434 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:25:33 ID:R8ss/t/W
*****
これからの私は、どうしたらいいのか。
過去の私は、どうしていたらよかったのか。
これまで生きてきて、ここまで悩んだことは一度もなかった。
お兄ちゃんへの想いを諦めたい、でもどうしても諦められない、なんて二択に取り憑かれたことがあった。
だけど、今抱えている問題は、それ以上に深刻。
家に長く居たくない。家族と話したくない。どんな食事も味気ない。布団の中でも眠りにつけない。
体力と気力が同時にすり減っていく。やつれているのを実感する。
もっといい加減な人だったら、私はここまで悩まない。
だけど、あの人はいい加減どころか、理想のままで、何一つ裏切らない。
良い期待も、悪い期待も。日常のあらゆるところで、そのことがわかってしまう。
理想通りなのは当たり前だ。私の理想の輪郭は、あの人が形作ったんだから。
おもちゃ――ううん、模型作りだけじゃなくて、象徴的なものを作ることまで上手。
模型作りを馬鹿にされて腹を立てて反論してくるような、子供っぽいところがマイナス点ではある。
けど、マイナス部分がプラス部分を引き立てているように見えてしまい、それがまた、嫌になる。
ちょっとでいいから距離を縮めてしまえ、と決断したい。
でもできない。
これまでの私は、そんな素振りを見せることなく、あの人に接してきたんだ。
それに、勘違いを理由にしてこれまでの想いをなかったことにするのも悔しい。
自分が恐ろしく軽薄な人間みたいで、認めたくない。
二人を入れ替えて覚えていたことに気付いてからは、次第にお兄ちゃんへの想いは薄れていった。
そんな薄情なところが嫌になる。
かと言って、自分を偽ってお兄ちゃんへの想いを貫くようなことは、もうできない。
『本当の』お兄ちゃんを想う。
すると、どこまでも想いが続いていく。止まることなく、途切れることなく、一直線に貫いていく。
甘い。手を出したら止まらないほど、甘すぎる。
その甘さは身体に悪い。
でも、手を出したらいけないものは、どうしても魅力的に過ぎる。
動いてしまえば手に入る場所にあるから、誘われているように映る。
もう、諦めよう。
こんな想いそのものがあっちゃいけないんだ。
あの人だって、きっとそう言うに違いない。
決断するのは、これで何度目だったか、もう覚えていない。
決断をすぐに裏切るのも、数えられないぐらい多くて、把握していない。
435 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:27:01 ID:R8ss/t/W
*****
俺が中学校を卒業したのは、たしか二年ぐらい前の話である。
ちょうど二年前と言っていいのかもな。
しかし、大人の事情や曜日の関係もあり、確実に、一日のズレぐらいはあるだろう。
今から二年前、三百六十五日かける二イコール、七百三十日前の俺が卒業式に出席していたかは定かではない。
だが、同じ中学校の卒業式であるならば、二年前と断言してもかまうまい。
誰も彼もが、そこまで詳しいところまで問い詰めたりしない。
経過した日付までごちゃごちゃ考えるのは俺ぐらいだろう。
高橋は言っていた。「占いは七割合えば完全、八割なら夢想、九割なら異常、それ以上はありえない」、と。
奴の思い付きの台詞を全面的に支持するわけではない。
けれど、ささいな事を気にしないのは大事なことである。
俺は神経質なのかもしれない。
普段から模型作りにて完全な仕事を求めているからだと、決めつけてみる。
今日は、プラモデルを作ることが重要課題ではないのだ。細かいことは気にしなくていい。
俺は中学卒業から、二年を数える歳月を生きている。
今日は母校の中学校の卒業式である。ならば二年前の今日は、俺の中学卒業記念日にあたる。
記念日だからと言って、特にお祝いをすることはない。
親がお祝いをしてくれるはずもない。
ちょっとだけ晩飯を奢ってくれたりするかもしれないが――それは今年までだろう。
今日は妹の通う中学校の卒業式なのだ。
長男の俺と、次男の弟と、末っ子の妹は、全員が同じ中学校に通っている。
いや、過去形にするのが正しいから、通っていた、とするべきか。
今のところは俺と弟だけが過去の話として語れるが、明日になれば、妹も自分の過去として語れるようになる。
それからの妹は、俺の通う高校への入学を果たすまで、入学式を待つだけの身分となる。
うちの高校の入学式で注意すべきは――入学生代表あいさつだろうか。
妹に中学での成績について言及したことはない。
もしかしたら入学試験でトップの成績をおさめた可能性もある。
ということは、妹が入学生代表になるかもしれない。
あれだ。箱の中に入れた猫が生きているか、死んでいるかという、シュレなんとかの猫の話と同じだ。
妹の成績が優秀である可能性があるならば、妹が入学生代表を務める可能性はある。
反対に、成績があまり優秀でないかもしれないから、代表にならない可能性もある。
妹の学業成績が未確定という条件を考慮すれば、確率はフィフティフィフテイなのだ。
まあ、妹が自分の成績を誇ったことはこれまでないから、賭けるなら代表選出に漏れるにするだろうな。
436 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:28:52 ID:R8ss/t/W
さて、思考実験にふけっている間に、けっこうな時間が経過していたようである。
視線をある地点へ向ける。黒や茶色やその他もろもろの人垣の向こう側、直線距離で二十から三十メートル。
足下の床よりも高い位置にある壇上に、落ち着いた雰囲気のスーツを着た男が現れた。
頭髪は遠目からでもわかるぐらい薄い。おそらく加齢によるものだろう。
しかし、スーツのところどころを盛り上げる体つきが年齢を感じさせない。
筋骨隆々である。相変わらずである。俺が卒業してから二年間不変の、名物PTA会長の登場である。
「みんな、卒業おめでとう!
