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373 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:27:22 ID:sgtDV1oh
第九話『旅立ちの日に』

その日、シグナムは自らが見張りに立ち、イリスを寝かせた。
寝る前に、シグナムは鎧戸を閉め、扉に鍵を掛けた。
これで大丈夫とは思えないが、要は気休めである。
粗方終えたシグナムは、椅子に座ると蝋燭に火を付けた。
ゆらゆらと揺れる火を見つめながら、シグナムは考え事に浸った。
睡眠に関してはこれでなんとかなるが、問題なのは食事である。
ブリュンヒルドと戦うには、万全の体制で臨む必要があり、
そのためには、食事は絶対重要である。
だが、この宿の料理を食べる訳にはいかない。
ブリュンヒルドが料理に毒を盛ってくる事もありえるからだ。
相手がどの様に毒を盛ってくるかは、こちらで把握する事は不可能である。
毒見役を置いたとしても、相手が毒を少量にして衰弱させてくる可能性もある。
そうなると、シグナムは父と同じ運命を辿る事になってしまう。
どの道、シグナムには絶食する以外方法がないのだろうか。
「いや、まだ他に方法はあるはず……」
シグナムは再び頭を回転させた。
前にブリュンヒルドが部屋に来た時、なぜ料理を食べないのか、と聞いてきた。
これを素直な気持ちで聞きに来たのか、それとも韜晦だったのか、それは分からない。
しかし、いずれにしても、お互いの気持ちは未だに分かっていないのは確実である。
ならば、そこに付け込む隙があるはずである。
立ち上がったシグナムは、部屋を出てブリュンヒルドの部屋に向かった。
出迎えたブリュンヒルドは慌てて跪き、
「でっ……殿下、この様な夜遅くになんの御用でしょうか!?」
と、言った。シグナムは手で制しながら、
「畏まらなくてもいい。どうしてもお前に言っておかねばならないことがあってな……」
と、一旦話を区切り、
「今日の昼は、心配していたお前に酷い事を言ってしまった。
だが、あれは父上の事や魔王の事を考えていたが故に、
食事が喉を通らず、気が立っていたのだ。許してくれ」
と、言って、頭を下げた。
王太子に頭を下げられ、ブリュンヒルドはさらに驚いたらしく、
「殿下、御顔を上げてください。私の様な下賤の者には畏れ多い事です」
と、言った。
ブリュンヒルドの表情の変化を見つめていたシグナムは、頃合と見て、
「そこで提案なのだが、明日、私達と一緒に朝食を食べないか。
私には従者のイリスがいるのだが、流石に二人ではつまらなくてな」
と、唐突にそう切り出した。
これが話の本題だった。
謀主を表に引きずり出せば、勝算は十分にある。
それに、ブリュンヒルドがこの提案を拒否する事は出来ないはずである。
ブリュンヒルドと自分は、謀主と暗殺対象である前に、軍人と王太子なのである。
軍人が王族の提案を無下に断るはずがない。
ブリュンヒルドは、再び驚いた様な表情になったが、すぐに感無量という表情になり、
「殿下と朝食を御一緒させて頂けるとは……、これほど栄誉な事はございません。
喜んで御一緒させていただきます」
と、言って賛成してくれた。
シグナムは内心ほくそ笑んだ。



374 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:28:02 ID:sgtDV1oh
「殿下、この度は朝食に誘っていただき、実にありがとうございます。
このブリュンヒルド、この日を一生忘れません」
ブリュンヒルドのにこやかな声が、シグナムの部屋に響いた。
シグナム達の目の前には、既に朝食が置かれており、ブリュンヒルドが来たことにより、
やっと朝食となったのである。スプーンは握られた。運命の朝食の始まりである。
皆が料理に手を付ける前に、シグナムは、
「ブリュンヒルド、一つだけ言っておく。私は王太子ではあるが、今はただの流浪の旅人だ。
殿下、殿下ではなく、名前で呼んで欲しいのだが」
と、ブリュンヒルドに言った。
「でっ……殿下、なにを仰るのですか!
