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555 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:32:03 ID:+LDdIc8s
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

それは少し前の話。
「花逍遥に参りませんか?」
散策の途上。
まだ青葉の茂る頃。
花見の時期を逸して間もない季節に従妹はそう云った。
「唐突だな。桜はもう散っているだろう?」
「これから、という訳ではありません。来年――年が明けたらの話です」
来年?随分先の話だ。
「鬼が笑うな」
「笑わせておけば良いのです。綾緒は・・・どれ程時が移ろっても、にいさまの御傍に仕える所存です
から」
美麗な血縁は穏やかに目を伏せた。
この少女に外連は無い。
だからどちらも本気で云っているのだろうと了解する。
「でも桜かぁ。もう何年も見てないなぁ」
目に留めることはあるけれど、それを目的として出掛けることは殆ど無い。
「桜ではありません」
綾緒は首を振った。
「桜じゃない?花見って云ったら、桜だと思ってたけどな」
「上古はいざ知らず、都鄙、貴賎問わず、花逍遥と云えば桜ですね。それは綾緒も否定しません。です
が――」
従妹は僕を見る。
「にいさまは、桜よりも梅を愛しておられるでしょう?」
「愛してるって云うか、梅のほうが綺麗だと思うだけだよ。特に、雪の中にあるものはね」
「存じております。ですから、梅を見に往きましょう。雪の降る頃に」
梅と雪。それは確かに魅力的ではあった。
「綾緒も、梅が好きです。花言葉も含めて、気に入っております」
眼前に梅は無い。
けれど彼女は“それ”見るように天を仰ぐ。
梅の花言葉。
『忠実』
そして『気品』
それは綾緒の持つ、女性の理想像と合致する。
けれどそれならば。
「桜はどうなんだ?あれの花言葉は“優れた美人”だったじゃないか」
その言葉も理想像の一つではないだろうか?何より桜は綾緒に似合うような気がした。
「にいさま」
従妹はくすりと笑う。
「桜は復讐の木です。女を裏切った男を呪い殺すための、怨念の塊なんですよ?」
「・・・・」
ぞくりとした。
上目遣いに僕を見つめる穏やかで従順な従妹の下に、“何か”が居た様に見えたから。
「卒時ですが」
綾緒は表情を戻す。
「梅と云えば、何か連想されるものはありませんか?」
仕切りなおして問う従妹の顔は、陽だまりのように明るい。先程のような寒気は微塵も感じない。僕も
“今見たもの”を振り払いながら答える。
「鶯・・・かな?」
「はい。鶯です。では、にいさま、鶯は何故啼くのか、御存知ですか?」
「ん?そんなの――」
求愛のためだろう?
他に思いつかない。
そもそもあんなに綺麗な歌声が、求愛以外に使途があるとも思えない。
そう僕が答えると、
「残念ですが、違います」
従妹は微笑して首を振る。


556 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:35:14 ID:+LDdIc8s
「鶯は愛らしい容貌と美しい歌声を持ちますが、極めて争闘性の強い鳥なんです。あの啼き声は、恋の
歌では無いんですよ」
「それじゃ、一体何のために歌うんだ?」
尋ねても綾緒は即答しなかった。
僕を見てニッコリと笑い、
「綾緒にとっての、にいさまです」
そう云って、従兄の腕にそっと寄り添った。
どういうことだろうか。
視線で説明を促す。
すると従妹は目を細め、それから一歩踏み出した。
そして歌うように。
啼くようにこう云った。

「この場所こそ我が領地

この場所こそ我が幸せ

何人たりとも踏み込むこと許さず

侵すものは、死をも覚悟せよ」

それは、誰の宣言であったか。
一歩詰めた従妹は、再び従兄の腕を掴む。
「鶯の歌は、こういう意味があるのです。求めるためのものでなく、媚びるためのものでもない。自分
がここにいて、己の居場所がそこにあって。それを守り抜くと誓う。その為の歌。その為だけの声なん
です。だから綾緒は、鶯を気に入っています。鶯のように生きること。それが綾緒の理想なのです」

