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614 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:36:28 ID:rteUYnWY
源逆灯が去ってすぐ。
入れ替わるようにして『恋人』はやって来た。
否、やって来ていた、と云うべきだろうか。
微睡みの洞窟を抜け、現実と云う今に視線が合うと、織倉由良は風景の中にいたのだ。
所作や格好から判断するに、夕食の支度をしているらしい。
澱んだ瞳でその姿を見ていると、織倉先輩は笑顔で僕に近付いてきた。
「あ、日ノ本くん、目が覚めたのね? 上がらせて貰っているわよ?」
夜にまた来る――予告通り、と云う訳か。
「具合が良くないって云ってたけど、本当に顔色が悪いわね。待ってて、精のつくものを沢山作ってあ
げるから」
そう云って支度を続行する姿を見て僕はちいさく首を振った。
食欲などない。
それが偽らざる心境であり、状態だ。
織倉由良が日ノ本創の家にいる――
それだけで、心が安まらない。
僕と云う内部の都合と、綾緒と云う外部の都合と両面で。
綾緒は何故か織倉由良が僕の家に来るとその事を知ってしまう。
まるで見ているかのように、だ。
余程に勘が良いのか、それとも僕が顔にでも出しているのか。
いずれにせよ、今現在の景色を知られるわけには往かないのだ。
源逆灯は従妹の機嫌は良いと云った。
それは事実なのだろう。
僕と云う想い人と結ばれたのだから。
そして、だからこそ、『裏切られた』と思い込んだ時の怒りはより凄まじいものになるのではないか。
たとえば、『夫』に自分以外の女が料理を振る舞っていると云う事象を容認するとは思えない。
織倉由良にしても、『恋人』に『妻』がいると云う状況を許しはしないだろう。
それにもうひとつ。
僕はまだ、織倉由良に説明をしていない。
一ツ橋朝歌が彼女に殴られた時の釈明と、昨日の夜から今日の昼過ぎまで行方不明であった理由。
彼女は当然、それを聞きたがるだろう。
黙秘することは出来ない。
十中八九、織倉由良は狂乱するであろうから。
僕が怒鳴られ引っぱたかれるくらいならまだ良いが、茶道部室で起きた現象の再現などされたらたまっ
たものではない。
たまったものではないが、そうなる可能性があるのも事実だ。
では、云い繕うべきか。
彼女が得心往く説明が出来るならそれでも良いだろう。
けれど、どうすればそんな都合の良い云い訳が出来ると云うのか。
無理に決まっている。
結局僕に出来ることは時間稼ぎだけだ。
何も悟られずに帰って貰う。
それしかない。
問題はどういう手段で帰って貰うか。
源逆灯のように恐怖する対象でも持っていてくれれば話は簡単だが、普通の人間は怪談など聞いたとこ
ろで帰るとは思えない。まして、織倉由良では。
「・・・・ねえ、日ノ本くん」
鼻歌を中断し、彼女は口を開く。
織倉由良は背を向けたままだ。
背を向けたままの言葉なのに、じっとこちらを見つめているように思えた。
温度が違う――
先程までの明るさが身を潜めているように感じられた。
だから。
「聞きたいことが幾つかあるんだけど、良いかな?」
その物云いに、不安を感じたのだ。
「・・・・何でしょうか」
その返答に意味なんて無い。
彼女が何を聞きたがっているかなんて僕自身がよく判っているはずではないか。
今の今までそれを考えていたのだから。
僕の受け答えに意味があるとすれば、それは僅かな時間稼ぎだ。益体もないことではあるが。
「そうね、どれから聞かせて貰おうかしら」


615 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:39:04 ID:rteUYnWY
「・・・・僕の好物でも話しましょうか?」
ぎこちない笑顔でそう云った。
勿論彼女を目的地から遠ざけようと云う下心あってのことだ。
だが。
「そんなことは知ってるわよ。私は日ノ本くんのことなら何でも知ってるし、知ってなければいけない
の。身長だって体重だって好きな食べ物だって私は何でも知っているのよ? だって私は貴方の彼女だ
もの」
だからね、と織倉由良は振り返る。
彼女の表情は笑顔と呼ぶには威圧的すぎた。
