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408 :儀式観察――中篇―― [sage] :2008/07/31(木) 23:26:52 ID:t7Uf4dDU  椿姫玲は笑わない。  自分の知る限り、生徒の中で椿姫先生が眼鏡を外したのを見たことがない。  感情を顔に出すことがないから喜怒哀楽が分からず、近寄り難い雰囲気のせいもあってか 周囲の評価はあまりよくない。一部の生徒達からは『鉄仮面』とも『アイアン・メイデン』 とも呼ばれている。担当教科は数学。  美人ですらりとした体型で、モデルにも芸能人にも見えるが、自分の中では社長秘書が一番しっくりくる。  いつも白いシャツに黒いスーツという服装で、ストッキングもヒールも黒一色。  切れ長の瞳に縁無しの眼鏡。化粧が薄いから元の顔が綺麗で整っていることがよく分かる。  キリッとした印象はできる女とも、クールな女性とも思わせるが、それ以上に冷淡さを感じさせる。  授業以外でも必要なこと以外は口にしないという、口数の少なさもその印象に拍車をかけている。  椿姫先生の誰にも見せない顔を知っているのは恐らく自分だけだろう。  一方の久我はなんというか――変な男だ。  芸能人のように格好良いわけではなく、かといって不細工という部類でもない。しかし、第一印象は 誰が見ても「良い男」という。自分の評価を抜きにして一般的に見ると上の下といったところか。  スポーツが好きらしいが、部活には入っていない。中学時代はバスケ部だったらしい。  髪型はしょっちゅう変わるが、不思議とどれも似合っているように感じる。今は少し短くした髪を 茶色に染めてワックスでいじくっている。鏡の前で髪をわしゃわしゃと弄くっている姿が目に浮かぶ。  どんな相手にも良い印象を与える不思議なところがあり、どこか憎めない。おかげで授業中に居眠りをしても 教師怒鳴られることはない。毎回「久我だからしょうがない」で済んでしまうのだ。  人当たりが良い性格と、温かそうな雰囲気のおかげで男女共に友人が多い。  授業中によく居眠りをしたり、授業をサボったりする事が多いが成績はそこそこ良いらしい。  人望もなく、友人も少ない自分としては少し、いや、けっこう羨ましくも腹が立つタイプの男だ。  先生と久我――対極の二人だが、二人の関係はなかなか見ていて気持ちが良いものだった。  久我は椿姫先生の授業に関してだけは何故か居眠りをしない。それどころか、授業中はおろか授業が 終わった後に、授業で分からなかった所を聞きに行くのだ。  あまり関わりあいたくないと思って近づかない生徒が大半の中、久我だけは普通に接しようとする。  まあ、冷静に考えれば、数学が苦手で毎回赤点ギリギリの久我が、ただ必死になっていただけなのかもしれない。  椿姫先生にとっての久我がその時どう映ったのかはわからない。しかし、久我が聞きに来るときの 椿姫先生の表情は、少し柔らかく感じていたのが記憶に残っている。  例えて言うなら、手間のかかる猫を世話する飼い主というか、出来の悪い子を躾ける母というか、 自分から見た二人はとにかくそんな感じだった。  教師と生徒の友好な関係――クラスの中でも、他のクラスでも、久我と椿姫先生の噂が立つのに そう時間はかからなかった。 409 :儀式観察――中篇―― [sage] :2008/07/31(木) 23:28:33 ID:t7Uf4dDU  儀式を観察し始めてしばらくが経ったある日、久我に彼女が出来たという噂が聞こえた。  噂の出所は不明。しかし、久我は否定することなく、そして相手が誰であるかもすぐに判明した。  隣のクラスの遠峰晶(とおみね あきら)。  彼女は才色兼備の美人として有名だ。噂ではかなりのお嬢様らしい。  今時にしては珍しく大和撫子を感じさせる印象で、おしとやかで静かな雰囲気を持っているからお嬢様 といった印象を与えるのだろう。  そんなお嬢様と久我が付き合っている――噂はその日のうちに瞬く間に校内に広がった。  