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139 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:42:39 ID:APrSEPmV 「お兄ちゃぁぁん…はぁ、はぁ…待ってよぉ」 人の姿もまばらで、時折ジョギングをしている老人ぐらいしか見かけない早朝の静かな通学路。日差しは柔らかくあたりは涼しげな空気に包まれていた。  その静寂を打ち破るかのような幼い声と駆けてくる足跡。 そんな声はまるで聞こえないかのように爽やかな景色の中を変わらぬペースで歩いていた。 「お兄ちゃん…歩くの早すぎるよぉ…はぁ、はぁ…もっとゆっくり…歩いてよぉ」 漸く追いついた妹の藤岡夏海はまるでマラソンを終えた後のように額から汗を流しながら、俺の顔を見上げるとにっこりと笑いやがるのだった。 「わざわざ走ってくる必要ないだろ。お前は別に急ぐ理由とかないだろ」 「はぁ、はぁ…だって…だって…」 こいつは昔からこうだ。親父が5年前にいなくなってからはそれこそ忠犬のように俺に付きまとってくる。俺の歩幅に追いつくために早足で歩いてくる。 そして俺と視線が合うとまるで散歩に連れて行ってもらって喜ぶ犬のようににっこりと笑いやがる。 「なぁに?お兄ちゃん」 「なんでもねぇよ」 何故だかこいつに微笑まれると胸の中がざわつく。こいつの笑顔が眩しければ眩しいほどいらいらする。 「おっ!夏海ちゃん、今日も早いねっ!」 バシン!!と俺の背中を平手で叩きながら、夏海に爽やかな声をかけているこいつは小泉八雲だ。 「てめぇ…毎朝毎朝ご苦労なこったな。」 「を、春樹もいたのかい?それは気がつかなかったなぁ」 「八雲先輩。おはようございます。」 「おはよう、夏海ちゃん。今日も可愛いね。」 「八雲先輩こそ、今日も元気ですね。」 「はっはっは、僕は元気だけが取り柄だからね。」 「そんなことないじゃないですか。昨日も1年の子にまたラブレターを貰って聞きましたよ。八雲先輩って1年の女子の間で人気があるんですよ?」 「はっはっは、そういう夏海ちゃんこそまた付き合って欲しいと告白されそうじゃないか。確かバスケ部の早瀬だったかな?」 「ど…どうして知ってるんですか?」 「ふふふ、僕の情報網を甘く見てもらっては困る。まぁ、種を明かせば早瀬から夏海ちゃんを紹介してくれと頼まれたのでね。だが、安心したまえ。きちんと断っておいたよ。」 夏海は少し困ったような表情でちらっと俺の顔色を窺うように見上げる。 くそったれ…確かにこいつは可愛い。 兄である俺が言うのもなんだが、いわゆる美少女というカテゴリーに属しているといっていいだろう。 昔はよく近所の悪がきどもがこいつをいじめやがったんだが、それもある意味あいつらの子供っぽい愛情表現だったのかもしれないとさえ思える。 実際、中学に入るようになって奴らの態度は変化し、ガキっぽい嫌がらせをするような奴はいなくなっていたが、 今度は夏海に付き合ってくれと告白するようになりやがった。 140 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:44:59 ID:APrSEPmV 「まぁ、もっともその様子だとまた断ったみたいだね。」 「え…、あ、…はい……」 夏海は こくん とまるで子犬のように押し黙ったまま頷いた。 「紹介を断った僕が言うのもなんだけど、早瀬は悪い男じゃないと思うんだけどね。 容姿はもちろん性格だって悪くない。スポーツも出来るし勉強も学年上位を常にキープしているし、 憧れている女子の数もそれは少なくないだろう。」 そういうお前だって性格以外は早瀬に負けてないだろうが… 道端の石を蹴りながら、小泉八雲という男の横顔を見る。こいつはまさに男版  「立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百合(ゆり)の花」 を地で行く奴で、男ながらに美人とはどうなんだと思うのだが そういう表現がしっくりくるんだから仕方が無い。