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217 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:40:10 ID:kVeCnTh+
 昼休みを告げるチャイムが鳴り、教室の空気は一気に弛緩した。
 教卓に立っていた教師が去ると、クラスメイト達は弁当を片手にそれぞれのグループで集まり始める。それから、各々が楽しい昼食の時間を過ごす。いつも通りの昼の光景だった。
 そんな中、弁当を持参していない私はひとり購買部へと赴く。
 教室のドアを開けると、冷気を帯びた空気が室内へ流れ込んできた。一歩先は別世界のように冷え切っている。近くで弁当箱を広げていた女子が非難するように見てくるので、慌てて後ろ手でドアを閉めた。
 廊下に出ると、教室の暖房に慣れていた身体が一瞬で粟立った。吐いた息も白い。
 そこで私は今朝のニュース番組で、今日は今年一番の冷え込みになります、と女性アナウンサーが言っていたのを思い出した。
 昔から、寒いのはあまり得意じゃない。私は両の手で身体を擦りながら、廊下の温度へ適応させるようにゆっくり歩いて行く。
 私の横を男子生徒が二人駆けて行った。方向からして、同じ購買部を目指しているのだろう。
 元気だなあ、と私は若い子を見て微笑む老人のような気持ちになった。
 我が校の購買部は公立学校にしては珍しく数や種類もそれなりに豊富なので、今のようにゆったりと歩いていても、買いそびれるなんてことはまずなかった。
 なので、三年生による売買ラッシュを嫌う私はゆっくりと歩いて行くのが常であった。
 賑わっている別クラスの教室を横目で眺めながら、のんびりと購買部を目指して行く。
 購買部に着いた。いつものように混み合っている部内に三年生の姿は既に無く、二年生と一年生がレジの前に、何重にも折り返した長い列を作っていた。
 少し、ゆっくりし過ぎたみたいだ。私はうんざりする。
 行き遅れすぎてしまうと、目の前のような、主に二年生による第二波がきてしまい、遊園地よろしく長蛇の列が出来る。混雑の原因としてはやはり、レジがひとつしかないからだろう。
 その上、レジは入口付近に設けられているため、部内の商品を買うためには嫌でもこの人工運河を踏破しなくてはならない。
 しかたがない、と私は面倒くさそうに息を吐くと、列に割り込んで行った。




218 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:41:12 ID:kVeCnTh+
 右手で列を切り裂くようにして中を進んで行く。身体をぎゅうぎゅうと押され息苦しい、窒息しそうだ。
 道程、男子生徒が迷惑そうに私を睨み舌打ちをしてきたので、すいませんと謝罪する。なんだか割り込みをしているみたいで、もの凄く申し訳ない気持ちになってくる。早くレジを増設して欲しいな、と私は人波に揉まれながら思った。
 元々人込みが苦手な私は、人工運河を渡り切った時には、もうぐったりとしてしまった。一息ついてから、ふらふらとした足取りで菓子パンコーナーを目指す。
 昼食にはいつも菓子パンかサンドイッチを購入していた。二つとも数だけは豊富なので売り切ることがないからだ。
 今日もそのはずだった。
 しかし道中、視界の隅に何かを捉え、思わず足が止まった。余分に進めていた右足を一歩下げる。
 そこは、惣菜パンが売っているコーナーだった。惣菜パンコーナーは様々な商品が置いてある購買部でも最も人気がある場所だ。
 先程、私は購買部では買いそびれることはないと言ったが、人気がある商品に関しては例外だった。
 購買部は一階にある。校舎は四階建てで上から、一年、二年、三年と続くため、必然的に階下にいる三年生達に地の利があり、人気がある商品についてはさっさと買われていってしまう。
 我が校は厳格な年功序列制度を採っているのである。
 なので、私のような二年生はいつも中堅の商品しか買えない。一年生にしてはそれこそ余り物のような物しか買えないから悲惨だ。
 だから、その惣菜パンコーナーにひとつだけ、学内で不動のナンバーワン人気を誇るカレーパンがひとつだけ残っているのは、随分と珍しいことだった。
 いつもなら真っ先に無くなってしまうのに、どうしてか今日はひとつだけ残っている。
 私は、ぽつんと誰かの手に取られるのを待っているそれをまじまじと眺める。
 昔、一度だけ斎藤ヨシヱに頼んでこのカレーパンを購入して貰ったことがあった。その時は、人気のあるミュージシャンの新譜でも聞くような、そんな軽い気持ちで食べたのだが、正直あの時の衝撃は今でも忘れられない。
 それから、何度かカレーパンを狙って三年生達と競ってみたりしたが、結局買えたことは一度もなかった。




