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第八話


 自宅謹慎と言えども日曜日は存在する。フリーダムタイムである。
 一日中修練をすることも考えたが、こうして時間が空いたならばバイトをしてお金を貯めるのが現代人というものだ。
 10時から18時までの8時間をみっちりと入れ、汗だくになりながら食器と鍋を洗い続ける。
 昼時が終わり、15時にもなると客足はトタンに途切れてすることがなくなる。
 基本的にこの時間帯に交代交代で昼飯を食べるのだ。
 ティエンホアさんが作ったあまりものの点心とチャーハンを食べて幸せなひと時を感じていると、当の本人が暇そうに近づいてきた。

「どうしてヤンは武術を始めたアルか?」

 いつものように胡散臭い偽北京語で話しかけてくるティエンホアさん。
 昼が過ぎ、丁度客足が遠ざかったアイドルタイムだったため手が空いていたのだろう。
 数秒考えた。武術を始めたきっかけを語るのは別段構わない話だったが、人に語ったことはない。
 そのためどう順番づけて話せばいいのか分からなかったのだ。

「聞いちゃ不味かったアルか?」

 心配そうに首をかしげてこちらに顔を寄せるティエンホアさんに首を横に振ることで答えを返す。
 兎にも角にも最初から話していけば済む事だと思い立ち、口を開いた。

「……俺が、武術を始めたのは。」


 俺が武術を始めたのは幼稚園生の頃だった。
 当時の俺は今思うととんでもなく嫌な奴だった。
 自分の思い通りに世界は動くと考え、人の作った砂の山は壊すし、暴力もふるっていた。
 だから当然ながら苛められる対象になり、殆んどの人間に嫌われていたと思う。
 その日も俺は3人ばかりに囲まれてボコボコにされていた。
 家に帰ってから何も言わずに飛び出し、公園の器具を殴ったり蹴ったり。……今思っても恥ずかしいな。最低の行為だ。
 まあ、当時の俺にとっては修行のつもりだったんだろう。
 テレビアニメの見過ぎだった。ちょっと鍛えればすぐに最強になれると思っていたのだから。
 そこで出会ったのが師父だ。
 ブランコを殴っているところを突然後ろから拳を止められ、静かに諭された。

「玩具、殴る、よくない。」

 当時の師父は日本語がうまくなかったが、子供にとってはそんなことはどうでもよかったのだと思う。
 修行を邪魔されたと思って俺はふてくされ、手近なベンチに音を立てて座った。
 それを微笑ましげに見ていた師父は黙ってブランコに座り、その日は何も喋らなかった。
 俺は次の日も公園に来て器具を殴る蹴るをして師父に止められた。
 その次の日も、あくる日も。
 そうして一週間が経つころに、俺はまた5人ほどに囲まれてボコボコにされた。
 青タンと擦り傷。今思えば大したことはない傷だったが当時は重症に思えてならないものだった。
 悔しくて悔しくて、当時の俺は漫画で仕入れた口汚い言葉で彼らを罵ったものだ。
 あの頃は平気で死ね、や殺すを言っていた。……それがどれだけ酷いことかも考えないで。
 そんなこんなで傷だらけでいつもの公園でベンチに横になっていると、初めて師父から話しかけてきた。

「なぜ、けが。」

 子供ってのは大人よりもプライドの形が分かりやすい。聞かれたくないことを聞かれると怒るものだ。

「別に!けーちゃんやいーちゃん達がようちゃんをいじめた!」

 ……すまん、当時の俺は自分をちゃん付けで呼んでいたのだ。聞き苦しいと思うが許してほしい。
 まあ、勝手に物事の一面だけをクローズアップして語るのは子供の悪癖だ。苦笑いで許してほしい。

「なぜ?」

「……べつに。」

 当時の俺も自分が悪いことをしたというのは分かっていた。だから聞かれると気まずかったのだ。
 師父も俺と同い年程度の孫がいた。……これは後々知った事だが。
 だから少しは俺のことも察することができたのだろう。
 溜息交じりに俺の横に座ると俺の小さな手を自分のごつごつした手で包み、呟いた。

