※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

80 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:35:34 ID:oi4vUM3L


 ――殺さなくてはいけない。

 そうだ、何を躊躇することがある。嫌というほどに味わっただろう。地面に落ちる生首を二
つ見ても、まだ思い知らないのか。いちいち悩んでいたら、自分がそうなることは明白だ。悩
む。そんな人間らしい行為が、ここには必要がない。
 狂気倶楽部。
 殺し殺されが当たり前だと思わなければ、此処にいることはできない。
 ――覚悟を決めよう。
 くるりと、僕は魔術短剣を逆手に持ち替えた。銀の刃の長さは巨大鋏と大差ない。傘や杖の
間合いに比べれば、はるかに短い。だからこそ、悩んでいたらだめだ。殺すことを決めてさら
に内側まで踏み込まなければ、アリスを殺すことなどできるはずがない。
 一歩を踏み出した。
 ――何のために?
 頭の中で誰かが訊ねてくる。それは姉さんだったかもしれないし神無士乃だったかもしれな
いし、僕自身の声だったかもしれない。如月更紗でないことだけは確かだ。マッド・ハンター
は僕の前にいる。僕の前で、アリスと凌ぎあいをしているのだから。
 ――何のために殺すんだい。
 頭の中で誰かが問う。
 声に出して僕は答える。
「殺されないために」
 頭の中で誰かが笑う。
 にやにやと笑っている。 
 けたけたと笑っている。
 ――殺されないために殺すのか。
「そうだよ」
 さらに一歩。踏み込んだ左足の感触が不確かで、自分が屋上にいることを忘れそうになる。
僕が歩み寄ることにまったく意識を払わず、アリスとマッド・ハンターは切り結ぶ。突き刺す
ような傘の一撃を、マッド・ハンターは鋏で受け、杖を打ち返す。その杖はアリスには届かな
い。スカートをなびかせてくるりくるりとよけていく。狂り狂りと戦っている。
 ――如月更紗を助けるために?
「そうだよ」
 笑いながらたずねる声に僕はこたえる。僕は笑わない。笑う必要がない。笑う理由がない。
笑わないままに僕は考える。 
 如月更紗を守るために殺す。
 僕を守るといってくれた少女を守るために、僕を殺すべくやってきたアリスを殺す。
 ああ――なんだ。
 式にしてみれば、単純なことだったんだ。余分な要素である如月更紗を除けば、ごくありふ
れた単純な答えが出てくる。
 殺しにきたから、殺すのだ。
 わかりやすい。
 わかりやすくて、笑ってしまいそうになる。この場に如月更紗は必要ないのだ。問題は僕と
アリス。ならば問題を片付けるのは僕かアリスというのが筋だろう。
 待っていろ、如月更紗。
 五月ウサギがそうしたように。
 白の女王がそうしたように。

 僕が今、そいつを殺してやる。



81 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:36:44 ID:oi4vUM3L

 三歩目を踏み出す。そのときにはもうアリスとマッド・ハンターの領域に踏み込んでいた。
両方から意識が向けられるのがわかる。視線を向けずに手もとめないのはさすがといったとこ
ろだろう。構わない。僕は逆手に握ったナイフを下から振り上げる。軌道上には傘の腹。斬る
ことができないのはわかっている。アリスは斬戟を傘で防ぎ、
 防いだ傘が、上に撥ねる。
 ごくごく単純な理由で。傘を抑える力よりも、ナイフを振るう力の方が強いという単純な理
由で、傘が撥ねあがる。
 アリスが――そしてマッド・ハンターから、幽かな驚きを感じる。
 何を驚くことがあるんだろう。
 出来る。
 出来る。
 出来るのだ。彼女たちにできて自分に出来ないはずがない。姉さんの遺品で斬れないものが
あるはずがない。
 そう自分に言い聞かせて――僕は四歩目を踏み込んだ。
 距離は埋まらない。アリスはマッド・ハンターの攻撃をかわすために後ろに跳んでいる。そ
のアリスに追随してナイフを突き出す、体を捻ってアリスはよけ、反撃にきた傘を左手で払う。
 成る程。
 二対一であるのなら、アリスでも容易にはいかないらしい。いや、今の僕なら一対一ですら
十分かもしれない。独りでもこれを殺しきれるかもしれない。
 いや、
 殺しきる。
 確信をもって五歩目を踏み込む。ナイフを握る手に力をこめる。振り下ろされた傘を振り上
げて弾く。硬い金属音。手にわずかな痺れ。ナイフを持つ手は放さない。傘を持つ手を狙って
蹴り上げるが、後ろに大きく跳んでかわされる。さすがに体勢がくずれていたので、すぐに追
撃することができない。再び間合いが開いてしまう。
 それでも。
「…………」
 裁罪のアリスの背はフェンスに触れていた。それ以上下がることはできない。間合いはじり
じりと詰まるだけだ。追い詰めたと、そう言っていいのだろう。
 逃げ場はない。
 さぁ――首を撥ねよう。
 後ろから駆けてくるマッド・ハンターの足音を聞きながら、六歩目を踏み出す。もしもこの
とき、僕が冷静であれば気づいていただろう。殺意という熱病におかされていなければ疑った
ことだろう。
 狂気は感染する。
 観客がいつの間にか舞台にあがるように。
 だから僕は気づけなかった――裁罪のアリスの顔に未だに笑みが浮かんでいることに。彼女
が少しも追い詰められていないことに。傘の柄を両手で握ったことに。
 だから僕は疑えなかった――裁罪のアリスが今の今まで遊んでいたのだという、その事実に。
「君は――こちら側の罪人だね」
 アリスが嘯く。どこかマッド・ハンターににた口調。僕はその口をふさぎたくて、ナイフの
狙いをアリスの首に定める。後ろから足音。どこか切羽詰ったような。
 そして、
 やっぱり同時だったように思う――僕が七歩目を踏み出すのと、アリスが傘を振るおうとす
るのと、
「冬継くん!!」
 如月更紗の金切り声が聞こえるのとは。


