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61 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:20:22 ID:Gejk2pPM
 放課後、私は斎藤ヨシヱの元を訪れることにした。
 まだ人の減らない本校舎を抜けて、一階の隅にある長い渡り廊下を目指す。
 本校舎と部活棟を繋ぐ通路は、この一本しかない。そのことが、部活棟の存在を更に希薄にしている気がした。
 そもそも、この高校は部活動があまり盛んでない。
 体育系文化系を問わず、どの部活も平等に弱小で、県大会出場はおろか地区大会一勝すらしたことがなかった。
 その上、まがりなりにも進学校で通っているため、大半の生徒が部活ではなく勉学に走ってしまう。かくいう私も、その内の一人だった。
 本当は、仲間達と共に汗をかき、切磋琢磨し合いながら部活動に打ち込んでいく、そんな学生らしいことに憧れていたりするのだが、自分じゃそういうことが出来ないのはわかっていた。私は、少し違う。
 渡り廊下に着いた。
 寒風から守ってくれていた本校舎を出て、寒空の下へと身を投げこんでいく。
 前々から言っていることだが、私は寒いの苦手だ。
 冬の寒さに首を縮こませながら、一刻も早く目的地に着いてしまおうと、足早に渡り廊下を進んで行く。
 そして、しばらく歩いていると、老朽化の目立つ、黒ずんだクリーム色の壁が視界に入ってきた。
 部活棟の壁だ。
 私は、目の前の建造物を見上げてみる。



62 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:21:30 ID:Gejk2pPM
 この部活棟は主に文化系部活のためのものだった。
 体育系部活に関しては、利便性を考慮してグラウンド前に設置されているプレハブ小屋が使われている。
 一般の生徒でこの部活棟を訪れる者は、まずいない。
 学内で仲間外れにされたように位置する此処は、校門とは真逆の方向にあるし、寄り道するにも少し遠すぎる。
 私自身、斎藤ヨシヱのことがなかったら一生訪れなかったかもしれない。
 ここの唯一の入口であるガラス戸を開け、中に足を踏み入れる。
 その瞬間、世界から全ての音が消えた。
 本校舎から聞こえていた居残っている生徒の声も、グラウンドや体育館からの部活動の喧騒も全て。
 どうして、放課後の部活棟はこんなにも静かなのだろうか。
 私はここを訪れる度にそう思った。
 廊下に連なる部室の扉の中にも、部活動に勤しんでいる生徒達が沢山居るはずなのに。辺りはまるで防音対策がされているかのように静まり返っていた。耳鳴りがしてしまうほどだ。
 やけに足音の響くリノリウムの床の上を歩きながら、茶道室を目指す。
 茶道室は、この部活棟の最上階である二階の一番奥に位置していた。
 階段を昇り、夕日が差し込むオレンジ色の廊下を歩いた。
 茶道室には直ぐに辿り着けた。
 私はサムターン式の鍵がついた扉の前に立ち止まり、ドアノブに手をかける。鍵はかかっていないようだ。
 なるべく音をたてないように、ゆっくりとドアノブを手前側へと引いていく。
 キィ、と金属が軋む音をたてながら、扉は開いていった。
 徐々にひらけていく視界。
 その中に、斎藤ヨシヱは居た。
 彼女は窓枠に肘をつき、湯呑みを片手に持ちながら、気怠そうに虚空を見上げていた。