もっとも、こいつの場合は黙っていればという条件がつく。 そう、こいつはとにかく女癖が悪い。二股どころか俺の知る限り六股をかけていやがる。いつか刺されるぞ…と思うのだが、 なぜかこいつの周りは殺伐とした雰囲気はない。それはこいつの能天気な性格によるものなのか、 複数の女性と同時に付き合っていることをこいつは隠さないからなのかは不明だ。 「僕は君だけを愛すことはできないけどそれでもいい?」 こいつの身勝手な回答は今では当たり前になっているが、一年の頃は、それは騒がしいものだった。それは二股をかけられることに耐えられなかった女子が泣き喚く光景なのだが、その結果今の六名に絞られていくための通過儀礼のようなものだったように思う。 だから、二年の頃には小泉八雲に告白するというのはハーレムへの参加が前提になっているという情報は学内に知れ渡っていたのだ。  しかし、こいつの奇妙なところはそんな状況になりながら同学年の男子にさほど嫌われていないという点にあった。こいつの人懐っこい性格と妙な付き合いのよさ 「あ、今日は春樹達と帰るから先に帰っておいて」 と、男友達を優先して付き合っている女たちを先に帰すのはよくある光景だ。こいつは男友達との用事を何よりも優先する奴だった。そして遊びに行くときは八雲の取り巻きの女たちが カルガモ親子のようにくっついてくるのだが、八雲と付き合う女たちは八雲だけにべたべたすることをせずに満遍なくみんなと仲良くできるような奴ばかりだった。 中には八雲と別れてそいつと付き合い始めるような奴もいたが 「僕は去るものは追わず、来る者は拒まずだからね」 こいつに何事もなかったように平然と言われると何故だかむかっとくる。 141 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:46:32 ID:APrSEPmV 「誰か好きな人でもいるのかい?」 はっと、顔を上げて二人をみると、八雲のにこやかな笑顔と夏海の微かに赤らんだ表情とちらちらと俺の様子を窺う様子が目に入った。 「それは…いますよぉ………内緒ですけど。」 さらに耳まで真っ赤にし、指遊びをしながらそんな風に答えやがった。何故だか冷や汗が出る。くそっ…くそ…なんでこんなに胸がざわつくんだ。 「あははは、夏海ちゃんってわかりやすいなぁ。」 八雲は細い目を更に細め、何がおかしいのか俺の肩に手を置いて腹を抱えて笑い出した。 「ふん…付き合ってられるかよ。」 二人を置き去りにして早足で歩き始める。 「あ、お兄ちゃん、待ってよぉ…」 「はっはっは。おいおい、待ってくれよ。」 俺はそんな二人の声を無視して一人学校に急いだ。 くそ、今日は朝からついてないぜ。 まったく世の中って言うのは不条理に満ちているもんだと思う。 夏海や八雲に比べると俺の顔は贔屓目に見ても10人並。成績は中の下。唯一運動能力だけは人並み以上にあるが、それも子供の頃から続けている拳法と筋トレのおかげだ。 何気なく教室を見渡すとざわざわと喧騒が漂っており、そしていつものことだが何故か自分の周りの空間だけが一種の空白地帯になっているのを再確認する。 「おや、どうしたんだい?ずいぶんと疲れてるみたいじゃないか。」 そんな領域に無造作に立ち入ってくるのは、何も考えていない能天気な八雲だけだった。 「うるさい。朝のバイトで疲れてるんだよ…いちいち話しかけるな。」 「あっはっは、なるほど。貴重なHRまでの睡眠時間を邪魔しちゃってるのかな?」 「ふん…わかってるなら寝かせてくれよ。頼むから。」 「了解した。じゃぁ、手短に言うけど…」 にやり、と意味ありげな笑みを浮かべ 「春樹は彼女をどうしてつくらないんだい?」 八雲は珍しく真剣な表情でそんな突拍子もないことを言いやがった。 「親友の僕としては心配するわけだよ。ほら、僕たちは健全な青少年なわけだからね。恋の一つもするものだろう?なのに、 君といったらストイックを通り越して人と接することを拒んでいるようにさえみえる。 まぁ、君のことだからまさかとは思うが僕のことが好きで一途に貞操を守り通しているとかそういうことはないよね? いや、もしかしてそうだったのかな?