「私の彼氏である日ノ本くんは、何ひとつ隠し事をしてはいけないのよ? 貴方は私に総てを任せてお
けば良いの。思考すらも必要無い。全部私が決めてあげるし、取り計らってあげる。その為には情報が
必要なの。私は貴方を信じているし、信じたい。疑うことすらしたくない。貴方が私以外の誰かとどう
こうなるなんて思っていないけれど、そう思う材料すら排除したいの。だから、ね。私が尋ねることに
は有りの儘を答えて? 私の目が届いていないところで何があったか、誰が近付いてきたのか。ふたり
のより良い未来の為に全部を報告するのよ?」
駄目だ、と僕は思った。
質問に答えることも。
答えた後も。
明るい未来がそこにはない。
だが、抗う術がない。どう誤魔化せばよいのか思いつきもしない。
他の女と口をきくなと云われた。それを撤回させる為に他の女と口をきいていた。
そしてその後は従妹と契っていた。
そんなことを聞かされて、織倉由良は正気でいるはずがない。
彼女は綾緒を憎むだろう。
そして、一ツ橋も憎悪の対象になるはずだ。
あの後輩は先輩に殴られた後、自分の脚で釈明に往ったはずだ。
彼女がどう説明したのかは知らない。けれど前後の状況からして、自分が誘ったと僕を庇ったのは間違
いない。織倉由良がそれで本当に納得したのかどうかは疑問だが、炎は沈静化した訳でなく燻っている
と見るべきだ。
僕の説明はどうであっても種火に油を注ぐ結果になるのは目に見えている。今の彼女は極めて外罰的な
のだから。それでは一ツ橋を結局巻き込むことになる。そして、綾緒と織倉由良の対立も――
(云えない。云えるわけがない)
悲惨と凄惨と云う二択だけが僕の眼前にぶら下がっていた。
そんな僕を織倉由良は笑顔のような表情で見下ろしている。
その時、ブゥーン、ブゥーン、と何かが振動する。
(ケータイ? 僕のじゃないから、先輩のか)
何でも良い。一分でも一秒でも時が稼げるのならば。
「・・・・出なくて良いんですか?」
「日ノ本くんとお話しする方が大事に決まっているでしょう?」
「ぼ、僕は目の前にいていつでも話せるじゃないですか。何か重要な事かも知れませんし」
「日ノ本くんより重要な事なんて無いんだけど・・・・」
渋渋と云った様子で織倉由良は携帯を耳に当てた。それでも美麗な双眸は僕に固定されてはいたのだけ
れど。
「何? お母さん?」
どうやら相手は彼女の母であるようだった。
(どうしたのかな・・・・?)
見つめていると、彼女はやや荒い口調になった。受話器の向こう側の人物も声を荒げているようだ。
「違うってば! 私は自分が正しいと思ったことをやっただけ! お母さんは関係ない!!」
「――!! ――! ――!?」
云い争っている・・・・のだろうか。少なくとも穏当な会話には思えない。
「わ、判ったわよ、じゃあ」
織倉由良は少し乱暴に通話を終える。何があったのかと目で問う僕に、無念そうな瞳を向けた。
「・・・・お母さんが帰って来いって」
「え」
僕の声は少し弾んでいたのかも知れない。詳細の判らない親子の諍いが自分に有利に働くのでは、と期
待したのだ。卑しい発想だが、背に腹は替えられない。
「私、昨日は日ノ本くんが心配で一晩中ここにいたでしょう? それがお母さんに知られたみたい。私
は日ノ本くんの帰りを待っていただけなのに、何があったか説明しろ、なんて云い出すの」
「あ・・・・」
と僕は間の抜けた声を上げた。


616 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:41:43 ID:rteUYnWY
確かに僕が一ツ橋家に泊まった夜の間は、彼女はずっとここにいたはずだ。その後は当然学校へも往っ
ていない。
それは年頃の娘を持つ母親からすればとんでもない事態と云える。
「私、帰らないわよ。日ノ本くんの傍にいてあげなきゃいけないし、晩ご飯だって作ってる途中だなん
だもの」
勿怪の幸いだ。
源逆灯の時もそうだが、タイミングが良い。
嘘は吐きたくないけれど、卑怯者になることが一番良い選択だろう。
「先輩、一回帰ったほうが良いですよ」
「いや!」
「でも、お母さんを困らせるわけにはいかないでしょう?」
「勝手に困っていれば良いのよ! 私と日ノ本くんの間に割り込む人は全部排除すべき障害だもの!」