63 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:22:37 ID:Gejk2pPM
 いつもの彼女だ。最後に会った時から何ひとつ変わっていない。
 なのに、私は彼女に声をかけることが出来ずにいた。
 この室内を支配する静寂を破ってしまうことで、目の前に映るこの優美な光景も壊れてしまう気がしたのだ。
 斎藤ヨシヱは美しい人だった。
 鋭い光を宿した切れ長の瞳。
 しみひとつ無い、白雪のように真っさらな肌。
 背中にまで垂れる長い髪は、その素肌とは対照的に墨を零したように真っ黒で、何を塗ったらそうなるのか白い光輪がとりまいている。
 およそ高校生らしい幼さの残る可愛さなどは微塵も無く、完成された美術品のような、気品を感じさせる美しさが彼女にはあった。
 呼吸をするのを忘れていたことに気付く。それほどまでに、目の前の光景に目を奪われていたらしい。
 しばしの間、斎藤ヨシヱの整い過ぎた横顔を見つめる。
 どのくらいの時間が経っただろうか。
 彼女は漸く私に気付いたようで、その切れ長の瞳をゆっくりと私の方へと移動させた。
 そして私を視認すると、薄く口角を吊り上げて、いつもの人を小馬鹿にしたようなシニカルな笑みを浮かべる。
「こんにちは。久しぶりね、タロウ君」
 氷を連想させるような、冷え切った声。
「こんにちは、斎藤先輩。本当にお久しぶりですね」
 私は軽く会釈をすると、靴を脱いで畳に上がった。
 そして部屋の隅に積まれている紫座布団を一枚持って、彼女の前でそれを敷き、その上に座った。
 それきりだった。
 二人の間に、特に会話は無い。
 斎藤ヨシヱは気が向いた時にしか私と話さないし、私自身も無理に彼女と話をしようとは思わなかった。
 一日中会話をしないまま、そのままお開きになるなんてことも、決して少なくはない。
 私は、彼女の側に置かれている急須等のお茶セットを見た。
 今日は、お茶を出してくれないみたいだな、と思った。
 茶道室を尋ねた時は、必ず最初に彼女がお茶を出してくれるかどうかを確認するのが常だった。
 斎藤ヨシヱは、機嫌が良い時は私にお茶を振る舞ってくれるのだ。
 今日は出してくれないみたいだけど、別段不機嫌という風にも見えないので、可もなく不可もなくといったところなのだろう。


64 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:24:05 ID:Gejk2pPM
 私は彼女の機嫌確認を終えてしまうと、何となく手持ち無沙汰になり、いたずらに視線をさ迷わせていた。
 ふと、斎藤ヨシヱの脚が目に入る。
 スカートから伸びる彼女の長い脚には、ソックスが着けられていない。
 そのせいか、陶磁器のように白い肌が、畳の緑色に反してよく映えていた。
 斎藤ヨシヱは畳に上がる時、必ずソックスを脱ぐ。
 理由は知らない。
 何故ソックスを脱ぐのかを聞いてみたかったりするのだが、彼女の脚に多大なる感心を寄せていることを悟られてしまうのは非常に不本意なことなので、未だに聞けずにいる。
 私が彼女の脚をまじまじと見つめていると
「二週間振りくらいかしら」
 と、斎藤ヨシヱが不意にそんなことを言った。
 一瞬、独白かと思って黙っていたのだが、彼女がちらりと私に視線を寄越したことで、どうやら話し掛けていたらしいことに気付く。
「ええ、そのくらいになると思いますよ」
 慌てて相槌を打ってみたけれど、彼女は何の反応も示さずに、黙ってお茶を啜った。
 会話を広げる気は無かったみたいだ。
 しかし、せっかく見つけた会話の糸口。このまま終わらせるのも少し惜しい。
 私は自分から話し掛けてみることにする。
「そういえば、斎藤先輩って茶道部なのにちゃんとしたお茶をたてたりしませんよね」
 私は、彼女の側に置かれている電気ポットを見ながら言った。
「もしかして、本当はたてれなかったりします?」
「別にたてれないわけじゃないわよ」
 私の問いに、斎藤ヨシヱはあっさりと否定する。
「ただ、お茶をたてるのには色々と準備が必要で凄く面倒なの。その上、大して美味しくもないからたててないだけ。最初に興味本意で一度やったきりで、それからは触ってもないわ」
「随分とまあ、茶道部員らしかぬ言い草ですね」
「そうね」
 そこで再び、彼女との会話が途切れた。
 毎度思うが、斎藤ヨシヱとの会話はいつも絶望的なまでに広がらない。
 彼女は基本的にお喋りじゃないし、加えて気まぐれだからなあ。それとも、まだ私との好感度が高くないのかしら。


