※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

262 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:30:39 ID:jN9t6SPz

 彼は、これまでに自分に深く関わってきた女性のことを覚えていない。
 それは酷い健忘症を患っているからではなくて、原因があって、どうしても思い出せなくなったのだ。
 自分の住居に押しかけて来てまで、女性遍歴を問うてくる彼女を前にして、彼はそう説明した。

「嘘でしょう? 本当は覚えているんじゃないの? ねえ、本当に忘れてしまったの?」
 嘘ではない、と彼は言った。
「本当かしら? もしかしてごまかしているんじゃないか、って私は思うのだけど」
 静寂の中、ピチョン、という音が台所から聞こえた。
 自分の動揺が水道水にまで伝わっているのではないかと、彼は疑った。
「あなた、これまでに付き合ってきた女性がいるんでしょう」
 少し考えてから、彼は頷いた。
「ねえ、その反応が返ってくるだけで、私の頭蓋の中が熱されて溶けそうになるって、わかっている?
 妬ましくて、羨ましくてしょうがないわ。私の先に、あなたに触れていた女がいるなんて。
 今すぐにそこの白い壁をぶち破って、その女のところへ行って、壁の補修に使ってやりたいぐらいよ。
 ああ、どうしようかしら。こうなったら、こんなになってしまったなら――もう我慢はしないわ」

 女性が力任せに彼を押し倒した。
 彼は特に抵抗することもなく、その身を委ねていた。
 女性がブラウスのボタンを、一つ一つ外していく。
 胸元の最も盛り上がった部分のボタンを外したら、窮屈からようやく解放された淡い色の下着が震えた。
 ふくよかな乳房を寄せ、彼の肉欲を表面へと誘い出そうとする。
 彼の手を掴み、露わになった穢れのない白色の腹部を撫でさせる。
「これから、あなたの熱いので、ここを満たしてもらうわ。
 いくらでも出していいわ。全て、一滴も残さずに受け入れてあげる。
 他の女なんか見られないように。私だけしか見られないように、ね」
 いよいよ、彼の手が彼女のスカートの中へと導かれる。
 あと少しというところになって、彼が抵抗をしてみせた。

 彼は、私のことが好きなのか、と問いかけた。
 彼女は押し黙った。彼の言葉に苛立ったのか、眉をひそめて睨み付ける。
 しばらくの間、部屋を静寂が支配した。
 沈黙を破ったのは、とうとう諦めてかぶりを振った女性の方だった。
「……言わなくてもわかるでしょう、そんなことは。言わせないで頂戴」
 気持ちが通じ合っていないのに体を重ねたくない、と彼が言った。
「そう。そこまで言うんだったら言うわ。好きよ」
 溜めの一切ない返事だった。
「出会った時から、ずうっとあなたばかり見てきたわ」

 私も同じ気持ちだ、と彼は応えた。
 彼女の顔に目、鼻、口といった部品が無くても、気味の悪さを覚えることなく、すらりと口に出来た。



263 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:35:11 ID:jN9t6SPz

 彼は生まれてからごくわずかな時間しか、産んでくれた母親と一緒に過ごしていない。
 一時間、もしくは数十分という時間。
 たったそれだけの間に思い出を作れるはずがない。もしそれがあっても、生後間もない赤ん坊が覚えているわけがない。
 だから彼は母親を知らない。いや、実の母を知らない。
 さらに父親も居なかった。
 彼の母親は結婚はおろか、子作りをした覚えもなかった。
 男遊びが過ぎて避妊し忘れたのか、強引に犯されて妊娠したのか、誰も知らない。
 真相を知っているのは彼の母親だけ。彼の母親の家族も知っているかもしれない。
 いずれにせよ、彼には真相を突き止めることなど不可能だった。

 両親のいない彼は、彼のような子供達を引き取る施設に入ることになった。
 そこでは家族もできた。
 父親と母親の代わりになってくれる大人はいなかったけれど、たくさんの兄、姉、弟、妹が居たから寂しくなかった。
 家族と一緒に、幸せに楽しく、のびのびと生きていた。
 家族の名前は、成人になっても忘れることはなかった。
 二人の女の子を除いて。

