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220 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:25:52 ID:9yD2ehT5 「KRの4」  わざわざ口で宣言して、如月更紗は黒のクイーンを動かした。かつん、と木の触れる良い音 がする。プラスチック製の安物ではない、しっかりと造られた木彫りのチェスだ。赤と白―― ではなく、黒と白。白は使いたくない、と如月更紗が言ったので、僕が白、如月更紗が黒だ。  姉さんが買ったチェス盤で、姉さんと遊んでいたチェスを、如月更紗としている。  妙な違和感があった。  なんで僕はこんなことをしているんだろう――とめどなくそう思う。 「…………」  チェス盤がある以上、口頭する必要はない。無言のまま、白のポーンを動かす。かつん。音 を共に木彫りの兵士が一歩前進。目指すは黒のキングだ。もっとも大してやる気があるわけで もないので、先の先を読もうとも思えなかった。その場しのぎの、読み合いですらない適当な チェスだ。  負けているのかも勝っているのかも、よく分からないチェスだ。 「なんで僕らこんなことしてるんだろうな」  独り言のように呟くと、予想外にも如月更紗が反応した。タイムラグ・ゼロで黒のポーンへ と伸ばそうとしていた手を止めて顔をあげる。 「貴方が暇だと言ったから」 「……分かりやすい解答をありがとうな」  確かに、言った覚えがある。暇だ、と。しかし――だからといって、如月更紗と仲良く遊ん でいる自分というものに、どうしても慣れることができない。  だが、それ以上に。 「それと――お前の格好に、関連性はあるのか?」  僕の問いに、如月更紗はきっぱりと「ないわね」と答えた。  答えて、微笑む。  ブラウス一枚だけの姿で、幸せそうに微笑んだ。 「…………」  そんなふうに笑われては何もいえない。  チェス盤が置かれているのは机でも床でもない。ベッドの真ん中に、毛布に沈めるようにし てチェス盤はあった。ベッドの頭側と足側に向かい合うようにして座っているのだが――その 向かい合う如月更紗の姿が問題だった。  制服を脱いでいる。  スカートと靴下も脱いでいる。  半そでのブラウスはボタンひとつしか止まっていない。案の定というか何と言えばいいのか、 その下に下着をつけている様子はない。ショーツとブラウスのみだった。  ……なんか、よく考えれば、こいつの制服姿か裸のどちらかしか見た覚えがない。  何と言うか、色々な面で問題だった。 「露出狂め」 「ブラウスも脱いで欲しい、と?」 「僕が露出狂じゃなくてお前がだよ! 誰が裸を迫った!?」 「私の中の冬継くんは、笑顔で全裸調教を迫ることのできる人だわ」 「捏造だよそれ! 妄想以下だ!」 「あ――これは貴方でなく須藤くんだったわね。ごめんなさい」 「誰だよ須藤……」  というか、その須藤くんとやらは笑顔で全裸調教を迫るような奴なのか。  恐ろしい世界だった。 221 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:26:30 ID:9yD2ehT5 「制服はあまり好きではないのよ。家の中でくらい脱ぎたいわ」 「ここはお前の家じゃなくて僕の家なんだけどな」 「間を取って二人の愛の巣ということでどうかしら」 「間どころか彼方に跳んでるじゃねーか!」 「冗談よ。――Kの2。チェック」  急にくるりと話を変えて、黒いナイトを如月更紗は動かした。そのまま、チェス盤に見入っ て言葉を続けようともしなかった。そのくせ、確実にチェックメイトへと迫っているのだから 意地が悪い。  はぁ、とため息ひとつ。 「どんな服が好きなんだよ」  言って、こちらも白のナイトを動かして、赤のナイトをとった。伏兵でも策略でもない、た だのその場しのぎの戦いだ。こんな曖昧なチェスを、夕方からずっと続けている。  家に帰ってきたのは、昼過ぎだった。  帰ってきて最初に驚いたのは家の鍵が開いていたことであり、二番目に驚いたのは人の部屋 に見覚えのあるキャリーバッグが置いてあったことだった。問い詰めてみると、僕と神無士乃 が学校へ向かった後、こっそり家に戻ってキャリーバッグを置き、それから学校に向かったこ とを如月更紗はあっさりと白状した。  悪びれもなく。  不法侵入だ、と突っ込むと、涼しい顔で『ノックはしたわ』と返された。