662 :埋めネタ [sage] :2007/12/10(月) 01:01:20 ID:hBhhQk/5
 十二月上旬。僕の勤める会社ではボーナスが支給された。
 支給されたとはいっても、ただボーナスの明細が書かれた紙をもらっただけで、手渡しされたわけじゃない。
 ボーナスは給料と同じ口座に振り込まれているのだ。そんなことは当たり前だけど。
 この時期、純粋に僕はうきうき気分になれる。
 欲しかったアレやコレを買えるから、というのがその理由だ。
 とはいえ、全額、欲しいものに費やせるわけじゃない。

 僕は去年中古車を買っていて、そのローンの支払いがまだ残っている。
 それ以外にも税金や貯金などにいくらか割り振るので、せっかくのボーナスも半分以上使えない。
 それでも、数万円は手元に残る。
 残された金額の使い道は決めていない。
 使い道がないのなら貯金しなさい、と母さんなら言うんだろう。
 でも、生憎僕は母さんほど倹約家なわけでもなく、また貯金通帳の明細を見ながらティータイムを
楽しめるほど稀有な性格をしているわけでもない。
 よって、冬のボーナスは全て使い切ることになる。
 毎回そうやっているのだから、今回もいつも通りにやらせてもらおうと思う。

 仕事を定時退社の時刻までに済ませた僕は、賞与明細を鞄の中に突っ込んで、
同僚に挨拶をしてから職場を後にした。
 夕方と言うには少し遅い、午後七時。
 ボーナスが出たのだから、同僚と一緒に飲みに行くのが会社員としての一般的な行動なのだろう。
 しかし、僕は行かない。なぜなら、飲みに行きたくないから。
 もちろん行きたくない理由はある。
 同僚に嫌われていたり僕が同僚を嫌っていたりするわけではなく、単に、お酒の席で絡まれるのが嫌なのだ。
 絡まれるにしても、仕事でミスをしたことについて軽く説教されるならいい。
 もしくは未だに彼女がいないことについてからかわれたりするのでも構わない。
 お酒の席で、皆が僕のあだ名を呼び出すのが気に入らないのだ。

 僕のあだ名は、名前の漢字の読み方を変えただけのものである。
 皆があまりにあだ名の方で呼びかけてくるので、あだ名が本名だと僕自身が錯覚してしまう。
 僕の親は明らかにウケ狙いで僕の名前をつけたに違いない。
 最近、漫画やアニメに出てきそうな名前を子供に名付ける親が増えているというが、実に嘆かわしい。
 僕は変な名前を名付けられたせいで損することはあっても得することはなかった。
 いい名前だね、という言葉は嫌みにしか聞こえない。慰めだったとしても要らない、欲しくない。
 子供をひねくれさせたくなければ、親は真っ当な名付け方をするべきだ。

 タイムカードを押し、会社の建物を出る。
 寒さをしのぐためにコートの襟を立て、歩き出したその時だった。
「名無し君。今帰りかい?」
 正門近くに停めてあった車を通り過ぎたところで、突然女性に声をかけられた。しかも、あだ名で。
 聞き覚えのありすぎる声だったので、不機嫌を七割ほどむき出しにして返事する。
「ええ、そうですよ。十一子さん」
 そして聞こえてくる、ぎり、ぎりりりり、という歯ぎしりの音。やはり相手を怒らせてしまったようだ。
 だけど、この場合は彼女が悪い。いきなり僕のあだ名を呼んだのだから。
 仕返しに、彼女が嫌っている彼女のあだ名を言ったって構わないはずだ。

 右を見る。彼女は腕を組みながら僕を睨んでいた。
「ひどい人間だな、君は。私の嫌いなあだ名を言うとは」
「ひどいのはどっちですか。僕の名前の読み方を知っているくせに」
「ちょっとした冗句のつもりだったのだがな……。いや、すまない。やはり失言だったよ。七詩君。
 謝る。この通りだ。だから――君も私を本名で呼んでくれないか?」
 頭を下げてくる彼女に、僕は返事する。
「謝らなくてもいいですよ。もう機嫌悪くないですし。……文子さん、なにか用ですか?」



