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396 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:28:22 ID:f0knnXhc
小林が事務所に戻るまであと五日となった日のこと。
風の弱く比較的暖かい休日の朝、河川敷にはポアロの散歩をする明智の姿があった。
明智の手には最近買った青いフリスビーがあり、時々ひょいと飛ばすと
ポアロは巨体に似合わぬ俊敏さでキャッチし、明智のところに咥えてくる。
…勘違いしてもらっては困る。
ポアロは心の中でつぶやいた。
明智はわらわをペット同然とみなしているらしいが、とんでもない。
わらわはお主の監視役。お主より上位の家柄であるからして、服従など絶対にせぬのじゃ。
このフリスビーにしたってそう。わらわはお主が投げたので取りに行くのではない。
わらわはこれを取ってきて、お主に頭を撫でてもらって『よくやったぞ』と
言ってもらいたいがためにやっているのじゃ!
つまり、これはお前の意思でわらわが動いているのではなく、わらわ自身の意思で以て
わらわが動いているという何よりの証し。よってわらわはお主のペットではない!
…あれ?理路整然としているはずのこの理論に今一瞬違和があったが?
まあ、気のせいじゃろう。

「よくやったぞポアロ。」
明智がポアロが差し出した頭を優しく撫でる。ポアロの目がすうと細くなり
喉から甘えたような声を上げた。
…褒められた。
ポアロの尻尾がふわふわ左右に揺れる。
…褒めてくれた褒めてくれた褒めてくれたよぉ!あたまなでなでしてくれてるよ!
二十年と少しの間ずっと望んでいた優しさを今このご主人様が私に…むひゅ~。
ポアロうれしいですぅ…。

………
…………オイ。
貴様じゃ貴様。今この瞬間この文章を読んでいる貴様のことじゃ。
まさか、あるまじきことじゃが…今の言葉、聞いたのではあるまいな?
わらわも理解ある方じゃ。正直に申せば命だけで許してやろう。
…言っておくが、わらわは明智のことを主人と認めてなどおらぬ!
ご主人様?あ、あれはその…ほら、『明智』というよりも『ご主人様』の方が
言いやすいじゃろう!?字数も少ないし…アレ?字数が…多い?

……
………そ、そうじゃ!
わが故郷英国読みならば『ミスター・アケチ』と『マスター』で『ご主人様』の方が
字数が少なく、とっさに発音しやすいのじゃ!
何じゃその小馬鹿にしたような目線は。貴様の穴という穴に隙間なく
エビフライ刺し込んでやろうか?

「…お~い、ポアロ?」
突然虚空をにらみつけ唸りだしたポアロを見て、明智はポアロに呼びかけてみる。
俺には何も見えないが、ポアロには何か見えているのだろうか?
悪いものでも食べたのかもしれない。
食べるといえば…。
懐を弄り黒い手帳を取り出した明智はざっと今日の予定に目を通す。
今日は昼過ぎに二十がやってきて料理の手ほどきをしてくれる。小林が帰ってくるまで
あと五日。それまでに俺も進歩したのだということを小林に見せてやろう。
あいつは何の料理が好きなのだろうか?…まあ、なんでも食べるだろう。
小林がうれしそうに自分の料理を食べる姿を想像すると、自然と顔がほころんでくる。
ふと、小林の退院予定日の欄がマーカーペンで縁どられているのを見て
明智はやはり自分には小林が必要なのだなということを改めて心に浮かべた。
依存しているのは自分も同じなのだろう。
あの無邪気な明るさにひかれ、甲斐甲斐しく行ってくれる家事に助けられ、
あの料理に心と体が満たされていたからこそ今の自分はここにいる。
ならば、今度は俺があいつの力になろう。
「帰るぞ。ポアロ。」
明智は、探偵事務所へと歩き出した。