「はいあなた、めしあがれ」
 一人は姉。ままごとをするのが好きだった。
「だめ。こっち、たべて」
 一人は妹。姉に張り合い、姉と彼のままごとに混ざってきた。
 二人の年齢まで彼は覚えていない。ただ、そこまで離れていなかったはず、ということは記憶していた。
 特に印象に残っているのは、二人の目だった。
 喧嘩する時であっても、目の輪郭は美しいままだった。
 瞳の中で星が輝いているように、いつだってキラキラしていた。

 ある日、姉と妹は彼に向かって、揃って口にした。
「わたし、あなたのことが好き」
「好き。だからけっこんしてね」
 その場でどうしたのか、彼は覚えていない。
 どちらも選ばなかったのか、どちらも好きだと言ったのか、どちらか一方を選んだのか。
 ちょうどその日に酷い悪夢を見てしまったから、印象が薄くなってしまった。

 目を抉り取られる悪夢だった。
 肥大化した筋肉を体中に纏った鬼二人が、彼のまぶたを指で摘んで、毟り取った。
 鬼の手に生えている鉤爪が彼の眼球を貫き、外へと引き抜こうとする。
 ぎゅり、ぎゅり、ぎゅり。
 ちぎれる音がして、彼の眼球は鬼の手の中に収まった。
 鬼は美味しそうに眼球を頬張ると、礼だと言って、空洞になった部分を埋めた。
 顔の皮を伸ばして埋めるようなやり方だったから、彼の目は元には戻らなかった。

 彼はあまりの恐ろしさに飛び起きた。そこは暗くなった部屋の中だった。
 周りで眠る家族を起こさないように、彼は布団を抜け出して、外にでた。
 何度確かめても、夜空の星も月も、黒々とした木々も、はっきりと目にすることができた。
 安堵した彼は、近くにあった切り株の上に座り、その場で眠ってしまった。

 翌朝、彼が目を覚まして施設に戻ると、施設は燃やし尽くされ、炭になっていた。
 一緒に燃やされたみたいに、告白してきた二人の女の子の名前は、彼の頭の中から消えた。



264 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:39:14 ID:jN9t6SPz

 とある家族の家に引き取られた彼は、実の子のように愛された。
 彼を引き取った夫婦には子供ができなかった。夫婦にとって、彼が初めての子供だった。
 血が繋がっていなくても、夫婦は気にせず彼に愛情を注いだ。
 彼もそれに応えた。たくさん話し、たくさん遊び、たくさん怪我をした。
 怪我をする度に夫婦は優しく治療してくれた。
 ただ、夫婦がどれだけ優しい目で自分を見ているのかわからないのが、彼には不満だった。

 かつて住んでいた施設から出て以来、彼は他人の目が見えなくなった。
 大人も子供も、本来目があった位置に深い洞をつくっていた。
 彼は一度、夫婦に向かって聞いてみたことがある。
「どうしておとうさんとおかあさんには目がないの?」
 問われても、夫婦は笑うだけだった。可愛い子供が悪戯を仕掛けてきた、と思った。
「よく見てごらん。お父さんとお母さんにはちゃあんと目が二つあるじゃないか」
 問う度に、彼は同じ言葉を聞くことになった。

 保育所でも、彼には他人の目が見えないままだった。
 目が見えなくても、頬と唇の動き、身振りで、他人の意志を彼は読み取ることができた。
 それでも、他人の目が見えないという事実は彼の考え方に影響を与えた。
 自分は他の人間と違う。他の人には目が無いけど、自分にはある。
 次第に彼は保育所の子供達を見下すようになった。
 普段は表面には出さなくても、ささいなところでそれは現れた。

