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30 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:45:39 ID:f93AyQ5E
自転車のペダルに力を入れて、足に残る鈍痛を少し気にかけかばうように、ごく見慣れた道を行く。
住宅地を抜け、公園の傍を通るあたりになると、すぐに汗が体から吹き出てきた。
照りつける日光の破壊力はすさまじいものがある。
さらに、蒸した温風が頬をかする。
その風に混じって草木の青臭い匂いが鼻をつく。
夏の熱気でより青臭さが増しているので、気に留めないではいられない。
そして、暑いとそう思えば思うほどに、発汗量は右肩上がりにまし、皮膚を伝い蒸れている。
気持ちが悪いこと、この上なく不快指数は大絶賛で五桁を優に突破した感がある。
「今日は本当に天気になったなあ。」
しかし、口をつついて出てきた第一声は暑いではなく、雨雲を淘汰し、澄明に晴れ上がった蒼天への賛辞の言葉だった。
澄み切った青空にぽっかりと浮かぶ白い入道雲―。
最近は随分と夏らしくなってきたものだ。
これで吹く風が製鉄場の熱気を孕んだものではなく、少しでも涼しいものであれば完璧なのだが。
少しどころか南氷洋の氷山の風でもいいくらいなのだが。
熱気と相殺してきっと丁度良くなるはず―。
ああ、駄目か。それでは四季がなくなってしまう。
ゴム人形のような変遷を遂げてきたであろう僕の表情を眇めた目で見ていた時雨がくすり、と笑う。
「ふふ、今日は学校帰りに、一緒に何か冷たいものでも食べましょうか?」
そういえば、入院中に一度もアイスを口にしていない。
折角だから、今日はアイスにしよう。
ちなみに僕は、アイスをまとめて5個は一度に食べる主義なので、それを食べると必ずと言っていいほど大出費になる。
31 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:47:20 ID:f93AyQ5E
学校に到着すると、自転車を自転車置き場にとめようとして時雨に止められた。
入院以来学校に来るのはこれが初めてで、入院中に変わってしまった自転車置き場を時雨に教えてもらう。
なんでも、来年の新入生は増えるからと言う理由らしい。
だからといって、一学期から変える必要は無いだろう、という不満を持ったが自転車を規定の位置へ動かす。
僕が自転車を止めたときに近くでパンクしたときのように、空気が抜けていく音がした。
後ろに振り返り、黒髪の少女のほうへと駆け寄る。
彼女の自転車の車輪を確認するとやや大きめの穴があいていることに気がついた。
どうやら、落ちていた鋭利なガラス片が自転車のチューブを刺し貫いたようだ。
「落ちてたガラスを踏んでパンクしちゃったみたいだね。」
「運が悪かったのね。家自体はここから遠くないから、歩いて帰るわ。」
そこへ、タイミングを見計らったようにクラスメイトの岸が現れる。
岸は眼鏡をかけている女子で、やや高めのハスキーボイスで話す子で、理沙の所属する委員会の副委員長だ。
「朝から何してるの?落ちてた瓶の破片にも気づけないでパンクさせるなんて馬鹿みたい。そこ、私の自転車置き場だから早くどいてよ。」
「……。」
不躾に僕らを払ったところに彼女の不快感が現れている。
岸さんは時雨の隣の定位置に自転車を止め、荷台の紐を解いている。
しかし、僕は一点、さっきの岸さんの発言に疑問を抱いたことがある。
同じ疑問を時雨も抱いていたようで、手を自転車周辺で動かしている岸さんに声をかける。
「岸さん。」
「なぁに?北方さん。今忙しいんだけど。」
ぞんざいに答える。
32 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:49:46 ID:f93AyQ5E
「あなた、どうして私の自転車がパンクしたことを知っていたのかしら?」
暫くの沈黙。
その沈黙に岸さんが狼狽していること顕現されているのは誰の目にも明らかだ。
「……どうしてって、あなたたちが話しているのを聞いたからわかってんだけど?それが問題あるの?それとも、愛しい彼との話はどんなことでも他人に聞かれたくない訳ですか?」
「そう、でもあなた、さっき、『瓶の破片』ってはっきり言ったでしょう?弘行さんはガラス、としか言ってない筈だけれど?」
「っ!」
「どうして、あれが瓶の破片だとわかったのかしら?あなたには人知を超越した超能力でもあなたにはあるのかしらね?」
あれが、瓶の破片であることがわかるということは、まずあれを意識して敷設したからに他ならない。
要するに岸さんは時雨に嫌がらせをした、ということだ。
それから、僕は時雨の自転車置き場をかがんで観察した。
すると、いくつも車輪が来るであろう場所に鋭利なガラス片が配置してあった。
かなり用意周到に準備をしていたようだ。
「あなたがあれ、仕掛けたのよね?」
「ふん、知らないわよ。ガラス片って聞いたから、類推しただけだから。感情の無いあなたとは違って、類推はできるので。」
そんなやり取りが耳に入る。
あれだけ準備をしておきながら、いざその事実がばれると、逆に怒りだし時雨の人格批判をするとは許せない。
盗人猛々しいというところだ。
「他人の攻撃なんてやめて、本当のことを洗いざらい喋ったらどうですか?」
「車輪止めの近くに一列にガラス片が並んでいた。それで時雨の自転車に4つ穴ができていた。普通に考えてガラス片が自然に並ぶわけが無いだろう?
