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105 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:44:47 ID:+7NZkhJf

 カタンカタンと、電車は一定のリズムを刻んで進んで行く。
 夕方時の静かな車内は、凍てついた外界とは対照的に暖かい。
 ふくらはぎを撫でる温風が、私の冷えた足を温めようと躍起になっていた。
 車内の席は全て埋まっていた。
 帰宅途中の学生、うたた寝している老人、くたびれたスーツを着た中年サラリーマン。みんな、どこか疲れた顔をしていた。窓から差し込む夕日が、顔に影をつくっているからかもしれない。
 私は、心地良く振動する座席に身を預けて、ぼんやりとそれらを眺めていた。
 一瞬、自分が何をしているのかわからなくなる。
 いきなり違う世界に放り込まれたような、そんな感覚。
 けれど、まだ咥内に残る鉄の味と右側頭部の疼痛が、そんな私を叱咤した。忘れるな、と。
 そこで思い出す。
 そうだ。私は今田中キリエの所に向かっているのだった。
 水面に浮かび上がっていく気泡のように、じんわりと思い出されていく記憶。
 まず思い浮かんだのは、昼休みに見た、マエダカンコの穿いていた下着だった。意外と子供っぽいデザインだったのをよく覚えている。
 次に思い出したのは、彼女から喰らった回し蹴りだ。あれは痛かった。気絶するかと思った。
 そんなことを回想しながら、私はハーっと息を吐いて、さらに深く座席にもたれかかった。
 油断するとそのまま眠りに落ちてしまいそうだった。私は昔から乗り物に乗ると眠くなる癖がある。そして、未だにその癖は治っていない。
 私は靄がかかった思考で、ゆっくりと今日の放課後のことを回顧した。
 マエダカンコとのちょっとしたやりとりを。



106 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:45:22 ID:+7NZkhJf

 今日の放課後のことだ。
「鳥島タロウ居るか?」
 突如、教室内に響き渡ったハスキーボイスはクラスの和やかムードを一瞬で瓦解させた。
 同時に、教室の時間をも止まらせた。
 時間を止まらせた、というのは決して比喩などではない。文字通り本当に止まったのだ。
 机に座って談笑していた生徒も、教科書やノートを鞄の中に詰め込んでいた生徒も、今から部活に行こうと意気込んでいた生徒も、みんなピタリと、まるで蝋人形のように固まってしまった。凍り付いたと換言してもいいだろう。
 教室の温度も一気に下がった気がした。もしかしたら暖房も止まってしまったのかもしれない。
 そんな、一気に大氷河期にへとタイムリープしてしまった教室の中。当の私は机の下に隠れていた。
 咄嗟の判断である。彼女の声を聞いた瞬間に身体が自然に動いていた。これは手を抜かずに真面目にやってきた防災訓練の賜物だと思う。
 私は机の脚を両手で握りしめ、少しだけ顔を上げてみた。
 ハスキーボイスの発生源、マエダカンコはギラついた目で教室を一周させた。しかし、私に気付いた風ではない。
 どうやら、この瞬時の機転により彼女の位置からでは私が見えないようだった。
 これは千載一遇のチャンスだ。
 私は机の下から、こっそりと机上の鞄を持ち込むと、彼女のいない方のドアまで、腰を屈めて歩いて行こうとした。
「おい、そこのお前。鳥島タロウの席はどこだ」
 疑問形なのか命令形なのかイマイチわからない口調で、マエダカンコは近くの女子に尋ねていた。
 女子生徒はヒッと軽い悲鳴を上げてから、震える声で言った。
「あ……あそこに……」
 と、指を指すその先には当然の如く私が居た。
 隠れているものもピンポイントで見られては見つかってしまうものだ。
「鳥島タロウ、来い」
 今度は間違いなく命令形だった。
「……はい」
 私は立ち上がって、のろのろと彼女のもとへと歩いていく。
 クラスメイト達は固まりながらも視線だけは私に向けていた。
 尋問されていた女子が申し訳なさそうに私を見ている。彼女を責める気は毛頭ない、あんな風に聞かれては誰だって答えてしまうだろう。
 なので、私は安心させるように、にこりと微笑んでやった。
 こうして私は、赤紙を出された次男坊のような心持ちで、マエダカンコに再び拉致されていったのだった。