663 :埋めネタ [sage] :2007/12/10(月) 01:03:18 ID:hBhhQk/5
 そう言うと、文子――フルネームは入文子(いりふみこ)――さんは頭を上げた。
 僕と文子さんは、不幸にもおかしな本名を持ち、不愉快なあだ名で呼ばれる同士である。
 僕の名前、七詩。読みは『ななうた』だけど、漢字をぱっと見たら『ななし』と読んでしまう。
 文子さんの本名、入文子。名字を『いれ』、名前『ぶんこ』と読めば、『いれぶんこ』になる。
 次に『いれぶん』を『イレブン』にして、さらに日本語に変換すれば『十一』となる。
 しかして、『入文子』は『十一子』となり、文子さんは『十一子』というあだ名を付けられた。
 名無しと、十一子。どちらも、本名をもじったあだ名だ。
 そして、あだ名を付けられた当人はどちらともそれを快く思っていない。
 会社ではさすがに名字で呼ばれているけど、仕事以外ではあだ名で呼ばれることが多い――いやむしろ、呼ばれる。
 だから、僕は会社の外で同僚と会うことを極力避けるようにしている。

 たかがあだ名ごときでそこまでしなくても、と人は言う。
 けど、僕にとって、あだ名で呼ばれることは最大級の侮辱になるのだ。
 それは小中学校時代の経験が原因だろう。
 思い出すのも嫌になる。僕はあだ名のせいで、避けられたはずの災難に数多く遭った。
 僕も傷ついたし、他人も傷ついた。悪意の有無に関わらず、僕は人を避けた。
 大学生になってようやく毎日話す相手ができたくらいだった。
 文子さんが僕と同じ経験をしたのかは知らない。知るべきではない、踏み込むべきではない領域だと知っているから。
 文子さんは変なあだ名を付けられた者同士という理由で馴れ馴れしくされたくないはずだ。僕だってそう思っている。
 僕が文子さんと仲良くしているのは、彼女が僕との距離の取り方と付き合い方を弁えているからだ。
 どちらからも会いに行かない。たまたま会ったときにその場の空気で話すだけの関係。
 それが僕にとって最も嬉しい、人との関係の持ち方だった。
 そのことを自覚させてくれたのは、文子さんだ。
 ――もっともそれは、僕の人付き合いの技術がいかに低いかを自覚させてくれたということでもあるけれど。

「七詩君、ボーナスをもらったか?」
 返事を分かっている問いかけ方だった。それでもあえて問うたのは確認するためだったのだろう。
「ええ、いつも通りに。ちゃんと増えてましたよ」
「うん、それは良かった……で、だ。今から、使ってみる気はないか?」
「今からですか? まあ、いくらか使う予定のない分がありますけど」
「なら、今から付き合わないか?」
「……?」
 首を傾げてしまった。
 だって、初めてだったのだ。文子さんから誘いを持ちかけてくるなんて。
「付き合うって、お酒にですか?」
「うん、そうだ。もちろん、これから用事があるというのなら今度でも構わないが」
「この後で用事は、ないですけど……どうしたんですか、突然?
 文子さんから飲みに誘ってくるなんて一度も無かったのに」
 それどころか、正門で僕を待っているのも今日が初めてだった。
 今日の文子さんは、どこかがいつもと違う。
「あー……七詩君は忘年会に出ていなかっただろう?」
「ええ。文子さんもそうでしたよね」
「うん、だからだ」
「だから……? どういう意味です?」
 文子さんがちょっとだけ眉根を寄せた。