それにさっきの発言から岸が疑われても仕方がない、違いますか?
それなのに、時雨を逆に批判することができるんですか?」
鼻でせせら笑うような不愉快な笑い方をしたきり、何も語ろうとしない岸と僕の間でいたずらに時間が流れる。
「……所詮、あなたも私が憎らしくてたまらない松本理沙の協力者なんでしょう?」
時雨が嗤笑を受けたことに対して、相手の手の内を既に看破しているし、敢えて理沙の強力だと理解させることそのものに意義があるということも理解していると告げた。
すると、一回舌打ちをしてボソボソと何かをつぶやくと、敢えてそれを否定することなく、ふてぶてしいまでに居直った。
「ああ、そう。理解しているなら説明は蛇足。それに私がただの歯車のひとつだと言うなら、私が責められる言われは無いんじゃないの?」
しかし、理沙に協力しているかどうかについてはあいまいにはぐらかされた感が否めない。
察しの通り、理沙に協力している、だから話すまでもない、そういうわけだろうか。
「じゃ、もう用は済んだようだから、もう行くから。」
そう、矢継ぎ早に言葉をつなぎ教室に向かっていってしまった。
33 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:52:01 ID:f93AyQ5E
去っていく岸の背中をただ何もする事ができず見送った後、僕達も自転車置き場から離れ、昇降口へ向かう。
「痛っ!」
時雨が自分の上履きを取り出して床の上に置き、指を離そうとした瞬間、上履きの死角に取り付けられてた鋭利な刃で指を傷つけていた。
彼女の線傷から赤い雫が飛んだ。
よく彼女の指や手を眺めると、何箇所かに絆創膏が貼られていた。
おそらく、全てが理沙のしてきた嫌がらせの結果なのだろう。
その光景を目にしたことで、僕が時雨を選択したことで、生じた理沙への罪悪感がわずかでも薄れていくような気がした。
そして、時雨は俯いて上履きに取り付けられた刃を取り除き、ティッシュでくるみ、制服の外ポケットにしまった。
それから、鞄を片手で開こうとした。
彼女が鞄に応急処置の器具をしまっていることを知っているので、僕は殺菌した後、線傷全て覆うように絆創膏を貼った。
そのとき、応急処置をする僕の手を暖かい滴りが伝うのを感じた。
僕が戻ってきたとしても、いつも通りの苦しい日常が始まる、そう感じたのだろうか。
「時雨、許してもらえないのはわかっているけれど、理沙に代わって謝るよ。
本当に申し訳ない。僕自身、時雨がこんなひどい目に遭っているということになかなか気づいてあげられなかった。」
大丈夫か、という心配よりも謝罪したい気持ちがはるかに立ち勝っていた。
それから、僕は入院する前と同じ一学期のスケジュールに従って、学校生活に臨んだ。
しかし、それらは当然の事ながら、僕が入院する前のそれとは違ったもので、授業中と休み時間の別なく、執拗なまでに口実を探し出しては、時雨への迫害を繰りかえしていた。
当然、僕は批判したため、親友の南雲や何人かの友人は協力してくれた。さらに、担任の田並先生からも当事者と目される女子に対して厳重注意がなされた。
そのため、男子の中で時雨に嫌がらせするものはおらず、表立った場所での女子によるいじめを防ぐことができた。
しかし、もとより時雨への迫害に参加していたものは大半が女子である為、大きくは情況が好転してくれはしなかった。
そして、僕以外の人間に対しては最低限以上の会話はせずに、休み時間はほぼ全てと言っていいほど僕の傍にいた。
時雨は僕に対して、今までどおりの接し方で話しかけてきた。
この前作ってみた料理がどうとか、お勧めの本がどう、彼女のお父さんがいない間、家に来る頻度が高くなった使用人の誰それがどうした、などという当たり障りの無い話をしてきた。
それが僕への気遣いであることは言うまでもなく、逆にその心遣いが痛々しく感じられてしまう。
と、同時に彼女が如何に強い人であるかを再認識させられる。
というのも、彼女は下らない非難中傷の類を無視し、今朝のようなハプニングに直面したとしても、冷静に対処している為である。
それでも、その理性的な行動の裏には数日前に僕の前で見せたような深い悲しみが深々と根ざしていることは疑いない。
時雨は依存してしまうから、と言っていたがそうならないように相当苦しい努力を続けているのだ。
だから、そんな彼女の悲しみをわずかな時間の間でも忘れ去れることができれば、と考えて彼女を夏休みに突入する今週の土曜日に映画に誘うことにした。
もちろん、回答は二つ返事で快諾してくれた。
34 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:53:29 ID:f93AyQ5E
土曜日―。
この一学期最後の日を迎えるまでにこれといった変化はなく、時雨も柔らかい表情をしている時間が心なしか増えてきたような気がする。
理沙の体調も相当良くなっており、何度となく妹を見舞いに行った。
僕と理沙との間にはあれ以来、壁ができたかのように、関係は希薄である。
理沙から僕に話しかけてくることもなくなった。
彼女に僕から話をしても口をきいてくれることは無かった。
