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439 :群青が染まる 09 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/24(月) 19:14:48 ID:mClJUOWU

 社の裏手に抜けると真っ先に気付いたのは、
 この町の命なのだろう熱心に整備されているとわかる道と、それに沿って細い
川のように続く水の道。
 町からの明りも乏しい夜陰を掻き分けて奥へと、湖へと踏み出した。揚げ水用
のための民家についていた水車をふと思い出しながら。
 そんな町から僅かながら聞こえる祭囃子が壁を隔てているように感じられても、
三メートルほど背後に逃げないようとついてきた町人を半ば憂鬱に感じても、
 前方を、行末を見つめたままのマリンから視線を外すことはできなかった。
「ご、ごめんなさい、ご迷惑をおかけして……」
 逡巡に埋もれていた最中に届いた申し訳なさそうな声に、転ばないように握る
擦り傷だらけの小さな手をした少女に、反射的に「大丈夫だよ」と答える。
 それでも、隣にいるどこか疲れたようにも思えるマリンに目を凝らしてままの
自分がそこにはいた。
 いつも人形のように無表情で何を考えているかわからないというのに、こんな
に暗い中では到底わかるはずもない。
 ……だというのに、目が固定されたまま動いてくれない。
「ほら、私、目が見えないですし、いつも邪魔しちゃって……だから、いつも迷
惑がられて……だから、あの、助けてもらったときは嬉しくて、その……トモヤ
さんの手、大きくて暖かいですね……」
 返事の代わりに少女の手を少しだけ強く握ると、捨てられた子犬のように懐い
てくる少女に若干の居心地のよさを感じても、腐心するのは話すための理由。

「マリン」
 そして、思い立った時には疾うに喉から零れていた。
「……なんだ?」
 疲れているためか不機嫌そうにぼやいた、彼女の口調にも負けずに、
「これが終わったら、さ……この子も一緒に連れていけないかな?」
 少女の手を軽く持ち上げた。
「わ、私ですか?!」
 きっともうすぐこの旅は終わりだから? 少女の考えも考慮せずに? それは
本当は自分のため?
 色んな雑念が何度も過ぎっていく。
「悪い冗談だ」
 穏やかな風にすらもざわめく木々の中を、ついさっきまであれほど特異だった
彼女の影が、思考を見透かしたように両手を肩先まで上げた。
「理由をいくつかある、一つは“それ”は足手まといだ、今この時でさえ」
 そう言って顔をこちらに向けた彼女の言は、
「だけど……!」
「二つは、それは平穏の中でしか生きられん……だが、」
 言葉を覆うように紡いだ彼女の葉は、常闇にでさえ識別できるその青は、どこ
か迷いを孕んでいるようにも感じられた。
「そう案ずるな、既に里親を探しに行かせている」
 “誰に”とは言わなかったからこそ、気付いても気付かないふりをしていた。
ハルがいないことに、そしてハルの言った事が本当だったと言う事について。
 と、同時にマリンがそこまで気を使うことに隔たりを持った。
 それでも、いつもと違った彼を思い出さないために、拭いきれない違和感も諸
共、言われるがままに受け入れて思考を覆う。


440 :群青が染まる 09 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/24(月) 19:15:10 ID:mClJUOWU

「あ、あの! わ、私はどうなるん、ですか……?」
 それまで口をつぐんでいた少女が思い出したかのように吐いた、その自信のな
さのためか尻切れトンボのように語尾に行くほど沈んでいく言葉に、
「もう、何も心配しなくていいよ」
 あやすように呟いていた。
「ほ、本当ですか?! ありがとうございます!! トモヤさんありがとうござ
います!!」
 何を勘違いしたのか小さな身体全体で喜びを表す少女に、転ばないよう視線を
移しながら、
 良い事の、本当に良い事のはずなのに、痛いほど高鳴っている鼓動に不和感を
覚えずにはいられなかった。
 それでも、失敗という言葉から最も縁遠い彼女への安心さは確かにあった。
「……ありがとう」
「なぜ主が礼を言う?」
「俺も、……孤児だったから……」
 その語彙に反応して漏れた、虚をつかれたような少女の声は、
「着いたぞ」
 マリンの声に、丁度開けた視界に打った感嘆の念に、霧散してかき消された。