「だから。お母さんと揉めたままじゃ、より障害が大きくなると云ってるんです」
「う・・・・」
僕の発言に理があると思ったのか、織倉由良は押し黙った。我ながらよくもまあペラペラと心にもない
御託を並べられると感心するが、今はこれで押し切るしかない。
「僕らはいつだって逢えるじゃないですか。今は先輩のお母さんに説明する方が先ですって」
「・・・・うん」
織倉由良はガックリと肩を落とし、それから台所をに目を転じた。
「ごめんね、日ノ本くん、ご飯作ってあげられなくて」
「・・・・気にしないで下さい」
状況を利用して追い払うということに心が痛む。
気の利いたことは云えず、そう呟くのが精一杯だった。
申し訳なさと自己嫌悪で顔を曇らせた後輩がどう見えたのか。
「日ノ本くんも落ち込んでくれるんだね」
彼女はそう呟いた。
「また明日、逢いに来るから」
織倉由良は寂しそうに立ち去った。
ホッとはするが、気分が悪い。
「最低だな、僕は」
爆弾を抱えた嵐が退去し、無人の居間で独語する。
ソファに身を沈めると、再び疲労が襲って来た。
心身共に摩耗している。
ゆっくり考える時間が欲しかった。
目を閉じて、開く。
たったそれだけ。
それだけの間に、よく知る風景。
居間の様子に違いがあった。
小柄な女の子が、じっと僕を見つめていたのだ。
「ひ、一ツ橋ッ!?」
「朝歌です」
いつの間に入り込んだのか。
表情のない後輩がそっと佇んでいた。
「おまえ、いつからそこに・・・・」
「初めからいましたが。お兄ちゃんが私の家から出た後を、そのままついて来ていましたから」
「なっ・・・・!?」
ずっと?
あの後からずっといたのか!?
今の今まで?
(確かに源逆灯が『幽霊』を見たから、いたのではないかと思っていたけど・・・・)
ずっといたとまでは、考えなかった。
「じゃあ待てよ!? 織倉先輩の電話はもしかして――!」
「部長の家に電話したのは私です」
「・・・・タイミングが良すぎると思った」
いや、そうじゃなく。
「どうして、ついて来たんだ?」
「何故ついて来てはいけませんか?」
「いや、だって、それは・・・・」
お前を巻き込むわけにはいかなくて。
そう云おうとして口を噤んだ。


617 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:44:27 ID:rteUYnWY
後輩の頬は腫れたまま。
「お兄ちゃんは勝手です」
「・・・・それは判っているよ」
「だから私も勝手にします」
「え?」
表情に変化のない後輩は、そのままキッチンに入ってしまった。呆然として見つめていると、湯気の立
つカップをこちらに運んできた。
「こ、これは?」
「紅茶です。見たことがありませんか?」
「そうじゃなくて、どうして」
「飲みたがっているのではないかと思いましたが」
「――――」
確かに喉は渇いていた。
温かい飲み物が欲しかった。
無言で紅茶を嚥下すると、安寧が胸中に広がるように感じられる。
暖かさも茶の濃さも。
総てが僕の欲していた通りであったのだ。
「なんで」
僕は呟く。
「なんでお前はここまでしてくれる?」
「お兄ちゃんがそうしたように、私も勝手にしているだけです」
「・・・・・・」
真意なんて判るはずもない。
けれど、矢張り気を遣わせていることだけは判る。
情けなさと有り難さで泣きそうになった。
「疲れた顔をしていますね。お兄ちゃんは寝て下さい。私も帰ります。私がいると眠れないでしょうか
ら」
「ひと・・・・朝歌・・・・」
「今日一日は部長ももう来ないと思います。来るなら来るで足止めしておきます。お兄ちゃんは好きな
だけ惰眠を貪ってくれて構いません」
「・・・・・・」
後輩は先輩が広げた食材をかたして往く。僕が食べる気力のないことを知っているのだ。
情けない兄貴分は、その光景を木偶の坊のように見つめているしかなかった。
「油点草」
「え?」
「私のお見舞い、飾っていてくれているんですね」
「あ、ああ。僕がこんな調子だから、十全とは云い難いけれど」
「そうですか」
一ツ橋は抑揚なく呟く。
刹那に笑ったように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか――?