82 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:38:28 ID:oi4vUM3L
 いや――彼女はたぶん、ずっと僕の名前を呼んでいたのだろう。声はかすれて悲鳴じみてい
た。幾度となく名前を呼んだに違いない。最後の瞬間まで僕の耳に届かなかったという、それ
だけの話。
 声を聞く精神的理由なんてなかったから。
 如月更紗の声は――制止の声だったから。
 それでもとまらない僕に対して、如月更紗は強硬手段に出たのだ。つまりは――思い切り、
横合いから僕を突き飛ばした。それが彼女にできるたった一つのさえたやり方だったから。突
き飛ばされてようやく僕はかすかな冷静さを取り戻して、彼女が名前を呼んでいるように気づ
いた――なんて、いかにも冷静っぽく考えることができたのは、もうすべてが間に合わないと
わかってしまったからだった。そして次の瞬間には精神が崩壊することがわかっているからこ
その、一瞬の冷静さ。
 だから、全部見えてしまった。
 如月更紗が僕を突き飛ばす姿を。敵であるアリスではなく、僕を見ていた彼女と目があった
。彼女は笑っていた。にやにや笑いではなく。死ぬ一瞬前まで、どこか満足そうに笑っていた
。正面から突き出された傘の先端、そこに仕込まれていた銀のナイフに首を切り飛ばされても
――如月更紗は、笑っていたのだった。
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
 ……………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………………………
……………………………………………………………………………………………………………?
  え?
 なんだこれ。
 何の冗句だ。何の冗談だ。何が本当で何が真実だ。僕はもう一度如月更紗を見る。ひょっと
したら如月更紗だったものを見る。ソレが今も如月更紗なのかは自信がない。如月更紗なのだ
としたら、どっちだ? どっちが如月更紗なのだ。首から上を失って地面に倒れ、切断面から
ポンプのように血を噴出した体が如月更紗なのか。それともコンクリートの上をころころと転
がって、虚ろな瞳で僕を見る顔が如月更紗なのか。どっちも如月更紗なのか。どっちも如月更
紗じゃないのか。生きているのか死んでいるのか死んでいたのか生きていたのか。
 笑えよ、如月更紗。
 いつもみたいにさ。