ただでさえ朝食を御一緒するだけでもおこがましい事だというのに、
さらに殿下を御尊名で呼ぶなど、臣下である私には畏れ多くて出来ません!」
まるでテンプレートの様な返事が返ってきたが、それは当然といえば当然であった。
王衛軍二番隊隊長とはいえ、ブリュンヒルドは臣下である。
臣下が王太子に馴れ馴れしく名前で呼ぶことは、
不敬罪で打ち首になっても文句が言えないほどの大罪なのである。
しかし、シグナムはそのことにはまったく触れる事なく、
「私とお前は知らぬ仲でもあるまい。それに、我々はこれから共に魔王を倒す仲間だ。
いつまでも、殿下、殿下では、お互いギクシャクして仕方ないからな」
と、言って心無い笑みを浮かべた。
ブリュンヒルドはしばらく考えるそぶりを見せ、おもむろに、
「シグナム……様……」
と、呟いた。
「まぁ、今はそれでいいか……」
シグナムはそうに言うと、スプーンでキャロットスープを掬い上げた。
ブリュンヒルドは、顔を紅くしてそれを見つめていた。
「ほら、ブリュン、口を開けろ」
唐突にシグナムはブリュンヒルドを愛称で呼び、とんでもない事を口にした。
一瞬、時間が止まり、再び動き出した。
「でっ……シグナム様、いったいなんのお戯れですか!」
「別に戯れているつもりはない。仲間との親交を深めるために、
飯を食わせてやろうとしているだけだ。女同士、こういうのはよくやるのだろ?」
「女同士でもその様な事はしません!」
ブリュンヒルドの顔は、紅を超えて真っ赤になっていた。
しかし、シグナムはまったく気にしない様子で、
「さぁ、早く食べてくれないか。こうやって腕を保ち続けるのも、結構辛くてな」
と、言って憚らなかった。
「ですが……」
「それとも……、私の好意が受け取れないというのか?仲間であるこの私の……」
ブリュンヒルドの退路を潰していくシグナムの表情は、薄っすらと笑っていた。
影に隠れて姦計を巡らせている謀主を表に引きずり出す。
これこそがシグナムの狙いだった。



375 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:28:53 ID:sgtDV1oh
ブリュンヒルドは、シグナムのスプーンを見つめていた。
これでブリュンヒルドがスープを飲まなければ、その中には毒が入っていると言うことで、
シグナムは、反逆罪、という理由でブリュンヒルドを誅殺する事が出来る。
これならば、ブリュンヒルドを殺したとしても、ガロンヌはなにも言う事が出来ない。
また、逆に飲むという可能性も考えられたが、その場合は毒を入れてなかったか、
遅効性、もしくは少量の毒による衰弱を狙っていた、の二つに絞る事が出来るが、
その中で、後者の可能性はありえない、とシグナムは確信していた。
ブリュンヒルドはファーヴニル国の軍事の重鎮である。
そんな高位にいる人間が、わざわざ毒を飲むという危険を冒してまで殺しにくるとは思えない。
ここまで追い詰められたら、なにかしらアクションを起こすだろう。
さぁ、どうなる。
シグナムの右腕は、ブリュンヒルドの喉元に気付かれない様に向けられていた。
「分かりました」
ブリュンヒルドはそう言うと、スプーンを口に含んだ。
ゴクリ、と喉が鳴った。
確実に呑み込んだのは間違いなく、それはつまり、毒が入っていない事を意味していた。
しかし、シグナムはまだ警戒していた。
次に、クロワッサンを千切り、ブリュンヒルドに差し出した。
これも、ブリュンヒルドはそわそわしながら食べた。
最後は、サラダ、デザートと、ブリュンヒルドに差し出したが、
ブリュンヒルドは顔を真っ赤にして食べるだけだった。
毒がない事を確認したシグナムは、やっと安心して朝食を食べる事が出来た。
この時シグナムは、ブリュンヒルドが口を付けたスプーンやフォークをそのまま使ったが、
これといった感情も抱くこともなかった。

「でっ……シグナム……様、きっ……今日は、御朝食をごっ……御一緒させていただき……、
こっ……この、ブリュンヒルド・アッ……アーフリード……、
かっ……感激のきっ……極みにござい……ます……」
朝食が終わり、ブリュンヒルドは顔を紅くし、たどたどしい口調で、シグナムに謝辞を述べた。
シグナムは、ひたすら頭を下げるブリュンヒルドを宥め、
「どうだろう、ブリュン。これからも共に食事を取るというのは?