――綾緒もまた、鶯です。

従妹は、はっきりと僕にそう云った。
だから。
だからこの娘には、梅よりも。
きっと桜のほうが似合うと思ったのだ。

目が覚めると、白い天井があった。
自室の天井はこんな色をしていない。
清潔に過ぎる消毒液の臭いと、目に映る世界は僕の知らないそれであった。
(どこだ?ここ・・・)
身を起こす。
どうやらベッドに横たわっていた様だ。
見知らぬ、白いベッドに。
白?
(それって、まるで病院みたいな――)
「!」
ハッとした。
病院。
ここが病院ならば。
「・・・・」
僕は頭を振る。
『思い出した』
否。
思い当たったと云うべきか。
ここが何処で、どういう状況なのか。
「ッ・・・!」
僕は自分の腕を見る。
目に入るは、真新しいガーゼ。
貼り付けられたそれを外すと、そこには穴穿たれた痕があった。
・・・・・・血・・・・・・・。
これは、血を出し入れした痕。


557 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:37:13 ID:+LDdIc8s
ならば今僕に流れているこの血は――
「お目覚めになられましたか、にいさま」
思考を切断するように穏やかな声がする。
よく知った、誰かの声。
鶯の、鳴き声が。
個室と思しき病室の入り口。
丁度ここへ来たのだろう、制服姿の誰かがそこにいた。
「・・・綾緒・・・・」
「はい。にいさまの綾緒です」
声の主――楢柴綾緒は、口の両端を吊り上げると丁寧に扉を閉める。
それは、こことここ以外との遮蔽。
即ち、空間の限定。
それを為した張本人は見るからに機嫌が良い。僕が婚約を請うた時のように、晴れやかだ。
それで確信した。
総入れ替えは――
血液の交換は完了したのだと。
従妹は一礼してから傍の椅子に腰掛ける。背もたれの無い丸い椅子は、ぎし、と僅かに軋んだ。
「にいさま御加減は如何ですか?」
従妹は妖艶な表情で僕の腕を取った。
「・・・・」
僕は答えない。怒るべきか、悲しむべきか、それともいなすべきか、判断が付きかねたからだ。あんな
ことをされて、どう感じればよいのか。どう振舞えばよいのか。
思考の停止は結果として従妹を無視する形となったが、それでも綾緒は特に気分を害した様子もなく唐
突に、
「おめでとう御座います」
と、取った腕を見ながら微笑んだ。
「めで・・・たい・・・?」
「はい。昨日は実に良き日となりました」
従妹は心底嬉しそうに、腕に顔を近づける。
「にいさまが不浄な血から逃れ、綾緒とひとつになれましたから」
「痛ッ・・・!」
痕に走る痛み。
それは、従妹の口が為したもの。
綾緒は痕に口をつけると、そこから自分の――僕の血を吸っていた。
まだ塞がって間が無かったと思われるその痕は容易く破れ、生命の源が強引に引き出されて往く。
「あ、綾緒、痛い・・・っ」
思わず腕を振り払おうとする。
けれど呆けたように笑う従妹は、至福の表情のまま腕を捕らえ、吸引を続ける。
「これがにいさまの味・・・・。綾緒の味・・・・。楢柴の味・・・・」
紅を塗ったように赤い唇の間から伸びる舌が、痕から染み出る血液を舐め取って往く。
生成り――
記憶が途切れる前に見た従妹の姿は、人から人以外へと変わる過程そのものだった。
ならば。
ならば今ここにいる従妹は“何者”だろうか。
夜叉なのか、人なのか、或はその中間なのか。
「にいさま」
綾緒は気味の悪いほどに優しい笑顔で僕を見上げる。
腕はいまだに力強く囚われており、舌は合間に這いまわる。
「先生より、暫くの間、静養が必要であるとの言葉を受けとっております。つきましてはにいさま、楢
柴の離宮へ御出で下さいな」
ぴちゃり。ぴちゃりと繰り返される音の隙間からそんな言葉が届く。
「離宮・・・、お前の別邸か」
楢柴家には無数の御用邸がある。
その中の一つが、楢柴の離宮と呼ばれる敷地。
並みの金持ちならばそれを持つだけで生涯の名誉と出来るであろう巨大な屋敷は、庭園と無数の屋敷か
らなる、まさに離れの宮である。
当主の文人氏をはじめとする楢柴直系の者以外は立ち入ることの出来ぬ場所。日日仕事に追われる楢柴
の頂点達は、それ故立ち入る資格があってもやって来ることが無い。
つまり、そこは綾緒以外に使う者も来る者もいない限定の世界。