きっかけは? いつから? どっちから告白を?   昼休みの食事中、クラスメイトからワイドショーのリポーターのような質問攻めを受けている久我の ところに椿姫先生がやって来た。  椿姫先生の表情は普段と変わらない。だが、その雰囲気から内面恐ろしいくらい怒っていることが はっきりとわかった。  クラス中の注目が集まる中、椿姫先生は久我の前に来ると、しばらくの沈黙の後、何かを 押し殺したかのような声で「あとで生徒指導室に来るように」と言って帰っていった。  椿先生が教室から出た後、クラスの皆は呆気にとられ、久我は困ったような顔をしていた。  結局、久我は生活指導室には行かなかった。本能的な恐怖を感じて逃げたのかもしれない。  昼休みが終わるのを待たずして、久我はこっそりと帰ってしまった。  昼休みの間、生徒指導室の中で椿姫先生はずっと待っていたようだ。昼休みが終わる前にこっそり様子を 窺いに行くと、椿姫先生は般若の如き形相だった。  表面は冷静を保っているつもりなのだろうが、目はつり上がり、口元は怒りを堪えるために歯を 食いしばっているのか固く結ばれている。こんな表情の椿姫先生を見るのは初めてだった。  生徒指導質の中をぐるぐると歩き回り、椅子に座ってもしばらくもせずにまた立ち上がって歩き回る。  いつもの冷静沈着な椿姫先生の面影はどこにもない。落ち着かない様子でせわしなく動いている。    多分先生は、久我を生徒指導室に呼び出して、別れるように言うつもりだったのだろう。  先生の気持ちに気付いている私には分かっている。  先生がどれほど久我のことが好きなのかを。どれだけ愛しているのかを。  恋というよりも、愛という表現があっている。  狂おしいほど、病的なほどの愛。本当に人を好きになった人の感情は熱く、暗く、そしてドロドロとしている。  激しい恋愛をしている女性には修羅が宿る――昔読んだ小説に書いてあったのを思い出した。  なるほど。だとしたら、椿姫先生はとっくの昔に修羅になっていたのかもしれない。  椿姫先生に気付かれないようにそっと生徒指導室から離れ、教室に戻りながらこれからのことを考える。  椿姫先生と久我のこと。久我と遠峰晶のこと。椿姫先生と遠峰晶のこと。  いくら考えても想像ができない。この三人の中に自分が入り込むことはない。関わることもできない。 それどころか最初から関わる気はない。これは三人の問題であって、自分はただの観察者なのだから。  予測の出来ない事態は流れに身を任せるしかない。下手に逆らうと溺れてしまう。  ふと、変な疑問が頭をよぎった。馬鹿馬鹿しい疑問。家で飼っている熱帯魚が頭の中で泳いでいる。  ――魚は溺れることがあるのだろうか? 410 :儀式観察――中篇―― [sage] :2008/07/31(木) 23:29:57 ID:t7Uf4dDU  次の日から、久我と椿姫先生の関係は崩れ始めた。  険悪な雰囲気を身に纏うようになった椿姫先生の授業は、常に緊張感に包まれることになった。  何度もチョークをへし折る椿姫先生を見ていると、どれだけ機嫌が悪いのかがよく分かる。 黒板の字も普段とはうって変わって汚く乱暴になっているし、久我の席の方向を見ようともしない。  いつもと違う椿姫先生に、クラスは異様な雰囲気に包まれることになった。  久我も先生の様子に気づいているのか、黒板に書かれた数式をノートに写すだけで、先生への質問をしなくなった 。  授業のペースは上がり、時にはついていけなくなるほどになった。先生に何かを言おうにも、 反応が恐ろしくて誰も言うことができない。必然的に予習をしなければならなくなり、授業が終わると クラス中では分からない所を教えあう光景が至るところで目につくようになった。  あれから遠峰晶は久我に会いに来ることはなくなった。その代わり、久我のほうから出向くようになり、 休み時間や昼休みに教室で久我を見ることは極端に少なくなった。  