来月からは高校生ということで、今から緊張している人もいるでしょう!
でも! 勢いさえあればなんでもできる! みんな、怯えるな! 失敗を恐れずに挑戦してください!
私からは以上です! 卒業生のみんな、元気で!」
マイクを使わないPTA会長あいさつが終了した。
マイクを使っていたら超不快なハウリングが発生する、と断言できるぐらいの声量だった。
まったく、相変わらず走りっぱなしの人である。
でも、そこが気持ちいいから、周囲にいる保護者のウケは良好。
妹の中学校の、今年度の卒業式は最高の盛り上がりを見せた。
それは、両親の代理として卒業式に出席しているローテンションの俺に拍手をさせるぐらいであった。
437 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:31:16 ID:R8ss/t/W
本来両親が参加するのが筋の妹の卒業式に、なぜ兄の俺が参加しているのか。
事態のスイッチは、伯母の病室での一悶着で入ったのかもしれない。
先週の日曜日のことである。
二度と俺に関わらないだろうと踏んでいたのに、予想をあっさり裏切り、伯母が俺の家に現れた。
伯母にくっついていた、その日の玲子ちゃんのスカートの中がブルマだったことを知った時と同じぐらい、衝撃的だった。
玲子ちゃんが突然スカートをたくし上げたのも衝撃的ではあったが、ブルマの衝撃には敵わない。
ちなみに、悪い意味で衝撃だった。
いやね、ブルマとか見せられても、はあそうですか、としか言えないのだ。俺としては。がっかりである。
パンツだったらどうとかいう話をしているのではない。今はブルマの話だ。
小中学校でブルマを見てきた俺としては、あんなものは服である。水着と同じだ。
スカートをたくし上げて、してやったりみたいな顔をした玲子ちゃんが憎らしかった。
その場に両親と伯母がいたので、衝動に身を委ねたりしなかったが、誰も居なかったらなんらかのアクションをとっていただろう。
話が脱線した。元に戻そう。
日曜日の朝のチャイムに応答して玄関を開け、そこに伯母が立っていたときは、我が目を疑った。
同時に、過去の記憶がフラッシュバックした。
しかし、伯母が過去のような虐待行動に出ることはなかった。
伯母が玲子ちゃんと我が家にやってきたのは、退院のあいさつをするためだった。
詳しいところまでは聞いていないが、どうやら伯母はたまに体調を崩して長期間入院するらしい。
安静と投薬治療が必要になるため、入院せざるを得ないそうだ。
その入院時期と、俺の入院時期が偶然重なったのだ。
俺が伯母を刺してできた怪我が尾を引いていて、未だに入院生活と縁を切れないわけではない。
もしかしたら、俺のせいなのかな、なんて思ってたんだよ。
伯母に対しては謝らないが、玲子ちゃんには申し訳ない気持ちだったのだ。
両親と伯母の話が長引きそうに感じ、会話の輪を遠くへ押しやるため、会談の場であるリビングから立ち去った。
弟と妹は出かけていて、昼過ぎにならないと帰ってこない。
そもそも今更になって二人を伯母に会わせることもないなと思い、俺は自室へ引っ込んだ。
しばらくして、工作機材の整理にも飽き、暇を持てあましているところに少女の声が飛び込んできた。
玲子ちゃんだった。俺の部屋の鍵を開けろと言いながら、扉をガンガン叩いていた。
しかし無視した。居留守を使った。非モデラー工作場に入るべからず。
九歳児のカドのない罵詈雑言が止んだ頃、伯母が扉の向こうから話しかけてきた。
返事を必要としない、短い台詞で。
「伯母さんは帰ります。元気でね――――」
俺の名前を君付けで呼んで、伯母は帰っていった。
438 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:33:46 ID:R8ss/t/W