「武術、やる?」

 俺は一二もなく大きく頷くと、わくわくしたように眼を輝かせたものだ。
 当時やっていた再放送アニメの影響でどえらい仙人の下で修業すると金髪の超人になれると信じていたのだ。
 ……笑わないでくれ。幼稚園生にそこまで現実を見据えろなんて言えないだろ?
 その日から俺は毎日のように三体式と劈拳を練習させられた。
 崩拳も鑚拳も横拳もやらされたが、徹底的にやらされたのは劈拳と三体式だった。
 八極拳も同時に教わりはしていたが、明らかに師父は形意拳に専念したがっていた。
 ……実を言うと八極拳についてはほとんど覚えていない。金剛八式を微かに覚えている程度だ。
 だから以前言った八極拳を少しというのはウソに近かった。すいません。
 日々劈拳と三体式を繰り返し、師父にぼこぼこにされる内に俺の性格も矯正されていった。
 何せ師父はとんでもなく怖かった。最初のうちは許されていたタメ口も矯正され、丁寧語にさせられた。
 7年間で関節が外されたのは10回や20回では利かないし、骨折は4回した。
 それでも俺は師父が好きだったし、尊敬していたのだ。
 いつの間にかいじめっ子に復讐するという目的は見失われ、単純に師父との修行が楽しくてしょうがなくなった。
 師父との修行で丸くなったと両親も幼稚園の先生も大喜び。実際目立たなくなると苛められることもなかった。
 誰かと遊ぶよりも師父と二人で修業していたかった。
 ゲームもアニメも、師父との時間以上の喜びを俺には与えてくれなかった。
 それから……小学校2年生くらいの頃だろうか。俺は師父に孫を紹介された。
 俺の一つ年上で、目がくりくりした俺より頭一つ大きかった女の子。
 名前は不破慧(ふわけい)。師父はフイと呼んでいたから俺もフイねぇと呼んでいた。
 会った当時は酷いショックを受けたものだ。なにせ師父を取られた気分になったんだから。
 フイねぇからしても俺は自分の祖父を奪った人間に見えたのだろう。当時は結構険悪だったものだ。
 でもそれもある日、綺麗に解消した。

 きっかけはフイねぇが同級生の男達にからかわれているのを見て、かっとなってその連中を叩きのめしたことだった。
 小学生にとっての一年年上ってのは絶対的なものと思われがちだがそうでもない。
 喧嘩もロクにしたことがない連中の急所を打つことは、簡単だった。
 まあ、増長していたのだろう。武術を力なき者に振るうことは恥ずべきことと知っていながら俺は振るってしまった。
 何故か師父にそれがばれ、俺は1週間教えを請うことを禁止された。
 ……少し、いや。かなりショックな話だった。
 師父に嫌われたのかと思うと、泣きたくなってしまった。
 公園に来なくなってしまった師父を待ち続け、ただひたすらに一人劈拳と三体式を練習する日々が続いた。
 悲しかった。ヒーローぶって天狗になっていた自分が、ひどく恥かしかった。
 暴力をまず振るうのではない。相手を諭すことから始めるという人間として基本的なことすらしなかったのだ。
 だから師父が俺に愛想をつかしたのだと思って、涙が止まらなかった。