今まで久我と一緒にいたクラスの男子は羨ましそうに久我をからかい、久我もまんざらではなさそうな顔で 笑っていた。  私は弁当を食べながら思う。久我は先生の視線に気づいているのだろうか。  椿姫先生の授業が終わると、クラス全体が安堵したように大きく息を吐く。肉食動物から逃げ切った 草食動物の心境とはこんな感じなのだろうか。  いつまでこんな辛い状況が続くのだろう。クラス中にはそういった絶望感にも似たものが流れ、そもそも どうしてこんなことになったのかという疑問が囁かれだした。  ある女子A曰く、付き合っている男に振られたのではないか。  ある女子B曰く、生理が来なくて苛立っているのではないか。  ある男子C曰く、久我を遠峰に奪われて怒り狂っているのではないか。  ある女子D曰く、クラス全体の成績が下がり、学年主任に叱られているのを職員室で見た。  ある男子E曰く、体育教師の田村からのセクハラで精神的に不安定になっている。  いろんな憶測が飛び交い、やがて噂になり、その噂には背びれや尾ひれがついてくる。  数匹の立派な魚になった噂は、やがてクラスを飛び越えて学校中を泳ぎ回りだした。  数匹の魚は生徒の口から吐き出されて別の生徒の耳に飛び込み、そして口から出て行くときには 大きく成長していく。魚は口から出て行くたびに成長していく。想像したらちょっとしたホラーだ。  しかし、ある男子のC君。君が冗談で言ったのであろう憶測は間違っていない。だが、先生の怒りが どれほどのものかまでは君も想像できまい。君の発言を先生が知ったらどうなるかわからないぞ。 411 :儀式観察――中篇―― [sage] :2008/07/31(木) 23:31:29 ID:t7Uf4dDU  暗くどんよりとした厚い雲が空を覆い、湿気とむし暑さで校内中の自動販売機は売り切れ続出になった。  つい先日までの快適な環境から拷問のような日々。先生の機嫌が悪くなって10日目の夜。  久我と遠峰の関係が公になったあの日以来、先生は毎日のように儀式を繰り返していた。  儀式の時間は日に日に長くなっていき、先生の行為もエスカレートしていった。  たまに目を覆うようなこともやってのけ、今までは使用していなかった道具まで持ち込んでの儀式は 私の好奇心を激しく刺激した。時には私も先生を観察しながら自慰を行ったが、それは好奇心旺盛な 成長過程の学生の衝動的な行動であって、けして自分がいやらしいとかそういうわけではないのだ。  その日も先生の儀式は遅くまで続いた。ちなみに、見廻りに来る教師が現れることは今まで一度もなく、 忘れ物を取りにやってくる生徒も一人も来たことはない。多分運が良かったのだろう。もし現れたときには 自分が物音を出して先生に知らせ、それから逃げようと考えていた。これでも足の速さには自信がある。 陸上部に誘われたこともあるのだ。  儀式が終わり、全身の力を抜いて久我の机にもたれ掛かる先生を見ていると、今までと少し様子が 違うことに気がついた。  机の上に両手を乗せ、その上に顔をうずめているのだが、ときおり肩を揺すっているのだ。  教室の中から聞こえてきたのはすすり泣く声。  耳を凝らして聞いていると、かすれた小さな声で「どうして……どうして……」という声が聞こえてくる。  蚊の鳴くような小さな声。耳を澄ませないと聞こえないほどの小さな声だが、聞こえてくるその声は 痛々しく、胸に小さな針を刺されているかのよう感覚がした。  嗚咽を漏らしながら、その声はひたすら同じ言葉を繰り返す。 「どうして……どうして……どうして……どうしてよ……どうして私じゃないの……? どうして あんな女なんかを選ぶの? 私の方が晃を愛しているじゃない……」  深い悲しみが声になって教室に響く。消え入りそうな声はしかし、呪詛のようにも聞こえる。  長い旅をしてきた旅人が力尽きて倒れ、水を求めて呻くような、今にも死にそうな声。 (ああ、この人は弱いんだ。誰も気付いていないだけで、この人は誰よりも心が弱いのかもしれない)  今にも崩れ落ちてしまいそうなその姿を見て、私はやっと気がついた。  