397 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:30:10 ID:f0knnXhc

「…警察に突き出してやる。」
明智探偵事務所に戻った明智の第一声はそれだった。
「何でお前が事務所の内部に!しかも割烹着で!存在しているんだぁ!」
事務所に戻った明智を待っていたのは、何者かに開けられた本来鍵がかかっているはずの
ドアと、姉さんかぶりの手ぬぐいと割烹着で武装した二十。
「おかえりなさいませ。明智君様(ハート)」
これに続く応答が今明智が放った一言だった。
「不法侵入という文字を知らぬお前ではないだろ!大体鍵は…」
「だってしょうがないではないか!」
二十が可愛らしく唇を尖らせる。
「今日は休日だから明智君の家に朝から出向いてレクチャーしようと思っていたのに
その明智君がどこかに出かけているのだからな。外で待っていたのだがこれまた寒くて。
それで明智君の事務所にお邪魔というわけだ。」
「おい、鍵…」
「まあ、細かい事は気にするな。今日はスペシャルメニュー『二十面相パイシチュー』
が課題料理だ。柔らかく広がる野菜たっぷりのシチューをアツアツの内に
さくりと香ばしいシチューに詰めて…愛しい人に捧げるため…フフフ。」
「鍵…」
「しかし誠に遺憾ながら、この家に残っている材料では若干素材が足りない。
そこで明智君。今から僕と二人だけの買い物に付き合ってくれたまえ。」
「かg…」
「ポアロちゃんは留守番頼むよ。では明智君!新鮮な野菜を求めていざ農協へ!」
引きずられ、再び寒空の中に駆り出された明智は叫ぶ。
「スーパーマーケットで十分だろぉォォ…!」

「ズビ…(鼻をすする音)。」
「二十?お前本当は馬鹿じゃないか?」
「うるさい…ズビ。」
いくらなんでも季節は冬。いくら前日に比べ暖かいといえど、寒いのはいたしかたない。
二十の恰好はそんな寒空の中ではちょっと堪える保温性だった。
やっぱり、割烹着だけでは寒さがしみるのだ。何を勘違いしているのか足元は朱塗りの下駄。明智の馬鹿という言葉にも納得がいくというものである。
「てぶくろ…。」
「ん?」
「手袋をくれないか明智君…。」
明智はここでちょっと困った顔をしてみる。というのも明智も手袋を持っていないのだ。
「じゃあ…。」
いきなり二十面相は後ろから明智に抱きつくと、明智の外套のポケットに
後ろから明智を抱え込むように手を入れた。
「手が暖かい。うん。」
明智は顔をかあっと赤らめる。しばらくあたふたして周りの目線の有無を確かめた
明智は、二三いかにもわざとらしい咳払いの後…。
「おい!分かった。俺の外套を貸してやるから…。」
「いやいや明智君。僕はむしろこれの方が気に入った。」
「駄目。大体これじゃ身動きがとれん。」
「小林君の時は自分から抱きしめるくせに…。」
怨みがましいジト目で二十は明智を見つめる。
「あ…いや。それはええと…あれ?」
何でこいつは俺と小林のことをここまで知っているのだろう。
疑問を胸に歩いていると、近所のスーパーについた。

398 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:31:20 ID:f0knnXhc
「人参、玉ねぎ、ジャガイモは事務所にある。あとはパセリパセリ…。」
二十が主婦モードとなっている。明智はそれを後ろから感心して眺めた。
二十の過去については深く聞いたことがない。明智は商売柄、他人の過去を聞くことは
あまりよくないことを引き起こすだけだということを知っている。
そんな明智が二十について知っているごく僅かなこと、それは彼女の演技力だ。
声真似に代表されるように、彼女はその時々で完全に役になりきることができる。
現に今目の前にいる彼女は、割烹着が驚くべきほど似合う初々しい若妻ルックだ。
いや、ひょっとしたら今は心まで明智の若妻になっているのかもしれない。
…それ以前の問題として、今どき割烹着なんて珍しいのだが。
これで顔までも完全に模倣できたら、きっと彼女は完全に別人になりきれることだろう。
「あれ?なんだかそんなアイテムの話をこの前聞いたような…?」
「あれ?お前何しているんだ?」
全く別の方向から少しハスキーな女性の声がした。
「木剣納刑事!」
「刑事はやめてくれ。今日は非番なんだ。」
覚えているだろうか?初回で登場した木剣納刑事である。
改めて紹介すると…いや、ここは通りすがりの小学生に紹介してもらおう。
「ねえねえママ。何であの女の人胸が無いの?」
「しっ!見ちゃいけません!」
…要は、このような人だ。
「…明智。あの親子万引きするつもりだ。私の感が告げている。市民の安全と
治安維持のため今すぐこの『モーセが海を切り裂いたとされる木刀』で一刀両断に…。」
「早くきてOMAWARISAN!この人頭おかしいです!」
「私が警察だ!」