618 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:47:08 ID:rteUYnWY
安寧の時間は、結局は一晩だけだった。
一ツ橋のおかげて睡眠を取れた、その一瞬だけ。
翌朝、陽が昇るとすぐ、僕の家の前に黒塗りの車が停まっていたのだ。
安息をチャイムによって打ち破った人物は昨日見たばかりの『善人』――源逆灯その人だった。
「創様、朝早くから申し訳ございません」
屈託のない表情で深深と腰を折る。
何故彼女がここに来るのか。理解を絶していた。
だが、彼女の背後にある車には見覚えがある。
源逆家のそれではなく、楢柴家の所有物だから。
「どうしたんですか、急に」
僕は警戒しながら聞く。
源逆灯はニコニコと邪気のない笑顔。
「昨日創様に私がお願い申し上げたことを憶えておいででしょうか?」
(お願い?)
そんなことあっただろうか。
「綾緒お嬢様を訪ねて頂きたいと申し上げたのですが」
「あ、ああ、はい」
暇があったら、等と政治家の「善処する」に似た言葉で取り繕ったはずだ。
「あの後早速お嬢様にお伝えしました。創様もお嬢様に逢いたがっていると」
「ええっ!?」
「綾緒お嬢様は大層感激されまして、お二人が逢うこと出来るよう、私が迎え役を買って出た次第でご
ざいます」
善人は。
この善人は、物事を表層しか見ない。
無邪気だ、と綾緒も云っていたはずだ。
だから。
だからこそ。
この少女は僕の発言をポジティブに受け取ったのだ。
(なんと莫迦なことを云ったのだろう)
僕は自分の迂闊さを呪った。
これでは僕が綾緒を積極的に望んでいる構図になるではないか。
後悔しても後の祭り。
高級車に押し込まれた僕は、そのまま鶯の城へと輸送された。





619 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:52:29 ID:rteUYnWY
「にいさま、お逢いしとうございました」
従妹の私室に通されるとすぐ、楢柴綾緒は僕に抱きついた。
控えめだが、強烈な意志を感じさせる抱擁。
僕一瞬身を竦める。
ここはついこの間、綾緒に“された”場所だからだ。
背筋の寒さと吐き気を感じる。
他方綾緒は極めて上機嫌で、そこに『夜叉』の姿はない。
比較的騒動以前の綾緒に近い雰囲気であったと云える。
(安定している――のだろうか)
僕と結ばれ。
僕が逢いたがっていると誤解した綾緒には、心をささくれ立たせる要因がないからなのだろう。
皮肉にもあの夜の出来事が彼女を安寧たらしめていると云うことなのだろう。
腕の中をそっと見る。
一日しか挟んでいないはずなのに、綾緒には艶が出たように思う。
女になったからか、明らかに美しくなっている。
それが僕には余計に辛い。
従妹との関係は文人氏に清算して貰うとしても、契った事実は消えることがない。その責任は何らかの
形で取らねばならぬだろう。
問題はあの夜のことを伯父にいつ、どうやって話すか、だ。
(それにしても・・・・)
僕は自分が比較的落ち着いていることに驚いた。
もっと怯え。
もっと震え。
もっと沈むものかと思っていたのだ。
無論、今でも怖い。
帰りたいかと問われれば迷わずイエスと答えるだろう。
しかし、この間のような心神喪失状態ではないのだ。
どうしてこんなにも凪いでいられるのか。
時間を置いたからというのもあろう。綾緒が落ち着いているというのも一因には違いない。
だが、それらは根本的な理由ではない気がする。
では何故過剰に取り乱さずに済むのか。
いや、抑も壊れた『僕』がここまで『復旧』出来たのはどうしてだったか。
その原因を考えたが、そこへ到達するより早く、従妹の言葉が意識を奪った。
「にいさま」
鶯の鳴き声は、容易に心に突き刺さる。
平静を装いながら「なんだ?」と尋ねても、返事はなかった。
自ら呼び掛けてきたにもかかわらず、綾緒は無言で僕の胸元に頬を這わせている。
声を掛けたのではなく、心が零れただけとでも云うように。
『妻』の表情は蕩けそうなくらいに緩んでいて、上気した肌がやけに目に付いた。
「にいさま・・・・」
従妹の顔には女としての性質が浮かんでいる。情欲を抱いていると推定するには充分な表情であった。
だから僕は身を竦める。もう二度と、あんなことをしたくはないから。
「にいさまァ・・・・にいさまぁ・・・・」