107 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:46:32 ID:+7NZkhJf

 彼女に連れて来られたのは、私が昨日、田中キリエの恋文を読んだ場所でもある非常階段であった。
 また自販機前だろうと思っていた私は少々拍子抜けをした。
「言い忘れたことがあった」
 と、マエダカンコは切り出す。
「昼休みのこと、キリエには黙っていろ」
 簡潔に出された彼女の勅令に、私は「はあ」と曖昧な返事をした。そして、一応助言してやる。
「それは構いませんが、仮に私が黙っていたとしても、結局は田中さんに伝わっちゃうと思いますよ。私とマエダさんが昼休みに会っていたことは、それなりに広まってるみたいですし」
 さっきの教室での級友達の態度を見ればわかるだろう。
 しかし彼女はあっけらかんな態度で続けた。
「違う。私が言ってるのは昼休みにお前と会ったことじゃない。昼休みにお前と話した会話の内容だ」
「会話の内容?」
 私は問い直す。
「ああ。キリエに関する会話全てだ。後それとお前、私のことをマエダさんとか馴れ馴れしく呼ぶんじゃない」
「わかりました。それじゃあ、カンコさ――ごぐぁっ」
 無言で腹パンされた。
「次、その名で呼んだら殺すからな。と、話を戻すが、要は私がお前にキリエと付き合えと指示したことをキリエには言うなってことだ」
 あれは指示じゃなくて脅迫ではなかろうか。なんてことは言えない。
「あくまでキリエに告白し直すのはお前が自分で考え、自分で判断した、全くの独断ということにしろ。私のことを聞かれても一切合切話すな。わかったな」
 マエダカンコはそう念を押したが、私には彼女の言いたいことがイマイチわからなかった。
「どうして話しちゃいけないんですか?」
「はあ?」
 彼女は呆れた目で私を見た。出来の悪い生徒を見るような目だった。
「何言い出すかと思ったら……。あのなぁ、今日いまからお前がしに行く告白がお前の意思じゃなく、私の指示によるものだってことをキリエが知ったら、私が無理矢理お前に告白させたみたいでキリエも素直に喜べないだろうが。そんなこともわかんないのか?」
「なるほど」
 私はポンと手を打った。実を言うと、よくわかっていない。



108 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:47:10 ID:+7NZkhJf

「わかりました。つまり、昼休みのことを田中さんには話すなということですね。ですが、それでは昼休みの逢い引きはどう説明――ぐごぁっ」
「逢い引きじゃねえだろーが。さっきから思ってんだが、わざと言ってんのかテメェ。そうだとしたらマジで殺すぞ。
「昼休みのことは、もしキリエがそのことを知ったら、私から適当に話しておく。お前のことがムカついたから殴った、とでも言うさ」
「……わかりました」
 ムカつくから殴った、で彼女は納得するのだろうか。
「話はこれで終わりだ。わかったんならさっさとキリエのとこ行ってこいよ。それじゃあな」
 そう言い残して、彼女は台風のように去っていったという訳だ。