どうして今まで気がつかなかったのだろうか。先生を見ていれば一目瞭然じゃないか。  弱いからこうして毎晩自分を慰めているんじゃないか。  弱いから素直になれずに、一人でこんなところでこんな事をしているんじゃないか。  弱いから、自分の心を守るためにこんなことを―――。 412 :儀式観察――中篇―― [sage] :2008/07/31(木) 23:34:00 ID:t7Uf4dDU  普段は誰も気がつかないだろう。もしかしたら、先生自身も気がついていないのかもしれない。  勇気があれば、久我に自分の気持ちを伝えることもできる。  心が強ければ、身分違いの恋を胸に留めて諦めることもできる。  それなのに、勇気がないからどっちもできずに諦めることもできないから、こうしてここで泣いている。  しかし、私にはどうすることもできない。私はただ、先生を――儀式を観察しているだけの人間なのだから。  ただの傍観者――手助けをすることはすなわち、私の存在を先生に教えることになり、この観察が 終わることを意味する。そして、それは私が先生を観察していたことも知られてしまうこと。  私にはどうすることもできない。先生を慰めることも、先生の恋を手助けすることも。 (なんだ、結局弱いのは私も一緒じゃないか)  軽い自己嫌悪に目眩がしそうになる。私も先生とある意味同類だ。先生のことをとやかく考える 権利も資格も持ち合わせていない。  ふと、教室からすすり泣く声が聞こえなくなっていること気がつく。  先生の様子をこっそり窺ってみると、先生は窓の方を向いて立っている。  窓からは月の光が差し込み、先生の後ろ姿がぼんやりと光って見えた。  先生の長く細い影が床に伸び、それがまるで禍々しいものに感じる。全てを飲み込んでしまいそうな 漆黒の影は、べったりと床と机に張り付いている。  ふいに、小さな声が聞こえた。 「――ふふふ、ふふふふふふ……」  肩を小さく揺らし、先生が笑っている。 「ふふっ、うふふふ。な~んだ……こんなことに気がつかなかったなんて……。ほんと、どうしてこんな簡単な ことに気がつかなかったんだろう……」  今までとはまったく違う様子に、背中の肌全体が粟立つ。  なにがそんなにおかしいのか、なにがそんなに楽しいのか――先生の声は無邪気な声で、どこか異質な ものにしか聞こえない。  嬉しそうな、楽しそうな、おかしそうな声。少女のような声で、先生は言葉を紡ぐ。 「そうよ、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかしら? 本当に馬鹿だわ、私って……。 どうして我慢していたのかしら。私が早く晃に気持ちを伝えていればこんなことにはならなかったのよ。 別に我慢する必要なんてないじゃない。晃も私も気持ちは同じなんだから……。晃が悪いんじゃないのよ、 悪いのは全部私とあの女よ。いえ、私はそんなに悪くないわ。……うん、そうよ、悪いのは全部あの女。 あの女が悪いのよ。私と晃の間に割り込んできて、私の晃を誑かすなんて……。本当に許せない」  冷たい汗が流れ、心拍数が跳ね上がる。粟立った背筋に重くて嫌なものが圧し掛かる。  先生の呟きが聞こえなくなり、嫌な沈黙が流れる。海の底に沈んだとしても、こんな沈黙は感じないだろう。  軽い頭痛と吐き気を感じだした頃、やがて、先生の口から呟くような声が聞こえた。 「――あの女が消えれば、晃は気がついてくれるかしら? それとも、私が教えてあげれば良いのかしら?」  宵闇よりも深い闇。全てを飲み込んでしまいそうな暗黒。淡い月の光が頼りなく教室を照らしている。  昼間、空は厚い雲に覆われていたことに気づく。外に出て空を見上げれば、星が見えるかもしれない。  くすくすと笑う先生の声だけが、教室に響き渡った。

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