それなら春樹…早く言ってくれればいいのに。僕も春樹のことを…」 「それが遺言でいいのか?」 「あははは、まぁ冗談はさておき、どうしてなんだい?」 「…さてねぇ、あいにく俺はお前と違ってもてたことがないんでね。」 142 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:48:36 ID:APrSEPmV 「それは嘘だね。まぁ、我が妹の真剣な告白をカウントしていないならそうかもしれないが、君は断ったそうじゃないか。」 「………」 「君は香住に今は…付き合えないと言ったと聞いている。おっと、頼むから香住を責めないでくれよ?僕が無理やり聞きだしたんだからね。」 「………」 「いやいや、まぁ、香住は我が妹ながら出来た妹だと思うのだよ。身体の方はまた発展途上中だがあと2年もすればあれは美人になるぞ。僕が保障しよう。」 「そんな保証いらねぇよ。」 「まぁ、そう言うな。簡潔に言えばそんな可愛い妹が泣いて帰ってきたのだ。兄として何とかしてやりたいと思うのは当然のことだろう?」 「………」 「真面目な話だが、君は僕が兄だからといって香住と付き合えないと言う様な男じゃないことは僕が一番よくわかっている。 まぁ、君が特殊な趣味でないこともわかっている。 もっとも別に好きな相手がいるわけでないこともわかっている。そうでなければ、君は香住に「今は…」なんて言い方はしないだろう? 僕はそれが君にとっての現在における最上級の好意を示す言葉だと理解しているんだが…違うかな?」 「…何がいいたい。」 「端的に言おう、君が香住と…いや、別の女性とでもだ。付き合えないのは夏海ちゃんが原因なのかい?」 まるで名探偵のように、確信に満ちた眼差しで八雲は問い詰めてくる。こいつは別に俺の答えなんかを待っていない。こいつは確信して…いや、おそらく知っているのだろう。 知った上で俺にあのことを喋らせようとしている。その程度はわかる。 「どこまで…知ってやがる」 「そんなに怖い目で見ないでくれよ。僕は何も知らないんだよ。ただ、ある程度の予想はついているというだけなんだ。 もちろんこのことは誰にも言っていないし、今後も誰にも喋る気もない。もちろん香住にもだ。」 「………」 「君の反応を見るに夏海ちゃんが君に近づく女を許さないという噂はどうやら本当のようだね。 もっとも最近では君自身が敢えて女性を遠ざけているため、問題は起きていないというのが実情なようだけど…」 こいつも…そしてこいつの妹の香住ちゃんも恐ろしく鋭い。嘘をつけない相手に隠し事をしようと思えば沈黙しかない。だが、こいつや香住ちゃんはこっちが黙っていても心の中を見透かしたかのように理解しているように感じる。 143 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:50:08 ID:APrSEPmV 「わかりました…今は待ちます。私…先輩の言葉を信じてますから…」 そんな風ににっこりと微笑んだ香住ちゃんがあの後泣いていたのか…。 ちくりと胸が痛む。八雲の妹であるというのに香住ちゃんは兄とは違い、いや外面的には兄と同じく美人という形容以外が当てはまらないのだが、性格的な部分では兄とは大きく異なり、とても真面目な性格だった。 「私…心に決めた方がいるんです。…本当にごめんなさい。」 彼女はそういって数多くの同級生、果ては上級生からの告白を断り続けていた。 そして、その数が増えるたびに囁かれてきた噂 「本当にあの子好きな人いるのかしら?」 「さぁ?断るための口実なんじゃないの?」 「ふん…もったいぶっちゃってさ…何様のつもり?」 「男子もあんなのに騙されちゃってさ、みっともない」 「でも、あいつの好きな奴ってさぁ、案外…お兄様…だったりして」 「え~!禁断の兄妹愛?」 「私…お兄様のことが…、香住…僕も君のことが…ってあはははは、やばすぎるよね~」 女の陰口ってやつはどうしてこう陰湿なんだよ、と俺の握り締める拳が放たれる前に 「はっはっは、香住は確かに君たちと違い可愛い妹だが、残念ながら君たちと同じく僕の恋愛対象にはなりえないんだよ。」 