 とまあこんな感じのことがあって、私は今のように、いつも利用する路線とは別のものに乗り込んで、殊勝にも田中キリエのもとへと向かっているのだった。

 電車の速度が徐々に落ちていき、噴出音と共に扉が開いた。
 ご老齢の方が乗り込んできたので、私は席を譲った。
 ありがとうございます、と礼をされ、それに笑顔で返した。
 そのまま扉近くまで移動し、高速で変化していく光景を眺める。
 今まで告白云々と色々語ってきたが、正直、田中キリエが告白を受け入れてくれるかどうかも、私にはまだわからなかった。
 なにせ、私は昨日一度彼女の告白にノーと言っている。
 そんな男が昨日の今日で、やっぱ付き合ってください、なんて言っても彼女からしたら、今更なんだと思わざるを得ないだろう。断られる可能性だって決して低くはない。
 まあ、自分としては今後のことを考えると、断ってもらったほうがいいのだけれど。正直、マエダカンコのことを考えるとこの先気が重い。
 でも、仕方がない。
 私は思う。
 これが青天の霹靂であるにしろ、ともかく、私はもう約束してしまったのだ。こうなれば、もう乗りかかった船だ。与えられた任務は最後まで遂行しようと思う。
 そう私が決意した時、ちょうど電車は踏み切りの前を過ぎった。
 カーンカーンと情けなくなっていく電子音が、しばらく耳の中で反響していた。



109 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:47:44 ID:+7NZkhJf

 目的の駅に着き、私は駅を出た。
 あまりの寒さに思わず身が震える。
 初めて来る街だった。私の住んでいる街より、幾らかグレードが高いように感じた。高級とまではいかない、中級住宅街といったところか。
 マエダカンコから聞いた住所はまだ覚えている。田中キリエは何処かのマンションかアパートの三○一号室に住んでいるらしい。
 見馴れない街並みではあるが、適当に電柱に印された住所でも見ながら歩いてれば、じきに辿り着けるだろう。
 そんな楽観的な考えを持って、私はのんびりと街の中へと歩き始めた。

 結果から言おう。どうにもならなかった。
 理由は三つある。
 一つ、土地勘が全くないこと。
 二つ、郊外のベッドタウンだけあってマンションもアパートも異様に数が多いこと。
 三つ、彼女の苗字の“田中”だ。
 全国でも多数存在するその姓名は思ったより私を悩ませた。
 田中と書かれた表札を見る度に、田中キリエとは違う田中さんだと理解しているのに、身体が一々反応してしまうため、頭が疲れるのだ。
 そんなこんなで十二軒目の田中さんを発見した頃、私は駅前まで帰還してしまうという摩訶不思議な現象に陥ってしまった。

「迷いの森か何かなのか此処は……」
 今現在、私は駅前の精悍な顔つきをした男性の石像の前に座り、疲れた足を休めていた。
 気分はまるで青い鳥を求める少年だ。まだ青い鳥すら見ていないけれど。
 おもむろに空を見上げる。
 太陽はもうすっかり傾いてしまって、水平線の向こうからゆっくりと黒が侵食し始めていた。
 夜間に人の家を訪ねるのが失礼なことくらい、さすがの私でも心得ている。
「これじゃあ今日は無理かな……」
 そんな弱音を吐いていると、不意に金髪が脳裏を過ぎった。
 私はがっくりと肩を下ろした。
 やっぱり今日中にやんなくちゃダメだよなあ。殺されるんだもんなあ。
 けれど、このまま闇雲に歩いてても徒労に終わるのは目にみえている。果たしてどうするべきか。
 幾らかの逡巡の後、私は疲れた足をバンと叩き、いきなり立ち上がってみた。
 こんなとこで座ってたって何も始まらない。闇雲でもいいからとにかく歩こう。
 と、珍しくやる気を出したところで私は、あっと悲鳴を漏らす。
 なぜ今まで気づかなかったのだろうか。
 私の目の前には駅前交番があった。