そういう問題じゃ ないが、それ以上突っ込んでも完全に無駄なので放置。  なんとなく寝たりなかったので、ベッドで如月更紗と寝て――一緒に寝ることに慣れてしま った自分が怖い――夕方に目を覚まし、如月更紗にブラウスとショーツを着せて、今に至る。  窓の外ではもう陽が完全に沈んでいた。真夜中、ではないが、どっぷりと夜に浸かっている。 今外に出て空を仰げば、きっと綺麗な月が見えるだろう。  閑散とした住宅街なので、やけに静かさが耳についた。 「服――見たい?」  ちらりと、トランプ柄のキャリーケースを見て、如月更紗はそう言った。少しだけ考えて、 「いや、いい」と断る。今も如月更紗の背後には巨大な鋏が置いてある。あのキャリーケース が開いたとき、中から何が出てくるのか考えたくもなかった。 「裸のほうが好きということね」 「誰がそんなこといった!」 「裸の私は嫌いかしら?」 「枕詞に裸をつけるなよ! 僕がすごい駄目人間みたいだろそれだと!」 「違ったかしら」 「く……っ」  違うと言い切れないのが悲しかった。 「クイーンをK列へ」  話の流れを斬るように、如月更紗のクイーンが動いた。こつん、と木が鳴る。盤面で、白と 黒の駒は行ったり来たりを繰り返す。  将棋と違って、復活はしない。  欠けてしまえば――戻らない。 222 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:27:06 ID:9yD2ehT5 「……狂気倶楽部には、チェスの二つ名もいるのか?」  なんとなく。  意味もなく――そんなことを、僕は如月更紗に尋ねた。暇潰しだったのかもしれないし、話 題逸らしだったのかもしれない。  けれどもそれが、僕と彼女を繋ぐ、最大の接点であることに変わりはなかった。 「――――」  如月更紗は、すぐには答えなかった。しばらくの間、迷うように盤面に視線を彷徨わせてい た。そこから何を読みとろうとしていたのかは、やはり僕には分からない。  分からない。 「例えば、そう――」  どうして如月更紗が――その駒を指差すときに、微かに躊躇っていたのか、僕には分からな かった。 「――白の女王とか」  如月更紗は、その細い指先で――白のクイーンを、指差したのだった。 「…………」  指された駒を、何気なく持ち上げる。木を掘られて出来た駒は重くもない。  チェスの中で、最強の駒。  そして、同時に。 「……不思議の国のアリスにもいたよな」 「そうね」  気のない返事を、如月更紗は返した。何か、思うところがあるのだろう。  ――狂気倶楽部では、二つ名を授かる。『本当の自分』を現すためか。『現実の自分』から 逃げるためか。とにかく、彼は、彼女は、仇名を授かる。  如月更紗にも、あるはずだ。 『白の女王』は彼女の知り合いなのかもしれないし――彼女自身なのかもしれなかった。  いい加減、それをはっきりさせたかった。  持ち上げた白のクイーンを、QRの6へと置き、僕は宣言する。 「チェック」 「え、嘘?」  ばっと如月更紗が盤に顔を近づける。黒く長い髪が、チェス盤の上に垂れた。  チェスに集中していなかったのは如月更紗も同様だったのだろう。盤の上では、黒のキング が完膚なきまでに追い詰められていた。  完全に、詰みだ。 「……私の負け?」 「そうみたいだな」 「…………」  無表情で盤面を眇める如月更紗にわずかな優越感を感じつつ、僕は本題を切り出すことにす る。 「勝ったんだから――ひとつくらい、言うこと聞いてもらうぞ」 「……分かったわ」  無表情のまま、それでも微かに声に悔しさを滲ませて、如月更紗は頷いた。頷き、ひとつだ け止まっていたブラウスのボタンを自分で外す。  ――って、おい。 223 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:27:47 ID:9yD2ehT5 「この身体を自由にし」 「だれがそんなことをしろと言った!」 「……せめて最後まで言わせて欲しいわね」 「最後まで言わせてもろくなことにならないだろうが」  それ以上に、口を開けばろくなことを言わない。  本当にろくでもなかった。 「こういった冗談は、結構好きなのよ」  さらりと、耳元にかかっていた黒髪を後ろに流して、如月更紗は言った。ブラウスの前を止 めようとしないが、もう着ているだけでよしとする。 「それは知ってる」 「なぜ好きかというとね――」 「いや、説明しなくていい」  ろくでもない言葉が出てきそうな気がして制止するが、如月更紗は聞いちゃあいなかった。  