 ある日、彼は部屋の隅に集まる子供達を見た。
 泣いている女の子が居た。いじめている現場だった。
 鳴き声と罵倒する声にいらいらした彼は、子供達の中に分け入った。
 いじめの理由を問うと、子供達は口を揃えてこう答えた。
「だってみろよ、そいつ目がおかしいんだ」
「きもちわるいじゃんか。おばけだよ、そいつ」
 いじめられている女の子の顔を見ても、本来あるべき目が彼には見えない。
 いじめをやめない子供達に対し、とうとう彼は腹を立てた。
 一番背の高い男の子の顔には、深い洞があった。そこへ向けて彼は指を突き立てた。
 背の高い男の子は悲鳴を上げてひっくり返った。
 それを見て、蜘蛛の子を散らすように周りの子供達は逃げていった。

「ありがとう。たすけてくれて」
 泣き止んだ女の子が彼に礼を言った。二つの洞の周りには涙を拭った跡が残っていた。
 彼と女の子は、それからよく遊ぶようになった。
 背の高い男の子を倒したことで、彼は子供達から怖がられるようになっていた。
 それでも、女の子は彼の傍から離れようとしなかった。
 女の子と話しながら歩いている時、少し背の高い彼は見下ろす形になる。
 女の子の髪の毛は長かったが、もみあげだけは短かった。
 どうしてそこだけ短いのかと、彼は疑問を持つようになった。

 ある日、女の子が保育所から帰りたくないと言ってだだをこねた。
 彼の傍にいたい、離れたくない、ということを言っていた。
 困り果てた保育所の先生達は、彼に説き伏せるようお願いした。
 また明日会おうと言うと、女の子はこう言った。
「じゃあ、これからずっといっしょ? けっこんしてくれる?」
 結婚がどんなものかわかっていない彼は、深く考えずに頷いた。
「ほんとうに! わたしも大好き!」
 その晩、彼は悪夢を見た。鬼の手によってもみあげを皮ごと引きちぎられる夢だった。

 翌日、また会おうという約束は果たされなかった。女の子はそれきり彼の前から姿を消した。
 保育所の子供達に聞いても、先生に聞いても、誰一人として彼の問いかけをまじめに聞かなかった。
 誰も彼もが困ったように、つるつるになったもみあげのあたりを指で引っ掻いていた。



265 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:42:13 ID:jN9t6SPz

 小学校に通うようになると、彼はあることに気付いた。
 遠足で撮った写真を見たとき、写真の中にいる人物の目と、彼の目が合った。
 何度確認しても、目のない人間、もみあげのない人間はどこにも居なかった。
 そのことから、彼はある事実を掴んだ。
 直接他人を見ると、目ともみあげの欠けた顔を見ることになる。
 しかし、何かに映り込んだ他人の顔ならはっきり見える、ということ。
 写真だけではない、テレビの中にいる人物であっても同じことだった。

 これまで抑圧されてきた反動で、彼は他人の顔が写る媒体に夢中になった。
 両親の写真をいつでも持ち歩くようになった。
 家に帰ったらすぐに父親のカメラを借りて、友達の所へと遊びに行った。
 家の中で過ごす時は、いつだってテレビの画面に釘付けになっていた。

 彼の友達の中には、写真を撮られたくないと言う女の子も居た。
 どうして撮られたくないのかと問うと、写真が嫌いなんだと強い口調で言われた。
 写真とテレビに夢中で宿題を全くしない彼と、宿題をちゃんとやる写真嫌いな女の子は対照的だった。
 対照的でも仲の良い二人を見て、担任の先生はあることを提案した。
 女の子は先生の言うことをちゃんと聞く、真面目な子だった。
「あなたが宿題をちゃんとやってないって聞いた。
 だから、今日から毎日あなたの家に行って宿題を見てあげる」

 彼と女の子が毎日一緒に勉強していることを知ったクラスメイトは、二人をもてはやした。
 いらだって暴力を振るおうとする彼に対して、女の子は毎回こう言った。
「言いたい奴には言わせておけばいいのよ。ほら、早く宿題終わらせちゃいましょ」
 彼があまりにも言うことを聞かない時は、女の子は彼の耳を掴んで引っ張った。
 そのたびに彼は、いつか仕返ししてやろうと女の子の耳を恨めしく見るのだ。