まるで影の中からでも現れたかのように突如そこに現れたのは八雲だった。 その時の女どもといえば顔は引きつり、あの…とか、その…とか言い訳にもならない日本語を音飛びしたCDのようにただ発するだけだった。 だが、その誰もが八雲から視線を逸らしてはいなかった。 まるで逸らしてはいけないと知っているかのように… 八雲はほんの…ほんの一瞬だけ、俺の方に視線を向け 「それに香住には昔からの想い人がいるのだよ。なにせ僕とは違い控えめな性格だ。複数の愛を許容するほど器用な子じゃないのだよ。わかったかい?君たち」 普段から綺麗な顔のあいつだが、敵意をむき出しにした時のそれはさながら死神の死刑宣告のようだ。傍からみればいつもの笑顔だがその眼が笑っていない。 その眼は殺意を隠していない。 これは最後通告だよ?と、聞こえないはずの幻聴まで聞こえるようなあいつのあの目を見て逆らえる奴などいないだろう。 「動くと殺すよ?」 と、宣告されたにも拘らず動いてしまい、その手に持った凶器の餌食になった死体の隣で更に抵抗しようと勇気を振り絞れる奴がいるだろうか?目を逸らすことができるだろうか? 「言ったよね?殺すって」 そいつはどうでもよさげな顔で躊躇いなく殺した死体の前でそんなことを平然と告げる。 あいつはそういう奴なのだ。香住のためなら人を殺すことさえ厭わない奴なのだ。 それが俺にはわかる。あいつはそういう種類の人間なのだ。 「わかってくれたみたいだね。よかった。わかってもらえて…」 そんなにこやかな笑みを浮かべ、女どもなど最初からいなかったかのように俺のほうに向き直りゆっくりと歩いてくる。その表情はいつもの八雲に戻っていた。 女どもは今日のことを記憶の片隅に封印してしまうだろう。人に話すことなどおそらく考えまい。今、沈黙を代償に生きる権利を得た奇跡を喜ぶのであれば 沈黙と忘却以外の選択肢はあいつらには選べないだろう。 144 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:52:46 ID:APrSEPmV そしてある日の放課後、香住は俺に告白してきた。 そしておれはその告白を断った。 その理由は八雲が推察するとおりだ。 夏海は俺に女が近づくことを許さない。 夏海は可愛い俺の妹だ。 だが、たった一つだけあいつがおかしくなるキーワードがある。 それは俺だ。 親父がいなくなってからの夏海は夜に一人でいると情緒不安定になった。 ある夜、俺が家に帰ると目に入ったのは荒れ果てた家の中だった。 泥棒でも入ったのか?そんな心配と同時に俺は夏海のことが気になった。 俺よりも先に帰っているはずの夏海の姿が見えなかった。 「夏海!どこだ!夏海!」 声を荒げて階段を駆け上り、夏海の部屋にノックもせずに飛び込む。 部屋の中は女の子らしい調度は少なく、相変わらず整理整頓が行き届いていた。そんなベッドの上に夏海の鞄を見つける。 …帰っている・・・ 微かな安堵とともに訪れる焦燥感。じゃぁ、いま夏海はどこに居るんだ…どこに… 「夏海!どこだ!いたら返事してくれ!」 俺は狂ったように家の中を探した。そして台所の片隅で怯えている夏海を見つけたのだ。 割れた食器が散乱している床。そしてその片隅にうずくまる夏海の姿… 「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい… ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい… ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」 小さくうずくまり、ただひたすらその言葉を繰り返す夏海。いったい誰に何に謝っているのか解らなかったが、 夏海はまるで壊れたラジオのようにただひたすらごめんなさいと繰り返していた。 その瞳は恐怖に彩られたまま虚空を見つめ、俺の姿も認識できていないようだった。 「大丈夫か?!夏海・・・しっかりしろ…!」 すぐさま傍に駆け寄り肩を抱きしめ、耳元で夏海に呼びかける。 「おにい…ちゃん?