219 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:42:27 ID:kVeCnTh+
 次に食べられるのは進級してからだと思っていたけれど、意外とその時は早かったみたいだ。どちらにしろ、取らない訳にはいかない。
 今日はついてるなあ、と私はカレーパンに手を伸ばした。
 しかし、その伸ばした手は、突然現れた横合いの手に掴まれた。
 私は驚いて、反射的に手を掴んだ人物へと視線を滑らせる。そして、さらに驚くことになった。
 腕を掴んだのは、恐ろしい風体の女子生徒だった。軽く巻いた髪は金色に染め上げており、厳つい形をしたシルバーピアスが所狭しと耳を飾っている。
 身長は女子にしてはかなり高く、平均的な男子生徒の私と大して変わらなかった。服の上からでもわかるプロポーションの良さが、やけに目につく。
 私は突然の出来事に困惑してしまった。
 彼女とは面識がない上に、その、私を見る、金色の髪とは対照的な真っ黒な瞳に、明らかに憤怒を感じるからだ。
 その瞳は、そこらの野良犬ぐらいなら簡単に殺せそうなほど強いものだった。
 自然と腰が引けてしまう。
 彼女が怒っているのは一目でわかった。いつもの私なら何故怒っているのかが分からず、小一時間は悩んでしまうものだが、その日は運よく直ぐに彼女の怒りの原因を理解出来た。
 私は柔和な笑顔で、彼女に言う。
「これ、食べたいのならどうぞ。私はそこのメロンパンでいいんで」
 私のほうが早かったけれど、そんな目で見られては仕方ない。こういう時は女性に譲るのが紳士というものだろう。
 空いた手でカレーパンを薦める。
 しかし、金髪の彼女はそんなカレーパンには一瞥もくれずに、まだ私のことを睨んでいた。
 カレーパンではないのだろうか。途端に不安になる。
 その時だった。漸く、金髪の彼女が口を開いた。
「お前、鳥島タロウだな」
 突然発したその声は、かすれたようなハスキーな声質だった。
 私は軽く頷いて肯定する。
「ちょっと来い」
 そう言って彼女はぐいぐいと私を引っ張ろうとした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 慌てて抵抗しようとするが、彼女の勢いはこれっぽっちも止まらない。女子とは思えない凄い力だった。彼女の中指についている指輪が手首に刺さって非常に痛い。



220 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:43:40 ID:kVeCnTh+
 最初こそ踏ん張ったりして抵抗してみたりした私だが、それが無意味だとわかると、さっさと諦めて彼女のなすがままになった。無駄な抵抗こそが一番の無駄なのは知っている。私はずるずると引っ張られていく。
 彼女に連れ去られる途中、少し驚くことが起きた。
 レジ前に形成されていたあの人工運河が、金髪の彼女が通ろうとした途端に、蜘蛛の子を散らしたように真っ二つに割れたのだ。
 みんな、私同様に彼女が恐いのだろう。
 昔、“十戒”という映画で主人公のモーセが海を割り、信者を連れて進んで行くシーンを見たことがあったが、今がちょうどそんな感じだった。
 私達は割れた海の中を進んで行く。
 左右からひそひそ声がサラウンドのように聞こえてくる。金髪の彼女には恐怖を、私には憐憫の念を帯びた視線をそれぞれ送ってくる。
 道中、先程私のことを睨んでいた男子生徒が目に入った。さっきの不快感丸だしの目とは打って変わって、気の毒そうな視線を私に送ってきた。
 それを眺めながら、私は金髪の彼女に拉致されていった。