日曜日の午前中に起こった特別な事は、伯母の来訪ぐらいであった。
しかし、この来訪が思いも寄らない事態を引き起こした。
一週間、両親が家を空けることになったのだ。
父に説明を求めたところ、祖母の誘いで、祖母と両親と伯母の四人が旅行に出掛けることになったらしい。
祖母は子供達も誘ったそうだが、「子供達は学校がある」とか母が言って、俺ら兄妹は自宅に残ることになった。
母の言葉は、母親らしい判断から出た妥当なものだった。
だがしかし、妻としては、家計を管理する者としてはどうだろう。
父の仕事内容は詳しく知らないが、夏はネクタイ無しの半袖、冬はスーツで出掛けるところから考えて、机に座ってする仕事ではなかろうか。
そういう仕事は、明日から一週間会社を休みますと言って休めるものなのか?
学校生活しか知らない俺から見ても、無理に思える。
……クビにならないだろうな、姉妹丼疑惑持ちの父。
もし父が会社をクビになったら、長男の俺の小遣いなど真っ先にカットされるだろう。
携帯電話を持ち続けられるかも怪しい。プラモデル作ってる場合じゃなくなる。
必然的に、アルバイトしないといけなくなる。
通っている高校は、基本的に生徒のアルバイトは禁止している。
例外は、家庭の事情でアルバイトしないといけなくなったケース。
校則的にはクリアできるだろう。家計が苦しくなった原因が家族旅行というのが情けないが。
アルバイト先を選ぶとするなら、第一候補にプラモデルを扱うお店を挙げる。
そう遠くない場所に、多様な品揃えのおもちゃ屋が一件あるので、そこで働けたら嬉しい。
でも、あの店はアルバイトを募集していたことが、過去にあっただろうか。
もしあの店が駄目だとしたら――いったいどこで働けばいい。
スーパーやコンビニなら募集しているかもしれない。
おもちゃ屋で働けなければ、万屋的な店で働くか。背に腹は代えられない。
最悪の場合の想定は一旦置いておくとして。
とにかく、両親が突然の家族旅行に出掛けたために、妹の卒業式に参加する大人がいなくなった。
今回のケースでは祖母まで旅行に同行しているため、俺の卒業式の時みたいに伯母が来ることは不可能。
他の大人、例えば親戚ならば代理をしてくれるかもしれない。
しかしそれでは妹が可哀想である。
卒業式の日に来てくれるなら、近しい身内の方がいい。
おそらく、俺ら兄妹の誰に聞いても、そう答えるだろう。
以上の理由から、妹の卒業式の日に都合が付く身内として、俺が出張ることになったのだ。
父兄には兄という文字も入っているのだから、別に俺が参加したってかまうまい。
弟に参加させるのはなし。理由は、去年中学を卒業したばかりだから。
今年度の卒業生には弟の顔を覚えている人間がたくさんいる。
対して、俺の顔を覚えている卒業生はほぼ居ない。
だったら、俺が出るしかないじゃないか。
439 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:36:55 ID:R8ss/t/W
当事者ではない俺にはあまり感動できない卒業式が終わり、卒業生と父兄は一旦おのおのの教室へ。
わいわい、がやがや、ばんざい、わっしょい。
卒業生は教師がやってくるまでの時間に、卒業の喜びを満喫していた。
携帯電話の電話番号やメールアドレスの交換、この後に遊びに行く場所の打ち合わせ、窓の外を見て黄昏れる、など。
うむ。だいたい俺の時と同じような光景だ。
二年前の俺がどうしていたかは、あまり覚えていないのだが、友人との談笑を楽しんでいたと思う。
ちなみに卒業祝いと称して友人たちと遊びに出掛けたりはしなかった。
悲しいことに、そこまで仲の良い友人はできなかったのだ。
平凡な行動しか取らない男には、特徴の薄い没個性的な友人しかできないものだ。
高校生になってからも、高橋みたいにどの学校にも居そうな奴としか親しくならなかった。