110 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:48:17 ID:+7NZkhJf

 目の前には、建てられて間もないだろうマンションがあった。
 その建造物は、全体的に四角い形をしていて、備えられている窓や扉も全て真四角だった。階数もきっかり四つだ。今風の小洒落たデザインで、白の漆食で塗られた壁には汚れひとつない。
 私はまじまじとそのマンションを見上げた。
 サイコロみたいな形をしているな、と思った。
 エントランスに足を踏み入れる。
 外の壁の真っ白さとは対照的に、中の壁は全て黒めの剥き出しのコンクリートブロックで埋められていた。
 世間ではこういうのがお洒落なのだと言うのだろうけど、季節が季節なのだけに、今の私にはただ寒々しいだけだった。夏にはちょうどいいかもしれない。
 最新のマンションにも関わらず、オートロックは常備されていなかった。そういえば監視カメラも見当たらない。意外とセキュリティ関係には手を抜いているみたいだった。
 エレベーターを使わずに、横に備え付けられた階段を使って三階まで上る。
 三階の角部屋に田中キリエの家はあった。
 私は、その真四角の扉の前に立ち表札を見る。
 表札の“三○一”の番号の下には“田中”とポップ体で書かれた名前があった。
 やっと辿り着いたんだなあと、感慨深いものが込み上げてきた。気分はまるで母を求めて三千里、だ。
 夕日は既に落ちてしまっている。
 腕時計を見ると、時刻はもう既に七時を越す頃だった。思っていたよりも時間が経っている。
 善は急げだ、と私は表札の下に設置されていた呼び鈴を押した。
 ピンポーン、と間のぬけた音が扉越しに聞こえる。
 確かに、聞こえたのだけれど
「…………?」
 誰も出ない。
 気づかなかったのだろうかと思い、念のためもう一度だけ鳴らしてみる。
 ピンポーン。
 再び呼び鈴が鳴るが、やはり何の反応も返ってこなかった。
 呼び鈴はちゃんと鳴っているし、室内に居て気づかないということはさすがにないだろう。ということは、何処かに出かけてしまっているのだろうか。



111 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:49:04 ID:+7NZkhJf

 うーん、と唸りながら私は頬をかいた。
 どうやら、家内が留守なのは間違いないようだった。
 このまま此処で待機していてもいいのだが、近隣住民に変質者と思われる可能性もある。果たしてどうするべきか。
 私は扉の前でうーん、うーんと唸りながらくるくると回った。
 後で思えば、その姿は言うまでもなく変質者だったのだろう。
「仕方ないか……」
 私はピタリと立ち止まった。
 出直そう、と心に決めた。
 二、三十分も経てば帰ってくるだろうと思い、私は出直そうと、その場を去ろうとした。
 すると、ぱたぱたと廊下を駆ける音が、扉越しに微かに聞こえてきた。
 どうやらやっと来訪者に気付いたらしい。
 ガチャリ、と鍵の開く音がして扉が開く。
「すいません、遅くなっちゃって。どなたでしょうか?」
 そう言って出てきた田中キリエは、寝巻姿であった。子供っぽい水色のパジャマの上には桃色のカーディガンを羽織っている。あの大きな黒縁眼鏡をかけていなかった。
「……んー?」
 彼女は目を細めながら私に顔を寄せていく。眼鏡をかけていないため、よく見えないのだろう。彼女の赤く腫れぼった目が眼前に迫ってきた。
 ちょっと手を伸ばしてみれば、彼女の細い首に手をかけれそうだ、なんて想像をしていると、田中キリエが突然大きく目を剥いた。
 心中を悟られた気がして、私はハッと息を呑む。
「…………」
 しかし、彼女はそのまま無言で、パタリと扉を閉めた。
「……えっ?」
 拒絶された、とまず思った。やはり今更私の顔など見たくないのだろうかと。
 そう思った時だった。
「きゃあああああああっ!」
 扉の向こうから、もの凄い叫び声が上がった。
「えっえっ、なんで、なぜ、どうしてっ。どうして鳥島くんが居るのッ!?なんでなんでなんでーっ!ハッ、ていうか私まだパジャマだし、顔も洗ってないし、髪もボサボサだしぃ、きゃあーっ!ああ、どうしようどうしようどうしよう見られた見られたー!」
「あのー、田中さん」
「ちょっ、ちょっとだけ待っててっ!」
 そう言い残して、彼女はバタバタと駆け出し始めたようだった。
 扉の向こう側からは何やら騒がしい音が聞こえてくる。おそらく、私を出迎えるの準備をしているのだろう。
 元気な人だなあ、と思わず頬が緩んだ。
 私は元気な人は好きだった。