558 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:39:22 ID:+LDdIc8s
そして――
そして『あそこ』には、アレがあったはずだ。
時代錯誤。
或は物語の中のように。
名家の屋敷だからこそ有り得る、異形の空間。
即ち――座敷牢が。
僕はぶるりと震える。
流石に“閉じ込められる”とは思っていないが、『それ』が可能な施設がある場所へは往きたくなかっ
た。
だから僕は首を振る。
「い、いい。あそこには往かないよ。療養なら、自分ちで充分だ」
「いけません」
「痛ッ!!」
従妹は吸引を強める。
補充されたばかりの血液が、また、数滴失われた。
「にいさまの御自宅では――不充分です。にいさまにはいつでも綾緒の目の届く場所に居て頂きません
と困るのです」
「ぼ、僕は困らない」
往きたくはない、あそこには。
「にいさま」
じっと、従妹は僕を見上げる。
「にいさまは、綾緒の云うことが聞けませんか?」
「――」
寒気がした。
綾緒は・・・従妹は、気分を害したのだろうか。
“こうなった”綾緒を押し切る自信は僕には無い。
頷かなければならないのだろうか?
そう思った矢先――
「あ・・・」
くらりと従妹が揺れた。
「あ、綾緒!?」
慌てて身体を押さえる。その身体は相変わらず羽のように軽い。
「申し訳ありません、まだ、貧血が治まっていないようで・・・」
くらくらするのか、綾緒は額に掌を当てている。
「駄目じゃないか、お前、僕に静養を勧めるなら、まず自分が健康であるべきだ。自分の目の届く範囲
に居ろって云っただろ?それは綾緒が僕の世話を焼くためだろう?でも不健康な人間に近くでふらふら
されたら、それこそ気が休まらない」
「あ、そう・・・ですね。にいさま、申し訳ありません」
「謝らなくて良い。見たところ、お前のほうが重症じゃないか。静養するのはそっちだ。とりあえず、
今日は帰りなさい」
心配8割。回避2割のための言葉だった。
健康を害しているためだろう。従妹は素直に頷いて立ち上がった。
「一人で帰れるのか?」
「車を待たせているので、大丈夫です。・・・にいさま、本当に申し訳ありませんでした」
そう云って深深と腰を折った。
僕が退室を促すと、従妹は表情とは裏腹な強い意思を秘めた瞳でこちらを見つめる。
「にいさま、必ず御迎えに上がります。必ず・・・」
「・・・・」
僕は頷かなかった。
頷けるわけがなかった。


559 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:41:37 ID:+LDdIc8s

結局、僕は幾らも留まらずに病院を出た。
綾緒に云ったように静養するならば自宅が一番落ち着くからだ。楢柴の息のかかった場所で過ごす気等
更更無い。
家に帰り着いた時はすでに夜。
誰も居ない家には明かりは無かった。
明かりは無かったが――人影はあった。
玄関前に誰かが蹲っている。
不審に思いながらも近づくと、向こうも僕に気づいたのだろう。ゆっくりと起き上がる。
「遅かったですね」
抑揚の無い冷淡な声。
何処を向いているのか判らない無表情。
よく知った後輩であった。
「一ツ橋、何でお前がこんな所に?」
「兄事している人間が行方不明になれば、心配くらいするでしょう」
そう云う後輩の表情に変化は無い。けれどこれが彼女のスタンスだ。
「行方不明・・・そうか、そうなるんだよな」
連絡も無しに日を跨いだのだから。
「その辺も含めて、話を聞かせて頂きたいんですが」
「そうだな。うん、じゃあ、入ってくれ」