まあ、高橋みたいな、一見人畜無害、しかしてその実態は年上好きでへんちくりんな話術使いがどこにでもいてもらっちゃ困るが。
あいつは、無個性の仮面を被った変人である。
俺がその事実に気付けたのは、高橋と話し出して数日経ってからだった。
無個性という漢字が書いてあるような奴のマスクは、その話し方の異常ぶりまで覆い隠す。
おそらく、同じクラスの女子生徒の多くは、高橋がクラスメイトであることすら知らないのではないだろうか。
奴は初対面の他人に何の印象も与えないこと、影のように存在感がないことでも定評がある。ちなみに評価を下しているのは俺。
ある意味、高橋は異能力者だ。
羨ましいなんて、デザインナイフの尖端ほども思わないが。
教師がやってきて、各卒業生に名簿順で卒業証書が配られた。
名前を呼ばれて、生徒が返事して立ち上がり、教壇の前で卒業証書授与。
そして一人一人に向けてクラス中から拍手が起こる。
あー、いいなこの雰囲気。
自分の出番が無い、名前が絶対に呼ばれないという安心感が良い。
まさに父兄。誰にでも出来る楽な仕事である。
妹の名前が呼ばれた。
流れに逆らうことなく、窓際の席にいる妹は返事して起立し、教壇へ。
「高校に入学してからもがんばってください」
という教師の声と共に、妹の手に卒業証書が手渡された。
周りに合わせて、俺も拍手をする。わずかに力がこもってしまうのは、身内だから当たり前。
拍手が止んだころになって、妹は自分の席へ着いた。
ふうむ。どうやら妹はクラスで浮いた存在だったりするわけではないらしい。
中学一年生バージョンの妹の行動を見ていた俺からすると、それが意外に思えた。
だってあいつ、昼休みになったら毎日弟の教室まで来ていたそうだぜ?
下校時なんか、俺を無視して弟と二人きりで帰っていたんだぜ?
まあ、これぐらいじゃ「お兄ちゃんっ子な女の子」にしか見えないから、微笑ましいだけだな。
妹を異常な目で見ていたのは俺の方だったのかもしれない。
四月から同じ学校に通いだしたら、またそんな目で見るようになるのかもしれないが。
440 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:38:30 ID:R8ss/t/W
教師から、教え子への最後の言葉がはきはきとした声で発せられ、それで卒業生達の最後のホームルームは終了した。
教室の後ろに控えていた保護者と一緒に廊下に出て、教室を背にして、今日の主役を待つことにする。
保護者同士でも会話は弾む。一日限定の父兄の俺には話しかける相手も、話しかけてくる相手もいない。
というか、話しかけられたら困る。
まさか、保護者が夜に集まって会合するとか無いよな?
そこまで出る義理はないんだが、この場で断るのも気が引ける。
そんな心配は、俺以外の保護者が周囲に一人も居なくなってから霧散した。
教室から聞こえてくる声も一切無し。
つまり、卒業生は全員帰宅したということ。
「おいおい……」
妹の奴、俺に声をかけずに帰りやがったのか。
いくら俺のことを嫌っているからってそれはやっちゃいけないだろ。
こちとらせっかくの休日を潰してやって来てるんだ。
少しぐらい祝わせろってんだ。
「まったく、も……う」
教室の入り口から中を覗き込む。
すると、中に誰か居ましたよ。誰かっていうと、うちの妹君が。
着席したまま、机に頬杖をつき、窓の外へ視線を向けている。
ふうん。妹でも黄昏れることがあるんだねえ。
最近弟と風呂に入ったりしないのは、卒業式を控えていたせいで憂鬱になっていたから、か。
俺と弟の居ない妹の学校生活は、どんなものだったんだろう。
悩みを打ち明けられたことは特にない。妹の悩み相談室役は弟だが、妹に深刻な悩みは無いらしい。
弟曰く、むしろ最近の妹は悩みが吹っ飛んだ状態だよ、だそうだ。