664 :埋めネタ [sage] :2007/12/10(月) 01:04:50 ID:hBhhQk/5
「察しが悪いな、君は」
「いえ、二人でこれから忘年会をやろうって言いたいのは察してますよ。
 わからないのは、忘年会に出ていなかったって理由で、どうして文子さんと飲まなきゃいけないのかってことです」
「君は察しが悪いんじゃないな。冷たいんだ。部屋の空気を入れ換えるときに触れる窓枠と同じくらいに」
「ああ、最近のは特に冷たいですよね。手袋が欲しいくらいですよ」
「ということは、七詩君に触れるときは手袋をしなければいけないということか」
「論理的に解釈すればそうなりますけど、僕は窓枠じゃないので、触れるときに手袋は不要です」
「おお、それは良かった。もし手袋が必要だったら、色々不都合が出てくるからな」
 どんな不都合が出てくるんだろう。
 もしかして、僕と直に手を繋ぎたいとか? ――まさかね。

「七詩君、同僚と酒を飲むのはそんなに嫌か?」
「ええ。酒が入ると、普段はまじめな人でもおかしくなりますから」
 そうなったら、僕の過去に踏み込んでくるから嫌だ。
「でも、文子さんと飲むんならいいですよ」
「ぇ?」
 文子さんの切れ長の目がちょっとだけ大きくなった。
「文子さんなら、その――ちゃんと分かっていると思いますし。忘年会もやっておきたいし。
 それに、初めてじゃないですか。文子さんと飲むなんて。もちろん、誘われるのも初めてですけど」
「じゃあ、いいのか?」
「いいですよ。飲みに行きましょう」
「なら、なら……場所は、私が指定していいか?」
「はい」
「そうか、そうか……よし!」
 文子さんは両手を握りしめた。おそらくガッツポーズをとろうとして、やっぱり人前でポーズをとるのは恥ずかしいと
思い直したけど、それでも衝動が抑えきれず拳が反応してしまった、みたいな感じだろうと推測する。

 文子さんが顔を近づけて、耳打ちしてきた。
 告げられた飲みの場所は、駅の近くの繁華街でもなく、会社が忘年会でよく利用する料亭でもなかった。
 その、場所は――――――。


 時刻は十一時。ふと、文子さんのことを禁断のあだ名で呼びたくなったけど我慢する。
 文子さんはテーブルの向かい側の席についている。両肘をつき、前傾姿勢のまま話しかけてくる。
「だからぁ、泊まっていけって、言ってるじゃないかあぅっ……っく!」
 返事はしない。面倒だからではなく、何度も同じ返事をしているから。
 ここ――文子さんの家で一晩明かすつもりはない、と言っているが、文子さんはどうしても譲らない。
 帰り道で買ってきたお酒をあらかた飲み終わり、残りの分でちびちびとやり始めてから数時間、ずっとこの調子である。
「なんで泊まっていかないんだ! お酒、入っているんだろう……?」
 ハイとローを行ったり来たりの文子さんに返事をする。
「入ってますけどね、確かに。でも歩けない訳じゃない。つまり僕が帰ることは不可能とは言えないわけですよ」
「否定を連続するな! 聞いてる方は、混乱するんだよ……」
 そう言われても、酔ったときにこんなしゃべり方に変わるのは僕の癖なのだからどうしようもない。
「そろそろお暇しますよ。遅くまでお邪魔してすいませんでした」
 一方的に告げて、床の上から立ち上がった。
「あ……れ」
 そして次の瞬間、僕の視界は九十度回った。
 右腕に走った痛みで、何が起こったのか分かった。僕は、床に倒れたのだ。



