、不意打ちでがっくりさせられて表情をへし曲げられた。  プリントの一行目には、俺の名前が書かれていた。このプリントが俺のために作られたものだと一目でわかった。  だが、それはいい。問題は二行目から。次のように書いてある。 『上の者、文化祭一日目二日目共に、教室にて座して過ごすことを命ずる。  教室から出ることは一切許可しない。この命に背いた場合、”あのこと”を公開する。  なお、クラスメイトは上の者を教室から出さぬよう、全力を尽くすこと。 以上』  つまり、何もせずに座っていろ、と言いたいのか。こんな理不尽な命令なんか聞きたくない。  それに”あのこと”ってなんだよ。わざわざダブルクォーテーションでくくるんじゃねえ。  俺は、何もやましいことなんか――――あるじゃねえか! ちくしょうめ!  両親のことは一言も漏らしたことなんかないけど、こんな文章書かれたら自信がなくなるよ!  誰だ、これ書いた奴! お前なんか仲間じゃない――敵だ!   くそったれ――こんなことなら弟のクラスにいればよかった。教室に戻ってくるんじゃなかった……。  右手を黒板に当て、よりかかる。すぐに腕から力が抜けた。体重を壁に預ける。  このまま床に座り込みたい気分だったが、クラスメイト(不特定の一名を除く)の前だから、自重する。  そのまま目を閉じて眠ろうとしていたら、お盆を手にした葉月さんがやってきた。 「大丈夫? プリント、私も見たけど……残念だったね」 「う……ん、い、いや。別に大したことないよ。きっとヘルプ要員として待機してろ、っていう意味だから」  よりによって葉月さんの前で弱音を吐くわけにはいかない。  プリントに書かれた文章を読んだ程度で落胆しているなんて、思われたくないのだ。 「んー……たしかに、そう読めなくもないけど。前向きだね」 「そんなことないって」  ただの虚勢だからね。 「……まさかそんな反応をするなんて。落ち込んだところで声をかけたのに……」 「あれ、俺、落ち込んで見えた?」 「え! あ、ま、まあね。いつもより元気がないのは一目でわかったよ」  バレバレじゃないか。しっかりしろ、俺。  しかし、さっきから葉月さんの挙動がおかしい。一体どうしたというのだろう。 134 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 04:01:26 ID:NdS3V1VX 「葉月さん、緊張してる?」 「そりゃそうだよ。バレちゃったらどうしようか、とか……」 「え? バレるって……?」 「ううん! なんでもないよ。あー、ちゃんと接客できるかなー。緊張するなー。  誰か、励ましてくれないかな。誰でも……じゃなくて、誰かに応援してもらいたいなー」  ちらちらと俺の顔を見ながら葉月さんが言う。  そこまで露骨に誘われると躊躇ってしまうな。周囲の男女からの視線もあるからなおやりにくい。  だが――時には気合いを入れて一歩踏み込むことも必要だ。  俺と葉月さんの距離も、強引にでも詰めなければいけないんだから。 「葉月さん」 「は、……はい」 「葉月さんがいれば、売り上げが校内で一番になるのも夢じゃないよ、きっと」 「ほっ、ホント!?」 「俺はそう思う。出し物が出し物だからハンデありまくりだけど」 「それは、その……どういう意味……?」  思っていることを言うのが恥ずかしい。でも、顔を紅くした今の葉月さんを抱きしめるよりは恥ずかしくない。  ちゃっちゃと言ってしまおう。  葉月さんに近寄り、耳打ちする。 「……今日の葉月さん、すっごく可愛いから」 「か、可愛い……ど、どれぐらい……」 「惚れてしまいそうな程に」 「あ! ……あう、あぅ……ありがとうございます! が、がんばります! 見ててください!」  右手に持ったお盆で敬礼し、葉月さんは教室の外へ向かっていった。  クラスメイトの白い目と、火傷しそうな熱視線と、舌打ちの音が遠いもののように感じられる。  『可愛い』。『惚れてしまいそう』。  言うのは簡単なのに――どうして、こんなに心が重くなるんだろう。罪悪感を覚えるんだろう。  眠すぎて頭がいかれてしまったのか?  自分の言葉に、自分の気持ちに自信が持てないなんて。