 教室の黒板に書かれた相合い傘を、二人で消すことが日常的になってきた頃だった。
「なんでこんなに子供っぽいのかしら。もしかして、皆、私たちのこと知ってるのかな」
 周りに聞こえないよう、二人はひそひそ喋っていた。
「ねえ、こんな馬鹿らしいことされて、腹が立たないの?」
 彼は首を横に振った。
 彼の世界では、誰が何を言おうと同じことだった。目ともみあげが欠けたら、もう誰が誰だかよくわからない。
「ふうん、嫌じゃないんだ。
 ま、まあ。私もね、あなたのこと……好きだから、嫌じゃないわよ」
 どうもありがとう、と薄っぺらい感謝を述べて、彼は相合い傘を消した。

 彼が悪夢を見るのは数年ぶりだった。
 目ともみあげを奪われた時、痛みは無かった。今回も同じだった。
 耳を小さな釘で一本ずつ床に打ち付けられているときも。
 鬼が鉄板の上で彼の耳を少しずつ、少しずつ焼いて食べているときも。
 満腹になった鬼が、人間より二回り大きい小指で、彼の耳の穴を拡げているときも。
 ただ不気味な気分になるだけで、彼は痛みを覚えなかった。

 悪夢を見た翌日の朝には、両親の耳が綺麗になくなっていた。
 もみあげがないから、正面から顔を見ても耳がないと分かる。
 小学校に行くと、昨日まで世話を焼いてくれた少女は現れなくなった。
 黒板の相合い傘にも、彼の名前が書かれてあるだけだった。
 片方に何か名前を入れようとしても、誰の名前も浮かばなかった。



266 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:45:18 ID:jN9t6SPz

 中学校に進学すると、彼は写真部に入部した。
 写真を撮る行為は、すでに彼の一番の趣味になっていた。
 練習のためと言い張って、常日頃からカメラを持ち歩くようになった。
 二年生に進級する頃には、彼は校内の有名人になっていた。
 何百人居る全校生徒と教職員の名前と顔を、完全に一致させられる人間は彼だけだった。
 彼自身、その特異と言える記憶力を誇りに思っていた。

 しかし、たった一人だけどうしても記憶できなかった人間がいた。
 二学期に突然転校してきた女の子だった。
 部活動をせず、昼休み時間はずっと図書室で勉強しているような少女だった。
 彼は女の子と接触する機会をなかなか掴めなかった。

 機会は唐突にやってきた。
 登校して靴箱の中を見ると、彼宛のラブレターが入っていた。
 図書室が待ち合わせ場所だった。行ってみると、まだ写真に収めていない女の子が彼を迎えた。
 せっかくの機会でも、この場では写真を撮るわけにはいかない。それぐらいは彼にもわかっていた。
「ずっと私のこと、見てましたよね。実は……私もあなたのことをずっと見てたんです。
 皆の名前を覚えている有名人ってどんな人なんだろって、興味を持ったんです。
 私の写真、まだ撮ってませんよね?」
 彼は悔しさに耐え、頷いた。
「よかった。撮られないように努力してきたんです、私。
 そうすればきっと、私のことをずっと見てくれるだろうって思ったから」
 どうしてそんなことを、と彼は問いかけた。
「あなたにずっと、私を見て欲しかった。私を追ってきて欲しかった。
 でも、こうやってあなたと話すことを抑えることができなくなって、今日手紙を出したんです。
 私、あなたが好きです。ずっと、私はあなたを見ていたいんです」
 実は、彼も女の子のことが気になって仕方がなかった。
 たった一人だけ顔の分からない女の子。こうして話してみると、良い声をしている。
 それに、頬に浮かぶ薄紅が非常に愛らしかった。
 彼は、女の子と付き合うことを決め、その意を伝えた。
「つ、付き合うなんて、そんなっ……恥ずかしいっ!
 いえ、嫌じゃなくって、顔が、照れて……み、見ないでくださいっ!」
 そう叫ぶと、女の子は彼の前から逃げ出した。
 付き合うことになるなら写真が欲しかった。写真に写った女の子の顔を見たい。
 彼が女の子を捜しても、校内のどこにも見当たらなかった。