時雨の事をかばう僕に対する怒りと自分を拒んだ悲しさ故の事であろう。
だからと言って、時雨をかばう僕や友人にまで迫害の手が及ぶことは一度としてなかった。
流石の理沙も僕を巻き込んでまで、いじめを拡大させようとは考えていなかったのだろう。
ようやく小康状態に入りつつあり、かつてのようにとは行かないまでも、それに近いほどの安寧の日々が再び訪れる兆しが感じられるようになった。
そんな中で迎える夏休みである。
終業式が終わった後、約束どおりの時刻に駅で待ち合わせてから電車で、時雨と映画館に向かうことにしている。
時雨を待たせるわけにはいかないので、いつも以上に時間に気を払いながら、五分前には到着するように家を出る。
自転車で通過していく道々も、解放感に浸っている今はとても明るいものに思えてくる。
夏特有の日差しが強く、少しばかり午後から映画に行く計画を立てたことを後悔した。
自転車を駅前に昔から住んでいる老翁が管理する自転車置き場に置くと、集合場所の駅の時計前に視線を走らせる。
35 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:55:51 ID:f93AyQ5E
そして、即座に網膜に像を結んだ彼女の方へと小走りで向かう。
彼女は表情に現れてこそ無かったが、わずかな仕草からわくわくする気持ちを抑えきれずにいることがわかった。
それはこちらも同じ話な訳で、
「お待たせいたしました、時雨様。」
お嬢様に仕える一介の使用人の立場になりきって、それらしいポーズを作りそんな事を言ってみた。
「ふふふ、使用人は主よりも先に来るのがルール、違うかしら?」
などと楽しそうに返してきた。
「おお、これはこれは、お嬢様のご指摘の通りでございます。どうか寛大なお心でお許しを。」
そう言ってから、お辞儀をして垂れていた頭を上げる。
そこにいる時雨はいつもの制服ではなく、私服姿だった。
白を基調として薄いピンク色の模様が入ったワンピースに身を包み、肩にはミニバックの紐がかけられている。
そして、腰にまで届きそうなカラスの濡れ羽のように美しい光沢を保っている黒髪。
制服姿しか目にしたことが無い僕にはただただ美しいと息を飲んで、凝視することしかできなかった。
目鼻立ちも整った美人であり、ガラス細工のような繊細さをも持っている彼女。
その彼女に触れてしまうことで壊れてしまいそうで―。
「……私の顔に何かついているの?」
「い、いや、その、綺麗だなって。」
咄嗟にかけられた声に狼狽して声が裏返ってしまった。
「くす、ありがとう。けれど、声が裏返っていたわ。」
「へ?あ、ごめん。」
「ええ、気にしないから大丈夫よ。行きましょう。」
そうして二人は駅の構内に仲良く入っていった。
その姿を監視する影が二つあることに気づくことなく―。
36 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:57:11 ID:f93AyQ5E
僕たちの住んでいる町から4駅先の町にある映画館で、僕らは流行のファンタジー小説が元ネタになっている映画を見ることにした。
案外、時雨はこういうものが好きで、映画の間、僕の手を握る手に力を入れながら、スクリーンを凝視していた。
何事にも冷静沈着な彼女のイメージとは違った一面が際立った感じがする。
まぁ、どんな人であっても、新たな一面を見出すというのはなかなか楽しいものだと思う。
それにしても、結果的に時雨が喜んでくれたことには変わりは無いので、僕は満足だった。
映画館を出ながら、映画の感想と考察を聞かされ、僕も自分の意見を言わされてなかなか困ってしまったが、
これほどまでに感情豊かな時雨も可愛いと思う。
映画論議に花を咲かせながら、僕らは町はずれにある、高級感が漂う喫茶店に入った。
こういう店によく来るあたり、流石は時雨、というところか。
しかも彼女の行きつけの店に部類されるというのだから恐れ入る。
当の僕は、と言うと、高級感がありながら瀟洒さも兼ね備えている雰囲気の店内にただただ圧倒されるばかりで話にならない。
客の中にも当然、若者がいるはずがなく、皆それなりの年を召した人ばかりで、ごま塩頭ばかりしか視界に入らない。
突然の闖入者である僕に入り口に近いテーブルに腰掛けているご老人方の痛い視線が集中する。
これは、とんでもない場違いな場所に、来てしまったようだ。
37 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 00:59:29 ID:f93AyQ5E
そんな事を考えながらウェイトレスについていき案内された四席用のテーブルを挟んで向かい合わせに座る。
案内された席に腰掛けると柔らかな椅子の感触が心地よく、近くの壁に掲げられている絵も有名な画家の絵であった。
さらに花瓶の花も店の雰囲気に非常に合っており、これらの事からもこの店が如何に子供が入るべき場所で無いかが良くわかる。
それ以前に、もう少し僕が肩の力を抜けるような場所につれてきて欲しいのですが、時雨さん。
いや、これでは寿司にわさびとしょうゆを大量につけて、食べて美味しいなどといっている外人のような感じじゃないですか?