本当に、俺はどうなってしまったんだ。 135 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 04:02:54 ID:NdS3V1VX *****  彼がいる。先輩――お兄さんに作ってもらった衣装に着替え、仮面を被ったヒーローになりきって接客している。  彼は他の皆と違い、今日一日だけしかクラスを手伝わない。  その代わり、今日だけで二日分の働きをする、と彼は言っている。  なんでも、二日目を丸一日自由行動に使いたいらしい。  理由を聞いても、彼は困った笑みを見せるだけだった。何かを隠していることは明白だ。  一体それがなんなのか、アタシにはわからない。少しだけならわかるけど。  自分が許せない。誰よりも愛しい彼のことを、全て把握できない自分なんて、違う。そんなのアタシじゃない。  アタシは彼の世界なんだ――これから、そうなるんだ。  だから、今の彼に関することは全て知らないといけない。だけど、今のアタシは彼のことを知らなすぎる。  アタシの器が彼を受け止めきれるほど大きくないのか、彼の存在規模が大きすぎるのか、アタシが彼のことを 過大評価しているのか。あるいは、それら全てが理由なのかもしれない。  ――いけない。  また、彼と会う前の自分の気持ちを思い出してしまった。  忘れなければいけない。アタシは、自分を卑下していた頃とは違うんだ。  彼はアタシを救ってくれた。彼はアタシに自信をくれた。  『アレ』を人より上手く扱えるなんて、特技でも何でもないのに、彼は褒めてくれた。  目を輝かせながら、すごいすごいすごい、と言ってくれたのだ。  根暗なアタシは、それだけで自信が持てた。彼と会う回数を重ねていくうちに、声が大きくなった。  でも、純粋な気持ちでいられたのは数ヶ月だけ。  その後は、恋しい気持ちと、それからくる独占欲――以上に醜い支配欲で、心の中がドロドロだった。  アタシは、ちょっとだけ彼と会う機会を減らした。  だって、彼が心の中に踏み込んできたら、アリジゴクのように引きずり込んでしまいそうだったから。  その甲斐あって、アタシは彼に危害を加えずに済んだ。  代わりにやってきたのは、息を詰まらせそうなほどの切なさ。  彼の存在は、既にアタシにとってなくてはならないものになっていたのだ。  毎日、彼と一緒に登校したかった。  一日中ずっと、彼の机とアタシの机をくっつけて授業を受けたかった。  昼休み、彼の口にアタシの箸であーんしてあげたかった。  放課後、部活動に励む彼を見続け、一緒に帰りたかった。  そして、アタシの家に来てもらい、甘い台詞を囁きながら抱いてほしかった。  毎日毎日そんな妄想ばかりが浮かぶ。止めようがなかった。  止めてしまったら、現実の彼に想いをぶつけそうだったから。  思いの丈をぶつけてしまおうと思ったことは幾度もあった。でも、実行していない。  彼がアタシを受け止めてくれないだろうことは明白だった。 136 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 04:04:32 ID:NdS3V1VX  ――あなたが好きな人は、あの人だから。  あなたがどれほど彼女を思っているのか、アタシは知っている。  彼女の姿を確認するためだけに、彼女の教室の前を通り過ぎていること。  体育の時間や部活中、校庭から彼女の教室を見上げていること。  その時に見せるあなたの目が、最初からアタシに向いていてくれればよかったのに。  そうすれば、強引な真似をする必要なんかなかった。  わかってる。悪いのはアタシ。純粋なあなたを自分の色に染めたくて仕方なくなっているアタシ。  あなたは悪くない。悪いところがあるとするなら、誰にでも優しい、八方美人ともとれるその性格ぐらいのもの。  この想いがどこまでいくのか、どんな結末を望んでいるのか、アタシにはまったく見えてこない。  はっきり言えるのは、アタシがあなたを支配したいと強く願っていること。  あと、もう一つ――――目的のために具体的に行動すると決定したこと。その二つ。  明日、あなたはあの人に会うつもりでしょう? だから今日頑張ろうって、決めたんでしょう?  