媚びるような、甘えるような声。
普段の綾緒ならば決して出さぬ、声。
ある種の感情の発露。
まるで酔っぱらうかのように従妹はとろんとした赤ら顔になって往く。
自分の行動と言動で更に身体を疼かせているようだった。
まずいな、と僕は心で呟いた。
このままでは、あの日の繰り返しになる――
危機感を抱いた僕は、和装の少女を引き離した。
「あん、にいさまぁ」
僕の行動を焦らしと取ったのか、眉をハの字にしてやや不服そうに口を尖らせる。
その瞬間、和装の胸元で銀色の何かが揺れ動いた。
何かを首から提げている。僕が一ツ橋に貰った安産祈願のように。
「・・・・綾緒、それは一体何だ?」
指さすと、綾緒はキョトンとした後、得心したように微笑んだ。
「これですか? これは御守りでございます」
「お、御守り?」


620 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:55:16 ID:rteUYnWY
「はい。にいさまが・・・・そのぅ、にいさまが、綾緒との間を考えて、“それ”を所持して下さって
いるではありませんか」
真っ赤な顔で身を捩らせながら、一ツ橋の御守りを指し示す。
従兄妹が一線を越えた切っ掛けを。
「ですから、綾緒も何か御守りになるものを、と思いまして・・・・」
従妹の持つ『御守り』は一般的なそれではなくて、奇妙な金属である。
匙ような篦のような、奇妙な形をした、『器具』――
「何か霊験あらたかなものなのか?」
それにしては、どこか禍禍しい。
「いいえ。霊威の類は微塵も。抑も信仰に属する器物ではありませんから」
「つまり、実用的なものってことか?」
「実用・・・・? そう、ですね。でも、どうでしょうか。使用するような事態にはならない方が良い
ものではありますね」
つまり、事前に何かを防ぐべきもの、ではなく、事後に使用すべきもの、と云うことなのだろうか。
「・・・・何に使うんだ、それ?」
「罰を与えるものですよ――」
涼やかな笑顔で綾緒は云った。
それで僕は理解する。
爪や、耳を失った過去が判らせる。
つまりは、そういうもの――
夜叉に属する器物なのだと。
「所有、と云う概念は洋の東西を問わずに存在します。当然、それを犯す者には罰が下る・・・・その
ための準備ですよ」
「・・・・だから、使わない方が良いものだと?」
「ええ、左様でございます。悪しき者は現れないに勝るはありませんから。綾緒だけが、この景色を持
って良いのです」
「け、景色・・・・?」
「日ノ本――いいえ、楢柴創と云う景色。それを見て良いのは妻たる綾緒だけ。分を越えてそれを望む
者がいるならば、その力を奪ってしまえば良いのです」
その力。
つまりは、視力。
その銀色は。
目玉を抉り、掻き出すための、鶯の爪牙――
(人間の眼球を刳り貫く?)
そんな発想がナチュラルに出てくる従妹に、僕は恐怖と目眩を憶える。


621 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 15:58:05 ID:rteUYnWY
「綾緒は女です。ですから、他の女がにいさまに向ける視線の質が判ります。にいさまは綾緒を愛して
下さっておりますから、にいさま御自身を心配する必要はありません。ですから、逆に、にいさまに近
付こうとする盗人を罰するものを持つべきであると考えました」
それは一方的な宣戦布告と云うべきか。
従妹の発言をそのままの意味で取るならば、仮に僕が綾緒を好いていたとしても、僕の廻りで流血の宴
は開かれると云うことだ。
なんという歪んだ発想なのだろうか。
叛意させねばならぬ。
間違いであると気付かせねばならぬ。
でなければ、でなければ。
「綾緒、伯父さんはどうしてる?」
応援がいる。独力でこの少女を御すことは不可能だ。
「とうさま、ですか」
従妹の表情から笑みが消えていた。
一ツ橋の無表情とは違う。凍てついた感情であった。
「あの人は、綾緒とにいさまの敵です」
「て、敵?」
「にいさまと綾緒の仲を裂こうとする、それは敵であり悪でありましょう? ですが御安心下さい、に
いさま。にいさまの御両親が万難を排して結ばれたように、綾緒とにいさまもまた、不滅の関係を営む
ことが出来るでしょうから。愛しておりますにいさま、この世界の誰よりも、何よりも。綾緒はにいさ
まだけを、お慕いしております」