吹っ飛んだせいでからっぽになっちゃってまた悩んでるみたいだけどね、とも言っていたな。
難儀なものだ。人は完全に悩みから解き放たれることは許されないらしい。
俺は先日、伯母に関することで悩むことはなくなった。
後に残った懸案事項は、俺の腕のこと、弟を取り巻く三角関係、葉月さんの名前の呼び方、とかか。
俺の右肘は夏服を着るまでにはまともに動かせるようになる。
弟については、澄子ちゃんがどうでるか次第だろう。
葉月さんについては、あー……もうちょっとだけ待ってもらうとしよう。覚悟未完了だ。
441 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:40:36 ID:R8ss/t/W
妹に黄昏れる時間を与えるため、トイレへ向かうことにした。
かつては通い慣れた学舎である。一番近いトイレも、最も遠くにあるトイレだって覚えている。
三番目に近い場所に位置するトイレを選び、足を向ける。
途中、卒業生らしき男子生徒とすれ違った以外、人と会うことはなかった。
職員室まで行けば懐かしい顔を拝めるかもしれないが、やめておくことにした。
世間話を続けられるほど話題豊富ではないし、懐かしむほど親しい教師がいたわけでもない。
現在の担任の篤子女史みたいに個性的なら親交していたかもしれないが、あんな残念な美人はそうは居ない。
というわけで、トイレで用をすませた後はとんぼ返りで妹の居る教室へ向かうことにした。
トイレに行ってから帰ってくるまで、時間にして十分もかからなかったと思う。
十分と言えば、プラモデル作成中の俺が昼食時間にあてる時間とほぼ同じである。
ペーパーでならしたプラスチックボディに、サーフェイサーを段階に分けて吹くときに空ける時間ともだいたい一致する。
それなのに、どうして妹の教室を覗き込んだらこんな事態が発生しているのか。
――わからない。
「この通りだから! お願い!」
「嫌。だって私、たぶんこれから藤田君と会うことないだろうから」
「そうならないためにこうしてるんだって! お願い! お願いします!」
頬杖をついて座ったままの妹と、その妹へ向けて合掌し頭を下げる男子生徒。
男子生徒――妹は藤田君と呼んでいたから、藤田君と呼ぼう。
背丈からして、トイレに行く時にすれ違った生徒は藤田君だろう。
「待ってて、って言われたから待ってたのに、用事はそんなことなの?」
「どうしてもケイタイ番号とアドレスが知りたいんだ! このタイミングじゃないと言いにくくて」
藤田君とやら。君は間違っている。
卒業式当日なら妹から携帯電話の番号とメールアドレスを聞けると思うな。
妹はやむを得ない場合以外、自分の連絡先を教えない。
妹が俺にメールアドレスを教えてくれたのは、救助を求める時になってようやくだった。
電話番号の入手はそれほど難しくなかった。弟にあっさり教えてもらえた。
藤田君。君が妹の連絡先を知りたいのならば、俺に聞くのが一番の近道だ。
たかが妹の同級生でしかない男には、教えたりしないけど。
442 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:42:06 ID:R8ss/t/W
「だから…………あ、お兄さん」
妹が俺に気付いて、席を立った。
わざとらしい。首を俺に向けて、さも俺を待っていたかのような演技をしやがって。
演技するならもうちょっと凝れ。無表情で俺の顔を見るな。大根役者め。
「家族が来たみたいだから、私は帰るね。藤田君、さよなら」
「ちょ、待って! だからさ」
「あー、もう!」
声を荒げ、妹がでかいため息を吐き出す。
そして、渋々制服のポケットから取り出したのは――携帯電話?
「……赤外線で送るから、受信して」
「うっそ、マジ? 待って、すぐに準備する!」
おおい!
