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第十六話


 どうしてこうなったのだろう。
 椎名達と別れて心行くまで夕方の修練をして、何も食べずに布団に入って眠った。
 ここまでは何の問題もなかった。
 なのになぜ俺は縛りつけられているのだろうか。

「……っ」

 猿轡、目隠し。それに椅子に座らさせられ、後ろ手と両足を縛られた状態。
 もしも俺が通常とは異なった性癖の持ち主で知らぬ知らぬ間に自虐行為に走ったならまだ分かる。
 だが俺にはそんな趣味はないと胸を張って云えるし、少なくとも夢遊病の類は持ち合わせていない。
 ならば俺を縛り付けた犯人がいるはずである。
 俺を縛り上げて得する人間がいるかどうかは分からないが、考えられるのは強盗だ。 
 強盗だとしたら気の毒なことに、俺の部屋には1500円しかない。
 ちなみに物も置いていないので俺を縛っただけ無駄だとしか言いようがない。
 せいぜい俺の命を奪わないでいてくれることを祈るだけだ。

「楊?」

 だが、突然聞こえてきた声で強盗という線も消えた。
 少し楽しそうな、いつもよりも弾んだ声。
 だが間違いなく、それは椎名の声だった。

「っ」

 首を動かすことで意思表示をすると、椎名はそれが分かったのだろう。
 音もなく近づいて俺の目隠しと猿轡を取り去った。
 ……ひたすらに暗い。夜なのか昼なのか分からない室内。
 あるのは裸電球が一つ。窓もあるのだろうが暗幕がかかっていて光一つ刺さない。
 そしてなによりも酷く暑かった。風の通りもないのだろう。
 壁はコンクリートの打ちっぱなし。罅と黒ずんだ跡から見ても保存がいいとは言えない状況。
 自分の体を見下ろすと、なぜか上半身裸でパンツ一丁姿である。
 ふむ。と呟いて数回体を揺らすと幾分か余裕を感じる。
 きつくはあるが、血が止まらない程度の締め方にしたというわけだろう。

「楊。夕飯は何がいいの?」

 そして、目の前で微笑んでいる椎名。
 ……いつかのようなガラスのような瞳で、俺を見つめている。
 何個か聞きたいことはあったが、聞いて答えるとも思えはしない。
 だからこそ、最も聞かなければいけないことを聞いた。

「どうしてだ?」

「何が?」

 しらばっくれているのか、本気で分からないのか。
 どちらかは知らないが首を傾げる椎名に悪態の一つでも吐きたくなる。
 だが呼吸を穏やかに、丹田に力を込めると感情をニュートラルに出来る。
 ここで怒りを表しても何の意味もない。聞き出せるだけ聞きださなければ次に起こす行動も決められはしない。

「どうして、こんなことをする。」

 ああ、と椎名は呟くと俺の膝の上に座り、肩の上に顎を乗せた。
 細身で軽い椎名が乗った処で痛くも痒くもない。だがひたすらに暑い。

「楊が悪いの。いつまでたっても分かってくれない。楊は素直にならないの。」

 こそばゆい吐息が耳にかかる中、不可解な言葉ばかりが出てくる。
 俺が悪い。これはまあ、分からないでもない。人は生きてれば誰かを不愉快にさせるものだ。
 いつまでたっても分からない。これは正直見当もつかない話だ。だから怒っているのか。
 最後の素直にならない。これは俺の飯に対する態度だろう。……プライドがこういう結果になることもあるのか。

「悪かった。許してくれ。」

 俺に出来ることは、謝ることだけだ。
 椎名をどれだけ傷つけてきたかもわからないし、心の傷を把握することもできない。
 だが

「……そうやっていつもいつも、心にもない謝罪ッ!いつもいつも!いつもいつも!」

 椎名は突然俺の上から飛び降りると、今までに見たことないほど顔を歪ませて叫ぶ。
 何が何だか、わからない。心にもない謝罪など、俺はした覚えはない。
 すくなくとも傷つけたという事実は反省しているし、何とかしてやりたいとは思ってる。

「分かってない!全然分かってない!」

 大きく頭を振り、肩まで揃った髪が生き物のようにうねり、椎名の顔を蔽い隠す。

「いつだって楊は私を決めつける!私を妹扱いする!私を、見てくれない!!」

「そんなこと」

「あるでしょ!?ないなんて、言わせない!」

 ……俺は椎名を妹扱いなどしたことはなかった。
 俺には妹などいないし、妹として扱うなんてやり方知る由もないのだ。
 だが、もしも椎名が妹扱いされていると感じているならばそれは俺の不徳となすところ。
 椎名が嫌だと感じているのを続けたのは俺の罪だ。