くすりと、口元を押さえて笑い、 「向こう側だと、冗談にならないからよ」 「――――」 「冗談でしかありえないことを、本気でやる人しかいないから」  それこそ須藤くんしかりね――そう、如月更紗は、冗談めかして言葉を結んだ。  冗談で、あるはずがなかった。  如月更紗の言葉が、冗談であるはずが、なかった。  沈黙する僕に、如月更紗は笑いながら続ける。 「そう考えると、冬継くんは不思議よね。貴方は明らかに向こう側を許容しているのに――自 身は渡っていないなんて」 「……何を言ってるかさっぱりだ」  いや。  言いたいことは分かる。狂気倶楽部なんてものと平然と向かいあう人間なのに、お前はなぜ 狂っていないのだと、そう如月更紗は問うているんだろう。  そんなことに、答えられるわけがない。  自分が狂っているかどうかなんて――自分で、分かるはずがない。 「そんな冬継くんだからこそ、私は今ここにいるのよね」  どこか、楽しそうに。  どこか、幸せそうに。  如月更紗はそんなことを言って、ベッドにぽすんと身体を倒した。生々しい生足が放り出さ れてむき出しになる。低い視点から、僕をじっと見上げてきた。 「それで、何を聞きたいの?」 「…………」  チェックをとった白のクイーンを弄びながら考える。聞きたいことは、幾らでもある。  狂気倶楽部での姉さんのこと。  姉さんを殺した奴のこと。  ウサギのことを聞いてもいいし、それ以外の誰かについて聞いてもいい。  あるいは――如月更紗が、どうして狂気倶楽部に入ったのか、とか。  冷静に考えれば、聞くべき質問は決まっているはずだ。復讐のためにどこまでも走ればいい 。無理矢理にでもソイツの特徴を聞きだして、今すぐ家を飛び出て探せばいい。  けれど。  そのときはきっと――如月更紗と、決別するのだと、思った。 224 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:28:27 ID:9yD2ehT5  顔を上げる。部屋の隅に、姉さんはいる。姉さんはずっとそこにいる。如月更紗と添い寝を する僕を、如月更紗と遊ぶ僕を、如月更紗と話す僕を、変わらぬ笑みで見ている。  姉さんは、いつでもそうだ。  変わらない。  変われない。  死んですら、変われない。  僕の中で生きている限り――変わることは、ない。  僕は。  僕は姉さんに――何をしたいんだろう。  姉さんに、何をしてほしいんだろう。  死んだ姉さんに対して――僕は果たして、何を思っているんだろう。  そんな、はじめに考えておくべきことを、疑ってしまう。結論は分かりきっているはずなの に、分かりきっているそれを言葉に出せない。  ――迷っているんだろう。  何に迷うのか、分からないほどに。 「……なあ、如月更紗」  結局、僕は。 「今日帰りに、変な奴をみたぞ」  結論を出すのを――先延ばしにした。  答を、先送りにした。  それが何の意味もないと、知りつつも。  そんな僕の心中を、如月更紗の黒い瞳は見抜いていたのだろう。「そう」と頷くだけで、僕 に対して追及してこようとはしなかった。そのことに安堵しながら、僕は今日の昼、帰り道で 見た少年のことを思い出す。 「絶対暑いと思うんだけど、冬物のブレザー着てたんだよ。それだけでもおかしいけどさ、そ いつ、ぶかぶかのシルクハットを被ってたんだ」  他人から聞いた面白おかしな噂話を話すつもりで語った。  だというのに。  如月更紗の反応は――劇的だった。 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――冬継くん」  表情が、止まった。   声が、止まっている。  何もかもが抜け落ちてしまって、表情を浮かべることができなくなってしまったような貌を していた。見開いた瞳が、鏡のように僕を映している。  驚いて、いるんだろう。  僕もまた驚いていた。如月更紗が驚くということに、驚いていた。  驚きをまったく隠そうとしないまま、如月更紗は、震える声で言葉を紡ぐ。  決定的な、一言を、吐く。 「そいつは―――――――――――――にやにや笑いを、浮かべてはいなかっただろうね?」  にやにや笑い。  他人を嘲うような、からかうような、笑み。  にやにやと、そうとしか効果音のつけようがない笑み。  それならば、確かに―― 「……浮かべてた、な」  思い返せば、あの少年は終始笑っていた。