 連れて来られたのは、体育館近くに設けられている自動販売機群の前だった。
 夏ならともかく、冬場で此処を利用する生徒は少ない。校舎内にも自販機があるからだ。
 そのためか、幸か不幸かはわからないが、この場には私と金髪の彼女しか居なかった。
 誰も居ない場所で女子生徒とふたりっきり。
 なんだろう。つい最近そんなシチュエーションがあった気がする。
 そんなことを考えていると、突然私の腕が引っ張られた。そのまま身体ごと自販機のひとつに押し付けられる。背中を強打し、ぐえっと情けない呻き声が漏れた。
 金髪の彼女は私のネクタイを掴んで、先程のように睨めつけると、短く言った。
「どうして、キリエをフッたんだ?」
「キリエ?」
 と、問い返した私に金髪の彼女が激昂した。
「惚けんなっ!」
 噛み付かんばかりの剣幕で叫び立てる。背後にある自販機のガラス板が震えたのを、背中で感じた。
「お前が昨日、キリエのことをフッたんだろうがっ」
「……ああ」




221 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:44:49 ID:kVeCnTh+
 そこでやっと思い出した。彼女が言うキリエとは、どうやら田中キリエのことらしい。昨日、という言葉で思い出した。
 確かに私は昨日、田中キリエに放課後の教室で告白された。彼女の気弱そうな姿態が瞬時に脳内に再生される。あまり関心がなかったのですっかり忘れていた。
 それはさておき。まさか金髪の彼女の口から田中キリエの名が出るとは思わなかった。口ぶりからして、おそらく彼女は田中キリエの友人かなにかなのだろうけど。それにしたって、性格も体格も随分と正反対なものだ。一体どういう経緯で友情関係を結んだのだろうか。
 ネクタイを締める力が一段と強くなった。早く話せと言うことなのだろう。それにしても苦しい、呼吸するのが難しいくらいだ。これじゃあ話す云々以前の問題である。
 私は懇願するように言った。
「わかりましたわかりました。話しますから、まずそのネクタイを締めるのを止めてもらえませんか?苦しくて仕方がないですよ」
「…………」
 しかしこれを完全にスルー。
 マズイ。早めに会話を切り上げなくては、自分はこのままでは生命の危機に直面することになってしまう。
 私は彼女の瞳を見据えて話す体勢に整えると、切れ切れの声で言った。
「私が田中さんの告白を断ったのは、彼女があまりに私のことを知らないからですよ。私は本来、人と付き合えるような人間じゃあないんです。それを田中さんは知らない。彼女は上辺の私しか見ていない、だからです」
「それだけか?」
 それだけ、というのは随分と引っ掛かる言い方だが、一刻も早く解放してもらいたい私はすぐに首肯した。
「……そうか」
 ネクタイを締める力が一気に弱められた。瞬く間に身体に酸素が供給される。 やっと解放された、と思った時だった。
 油断したのがいけなかったのだろう。
 金髪の彼女が、空いたほうの手で私の無防備な腹を殴り上げるのに、私は反応出来なかった。
 腹部に激痛が走り、数秒の間息が出来ない。口元を手で押さえて、胃から逆流してくるものを慌てて飲み込む。何も食べていなくてよかった。



222 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:46:13 ID:kVeCnTh+
 体も崩れ落ちそうになったけれど、そんなことをしたら本当に脈が締まってしまうので、自販機に寄り掛かるようにしてなんとか体勢を保つ。
 突然、何をやるんだこの人は。
 私は金髪の彼女を見た。
「そんな理由で……キリエは」
 そんな私のことには気にもかけず、金髪の彼女は独り言のようにごちていた。
 そして、キッと視線を上げると言った。
「キリエはなあ、ずっとお前のことが好きだったんだよっ。それこそ高校に入る前からずっと、それをなんだ?そんなくだらない理由でキリエの気持ちを無下にしやがって何様だお前はっ」
 彼女は私を責めるように言った。
 しかし、怒る彼女をよそ目に、私は今の言葉に違和感を感じていた。
「……ずっと前?」
 それはおかしい。
 私が初めて田中キリエと出会ったのは二年で同じクラスになった時からである。それ以前は、少なくとも私は、彼女とは面識がないと思っていた。
 田中キリエとは中学校、小学校共に違っていた。なので、一年からならまだしも、入学以前から好いているというのは絶対におかしいのだ。彼女が私のことを知っているはずがない。
「あの……」
 と、金髪の彼女に質問してみようと思ったが、とてもそんな雰囲気ではないので諦める。触らぬ神になんとやらだ。
 それから、長い沈黙が流れた。
 私も彼女も何も言わない。
 そして金髪の彼女が唐突に、今まで掴んでいたネクタイを離した。
 突然のことで驚いたが、やっと訪れた自由に私は内心喜んだ。
 金髪の彼女はスカートのポケットからタバコを取り出すと、慣れた動作で火を点け、紫煙をはきだす。
 未成年の喫煙は法律で禁じられていることを伝える勇気は、勿論ない。
「キリエと付き合え」
 彼女が口を開く。
「お前が人と付き合えるような奴じゃないって言うのには同意するよ。ひ弱だし、何考えてるかわかんないし、確かにどう見たってクズ野郎にしか見えない」
 ひどい言われようだ。