しかも、それを日本の回らない寿司屋で満足げにやらかしている。
そんな感じじゃないですか、いや、本当に。
いや、むしろ僕は外人だからしょうがない、ということに、つまるところ治外法権という伝家の宝刀を行使できるわけでは……って、そんなこと無いか。
治外法権の行使どころか、相当まずい状況下に自分が置かれていることに気がついた。
というのも、今、僕が座っているこの席は窓に面しており、外の通りから思い切り見えてしまう場所である。
まず、この時点でいかん。
しかもよくよく考えると、こういうお店は無駄に単価が高くできているものだという経験的法則性にたどりついた。
さらに、映画代と電車賃を使った僕の財布にお札が入っていることなど、万に一つも無いわけで、入っていたとしてもそれらのお札にはすぐに羽が生えて飛んでいってしまうだろう。
状況的に最悪。
死亡フラグが立ってしまったようなものだ。
僕のような一般人は飲み物だけ頼んで退散しますか。
しかし、本当にとんでもないところに来ちゃったもんだと、わが身の不幸を何度目になるかわからないが呪った。
すると、愉快そうに向かいの席の時雨が特有の優しげな微笑みを見せてくれた。
「くすくす、とんでもないところに来ちゃった、って顔してるわね。」
「いや、そう思うなら、別の喫茶店にしてくれれば良かったのに。」
「いいえ、たまにはこういうお店でもいいと思って、そうそう、ここのプリンはとても美味しいのよ。
弘行さん、プリン好きだって言っていたから。」
「いや、しかし、お財布様が不可能だと申しているのですが。」
返す刀でそう言うと、どうもつぼにはまってしまったらしく、肩を震わして少しの間、笑っていた。
こういう活き活きとした時雨を見るのは僕も好きである。
「ふふふ、大丈夫よ。私が全て払っておくから。あなたは好きなものを頼んでいいのよ、ね?」
「じゃ、折角だから甘えさせてもらいましょうか。」
そんなわけで僕はプリンアラモードを、時雨は抹茶パフェを食べることになった。
「弘行さん、そのプリンおいしいかしら?」
「うん。もちろん、おいしいよ。」
何でも一流のパティシエが作っているらしく、普段食べるものより数段は美味しく感じられる。
まぁ、こんなのは雰囲気を作って美味しく感じさせるようなものだからなぁ。
38 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:01:00 ID:f93AyQ5E
しかし、それはさておき、女の子におごってもらう僕。
……いや、なんというか、男の面目が丸つぶれだとか、そんな事を通り越して、もはや自分が哀れに思えてきた。
をいをい、本当にどうするんだよ、俺は!
そんな自問をしていることを見透かしてか、見透かしていないからか良くわからないが、時雨は至って楽しそうにパフェを口に運んでいた。
それも、恐ろしいほどに日常的で落ち着いた仕草で―。
なんとなく、ブルジョアジーと無産階級との格差を感じたような感じがするが、細かくは追及しないでおく事にしよう。
あー、僕らが精一杯背伸びしたところで、ブルジョアになんて勝てるわけないじゃないですか!