83 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:39:21 ID:oi4vUM3L
「お終い、お終い――」
 アリスが楽しそうに笑う。如月更紗の代わりに笑う。噴出する血のほとんどは傘で受けてい
て、ただでさえ黒い傘は赤黒く染まっていた。あの傘はもしかしたら、はじめは白かったのか
もしれない。返り血を受けすぎていつしか黒くなった傘。黒いアリス。白と赤の混ざり合って
いた服は、如月更紗の血を加えることで赤に染まっていた。赤いウェディングドレス。血まみ
れの花嫁。物語の中から出てきたみたいに。悪夢の中から出てきたみたいに。雲もないのに傘
をさして笑っている。月光を防いでいるのか。
 雨が降っている。
 晴れているのに、赤い雨が降っている。
 そうじゃなきゃ、地面が赤くぬれるものか。
 そうじゃなきゃ、僕の瞳を流れるコレはいったいなんだっていうんだ?
 わからない。
 教えろよ、如月更紗。
 なんか言え。
 なにか言えよ如月更紗。そんなところで黙ってないで、いつもみたいに笑いながら話してみ
ろ。まじめなことでも下品なことでもいい。お前には沈黙は似合わない。益体もないことを延
々としゃべり続けるほうがお前らしいんだよ。屋上での饒舌ぶりはどうした。聞いてもいない
ことをぺらぺらとしゃべり続けるのがお前なんじゃないのか。それじゃあまるで、クラスの中
で窓を見ているときみたいじゃないか。僕と何の接点もなかった頃の如月更紗みたいじゃない
か。
 ああ。
 そうか。
 僕以外がいるからか? 教室の中では決して本性を出さなかったように――この場に僕以外
がいるから、お前は沈黙しているのか? 僕以外。僕とお前ともう一人。裁罪のアリスがいる
から、お前は黙っているのか。
 それもそうだよな。
 聞かれた困るようなことばかり、お前は言うからな。
 実際勘違いされると思うぞ、あんなことをぺらぺらと喋っていれば。深窓の令嬢が下ネタ親
父だなんて誰も思わないし。そもそもお前が狂気倶楽部の一員だなんて、誰一人として想像す
らしないだろうよ。
 狂気倶楽部の一員。
 狂気倶楽部。
 狂気倶楽部。
 狂気倶楽部?
 狂気倶楽部!
 姉さんがいた狂気倶楽部。
 姉さんを殺した狂気倶楽部。
 如月更紗がいた狂気倶楽部。
 如月更紗を殺した狂気倶楽部。
 彼女の姉がいた狂気倶楽部。
 彼女の姉を殺した狂気倶楽部。
 姉さんを殺したやつがいた狂気倶楽部。
 如月更紗を殺したやつがいた狂気倶楽部。
 如月更紗の姉を殺したやつがいた狂気倶楽部。
 狂気! 狂気! 狂気倶楽部!
 狂っている。
 狂っている。
 誰が狂っている?
 僕が狂っている。
 うん――正しい。模範解答だ。
 僕が狂っている。
 僕は狂っている。
 僕と狂っている。
 僕で狂っている。


84 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:40:53 ID:oi4vUM3L
 裁罪のアリスが何か言う。終わりと告げる言葉を吐く。不思議の国のお茶会は、アリスが退
屈することで終わる。でも、あれは終わりじゃない。アリスがいなくなったとしても、彼ら三
人は延々と延々と延々とお茶会を続けている。アリスはイレギュラーだ。本来その閉ざされた
世界には必要なかった要素だ。お茶会をかきまわして、わけがわからず、やがて飽きて退席し
て消えたアリス。彼女には彼女の物語があった。彼らは彼らの物語を続けた。
 なあ、裁罪のアリス。
 そろそろ退屈しただろうし――帰れよ。
 さあ、マッド・ハンター。