 その晩の悪夢は、いつもと何かが違っていた。
 二人の鬼が口論していた。彼の声を奪うか、頬を奪うか。
 鬼の口論など、彼はどうでもよく思っていた。
 女の子の写真を撮れなかったことが、どうしても心残りだった。
 最終的に彼の頬を奪うということで、鬼の口論は終わった。

 中学校の図書室に、彼の気になっていた女の子は姿を見せなくなった。
 女の子の代わりに、勉強する三年生の姿が目立つようになった。
 これからの季節、受験勉強をする人が多くなる。
 彼は邪魔をしないよう、図書室から立ち去った。



268 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:49:41 ID:jN9t6SPz

 進学先の高校は、名高い進学校を選択し、合格した。
 十五歳になった時点で、他人の目、もみあげ、耳、頬が彼には見えなかった。
 欠点を埋めるみたいに、彼の学業成績は優れていった。
 頬の動きが見えないと相手の表情がわからなかったから、相手の声の調子と、その場の空気を読むようになった。
 傍目には、彼が非常に大人びた人間に見えた。
 成績優秀で聡明に見え、友達づきあいも良く、軽率なことを言わず、率先して行動する。
 そんな彼は、女性からよく告白されるようになっていた。

 この頃になると、仲の良かった女性達が何故彼の前から姿を消したのか、わかるようになっていた。
 彼に好意を伝え、彼が受け入れると、悪夢を見ることになる。
 悪夢の中で体の一部を奪われると、奪われた部分が他人から消え失せる。
 女性達はおそらく消えてしまったのだろう。名前ごと、存在までも。
 次に何を奪われるか恐ろしくなり、彼はあることを決意した。
 女性から告白されても、決して受け入れないこと。
 可能な限り、女性に好意を持たれないように行動すること。

 だが、彼の努力も空しく、告白してくる女性は後を絶たない。
 特にしつこいのは、新聞部の女部長だった。
 どこに行くにも彼を引っ張る。彼がどこに行っても付いていく。
「なあに逃げてるの? だめよお、部長と副部長はどこに行くのも一緒なんだから。
 お昼だってもちろん一緒よ。はい、あーん」
 空席のない食堂であっても、女部長はやってきて、彼の膝の上を自分の席にした。
 いっそのこと新聞部をやめて、自分で写真部を新たに立ち上げようと考え、行動に移した。
 しかし、実際にメンバーを集めて試験的に活動しても、誰一人として写真を撮らない。
 彼に近づきたい人間が集まっているだけで、部として成り立っていなかった。
 新聞部から離れられないまま、年月は過ぎた。

 女部長が高校を卒業する日、彼は女部長から告白された。
「このまま離ればなれになるなんて嫌。私はあなたが好きなの。
 ねえ、遊びでもいいから、私と付き合って。
 週に一日、ううん一時間だけでもいいから。……うんって、言って」
 彼は告白にどうしてもいい返事をできない。
 ならば彼女の前から逃げてしまえ、と彼は思わなかった。
 彼女は彼の家を知っている。おそらく明日になれば家にやってくるだろう。
 新聞部の後輩として、彼女には感謝していた。無下にはできない。
 そして、このまま自分への思いを引き摺ってもらうのも嫌だった。
「なんでもするから。あなたが、雌犬になれって言うなら、喜んで犬になる。
 あなたとの繋がりを消したくないの。もう寂しいのは嫌、嫌なの」
 彼は歯噛みした。どうして自分は一人の女性を思い続けられないのだ。
 こんな目をしていなければ、あの悪夢さえやってこなければ、彼女に応えるのに。
 いくら女性を好きになっても、自分には愛せない。