 その大きな湖は、まるで底なしの沼のように僅かばかりの月明かりでは補えな
いほどに色濃く陰に支配され、悠然と佇んでいる。
 異世界に紛れ込んだのではないかという現実離れして漂う異物感に息を呑む人
間を、一匹の蛙があざけわらうかのように鳴き声を上げた。
「な、なに……これ……」
 それに連なってまた一匹、また一匹と次第には何十、何百、どれぐらいいるか
わからないほどの蛙の大合唱が、蛙の輪唱が、辺りをこれでもかと満たしていく。
「か、蛙様だ!! 蛙様が怒っておられる!!」
 一人が叫ぶと、次々とその手の武器と身体を地面に投げ出して後ずさる彼らを
他所に、暢気にも社に祭られていた三十センチ程度の蛙を想像していた。
「っ!!」
 そんな甘い考えを吹き飛ばすほど大きな一つの鳴き声が、曲の終楽章を締める
何百の、いや千はいるかもしれない蛙の合唱に負けない声が、水面にさざなみを
立て、木々を揺らし響き渡った。
 その耳を塞いでも身体を震えさせる音に、思わず少女に振り返って気付いた、
既に呆けたようにへたり込んでいることに。
 だというのに、その小さな手はしっかりと握られていて離れる気配すらない少
女を、胸に抱いて同じように必死に後ずさっていく……荒野を歩くが如く優雅に
歩を進めるマリンとは正反対に。
「お、おおおら達は無関係だ!! か、かえる様、そこのやつらが生贄です!!
どうか、どうか!!」
 人の言葉が判るのだろうか、その言葉に頷くかのように地を揺らして出でたの
は、それこそむしのいい幻想を粉々に壊すほどに巨大な蛙だった。
 その足で跳べば街ですら超えれるのではないかというほどの太い足、巨大な目
は獲物を逃さまいと忙しくなく動き回り、
 その舌に捉えられれば全身が砕けるのではというほど長く太い舌を震わせなが
ら、全長五メートルはありそうな大蛙が嬉しそうに、人など丸呑みできる口を開
いて、身の毛のよだつ声で鳴いた。
 もはや人知の外である大蛙の耳をつんざく鳴き声に、今か今かと合図と待って
いたかのように蛙達が一斉に鳴き始める。


441 :群青が染まる 09 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/24(月) 19:15:37 ID:mClJUOWU

 なんだ……これは……?
 それが何なのかを頭が認識する前に、あらんばかりの振動が、絶え間なく続く
輪唱が脳を揺らしていく。

 意思とは無関係に膝をついた身体で、視界がかすむ中で、見えたのは真っ白に
黄色い斑が混じらせた腹を膨らまして、長い舌を間近のマリンへと、逃げること
ができないだろう獲物へと巻きつけようとした大蛙と、
 それを鬱陶しそうにそれを右手を払った彼女。
 彼女の半ば裏打ちのような拳が、その幅一メートルはありそうな肉厚の舌を意
図も容易く引きちぎった。
 それは、まさに。
 続けざま、予期せぬ出来事に仰け反った大蛙との間を、月夜に反射して輝く髪
をなびかせながら削り、その象をも丸呑みできそうなほどに膨らました横腹に蹴
り入れた瞬間、
 その瞬間地響きにも似た破裂音と共に、あれほど巨大だった蛙が木端微塵に弾
け飛んだ。
 衝撃に大蛙の黒い斑点と水かきがついた手が、その体を支える肉足が、
 おびただしいほどの体液が、心の臓、内臓の臓物が、脳髄が、そしてそれらの
飛沫を一斉にぶちまけ、常闇を埋め尽くさんと天高く舞い上がった。
 ……化物だった。
 そうして、肉片が液体が降りしきる豪雨のように轟音で地を撃ちながら、その
中に独りだけ混じった異物である彼女を彩っていく。 
 その光景を眼前にしながら、呼吸すらも忘れて、耳が痛むほどに無音だったの
は、あらゆる生物がいなくなったかのように静寂だったのは、
 まさに彼女こそが“化物”だったからなのだろう。

 だというのに、揺れる視界に呆けていた俺を一度確かに見た彼女は、哀調を帯
びた瞳の彼女は、これまでの人生の中で群を抜いて、紛れもなく一番綺麗だった。

 未だに衰えず降り続ける黒は、次第に口々から漏れ始めた終焉の恐怖の音色に
染まっていく。
 蒸し暑いはずなのに、一滴の汗すらも出てこない。
「……願いは、」
 恐怖に塗りつぶされた世界で、体液に臓物に塗れながら星空を仰ぎ、ささやい
た彼女は、確かに異様で、例えようがないほどに壮麗で、
「……聞き、……届けた……」
 なのに、黒く淀んだ湖に溶けてしまいそうなほどに脆くて、
「トモヤさんっ!!」
 気付けば力の入りきらない足の事も、ふらつく身体のことも忘れて、
 目も見えない少女のか弱い手も、力強く制止する声も、時間をも置き去りに、
独りきりで今にも壊れそうな彼女へと、短くて長い距離を駆け出していた。
「とど、けぇっ!」
 はちきれんばかりに威勢を上げ、あの夜も、いつかの夜もこの夜も、いつも届
くことなく空を切った手の平を大きく広げ、腕を身体ごと遮二無二伸ばす。
 それは誰の声だったのだろうか、それはどう映ったのだろうか。
 眉をひそめた彼女へと手を腕を、自分の身体をぶつけるがままに湖へと、舞踏
会の終わりを飾る主役のように、重なりながら倒れこんでいく。