 僕がお茶会を続けようか。

「――お終い、」
 ・・・・ ・・・・・・・・・
「お茶会は、終わらないものだろ」
 持っていた魔術短剣を顔もあげずに投げつける。声だけで位置は把握している。はずすつも
りはない。放ったナイフは一直線にアリスの腹へと向かう。顔に投げつけるよりも致死性は低
い――ただし面積が広いのであたりやすく、顔よりはよけるのに時間がかかる。ほんの一秒に
も満たないだけの時間が。
 それだけで十分だった。
 僕はアリスがナイフをよけるその時間で、如月更紗の鋏を拾い上げた。重い。ずっしりとし
た感触が、これがまぎれもない凶器なのだと教えてくれる。刃は鋭く、触れただけでも切って
しまいそうだった。もち手の部分に人差し指と中指をかけ、片手でぶらさげるように持つ。
 アリスの背後で魔術短剣がフェンスに突き刺さって大きな音をたてた。知らなかった。あの
短剣、そこまで鋭かったのか。フェンスにはじかれるかと思ったら、金網を破って途中まで突
き刺さり、そのまま落ちてこない。
 愉快だった。
 僕は笑っていたのかもしれない。どこからともなく聞こえてくる笑い声が僕のものなら、き
っとそうなのだろう。口だけが無関係に笑っている。頭はひどくさめている。体は興奮してい
る。心は沈黙している。なきながら笑い、僕は鋏でアリスの顔を横殴りにした。傘で防がれる
。衝撃までは殺せずに、体が後ろにかしぐ。僕はさらに一歩を踏み込んで、傘を思い切り正面
から蹴り突く。飛び出た刃は恐ろしいが、防刃の部分にまで武器がしこめるわけじゃない。は
じめから体勢を崩すことを狙った一撃。ただでさえかしいでいたところに衝撃が加えられ、裁
罪のアリスは尻餅をつく。と思いきや、片手でバランスを取って立ち上がった。すごいな、こ
の傘を片手だけで振るっていたのか。奇妙に関心しながら、それでも僕はさらに前へと進んで
いた。
 後ろに下がるよりも前に進むほうが速い。
 ましてや今は物語の中だ御伽噺の中だ悪夢の中だ。それくらいできないほうがおかしい。だ
ってそうだろう、そうでなきゃ、如月更紗が死ぬわけがない。
 死んでいいはずがない。
 こうも簡単に――人が死んでいくはずがない。
 如月更紗も神無士乃も姉さんも死んだ。それ以外にもたくさん死んだし、これからもたぶん
死ぬだろう。こんなに簡単に人がしにまくってたまるか。そんな現実があってたまるか。
 だからこれは、ごっこ遊びだ。
 キャラクターを演じて殺し殺され死んで死なれる狂ったお話だ。
 脚本はない。
 だから終わりもない。
 人が死んでも、『キャラクター』は消えはしない。


85 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:42:00 ID:oi4vUM3L
「アリスはお茶会に呼ばれなかった」
 僕は前へ前へ前へ。さがるアリスの前へ、傘の内側に入ってせまる。アリスの笑みに少しだ
け驚きがまざる。傘が仕込である以上、内側へ入ってしまえばその攻撃範囲ではない。息が触
れるほどに近い距離。
 そしてそこは、鋏の間合いだ。
 僕は右手で鋏を突き出す。アリスの右手に止められる。あたらないと見るや傘をあっさりと
手放していた。右手が右手で止められる。さすがとほめるべきなのか、力は完全に拮抗してい
た。手をつなぎあったまま僕らはさらに後ろへ。
 防がれることは、わかっていた。 
 そんなのは初めからただのおとり。重要なのは左手。アリスの左手は地面から復帰するため
に使ったために後ろにあり、魔術短剣を投げ終えた僕の左手は空いていた。武器すらない。武
器がないということは、空いているということだ。
 何も持たない手をまっすぐに伸ばし、アリスの首をつかむ。
 片手でつかめるくらいに細い首だった。あいにくと握力を鍛えたりはしていないので折れた
りはしない。せいぜい器官がしまるくらいだ。窒息死する前に、唯一あいているアリスの左手
は反撃するだろう。瞳をつかれるか隠し武器でも持ち出すか。
 なんでもよかった。
 右手と右手が絡み合い、左手で彼女の体を固定できれば、もうそれだけでよかった。反撃も
攻撃もはじめから頭にない。絡みあった体勢のまま、僕はさらに前へと跳ぶ。今までの加速度
にさらに加速度を加えてかける。アリスは目的を悟ったようだが、意味がない。僕よりも少し
だけ小さなアリスは、首と手をつかまれて体がわずかに浮いている。
 ふんばるだけの力を足にこめることができない。
 左手が、動こうとした。
 その瞬間、アリスの体がフェンスに押し付けられる。左手が体とフェンスに挟まれるように
して動くことができない。僥倖だ。反撃されなかった。
 まあ、意味がない。
 反撃も攻撃も、もう意味はない。
「そろそろ――退場する時間だ」
 僕は間近で彼女にそうささやいて。
 さらに足に力を入れて、踏み込んだ。
 あっけないほどに、あっさりと。