 彼は彼女の体を抱きしめた。
 こうしてしまえば、明日から彼女は自分の前に現れなくなる。
 嗚呼、だけど今回だけは。
 どうか彼女をこの世界から消さないで。

 彼女から香る、眠気を誘うような安らぐ匂いを忘れないよう、彼は彼女の体を抱きしめ続けた。



269 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:53:28 ID:jN9t6SPz

 彼の意志は、大学に進学することを望んでいなかった。
 進学する道を決意させたのは、両親からの期待だった。
 身寄りのない自分を引き取り育ててくれた両親。
 幼い頃に見た顔と比べて、二人の顔はずいぶん変わって見える。もはや口だけしか顔にはない。
 それでも、自分に親切にしてくれるところだけは変わらない。
 二人に孝行するためなら、たった四年間大学に通うことなど、安いことだった。

 カメラ愛好家の集うサークルに入り、ますます彼はカメラの魅力に夢中になった。
 中学高校と違い、大学に通う人間達を一人一人撮影したりはしなかった。
 家族や友人など、近しい人間だけを撮影するようになったのだ。
 ある日、彼は事故に遭い入院した。
 自転車で通学している途中、信号無視した車と接触した。
 左鎖骨骨折。入院期間は三週間。日常生活に支障が無くなるまでは二ヶ月ほどかかる。
 友人達は皆、彼が入院したと聞いて病院に駆けつけた。

 ある日、サークルの友人が髪の長い女性を連れてきた。
「この人、お前の同級生なんだってさ」
 彼は首を傾げた。
 中学高校では学校にいるあらゆる人と写真に収め、名前まで記憶した。
 だが、どうしても髪の長い女性のことが思い出せない。
 もしかして小学生時代の同級生なのだろうか?

 後はよろしく、と言って友人は帰って行った。
 自分で案内しておいて女性を放って行くな、と彼は思った。
 しかし、他にすることもなかったし、せっかくお見舞いに来てくれたのだから、彼は女性と話をすることにした。
「本当に、久しぶりです。あなたに会うのは。突然現れて驚きましたか?
 お怪我の具合はいかがですか? いつまでこの病院にいるんですか?」
 二人の話は、女性が質問して、彼が答えるという順番で進んだ。
 二人は旧知の知り合いだったように、話に花を咲かせた。
 多くの言葉を交わしたというのに、彼にはまだ女性の正体を掴めない。

 とうとう窓の外が暗くなり、面会終了時間が迫ってきた。
「そろそろ帰ります。長居してごめんなさい。
 ……あ、そうでした。一つお願いがあります。
 あなたは人の写真を撮るのが好きでしたよね。
 私のカメラで、私の写真を撮っていただけませんか?」
 彼は了承して、カメラを受け取った。
 女性の口元に笑みが浮かんだ瞬間を見届けてから、シャッターを下ろした。
「ありがとうございます。ようやく撮ってもらえました」
 彼からカメラを返してもらい、カバンに入れると、女性は病室の外へと向かった。
 ドアのところで止まると、女性は振り向かずにこう言った。
「また明日、現像した写真を持ってお見舞いにきます」

 しかし、翌日になり、とうとう彼が退院する日付になっても、女性は彼の前に現れなかった。
 もう一度あの女性の長い髪を見たら、女性の名前を思い出せるかもしれないのに。
 彼はちょっとだけがっかりしつつ、サークルの友人達と退院祝いの会場に向かった。



270 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:55:44 ID:jN9t6SPz

 その後、彼は冒頭に話していた女性と出会い、お互いの気持ちを確認せずに付き合いだした。
 女性は告白することなく、彼に自分の思いを伝えることができる人間だった。
 彼は女性の過激な行動に戸惑うことも多かったが、概ね上手くやっていくことができた。

 彼は女性とセックスをするのが初めてだった。
 次はどうすればいいのかわからないでいると、女性は言った。
「私のことを思って。どう扱えばどんな反応をするか、注意深く見ていればわかるはずよ」