223 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:49:23 ID:kVeCnTh+
「けど」
 彼女は短くなったタバコを地面に落とし、踏みにじって火を消した。
「私はキリエに結果をあげたいんだ」
「結果?」
「そう、結果だ」
 金髪の彼女は続ける。
「キリエはお前が思っているよりも、本当に長い間お前のことを想ってきたんだ。本当に、ひたすら一途に。それが、必死の思いで告白したのに、断られてハイ終わりじゃいくらなんでも悲しすぎる。私だって納得がいかない
「変な言い方になるが、正直私はお前がクズならクズで構わないんだ。それでキリエが、ああ私が好きになった人はクズだったんだなって分かれば、キリエだって納得するさ。それならそれで、さっさと別れちまえばいいんだからな。
「お前は、キリエが自分のことを知らないから断ったって言ってたけど、お互いのことを知らないなら付き合ってからお互いのことを知っていけばいいだけの話だろーが。それぐらい気づけ馬鹿。
「とにかく、私はこのままキリエの恋が終わるのは絶対に嫌だ。これは、アイツが初めてした恋だから」
 金髪の彼女は悲痛な表情のまま、新しいタバコに火を点けた。どうやらもう話は終わりらしい。
 私は彼女の言葉を頭の中で反芻し、吟味し始めた。
 つまり、金髪の彼女が言いたいのは、田中キリエは長年私のことを想ってきたのにもかかわらず、私が自分勝手な理由で拒絶してしまったので、このままでは田中キリエも金髪の彼女も納得しない形で終わってしまう。
 だから、とりあえず付き合って何らかの結果を出せ、ということなのだ。
 確かに、その通りなのかもしれない。
 現に私は昨日、田中キリエの告白を断った時、彼女の想いなど全く考慮に入れていなかった。自分は人と付き合える筈が無いと身勝手な結論を振りかざしていただけだ。
 言うまでもなく、それは不誠実なのだろう。
 お互いを知らないなら、付き合ってから知っていけばいい。
 金髪の彼女はそう言った。その発想は私の中になかったが、確かにそれもひとつの恋愛の形なのかもしれない。



224 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:51:00 ID:kVeCnTh+
 二本目のタバコも吸い終わった彼女は、イラついた目で私を見た。早く返事をしろと目で促している。
 そんな彼女を見て、私は思う。
 羨ましいなあ。
 私は田中キリエに対して素直にそう思った。
 目の前の彼女のように、これほどまでに友人のことで、熱心に悩んでくれる人間は、現代の日本にはそういない。皆、どこかで自分を優先してしまうからだ。しかし、彼女にそれがない。
 私には親友と呼べるような存在がいない。なので、それがより一層羨ましいと思えた。
 けれど、そこに妬みは無い。言うならば、希少な宝石でも見るような気持ちだった。
「わかりました、彼女に再度、交際を申し込みましょう」
 私は幾分か愉快な気持ちになれたので、快く彼女の提案を受け入れることにした。
「今日の放課後にでも、田中さんに告白します」
「放課後?」
 金髪の彼女は怪訝そうに聞いた。
「お前、キリエの家知ってるのか?アイツ今日学校休んでんだろ」
「そういえば、そうでしたね」
 全く知らなかった。
「それじゃあ明日にします」
 と私が言うと
「いや、今日行け」
 金髪の彼女はきっぱりと言った。
「私はキリエの悲しんでいる顔を一秒でも長く見たくない」
 彼女は本当に田中キリエのことが好きなんだな、と私は益々嬉しくなる。
「わかりました。それじゃあ田中さんの住所を教えてもらえますか?」
 そう言うと、金髪の彼女は田中キリエの住所を述べた。口頭だったので大変だったが、なんとか覚えた。
「今日、絶対にキリエに告白しろよ。わかったな」
「ええ、わかりました」
 金髪の彼女は最後にそう念を押すと、私に背を向けて歩き出した。これで本当におしまいらしい。
「あっ、そうだ」
 しかし、そこで彼女は思い出しように呟くと、私の近くまで戻ってから言った。
「あと、これは個人的な感情」
 そう言って彼女は、右足を軸にくるりと一回転した。回し蹴り、と頭が認知した時には、彼女の左足が私の右側頭部を貫いていた。