65 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:25:25 ID:Gejk2pPM
 そうやって次の会話のタネを考えていると、ふと、頭の隅にひっかかるものがあった。
 そういえば、彼女に聞きたいことがあった気がする。
 なんだったっけ。
 しかし、意外とすぐにそれは思い出せた。
「斎藤先輩。ひとつ聞きたいことがあるんですけど、よろしいでしょうか?」
 斎藤ヨシヱは何も言わず、目だけで先を促した。
 それでは、と私は居住まいを直し、しっかりと彼女の瞳を見据えた。
 なるべく真摯な態度で聞かなければ、ふざけていると思われるかもしれないからだ。
 私は真面目っぽく、重々しい口調で言った。
「斎藤先輩は、私が誰かから好かれるような人間に見えますか?」
 ゆらゆらと湯呑みを揺らしていた彼女の手が、接着剤みたいにピタリと止まった。
 それから長い間をおいて、探るように聞く。
「それは、どういう意味の好きなのかしら?一概に好きと言っても、様々な意味の好きがあるけれど」
「うーん、そうですね……」
 私は、ふむと顎を撫でた。
「しいて言えば、ライクではなくラブのほうの好きです」
「Love」
 彼女は流暢な発音で言い直した。
「つまりは恋愛の好きということね」
「そうなりますね」
「そう」
 彼女は持っていた湯呑みをコトリと盆の上に乗せた。
「……そう」
 そして悲しげに目を伏せて、そっと口元を手で覆う。
 私に背を向けるようにくるりと半回転すると、小さく肩を落とした。よく見るとその肩は小刻みに震えている。
「……先輩?」
 斎藤ヨシヱの突然の異変に、私は大いに戸惑った。
 いきなり、どうしてしまったのだろうか。
 お腹でも痛くなってしまったのだろうか、と最初に思った。
 いや、そうじゃない。
 私は思い直す。
 どうせ私のことだ。無意識の内に彼女を傷付けることでも言ってしまったのかもしれない。昔から、そういうことは多々あった。
「すいません、先輩。気を悪くさせてしまったみたいで」
 私は思わず、彼女の肩に手を伸ばした
「……んっ?」
 のだが、異変に気付き、伸ばした手を途中で止める。
 何か、聞こえた。
「……ふっ、ふふふ……」
 それは、押し殺すような小さな笑い声。
 斎藤ヨシヱの口元から、くつくつと笑い声が漏れ出ていた。


66 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:26:45 ID:Gejk2pPM
「……やだぁ、おかしい……くくく……お腹、お腹痛い……たっ、タロウ君……ちょっと待って……」
 …………。
 待てと言われたので、おとなしく待つことにする。
 それから、十分後。
 そこには、いつも通りの皮肉な笑みを浮かべた斎藤ヨシヱがいた。
 しかし、その笑顔はどこか不自然に歪んでいる。というか、全然シニカルじゃない。頬の辺りがぴくぴくと引き攣っている。
「ちょっとタロウ君。いきなり笑わせないでくれるかしら。あたし、こう見えても結構キャラって重視するほうなのよ」
 そうだったのか、と私は思った。
 それなら随分と申し訳ないことをしてしまったみたいだ。
 すいません、と私は素直に頭を下げる。
「本当よ、全く。もうあんなこと言うのは金輪際止めてよね。あんな……あんっ……くっ……ふふっ……あはは」
 ……さらに十分後。
「ああー、笑った笑った。こんなに笑ったのは久しぶりね。ありがとう、タロウ君。おもしろかったわよ」
「……どうも」
 斎藤ヨシヱは急須を手に取ると、湯呑みにお茶を注ぎ、私に手渡してくれた。
 私は、ありがとうございますと礼をして、湯呑みを受け取った。
 どうやら機嫌が良くなったらしい。
 確かに、彼女は過去に例が無いくらい上機嫌に見えた。
 別にニコニコと微笑んだりしているわけじゃないが、何と無く楽し気なオーラが発せられているのを感じる。
「それで、質問だったわね」
 そんな和やか雰囲気とは打って変わって、斎藤ヨシヱの顔が急に真剣なものに変わる。
 切替の早い人だな。
 私も幾らか緊張しながらも、聞く姿勢を整えた。
「質問は、あなたが異性から好かれるかどうか、で合ってるわよね?」
「はい」
「そう」
 彼女はそこで、思い出し笑いのように一度笑ってから、ゆっくりと口を開いた。
 答が告げられる。
「そんなの、無理に決まってるじゃない。あなたみたいな人間が誰かに好かれるなんて、不可能よ」
 量刑を宣告する裁判官のような口調で、斎藤ヨシヱはそう断言した。
 彼女の宣布に、私の心がずんと沈むのを感じる。
 不可能、か……。
 薄々、そんなことを言われるのではないかと予想はついていたけど、実際に言われるとやはり傷付く。
 そんな、不可能とまで言わなくても……。もうちょっと、希望を残す言い方をしてくれてもいいじゃないか。