僕を見て、如月更紗と手を繋いでかえる僕を見て 、にやにやと笑っていた。てっきりバカップルぶりを笑われていたのか、電柱にぶつかったの を笑われたのかと思っていたが……  それがどうしたというのだろう。  にやにや笑いくらい、誰だって浮かべると思うのだが。まあ、黒一色の姿ににやにや笑いと いうのは、確かに変ではあったけれど。  けれど。 225 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:29:06 ID:9yD2ehT5  けれど――如月更紗の反応は、今度こそ、劇的過ぎた。 「どうしてそれを言わないのよ!」  傍から見て退いてしまうほどの勢いで如月更紗が立ち上がった。反動でベッドの上に置かれ ていたチェス盤が撥ね、駒たちがばらばらと転げ落ちる。そんなことに如月更紗は委細構わず にベッドから飛び降りる。  化学反応のような反応だった。  劇的過ぎて、ついていけない。 「おい如月更紗、いったい何が――」  状況についていけず、問いかけた僕に。  如月更紗は、一言で答を返した。 「――チェシャだ!」 「チェ――シャ?」  意味が飲み込めず、意識せずに反復してしまう。如月更紗はベッドに置いていた鋏を握り、 しゃきんと、慣らすかのように一度鳴らした。 「そいつがチェシャなのよ!」  ――チェシャ。  不思議の国のアリスに出てくる、笑いだけが残る猫。  そして、それ以外の意味については、今朝説明を受けたばかりだった。  索敵と、警戒と、罠を担当する――狂気倶楽部の、『外』に対する役割。  番犬であるアリスを呼ぶための――呼び水。  闇に溶けるような服装をし、にやにや笑いだけを残す、悪趣味な猫。  つまり、つまりは――  間違いの無い、敵だ。 「昼に補足されたなら、今夜には間違いなくアリスが来る。今はチェックを受けてる段階。こ ちらの反応次第では、間違いなく詰まれるわよ」  鋏をもうニ、三度鳴らし、くるりと回して如月更紗は言う。鋏の遣い具合をチェックしてい るのだろう。……ということは、今夜あれを振うかもしれないということか。  狂った凶器にしか見えない鋏を見ていると背筋が冷えるが、敵でないだけ安心だ。屋上でや られたように、僕の首筋に添えられるということはないだろう。  問題は、如月更紗ではない。  問題はチェシャで――そいつが呼ぶ、アリスだ。  アリスが、やってくる。  敵が、やってくる。  けれど、それは。 「考えようによっては――これはチャンスか」 「……え?」  僕の言葉に、如月更紗は疑問符と共に振り返った。長い黒髪が宙を舞う。その毛先を目で追 いながら、僕ははっきりと告げる。 「僕の目的は、アリスやらチェシャやらを打破することじゃなくて――そいつらを押しのけて、 姉さんを殺したウサギと会うことなんだからな」  チェシャがどんなやつだろうと。  アリスがどんなやつだろうと。  あくまでそれは障害物に過ぎない。僕の目的は、姉さんだ。  そう、自分に言い聞かせるように、僕は言う。  如月更紗はそれでもしばらく沈黙していたが、やがて、ふぅ、とため息をついた。 「仕方がないわね――」  その後、如月更紗が何と言おうとしたのか。  知る機会は、永遠に失われた。  次の瞬間に――  ピンポーン、と。軽い電子音が、家の中に響いたからだ。 226 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:30:10 ID:9yD2ehT5 「…………」 「…………」  一瞬で――場に緊張が満ちる。  タイミングが、良すぎる。  まさか。  まさかこのタイミングで、正面から堂々と、アリスが――  その杞憂もまた、次の瞬間に破られた。  どんどんと、どんどんどんどんと、荒々しく扉が叩かれたからだ。そして、扉を叩く音に被 せるようにして、どことなく間の抜けた声が聞こえる。 「里村くぅん――! あけて――! お願い――!」  半分泣いてる、女性の声だった。  聞き覚えのある、女性の声だった。 「……なんだ、神無佐奈さんか」  胸をなでおろし、僕は窓の方を向いて油断なく鋏を構えていた如月更紗を見る。  ――裸に鋏。  どう間違っても、この姿を見られたら、この家から出ていかなくてはならない。 「……如月更紗」 「何?」 「ちょっと対応してくるから、この部屋で待ってろ」 「でも――」 「知り合いだから大丈夫だ」  あまり問答している時間はなかった。