店の落ち着いた雰囲気に心地よさを感じ始めてか、ついのんびりしすぎて、店を出た頃には太陽がだいぶ傾いていた。
が、それから少しデパートによって、お店を冷やかしながら巡って回った。
帰途に着く電車に乗ったときはもう日没間際であった。
が、彼らは気づかなかった。この電車に乗り込んだ二人を尾行している人間がいるなどということには―。
39 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:03:04 ID:f93AyQ5E
住み慣れた町の駅に降り立ったのは、既に日が暮れてしまった頃だった。
映画を一緒に見て、感想を言い合って、レストランに入る。
弘行さんを変に緊張させてしまって、レストランの選択はいささか失敗した感が否めなかったけれど。
好きなものを食べて、これからの休みの計画に思いを馳せる。
沈みゆく太陽を眺め、オレンジ色の光に包まれながら、私は彼と二人隣り合った席に座っている。
そして、今こうして手をつなぎあって、暖かさを確認している。
ただ、それだけのことだけれど、普通の人からすれば取るに足らないことだけれど、
そんなささやかな事が今までの私にはどんなに努力しても得られなかった。
もしかすると私は自分の殻に篭り、努力も不足していたのかもしれない。
けれど、私はそんな普通のささやかな喜びを今、かみ締めようとしている。
しかし、私の心の中には未だに暗雲が消えずにいた。
横の弘行さんの指先に見ると、その小さくて繊細な指に『それ』ははめられており、あたりに燐光を放っているかのようにまばゆかった。
それは彼と初めて結ばれた時、彼の傍にいる善き日々が続くことを願って指にはめてあげたプラチナのリングであった。
彼は指からはずすことなく、はめ続けてくれているみたい。
私にとってその事実は喜ぶべきこと。
けれど、つい前まで命を絶とうとしたことを思い出して自分の浅はかさが思い出されてくる。
こんなにも彼に思われていたにも拘らず、私はその彼を悲しませるようなことをしようとしていたのだ。
あの日以来、松本君が理沙と交わったという話を村越さんから聞き、それが正しいかを確認せずに、
彼が私をかばうことに苦痛を感じ、嫌気がさしたのだと解釈した。
と、同時に私の存在が大きく彼の人生を狂わせてしまう、そう狂信するようになった。
あの時私は命を絶つことが、正しく最善の道であることを信じて疑わなかったけれど、結局、それは独りよがりだった。
私の指にはめられたリングが月光を反射する。
自殺しようとしたときに私はこのリングを少しでも省みただろうか。
そのリングの存在を忘れ去り、弘行さんが私の事を嫌っている、という醜い疑念さえ心の奥底に宿しさえした。
松本君は私の事を信じて、妹の理沙ではなく私を選択してくれたのだ。
その誠実な彼に対して、私はなんと不誠実だったか。
それに私は結局、彼に助けられてばかり。
彼に恩返しの一つもできていない。
ずっと依存するばかり。
依存と共存は別の事に他ならない。
依存して生きていながら、わずかな事から疑念を宿すなんて、恥ずべき寄生虫としての生き方そのもの。
にもかかわらず、弘行さんはこうして私を受け止めてくれている。
熱い何かが瞼を濡らし、頬を伝っていく。
40 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:06:08 ID:f93AyQ5E
「どうしたの?」
突然泣き出した私に気づいた彼は驚愕の色を隠せずに、そう問いかけた。
「ううん、なんでもないわ。」
「本当に大丈夫?何かあるなら、僕じゃ不十分かもしれないけれど、話を聞くよ。」
こう返事すると彼をより心配させてしまうことになることはわかっていたのに。
彼にいらぬ心配をさせるなんて、私は愚かだ。
「いいえ。ただ、こうやって当たり前の事のように、あなたと一緒に時間を過ごせることが、なんだか夢のように感じられて。」
もちろん、この発言に嘘偽りは無いつもりだ。
弘行さんはその言葉を聞くと一旦立ち止まった。
「そうかもしれないね、でも、幸せというのは、こういったささやかな事が涙でではなく、当たり前に受け止められるようになった時を指すんだと思う。
時雨も今は大変かもしれないけれど、いつかそんな幸せに至れると思うよ。」
真剣な眼差しで私の瞳を見据えながら、ゆっくりとまるで幼子を諭すかのように、言った。
「……。」
本当に弘行さんは優しい、いや優しすぎるのだ。
だから、このままではいけない、と理解していても依存してしまいたくなる。
弘行さんは諭すように言って、ニコリと微笑んだ後、再びゆっくりと歩を進め始めた。
ところどころにある街燈に照らされた道をゆっくり歩いていく。
言ってしまえば、彼は私にとって麻薬のような人に他ならない。
離れることができない人。どうしても依存してしまう人。
もっと端的に言ってしまえば、私は彼の存在なくして生きていくことはできない。
どれほど歩いたかわからないけれど、彼と別れなければならないところにまで差し掛かった。
「じゃあ、時雨、今日はお疲れ様でした。じゃ、また明日。」
弘行さんはいつも去るときに、また明日、と言ってくれる。