…」 呼んでいるのが俺だとわかると夏海は漸く安心したのか、迷子の幼児のように俺に飛びつき、 そして今度は「おにいちゃん」と言ってすすり泣くのであった…  落ち着いた夏海に訳を聞くと、 一人でいると何故だか怖いのだと…。 誰かが自分を見ているような気がするのだと… 俺がいるとその妙な視線は消えるのだと… 要領の得ない夏海の説明を俺は真剣に聞いた。 嘘をついているような様子はなく夏海は本当に怯えていたからだ。 そして夏海は俺から離れることを極端に嫌がった。 袖口をぎゅっと握り締め幼児のように駄々をこねるのだった。 そして最後には恥ずかしそうに、しかしすがる様な視線で俺を見上げて。 「ねぇ…一緒に寝ていい?」 そんなことを俺にお願いしてきたのだ。 だが、これは後から考えれば変な意味でもなんでもなかった。 夏海はその頃から夜は一人で寝ることさえ出来ない状態だったのだ。 その頃の夏海は寝るときも枕元に包丁を忍ばせており、 微かな物音に反応して包丁を手に起き上がっていたのだ。 145 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:54:49 ID:APrSEPmV 俺がそれを知ったのはある夜のこと。夜中に物音がするので夏海の部屋を見に行った夜のことだ。時間は深夜1時過ぎ。 なにやら夏海が叫んでいる。来るな・・・来ないでと。 俺はおそるおそるドアノブに手を掛け、隙間から中を覗いた。 ドン!! という、音とともに目の前の木製のドアに出刃包丁が深々と突き刺さる。 その先には壊れた瞳の夏海が…逆手で包丁をドアに突きつけた姿勢のまま 俺を見上げていた。そしていつものような口調で言いやがった。 「なぁんだ…おにぃちゃんかぁ…よかった…間違えて…殺しちゃうところだった。」 安心した様子でにっこりと笑った夏海は突如、まるで操り糸が切れた人形のようにその場に座り込む。 それと同時に冷や汗が額から溢れ出す。もう少しドアを開いていれば…もう1秒ドアを開くのが早ければ …もしも… …もしも… 頭を振り、そんな想像を頭から振り払う。 なにやってんだ…俺は… ドアを開き、手に包丁を持ったまま座り込んだ夏海の指に指を絡め包丁を奪い取る。 「お兄ちゃんを…殺しちゃうところだった…お兄ちゃんを…殺しちゃうところだった…」 瞳に涙が溢れるのと同時に夏海はようやく感情を取り戻したかのように俺に抱きつき泣きじゃくる。 「ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい…ごめんなさい…」 一体夏海は何をそんなに怖がっているのかは解らなかった。 だが、こんな夏海を一人にすることは出来なかった。 俺は夏海を抱きあげると自分の部屋に連れて行き、泣き続ける夏海にこう告げた。 「夏海。今日からは俺が一緒に居てやるから…ずっと一緒にいるから…それなら安心して寝れるか?」 こくん 夏海の小さなアゴが小さく頷く。 その日から俺は夏海と同じ布団で寝るようになった。 夏海はそれ以来、昔のように落ち着きを取り戻した…様に見えた。 なにも変わらない毎日。ありふれた日常。 夏海が家の中では今まで以上にべったりとくっついてくるようになった …それ以外は昔の平和な日常だったのだ。 「えへへへ…こうしてると、なんだか新婚さんみたいだね。」 そんな夏海の他愛の無い言葉も元気になった証拠だと俺は笑って眺めていた。 146 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 01:57:12 ID:APrSEPmV 「駄目~!絶対に駄目だからね!母さんはそんなこと絶対に許しませんからね!」 珍しく真剣な表情で大反対しているのは俺の母親…といっても義母の藤岡晶子だ。 そうだ。夏海は母さんの連れ子で俺と夏海は本当の意味での兄妹(きょうだい)ではないのだ。 その当時、母さんは親父がいなくなって昼だけでなく夜も働かなければならなくなっていたのだ。 その当時の母さんはどうみても10代後半にしか見えず…いや、今でも20代前半にしか見えないのだが 「当店は20歳未満の方はお断りしているんです。」 