67 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:28:10 ID:Gejk2pPM
 しかし斎藤ヨシヱは、そんな傷心中の私にも構わず続けた。
「いい、タロウ君?人間関係に置いて最も重要なのは相互理解よ。相手のことを理解し、相手にも自分のことを理解してもらう。そういう感情的な対応を含む、個人と個人との関係において人間関係は成立しているの
「あなたにはわからないと思うけど、他者を理解するのはとても難しいことなのよ。自分ならともかく、相手を完全に理解するなんてそれこそ無理なのだから当然ね。
「けど、人間というのはそれでも相手を理解していこうとしていく。そういう性を持つ生き物なの。けれど、あなたは――」
 斎藤ヨシヱは、不敵に微笑む。
「他人どころか、自分のことすら理解していないじゃない。そんな人間が誰かに好かれるかだなんて、ちゃんちゃらおかしい話ね。本当、戯言も甚だしい」
 斎藤ヨシヱは、まるでそのことが不変の真理であるような言い方をした。
 一片の毀れも感じない、揺るぎのない自信を感じる。
 彼女はきっと、私が人に好かれるのと明日地球が滅びるのとじゃ、間違いなく後者を選ぶことだろう。
「……はぁ」
 私はそこで一度、大きく溜め息をついてみせた。
 勿論、わざとだ。
 自分の不機嫌さをこれっぽっちも隠そうともしない。
 こういう態度をとるのは我ながら珍しいことなのだが、しかし彼女の言い方はとても癪に障った。
 さすがに、今のはカチンときた。
「あら?どうしたのタロウ君。なんだか怒っているみたいだけど」
「怒っているんです」
 誰だって、二日連続で化け物扱いされたら不機嫌にもなるだろう。
 私は苛立ちを含んだ口調で言った。
「先輩は時たま、私のことを何の心も無いロボットみたいに言う時がありますけど、はっきり言ってそれは間違いですよ。全然違います。
「確かに、私には人がわからない時がありますよ。それは認めますけど、だからと言って、そのことが私に感情が無いということに繋がるわけではないでしょう?現に今だって、先輩の言葉に怒っているじゃありませんか」
「それも演技かもしれない」
「演技って――」
 腹の底から込み上げて来た言葉を、なんとか飲み込む。
 少し、熱くなりすぎていた。私らしくもない。冷静になれ。
 心を落ち着かせるために、長く、深い息を吐いた。


68 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:30:07 ID:Gejk2pPM
 斎藤ヨシヱは、そんな私の様子を冷めた目で見ながら、愚者を説き明かすように続けた。
「だっておかしいじゃない。感情はあるのに人がわからないなんて。はっきり言って矛盾してるわよ」
「矛盾?」
 私は繰り返した。
「そうね……」
 何やら思案顔で彼女は言う。
「タロウ君、あなた痛覚はある?」
「あるに決まってるじゃないですか」
「あら、そうなの?それは驚きね。けど、それなら話が早いわ」
 斎藤ヨシヱはそう言うと、いきなり自らの腕に爪をたて、思い切り皮膚を引き裂いた。
 荒々しい切傷が一つ出来、赤黒い血が一筋、白い肌を伝っていく。
「タロウ君。あなたはこの傷を見て、これがどの程度の痛みかがわかる?」
「えっ?ああ、はい」
 忽然の出来事に、呆気にとられていた。
「まあ、漠然とですが一応」
「そうよね。では何故、あたしが負っている傷を、当事者でないタロウ君が憶測することが出来るのか。それは、まず大前提としての“痛覚”それと“経験”があなたにはあるからよ」
「“痛覚”と“経験”、ですか……」
 何やらまた小難しい話が始まったな。
「あなたは今、過去に経験したことのある同程度の切傷を想像し、それをあたしに投影することによって一時的に痛覚を共感しているの。だから、この切傷の痛みがわかる」
「この言い方だと“経験”が絶対必要みたいに聞こえるけれど、実際はそうじゃない。実を言えば、この“経験”の方は大して重要じゃないの。
「なぜなら、相手と同じ経験をしたことがなくたって、過去に自分が経験したことのある“他の類似した経験”を相手に投影すればいいだけの話なのだから。十二分に用は足りるわ。
「つまり、マザーボードである“痛覚”さえあれば、後はいくらでも勝手がきく。そのことはわかった?」
 私は頷いた。
 多少こんがらがりはしているが、なんとか理解出来た。
 これは、生理痛を使って例証してみればわかりやすい話だ。
 女性固有の苦しみである生理痛を、男性である私が経験するのは身体の構造上不可能なことであるが、彼女の言うマザーボードである“痛覚”さえあれば、相手の眉をしかめた顔、お腹をさする動作などを見て
 今までに自分の経験したことのある、例えば腹痛などの痛みを想像し、それを相手に投影することによって、想像上ではあるが、一時的に生理痛の苦しみを共感することが出来る。


