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第十三話


 友人2と十字路で別れ、アパートへの道を歩く。
 もう4時近くだというのに空はまだ高く、まるで昼間のようだ。
 本格的に夏が近付いてくると学ランの中は汗でずるずるになってしまう。
 毎日毎日ソフト洗剤で洗う俺の身にもなってほしい。
 ちなみにスーパーで安い時にYシャツを買ったら何故か干してるうちにすべて風に飛ばされた。
 それ以来何度買ってもYシャツだけ飛ばされるのでもう買うのが嫌になったのだ。
 バイトも好調、学業好調。俺の評判だけが急降下でストップ安。
 まあ、人の評価なんて気にしたところでどうしようもない話だ。なるようになれと捨て鉢になってみる。
 学ランの前を開け、手で風を送っていると誰かの傍を通りすぎたことに気づく。
 次の瞬間ありえない、と自分の考えを否定した。
 椎名は今日風邪をひいて休みだと、大家さんが言っていた。
 ならばこんな時間に外を出歩くはずが、ないのだ。

「楊。」

 突然後ろから話しかけられた時に、俺は思わず振り向くことすら忘れてしまった。
 その声があまりにも冷たく、平淡過ぎたせいだろうか。
 誰が話しかけてきたのかも理解している。別段そのまま振り向いてよう、と一言かければいいだけだとも分かる。
 ただ体が動かなかった。
 振り向いてはいけない、振り向けば後悔すると、全身がまるで悲鳴をあげているかのように。

「さっきの女、誰なの?」

 コツコツ、と近づいてくる靴の音は革靴だろうか。硬質なそれはまるでわざわざ無理やり音を立てているかのようだった。
 一歩ずつ近づいてくる誰かに、さっきまで掻いていた汗とは別種の汗が噴き出てくる。
 子供たちの声が遠くに聞こえ、空には雀が飛んでいる。
 平和な、どこまでも平和な光景なのに俺は冷や汗を掻きながら恐怖していた。

「ねえ、楊。どうしたの?」

 こつん、と最後に俺の真後ろで止まると、誰かはゆっくりとその手を俺の腰に回す。
 細くて白い腕。陶磁器のようなと表現すればいいのだろうか。普段見慣れた、手。
 なのに俺にはそれが、どこかへ連れ去っていく妖の手にすら見えた。
 思わず飲んだ唾が潤滑油になったのだろうか。俺の口は震えながらも動き始める。

「椎名。」

「ねえ、楊。あの女誰なの?」

 腰にまわした手が、少しずつ締まっていく。
 俺を鯖折りするには明らかに腕力は足りないだろう。だから別段怖くない行為のはずだった。
 なのに俺は冷や汗を止めることができない。後の誰かが、怖くて仕方がなかった。

「答えてくれないの?」

「と……友達、だ。」

 少し強くなった語調に反応するように吐いた言葉に、誰かは納得したのだろう。
 ふーんと呟いて、さらに俺の腰を締め付けてきた。

「ただの、友達なの?」

「あ、ああ。そうだ。友達だ。」

 まるで否定を許さないような言葉に、喉から絞り出すようにして答える。
 そこでようやっと誰かは俺の腰から手を離し、前に回り込んできた。
 にこり、と笑う顔はまぎれもなくいつもの椎名だ。
 なのにまるでガラスみたいな目が、いつもの彼女ではないことを示している。
 怖かった。殺されるとかそういう次元ではない。
 俺は生存本能を超えた場所で、恐怖していたんだと思う。
 簡単に、今まであった自分の場所を捨ててしまえるかのような、捨て鉢とも違う感情。
 椎名から感じたのは怒りでも殺意でも、なんでもない。
 虚無。どこまでも平淡で、どこまでもまっさらな感情。
 俺はそれが恐ろしくてしょうがなかったのだ。

「楊。今日は一緒に食べるの。お母さん今日は泊まりだからいないの。」

 くすくすと笑い続ける椎名は、まるでいつもの椎名のようだ。
 けど、俺には目の前の存在ができの悪いマリオネットにしか見えなかった。
 椎名はこんな空っぽな笑い方はしない。もっと温かくて、優しくて。
 誰かに与えることを至上の喜びとする、俺が知っている中で最も優しい少女だ。
 だからかも、しれない。
 俺がつぶやいた言葉は、自然と出てしまった言葉だった。

「お前は、誰だ。」

 その言葉が可笑しかったのか、椎名はさらに笑いを深めてガラスのような瞳でこちらを見つめてくる。
 壊れた人形のようなその姿は恐怖よりも、憐れみが先んじてしまいそうなものだった。

「変な楊。私は椎名なの。ずっと楊の傍にいた、楊の一番なの。」

 俺にはそうか、としか呟く言葉が見つからなかった。
 5年間。俺はそれだけ長い間椎名と一緒にいた。そういった意味では最も長い付き合いがある友人だろう。
 優しいところも、抜けているところも。ずっと見てきたつもりでいた。
 だが、まだ見ていないところ。椎名にも心の闇があったとしたならば。
 それは間違いなく、俺にとっては知る由もない領域に他ならない。

「どうしたの?そんなに強く拳を握り締めちゃって。血が出てるの。」

 いつの間にか力が入っていたのか。俺は自分で自分の拳を握り破っていた。
 くすくすと笑いながら俺の拳を開き、椎名は楽しそうにそれを眺める。

「血を止めないとなの。」

 そしてポケットから綺麗なハンカチを取り出し、俺の拳に優しく巻く。
 この行為だけなら、いつもの椎名だと安心してしまいかねないほど、普段通りの行動。
 巻き終わると同時に椎名は離れ、夕陽を背に振り向いて微笑んだ。

「早く帰るの、楊?」

「ああ。」

 空は青く、遠くからは子供たちの笑い声が響いている。
 なのにどうして俺達が歩いているこの道だけは、こんなにも寂しくて薄暗く感じてしまうのだろう。