225 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:52:09 ID:kVeCnTh+
 白い光が眼前にはじけ、世界は一回転する。
 地面にたたき付けられた。口内で血の味が広がる、少し切ったようだ。
 まだ回り続けている視界の中で、金髪の彼女は私の髪を引っ張り、無理矢理顔を上げさせた。
「色々と言ったが、はっきり言って、私はお前みたいな野郎がキリエと付き合うのは堪らなく嫌なんだよ。本当、腸が煮え繰り返そうだ」
 真っ黒な瞳が、私を見る。
「いいか、覚えとけよ。もしこの先、お前がキリエを悲しませるようなことをしたなら、私はお前を――」
 彼女は一拍置いて
「――殺す」
 髪から手を離され、私の顔は再び地面に戻った。そして、憮然とした態度で去って行く金髪の彼女を見上げる。短いプリーツスカートから、下着が見えた気がした。
 そして冬空の下、私だけが残った。
 帰ろう。そう思って立ち上がろうとするが、膝ががくがくと震えて立ち上がれない。おそらく、脳震盪だろう。
 仕方がないので、そのまま冷たい地面に横たわった。
 脳震盪は安静により短時間で回復できることを、私は知っていた。短く逆立った雑草が、頬をちくちくと刺して不快だったが我慢する。
 ――それにしても。
 殺すと言った時の、金髪の彼女のあの真っ黒な瞳を思い出す。
 心底、震えた。びっくりした。さっきのは脅しでも冗談でもない、間違いなく本気だった。
 私は本気で殺すと言った人を見るのは始めてだった。遅れて、冷や汗がどっと吹き出す。
 どうやら私はひとつ思い違いをしてたみたいだ。
 金髪の彼女が田中キリエに対して抱いていたのは、友情ではなく、異常なまでの愛情だった。いや、依存心かもしれない。いずれにせよ、普通ではない。
 ひとつ、確信する。もし、私が本当に田中キリエのことを悲しませるようなことをしたならば、彼女は間違いなく、私を殺すだろう。
「困ったな」
 これから先、田中キリエと付き合っていくことを考えると、うんざりした。これからは死と隣り合わせである。
 その時になって、漸く私は自分が面倒な事態に巻き込まれているのだと、自覚した。
「くわばらくわばら」
 そんな独り言と共に、私はゆっくりと瞳を閉じる。
 近くの体育館から、バスケットボールを楽しむ生徒の声と上履きの摩擦音が響いていた。


226 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:52:55 ID:kVeCnTh+
 結局、教室に戻った頃には、もう昼休みも終盤を迎えていた。
 私は制服についた汚れを落とし、水道水で口をゆすいでから教室へと向かった。
 何だか、今日は散々な昼休みだった気がする。体中が痛むし、胃袋も先程から食物を切望して、悲しく鳴いていた。
 まあこんな日もあるさ、と切り替える。
 変わったことが起きた。
 教室に着いて、ドアを開けるとクラス中の人間が一斉に私のことを見た。
 視線の矢が何本も突き刺さり、思わずどぎまぎしてしまう。けど、人気者になったみたいでちょっと嬉しい。
 比較的仲の良い男子生徒の何人かが、私のほうに寄ってきた。そうでないものも皆、私に注目している。
「おいタロウ、お前昼休みにマエダカンコに拉致されたって本当かよ」
 取り巻きのひとりが口を開く。
「聞いたぜ、マエダに購買部で引っ張られてって、どっかに連れてかれたんだろ?ウチのクラスにも何人か見たって奴いるぞ」
 マエダカンコというのが、あの金髪の彼女の名前だというのにはすぐに気付いた。
「はい、本当ですよ」
「マジかよっ」
 クラスが一段とざわつく。
「お前、一体マエダに何されたんだっ」
「それはもう、ヒドイ目にあいましたよ」
 ふて腐れるように言う。
 本当にヒドイ目にあった、彼女のせいでカレーパンどころか昼食もとれなかったのだから。
 私がマエダカンコに連れ去られたとわかった途端に次々と質問がとんできた。
「具体的には何されたんだよ」
「一体、マエダとはどういう関係なんだ?」
「なんでお前生きてるんだ?」
 某太子と違って一度に多数の質問を聞けない私は、矢継ぎ早の質問に目を回してしまう。
 そんな私に助け舟を出すように、予鈴のチャイムが鳴った。皆、まだ聞き足りないといった感じだったが、渋々席についていく。私もほっとして自分の席に戻っていった。