「どうぞ」
一ツ橋がテーブルに紅茶を置く。まれびとに淹れさせるというのもどうかと思うが、
「私が淹れるほうが美味しいです」
等と云われてしまえば一言も無い。
テーブルの中央には黒い直方体がある。例の御守りだが、普段から持ち歩いているのだろうか?
「しかし態態家の前で待ってるなんてな」
「これでも心配していたんですが」
自分の紅茶を僕のそれのすぐ横に置く。
隣に座るのか。
てっきりそう思ったのだが。
「・・・・・なあ、一ツ橋」
「朝歌」
「・・・朝歌」
「なんですか、お兄ちゃん」
「どうして僕の上に乗る?」
「少し黙って下さい」
「・・・・・・」
成る程。
確かに心配を掛けたらしい。
無表情の後輩はあまり機嫌が良くない様子。
表情はいざ知らず、気配はツンツンしている。
「ほんとに心配しました」
「悪い・・・」
この後輩のことは古くから知っているが、感情を出した姿を見たことは数えるほどしかない。
元元人付き合いのあまり無い人物なので、余計にそんな機会が無いのだ。
一応、僕のことをまだ兄貴分と捉えているらしいので、珍しく気持ちが出たのだろう。膝の上にある妹
分は僅かに揺れている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「私の身体、抱きしめて下さい」
「・・・・・」
僕は無言で抱きしめる。
小さくても、女の子ということだろう、吹けば飛ぶような痩身は、それでも奇妙な柔らかさがあった。
「少し落ち着きました」
「そうか」
「部長も心配していましたよ、お兄ちゃんのこと」
「あ~・・・、先輩にも心配掛けちゃったか」
「何度も電話をしていたみたいです」


560 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:43:39 ID:+LDdIc8s
携帯を取り出す。
直方体のせいで電波は届いていないが、履歴は『織倉由良』で埋め尽くされていた。
「・・・3分置きか。授業はどうしたんだろう」
「それで」
遮るように後輩が口を開く。
「何がありましたか」
抑揚の無いはずの声。
けれどその中には、気配同様尖った何かが混じっているように思えた。
僕は部屋の明かりに手を翳す。
陽光と違って、皮と肉の中が透ける事は無い。
体内に流れる新たな血を、もう一度確認したかったのだけど。

「そうですか」
説明が終わるといつもの言葉が紡がれる。
膝の上に座って前方を見ている後輩の表情は見えない。
返って来た声には起伏が無い。
つまり、相も変わらず心底が読めない。
「身体の調子はどうですか」
「ん、多分平気。少しだるいけど」
でなければ病院を抜けてこない。
「部長に知れたら、総て捨てろと云われますよ」
「血を!?それは無茶だ」
「理に適うとか適わないとか、あの人の中にはありません」
「・・・・」
僕は黙る。
俄には信じられないけれど、今の先輩ならそう云っても不思議はなかった。
「お兄ちゃん、渡した御守りは持っていますか?」
「ん?ああ、ほら」
一ツ橋の前に差し出してやる。
と、後輩は引っ手繰る様に御守りを取り上げた。
「これはもういりません」
「おいおい」
「効果がなかったようですから。こっちと交換です」
渡されたのは、まったく同じ安産守り。見分けがつかないくらい同じだ。
「“使い方”は以前説明した通りです」
「使い方って・・・あれか」
壊せだか何だかと云っていた。
「なあ、ひと・・・朝歌、これ、一体何なんだ?」
「御守りです」
「いや、それはわかってるけど・・・」
「誰か来たようです」
一ツ橋は壁――玄関のほうを向く。
果たして、一呼吸後に呼び鈴が響いた。
「・・・よくわかるな」
「肌と気配は敏感なんです」
後輩は僕の膝から降りる。
「どうぞ、応対して来て下さい」
促されるままに僕は部屋を出た。