そう言われるたびに頬を膨らませて免許証を提示しなければならなかったそうだ。。 実際、俺も何度も一緒に買い物に出かけて姉弟(きょうだい)に間違われたもんだ。 そんな母さんも職が決まり、帰宅が深夜二時から三時頃、それから家事や家の片付けをする生活が始まっていた。 母さんが寝る頃には夜が明け始めているなんてことは珍しいことではなかった。 そんな母さんの姿に俺は母さんに学校を辞めて働くことを告げた。 母さんだけが苦労するのは筋が違うと思ったから。少しでも母さんの力になりたいと思ったからだ。 しかし母さんは俺の言葉を聞くや否や大反対したのだった。 俺がいくら食い下がっても 「なら、せめて高校だけは出ておきなさい。働きたいのならそれからでも遅くは無いから…ね?」 と、妥協案を示し、最後には 「母さんにもそれぐらい…親らしいことをさせて頂戴♪」 そしていつものようににっこりと微笑むのであった。 この微笑みは母さんの 「これ以上は絶対に譲らないからね?」 という意思表示で決して自分の意見は曲げないという決意表明なのだ。 そんな頑固なところは夏海にきっちりと遺伝されており、改めて二人が親子だと感じる瞬間でもあった。  結局、母さんを説得して中退して働くことをあきらめた俺は、せめて今の自分にできることをしよう。それからはじめようと考えたのだ。 「夏海、親父がいなくなった分、俺たちで母さんを支えるんだ。いいか?夏海。二人で家の事とか自分たちでできることはやっていこう。」 夏海はそれを聞くと目を輝かせ、俺の胸に飛び込みにっこりと笑った。 「うん、お兄ちゃんといっしょなら…夏海は頑張れるよ♪」 そういうこともあってから俺とあいつで家のことを見るようになっていた。 夏海が料理担当。俺は主に清掃担当。 夏海はそういった家事を喜んでやるようになっていた。朝は早くお弁当と朝ごはんを用意し、学校帰りに食材の買出しに行く。 それまで引っ込み思案だった夏海が家事をするようになってから元気になった様子に俺も安心していた。 夏海は家事をすることで自分に自信をもっていったように思える。 加えて夏海は努力家だった。料理も母さんに聞いたりするだけでなく、本を買い、メモを取り、めきめきとその腕前を上げていった。 「へぇぇ、美味いよ…これ」 そんな賛辞を送るたびに夏海はえへへと、照れくさそうに微笑んでいた。 夜、一人で寝られないのは相変わらずだったが、昔のような暗い影はなりを潜めていた。 そのうち、口癖もだんだんと母さんに似てきたように思える。 「お兄ちゃん。今日はスーパーで特売の日だから買い物に付き合ってね♪」 「もう、お兄ちゃん!胡瓜残しちゃだめじゃない!」 「お兄ちゃん。明日のお弁当楽しみにしていてね?」 そんなしっかり者になっていく夏海の様子に母さんも細い目を更に細めて 「あらあら、夏海ったら…これならいつでもお嫁さんにいけるわね♪」 「私…お嫁になんかいかないんだもん」 「あらあら、じゃぁ…お婿さんを取ってくれるの?」 「もぅ、お母さんったらぁ…早く御飯食べちゃってよぉ、片付かないでしょ!」 そんな平凡だけど暖かい日常がずっと続くと思っていたんだ。 147 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 02:00:06 ID:APrSEPmV 「ねぇ、春樹君。君の家に遊びに行ってもいいかな?」 気がつけば菊池裕子は俺の家の前に立っていた。 菊池裕子はその当時、同じクラスで学級委員長をしていた女の子で、特徴を一言で言えば男勝りな性格だった。 背は低く体重もおそらく軽い奴なのだが内側に秘めたエネルギーは永久機関を思わせるほどで 四六時中元気を辺りに振りまいているような印象を与える面白い奴だった。 また男女の区別なく友達の多い奴で俺もその例に漏れず菊池とは親しい友達付き合いをしていたといっていいだろう。 俺と菊池は単純にクラスで席が前後という以上の間柄ではなかったが、ただそれだけでしょうも無い話題で盛り上がっていた。 そんな菊池が俺の家の前に立っていた。 