112 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:49:44 ID:+7NZkhJf

 それから約二十分後。
「おっ、お待たせ」
 田中キリエは、黒のネックセーターに白の長いフレアスカートという落ち着いた服装で出て来た。その小さな顔には、いつもの黒縁眼鏡が掛けられている。
「さっきはゴメンね……なんか取り乱しちゃって」
 先程の失態が余程恥ずかしかったのか、彼女の顔は真っ赤になっていた。
 いえいえ大丈夫ですよ、と私はフォローをいれる。
「でも、少しびっくりしました。田中さんってあんなに大きな声出せるんですね」
「うー。……もう忘れて」
 そんなやりとりの後、彼女は私を玄関へと迎い入れた。
「それじゃ、とりあえず中に入ってください」
 勧められるがままに、私は綺麗に整頓された玄関に足を踏み入れた。
 ガチャリ。ジャラジャラ。
 と、施錠音がして後ろを振り向くと、当然のことながら田中キリエが鍵を閉めているところだった。ご丁寧にチェーンロックまでつけている。
 私なんかは普段、自宅に居る時は鍵を閉めないタチなので、そこのところはやはり女の子なんだな、と感心した。
「こっちです」
 と、案内された彼女の自室は、私の想像と違わない、いかにも女の子らしい部屋だった。
 なんか、全体的にピンクっぽい。
 カーテンも絨毯もベッドも全部ピンク色だ。彼女には悪いが、長時間居ると目が疲れそうだな、と思った。
 部屋の中央に丸テーブルとクッションが置いてあったので、とりあえずそこに腰を下ろす。
「適当にくつろいでてください。私、お茶持ってくるんで」
 田中キリエはそう言って、部屋を出て行こうとする。
「そんな。そこまでお気遣いしなくてもいいですよ」
 と、一応遠慮してみるが、やはり田中キリエはお茶を用意しに出て行ってしまった。
 急に所在無げになってしまったので、とりあえずキョロキョロと部屋を見渡してみることにした。
 そういえば、女の子の部屋に入るのは初めてだ。
 妹を女性としてカウントするならば話は別だが、彼女の部屋に入ったのだってもう十数年も前だし、初めてと言っても過言ではないだろう。



114 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:50:13 ID:+7NZkhJf

 やはり少し緊張するな、と急にそわそわし始めてしまった。
 家内の様子からして、どうやら田中キリエの親は不在なようだ。
 ということは、ひとつ屋根の下に男女がふたりきりということになる。
 そういうシチュエーションにいかがわしい妄想を抱いてしまうのが男の性なのだが、生憎私はまだ彼女の恋人ではない。今日はそういう事には至らないだろう。
 ガチャリ。
 と、再び施錠音がして、私は反射的にドアを見た。
「お待たせしました」
 そう言いながら、田中キリエがお茶をお盆の上に乗せて持ってきた。
 いや、それよりも。
 私は思った。
 なぜ、彼女は部屋の鍵を閉めたのだろうか。
 この家には私と彼女しか居ないのだから、部屋の鍵まで閉める必要性はあまり感じられない。それなのに、何故わざわざ施錠をしたのか。
 しかし私は、多少不思議には感じたものの、いつもの癖なのかな、と大して気にとめなかった。
 田中キリエはお盆を丸テーブルの上に乗せて、カップにお茶を注いだ。
 匂いと色からして、それが紅茶であることがわかった。
「お砂糖はどうします」
「じゃあ、少し」
 シュガーポットから砂糖をひとさじ掬い、カップの中へ入れた。
 そして、私と向かい合うようにして彼女もクッションの上に腰を下ろす。
「それにしても、びっくりしちゃったよ」
 田中キリエが言った。
「いきなり鳥島くんが訪ねてくるんだもん。前もって言ってくれれば、もっと準備とか出来たのに」
「すいません。事前に連絡もなく突然訪ねてしまって。なるべく早く帰るようにするんで」
「そんな、いいよいいよ気にしなくて」
 田中キリエはバタバタと手を振る。
「私の両親、共働きだからいつも帰ってくるの遅いし、時間のこととかは全然気にしなくて大丈夫だから」
「そうなんですか。それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」
「うん」
 彼女がニコニコ顔で頷いた。
 そこで会話が途切れてしまったので、今度は私から切り出してみることにする。
 ひとつ気になることがあった。
「ところで、田中さん。ひとつ聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「ん?何かな?」
「さっきから後ろ手隠している物は、何ですか?」



