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717 名前:不安なマリア3 前編[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 22:30:43 ID:BFZhDSd1
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二人で購入を決めた数日後、ジョナサンは携帯電話を買ってきた。
小さな玩具に見え、マリアは実用性に欠けると思ったが可愛らしくもあり、気に入った。
何しろ機能はメールと通話のみ。だが、ジョナサンはこれだけで良いと言う。
「使うとしたら仕事先か、君との連絡だけだからね。」
自分以外に連絡先を知る人間がいるのは嫌な気分がしたが、仕事では仕方ない。
彼はマリアの不服そうな表情を見逃さず、おどけたようにからかった。
「仕事先くらい勘弁してくれよ。これで駄目なら伝書鳩くらいしかなくなるな。」
少しおおげさなリアクションにつられて、思わずマリアも笑っていた。
「そうそう、料金の一部は障害者用の在宅介護手当てから出るんだ。」
「だからと言っては何だけど、いつでも不安になったらかけるんだよ。いいね」
在宅介護で障害が重ければ、連絡用の通信手段などにも手当てが給付されているらしい。
政府が新しく始めた障害者向けの特別なサービスで、周知が進んでいなかったそうだ。
ジョナサンが一人、市役所で調べて手続きしてきたと言う。なぜ?と聞きかけてマリアは止めた。
彼によればいくつかの書類と診断書、住民カードをもって行けばすぐ済む手続きなのだそうだ。
本来であればマリア自身が行くべきであったのだろうが、彼女は自らの姿を気にしている。
かと言って、ジョナサンが行くことを告げれば彼女は責任を感じてしまっただろう。
一人で黙って行ってくれた彼の優しさが心にしみて、抱きしめられているような気分になる。
同時に、いかに自分が何も動かず、ただ彼に守られていることを改めて見せつけられた気がした。
しかも、ジョナサンはそんな自分の狭量な不安まで心配してくれている。嬉しさと情けなさで涙がでた。
「う・・・、あ、ありがとう。本当に・・・グス・・・すま、ない。電話、絶対かけるから。」
突然泣き出してしまったマリアだったが、ジョナサンはそんな彼女を静かに抱きしめた。
「いいんだよ。いままで何もかも一人で見すぎてたんだ。少しぐらい休んだっていいさ。」
マリアは小さく「愛している」と答え、彼をいっそう強く抱きしめた。

ジョナサンは、マリアが傷痍軍人プログラムなどを無視する理由は「軍」そのものにあると考えていた。
彼女にとって、軍はかつて自己実現の場であったと同時に、父や家の過去を壊す自己否定の場だった。
最後には、彼女と彼女の人生を閉じ込めた牢獄であったことが分かったのだが。
そして、そのためマリアにとって「自分が元軍人であること」を直視する行為は耐え難い苦痛となる。
なぜなら、若くしての退役は自己実現の失敗を、傷つく元軍人の姿は彼女の父を想起させるからだ。
彼女は無意識にせよ意識的にせよ、「無視」することでそこから逃避し、解放されたがっている。
そして彼も、今のマリアに彼女の過去と向き合う力はないと考え、またその必要性も感じなかった。
逃げることの何が悪いのか。「撤退」に値する悲劇の連続だったのだ。彼女を解放してやらなければ。
マリアに電話の手当てが実は傷痍軍人プログラムのものと教えなかったのも、そう考えたからこそ。
彼女の涙に過去への執着が感じられないことを安心したジョナサンもまた、「愛してるよ」と返した。
不安は確かに彼女の心に巣食っているが、それでもいま泣いている理由はきっと嬉しさからだ。
自分たちは夫婦なのだ。夫は妻を支え、その不安をときほぐしてやらねば。


718 名前:不安なマリア3 前編[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 22:33:18 ID:BFZhDSd1

携帯電話は、予想をはるかに超える働きを見せてくれた。
軍隊時代の経験からか、定時報告の癖が抜けないマリアはきっちり3時間おきに連絡を入れてきた。
9時に家を出て12時の昼休みに一回、3時の休憩に一回、閉店の6時に一回という隙の無い計算だ。
平日でも毎日3回、夫の声が聞け、現況を報告しあうので彼女の不安は大いに解消された。
一方で、定時報告はジョナサンにとっても心強いものとなった。
何よりも、家にたった一人の重い障害をもつ妻の現況が分かるということは非常に安心できる。
椅子から落ちただけでも、動けない彼女の場合は重傷につながる恐れがあるのだ。
そういうことも考えて、家の電話はひざの位置より少し上の高さに置いてある。
それに、携帯電話を持つもとになったマリアの不安も大きく緩和されているようだった。
不安は猜疑心を生んでしまう。いつでも話せるという安心は、浮気疑惑を打ち消すのに十分だった。
定時報告は二人の関係にとってささやかだが重要な補強材となった。

そんなある日のことだった。
その日、ジョナサンは外回りのため日中は電話に出られないかもしれないと言って出て行った。
「もし、電話できる時は、こちらから電話するから。」
マリアは電話を待った。昼過ぎには彼が作り置きしたサンドウィッチを食べた。きっと忙しいのだ。
結局、3時まで家の電話が鳴ることはなかった。彼女は電話機の前でじっと待ち続けていた。
セールスだろうか、何度か玄関のチャイムが鳴ったが、それどころではないと無視する。
どうして彼は連絡をよこさないのか。何かあったのだろうか。事故?それとも他の何かか。
他の何か、とはなんだろうか。「女」という言葉が脳裏に浮かんだ。あわてて否定する。
そんなはずはない。今朝彼は外回りで大変だと言っていた。しかし、それすら嘘だったら・・・。
違う。と再び否定する。私と彼は夫婦だ。夫婦は絆でつながっているものだ。私と彼もそうだ。
猜疑心は意地悪く返した。私と彼に「体の絆」はない。あるのは結婚届けだけ。彼だって男なんだぞ。
それに、と続ける。あの女はどうだった?一人「家庭」を支えていたあの女は結局他の男と・・・。
「違うっ」今度は声が出た。確かにジョナサンは一人で私と彼の「家庭」を支えてくれている。
だが絶対にああはならない。私はあの男とは違う。父親のようにはならない。私は夫に愛されているんだ。
激しい怒りから、マリアは衝動的に立ち上がろうとした。しかし次の瞬間、腰に鋭い痛みが走る。
彼女は車椅子から転げ落ち、床に倒れ伏した。なんという無様か。猜疑心が嘲った。
痛みをこらえ、這うようにして電話にたどり着いた。いま、ジョナサンとつながる最後の砦だ。
夫の迷惑を考え、今日は自分からかけまいと誓った携帯電話の番号を押した。
これをかけてジョナサンがでれば、私の現況を聞いて駆けつけてくれる。きっとだ。
「私は電話を絶対かけるといったんだ。私とジョナサンは夫婦なんだ。ザンジバルからずっと。」
コール音が続くなかで、彼女は自分を哀れんだように見下ろす猜疑心に勝ち誇った。
そう。夫は、電話に出る。緊急emergencyなのだ。そうして助けに来てくれる。あのときのように。
そうだ、彼は私のものなのだ。定時報告なんかクソ食らえ。彼は必ず、いつでも私がかけた時に――。