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第十一話


「ごめんねー、あの子今日は風邪なのよー。」

 朝の修練が終わり、いつもどおりなら俺の部屋の前で待っている筈の椎名がいないことを気にして尋ねてみると大家さんの笑顔が迎えてくれた。
 椎名に風邪。そんなものが存在したのか、と一瞬思ってしまう。
 椎名と出会って5年。毎日会っていたが風邪をひいているところなど見たことがなかった。
 何故かしらないがどこかで作った怪我で休むことはあったが、病気の類は聞いたことがない。
 自己管理能力に長けた奴だと心の中では褒めていたのだが。

「そうですか。お大事にって伝えといてください。」

 あがってけば?あがってこーよ。今ならビッグチャンス!?としつこい大家さんを無視して学校に向かう。
 ……ところでチャンスって何に対するチャンスなのだろうか。

 椎名が風邪をひいて休む、というのを聞いた日の登校はこれ以上ないほど憂鬱だ。
 なにせ朝角で俺を睨む百乃が絶望の表情のまま俺の後ろをずーっと付いてくるからだ。
 恐ろしい、ああ恐ろしい、恐ろしい。
 ついでに学食で食べていると先輩が近付いてきて、私の久住さんはどうしましたか?私の久住さんはどこですか?としつこく聞いてくるのだ。
 俺が風邪ですと答えるとやはり絶望したような表情で憂いに溢れながら去って行ってしまった。
 話し相手がいなくなると一気に食事のペースを上げ、手早く感謝を捧げて屋上に向かう。
 夏の屋上は絶好の修練場所だ。何せ暑すぎるせいで使う人間が全くいないのだ。
 鼻歌交じりに屋上の扉を開けると、真っ青な空の下一人の少女が遠くを眺めていた。

「……百乃?」

「近衛。」

 こちらをちらりと見ると気だるげに百乃はため息をつき、また遠くを眺め始めた。
 なにかを見たいのではないのだろう。ただぼんやりと考え事をしているかのようだった。
 なんともなしに百乃に近づき、2メートルばかし離れた場所で立って、俺も遠くを眺める。
 学校周辺は住宅街で低いが、少し遠くを見れば高層ビル群。ビルが無いところも空気が淀んで先は見えない。
 感慨すら浮かばない光景に一瞬で飽き、手持無沙汰なのが異常にむず痒くなってくる。

「どうして椎名がお前は好きなんだ?」

 だからかもしれない。ぼんやりと、これといって聞きたいとも思っていなかった言葉を俺は吐いていた。
 椎名が居なくて暇だったからだろうか。それとも心の奥底では気になっていたのか。

「椎名はね。」

 静かに、ごくごく静かに百乃は語り始めた。
 それはいつもと違い俺に対する敵意も、嫌悪も存在しない綺麗な顔と声だった。

「椎名だけは、他の人間と違う。椎名はとても綺麗なんだ。優しくて、誰よりも残酷。」

「残酷?」

 うん、と百乃は頷いて指で唇を抑えながらくすくすと笑った。
 まるで深窓のお姫様のように輝くブロンドの髪と柔らかな笑顔は、見る人を魅了して止まないだろう。

「私は幼稚園の頃からモテモテだった。ラブレターも告白も、数え上げればきりがない。」

 自慢か、と言いたくなるのを抑えながら一度だけ頷く。
 百乃はこちらの顔を見ようともせずにただ遠くを見つめ続ける。
 それは過去に思いを馳せる行為なのだろうか。俺には予想もつかない。

「それが気にくわなかったのか、中学で女子にハブられてね。男子は相変わらずバカしかいないし、最悪だったわ。」

 男子は外面しか見ないでいやらしい目つきで見てくる。女子は嫉妬なのか無視や苛めをしてくる。

「私は女王気質なのかな?愛されることは知ってても愛することは知らなかった。与えられるのが当然だったもの。」

 それはきっと不幸な事だ。人は与えられた幸福しか知らなければ、与えるものを理解することはできない。
 他人の痛みを理解することはできなくても、想像することはできるようになるのは与えるようになってからだ。

「だから女子たちが皆で私をハブったのは効いたわ。ガツンって感じで。堪らなかった。」

 多感な時期の女子だ。きっと百乃の男を引き連れる姿が気に障ったのだろう。
 顔がいいというのも、もしかしたら少しは損なのかもしれんな。いや……性格の問題か。

「体育の時間とか組む子がいなくてね。寂しかった、辛かった。」

 一人余るのって見てるだけで悲しくなる。俺は幸運なことに余ったことはないが、余ると切ないものがある。

「そんな時に一緒に組んでくれたのは椎名だけだった。なんてことはない、彼女も余っていたって理由でね。」

「……それが、優しいのか?」

 俺の言葉に首を横に振ると、百乃はつづけた。

「椎名は相変わらずだった。ハブるのを皆で決めても別段今までと変わらずに私をクラスの一人として扱ってくれた。無視することもなければ、彼女から私に話しかけてくることもない。」

 それはなんでもない、同情でもなければ嫉妬でもない。きっと普通の何でもない感情。

「同情はまっぴら御免。嫉妬も鬱陶しいだけ。だから私は椎名に近づいた。彼女なら私を見てくれるんじゃないか、私の中身をキチンと知ってくれるんじゃないか。そう思ったの。」

 思春期にありがちな、本当の私を知ってという奴だろう。メルヘンな奴だ。普段の態度には一切出てないぞ。

「椎名と仲良くなれば仲良くなるほど、私は分からなくなったわ。椎名は踏み込まない。親友面しない。ただ、そう……私が求めた分だけ返す、そんな子だった。」

 それは、優しさじゃない。相手に踏み込まないのは表面的な、薄っぺらい関係だ。

「椎名は優しい。誰を相手にしても同じ。誰に対しても求められれば与え、与えた後は見返りを求めない。」

 親切心というにはあまりにも身勝手な、押し付けがましい行動。

「だけど残酷。誰も彼女の一番にはなれない。彼女は聖母のように与えるだけなのだから。」

 恋愛は、与える喜びと与えられる喜びの二つで成り立つ。
 愛することと愛されること。その二つとも存在しなければ成立しないものだと、俺は思う。

「私はね、近衛。椎名が大好き。愛してる。あんなにきれいな存在、他にいないもの。」

 だからね、と優しくつぶやいて俺の方を向いた百乃の顔は、まるでマネキンのようだった。

「もしも邪魔するなら、消すわ。」

 決定事項を語るように、静かに呟くとまた目線を遠くに向けて黙り込んでしまった。
 それ以上に語ることなどない、ということなのだろう。それとも俺を心底どうでもいいと感じているのか。
 その両方、と目測をたてて音を立てないように屋上から去ることにした。
 鉄の扉は鈍い音を立てて閉まり、青空と少女を視界から消してしまう。
 そこに至って俺は、初めて気づいた。
 百乃は椎名のアパートの方向を、じっと見ていたのだということに。