115 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:50:53 ID:+7NZkhJf

「後ろ手に?」
 彼女は首をかしげる。
「別に、何も隠してないけど……」
「あれ?でも今確かに――」
「それよりもっ!」
 田中キリエは強引に話題を変えた。
「鳥島くんは今日なんで私の家に来たのかな?何か、用があって来たんでしょう?」
「あっ」
 そこで私は、自分が肝心の本題を話していなかったことに気付いた。本題を先に話さないなんて、話しの順序としては最悪だろう。
「すいません。言われてみれば言ってませんでしたね」
 私は苦笑し、頭をかいた。
「今日は、田中さんに告白しにきたんですよ」
「へっ?」
「あっ」
 やべっ。つい、話しの流れで言ってしまった。もっとそれらしい雰囲気を出してから言い出そうと思っていたのに。
 まあ、仕方がないか。
 せっかくなので、私はそのまま続けることにした。
「あれから――ずっと考えていたんですよ」
 私は紅茶を飲んで、舌を湿らせた。
「私が田中さんの告白を断ったのは正しかったのかってことを。ずっとずっと悩んでいました。そして、わかったんです。結局は私のエゴに過ぎなかったと」
 田中キリエは黙って聞いている。
「要は、私は田中さんを傷つけるのが恐かったんです。田中さんは知らないでしょうが、私は結構、不完全な人間なんですよ。もし付き合えば、絶対にあなたを傷つけることが私にはわかっていた」
 即興にしては中々の滑り出しだな、と私は思った。意外と演説上手な自分に驚く。
「けれど、結局それはただの逃避でしかない。私には田中さんと付き合っていけるわけがないと、自分勝手な理論を振りかざして、あなたを拒絶した。でも私は、田中さんの気持ちをこれっぽっちも考えていなかったことに気付いたんです
「告白というのはそれなりに勇気のいる行動だと思います。田中さんだって、何日も何日も想い続けて、漸くそれに至った筈です。私は、仮に断るにしても、そういう相手の想いを考慮してから答えを出すのが誠実だと思いました。
「それから、今度は田中さんの気持ちを考慮に入れてから、考えてみたんです。そして、答えが出ました。だから今、私はあなたにあの時の告白の返事をします。
「田中さん――よかったら私とお付き合いしていただけませんか?」
 そうして、私は口を閉ざした。



116 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:51:26 ID:+7NZkhJf

 完璧だ。まずそう思った。
 脳内では、私の演説を聞いた観客が総立ちになって喝采をおくっている。
 多少キザっぽくなってしまったが、そこはご愛敬ということでいいだろう。
 そんな充足感に包まれながら、私はしたり顔で彼女を見た。
「ひっく……えぐ……っえぐ」
 泣いていた。
 ええー。そこで、泣いちゃう?
 想定外の出来事に混乱してしまう。
 結構それらしく言えたはずなのだけれど……。
「あのー。もしかして不快でした?」
 耐え切れなくなった私は、直接聞いてみることにした。
 すると、田中キリエはぶんぶんとかぶりを振った。
「ちっ、が……ひっく……違うの、ただ……私嬉しくて」
 彼女は嗚咽混じりでそう言った。
 なんだよ、紛らしいな。
 私はイラついた目で彼女を見た。
 田中キリエは零れ落ちる涙を手で拭いながら、静かに泣いている。
 彼女の物言いからして、どうやら私の告白は成功したみたいだし、これで晴れて私は田中キリエの恋人になったというわけか。
 こういう時は彼氏らしく宥めてやるのが正解なのだろうか?無言で抱きしめてやったりしたらカッコイイかもしれない。
 なんて考えていると、いつの間にか田中キリエは泣き止んでいた。
「あの……それじゃあ、これからよろしくお願いします」
 と、彼女は深々とお辞儀した。
「いえいえ、こちらこそ」
 なんとなく、こちらもお辞儀で返す。
 こうして、私の告白は見事成功し、ここに一組のカップルが成立したのであった。