そんな簡単に教えるのかよ。
どういうことだ。今日の妹は卒業できた喜びでおおらかになっているのか。
ということは、俺も藤田君みたいにお願いすれば、妹について知りたいことを教えてもらえるのかも。
後で一つ実践してみようか。
満面の笑みの藤田君と対照的に、妹はやる気無しの表情であった。
送信する、の一声も無しに、妹は携帯電話の操作を完了し、藤田君の方へ向けた。
「お、きたきた……よし! んじゃ今度は俺から」
「いいよ。後で連絡してくれれば、登録しておくから」
吐き捨てて、妹はこちらに向かってくる。
「絶対に連絡するからさ! ちゃんと出てね-!」
弾んだ声の藤田君に向けて、振り返ることなく妹は片手を振って応える。
そして入り口に待つ俺を一瞥し、そのまま素通りしていく。
何か一言ぐらいあってもいいだろ、そこは。
帰りましょお兄さん、とかさ。それか待たせたことに対する謝罪とか。
……この妹にそれを期待しても無意味だな。
そんな事実を再確認し、妹の後を追って帰宅の途に着くことにした。
443 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:45:03 ID:R8ss/t/W
思うのだが、どうしてこの町の中学や高校というのは高台に位置しているのだろうか。
小学校は道路に面するような位置にあったため、登校が楽だったのを覚えている。
中学校に上がってからは、道路と正門を結ぶ登坂路を通らざるを得ないため、登校が面倒になった。
おかげで高校生になってからは、登校時坂道を登ることをなんとも思わなくなった。
一説では、教育施設は水難などの緊急時の避難場所として機能するため、高台にある必要がある、ということらしい。
まあ、そういうことなら仕方ない。
自問自答しつつ、妹の一歩から二歩後ろに付き、中学校の正門から下界へ続く坂道をいく。
もしかしたら学校が高台にあるのは思春期の若者達を今の間だけ持ち上げるためなんじゃないか、
という仮説を検証しようとしていたら、妹が話しかけてきた。
「ねえ、お兄さん」
「うん、どうした?」
「あの……お父さんとお母さん、いつ頃に帰ってくるか聞いてる?」
「ああ。ばあちゃんの話だと、日曜になるってさ。
明日まではばあちゃんの家で寝泊まりするんだと。俺らも来ないかって誘われたけど、謝っといた」
「そう。……ねえ、お兄さん」
「なんだ、妹」
「えと……お兄さんの学校、今日は休みなの?」
「もう休みに入ってるよ。中学校よりも春休みに入るのが早いっていうのも、どうなんだかな。
言っとくけど、ちゃんとした学校だからな。たぶん中学よりは決まり事多いぜ」
「そんなの、知ってるわよ。……ねえ、お兄さん」
「なんだ、卒業生」
返事が面倒になってきた。会話がパターン化している。特に妹。
「お兄さんはお腹、空いてない?」
「あー、そういやちょうどいいぐらいの時間だな、今」
携帯電話で時刻を確認。
正午を十分以上過ぎている。食欲が昼食を求め、なんでもいいから口に入れろと急かし出す。
「それじゃ、途中の店で何か買っていくか?」
「そうじゃなくって、たまにはその……外で食べるのも……」
「ああ、それも悪くないな。じゃあ、お前の卒業祝いに一杯やるか。せっかくだから弟も呼んでやって」
「ま、待って!」
電話帳で弟の番号を探そうとしたところで、妹が大きな声を出した。
こいつが俺との会話で大声を出すっていうのも珍しい。
ほとんど感情の起伏を見せずに会話を続けようとするからな。
「お、お兄ちゃんは呼ばなくていいわよ」
「いいのか? 弟が居なくても」
「だって……わざわざ呼ぶのも悪いじゃない。歩いて数分って距離でもないんだし」
「それもそうだな。んじゃ、あいつに一人で飯食えってメールしとく」
444 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/06/20(日) 11:46:31 ID:R8ss/t/W
タイトル無し、本文が二行程度の短いメールを弟宛てに送信する。
送信完了の表示を確認。携帯電話を畳もうとしたところで、拒むかのように着信音が鳴った。
見慣れない番号だった。名前が表示されないところからして、電話帳には登録されていない。
しばらく放って置いたが、いつまでも鳴り止まない。
もしかしたら祖母か両親からかも、と思い直し、通話ボタンを押して電話に出る。
「もしもし」
「あ、俺俺、雄介! いつまでも出てくれないから無視されてんのかと思っちゃったよ。
でさ、今から早速遊ばない? 今近くのカラオケ屋にいるんだけど!」
「あの、番号間違えてませんか?」
「え……声が違えし。あっれ-?
すんません、まちがえましたー!」
謝罪と共に通話が終了する。
ユウスケ、という知り合いは俺の友人には居ない。
まあ、春だものな。
浮かれた若者のユウスケ君が俺に間違い電話をかけてきても何も不思議はない。
ユウスケ君に恥をかかせないため、彼の番号は着信拒否することにした。
これで彼は楽しくカラオケで歌うことができるであろう。
そんなことより、妹の卒業祝いの方が今は大事だ。
「どこで食べたい? あんまり選択肢もないけど」
「んと……じゃ、ファミレスで」
「ファミレスねえ。この辺りじゃあそこしかないから、ちょっと歩くことになるぞ」
「別に構わないわよ。行きましょ、お兄さん」
そういえば、退院した日に妹と立ち寄った場所もファミレスだった。
こいつ、好きなんだなあ、ファミリーレストラン。
これからもたまに誘ってやろうかな、弟と一緒に。
最終更新:2010年06月20日 20:08