あの人には、絶対に会わせない。二人きりでデートするなんて許せない。  本当は、あの人をあなたの前から消したいけど、あなたはきっと悲しむよね。  あなたの悲しみは、アタシに会えないときだけ湧いてくれればいいの。無駄遣いしちゃいけないわ。  先にあなたを手に入れれば、あの人を消さずに済む。あなたも悲しまずに済む。  一石二鳥でしょう?  もうすぐ、今日の一般公開の時間は終わる。  それからはアタシの時間。あなたを狩るための時間。  少し骨が折れそうだけど、アタシはしっかりやり遂げる。  覚悟はもう済ませている。一線を越えることに、もはや躊躇はない。  さあ、行こう。アタシと彼だけが存在する世界で生きるために、最初の命令を下そう。 137 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2007/12/14(金) 04:06:32 ID:NdS3V1VX ***** 「ありがとう! また明日も来てくれ!」  マスクをしているせいなのか、いつもよりテンションの高い声で彼が最後の客を見送った。  教室を改装した喫茶店の中にいるのはコスプレしたクラスメイトだけだ。  皆、お互いの衣装を笑いあったり褒めあったりしている。  アタシは彼が誰かに話しかけるより早く、誰かが彼に話しかけるより早く、彼の肩を掴んだ。  振り向いた彼に向かって、労いの言葉をかける。 「お疲れ様」 「あ、お疲れ。いやー、マスクを被ってると疲れるね。動きづらいったらないよ。  スーツアクターの人の苦労がほんのちょっとだけわかった。君の格好もそうじゃない?」 「ん……そうでもないよ。ちゃんとアタシの体型に合わせて作ってあるから」  彼の着ているボディスーツはお兄さんの手作りだけど、アタシの衣装は違う。  今日の目的を達するために、実用性を重視した作りになっている。  喫茶店のウェイトレスとしての実用性ではなく、荒事に対応するためのそれだ。  動きやすく、軽装で――武器を隠し持てるように作っている。  実際、今も身につけている。けれど、ナイフとかメリケンサックみたいにわかりやすいものじゃない。  学校に通う生徒なら、誰でも手にできて、持ち運んでいても不自然じゃないもの。  仮にアタシが警察からボディチェックを受けても、絶対に引っかからない。  ――だけど、上手く使えば命を奪うことだって不可能じゃない。  どうやればいいのか、それもアタシには想像できる。 「いいなあ。僕も兄さんに頼んでおけばよかった」 「時間がなかったんだから仕方がないよ。今日家に帰ってから頼んでみたらどう?」  ――君は今夜から死ぬまで、家族の住む家には帰れないけどね。 「そうしてみようかな。でもなんだか兄さん、最近僕を部屋に入れたがらないんだよね……。どうしたらいいと思う?」 「アタシは一人っ子だからわかんない。でも、きっと大丈夫よ。いい人そうだから」 「そうだね。兄さんは本当、優しいから。僕と妹には……昔から」  彼に物憂げな表情をさせるお兄さんにちょっとだけ妬いてしまう。  お兄さんと妹さん、彼が居なくなったらきっと悲しむだろうな。  ……でも、予定は変更しない。今日こそ、彼の全てを手にするんだから。 「そろそろ帰ろうかな。じゃあ、僕、着替えてくるから」 「あ……ちょっと、待って」 「ん? 何か用?」 「うん。……あのね、今から、ちょっとだけ……」  やっぱり、いざ本番となると緊張する。けど、それを乗り越えないと目的は達成できないんだ。 「ちょっとだけ、この格好で歩かない? ほら、なんだかハロウィンみたいで楽しいじゃない」  練習してきた台詞をそのまま口にする。動揺を表に出すことなく、口にできたはず。  彼はアタシの顔を見ているみたいだ。どんな表情かはわからない。だってマスクを被っているんだもの。 「……ねえ、どう?」  アタシの催促に対し、少しの間を空けて、彼は頷いた。  それがこれからの人生の行く先を決定づける行動だとは知らずに。  続けて彼は、「いいよ、ちょっと歩こうか」と、言った。

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