「椎名……。」

「だからね。」

 椎名はゆらり、と顔をあげて引きつった笑顔をこちらに向けてくる。
 今まで見たことがないほど追いつめられた顔。
 それは最早普段の優しい椎名の見る影もない姿だった。

「だから楊が私しか見えないようにしてあげたの。」

「どういう意味だ。」

 ふらふらと、こちらに近づいて俺のふとももをなでる。
 それは赤子をあやす母親のようにも。男を誘う情婦のようにも見える行為。

「楊のバイト先、全部壊してあげたの。」

「……馬鹿、な。」

 あり得ない話だ。高校1年生の頃から連続してバイト先が壊れることは何かしらあるとは思っていた。
 だが椎名が出来るはずない。当時は中学3年生だ。
 そんな女の子が、平気で他人を傷つける行為なんて、出来るはずがない。

「なるべく人は傷つけないようにしたよ?私も人が傷つくの、嫌だったから。ガス爆発も、風評被害も、ぜーんぶ私がしてあげたの。」

 勝手に出てくる唾を飲み込み、震える腕を隠すように足で踏ん張る。
 心は熱く、頭は冷静に。怒りは判断を鈍らせる。怒りを熱に、熱を力に。
 そうする為の10年以上の修練だ。そう出来なければ、死んでも師父に顔向けできない。

「他にもね、楊を停学にする理由になった男も突き飛ばしてあげたの!楊に酷いこと言った女たちは皆脅してあげたの!」

 くすくす笑いながら自分の功績を語る椎名は、俺の腹筋から胸板までを舌でなぞり上げる。
 汗をかいてる男の体を舐めるなんて気持ち悪いこと、よく出来るものだと少しばかり感心してしまう。
 くすぐったくて、こそばゆくて……気持ち悪い。
 許せないはずだ。
 椎名は傷つけちゃいけない人たちを傷つけ、やってはならないことをした。
 例えそれが警察に見つからなくても、誰にもばれなかったとしても、罪は裁かれなければいけない。
 だから俺は、椎名のことを許せないはずなのに。

「楊は私のものなの!ずっと、ずっと私は見てた!楊が引っ越してきてから、ずっと!」

 俺の体を抱きしめる椎名は、許せないはずなのに。
 俺には、泣きそうな、壊れそうな少女にしか見えなかった。

「楊はずっと拳法をやってた。誰とも遊ばずに、毎日毎日、たった一人で。」

 引っ越してきて、一人になった俺は師父とつながっていた武術のみを愛した。
 それをしていれば師父とつながっているような気がしたから。
 でもいつしか惰性のように修練を重ね、自分が修練をする意味すら無くしていた。

「いつか聞いたよね、修業する理由。」

 笑いながら、そのガラスの瞳で俺を見つめながら首を傾げる椎名。
 問いに対する俺の答えなど聞く気もないのだろう。椎名はただ壊れたレコーダーのように続けるだけだ。

「理由はない、って言ってた。強くなりたいわけでも、何かを為したい訳でもない。ただ修練したいからするって。」

 それは、そうだ。俺には何もない。弱い人を助けたいとか、強くなりたいとか。そういう答えがなかった。
 ただ師父と一緒にいたかったから始めた武術。いつの間にか理由すら考えないで鍛えていた体。
 自分の弱さを打ち砕く手段としての武術だけれども、それだけなら日々の鍛錬に意味はない。

「私はね、いつも憧れてたの。見返りを求めない。成果を求めない。泰然自若として自分を持ち続ける、楊に。」

「……違う。」

「私はずっと、ずっと怖かった。誰かに踏み込むこと、誰かに求めること。心の中ではいつもいつも、自分が人にした行為の見返りを求めている自分が、ずっと嫌だった。」

 俺の言葉など、最早届かないのか。
 椎名は俺から離れ、床に置いていたバッグを開くと、何かを取り出した。
 裸電球の光を反射するそれは、文化包丁だろうか。
 刃渡り15cmほどのそれは一般的な家庭ならどこにでもある物。
 最近ではそこら辺で買うことが出来る代物だ。
 手に入りやすさと扱いやすさでは、右に出る物はそうないだろう逸品だ。
 それをどうするか、などと無粋なことは聞きたくはない。
 包丁を出した以上することは料理か俺を刺すか、自殺かのどれかだ。
 うち自殺はないだろうと踏めば、一番確率が高いのは俺を刺す行為。
 どうせなら寝ている間に殺してくれれば痛みもなかった、などと益もないことを考える自分に嫌気がさす。
 いざとなれば腕の関節を外して縄抜けは出来る。だがそれは最後の手段だ。
 俺は腕を外すときに酷く大きい音がするため、ばれずに行うことはほぼ不可能。
 刺すのとロープを外すの、どちらが早いかは分かり切っている。