 それから他愛の無い世間話を少しして、私は彼女の家を出た。
 田中キリエはわざわざマンションの前まで付き添ってくれて、私の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 駅のホーム。
 私は電車を待つ列の最後尾に立って、ぼんやりと今日のことを思い返していた。
 妙な達成感が胸の中にあった。
 これで私は、めでたいことに、彼女いない歴イコール年齢じゃなくなったのだ。思うものもあるだろう。なんだか、男の階段をひとつ登った気がした。
 電車が到着し、人々は車内に乗り込んでいく。私も同じように乗り込んだ。
 その時になって思いだした。
 ――そういえば。
 私は部屋での田中キリエの姿を思い浮かべる。
 どうして彼女は、私が帰るまでの間ずっと、金づちなんかを隠し持っていたのだろう?



117 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:51:57 ID:+7NZkhJf

 住んでいる街の最寄り駅に着いた時には、時刻はもう既に九時を通り越していた。
 帰宅部の私は普段、こんなに遅くまで出歩かない。
 斎藤ヨシヱと会った日だって、せいぜい七時前には帰宅していた。
 なので、こんな遅くに道を歩くのは滅多にない。ちょっと新鮮な感じがする。
 私は自宅を目指して歩き始めた。
 寒さから守るようにポケットに手を入れ、空気中に残留する白い息を顔で受け止めながら、冷たい路地を歩いた。
 いつの間にか、ひとりになっている事に気づく。
 さっきまでは、何人かがぽつぽつと周りで一緒に歩いていたのだが、目的地に着いたのか、道中で道を曲がってしまったのか、とにかく今はもう消えてしまっていた。
 コツコツ、と自身の歩く靴音しか、周囲には聞こえない。街灯の少ない路地なので、辺りはまるで暗幕を張ったかのように暗かった。
 そんな闇の中だ。
 二個先の街灯の下。まるでスポットライトのように照らし出されている人物を、私の目が捉えた。
 目を細めてみる。
 その人物は、大きい青のスポーツバックを肩に背負い、背筋をしゃんと伸ばし、毅然とした態度で前へ前へと歩を進めていた。
 髪型は短めのポニーテールで、身長はやや高め。後ろ姿でもわかる、その凛とした態度には、どこか惹かれるものがあった。
 その背中には見覚えがある。
 私はたまらず駆け出していた。
「リンちゃんっ」
 その人物の名前を呼びながら、小走りで彼女の横に並んだ。
 暗闇でもしっかりとわかる、その整った顔立ちの少女は、間違いなく私の実の妹である鳥島リンだった。
「奇遇だね、帰り道が一緒になるなんて。リンちゃんは部活の帰り?」
 気さくな感じで談話を始めてみるが、妹は刹那でも私を見ようとはしなかった。それもいつものことなので、気にしないようにする。
「部活は、確かバレーボールだったよね?母さんから聞いたよ。大変だね、こんな遅くまで練習だなんて。帰宅部の僕からしたら考えられないな」
 妹は何も言わない。私のことなど見ない。



