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606 :名無しさん@そうだ選挙に行こう [sage] :2010/07/10(土) 17:54:09 ID:Quc4CfIF
昨日とは逆に、彼女が普段使っているバス停に二人で降り、木村邸へと招き入れられることになった。
誘われるままについてきてしまったのは、勿論特に予定がなかったからではあるが、きちんと目的もある。木村千華に、とても聞きたかったことがあることを思い出したからだ。

どうやら他に人はいないらしく、スリッパを薦められた後、静まり返ったリビングへと通される。
「座ってて。着替えてくるから」
そう言い残し、彼女は颯爽と二階への階段を上っていく。それを呆然と見送ってから、家全体を見渡してしまった。
リビングは吹き抜けになっていて、天井にシャンデリアのようなファンが存在している。大きな革のソファが二つ、それに挟まれたガラスのテーブルが一つ。
ソファに座ってみれば、巨大なプラズマテレビが壁に掛けられているし、絵画やら壷やら、もう至るところにそれらしいオブジェクトが見受けられる。普通の住宅街にある普通の一軒家と見せかけて、中身は完全に金持ちの家であった。
こういう家には犬か猫がいると思ったが、ペットがいる気配はなかった。綺麗な木目の床には傷がないし、思えば彼女の長かった髪は、動物にじゃれつかれると大変なことになる気がする。
なんにしても、待つだけで若干の緊張が生まれるリビングに違いなかった。


607 :名無しさん@そうだ選挙に行こう [sage] :2010/07/10(土) 17:55:15 ID:Quc4CfIF
着替えて戻ってきた木村千華は、そのままキッチンへと向かい、料理を始めた。
予想通りというか、黒系のフリルの付いたドレスのような服が、彼女の私服のようだ。それが趣味とは言え、手作業するために少し動きやすいデザインのものを選んでいるのかな、とは思った。
その上から白いエプロンと、それらとは別の黒い布で髪をまとめていた。つい先日まで、それであの長い髪を料理の作業からブロックしていたのだろう。
彼女のお礼は、手料理を振舞うことだというのは、バスの中で先に聞かされていた。料理には自信があるんだとか。

「おお、美味い」
そんな直球の感想をこぼすと、彼女はテーブルの向かい側で満足そうな笑みを浮かべた。
巨大なテレビを見ながら待つこと小一時間、ダイニングテーブルに並べられた彼女の手料理は、ごく一般的なものだった。ご飯に味噌汁、鳥の唐揚げにサラダ。シンプルだからか、美味そうに見えたし、実際に美味かった。
「普段から料理するのか?」
「うん。毎日、自分で作ってる」
そう言いながら、彼女もまた、食事に手をつけていく。
「ひょっとして、子供の頃から自分で料理してるのか」
「そうだよ。十歳からだから、もう五年以上」
道理で料理が上手いはずだ。料理の細かい味付けから何から、熟練のそれであり、自信があるのも頷ける。同い年でこんな料理らしい料理を出す人間は初めてだった。
料理ができるというか、こういうのは食事を用意できるとでも言えばいいのか。カレーを作るのが精一杯な、どこぞの友人とは格が違う。
そして、彼女には料理を作ってくれる家族はいないのだということも、推測できた。


608 :名無しさん@そうだ選挙に行こう [sage] :2010/07/10(土) 17:56:30 ID:Quc4CfIF
「大須賀君」
ごちそうさま、と心を込めて言うのも新鮮だ、などと思っていると、皿を片付けて、再び向かいに戻ってきた木村千華に名前を呼ばれた。
「昨日は、本当にありがとう。私、改めてお礼が言いたかった」
正面から目を合わせ、そう言う彼女に、いや、と口ごもってしまう。照れくさくて何と返答していいのかもわからずにいると、彼女が続けて口を開く。
「私ね、自分の髪が好きだった。でも昨日、いろいろ、あって。自分の髪を好きなことが、気持ち悪いことだって、思ったの」
それから自分を見るように、彼女は少しだけ目を伏せる。
「だからきっと、あの時嫌いになったのは、髪じゃなくて、自分自身」
彼女の告白は、あの時の心情のこと。
「大須賀君が髪を切ってくれてる間に、凄く落ち着いて、考えられたの」
少しでも落ち着くことが出来れば、安らぐ時間になれば、そんな狙いが、しっかり成功していたことは良かったんじゃないかと思った。
「今までの私は嫌いになったけど、だったらこれからどうしようかなって、思えた。あの時、鏡に映った自分が、別人みたいで、私はこれから、変わればいいんだと思った」
「それは」
あの時に考えていたこと、そのままなんじゃないだろうか。
好きだったものが嫌いになっても、嫌いになったものがまた好きなったりする。嫌いだったものが変わるのか、嫌いだと思う自分が変わるのか、その違いはあるかもしれないが。
思い入れが強かったなら、尚更だ。未練を断ち切るなんていうのは、そんなに簡単にできることじゃない。ずっと引きずって、余計に嫌いになっていってしまうこともある。だけど、変わることだって、ある。
「俺はさ、木村に自分の髪を嫌いになってほしくなかったんだよ。嫌いになっても、また好きになれたらいいって思うから。あんな伸ばして手入れして、拘ってた髪なんだから、嫌いになって終わりじゃあ、駄目だろ」
口に出してしまってから、再び彼女に見つめられていることに気付く。というか、彼女はやたらと正面から目を合わせてくるので、とてつもなく照れくさい。そして照れくさくなるような台詞を言った後だから、なおさら恥ずかしい。
赤面してしまっていることを自覚したところで、話を区切ることにする。
「だからさ、必要なのはきっと、ゆっくり落ち着いて考えて、自分を見つめ直すことじゃねえかなって、思う」
「……うん」
そして彼女はまた、笑うのだった。


609 :名無しさん@そうだ選挙に行こう [sage] :2010/07/10(土) 17:58:36 ID:Quc4CfIF
最後にもう一度、ありがとうとお礼を言われて、木村千華の家から帰宅することにした。徒歩で自宅へ向かう道中、考えることは当然彼女についてだった。
彼女は思ってたよりずっと口数が多いらしい。無口で無愛想なんて印象は、彼女の側面的な顔であり、実際はよく笑い、よく喋る普通の子に思える。
暗い子ではなく、物静かな子なのかな、といった認識に改めると、彼女が髪を切ったという事実がより際立ってくることになる。素直で誠実でおとなしい少女が、激情に任せて自分の髪をその手で切り落とすなんてことがあるだろうか。
彼女の言う、いろいろあったというのは、一体どういうことなのか。
自分の髪が好きだった自分が気持ち悪くなったと言っていた。だったら、気持ち悪く感じた原因があるはずだ。劇的に感情を揺さぶられるような、大きな原因が。
でも、彼女はそれを語らなかった。言いたくなかったからだろう。知りたいな、とは思ったが、聞くわけにもいかない。
そうして自宅まで帰ってきて、彼女に聞こうと思っていた大事な用件をすっかり忘れてしまっていたことを思い出した。こう、このタイミングを外すとどうにも聞きづらくなってしまいそうだが、もう手遅れだ。
まあまたその内、機会があったときに聞こうと思った。今度は忘れないように。

店の裏側、外灯の点いていない暗い家の玄関の前に、携帯電話を見つめる松本尋が立っていた。