 言うとおりにすると、彼は思うままに女性の体を快楽に溺れさせることができた。
 女性は背中の筋を撫でられると可愛い反応を見せた。
 そこが弱いと分かると、彼は後ろから女性の乳房を揉む格好のまま、背中に舌を這わせた。
「ああ、いや……そんなの、だめ……弱いから、だめ。許して、お願い」
 悦びの声が彼の肉欲を盛らせる。
 くねくねと動く女性の背中がたまらなく色っぽかった。
 成熟した女性から溢れ出す色気が、歓喜の声とミックスし、彼の脳を痺れさせる。
 自分の手で女性を興奮させるということがこんなに気持ちのいいものだとは。
 彼はもう、女性の全てに夢中だった。

 背中にくっついたまま、いきり立った肉棒を女性の入り口へあてがう。
 悶えながらも静止の声をあげる女性に構わず、彼は女性の中へと入っていった。
「ああ! はいって、あなたの、が……入ってるっ、こんな、こんな格好なのに」
 肉欲の猛りを押さえつけるような膣の締め付け。
 彼の興奮はそんなものに構わず、乱暴に腰を動かし続けた。
 背後から女性を力尽くで貫く。まるで犯しているような格好だった。
「やっ、やっ、やあっ! あ、あ、あん、ああっ!
 いい、いいわ。もっと、強く! いっぱい、突いて、犯し、て!」
 全力の抽送は我慢という枷をあっさり叩き壊し、射精衝動を奔らせる。
 限界だと伝えると、女性は嬌声混じりに応えた。
「出すの? 赤ちゃん、一杯、出すの?
 いいから! それでいいからあっ! 早くして、早く、してえ!
 おかしくなっちゃう、おかしくなっちゃうのお!
 あ、あ、ああ、はあああぁぁぁ――――――――――っ!」
 叫び声と共に彼も果てた。
 これまでの鬱屈されてきた体の悩みも、あらゆる心配事も、女性の中へと解き放った。

 一度の性交で、彼ら二人はすっかり疲れ切っていた。二回目をする体力が無い。
 彼の頭の中はすでに睡魔に侵攻され、あと一歩で陥落しそうだった。
 抵抗を諦めた彼は、女性に一度だけ、親しみを込めた口づけをして、眠りに就いた。



271 :顔を忘れる男 ◆KaE2HRhLms :2010/07/17(土) 19:59:38 ID:jN9t6SPz

 彼が初めてセックスをした日から、数日が過ぎた。

 彼の居ない部屋に、長い間、彼の傍で彼を見続けてきた女性が訪れた。
 上手に片づけられた部屋だった。
 そういえば彼は潔癖症だった、と女性は思い出した。
 極度の潔癖症で、身の回りに物を置くことを嫌っていた。
 最も大きくて重い家具はベッドで、部屋に運び込む時は苦労した、と聞いていた。

 ベッドに腰掛けると、枕元には日記帳が置いてあった。
 悪いとは思いつつも、女性は好奇心に負けて、彼の日記を読み始めた。
 まめな彼らしく、長文で事細かにその日印象に残ったことが書いてあった。
 最後につけたと思しき日のページには、こう書いてあった。

『今日、初めて私は女性と同じベッドで眠った。
 告白されてから眠るまでは、恋人の名前も、その容姿の中で際立つ特徴も、覚えていられるのだ。
 別れの夜ぐらいは、お互い最高の気分で過ごしたかった。
 
 だが、その晩に見た夢の中で鬼にあることを言われ、私は気付いた。
 そして、驚愕した。
 以前に母に渡されたあの手紙。あれには全てが書いてあったのだ。
 ただ私に告白してきた女性の名前を綴っただけの、もはや意味を成さない文字の羅列ではなかった。

 堰が切れたように、記憶が戻った。
 あの悪夢の後、鬼達に奪われてしまった、これまで出会った女性達の特徴が全て。

 私は決心した。こんなことを考えてしまった以上、もうじっとしていられない。
 彼女はもしかしたら、                                』

 日記の最後の一部は、消しゴムで消した後が残っていた。
 その行にはごく僅かではあるが、消しかすがこびりついていた。慌てて取り忘れていたのかもしれない。
 彼の小さな失敗を目にして、女性は微笑んだ。