どうせ、雨が止むまでここに釘付けなのだから、いいだろ?」
と、誘った。当然、ブリュンヒルドが断れない事は想定済みである。
案の定、ブリュンヒルドは頷いてくれた。
ブリュンヒルドが出て行った後、イリスは、
「あの人、本当に刺客なのでしょうか?そうは全然見えないんですけど……」
と、いう疑問の声を上げた。
「刺客ならば、あれぐらいしなければ誰も信用しないさ」
相変わらず、ブリュンヒルドに悪感情しか抱いていないシグナムは、
あの慌て振りも全て演技であると断言した。
「まぁ、用心する事だ」
シグナムはそう言って、椅子に座った。
「私も、シグナム様に、あーんして欲しかったな……」
「あれは俺の演技だ。お前が騙されてどうする!」
不穏な発言をしたイリスに、シグナムは突っ込みを入れた。



376 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:29:29 ID:sgtDV1oh
相変わらず雨は降り続いている。
既に三日もこの宿に釘付けであるが、シグナムもイリスも生きていた。
体調に異常もない所を見れば、毒はまだ盛られていない様である。
随分と出し惜しみをするな、とシグナムは思いながら昼食を食べていた。
料理を食べ終えた後、突然ブリュンヒルドが、
「シグナム様、あの……、これ……、お受け取りになってください」
と、言って、小さな紙袋を差し出してきた。
「これは……?」
困惑するシグナムに、ブリュンヒルドは、
「それは私が作ったお菓子にございます。お口に合うかは分かりませんが、
どうかお召し上がりになってください」
と、顔を紅くして言った。
しばらくその紙袋を見つめていたシグナムは、ブリュンヒルドに顔を向け、
「ありがとう、ブリュン。後でゆっくりと頂くよ」
と、言った。口は笑っているが、目は笑っていない。
ブリュンヒルドが出て行ってから、すかさずイリスが近寄ってきた。
「なにが入っているのですか?」
「さぁな」
シグナムは紙袋のリボンを解き、中を確かめた。
中に入っていたのは、所謂トリュフチョコというやつだった。
「シグナム様、私、あの人が本当に刺客なのか疑問になってきました。
これから殺そうする人に、チョコなんて送るとは思えないんですけど……」
イリスはそう呟いたが、シグナムは未だにブリュンヒルドを疑っていた。
なにせ、過去にシグナムはブリュンヒルドに薬を盛られた事があるのだ。
それは七歳の時、鍛錬という名の拷問を終えた後、ブリュンヒルドが夕食に誘われ、
なんの疑いもなくその夕食に参加したシグナムは、急に身体が痺れて動かなくなった。
次に目覚めた時には、吊るし上げられ、冷めた目をしたブリュンヒルドに、
「知ってる人だからって、なんでも信用しちゃ駄目ですよ」
と、言われ、一晩中滅多打ちにされた挙句、眠る事も許されず、鍛錬をさせられたのだ。
これでブリュンヒルドを信じろというのが土台無理な話である。
「それじゃあ、試してみるか」
シグナムはそう言うと、イリスを連れ添い宿から出た。
傘を差して向かった先は、残飯が捨てられているゴミ捨て場だった。
その周りには、野良犬が残飯を漁るために屯っている。
シグナムはチョコを一つ手に取ると、野良犬に向けてそれを投げ付けた。
チョコに気付いた野良犬が、そのチョコに食らい付いた。
変化はすぐに表れた。
チョコを食べた野良犬が突然痙攣を起こし、その場に倒れてしまった。
近寄って見てみると、野良犬は口から泡を吐いて死んでいた。
「……はっ……はははっ……、やっぱりな……、こんな事だろうと思った!
あいつはこういう奴なんだ!人が完全に油断した所を間髪入れずに突いてくるんだ!