69 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:31:41 ID:Gejk2pPM
 他者との痛覚共感。
 彼女が言っているのは、おそらくそういうことだろう。
 けど――
「それがなんだって言うんですか?」
 話はわかるが、言いたいことがわからない。
 寓話のつもりで話しているのなら、何かしらの教訓や諷刺があるはずだ。
「相手を理解するというのも、それと同じことなの」
 斎藤ヨシヱの論説は続く。
「つまり、今言ったことを高度に応用させたものが他者を理解するということなのよ。自分の持っている“感情”を相手に投影し、共感する。簡素に言ってしまえば、そういうことになるわね。
「だから、そのセオリーでいけばおかしいのよ。“感情”があるのに、人がわからないというタロウ君が。
「さっきも言ったけど、大元の“感情”さえあれば、個人差はあるけれど、それなりに他者を理解することは出来るわ。普通、あなたほどの異常者は生まれない。
「“感情”があるのに人がわからない。タロウ君はそう言うけど、あなたはこれを矛盾と言わずに何と言うのかしら」
 斎藤ヨシヱはそう言って、貶るように私を見た。
 その瞳には絶対の自信を感じる。
 彼女は本当に自分に自信がある人なんだな、と思った。
 しかし、彼女のそれは、少し盲目的過ぎる気がした。
 斎藤ヨシヱは間違っている。私はそう確信する。
 確かに、彼女の言うことはそれらしく聞こえた。私自身、ふむふむと頷き返してしまった程だ。
 けど、それは只それらしく聞こえただけに過ぎない。
 なぜなら、彼女は私に心が無いということを前提に話を進めていたからだ。
 私には心がある。
 その反例が存在する時点で、まず話の前提自体が成立していないのだ。前提が崩壊しているなら、論理も崩壊している。斎藤ヨシヱの見解も、一笑に付すべきものであるのに違いはない。
 独断と偏見に満ちた教条主義的な考え。
 はっきり言って、先輩は間違っています。
 私が一言、そう言ってしまえばいいのだ。


70 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:33:28 ID:Gejk2pPM
 そう思っているのに、なのに――
 私は何も言えなかった。
 理由はわかっている。
 心の奥底で、彼女の言葉に納得してしまっている自分が居るからだ。
 きっと、その時点でもう駄目なんだろうな。
 認めたくはないが、私も異常者なのかもしれない。
「それでも、私にはちゃんと心があります」
 そう言う私の声も、どこか力弱く感じた。
 それから、気まずい沈黙が流れた。
 いや、それは思い違いだろう。
 気まずいと感じているのはきっと私だけだ。斎藤ヨシヱは、そういうことを気にするような人ではないし。
 そんな彼女が口を開いたのは、唐突だった。
「さっきはああ言ったけど、あなただって、もしかしたら誰かと付き合えるかもしれないわよ」
 そう言う斎藤ヨシヱの声には、幾らかの親しみが感じられた。どうやら、彼女なりにフォローしてくれているらしい。人を慰めるなんて、斎藤ヨシヱにしてはかなり珍しいことだった。
「そもそも人間というのは社会に適応するための表明的な人格、所謂ペルソナを着けて生きている。そのくらいは知っているわね?
「それを踏まえて言えば、恋愛なんてのは所詮、互いのペルソナを好き合っているのに過ぎないのよ。見ているのは相手の仮面だけ、中身なんて誰も見ちゃいないわ。
「だから、タロウ君も仮面を着けてしまえばいいのよ。視界を確保する穴さえ塞いでいるような分厚い仮面をね。いえ、あなたの場合は仮面どころか、甲冑でも着けなきゃ駄目でしょうけど
「でもタロウ君、忘れないで。嘘っていうのはつくのは簡単だけど、つき続けるのは至難の業よ。あなたは嘘に綻びが生まれぬよう、常に最大限の注意を払わなくてはいけない。
「幸い、タロウ君は決して容姿が良い方じゃないけど、壊滅的ってほどでもないし、あなただって頑張れば――」
 と、斎藤ヨシヱは、何故かそこで一度言葉をつぐんだ。
 それから独り言のように、ぶつぶつと呟き始める。
「いや……でも、タロウ君だしな……しかし……うまく騙せば……けど……やっぱり……厳しいか?………………」
 そして、遂に何も言わなくなった。
 フォロー失敗。
 なんだかなあ。人を慰めるなんて、慣れないことをするからだよ。