118 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:52:29 ID:+7NZkhJf

「でも、気をつけなくちゃダメだよ。この辺はそんなに物騒でもないけど、リンちゃんは可愛いからね、変な人に目をつけられるかもしれないし。そうだ。なんなら僕が送り迎えしようか?」
 妹は何も言わない。
「あー……」
 会話のキャッチボールは全く成立しなかった。
 これじゃあ、まるで壁に向かってボールを投げているようなものだ。しかも、壁は壁でもゼリーの壁だ。ボールを投げても、それが私の元に返ってくることは無い。
 妹はまるで私が居ないかのように、黙々と自宅を目指した。
 彼女のその態度に、突然怖くなる。
 妹と接していると、本当に私はこの世に居るのだろうかと奇妙な不安に陥るのだ。
 無論、そんなのは馬鹿げた幻想だ。そうわかっているのに、なぜかそれを一笑することが出来ない。
 額には、ぽつぽつと脂汗が浮かび始めていた。
 何か、何か話をしないと。
 私は何かに急かされるように、とにかく口を開いてみる。
「あっ、あのさ」
 けれど、何か話のネタを考えていた訳ではない。焦った私の口は、取り繕うように今日のことを喋りだしていた。
「そっ、そういえば今日、遂に僕に彼女が出来たんだよっ。その人は、田中さんっていうちっちゃい眼鏡の人なんだけど――」
 しどろもどろになりながら、そうまくし立てていると、ドサッと何かが落ちた音がした。
 ふと隣を見ると、妹がいつの間にか消えていたことに気付いた。
 視線をさらに後ろにずらす。
 妹は私の数歩後ろで、呆けたように私を見ていた。目の焦点が合っておらず、持っていたスポーツバックは地面に転がっている。
「今……なんて……」
 妹は譫言のように呟いた。
「なんて言ったの……兄さん?」
 兄さん。
 久しぶりに呼ばれた古称に、胸が震えた。
 妹から話し掛けてもらうのは、もう十数年ぶりくらいだった。それに加え、再び兄さんと呼んでもらえるなんて。
 歓喜を隠しきれずに、思わずわなわなと身体が震えてしまう。
「なんて言ったの、兄さん?」
 今度は幾分かはっきりした声。
 冷静さを取り戻したのか、彼女の目はしっかりと私を見据えていた。
 このまま、ずっと兄さんと呼ばれていたい衝動に駆られる。妹の問に答えるのを躊躇ってしまう。けれど、それを無視するわけにもいかない。



119 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/05/12(水) 14:53:03 ID:+7NZkhJf

 私は、緩む頬を引き締めてから言った。
「だから、今日、僕に田中キリエさんっていう恋人が出来たんだよ」
 言い終わったのと、妹が口を開くのはほぼ同時だった。
「別れてっ!」
 唐突に叫んだ彼女のその迫力に、思わずたじろいだ。
 妹は私の近くまで歩み寄ってくると、再び言う。
「今の話が本当なら、すぐに別れてっ!」
 訳がわからなかった。
 どうして、妹は私に別れろと言うのだろう。別に祝福されるとも思っていなかったが、いきなりそういう事を言われるとも思っていなかった。
 ――もしや。
 私の頭の中に、愚鈍な考えが浮かぶ。
 もしかして、田中キリエに嫉妬してるのかしら。と、そんなふざけた幻想を抱いた。
 しかし、そのくだらない幻想は、次に発せられた妹の言葉によって、一瞬で砕かれた。
「兄さんみたいな人間が、誰かと付き合えるはずがないじゃない」
 その言葉を聞いた途端、ニヤついていた顔は一瞬で凍り付き、さっきまでの幸福感が急速に萎んでいった。
 そんな私に構わず、妹は続ける。
「兄さんだって薄々気づいているんでしょう?自分が所謂“普通”じゃないって、他の人からは一線を画した場所に居るってことを」
 私は何も言えない。
「彼女さんのことを想うのなら、今すぐに別れて。兄さんはきっと、いえ絶対、彼女のことを不幸にするわ」
 私は何も言えない。
「だって、兄さんは――」
「そんな」
 妹の言葉を遮って、私は言う。
「そんな――まるで僕のことを、化け物みたいに言わないでくれよ」
「――ッ」
 妹は何かを言いかけたが、やがてその口を閉ざした。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。
 妹は、私のことを哀れむような、恐れるような、何とも形容しがたい複雑な表情をしていた。
「兄さんには、無理よ」
 そう言い残して、妹は走り出した。
 私は小さくなっていく彼女の姿を見つめていた。
 そして、見えなくなった。
 私はしばらくの間、動く気になれず、その場に立ち尽くしていた。
 それから、どのくらいたったのかはわからない。腕時計を見る気にもなれなかった。
「帰ろう」
 ひとり呟いてから、地面に落ちたままのスポーツバックを拾い上げ、私はゆっくりと、家に着くのを躊躇うように、ゆっくりと歩いて行った。