ほんっと、いい性格をしているよ!とことんな!くそっ、くそっ、くそっ!!!」
シグナムは、残りのチョコを全て踏み潰し、さっさと宿に戻ってしまった。
頭に血が上っていたシグナムは、その時は別段なんとも思わなかったが、
この行為が後に大きな誤算になる事を知る由もなかった。



377 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:30:09 ID:sgtDV1oh
夕食の時間になった。
この頃になると、さすがのシグナムも頭が冷え、自分の犯した失策を酷く後悔した。
あのチョコに毒が盛られていた事は確かであったが、
怒りに任せてそれを全て踏み潰してしまった事は、あまりにも早計だった。
持っていないとなれば、それは既にチョコを食べたと取られ、感想を聞かれる。
素直に食べたと答えれば、嘘がばれてしまい、
食べていないと答えれば、今すぐ食べてくださいと言われ、結局嘘がばれる。
こうなると、今まで嫌悪感を表に出さないでやってきた事が全て無駄になり、
それどころか自分達の命も危うくなる。
シグナムは、ブリュンヒルドが感想を聞いてこない事を祈ったが、その願いは届かなかった。
「シグナム様、私が作ったチョコは、いかがだったでしょうか?」
夕食の終了後、ブリュンヒルドがそう声を掛けてきた。
ブリュンヒルドの表情は、真剣そのもので、誤魔化す事など不可能であった。
ならば、なにがなんでも騙し通すだけである。シグナムは開き直った。
「実はな、チョコを食べようとした時、運悪く…………、すまなかった……」
これほどありふれて且つ完璧な言い訳はないだろう。
チョコが『どうなった』の辺りを暈したため、
ブリュンヒルドは、その『どうなった』の辺りを想像して話さざるを得ない。
ブリュンヒルドがなにを想像し、なにを言おうと、シグナムはひたすら謝ればいいのである。
そんな事を思いながら、シグナムは頭を深々と下げた。
しかし、シグナムの思惑に反し、一向にブリュンヒルドがなにも言ってこない。
不思議に思い、顔を上げてみると、ブリュンヒルドがこちらを見つめていた。
それだけならまだよかった。問題なのはブリュンヒルドの目である。
どこを見ているのか分からず、淀みきったそれは、まるで人形の様である。
ブリュンヒルドのこの様な目は、子供の頃に拷問をしていた時にも見せた事がない。
そんな目に見つめられて、シグナムは心底気味が悪かった。
「誰が……、邪魔をしたのですか……?」
小さく、平坦なブリュンヒルドの声が響く。
これほど不気味で、危機感を掻き立てる声は、そうそうない。
イリスなど、部屋の隅で震えていた。
「だっ……誰って、そんな事は憶えていない」
あまりの威圧感にシグナムの声が揺れた。それに乗ずる様にブリュンヒルドが詰め寄ってきた。
シグナムの目の前に、ブリュンヒルドの淀んだ瞳が広がる。
「シグナム様……、なぜ庇うのですか?
私が丹精込めて作ったチョコを食べようとしたシグナム様の邪魔をしただけではなく、
そのチョコを踏み潰して謝りもしないクズメイドを、なぜ……?」
ブリュンヒルドの吐息が、シグナムの顔に掛かり、それが雫になって頬を伝った。
吐息は熱いはずなのに、シグナムの背筋は冷えたままだった。
だが、それでもシグナムには収穫があった。
「ブリュン、すまなかった」
シグナムは、すぐさま頭を下げた。
トラブルはあったが、これでブリュンヒルドはこの世に存在しないメイドに激怒し、
自分がそのメイドを庇っているという図式が出来上がり、後はこれを押し通すだけとなったのだ。
それからのシグナムは、ブリュンヒルドになにを聞かれ様ともひたすら謝り続けた。
ブリュンヒルドの無表情が近寄ってきても、肩を掴まれ強く握られても、
シグナムはひたすら謝り続けた。それこそ首が取れるくらいに。
こうなると、ブリュンヒルドも埒が明かないと思ったらしく、
「分かりました……」
と、言って、詰問を止めた。シグナムの粘り勝ちという事である。



378 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:30:53 ID:sgtDV1oh
深夜、シグナムはイリスに揺り起こされた。
これは、事前に足音や物音が聞こえたら起こす様にとイリスに伝えておいたものであり、
ブリュンヒルドの闇討ちに対するための策である。
