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563 :閉ざされた兄と妹 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2008/09/29(月) 10:05:42 ID:pet5HP1C 「ねえお兄ちゃん、あったかい?」  背後から甘い匂いとともに、甘い口調で問いかけられる。  しかし俺はそれを無視する。今俺はただ彼女達の甘い記録を待つだけの生物となっているからだ。 「お兄ちゃん……投下が来るまででいいから、あたしを見てよ……」  妹は寂しげにそう漏らす。だがそれでも俺はただ全裸に靴下、それにネクタイのみで物言わず待機しなくてはならない。なぜならそれが紳士としての礼節だからだ。  この状況を客観的に見るもの――便宜的に彼と呼ぶことにする――がいるとしたらどう思うだろうか。  六畳のいまいち片づけが行き届いていない、ゴミゴミした部屋。正座してノートパソコンを凝視しているほぼ全裸に等しい格好の男と、彼を後ろから抱くようにして寄り添っている完全に全裸の少女。しかもその男はその少女の兄で、その少女はその男の妹である。  そんなものを見てしまった彼がとることの出来る行動はたった一つだけ、つまり、通報することだけだ。  では、なぜ彼らがその通報物の状況に身を置いているのか。そのすべての原因は妹の狂気にあった。  兄はある一時期までは極々まっとうな人間であった。  学校は始業の三十分には着いているという遅刻知らず、部活は運動部に所属していて、学業にもよく励み成績は優秀、品行も方正。  だがしかし、女にもてなかった。それはもうもてなかった。吃驚するほどもてなかった。  何がいけないのか分からない。だが、何か、がいけなかったのだろう。  それが男を狂気へと走らせた。  ただ普通に道を歩いていただけなのに、前を歩いていた女性がこちらを振り向き、ギョッとした表情をして逃げていった日。それが男の死んだ日であり、今の男が生まれた日である。  尤も、男の死亡と誕生について気づいたものは極僅かであった。彼の妹と彼の最も親しい親友の二人だけだ。  親友がいつものように教室に入ると、そこに男の姿はなかった。  風邪でもひいたか、と思っていると、始業寸前に男は入ってきた。  親友はその男の普段とはかけ離れた行動を訝しんで、こんな時間に登校してきた理由を聞くと、男はただ一言「楽園を見つけた」とだけ返してきた。  男の奇行はそれだけではなかった。  昼休み、親友は男が好きだったタレントの話をしたが、男はそれに対してなんの反応も示さない。ためしに、とエロ本も見せてみたが、いつものような青少年が示してしかるべき反応をまるで示さない。  ただ、うつろな表情でそれを見るのみである。  また、放課後、部活で女子マネージャーから汗を拭くタオルを受け取るとき、男はいつもなら普通の人間に対する反応を示していたが、今はそのマネージャーに失礼だというくらい何の反応も示さない。まるでマネキンか何かを相手にしているようだ。  そして男は人間関係を失調していった。  ある日、部長からその態度について諌められると、彼はあっさりと部活をやめた。もともと、全国を目指せるほど才能のある選手ではなかったが、それでも男は熱心に部活に励んでいた。それが信じられないくらいあっさりと、である。  程なくして、学校にも来なくなった。あれほど勤勉であった男が、信じられないくらいあっさりと。  親友は、いよいよもって危機感を覚えた。そして、原因を突き止める必要がある、とも。  そうして、彼は男の家に乗り込んだ。  そして話は冒頭に戻る。 564 :閉ざされた兄と妹 ◆wzYAo8XQT. [sage] :2008/09/29(月) 10:07:42 ID:pet5HP1C 「ねえお兄ちゃん、あったかい?」  男の背後から、少女が甘い口調で問いかける。  しかし男はそれを無視する。今、男はただパソコンのディスプレイを眺めるだけの生物となっているかのようだ。 「お兄ちゃん……投下が来るまででいいから、あたしを見てよ……」  少女は寂しげにそう漏らす。だがそれでも男はただ全裸に靴下、それにネクタイのみで物言わず待機している。それが一体何の意味を持つのかは、彼にはわからなかった。  親友――彼は思案を巡らせた。男には妹が一人いることは知っている。会ったこともある。だがそれが目の前で妖艶に男に絡み付いているモノと同一だとは信じたくはなかった。  そして、あの奇妙な格好をしてディスプレイの前に正座しているモノが、あの勤勉で品行方正だった男だと同一とも信じたくはなかった。  彼はポケットに入れられた携帯電話をすばやく取り出すと、すぐにダイヤルを押した。一を二回に零を一回。すなわち警察である。  警察に通報したからといって、この事態に対して何の解決になろうか。彼はそれを考える力すらも失っていた。  しかし彼が電波を発信する前に、それは電波を発信する機能を失った。同時に彼は携帯電話を喪った。 「あなたは誰? 何をしているの?」  携帯電話を片手で握りつぶした少女が、彼にそう問いかける。  彼は少女と、そして万力でつぶされたかのように原型を留めていない彼の携帯電話を交互に眺めた。  少女の白い肢体が、薄暗い部屋によく映える。彼女の顔はとても端整で、体も優美であった。だが、彼はそれを美しいとは思わなかった。それどころか、それを恐ろしいとすら思った。 「お……お前こそ誰だ? お前はアイツの妹だろ? お前らは一体何をしているんだ!?」 「そうよ、あたしはお兄ちゃんの妹。たった一人の妹。お兄ちゃんに一番近い人間。お兄ちゃんと結ばれる資格のある唯一の人間」  少女は詠うように滑らかに答えた。だが、それによって彼は一層錯乱することになる。 「お兄ちゃんは投下を待っているの」 「“トウカ”? 何だそれは? お前は一体何を言っているんだ?」  彼の混乱は深まるのみである。少女の言っていることを何一つ理解することができない。 「おい! 一体何してんだよ! お前も!」  彼は男に呼びかける。すると先ほどまで虚ろな表情でディスプレイを眺めていた男の口が不気味に歪み、何も見ていなかった双眸に光を宿して叫んだ。 「キターーーーーーーーーーー!!」  彼は男の様子に恐怖し、数歩後ずさる。 「お、おい……」 「投下キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」  男は歓声のような、絶叫のような雄たけびを上げ、顔をディスプレイに向けたまま一心不乱に視線を左右に泳がせる。先ほどまで死人のようだった彼の顔は、みずみずしい精気にあふれている。  彼は後ずさろうとし、壁にその進行を阻まれた。  “トウカ”、“全裸にネクタイと靴下”、“絡みつく妹”。  彼の頭の中で、それらがグルグルと渦巻く。  しかしそれらは渦巻けども渦巻けども、何の形にも結実せず、彼の頭を埋めるのみである。 「よかったね、お兄ちゃん」  妹はそういいながらそっと男に寄り添った。まるで種を包む綿花のように。慈しむように、愛しむように。しかし男はただ破顔してディスプレイを眺めているのみである。  彼は恐怖した。心のそこから。  彼らは違う。俺の見ているものは、俺とは違う。人とは違う。  彼はそう思った。そして逃げ出した。  壁にぶつかり、ドアにぶつかり、地面にぶつかり。  彼は何かの追跡を恐れるように視線を左右に振りながら走った。  彼が正気を取り戻したとき、彼は駅前の通りにいた。  ショーウィンドウに映る自分の姿を見て始めて自分の顔が涙と鼻水と涎にまみれ、さらに自分が失禁していることを知った。  それから彼は男に会っていない。

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