522 :しろとすず ◆KaE2HRhLms [sage] :2009/05/08(金) 02:07:06 ID:au4Gh5d4

 声をかけたのはただ暇だったから。
 その子がよく神社にお参りに来ていたわけでも、何か特別な力を感じたわけでもない。
 その子は、その日初めて私の神社にやってきた。
 特別な力を感じるどころか、むしろとても弱々しかった。

 初めて会ったその男の子は、まだ十にも満たない年齢で、
しかも手のひらと顔を自分の涙でべとべとに塗りたくっていたのだから。
 泣き声が静かに震えていて、まるで鈴の音みたいに心地よく感じられた。

 どうしたの。なんでそんなに泣いているの? ――と、私は問うた。
 その子――この時点で私はその子に鈴と名付けた――はびくりと肩を震わせた。
 ゆっくりゆっくり、鈴が振り向く。
 どれぐらい振りだろう。
 その時、久しぶりに人間と目を合わせた。
 汚れのない子供の瞳。いつの時代も子供の純粋さは変わらない。
 純粋に泣いて、怒って、欲しがって、壊して、喜んで。

 ふと、私が純粋だったころはどれぐらい前か振り返った。
 そして、一秒もしないうちにやめた。
 無意味だ。そんなことを考えることが。
 私は純粋ではない。
 人の想いを糧にしているのだから、純粋であるはずがない。
 余所の事情は知らないけれど、きっと、神とはそういうものなのだ。



523 :しろとすず ◆KaE2HRhLms [sage] :2009/05/08(金) 02:08:01 ID:au4Gh5d4
「お姉ちゃん、だれ?」
 シロ、と答える。もちろんそんな短い名じゃない。
 儀式で読まれることを前提にした長大な名がある。
「シロお姉ちゃん……? ヤシロお姉ちゃんに、にてる」
 似てる? ああ――ヤシロっていうのがこの子の姉なんだ。
 偶然出した名前がいい展開をつくった。
 少しだけ、鈴の警戒の色が薄くなった。
 けれど、鈴の纏う空気は、より悲しみを濃くしていく。
「ヤシロおね、えちゃんじゃ……ないんだっ……。
 ぇうっ…………やっぱり、お姉ちゃんは……!」
 鈴が泣く。一際大きな声で泣く。

 神――私だけかもしれないけど――にできることの一つに、強い感情を向ける人間の心を読める、
というものがある。
 人間が数十年の時を生き、どれほど知恵を付けようとも、いくら嘘を吐き続けていても、
私が人間の内面を読み違えることはない。
 断片的ではあるけど、それだけで人の気持ちを理解することができた。

 鈴の感情は、喪失による悲しみ。
 流れ込んできたのは、遠くにいる少女に手を伸ばす鈴の姿。
 少女の輪郭は明確。ということは、死んだ訳ではない。
 輪郭を無くしているのは鈴の方だった。
 ――浮かんだ鈴の姿には、両肩が無かった。
 表情はひどく曖昧。その姿は霧に隠された林のよう。
 ヤシロという少女がなにかしらの事情で遠くに行ってしまった、ということか。

 気まぐれか、人の言うところの母性本能か。
 私は鈴の肩を掴み、抱きしめていた。
 神と人が抱き合っているなんて、まずあり得ない。
 そもそも存在の次元が違う。生きた年月が違う。
 けれど、今の私は鈴より少し大きい少女の姿だから、人の目には姉弟にしか見えないだろう。
 これだけ近いと、神の力を必要としなくても伝わってくる。
「…………ぇ? お姉ちゃん……?」
 鈴の体から緊張が抜ける。
 少しだけ増した重みから、鈴が安らいだのだとわかる。



524 :しろとすず ◆KaE2HRhLms [sage] :2009/05/08(金) 02:08:40 ID:au4Gh5d4
 次に私がやったことは――鈴の唇を奪うことだった。
 可愛かった。まるで、鈴が助けを求めているみたいで。
 ぶるぶる震えて、悲しみに打ちひしがれていて、何者にも抵抗できない。
 助けを待つことしかできない存在。弱い人間。
 人が問題を抱えながらも協力し合い、神に頼らない時代になってからは久しく見ていない。
 ひどく愛おしく感じられた。
 だから、神らしくもなく――いえ、私らしくもなく、独占したくなった。