楢柴綾緒はそう云って笑う。
僕の質問は哄笑の渦へと飲み込まれ。
立ち尽くすだけの従兄を形作るだけだった。
飛び立たせてはならない。
今はまだ、出すべきではない。
この鶯を、鳥籠の外側へは。





622 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 16:00:55 ID:rteUYnWY
「朝歌・・・・」
楢柴邸から戻ると、自宅の前には痩身矮躯の少女が立っていた。
制服姿、手には鞄。
一応は登校を前提としたスタイルのようだ。
「どうしたんだ、一体」
「それは私の科白です。夜明けと共に姿を消したのはお兄ちゃんのほうでしょう」
返す言葉もない。
源逆灯の『善意』によって、僕は妻の実家へいたのだから。
学校がある。
そう告げると綾緒は拍子抜けするくらい簡単に僕を解放した。
感情が自分に向いている。そう勘違いするが故の寛容さなのだろう。
最早僕が帰るべき場所、帰るべき世界は己の傍らなのだと確信すらしているようであった。
他方、僕の心情や境遇を知悉する傍観者にとってみれば、昨日の今日で何かあると思い至るのは寧ろ当
然で、それが先輩の家へ足を運ぶ動機となったようだった。
「従妹よりも部長がリアクションすると思っていましたが。不完全燃焼で帰宅したのは彼女の方ですか
ら」
その通りだ、と思う。
彼女なら朝一番で日ノ本家へやって来ても不思議はない。
けれど、織倉由良の姿はどこにもなかった。
「来ました」
心を読んだかのように、一ツ橋は呟く。主語が抜けているが、誰を指しているかは当然判る。
「来たのか、織倉先輩は」
「買い物袋を持っていましたから、朝食を作るつもりだったのでしょうが、蛻の殻だと判ると学校へ向
かいました。お兄ちゃんが登校したと判断したようです」
「・・・・でも、お前はここにいるんだな」
「制服が残っていましたから。自発的に出かけているか第三者の意志が介在しているのかは知りません
が、戻ってくる公算が大であると思っただけです」
「・・・・・・」
一ツ橋はじっと僕を見上げている。
大きくて、綺麗な瞳だった。
感情は読めないが、僕を抱きしめた時と同じ目だ。矢張り心配されているのだろうか。
だからこそ、あの金属を思い出す。
景色を奪う者に罰を。
鶯はそう囀った。
先輩は。
織倉由良は、多分綾緒に侵犯者だと認識されている。
何度か名前も出たのだし、手加減されたとは云え投げ飛ばされたこともあるのだから。
けれど多分、一ツ橋は違う。
今はまだ、嵐の外だ。
巻き込みたくない。
そう思ったからこそ、突き放したのに。
それでも一ツ橋は、僕の傍にいる。
彼女は織倉由良に殴られた。人や場所を変え、それが再現されるとは思っていないのだろうか。
それとも、承知の上だとでも云うのだろうか。


623 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2010/05/31(月) 16:03:47 ID:rteUYnWY
「一ツ橋」
「朝歌です」
「昨日はサボらせて悪かったよ。今日はこの通り無事だから、学校へ往ってくれ」
僕はそう云うと家から離れた。
学校へ往く気はなかった。
家に戻るのも億劫になった。
どこかで時間を潰そうと考えた。
幸い、財布は持ってきている。家の鍵は織倉由良が開けたままにしているかもしれないけれど、施錠を
確認するのも面倒だ。
このまま消えて往けたらどんなに楽だろう、と現実から目を背けた。
けれど、ちいさな足音がついてくる。
僕の後ろを、歩いているのだ。
「何でついてくる?」
「・・・・・・」
一ツ橋は答えずに、じっと僕を見上げている。
「気を遣う必要なんて無いんだ」
「・・・・・・」
彼女は矢張り答えない。
諦めて歩き出すと、背後の靴音も静かに再開されていた。
朝歌はじっと僕を見る。
きっと今もそうなのだろう。
それがどの様なものであるかは判らないけど、『真っ直ぐ』であることだけは確実だ。
廻りには、それがどんな景色に見えるのだろうか。
例えば、あの鶯には。
「・・・・・・」
立ち止まって振り返る。
子猫のような綺麗な瞳が変わらずにあった。
だから僕は不安なのだ。
(そんな目で見るなよ、一ツ橋)
でないと。
――にいさま
でないと。
――にいさま
でないと。
――にいさま


お前のその目が、なくなるぞ。