227 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:54:48 ID:kVeCnTh+
 教師はまだ来ないようだった。次の授業を担当する数学教師は時間にルーズなことで有名であり、いつも遅れてやってくる。
 暇を持て余した私は、せっかくなので隣の席の男子生徒にマエダカンコについて聞いてみることにした。
「マエダカンコ?タロウ、お前マエダも知らないのかよ。アイツほどの有名人、この学年じゃ知らない奴はいないと思うぞ」
「すいません、無知なもので」
 私は苦笑する。そんなに有名人だったのかあの人。
「まあ仕方ないか、アイツが本格的に有名になりだしたのも、つい先月からだしな」
 話す気が起きたのか、男子生徒は椅子を私の眼前にまで寄せた。それから、マエダカンコについての情報を耳打ちする。
「マエダカンコ、二年一組所属。素行はかなり悪い。学校では誰ともつるまずに一匹狼を貫いている。元々、アイツもあんなナリしてるから学内ではそこそこ有名だったんだ。平然と教室でタバコ吸い出したりするしな。
「まあ、それだけなら何処の学校にでも居る不良ちゃんで終わるんだが、先月にある事件が起きてから知名度が一気に撥ね上がった」
「ある事件、ですか?」
 私は繰り返す。
「ああ。ほら、マエダって中身はともかく、顔とかスタイルとかはスゲエいいじゃん?だから、前々から三年生の先輩達、あっちなみにこれも中々のワルね、が結構ナンパまがいのことをしてたわけよ」
 関係ないが、彼が話す度に耳元に生暖かい息が吹きかかって、なんともこそばゆい。背筋がぞくっとする。
「けど、マエダはそんな先輩達を全く相手にしなかったんだ。そりゃもうガン無視。で、先輩達も遂に怒りが天に達しちまって、ある日の放課後、マエダをどこかへと連れさったらしいんだ。それが、ちょうど先月のこと」
「それで、マエダさんはどうなったんですか?」
 男子生徒は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「それで、マエダカンコがどうなったかというと――」



228 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/04/19(月) 07:56:20 ID:kVeCnTh+
 勿体振るように長い間を置いてから、芝居がかった口調で言った。
「――全治ニヶ月。それもマエダじゃなくて先輩達のほうがな。みんな病院送りだよ。まあ流石にやったのはマエダじゃなくて、アイツの知り合いかなんかだろうけど、それにしたってやり過ぎだ。
「だからそれ以来、マエダカンコはキレたら何するかわからない奴だって言われて、みんなびびっちまってるのさ」
 これで終わりだと言うように、男子生徒はパンと手を叩いた。
 ちょうどその時、黒板側のドアが開き、数学教師が入って来た。狙ったようなタイミングの良さだ。
「また後でな」
 男子生徒はそそくさと自分の席へと戻っていく。私も机の中から教科書とノートを取り出した。

 授業が始まり、黒板にチョークを走らせる音が室内に響く。授業に集中している者はノートをとり、そうでない者は腕を枕に眠っていた。
 そんな中、私はマエダカンコのことを考えていた。
 三年生の先輩方を病院送りにしたのは、間違いなくマエダカンコだろう。それはゆるぎのない確信だ。
 あの回し蹴りが脳裏をかすめ、思わず身震いする。
 男子生徒の話を聞いて、ますます私が殺される確率が上がった気がする。
 嫌だなあ、と思いながらノートをとる。まあ悩んだって仕方はない。今は、田中キリエへの告白について考えよう。
 そして、私は自身の初告白の言葉を思い浮かべていく。
 この時、私はひとつ見落としていることがあるのに気づいていない。
 私は、田中キリエがどんな人間なのかを全く理解していなかったったのだ。