「ねえ、楊。ずっと一緒にいよ?私がずっと面倒みてあげる。だから私だけを見て。私だけを、感じて?」

 そうすれば幸せになれるとでもいうのだろうか。
 ありえない。そんなことはありえないんだ。

「楊、好きだよ。好きなの。ずっと、ずっと。いつの間にか分からない。ずっと、ずっと好きだったの!」

 包丁を手に、くるくると踊りながら高らかに告げるのは誇らしげだ。
 にこにこと笑い続ける椎名は、どこまでも哀れでしかなかった。
 俺みたいな人間にこだわるから、壊れてしまうのだ。
 普通の恋愛をして、普通に求め、普通に求められていれば……椎名はこれ以上ないほど幸せになれたのに。
 俺みたいな人間に構うから、そんなに苦しそうな顔をしなくちゃいけないんだ。

「邪魔する人皆消してあげる!あの男も突き落した!楊に嫌がらせした女たちも脅してあげた!次は楊に色目を使ったあの女店長の店をどうにかしようか!?それとも楊に色目を使ったあのクラスメイト!?皆皆、消してあげる!殺してもいい!むしろ殺してあげる!!」

 狂ったように何もない場所を見ながら笑い続ける姿は、狂気に満ちた姿。
 人によってはそれに恐怖を覚えたかもしれない。けど、俺には幼子が泣き叫んでいるようにしか見えなかった。

「やっぱり、間違ってると思う。」

 俺の言葉に、まるでギギっという音がするかのように首をぎこちなく傾ける椎名。
 どれだけ嫌な人間でも、殺していいということはありえない。
 それはきっと、椎名を酷く傷つける行為だと俺には思えたから。
 殺人がいけないなんてことを言うつもりはない。
 そんなものはルールにすぎない。
 倫理や規則。そういったものは人間が人間達の世界を作り上げるために勝手に仕立て上げた幻想にすぎないのだから。
 それでも尚、俺は人を殺すのは間違っていると思う。
 殺人を犯せば、それは人が人であるということを放棄してしまうことに他ならない。

「嫌な人間、嫌いな人間、憎い人間。そいつらを全員殺してどうする?」

「きっと、私たちにとっていい世界が出来るよ。」

 幼女のように無邪気に微笑む姿は、きっと抑圧されて押しつけられて……最後に残った椎名の純粋さ。
 それが俺には悲しくて、悔しかった。
 俺を含めて誰も椎名の苦しみを理解することは出来なかった。
 椎名が俺を好きだといった理由、俺がただ修練を無意味に重ねている姿をみていたというもの。
 きっと羨ましかったのだろう。見返りを求めない、俺の姿が。
 間違ってなどいないのだ。見返りを求めることは。
 なぜ鍛えるのか。強くなりたいから。
 なぜ優しくするのか。優しくされたいから。
 そう求めることは、何も間違ってなどいない。何が悪いんだ。
 人は求めるから進むことができる。何も求めない人間には得られるものなどありはしない。
 椎名は純粋すぎた。誰かに求めることが恥ずかしくて、誰かに与えることだけを自分に課した。
 だからそんなに歪になってしまった。
 椎名、お前は俺に尽くすことで返ってくるものを得たがっていたんだ。
 何も求めない俺が、唯一求める存在が自分でありたいと願ってしまったんだよ。
 それがお前が憧れたものを手に入れる、たったひとつの手段だと勘違いして。
 必死で好きになって、必死で俺をどうにかしようとして。
 違うんだ、椎名。お前が間違っているのは最初の一歩なんだ。
 俺は求めたもの全部見失って、結局自己完結してしまった矮小な男にすぎないんだ。

「椎名、お前は間違ってるよ。」

 俺を好きになったことも。起こしてしまった行動も。
 人を傷つけるたびに心が苦しい、痛いよって叫んでいるのに。それを無視して進むから壊れてしまうのだ。
 優しい、誰よりも優しい少女。
 俺を選ぶために他を切り捨てようとした、可哀そうな少女。
 ならば引導をつけてやるのも、馬鹿な俺の役割だ。