71 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:35:01 ID:Gejk2pPM
 しかし、斎藤ヨシヱはやはり泰然自若としていた。
「まあ、いいじゃない彼女なんか出来なくたって。タロウ君は今の所はまだ、クラスでうまくやれているのでしょう?だったらまずは、その奇跡に感謝しなくちゃ。そもそも、あなたが恋人だなんて高望みしすぎなのよ」
「そうかもしれませんね」
 と言いながら、私は出された湯呑みに手を出していないことに気づき、ぐいっとそれを飲み干した。
 お茶は既にぬるくなっていた。
「話は変わるけど」
 斎藤ヨシヱが聞く。
「どうして、突然こんなことを聞く気になったの?自分が誰かに好かれるかなんて、随分とあなたらしかぬ質問だったけど」
「ああ、それはですね。実を言うと、昨日私に人生初の恋人が出来まして」
「へー、よかったじゃない。さすが、たろうくんね」
「……信じてませんね」
「やあねぇ、信じてるわよ」
 そう言って、斎藤ヨシヱはけらけらと笑った。
 私は驚いた。
 嘲笑以外の彼女の笑顔を見るなんて、果たして何時以来だろうか。
 色々と辛辣な言葉を浴びせはしたが、やはり根っこの部分では相当に機嫌が良かったらしい。
 何がそんなに嬉しかったのだろうか。
「さてと」
 斎藤ヨシヱは近くで転がっていたソックスに手を伸ばし、それを身につけ始めた。
 どうやら、今日はもうお開きらしい。
 いや、今はそんなことはどうでもいいか。それよりも――
 私は彼女の下半身を凝視した。
 ソックスを履く時、斎藤ヨシヱがいい感じに膝を曲げているので、でスカートの中が見えそうになっている。
 見えそうになっているのだが、何故か見えない。
 これは、おかしい。
 私は首を傾げた。
 さりげなく首を動かしたりして角度を変えてみたりするが、やはりどの位置から見ても、うまい具合に彼女の足先が邪魔になってどうしても見えない。
 まるで全年齢対象のギャルゲーみたいだ。
 私がそうやって下着を見ようと四苦八苦している内に、斎藤ヨシヱはソックスを履き終えてしまった。非常に残念だ。


72 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/06/28(月) 14:36:49 ID:Gejk2pPM
「それじゃ、片付けお願いね」
 彼女はそう言って立ち上がる。
 私のお茶を飲む飲まぬに関わらず、片付けに関しては私の仕事だった。
「わかりました」
 私も立ち上がり、紫座布団を元の場所に戻してから、片付けを始める。
 斎藤ヨシヱは、そんな私の横を通り抜けて、茶道室を出て行った。
 私がせっせと湯呑みや急須を盆の上に乗せて、片付けに勤しんでいる時。
 それは風に乗って、私の耳に届いた。
「それでもあたしは、タロウ君のことが大好きよ」
 後ろを振りむく。
 しかし、斎藤ヨシヱの姿は既に無く、パタリとしまる扉が見えるだけだった。
 私はしばらく扉を見つめた後、ぽつりと呟いた。
「大好き、か……」
 下手な嘘だな、と思った。
 彼女が私に好意を抱くなど、万が一にも有り得ないことだった。
 斎藤ヨシヱがこうやって私と会っているのは、彼女が私に興味があるからに過ぎない。
 飽きてしまえば、何の未練や惜別の念も無く、さっさと棄てられてしまうだろう。
「それは嫌だな……」
 私としても、たった一人の友人を失うことは非常に惜しいことだった。
 彼女とはまだ、友達でいたい。そう思った。
 けど、今はそれよりも考えることがあるか。
 斎藤ヨシヱは私の疑問をひとつ解消してくれたが、そのおかげで再び、新たな疑問がまたひとつ生まれてしまった。
 ――あなたみたいな人間が誰かに好かれるなんて、不可能よ。
 彼女は、そう断言した。
 別に斎藤ヨシヱの言っていることを全面的に肯定した訳ではないが、私が人に好かれ難いと言う点については同意出来る。自分のことは、自分が一番よくわかっていた。
 しかし私は、現在進行形で私のことを好いてくれている少女を、一人知っている。
 田中キリエ。
 彼女はどうして、私のことを好きになったのだろうか。
 畳に伸びる自身の影を眺めながら、しばらく考えてみたが、私にはやっぱりわからなかった。