第一話


 日に一度は必ず型をとり、技を振るう。
 師父にそう教わり、欠かすことなく行ってきたのは俺にとってある種誇りである。
 全身に酸素を行き渡らせるように呼気をし、丹田に力を蓄えながらゆっくりと体を動かす。
 呼吸こそが内功の基礎であり極意。そう信じなければ俺とて毎日スーハースーハーなどできない。
 塀を起点として圧腿をし、準備運動とする。
 圧腿はすべての基本だ。これを怠る人間で強い人間を俺は見たことがない。それくらい大事な物だ。
 はじめは全く開かなかった関節も10年以上やっていればそれなりには開くようになる。
 正確には測ったことはなかったが、圧腿の時間が修練の中で一番比重を占めていると俺は思う。
 暗かった周りが明るみ始めるころになってやっと圧腿は終わり、次の段階へと進む。
 次は歩型である。これまた大事なものなので欠かすことはできない。
 特に三体式と跟歩を練習しない日など存在するはずがない。
 土を掴むように足を運び、しっかりと一歩一歩確認するように進んでいく。
 素早く動くことよりも寧ろどれだけきちんと型が為されているかを知ることが大事だと師父は語っていた。
 型さえ理にかなえば動くことは後についてくる。
 三体式と劈拳ばかりで技をなかなか教えてくれないと文句を言う俺に、そう言っていたのを今でも鮮明に思い出せる。
 基礎さえできない人間に技を教えようとも身につくはずがないのだ。
 ここまでで朝の練習時間は殆んど使い切ってしまう。
 最後に五行拳を軽くこなす頃にそばに置いていた目覚まし時計のベルが鳴ってしまう。
 数時間の修練では基礎中の基礎もロクにこなせるものではない。
 アパートの裏庭、今週はまだ刈っていない雑草が生い茂る中俺は微かに溜息をつくのだった。

「……腹減った。」

 もうどれぐらい朝飯を食べていないだろう。人間二食のみが理想とされるが、俺にはあまりにもきつすぎる。
 ただですらでかい体なのだ。食事を摂らなければ最適な筋肉状態も作り出せない。
 ぐーぐー鳴るお腹を無視して裏庭から非常階段で二階の自分の部屋の前まで登る。
 着ていたシャツとズボンは汗で濡れ、気持ち悪いほどに肌に張り付く。
 しかし掻いた汗こそが修練の証と見るならば悪くはない。
 玄関の入口に備え付けられた10年以上前の洗濯機に服を放り込むと軽くシャワーを浴び、制服に着替える。
 夏でも冬でも詰襟姿でいるのは一つの修練である。
 暑さや寒さに囚われ、自身の体を崩さないために内功を鍛え続ける。その為に俺はいつも詰襟なのだ。
 ……嘘である。単純にYシャツを買えないからいつも詰襟を上まで締めているのだ。
 泣きたくなるような現実を思い返し、暗鬱とした溜息を吐かないうちに玄関を開けるとなぜかいつも奴の顔が現れる。

「おはよう、楊!」

 なぜか俺の洗濯機から服をとりだし、満面の笑顔で俺を出迎えた女。
 一つ下の学年で久住椎名(くずみしいな)。お節介な大家の娘である。
 こう言ってしまうとお節介なのは大家なのか娘なのか。どちらか分からなくなるから言っておくが、娘がお節介なのだ。
 頼んでいないのに料理はするし、洗濯もする。ついでに何故か弁当まで作る時がある。
 腕前は中の下と言ったところなので美味からず不味からず。ふつうの味だ。いや、少し落ちるか。
 まあ炒飯しか作れない俺よりかは数百倍マシである。

「ああ、おはよう。」

 無難に挨拶を返すと鞄を持ちなおし、先に歩き始める。
 今朝まで俺が着ていたシャツとズボンを自分の家の洗濯機に入れると、椎名は黙ってニコニコと俺のすぐ後ろを歩く。
 怖いからやめろと何度言っても聞かないので諦めたが、すぐ後ろにぴったりと付かれるのは正直気分がよくない。

「椎名、横を歩け。」

「ううん。私後ろがいいの。すぐ後ろが、いいの。ずっとずっと、ずっと。後ろなの。」

 それは俺を暗殺できる場所がいいと言っているのだろうか。末恐ろしい話だ。

「それにしても暑いの。」

「ああ。」

 6月も半ばだというのに暑くなったり涼しくなったり。忙しない天気に文句すら言いたくなる。
 温暖化のせいでクーラーのない俺の部屋は蒸し風呂状態である。そろそろ扇風機もご臨終しそうだ。

「楊、今日はお昼何食べるの?」

「野菜炒め。」

「一緒に食堂行かないの?」

「勝手にしろ。」

 俺達の会話は基本的に椎名が話しかけ、俺が答える形式をとる。
 殆んどが短答であり、人によっては俺が怒っているとすらとることがあるそうだ。

「昨日のお笑いがね、面白かったの!」

「そうか。」

 殆んど流すように頷き、前に集中する。
 多分ではあったが、この角に奴はいる。そう確信がもてる程度にはこの生活に慣れつつあった。
 そして角を曲がると長い金髪の切れ長の目を持つ女が突っ立っていた。
 俺を見るや否やその端整な顔を歪ませ、まるでゴキブリを見たかのような反応を示す女。
 百乃恵(もものめぐみ)である。
 だが次の瞬間椎名の顔を見ると喜色満面、ロケットスタートで俺の傍らを過ぎて椎名に抱きついた。
 角を曲がって1秒の出来事である。早業という他ない。
 ついでに傍らを過ぎるついでに鞄の角を俺の腹にぶち込むという荒業付きである。
 内功を鍛えてなければ色々吐き出していたかもしれない。それぐらい綺麗に鳩尾に入れてきやがりました。
 まあ吐き出すものなんてお腹の中にないですけどね。ああ、胃液が存在した。

「おはようおはようおはようおはようおはよう椎名ぁぁん!!」

「お……おはよ、恵。」

 引きつった笑顔を浮かべる椎名と恍惚とした笑顔の百乃。
 この二人を見てまわりを歩いていた男子生徒が崩れ落ち、立てなくなる。
 えも言われぬ色気を醸し出す二人である。本能を刺激され立てなくなるのは分からなくもない。
 うおうふっ……と次々と中腰になっていく男子生徒達を無視し、三人……一人と二人で歩く。
 もう慣れた。ガチ百合を延々と後ろで繰り広げられる毎日に、俺は慣れてしまった。

「恵、離してよぅ。」

「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ……うっ……椎名ぁぁん!」

 何が起こってるのか気になるが、決して振り向かない。振りむきたくない。
 ちなみに俺が今平然としているのは不能だからではない。あくまでも自己鍛錬の成果である。
 どんな時も心を平静に保てば体も自然とついてくる。性欲が一番コントロールしやすい欲望なのだ。

「楊ぅぅぅ!」

「知ってるか、椎名。オランダでは同性結婚ができるらしいぞ。」

「椎名ぁぁん!椎名ぁぁん!おおおおおおらんだ!オランダ!!いき、いきましょぉぉぉぅ!」

 悲鳴と嬌声が今日も織りなす空間で、俺は今朝も元気に登校しています。

「締めないでぇぇぇ!!」

「椎名ぁぁぁぁん!!……うっ!」
最終更新:2009年07月20日 11:23