のぞき窓の向こう。
玄関に立っていたのは意外な人だった。
財閥の頂点。
名門の総帥。
半血の身内にして、近くて遠い伯父。
楢柴文人。
彼は沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
「お、伯父さん?」
僕は慌てて扉を開ける。


561 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:46:32 ID:+LDdIc8s
「どうしたんですか、こんな時間に」
そう問うより早く。
「すまなかった!」
伯父は地に手を突いていた。
「お、伯父さん、どうしたんです、突然!?」
「・・・・・病院から、連絡があった」
「――」
耳に、入ったのか。
「あれがきみにした事を先程聞いた。してはいけないことをしたと知った。子の責任は親の責任だ。謝
って済む事ではないが、きみに謝罪しに来た」
伯父は額を地面に擦り付けた。
「伯父さん、顔を上げてください」
「そんなことできるわけが無いだろう。あれが仕出かした事は、人道から外れる」
「兎に角、身体を起こして下さい。そのままじゃ何も話せませんよ」
「・・・・」
僕が云うと、伯父は「すまない」と立ち上がった。
「創くん。身体は、平気かね?」
「今のところは」
「精密検査は?」
「綾緒の話だと、したらしいです。結果はしりません。まだ出ていないのかも」
「・・・・」
伯父は苦悶の表情を浮かべていた。
その胸中はいかばかりだろうか。
「あそこの病院は楢柴のお抱えだ。綾緒に忠誠を尽くしているものも多い。だが、それ以上に私の息の
かかった刀圭家は多い。そちらから、今回の事を聞いた」
「綾緒とは、話したんですか?」
「いや。連絡を受けてすぐにこちらに来た。あれは家で寝込んでいるらしいが、帰ったらすぐに問い詰
めるつもりだ。そして、正式に謝罪をさせる」
「・・・・・」
「あれは思った以上に歪んでいたようだ。血抜きという奇行ですら、きみの為だと本気で思っている。
嬉嬉としてそれを為したと聞いたよ」
「そう、ですか」
おめでとう御座います。
蕩けた笑みで僕に語った言葉は、心からのものだったのか。
冗談とは思っていなかった。
けれど、本気だと思いたくもなかった。
「ここへ来たのはきみへの謝罪が第一だが、もう一つ聞きたいことがあったんだ」
「何でしょうか?」
「きみはあれを――楢柴綾緒を、本当に女性としてみているのかね?」
「・・・・・」
左の中指。
そして、片耳が疼く。
僕はどんな表情をしたのだろうか。
眼前にある楢柴の総帥は、殊更顔を歪めて見せた。
「きみから婚約を持ちかけられた。あれは私にそう云った」
事実だ。
だけど、真実ではない。
「あれがきみと婚約したいと云った時、私は条件を出した。――日ノ本創が、女としてお前を求めてい
るなら、と」
僕は綾緒を、そんなふうには見れていない。
外貌でそれを察したのだろう。
伯父はもう一度「すまなかった」と頭を下げた。
「その話は、白紙にさせて貰う。きみはあれに気を使うことなく、生きたいように生きてくれ。血の件
も含めて、謝罪させるし、償わせる」
「いえ、そんな・・・」
「いや、させる。これはきみだけの話ではなく――楢柴の誇りの問題でもある。あれは気高さを履き違
えているようだが、誇り高い人間とは、けじめをつけられる人間であると私は思っている。それは道を
踏み外さない事とも同義だ。謝罪して終わりではない」
勿論私自身の事も。