けれども、何故か今日はそのいつもと変わりない言葉が永別の言葉になってしまうかのような気がしてならないほど、突き放された感じがした。
「待って」
私は弘行さんを呼びとめた。
もう二度と会えないように感じられたからであり、弘行さんの事を疑っていた事実を清算したいと思ったから。
41 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:09:09 ID:f93AyQ5E
「…弘行さん、私には、謝らなければならないことがあります。」
「……?」
即座に彼の表情が頭が疑問符で埋まったような表情に変わった。
「単刀直入に言うと、私は弘行さんの事を疑っていました。」
それから、私は抱いていた疑念の事、その情報をもたらしてくれた村越さんについてなどを包み隠さず、全て話した。
心の内に秘めていたものを吐露することは心に安定にもたらしてくれる。
対して、それを受け止める側は苦しい思いをするもの。
当然、私は謝って済む問題だとは思わなかった。
たとえ、烈火のごとく彼が怒ろうともそれは私にとっての報いなのだと思う。
母から受けた暴力と同質のものを受けたとしても、彼からのそれならば甘んじて受け入れる。
けれども、彼は私の事を何一つ詰ることは無かった。
そして、よどんだ曇りのような気まずい沈黙の後、彼は口を開いて
「時雨が僕の事を責めても、僕は時雨の事を責める立場に無い。僕自身、時雨を裏切ったのだから」と言う。
そう言われてしまうと、私はどうすればよいのかわからなくなってしまう。
私は私なぞ彼には相応しくない、程度の事は言われてしかるべきだと覚悟していただけに、肩透かしを食らってしまったかのような気持ちになってしまう。
けれども、私には受けるべき罰が存在する。
まず、弘行さん自身はあくまでも襲われた側で、一点たりとも汚点が存在しないことだけは確か。
「弘行さん、あなたはあくまでも襲われた側。だから、決して悪いことなど無いわ。だから、あなたが許しを欲するならばあなたを許してあげます。」
当然、私がこんなことを言える立場の人間ではない。けれど、彼に自罰的になってほしくない。
また、涙が頬を伝っていく。彼の前では仮面をはずした私とはいえ、情け無いほどに泣いてばかり。
「だから、あなたは私をどうしたら許してもらえますか。」
そう私は言いたかった。
しかし、それはあまりにも虫の良すぎる話。
確かに彼ならば、許しを請えばおそらく許してくれるだろう。
それで、最後に残った暗雲も消え去るであろう。
42 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:10:43 ID:f93AyQ5E
しかし、私は彼の傍に立てるだけでもこれほどありがたい事は無いと思うべき。
だから、私から許しを請うという分にあっていないことはしてはならないはず。
そんな事を続けていれば、結果的に弘行さんを苦しめていくことになるかもしれない。
だから、私はここで許しよりも罰を求めなければならない。
けれども、彼は私のそんな気持ちを察してくれないで、寧ろ察した上でなのだろうか、彼は私は悪くない、と言った。
「………時雨、許してくれて、ありがとう。僕は時雨に関わらず誰でも、そんな情報を手にしたら、当然信頼をし続けることなんてできないと思う。
過程はどうあれ、僕は時雨を裏切ってしまったから。だから、僕は時雨も悪いとは思わない。
だから時雨が自分のしたことに後ろめたく思っているなら許してあげる。」と。
彼は私の心を読みつくしているのだろうか、どの一言よりも私の心を軽くする言葉を平然と紡ぎ出してしまった。
「それに、僕が言えた義理じゃないけど過ぎ去ったことを許すとか許さない、なんて事で時雨ともう話したくない。僕は時雨を嫌な気持ちにさせたくないよ。」
相手の事を信じない私でも見捨てずにいてくれる彼。
自分の事は棚に上げて、ただただ愛おしく感じる。
その気持ちがうれしくて、私は弱くなってしまう。
けれども、その弱さがいつもいつも彼を傷つけることになると思うと、悔しくてたまらない。
43 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:13:25 ID:f93AyQ5E
目の前に立っている彼女は涙でその目を潤している。
昼間はあれだけ楽しそうに、屈託の無い表情豊かな微笑みを見せてくれた彼女が今、涙を流している。
まるで感情の篭っていないと思われても仕方の無い発言を弄したのでは、当然彼女は泣き止むわけが無い。
大風呂敷を広げる事はできても、誠実な慰めの言葉一つかけられない自分が嫌だ。
彼女が苦しむ理由は僕が理沙と過ちを犯したと思い込んで、僕の事を信じていなかったということだ。
理沙が僕の病室を訪れた一週間以上前の日。
確かに僕は彼女を拒絶した。
しかし、僕以外の誰かから情報を得たとすれば、僕が彼女を裏切った、そうとってもおかしくは無い。
それに、僕も一線を越えそうになったのだから、見方しだいでは裏切ったといえる。
ましてや、理沙とつながりがあると彼女自身が行っていた村越とか言う子ならば、僕の事を信じられなくなるのは至極当たり前だ。