「ヤン、拭きなよ。」

 泣きながら三体式を練習しているところに、気まり悪そうな顔をしたフイねぇがやってきてハンカチを差し出した。
 花柄で猫のようなキャラがついたそれを受け取ると、ごしごしと両目を擦って返した。
 するとフイねぇはため息をついてハンカチを広げなおし、丁寧に俺の顔を拭きなおした。
 よほどひどい顔をしていたのだろう。涙と鼻水とよだれでハンカチはぐしょぐしょになってしまっていた。
 そんな顔を見られたのが尚更恥ずかしくて、俺は更に泣いてしまった。
 そこまでくるとフイねぇもあきれたのだろう。やれやれと呟いて俺を抱きしめてくれた。
 小学校二年生と三年生だ。恥ずかしさもなにもあったものではなかった。
 とにかく俺は泣いて、フイねぇは俺を抱きしめながら頭をなで続けてくれた。
 そんなことがあってから俺はフイねぇも大好きになり、フイねぇも俺を弟のように可愛がってくれた。
 師父も俺が反省したのをちゃんと確認してから修行を再開することを許してくれた。
 俺が一番好きになったのは両親ではなく、あの人たちだったと思う。
 無論両親たちも愛している。だが他人からあれだけの愛を受けるのは、これから先もないことだろう。
 そうして小学校6年生まで俺はフイねぇと師父の3人で毎日のように修行をした。
 フイねぇはあまり修行をしたがりはしなかったけど、俺達の修行を見るのが大好きだった。
 けど、その日々は親父の転勤を機に終わってしまった。
 随分俺もゴネたものだった。東京は嫌だ、ずっとここにいる。久方ぶりに我儘を言ったと思う。
 でも親戚もいない家の状況では仕方なかった。俺は両親たちと共に東京に引っ越しをすることになったのだ。
 俺は泣いた。とにかく泣いた。声が枯れても、目が落ちくぼんでも泣き続けた。
 師父がもらい泣きしてしまうほど、修業中も泣いてしまった。

「また、会えるから、絶対、会えるから。」

 そうフイねぇが泣きながら言ってくれたことを、よく覚えている。
 転勤が決まってから一週間で引っ越しが始まってあれよあれよという間に体一つで東京に向かうことになった。
 最後の日はよく覚えている。
 駅のホームで泣いているフイねぇと、笑っている師父。
 困った顔の両親と、ぐしゃぐしゃの顔の俺。
 電車に乗る瞬間にフイねぇに呼び止められ、ハンカチで顔を拭かれて最後に唇にキスをされた。
 ……ちなみに俺のファーストキスだ。それ以降はなかったのでもしかしたらラストキスかもしれん。
 必ず休みには戻ってくると約束して電車は閉まり、無情にもプラットホームから出発した。
 ずっと手を振っているフイねぇと師父が見えなくなるまで、俺は泣きながら手を振り返していた。


「……そんな感じです。」

「……つまりいじめに対抗するために武術を始めたんだけど楽しくなって続けてたって訳アルね。」

 ……ああ、うん。確かにまとめてしまうと何とも楽な説明だ。今度からそうしよう。
 頭のシワに叩き込んでいると、ニヤリと笑ったティエンホアさんがさらにこちらに顔を近づけてきた。

「で、で?フイ姉さんとはどうなったアルか!?」

「師父の元には中1と中2の夏休みと冬休みに行きましたが、その後師父が体調を崩して中国に家族で戻って以来は連絡はないですね。」

 なんだ、とつまらなそうにティエンホアさんはつぶやいて俺から離れて行った。
 汗と油と、少しの花の香りという得も言われぬ匂いが離れていくのは少し、残念だった。
 しかし話してみると少しばかし気になるのも確かな話だ。
 フイねぇも今は18、高3だ。きっと女性らしく成長して彼氏なんかを作って青春を謳歌しているだろう。
 あれだけ器量がよくて顔も整っていたのだ。周りの男たちも放っては置かないに違いない。
 いつか再会できた時にはフイねぇの薬指なんかに指輪があって

「うん、結婚したんだ。」

 とか幸せそうに言うフイねぇを見て、俺はおめでとう、姉さんというのだろう。
 うーむ。中々に感慨深いストーリー展開だ。

「てんちょー!チャーハン2、ラーメン4!」

「アイヤー!」

 時計を見るともう5時を超え、早めの夕飯の時間になっていた。
 さっきまでが3時だったのだから実に時間の流れは早いものである。
 バイトは6時半までなのであと一息、と自分に気合を入れ直して次々と置かれる汚れた鍋に手をつけていった。