 フェンスを、乗り越えた。



86 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:42:54 ID:oi4vUM3L

 落下防止のフェンスは元より高くない。はじめは鉄柵だけだったものを、隙間を埋めるよう
に金網で補強したフェンスだ。出入り禁止されている以上、フェンスは手入れも何もされてい
ない。壊れやすくなったフェンスはむちゃくちゃな力を加えられて斜めにかしぎ、僕は力まか
せにアリスの首をつかんだまま外に押し出した。
 自身の体ごと。
 放すつもりはなかった――突き落としただけでは無事に復帰するに決まっている。それだけ
のでたらめさをアリスは持っている。確実にするために、僕は自分の体を重りに、自身ごと屋
上の外へと飛び出した。
 冗談のように、何もなかった。
 足場がない。壁がない。地面は四階分の高さを隔てたところにあって、重力だけが嬉々とし
て僕らを待っていた。
 アリスは――笑っていた。首をしめられ屋上から突き飛ばされて、笑っていた。
 だから、僕も笑った。
 笑って、そのまま落下した。アリスの腹に両膝を添える。右手に力を加え続ける。落下まで
の間に突き刺そうと思ったが、さすがにそれほどやわではないらしい。左手はもはや固定する
ためだけのものになっている。左手が僕の首を握った。なるほど、相手も途中で逃がすつもり
はないらしい。
 落下時間は、恐ろしいほどに長かった。
 そして、衝撃は唐突にきた。神経に無理やり電流を流されたような衝撃。衝撃がくるその瞬
間まで、僕は両手も足も離さなかった。アリスは笑うのをやめなかった。笑うのをやめないま
まに、アリスは『広がった』。アリスだったものは僕と地面に挟まれて破裂し、その内容物を
撒き散らしながら表面積を広げた。笑い顔だけは消えていなかった。
 僕は。
 僕はごろりと、彼女から手をはずして横になった。上から見れば、添い寝しているにすら見
えるだろう。アリスから流れ出た血が体を汚していく。地面は冷たい。血は暑い。無茶をした
手足がもう動かない。起き上がることもできない。顔を動かすこともできない。
 転がったままに、見えるものだけを見た。
 屋上ごしに、月が見えた。
 きれいな月だった。
 姉さんはいない。
 神無士乃はいない。
 如月更紗はいない。
 誰もいない。
 君がいない。
 誰かに見られているような気がして、僕はそれが月だと気づいて、大笑いした。
 そこから先は、よく覚えていない。
 笑いながらに、僕はすべてとともに意識を失ったから。





87 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:46:43 ID:oi4vUM3L


  • BADEND 『君の代わりに誰かがいる。』


 すべてが終わった数日後、須藤幹也は喫茶店グリムのドアをくぐった。軽い鈴の音と共にド
アが閉じ、喫茶店の中にいた幾人かの視線が向けられ、すぐにはずされる。喫茶店の中は薄暗
く、客はその幾人しかいなかった。それでも多いほうだ、と幹也は思った。アングラな喫茶店
グリムからすれば、客がいるほうが珍しいのだ。平日の昼間から彼女たちは何をしているのだ
ろう、と思うが、とくに何も言わない。それは、自分も同じことだからだ。
 平日の昼下がり。
 喫茶店の中にいる少女たちは、思い思いの時間を過ごしている。本を読む者、本を書く者、
紅茶とケーキを楽しむ者。共通することは日常に馴染めない子たちであること。日常から乖離
するかの如く異端な服に身を包み、自身を特別であると信じている。特別である自分を演じよ
うとしている。
 退屈だな、と幹也は思った。いつものように退屈だった。それは彼にとっては見慣れたもの
で、見飽きたものだった。さがせば一山いくらで見つかるだろう。ほんの少し踏み込めば、誰
だってそうなることはできる。彼がこの古巣に戻ってきた理由は彼女たちではない。彼女たち
がうらやみ、あこがれ、心の底で忌避するものに愛に来たのだ。
 それは、普段は心の奥底で、深く深くで眠っているものだ。
 気づいてしまえば、取り返しのつかないものだ。
 アングラである喫茶店グリムの――さらに下。物理的な意味でも『下』に存在する図書室に
、須藤幹也は用があった。
 連れは一人。
「兄さん」
 車椅子に座った少女が幹也を呼ぶ。その手と足は人工のものだ。動くことも、歩くこともで
きる――それでもそれは万能ではない。彼女は普段から車椅子を使う。そうすることで、兄で
ある幹也をつなぎとめられるから。彼に世話をしてもらえるから。
 妹――須藤冬華にとっては、兄である幹也が世界のすべてだった。
「お願いします」
 ため息で答え、幹也は冬華を抱き上げた。地下へは車椅子を持って降りることができない。
冬華の細い身体をお姫様のように抱きかかえ、幹也は地下へと向かう。店内の注目が集まって
いるのがわかる。二人の間柄に、ではない。下へと降りることができる二人組に。
 冬華の目には幹也しか映っておらず、幹也にしてみればそれこそどうでもいいことだった。
それとなく向けられる注目を気にすることなく、幹也は階段をくだる。とたん、とたん、とた
ん――一段降りるたびに階段が音をたてる。奈落へと続く階段を、気負うことなく降りていく。