 ゴキリ、という音とともに手首を外して腕のロープを解く。
 すぐに外した手首を戻すと今度は足のロープを一本ずつ解き始める。
 そこでようやっと椎名も自分を取り戻したのだろう。手に持った包丁を突き刺すように、俺に突進してきた。
 いい判断だった。椅子に縛られた俺には避ける手段は存在しない。間違いなく胸に突き立てられて死んでしまうだろう。
 もしも、俺の腕が今でも縛られていれば……の話だが。
 ゴリッという嫌な音とともに、つきたてられた包丁の先が折れる。
 泣きたいほど痛いが、それを無視して包丁を奪い、それを使って足のロープを無理やり切り裂く。
 左手半ばまで突き刺さって折れた包丁は、肉の中で鈍い痛みを俺に与え続ける。
 二度と使い物にならないかもな、などと呑気に考えながら包丁の先を肉から抉りだし、地面に投げ捨てる。
 左手は痛みを示すが、指先はまだ微かに動く。幸いながら全部の神経をやられたという訳ではないらしい。
 半身になってかまえると気が遠くなるほどの痛みが俺を襲う。
 長くはもたない。5分、動けばさらに出血が多くなって死んでしまうだろう。
 人間の血液量は体重の13分の1。俺で考えれば約5.4L。そのうちの3割失えば死んでしまう。
 動脈を傷つけられたせいか、血は思った以上に勢いが強い。
 周りを見渡すと、俺が着ていたであろう寝巻きが落ちていた。
 こちらを睨みつける椎名を無視して手に持った包丁で寝巻きの袖を切り、二の腕を強く縛り付ける。
 腐りおちてしまうかもしれないくらい強く縛らなければ止血の意味はない。
 早く傷口を塞がなければこんな処置もあまり役には立たないから、用事を済ませてしまおう。

「椎名、どうしたい?」

 優しく、最大限優しく告げる俺に、椎名は初めて表情を崩した。
 まるで泣きだす瞬間の赤子のような顔に、ついつい笑顔になってしまう。

「分かんない……分かんないよぉ。ずっと楊と一緒にいたくて、訳分かんなくなっちゃって。楊が他の子と一緒にいると頭ぐちゃぐちゃになっちゃって!」

 惑っているのだろう。迷っているのだろう。なら、大丈夫だ。きっと元に戻れる。
 優しかった日々に、今まで通りの日常に。

「もう、止まらないの。心も頭もぐちゃくちゃで、どうしようもないの……。苦しいよぉ、怖いよぉ……!助けてよ、楊……ッ!」

 自分で自分を抑えきれなくなった人間は、誰かが止めなければいけない。
 俺が追い詰めて、俺が椎名をここまで苦しめたのだ。ならば、その役割は他でもない。俺の物だ。
 だから、俺は今撃てる力全てを持って彼女を撃とう。
 右手に持った包丁を投げ捨て、ゆっくりと近づいて抱きしめる。
 びくり、と小動物のように震える姿に思わず笑いそうになってしまうが無視して彼女の腹に手を当てる。
 願わくば、この一撃で彼女が救われると信じて。

「今は眠れ。悪夢は、これで終わりだから。」

 目の前がゆがんで、血が足りないことを示している。
 それでも打てるだけの力全部をこめて、放ったと思う。
 理想的な、師父が見ていれば褒めてくれたかもしれない、崩拳。
 崩れ落ちる椎名に、俺が与えられる最後のもの。
 痛くて痛くて、目の前が少し暗くて。
 なんとか椎名の上にだけは倒れないようにして座りこみ、左腕を見つめる。
 紫色になって、感覚もなくなりつつあるそれは、意識を失えば腐ってしまうだろう。
 ポケットに突っ込まれたままになっていた誰かのハンカチを傷口に当て、止血していた袖を解く。
 一気に出血は多くなり、同時に痛みと感覚が戻ってくる。
 思わず笑いだしたくなってくるハイな感覚を無視してボロ切れになりつつある袖を傷口に巻きなおす。
 これで運が良ければ、死なないで済むかもしれない。

「あー。眠っ。」

 思わず漏らした言葉で、終わりが近付いてくるのを自覚してしまう。
 死ぬわけにはいかない。俺が死ねば椎名は殺人犯だ。
 少なくとも、俺は俺の死を椎名に背負ってほしいとは思わない。
 だからこそできること。出来るだけのことはしておきたかった。
 椎名の胸元に指を突っ込み、じゃらじゃらした携帯を取り出して着信記録を見る。
 当然のようにあるのは、先輩と百乃の番号。
 そのうち姫先輩と書かれた番号に電話をかけ、少しの間だけ瞳を閉ざす。
 つながるまで、少しだけ休もうと。

 ぞっとするほどの静けさの中、瞼の裏の闇だけが無性に暖かかった。