~不毛なやりとりを省略~

「…時に、相談がある。」
明智を見て木剣納は話しかける。明智にとって意外だったのは、彼女からいつも
感じられる何か職業人としての気迫みたいなものがさっぱり感じられないのだ。
となると、仕事関係の話ではないのだろうか。
胸がないとはいえ、目の前にいる木剣納はまぎれもなく女性。顔だけ見れば
かなりの上玉だ。
そんな彼女からプライベートな相談を受けるなんて、俺も相当信頼されてきたかな?
…いや、待てよ。
「実はお前にこの壺を買ってほしい。…一千万円で。」
じゃ洒落にならないし…。
「急進派の私としては、この物語のぐだぐだ感が我慢できない。
この状況の打開のため、お前を殺して小林 兎凪の出方をうかがう!」
マズイ。どうしてこんな状況が想像できるのかは全く分からないにせよ、
いくら俺でもこいつと戦って勝てるとは思えない!
「おい、何をひとりでぶつくさ言っているんだ?」
とうとう気でも違ったか?とでも言いたげな目で、頭を抱える明智の顔を
木剣納がのぞきこんでくる。構わないから続けて。そう明智は言った。
「実は…鍋が食べたい。」
へ?


399 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:32:43 ID:f0knnXhc
「いや、年末も近づくにつれて署に泊まり込みの仕事の日も増えたんだがな。
当然食事もコンビニ弁当とかに限られてしまう。この寒い季節、体の中から
温まるにはやっぱり鍋だなって思ったんだ。」
「食えばいいじゃん。」
ガシッ!絞め殺さんばかりの力で木剣納が明智の首根っこをつかむ。
「一人鍋はあまり美味しくないんだ!最低でも二人!同僚もみんな忙しいし、
頼めるのはお前だけ!」
ガシッ!今度は木剣納の両手が明智の肩をしっかりホールドした。
「頼むお前…。私に鍋を…うまい鍋を食わせてくれ…。寒い中安月給で
世のため人のために働くこの私に、一杯の鍋ぐらいの慈悲はかけてくれても
いいだろ…?」
逃げ場なんて、無いよ。鍋にかける執念が握力という形で実体化し
明智にそう囁いてくる。
これはOKしておかないと命にかかわるかもしれない。
長い付き合いの友人の頼みということもあり、明智は承諾しようとした。
まあ、今晩一日こいつに付き合うのもいいだろう。
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
明智と木剣納、二人の目線が声の主の方に行く。
そこには二十が微笑みを湛え立っていた。
「ああ失礼。私は木剣納。近くの署で刑事をやっています。」
「まあそうですか。私は二十と申しまして、こちらにいる明智の家内です。」
はあ?はああああああああああああああああああああ?
「明智!結婚していたのか!知らなかった…。それにしても何と言う別嬪さんを…。」
「つい先日です。まだ式も挙げていないのですが…。」
いけしゃあしゃあと嘘を並べ連ねる二十の横で明智は呆然と成り行きを見守るしかない。
「いや、これはすみません。新婚のご主人を借りようとするとは…
知らなかったこととはいえ、少し配慮に欠けておりました。」
「ふふ。あなたのような素敵な方に一夜とはいえ主人を借りられてしまうとなると
不安でおちおち眠れませんから。」
「ははは…とんでもないです。ご主人もきっとあなたに夢中でしょう。」
末永くお幸せに。木剣納は二人にそう言い残すとその場を去っていった。
後に残された明智はふと我に返り、二十はそんな明智を見て少し妖しく微笑む。
「さあ、帰りましょう。あ・な・た。」
全ては演技。他愛も無い悪戯のはずなのに、明智はその言葉に少しどぎまぎしていた。