88 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:47:21 ID:oi4vUM3L


 かつん、
 かつん。
 かつこん、
 かつこん。
 狭い階段の中で音が反響する。その音をメロディにして、須藤幹也は歌を口ずさむ。
「雨に――唄えば――」
 振い歌を歌いながら幹也は階段を降り続ける。そこ以外は歌わない。同じフレーズを延々と
延々と口ずさみながら、幹也は降りていく。地下へと降りる階段は、きっちり13段。頭の中
でその数字を数えながら、その回数だけサビを繰り返す。雨の中で唄う曲。降りしきる雨の中
で楽しげに踊る曲。
 雨は降っていない。
 ここからでは、空は見えなかった。
 月もまた、見えなかった。
 そうして、須藤幹也と冬華は階段を降り終えて。

「お見事、お見事、大見事。さすがに歌が上手いわね、元三月ウサギ」

 ぱん、ぱん、ぱん、と。
 なげやりな拍手の音が、須藤幹也を歓迎した。
 冬華の声ではない。鋭く、嘲るような、楽しげな声だった。冬華を抱えたままに、拍手と声
のする方向を幹也は見た。
 いつかと逆だった。
 部屋の奥。安楽椅子に腰掛けて、革靴をはいたままの靴を机に載せて。長く艶のある黒髪の
人物が立っていた。男物のタキシードをきて、小さなシルクハットをかぶり、おまけに黒い杖
まで持っていた。
 机の上には、一つの鋏。
 赤い染みのついた、凶器以外の用途が存在しない巨大鋏。
 ここにいるということは、言うまでも無く――狂気倶楽部の一員である。
 その名を、幹也は口にした。
「……マッド・ハンター。いたのか」
「あら、あら、あら。君がいなくなるときいて――せっかく見送りにきたのに」
「怪我はいいのかい」
 言葉とは裏腹に、声は少しも体調を慮った色はなかった。それがわかっているのか、マッド
  • ハンターも笑みを浮かべるだけだった。怪我が治っていようが治っていまいが、そんなこと
は関係がないと。
 退屈しのぎにはなるか、と思いながら幹也は本棚に背をもたれかけた。抱きしめていた冬華
の身体を下ろすと、彼女は幹也の胸に身体を預けるようにして立った。両の手が引っ張られて
、冬華の前に回される。旗から見れば幹也が冬華を抱きしめているように見えるだろうが、そ
の実は逆でしかなかった。





89 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:50:57 ID:oi4vUM3L

 退屈。
 そう――退屈しのぎだった。あの夜、死に掛けていたマッド・ハンターを助けたのも、ただ
の退屈しのぎでしかなかった。そうすれば暇が潰れるだろうという、それだけだった。命がど
うなったかも興味はなく、こうなった今も、何も感慨はない。
 お茶会が続いている。
 それだけのことだ。
「なぁ、イカレ帽子屋」
 退屈のままに、幹也は言う。
 それだけは、聞いておきたかったから。
 この街を、狂気倶楽部を立ち去る前に、それだけは聞いておきたかった。
 だから、幹也は尋ねた。
「お前は如月更紗のことが好きなのか?」
 過去形ではない、現在進行形であるその言葉に。
 ・・
 彼は。
 マッド・ハンターは答えなかった。彼女の衣装に身に纏い、彼女の髪から創ったカツラをか
ぶり、彼女と同じ武器を持ち、彼女と同じ役を演じる彼は。
 如月更紗という役を、マッド・ハンターという役を演じる彼は、満足そうに笑うだけだった
。その質問は正しいと、彼は笑った。
 彼女は消えていない。
 如月更紗は死んでいない。キャラクターを演じるものが居る限り、『如月更紗』は消えはし
ない。
 彼女は此処にいる。
 如月更紗は此処にいる。
 それだけが全てだった。
 その笑みだけで満足だったのだろう。冬継は妹を抱きかかえて踵を返す。もう此処には用は
なかった。彼が演じる役割はもう残っていない。あとの物語は、もう関係のないことだった。
「雨に――唄えば――」
 唄いながら、須藤幹也は階段を昇る。その背中を、新たなマッド・ハンターは見つめている
。にやにやと、にやにやにやと笑いながら、その背中が消えるまで見続けていた。




90 :いない君といる誰か ◆msUmpMmFSs [sage] :2007/10/29(月) 19:57:04 ID:oi4vUM3L


 お茶会は、終わらない。



   《続かない》