話している間にも、どんどんという音と、泣き声は二 階にまで届いてくる。神無佐奈さんは非力だからドアは壊れないだろうが……その前に拳が壊 れるんじゃないだろうか。  一方的に言って、僕は如月更紗を置いて一階へと降りる。その間にも、ドアはどんどんと鳴 っていた。 「はいはい、今出ますよ――」  言って、ドアをがちゃりとあけると、 「あ。」  ドアを叩こうとしていた神無佐奈さんが、バランスを崩して、僕の胸に飛び込んできた。  どん、と少し重い感触。如月更紗の軽い体と違って、神無佐奈さんは、実の娘である神無士 乃と同じように女性的な体つきをしていた。回りくどくない言い方をすれば、胸に大きな重り が二つあるせいだろう。  ぶつかっても痛くないのは、その重りのおかげだが。 「……どうしたんですか、こんな夜中に」  夜中に――というほど夜でもないが、日が暮れてから、こんな風に神無佐奈さんがきたこと はなかった。神無士乃ならばこんな来客もおかしくはないが――いくら幼く見えるとはいえ、 神無佐奈さんは立派な大人であり、母親だ。そこまで常軌を逸したことをするとは思えなかっ た。  しかし……  本当に幼いな。胸の中にすっぽりと収まる身長といい、制服を着れば学生にしか見えない顔 といい。本当にこの人、母親なのだろうかと、たまに疑ってしまう。今はゆったりとした私服 にエプロンをつけているおかげで、かろうじて家庭的な人に見えた。  神無佐奈さんは、「はわわ」と慌てて僕から離れ、裾で涙を拭った。  本当に泣いてたのか。  涙を拭った瞳で、神無佐奈さんは僕を見上げて言う。  「あのね、士乃ちゃんが帰ってこないの。冬くんのところにいるかと、佐奈さん思ったんだけ ど」 227 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/02/02(金) 23:31:22 ID:9yD2ehT5 「――神無士乃が?」 「冬くん。士乃ちゃんのこと、呼び捨てにしてもいいんだよ? そんな他人事みたいに言わな くても――」 「いや、そんなことはどうでもいいですから。――神無士乃が、帰ってきてないんですね?」 「え、うん、そう」  こくこくと、勢いよく神無佐奈さんは首を縦に振った。 「学校からまだ帰ってきてないの。冬くん、いっつも一緒帰ってきてるから、そっちの家に行 ったんじゃないかなって、佐奈さん思ったの」 「いや――」  言葉に詰まる。  今日は、僕は神無士乃とは一緒に帰ってきていない。  いや。  正確に言えば。  今日は、初めて――神無士乃と、一緒に帰らなかった。  帰れなかったことは幾度かある。ただしその場合は、あらかじめ連絡を入れていた。連絡な しで帰れなかった場合、神無士乃は犬のように、忠犬のように坂道で待っていたから、結局遅 くはなっても一緒に帰っていた。  けれど。  今日、初めて――僕は、神無士乃よりも、早く帰った。  神無士乃との、約束を、破った。  いつも繰り返していた日常を――僕の方から、破ったのだ。 「まさか……」  頭の中に浮かぶ想像は最悪なものだ。  ――神無士乃は、今もあの坂道で、僕を待っている。  一度思い浮かんでしまえば、それは、取り消すことのできない事実に思えた。  今朝見た、神無士乃のあの姿。  あの神無士乃ならば――たとえ一晩だって、あそこで待っているだろう。  チェシャやアリスが徘徊する町で――僕の知り合いである神無士乃は、ずっと、そこで無防 備に立っているのだろう。  僕を待って。  僕を、信じて。 「……くそ!」  思わず、悪態をついた。それは神無士乃へと向けたものではない。彼女の優先順位を低く見 すぎていた僕に対するものだ。声をかけることくらい、できたはずなのに。  夕方一緒に買い物に行こうと――約束していたのに。 「神無佐奈さん」  僕は神無佐奈さんの横を通るようにして靴を履き、つっかけながら外に飛び出る。  夜の街は暗く静かだ。遠くで月が輝いている。街頭の光が、頼りなく街を照らしている。  この先に、きっと神無士乃は待っている。 「……迎えに行ってきます」  今からでも、遅くない。  謝るには、遅くはない。  神無士乃を――迎えに行こう。  僕は迷わずに、全力を持って、夜の街へと駆け出した。  そこに何が待ち受けているのか、知らぬままに。

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