 唇で、鈴の唇を優しく噛む。
 一旦離れ、また私は口づける。
 唇を合わせ、舌を這わせるたびに細かな反応が伝わってくる。
「ん……ぅ、うんっ…………ぷ、ぁ……」
 鈴は逃げない。私に身を任せ、なすがまま。
 唇と歯を舌で刺激して、侵入する。
 ぬるりとした口内は熱で満たされ、暖かい。
 鈴の断続的な吐息から、感情を読む。
 悲しみはない。ひたすらに先を求める欲があった。
 人はこういうものをなんと言うんだったか。
 わくわく?
 いや、期待も入り交じっているけどそれだけじゃない。
 興奮と混ざり合ったこれは――ああ、わかった。

 どきどきする、と言い表すんだったわね。



525 :しろとすず ◆KaE2HRhLms [sage] :2009/05/08(金) 02:09:29 ID:au4Gh5d4
 鈴坊と出会ってから五年ほど過ぎた。
 鈴坊はいつのまにか私の背を追い抜いていた。
 それを気にしているのか、近頃は近くで話そうとしない。
 私が神ということは知っているから、恐縮しているのだろう。
 その心構えはいいけれど、私は面白くない。
 甚だ不愉快、とまで言ってもいい。
 そもそも、視線で見下ろすことと相手を見下すことを結びつけるのは人の常識でしかない。
 仕方なく本来の姿で鈴坊を待っていたら、さらに恐縮して距離を置くという有様。
 力のある神主でもない鈴坊じゃ、そうなるのが必然か。
 見下ろしても見上げても駄目。
 ならば、別の手を用いるしかない。

 というわけで、ある手段を実行するために、こうして神社の裏の縁側に座って鈴坊を待っている。
 これが私の考え。一週間に一回、二人揃ってここでお菓子を食べる。
 たいして広くない縁側だから、必然的に近づくことになる。
 人里の美味しいお菓子も食べられるから、私にとっては一石二鳥だ。

 日が直上から降りてくるころ、鈴坊はやってくる。
 その手にお菓子を包んだ袋を持って。
「シロ姉さーん……あ、もうここで待ってたんだ」
 遅いよ、もっと早く来なさい、と私は言う。
 手招きすると、困った顔を浮かべながら鈴坊がやってくる。
 そしていつものように、できるかぎり距離を置いて腰を下ろす。
 これが鈴坊のよくないところ。
 並んでお菓子を食べようと言っているのに、私から距離を置く。



526 :しろとすず ◆KaE2HRhLms [sage] :2009/05/08(金) 02:10:43 ID:au4Gh5d4
 そんなことをしたら私がどうするかわかっているくせに、いつも同じ事を繰り返す。
 鈴坊には、お仕置きが必要だ。
 ……もしかして、お仕置きしてほしいのだろうか。

 それならば話は早い。隅に寄って座る鈴坊との距離を詰める。
 満面の笑みを浮かべ、しかし目は鋭くして。
「ちょ、待ってシロ姉さん! 僕は姉さんを避けているんじゃなくって、
 神様に慣れ慣れしくするのは失礼だと思って!
 だからもう、アレは…………」
 だーめ、とだけ言って、私は鈴坊の頭を掴む。
 この時点で、ちょっと前なら顔を真っ赤にしていたのに、今日なんか露骨に嫌そうな顔をする。
 だけど関係ない。私は今日もまた、鈴坊を引き寄せて唇を奪う。

 鈴坊がやっぱり男の子なんだな、と思うのはこの瞬間。
 初めて会って口づけをしたときと同じく、どきどきしている。
 次第に衝動が大きくなってきているのも感じ取れる。
 共に過ごした年月を重ねるごとに増していく。
 この瞬間だけは、鈴坊も私を女として認識するらしい。

 ただし、一瞬だけ。
 それを過ぎれば私のお仕置きが本格的に始まる。
 鈴坊はなんとか私を引きはがそうとするが、もう遅い。
 唇を重ねたところで、私のお仕置き――活力の吸引が始まっている。
 吸引が始まればその間対象は動けなくなる。私の方から離れるまで。
 鈴坊が意識を失う寸前のところで、唇を離す。
 途端にバランスを崩し、鈴坊は倒れた。
 今日は運悪く縁側から滑り落ちた。
 顔面から落ちたけど――いいでしょう。その方がお仕置きになるもの。

 鈴坊の持ってきてくれたチョコレイトをかじりながら、いつも考える。
 お菓子と、鈴坊の活力。
 私はどっちを目当てにして、この縁側で足をぶらぶら遊ばせているのだろう?
 そして、毎日来てくれるはずがないのにほぼ毎日ここで過ごすのは何故なのか?

 ――くだらないわね。
 鈴坊はただの人間。私はここに祀られる神。
 いつまでも共に過ごすことは叶わず、この時もまた、過ぎてゆく時に埋没していくだけ――
最終更新:2009年05月08日 04:15