 より緩やかに流れていく時間。


442 :群青が染まる 09 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/24(月) 19:16:03 ID:mClJUOWU

 投げ出した身体が水につくと、感じたのは凍えそうなほどの冷たさだった。
 遅れて届いた、水の感触。
 そこはおかしいと思えるほどに尽きる事のなく、寸先すら見えぬほど深く孤独
に埋もれた世界で、まるで空から落ちたように沈んでいく。
 ……だけど、黒をかき消す、動揺すらもない青が全てを忘れさせてくれた。
 そんな何かに身を委ねたように動こうという気配すら見せない彼女に、わずか
ばかりの不安を感じた時だった、不意に手が背中に回ってくる感触が、
 息吹のような声が耳を撫でた途端に、身体が自分のではないかのように水圧に
逆らって一気に上昇していく。
 その抱き寄せる力強さに怒られると、マリンは怒っていると、

「くっ、はは、あはっ、あはははあはははははははははははははは!!」
 そう思っていたのに、水面から顔を出した途端に笑う彼女は、泣いたようにも
思えるほど水を滴らせて笑う彼女は、
 人形のように整っていた顔をどこまでもどこまでも崩して、目の覚めるような
紺碧の双眸をさらに燦爛と輝かせながら、見たことのないほどに大きく、聞いた
事のないほどつややかな声で笑うマリンは、
 ……狂ったように笑い続けている君は、だれ?
 この世界に二人だけしかいないような錯覚の中、
 張り付いた髪もそのままに笑っていたはずの彼女が、名を、水中でその胸を、
あでやかな足をからませて、そのしなやかな腕で尚きつく抱き寄せ、肩へと顔を
うずめた。
「“私”の探しもの、……ミツケタ」
「っ!?」
 そのなまめかしい吐息が背筋まで這っていく。
 それらに気を取られていたせいか、呟きは意識の外へと水のように零れた。
「や、やめ……!!」
 必死に彼女の腕を押さえようとする自分の事などお構いなしに、身体の隅々を
撫で回されていく。
「マリっ、! 「もう少し、このままいさせてくれ……」 」
 未だに顔を肩に埋めたままのマリンに、気を使っているのだろうほどよい彼女
の手の力に、言葉に、何も言えなくなったまま天を仰いだ。
 ……すっかりと静まった周辺に、そして、華麗に浮かぶ二つの月と浮遊感。
 満月には足りず、かといって半月よりかは大きい中途半端な月だというのに、
あの日より美しく感じられたのはきっと……。
「月が、月が綺麗だね」
 自然と漏れた言葉に、
「っ……、」
 何に驚いたのか、うずめていた顔を上げ、目を見開いたまま息を飲んだ彼女。
 明らかにわかるほどに、その表情を露にしていた。
 それでも、釈然としなくても、時間が流れていないかのように呆然と、そして
水面に映った月を見遣る彼女に、聞くことは無粋だとさえ思えてくる。
 だから、代わりに祈った。その瞳で何を見て、何を考えているのか知りたいと。
 そんな彼女の口が何かを紡いだと、
「トモヤさんっ、トモヤさんっ! ご無事ですか?! 返事を、返事をしてくだ
さいっ!」
 そう思った矢先に聞こえた、半ば涙を混じらせた声。
 そこでやっと、少女をそのままにしていることを思い出した。
「早く上が、っ……!?」
 ほんのわずかな一瞬だけ覗かせていた彼女のその表情に、冷たいと思える水よ
りもさらに禍々しく、全身が竦んでこわばる。
 それは見間違えだと、何度も、闇夜の中での見間違えだと、首を振り続けた……。


443 :群青が染まる 09 ◆ci6GRnf0Mo :2010/05/24(月) 19:16:41 ID:mClJUOWU

「待て」
 まるで悪事を咎めるかのような口調でマリンに手を引かれたのは、水で濡れた
服もそのままに、座り込んだままの少女に近づこうとした時だった。
「な、何……?」
「私が送っていこう。トモヤは身体を休めているといい」
 そう言って代わりに、泣きべそをかいている少女に近づこうとするマリン。
「トモヤさんっ!」
「だ、大丈夫だよ! マリンは信頼できるから」
 そうだ……マリンは信頼出来るんだ……。
 必死に宥めるその言葉に、満足そうに彼女が頷いて、少女を棒切れのように軽
々と持ち上げた。
「わ、私もいっしょっ……!」
 軽快に跳ねた音は、少女の言葉も共に踊るように空へと連れて消え行った。
 ……誰もいなくなると聞こえ始めた静けさに、先刻までの出来事が嘘だったの
ではないかとさえ思えてくる。
 一つ、二つと深呼吸のようにも思えるほどの溜息をついた。
 そうして、意図せず疲れた身体を手近な木に預けると、もはや意識を繋ぎ止め
て置く事はできなかった。