僕は馬鹿だ。
今日のこの瞬間まで、ここ数日を彼女と幸せなひと時を過ごした程度の認識しか持たなかったのだ。
彼女に自殺を思いとどまらせた、好きな彼女に依存されてもいい、などといいながらその男が信用できなければ、そんな言葉、一枚の紙切れほどにも意味を成さない。
いや、それどころか保証されることが無い約束ほど残酷なものは無い筈だ。
そんな半信半疑とみている男とこの数日間を過ごしたのだとすれば、それは何らかの苦痛を与えたのだろう。
僕は、それが誤解であることを証明したかった。
僕の約束が軽佻浮薄なその場限りのはったりであると誤解されるのは嫌だった。
しかし、それを泣いている彼女に証明できるだけの弁舌も冷静さも僕には伴っていなかった。
だから、不誠実な言葉しか出ないのだ。
だから、泣き崩れる彼女の肩を抱きとめることもできないのだ。
だから、呆然と馬鹿みたいに立ち尽くすしかないのだ。
おそらく、目の前にガラスの小片があるならば、今の僕ならばためらうことなく己が心臓めがけてつき立てることができたであろう。
しかし、それは自分の罪を飲み込んだまま逃げてしまうことである。
そして、時雨を本当の意味で捨ててしまうことだ。
僕は自己嫌悪の産物であるそれを心の奥底に十重二十重に鍵をかけて封印した。
44 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:15:25 ID:f93AyQ5E
丁度、その時、僕の後ろ手に聞きなれた少女の声が聞こえた。
即座に後ろに振り返る。
わずか六歩の位置に理沙は佇んでいる。
「あははっ、お兄ちゃんだ~。」
その声に僕は背骨が氷柱に変わったかのような感覚を覚えた。
「何驚いているの?まさか、お兄ちゃん、私の事を忘れちゃったわけじゃないよね。」
「あ、そうか。お兄ちゃん。私と会えて嬉しいんだよね。その、久しぶりだから。ずっと、待っていたんだよ、お兄ちゃん?」
そういうと、理沙は片頬を吊り上げるような冷酷な笑みをたたえて、時雨の方に向きなおした。
その笑みは僕が今まで一度として目にした事が無い程の狂気と憎悪そのもの。
それは一人に向けるものとしては遥かに強すぎる。
この二人を近づけることは惨劇を生む。それはほぼ間違いない。
しかし、僕の胴を貫く氷柱によってか、その身を芋虫ほどにも動かせなかった。
「北方先輩、お久しぶりですね。」
「……。」
気丈に振舞っていた彼女からはその強さの根源である冷静さも失われ、乾いた嗚咽の音と震えを呈すのみ。
「どうしたんですか?いつも冷静な先輩らしくないではありませんか?」
「目的の為ならばどんな事だってできる、冷静、ううん違う。冷徹に人を貶める事だってできる。それが先輩じゃなかったんですか?」
「……違う。」
時雨はいっそう強く肩を震わせながら、弱弱しく告げた。
その震えた姿からはかつての冷静さも人を圧倒する一種の威厳も彼女からは排されていた。
理沙はその時雨を上から意地の悪い笑みを浮かべたまま見下ろしている。
そして、その意地の悪い表情からは勝者から敗者へ与えられる残酷な憐憫が感じられた。
45 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:17:43 ID:f93AyQ5E
「何がそんなに悲しくて涙を流しているんですかね~?」
「ああ~、わかりました。先輩はお兄ちゃんに捨てられたんだ!あれだけいいように使われていれば、当然嫌われますよね。
私が何度も身を引くように警告したのに、それなのに引かないからこういうことになっちゃうんですよ?」
「あはは、でも、お兄ちゃんは優しいから、敵にすら、とっても優しいから、この程度で済んでいるんだよ。」
「散々、人の大切な、私だけのお兄ちゃんを弄んでおいてッ!」
「もう、先輩はどうなるか、分かっていますよね?」
時雨は傍の僕のズボンに震える手で弱弱しく握り締めている。
弱弱しい彼女ができる最善の選択。
それは僕に助けを求めること。
彼女は僕の罪を許してくれる、そういった。
だから、ここで、この土壇場で僕を信頼をしてくれているのだ。
僕の入院中に立てた誓いを再確認するまでも無い。
僕は彼女を守るしかない、たとえこの命が失われようとも。
「理沙、いい加減にしろ!お前が害意を持っている以上、時雨には指一本触れさせないッ!」
その言葉と、時雨の態度とが理沙を完全に爆発させた。
「あはははは、お兄ちゃんは操られているんだよ!だから!その女の呪縛から解き放ってあげるから、もう少しだけ静かにしていてね。」
「それに、私とお兄ちゃんの仲を引き裂いた連中もその女と同じく、お兄ちゃんを操って遊んでいるだけ!だから、そいつらも片付けるからね!
もう後、3000秒もすれば、そうたった3000秒でッ!片をつけるからね、だから、それまでの我慢だよ。」
46 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:22:11 ID:f93AyQ5E
「被告。北方時雨!」
「罪状。強盗罪!傷害罪!恐喝罪!強姦罪!拘束による身体的苦痛!名誉毀損罪!人道に対する罪!