「って、なんでお前がここに居るんだよ」 「なんでって…ほら、前に言ってたじゃん。あの漫画読ませてくれるって。」 こいつは女のクセして少女漫画よりも少年漫画をよく読むような奴だった。 確かにそういう約束をしたような気もするがそれにしてもわざわざ家にまで来るか? と思ったが無下に扱うわけにもいかなかった。 「まぁ…いいけどさ」 「そっか、それじゃぁお邪魔しまっす♪」 って、もう入る気満々かよ…と、突っ込む間も無く菊池は我が家に足を踏み入れていた 「んじゃ、取ってくるから大人しく待っててくれよ。」 「了解っす。大人しく待ってるから。」 にこりと愛嬌のある笑みで頷くと大人しくソファーに座り麦茶をストローで飲む菊池。 初めて女友達を家に招き…いや、招いてはいないんだが…入れた緊張から微かに心臓が高鳴る。 オイオイ、なんで俺は菊池なんか相手に緊張してるんだよ。 自分の心臓に手を当てると確かに少し動機が激しいように思える。 こつん と自分の頭を小突き書庫に足を向ける。 書庫…かつては親父が使っていた書斎なのだが、今では俺と夏海の私物置き場と化していた。 がちゃ… 書庫の扉を開けると壁一面の本棚と、その前にもうず高く積み上げられた本の数々。そして無数のダンボールによって占拠されていた。 「うわぁ、またこれは…母さんだな」 母さんは何を隠そう衝動買いの達人で気に入ったものがあると迷わず購入してしまうといった奇妙な悪癖があるのだ。 これが高級品やブランド品を買いあさるのであればそれこそ家計の一大事なのだが、母さんが衝動買いするのは…漫画なのだ。 「あ、この表紙可愛い♪」 と、気に入ったものがあれば迷わずに購入。 しかし買うと満足してしまい結果的にこの書庫に積まれてしまうという… まぁ、結果的に俺と夏海が読んで適時整理するといった流れが構築されてしまっていたのだ。 しかし、2週間入っていないだけでこの荒れよう…くっ…油断した。 俺は母さんの買ってきたであろう新刊を押しのけ目当ての漫画を探した。 くっそぉ…母さんめぇ、読んだら元の場所に戻せと何回言ったら… いや、母さんはわかってるんだっけ。 まるで超能力者のようにこの混沌とした書庫の中から的確に目当ての品を見つけられる能力というか嗅覚というか直感。 理由を聞いたら 「う~ん…なんとなく?」 確かに母さんは昔からぼぉっとしていて整理整頓が苦手で抜けているところもあるが妙なところで妙なスキルがあるんだよなぁ… そんなことを考えながら10分ほど探すとようやく目当ての本を見つけることができた。 「菊池の奴…怒ってるかな…いや、待ちくたびれて俺の部屋とかあさってないだろうな…」 そんな妙な想像が頭をよぎる中、居間のほうから菊池の笑い声が聞こえてくる。 148 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 02:01:12 ID:APrSEPmV 「悪いな、待たせて。」 「ううん?おかげで君の自慢の妹さんと楽しくお話ができたからいいよ」 気がつけば台所には制服にエプロンをつけて台所で食材を冷蔵庫に仕舞っている夏海の姿があった。 夏海は俺に気がつくと少し怒った様子で 「もぅ、お兄ちゃん!お客様をほったらかしにしてなにしてたの?」 よく見れば新しいお茶とお菓子が菊池の前にきちんと置かれていた。ったく、わが妹ながらよくできた妹だ。 「いや、悪い悪い、ちょっとこの漫画を探すのに手間取っちゃって。あ、そうだ夏海。 今週末あたりにでも書庫を片付けないとまた大変なことになるぞ。」 「えぇぇぇ、お母さんまた買ってきたの?もぅ…でもしょうがないよねぇ。」 夏海はてきぱきと食材を片付け、俺たちに向き直り 「ねぇ、お兄ちゃん。菊池さんにご飯食べていってもらうの?」 菊池は少し驚いた表情を見せ、 「え?…でも、ご迷惑じゃない?」 俺の顔をじっと見ながら問いただしてきた。 「俺は構わないけど?って作るのは夏海だから味の保障はしなけどな。」 「もぉ、おにいちゃぁん!そんなこというならもう、ご飯作ってあげないからね?」 「だ、そうだ。遠慮せずに食ってけよ。母さんも今日も帰ってくるのは遅いし、大勢で食べた方が飯は美味いだろ?」 