665 :埋めネタ [sage] :2007/12/10(月) 01:06:07 ID:hBhhQk/5
「あー、ははははは、っはは! ……ようやく、効いたんだ。遅いよ、まったく」
 文子さんが四つん這いで倒れた僕のもとへやってきた。僕の体を仰向けにして、上に乗ってくる。
「何をしたんですか、一体」
「うん、ちょっと七詩君のお酒に睡眠薬をね、入れたんだ」
 どうりで眠たい……わけだ。
「なん……で、こんなこと、するんですか」
「決まっている! 君に今夜泊まってもらって、眠った君をじっくりと料理するつもりだったんだよ」
「りょう、理……?」
 文子さん、料理できるのか? 一人暮らしの女性って、やっぱり料理するんだ。
 ちなみに僕はやってない。毎日麺類か惣菜だ。――いや、料理するかしないかなんてどうでもいい。
「僕は、理由を聞いているんですけど」
「わからないのか?! わからないんだな。そうか……ハア。まあ、気づくはずもない、か。
 いいよ。教えてあげよう。私は、君が好きだから、こうしたんだよ」

 文子さんの顔が近づいた。かすむ視界の中に文子さんだけが映っている。
 唇に、わずかな感触があらわれた。いや、頬だったかもしれない。
 体表感覚の麻痺した今の状態では、はっきりと自覚できない。
「君が欲しい。君の熱が、体が、全部が欲しい。どうしても、強引な手を使ってでも手に入れたかったんだ。
 ――嗚呼、キスしてしまった。これが、君の味なんだね。うん、チョコレートみたいな甘さだ」
 それは僕の味ではなく、本物のチョコのものです。さっき残ってる分を全部食べましたから。
「この分だと、七詩君の体はもっと甘いのかもしれないね。人と関わるのを極力避けて、自分を守ってきた七詩君。
 誰にも手を付けられていないに違いない……そう、青い果実だ!」
 ごめんなさい。期待を裏切って悪いのですが、キスだけは済ませています。
 大学時代、酔っぱらった女の子にキスされたことが一回だけあった。
 その後に色気のある展開を繰り広げたりはしなかったけど。

「さて! ……さて、これから七詩君は私のものになるわけだが」
 そうなるのが当然、みたいに言わないでください。と言いたいのに言えない。
 眠い。口を開くのが億劫だ。五感の内でちゃんと働いているのは耳しかない。
 聞こえてくるのが文子さんの声だけだから、世界の中に文子さんしかいないみたいな気になる。
「その前に、私のプロポーズを聞いてくれ」
 ――プロポーズ。
 結婚の申し込みのことか。僕の方からは一生することはないと思っていたけど、まさか女性からされるなんて。
 なんだか夢みたいだ。いや、もしかしたら夢なのかもしれない。
 眠いし、ふわふわするし、やけに気分がいいし。
 なにより、文子さんが僕のことを好きでいてくれたなんて――嬉しすぎる。
 だって、僕も文子さんのことを好きだったから。
 いつから好きだったのかはわからない。
 もしかしたら出会ったときからかもしれない。もしかしたらたった今、恋したのかもしれない。
 でも僕にとって、家に遊びに行けるほど仲良くなれた異性なんて、文子さんが初めてだった。
 じゃあ、これが初恋なのか。そして、初恋の相手にプロポーズされる。
 なんだ、僕の人生も、そんなに悪いものじゃないみたいだな。

 文子さんの声が聞こえる。頭の中に響き渡る。
「あなたに、私のボーナスを全て管理して欲しい」
 どこの銀行のポスターに書かれたキャッチフレーズだろうか、と考えさせられる台詞――もとい、プロボーズであった。
 でも、それもいいかな。家計簿をつけるのは得意だし。
 プロポーズに対して、僕は頷きを返した。
 本当は文子さんの体を抱きしめたい気分だった。けど、眠いからどうしようもない。
 文子さんが睡眠薬なんて盛ったのが悪いんだ。

 ――明日起きても、文子さんを抱きしめるのは無しにしよう。



666 :名無しさん@ピンキー [sage] :2007/12/10(月) 01:10:07 ID:hBhhQk/5
ちょっと強引にまとめてしまった。スマソ。
とりあえず、いつも通りに、



                 埋め!
最終更新:2007年12月10日 04:07