「鍋…。」
その後警察署の雑務に追われながら、木剣納は自分の目の前に置かれている完食された
カップラーメンを恨めしげに見た。
きっと明智は今頃、あの別嬪の新妻と二人でアツアツの鍋を囲んでいるに違いない。
「僕たちの愛と同じで、この鍋もアツアツだね…ハニー。」
「そうね。この鍋のように味深く、熱く、素晴らしい一夜を過ごしましょう…ダーリン。」
もはや鍋なんて関係ない勝手な妄想が火に油を注ぎ、木剣納の不愉快度が
最高潮になろうとしていた。こっちはカップ麺なのに!
「しかし…あの女性はどこかで見たような気が…。」
そう。木剣納の頭に何か引っかかるのだ。
「…ええい!考えたって仕方がない。シゴトダシゴト。」
カップラーメンの容器を無造作にごみ箱の中に放り、パソコンを強引に引き寄せた
彼女は今日の仕事である過去の事件のデータ整理にとりかかる。
今日の整理するノルマは二つ。
『盗難事件』と『売春事件』の二つだ。
「盗みはいいとして…こんなもん女の私に任せるか普通?…女として見られてないのか?」
ファイルをクリックして、関係者の顔写真とデータを照合していく。
木剣納の長い夜が始まった。

400 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:34:16 ID:f0knnXhc
一方、明智の事務所では…。
「出来た!」
見事なまでのパイシチュー。パイ生地は焦げ目も丁度よく、ひとたびスプーンを入れると
とろりとした乳白色のシチューがアツアツのまま流れ出ることだろう。
香りにひかれポアロは明智の足もとにじゃれ付いてくる…いや、これはいつもそうだ。
ここ数日で、ポアロは完全に明智になついている様子だ。
「うん。見事なものだ明智君。しかし、これもすべて僕の教育力によるもの。
存分に感謝したまえ明智君。」
「サンキュー、二十。っと、悪いな。こんなに遅くなっちまって。」
時計は七時をとうに過ぎている。朝から二十はいたわけだから、そうとう長く
付き合ってもらったわけだ。
「いいんだ明智君。今日はいろいろ教えることもいっぱいあったのだから。
今日教えた事は料理の基礎の全て。ほかの料理にも簡単に応用できる。」
鍋に残ったシチューの残りを皿に取り、ポアロの前に差し出す二十は
むしろ何故かうれしそうといった表情で明智に応じた。
明智は食器棚から皿を取り出し、テーブルの上に敷かれたナプキンの上に
二人分配置していく。
結局、料理を教えた二十は今日明智とともに夕食ということになったのだ。
一人で食べるより、大勢の方が料理はおいしい。
科学的な解説をこの理論について聞いたことのない明智も、こればかりは
絶対であると考えている。
一人だった晩飯。最初は小林の手料理に進化し、次に一人きりの食卓に
ポアロが加わった。そして今日、二十とテーブルを囲む。
明智は、ささやかな楽しみを存分に噛みしめていた。
そこに二十が二つのパイシチューを運んでくる。
彼女は右手に持っていたそれをまるで何かを確かめるように確認した後、明智側の
食卓に置き、左手のパイシチューを自分の方に置いた。
これで食卓の準備は完成。さあ、楽しい夕食だ!
生地の中のシチューを野菜ごと掬いあげ、口に運ぼうとする明智。
その様子をにこやかに、黙ってじっと見つめ続ける二十。
向かい合う二人。その中に一筋の影が躍り出た。

「わん!」
ポアロがものすごいスピードで駆け寄ってきたかと思うと、明智の今まさに
シチューを口に運ぼうとしていた手に噛みつき、さらに食卓の皿を吹き飛ばしてしまった。
手に握られていたスプーンからシチューがはね、ポアロの口に少し入ってしまう。
それが熱かったのだろう。ポアロは甲高い声で鳴くと、事務所の奥…明智の就寝スペース
の方へと逃げて行ってしまった。