「じゃぁ…お言葉に甘えようかな…」 菊池はそういうと立ち上がり、台所に行くと腕まくりをして夏海の横に並んでいた。 「何か僕にも手伝わせてよね。それを剥いたらいいのかな?夏海ちゃん」 「あ、ありがとうございます。じゃぁ、人参の皮を剥いてもらえますか?」 「と、いうわけだ。御飯が出来たら呼びにいくから君はその書庫とやらの片付けでもしていたらどうだい?」 ちぇっ…女同士結託しやがって… 「了解。じゃ、お兄さんは一人寂しく片付けてるから出来たら呼んでくれよな。」 そういって、俺は書庫へと一人戻っていった。 149 :すりこみ [sage] :2007/06/04(月) 02:02:18 ID:APrSEPmV 菊池さんが急に飛び上がって奇妙な叫び声を上げている。 「ごっごッ…ごご……」 まるで幽霊でも見たみたいに菊池さんは飛び上がり、椅子の上で体育座りの姿勢になってがたがた震えていました。 「どうしたんですか?なにか居たんですか?」 そう私が聞いた瞬間、小さな黒い影が私の顔目掛けて飛んできました。 ぶぶぶ… 指先で摘んでみるとそれはアブラムシでした。 「菊池さん。あぶらむしだよ。」 へぇ、菊池さんってこんなのが怖いのかな?変なの… そんな風に思いながら手のひらでそれをいつものように くちゃっ… と指際で握り潰し、ゴミ箱に捨てました。 手を洗っていると、菊池さんはなにか信じられないといった様子で 「な…夏海ちゃんは怖く…ないの?」 「なんで?あぶらむしだよ?害虫や泥棒猫はね?すぐに殺さなきゃいけないんだよ?」 私にはどうして菊池さんがそこまで怯えるのかがよくわかりませんでした。 「もしかして菊池さんって虫が苦手なの?」 「え…ぁ……ぅ…うん」 「そうなんだ、変なの~♪」 水道の水に手をつけ、石鹸でごしごしと手を擦りながらくすりと笑ってしまいました。 あんなに大人っぽい人なのに虫が苦手だなんて…くすくす… 菊池さんはようやく落ち着いたのか、椅子から下りて再び私の隣に並びました。 「あはは、みっともないところ見せちゃったね。」 「いえ、誰でも苦手なものってありますから…」 とんとんとん…とリズムを刻みながら野菜を切り刻む。 「じゃぁ、春樹君にも苦手なものとかってあるのかな?」 「お兄ちゃんの苦手なもの?…なんだろう?あんまりお兄ちゃんはそういう部分見せてくれないですし…」 「そっかぁ、じゃぁ、好きなものとかって何かな?」 菊池さんが鍋をかき回しながら聞いてくる。 「ん…カレーライスとかクリームシチューとか好きですよ?お兄ちゃん、ああ見えて子供っぽいんですよ?」 「へぇ…それは以外だな…ふふ…じゃぁ、今作っているのも…」 「はい。カレーライスです。茄子とひき肉のカレー…お兄ちゃんの大好物なんです。」 「夏海ちゃんは優しいんだな…」 「そんなことないですよ…私もカレー好きだし…」 「…ねぇ…夏海ちゃん…少し聞きたいことがあるのだが…いいかい?」 「?…なんですか?」 「いや…まぁ…大したことじゃないんだが…」 菊池さんは少し照れたような仕草で鼻の頭を掻くと、すぅっと息を吸い込み 「春樹君に…好きな人はいるのかい?」 突然そんなことを私に聞いてきました。 「どうして…そんなことを聞くんですか?」 野菜を切る手が止まる。視点が揺らいでくる。 ああ…虫が…うるさい… 「実は…私は春樹君のことが…好きなんだ…」 耳鳴りのように虫の羽音が聞こえる。 うるさい…うるさい…うるさい…うるさい・・・うるさい… うるさい…うるさい…うるさい・・・うるさい…うるさい… うるさい…うるさい・・・うるさい…うるさい…うるさい… うるさい・・・うるさい…うるさい…うるさい…うるさい 気がつけば目の前には虫の死骸。 汚らしい体液を撒き散らして潰れて死んでいる。 ゴミはゴミ箱に。 でも流し台の横のゴミ箱には既にいっぱいのゴミが詰まっている。 「捨ててこなきゃ…明日は燃えるゴミの日だし…」 私は引きずるようにしてそのゴミをゴミ捨て場まで運んでいった。

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