目を覚ましたシグナムは、起き上がり、耳を澄ました。
軋み音は家鳴りではなく、誰かの足音で間違いなく、真っ直ぐにこの部屋に向かっている。
シグナムは、剣を握り、いつでも斬り掛かれる様に身構えた。
足音は、部屋の目の前で止まり、シグナムの剣を握る力が強くなった。
蝋燭のぼんやりとした火が、シグナムの横顔を照らす。シグナムの頬を汗が伝った。
しかし、なぜか扉は開かず、沈黙を保ったままだった。
不思議に思ったシグナムは、鍵を開け、慎重に扉を開いた。
そこには誰もいなかった。
念のため、左右の廊下の先を見渡したが、なにかが動く気配はなく、
冗談のつもりで上を向いてみても、やはり誰もいなかった。
扉を閉めたシグナムは、再びを鍵を閉め、ベッドに横たわった。
「あっ……あの……、ごめんなさい……。私の勘違いで……」
すぐにイリスが謝りにきた。シグナムは小さく笑いながら、
「別にいいさ。これぐらい警戒しないと命が持たん。
これからも、なにか物音がしたら遠慮なく起こしてくれ」
と、言ってイリスを慰めた。
それで、イリスはほっとしたらしく、
「それでは、明日、朝になって晴れていたら、私にもあーんをしてくださいね」
と、軽い冗談を言ってきた。
「……バーカ……」
シグナムはそう言うと、さっさと目を閉じ、寝返りを打った。
背後で、イリスの笑い声が聞こえた。
そんな笑い声を聞きながら、明日の朝食時に本当にあーんをやって、
イリスを驚かせてやろう、とシグナムは内心笑いながら再び眠りに就いた

シグナムが再び目を覚ました時、部屋は真っ暗だった。
いつもであれば、この時間には鎧戸が開けられ、
イリスは椅子に座っているはずである。
不安に駆られたシグナムは、急いで鎧戸を開けた。外は久し振りに見る快晴である。
だが、シグナムの表情は暗い。イリスがいないのである。
まさかブリュンヒルドに、とシグナムは一瞬考えたが、それはありえなかった。
仮に、昨日の夜にイリスが殺されたのなら、なぜ無防備の自分を狙わないのか。
もしや、身体に毒でも仕込まれたのだろうかと思ったが、それらしき形跡はない。
また、精神的なダメージを与えるためにイリスを殺したとも考えられるが、
ならば目の前に死体があった方が効果的であるのに、死体どころか、血の跡もない。
ふと、シグナムの目に、蝋燭入れが留まった。
夜から朝まで、この蝋燭なら六本もあれば事足りる。
蝋燭の減り具合を見れば、いつイリスがいなくなったのかも大まかに割り出す事が出来る。
さっそく箱を開けてみると、蝋燭の数が六本減っていた。
この事からつまり、イリスはついさっき部屋から出て行ったという事になる。
単独行動はするなと言っておいたはずなのに、とシグナムは舌打ちしたが、
そうも言っていられなくなり、すぐにイリスを探しに行こうとした。
しかし、それはノックの音によって制せられた。
「シグナム様、起きていますか……?」
聞こえてきたのは、ブリュンヒルドの声だった。



379 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:31:43 ID:sgtDV1oh
部屋に入ってきたブリュンヒルドは、いつもの様に跪いた。
「早朝から申し訳ございません。どうしてもお聞きしなければならない事がございまして……」
こんな時に、とシグナムは思ったが、無下に断る事も出来ない。
シグナムの頭には、イリスが従業員に襲われるという可能性も浮かんでいたが、
仮に、事前に従業員を買収していたとすれば、その様な荒事に慣れていない素人が、
ブリュンヒルドの命令を完遂出来るとは思えず、出来たとしても簡単な命令くらいであろう。
そんな足の出るリスクの方が大きい事を、狡猾なブリュンヒルドがするとは思えない。
とはいえ、可能性がゼロという訳でもないので、シグナムは早くイリスを探しに行きたかった。
「なんだ?出来れば早く済ませたいのだが」
「あのイリスというメイド女は、なんなのですか?」
「……はぁ……?」
ブリュンヒルドが聞いてきたのは、シグナムの斜め上を行くものだった。
朝っぱらから、しかも五日も一緒にいたイリスの事を、なぜ今になって聞いてくるのだろうか。
「なにって、イリスは私達の仲間だろ」
とにかく、それしか答えようがない。
だが、ブリュンヒルドはそれでは納得がいかないらしく、
「嘘です!あの女は、シグナム様の事を一人の男として見ていました!