主なものはこれら、まだ余罪は言い切れないほどある!情状酌量の余地なし!控訴は認めない!」
「検察も弁護人も要らない!ただ私、被害者であり裁判官である、私だけが閻魔が如く下されるべき罰をお前に下せるのだ。」
「判決。死刑ッ!死をもって深すぎる罪を償え!もちろん、並みの苦痛で贖えるものではない!」
「死刑執行ッ!」
そういうと、理沙はこちらに駆け始めながら、上着の内ポケットからナイフを取り出し、鞘を捨て、刃の光を煌かせた。
まるで、時が止まったかのような衝撃であった。
それがもう一閃している頃には、あと一秒二秒の内に時雨の命はない、そう確信した。
ここで僕ができることはただ一つ―。
時雨の前面を覆いつくすこと。
そして、時は動き始める。
鈍い音と激しくしぶく血潮によって、その動き始めた時を感じる。
腹に突き立てられた白刃の冷たさも、それすらもすぐに覆い隠した血潮の熱いと感じられるまでの暖かさ、倒れこんだ先のアスファルトが陽光の暖かさを吸った為に現れる生暖かさ、
全てが怜悧なまでの現実味を持って僕に襲い掛かる。
急所ははずしたようだが、臓腑をかなり傷つけた。
もう蝸牛ほども動けまい。
いずれにせよ出血多量で僕は死ぬだろう。
だが、これでよかった。
愛する時雨に信頼されずに死ぬのは嫌だったから。
これこそが僕の取るべき選択だったのだ、そう今では妙な納得がいっていた。
47 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:25:05 ID:f93AyQ5E
しかし、僕が守りたかった時雨がここで一緒に殺されるのは嫌だ。
北方時雨。
生まれながら、苦難の連続で、自分を殻のうちに閉ざし、ただ状況を冷静に静観し、誰からも好かれることなく、それが自分の運命であると信じてきた少女。
彼女はここで生きて、いくらでも生を享受しなければならない。
彼女の新たな人生は時間の経過と共に様々な呪縛から解き放たれて、始まるはずなのだ。
だから、今はただ逃げろ。
それ以外は望まない。とにかく、逃げろ。
理沙の許してくれ、という哀願の声がしたような気がするが、それはもう気にならない。
運命をあざ笑うしか能が無い、残酷な神様とやら、もし、居るんだったら、僕を苦しませろ。
そして、気持ちよく逝けるように走馬灯を見せようなんていう狭小な雅量は決して見せるな。
走馬灯なんかいらない、いいから時雨を助けてやってくれ。
どうせ、神様なんて当てにならないことはわかっていた。
だけど、この期に及んで追いすがってみる。
さして、僕は力を振り絞って叫ぶ。
刺した相手が僕であることに気づいて、断末魔の叫びをあげる理沙を無視して、
寧ろそれよりも声が大きくなるように、出血が多くなることなど厭わずに、腹に力を入れる。
「時雨、逃げろ!逃げて、逃げて、自分の運命に絶望することなく、ただ生きるんだ!絶望だけで人生を終えてやることは無い!
だから、逃げろ!逃げてくれ!」
「嫌ッ!あなたが居ないなら生きていても、意味が無い!だから、私も死ぬわ。だって、私はあなたに命を捧げているのだから。」
感情を高ぶらせて、泣き叫ぶ時雨に優しく諭すように言った。
けれど、もう僕の口には既に逆流した血液が流れ込み始めている。
話す分だけ、血液が流れ出るのは当たり前か。
「時雨、僕に命を捧げたなら、僕も時雨に命を捧げる。…だから、僕は時雨の中で生き続ける。
そうすれば、ずっと傍にいてあげられる。『闇の日は、そう長くは続かないものだよ。だから、自分の生を精一杯享受しなさい。』
これは時雨のお父様が言っていたことだよ。
時雨が死んで誰も喜ぶはずか無い。そう、病院で、入院してる、君のお父様も、」
苦しい。
血が口内に充満し、口角を伝っていた血とは比べ物にならないまでの勢いで血を吐き出す。
「い、生き…………ろ。」
48 :和菓子と洋菓子 [sage] :2007/09/18(火) 01:26:54 ID:f93AyQ5E
そう精一杯の力を込めて、言い終わると、時雨は双眸に強い決意を込めて、涙の跡が生々しく残る頭を振って頷き、走り去っていった。
それを見届けたあたりで、再び勢いよ口内に溜まった血が溢れ出た。
気づけば、目の前に血溜りができていた。
気づけば体がすこし軽くなったように感じられる。
おそらく、血液の分だけ軽くなったのだろう。
薄れていく視界。そして、その視界には時雨は既にいない。
下腹部のナイフは抜き取られていない。
だから、段階的に血を放出しているが、これが抜き取られればおそらく、僕はいよいよおしまいだろう。
見れば、理沙は泣きながらも、誰かに電話をかけているようだ。
視界がぼやけつつあるのと同様に、聴覚にも異常をきたし始めているようだ。
しかし、理沙が泣きながら、誰かに僕の応急処置を頼んでいるようだった。
そんな事をしても無駄だ。もう間に合わないだろう。
しかし、ここで誰かに僕を任せたとすると、理沙は時雨を追うつもりのようだ。
「り…さ、や…め………ろ。し……ぐれ…を……殺さ…………ない…で、く、れ。」
「お兄ちゃん……ごめんなさい。」
ただ、薄れ行く視界の先に、闇の中に理沙の姿が消えていくだけだった。