401 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:35:44 ID:f0knnXhc
「ポアロ!」
せっかくの料理をめちゃくちゃにされたことへの怒りも無くはなかったが、
それよりも今までおとなしかったポアロの豹変ぶりに唖然とする明智。
ようやく気を取り直した明智は、ポアロが逃げて行った方へと追いかけてみる。
足音荒く、ついたそこにはポアロの姿はなかった。
ベッドの下など隠れられそうなスペースを探してみたが、いない。
まるでそう、この世から消えてしまったかのように。
その後もしばらく探したが結局見つからないので、明智は二十の所に戻ることにした。
あいつは怒っているだろうか?多分そうだろう。
さっきまでの賑やかさが一転、明智の耳には静寂しか聞こえてこなかった…。

二十はうつむき、何も言わない。
無理もない。今日一日頑張った結果が、こんなにも無残な状態になっているのだから。
しばらくお互い何も言わない時間が続く。やがてギリッという歯ぎしりの音が
二十の口から洩れた後、彼女は何も言わず事務所を去っていった。
明智は追わなかった。ただ、静かに見つめていた。
二人と一匹がいた食卓も、今は一人。
今まで当たり前だった一人に戻った明智の心は、どうしようもないほど空っぽだった。
―どうして、こんなことになってしまったのだろう?



電気のついていない明智のベッドの上、それも空中に彼女はいた。
幽霊である彼女は今姿を完全に隠している。生きているものには見えないだろう。
そして今ポアロから元の幽霊の姿に一時的に戻ったタマヨは、
下半身から湧き上がってくる猛烈な衝動により、整った顔に汗を浮かべていた。
…彼女が異変に気づいたのは、二十がシチューを明智の前に置いた時。
明智のパイ生地の中から、変な匂いがポアロの鼻をついたのだ。
人間のそれとは比べようもない犬の嗅覚は、それがあまり良くないものだと
本能的に察知していた。
―よもや、毒!?


402 :名探偵物語 5:2009/12/28(月) 00:37:20 ID:f0knnXhc
探偵という職業上、暗殺の恐れは一般人よりはるかに高い。
さらには金田一とかいうこの女、正体の掴めないところがある。
明智がそれを口にしようとしたので、ポアロはゴールデン・レトリバーらしからぬ
行動をもってして阻止しようとしたのだ。
彼女の行動は正しく、明智はそれを口にしなかった、ただひとつの誤算は
彼女の口に誤ってそれが入ってしまったことだ。
効果はすぐに現れた。明智のベッドのそばに逃げ込んだポアロの体内から
マグマのような衝動が起こり、犬神剣の効果が霧消した。
霊体に戻ったタマヨにすらも、体内に入ったそれはなお効力を及ぼしている。
「あの小娘ッ…媚薬とはやりおるわ…!」
体中が燃えているようだ。タマヨはそう感じた。明智に飲ませるつもりだったのだろう。
別に今なら自分の身体を慰めて、この衝動を消してもいい。今は誰にも見えないのだから。
ただ、そうできない理由が今の彼女にはある。
「あ…明智っ…。」
切ない声が彼女の唇から洩れる。
どうしても、どうしても今の自分の頭に明智が再生されてしまうのだ。
下賤の者のはずなのに、任務の監視というだけのはずなのに、
この極限の状況の中で浮かんでくるのは家柄の誇りよりも、幼い頃よりの
訓練よりも、たかが数日の付き合いの明智だった、
明智で頭も心もいっぱいの今、自分を慰めでもしたら…。
「出来ぬ…わらわはそんな…あんな者になどッ…!」
暗闇の中、しばらくの間音無き声が苦悶の色を顕わにして響き渡ったあと…。
「…んっ…はぁっ…明智…あけちぃ…。」
不意に、声の様子が変わり始めた。何かを求めるように切なく、か細く。
そして…
「…んんんんんっ!…ごしゅ…ご主人…ご主人様っ…。明智…様。
ご主人様ご主人様っ…!!!!」
誰にも聞こえないその声は、誰にも知られること無く、しかして確実に
それを放つ者の内側と一緒に変化していった…。