女の私が言うのだから、間違いありません!王族が平民の汚種を入れるべきではありません!」
と、言って詰め寄ってきた。
昨日も詰め寄ってきたが、今日は目は淀んでおらず、綺麗に澄み切っていた。
話が長くなりそうだ、とシグナムはため息を吐きたくなったが堪え、
「あのな、確かにイリスは美人だ。しかし、私はイリスに恋愛感情など抱いていない。
それに、イリスがどんなに美人であっても、イリスは平民だ。
平民が王族と付き合える訳がないだろ。」
と、もっともな事を言って返した。
しかし、ブリュンヒルドは納得する所か、さらに近付いて、泡を飛ばしてきた。
「シグナム様、御存知ですか!?遥か東方の国では、丈夫な子を産むために、
王侯貴族の娘ではなく、平民の娘を嫁にするというのです!なぜだか分かりますか!?」
シグナムの顔は、ブリュンヒルドの唾でべとべとになっていた。
拭っても拭っても次から次へと飛んでくるので、濡れ放題である。
「さぁ……なぁ……」
「それはですね、平民の娘の方が、王侯貴族より子供の出生率が高いからです。
それに、王侯貴族だと結納に大量のお金が掛かるのに対して、平民ならば端金で済みます。
誰だって、お金の掛かる美人より、お金の掛からない美人の方がいいに決まってますからね」
ブリュンヒルドの口舌が熱を帯び、唾も少し熱を持っていた。
「それで……、お前はなにが言いたいんだ……?」
シグナムの結論を求める様な声を聞き、ブリュンヒルドが顔を離した。
ここでやっと、シグナムは顔の唾を拭く時間を得る事が出来た。
「世の中には、常識が通じないという事もありえるという事です。
この世界の非常識が、別の世界では常識になっている事もざらにあります。
シグナム様も、常識には囚われてはいけないという事が言いたかったのです」
ブリュンヒルドは、まるでやり遂げたみたいな表情になっていた。
「なぁ……、ブリュン……。もしかして、これだけのために、わざわざこんな早朝から……?」
「はい、そうでございますが……」
ブリュンヒルドがにっこり笑いながら言った。シグナムは、顔面から床にぶっ倒れた。
シグナムが鼻を押さえながら起き上がった時、俄かに外が騒がしくなった。
直後に、一人の従業員が息を切らして部屋に駆け込んできた。
「たっ……大変です!物置小屋からひっ……火が!」



380 :ドラゴン・ファンタジーのなく頃に 第九話 ◆AW8HpW0FVA :2010/03/13(土) 18:32:13 ID:sgtDV1oh
物置小屋は、凄まじい火柱を上げて燃えていた。
従業員が総出で消火に当たっているが、火勢は一向に治まらず、勢いは盛んになっていった。
宿泊客は延焼を警戒し、皆庭に避難していた。
シグナムはその中でイリスを探したが、見付からなかった。
もしかしたら、まだ宿の中にいるのかもしれないと思い、
宿に踏み込もうとしたが、従業員に止められて入ることが出来なかった。
完全に鎮火した頃には、物置小屋は殆ど全壊していた。
従業員達は、火災の原因を探すべく、まだ煙の立ち上る物置小屋に踏み込んだ。
焼け落ちた木材などを退けていくと、その中から一体の焼死体が見付かった。
死体は、服は焼け落ち、顔も焼け焦げるなど、損傷が激しかったが、
その中で、特に右胸の損傷は激しく、深く抉れ、焼き爛れていた。
運び出された死体を見たシグナムは、嫌な予感がした。
駆け寄って見ると、その予感は的中した。死体は、イリスだった。
焼け残った靴が、間違いなくシグナムがイリスに買ってやった皮のブーツだったのだ。
シグナムは、イリスだったものを見て、嗚咽せずにはいられなかった。
「なんで……、なんでこんな事に……。
俺が……、俺が守ってやるって誓ったのに……、……なんで……」
泣かないと決めた目から涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちた。
「シグナム様……」
背後からブリュンヒルドが気まずそうな声を掛けてきた。
シグナムはブリュンヒルドの方に向き直った。
顔には涙の跡が残っているが、既に泣いてはいなかった。
この女にだけは泣き顔を見せる訳にはいかない。
「シグナム様、死んだ者を悔やんでも、戻っては来ません。
今、私達に出来るのは、変わり果ててしまったイリスを、
これ以上衆目に晒させない事だと思いますが……」
ブリュンヒルドの言う事は、至極真っ当な事だった。
シグナムは、イリスの顔に布を掛けると、亭主に頼み、簡易な葬式を挙げてもらった。
埋葬が終わり、軽めの昼食を食べ終えたシグナムは旅支度をしていた。
次に向かう先は既に決めている。それは西大陸、リヴェントである。
西大陸は、シグルドの伝説とはまったく関係なく、行く必要のない場所であるが、
今のシグナムにとっては、保身のために向かわなければならない場所だった。
既に旅支度を終えているブリュンヒルドにその事を告げると、快く快諾してくれた。
取り合えず、第一関門突破である。
支度を終えたシグナムは、信用ならないブリュンヒルドを侍らせ、
嫌な思い出しか残らないニプルへイムの町を後にした。