562 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:48:38 ID:+LDdIc8s
楢柴文人はもう一度頭を下げた。
「娘は・・・本当に怪異なのかもしれない。それでも楢柴の一員である限り、させることはさせる」
悲愴な表情をした文人氏は、それでも強い光を湛えた目で僕を見つめた。

「父親は常識人のようですね」
伯父が去って居間に戻ると、一方の妹分が紅茶を淹れなおしていた。
「お前のとこと同じさ。娘は変わり者でも、父親は識者だ」
ソファに座る。
先程と同じ場所。
「父のことはよく知りません。あまり話しませんから」
「一ツ橋教授、相変わらず忙しいのか」
「近近倫敦に往くそうです。最低5年と云っていましたが、今までもいない様なものでしたから、実感
がありません」
後輩はちいさく「よいしょ」と声を出して僕の膝の上にのぼった。
「実感できる身内なんて、私にとっては一人だけです」
「そうか」
「そうです。だから抱きしめて下さい」
「・・・・・」
ぎゅっと抱え込むと、一ツ橋は目を閉じた。
(昔は綾緒も・・・素直な良い娘だったんだけどな)
今でも素直と云えば素直なのだろう。
けれど、いつからか、『夜叉』が住み着いた。
生成り。
従妹は鶯の化け物になろうとしているのか。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「人は人。物の怪は物の怪。相容れることはありません」
後輩は目を閉じたまま。
「わかっているさ、そんな事」
生成り。
まだ人であるのなら。
僕は綾緒を信じたかった。
見慣れた天井を見上げる。
目覚めて見た時の『白』ではない。
「なあ朝歌。僕はどうすれば良いのかな」
「お兄ちゃんの好きにすれば良いでしょう。唯、相手が人で無いなら答えは一つです」
「それは?」
一ツ橋は目を開けない。
何事も無いように。
唯、ポツリとこう云った。
「幽明界を異にする」



563 :ほトトギす ◆UHh3YBA8aM :2007/11/30(金) 04:50:38 ID:+LDdIc8s

織倉由良に連絡を取ったのは一ツ橋が帰ってからすぐのことだ。
余程心配していたのだろう。
怒られたり、近況を聞かれたり、近況を話されたり、たっぷり3時間は捕まった。
流石に一から十まで話せない。
綾緒や血のことは伏せて誤魔化した。
曖昧な説明では納得しなかったのだろう。
先輩の機嫌は良くはなかったが、“朝一番で部室に来ること”を条件に許された。
それで翌朝。
僕は部室の前にいる。
『まったり仲良く』が伝統の茶道部は朝に人が集まることは無い。
だから今僕の目の前にある扉の向こうには、件の人物しか居ないはず。
運動系の部活動加入者が漸く登校を始める時間。
学校自体が眠りから覚める途上。
そんな『時』に、僕はコツコツと扉を叩いた。
「日ノ本くん?入って良いわよ」
返って来たのは、よく知った声。
織倉先輩のそれ。
矢張り先に来ていたようだ。
失礼しますと扉を開ける。
織倉由良は、僕に背を向けて正座していた。
「先輩、おはようございます」
「うん。おはよう。扉、閉めてもらえる?」
振り向かないまま先輩は答える。
入室したときに遮蔽は済んでいるので、鍵を掛けろと云う事なのだろう。
施錠をし、靴を脱いで畳に上がる。
そこで、漸く先輩は振り返り立ち上がった。
「日ノ本くん、遅いわよ。張子房を見習わないと」
「夜中から潜んでいろと?いくらなんでも無茶すぎです」
僕は苦笑する。
苦笑して――動きが止まった。
「私、日ノ本くんに話があったんだ」
織倉由良は笑顔。
破顔したまま僕を見つめていた。
だけど僕は笑うことが出来なかった。
何故なら。
何故なら織倉由良の手に目を奪われたから。
にこやかに笑う先輩の手には。
銀色に光る金属が、しっかりと握られていた――