804 名前:兎里 ◆j1vYueMMw6 [sage] 投稿日:2010/08/02(月) 00:17:10 ID:5W0Ta3JA
 昔から僕には視えているのに、他人には視えないものがあった。それは恐らく、そこにあるようなものではなく、僕の瞳の中に直接入り込んだ、そこだけに存在するようなものなのだと思う。
便宜上、僕はそれを『影』と呼んでいた。

 彼女と喧嘩した理由は非常にシンプルで、極めて一般的だった気がする。すくなくとも、僕の主観では。
「どうして?ねぇ、なんでなの?私が何かした?貴方に嫌われるようなことしたかしら?ねぇ、ねぇ?」
 どうも、彼女からすれば納得いかなかったようである。大きめの黒目をさらに大きくして詰め寄ってきた彼女は、僕をそのまま壁に追い詰め、小一時間ほど文句を言い続けた。
「いいわ、だったら1週間、いえ、3日でいいわ」
「猶予がほしいってこと?」
「・・・なにを言うかと思ったら」
━━私があなたに3日間、猶予をあげるのよ
『影』はひどくぼやけ、かろうじて人の形を留めていた。


―1日目―
 まず僕は友人を失った。
「お、おう」友人にあおはよう、と言われた場合、このようなリアクションは適切とは言えない。
 朝の講義室で、僕はいつもどおり、ゼミの仲が良い一団を見つけると同じ机に腰を下ろした。そうして、当然の如く挨拶をしたのだが、だれもかれもがぎこちない顔つきのまま目を逸らした。
「どうしたのさ。みんな変だよ?・・・あ、そうだ。この前言ってた本さ」
 突然、一番端に座っていた男子が立ち上がった。何事かと思うと、彼は鞄を背負い、隣の女の子、彼の恋人の手を取ると、無言で講義室の出入り口へと歩いていってしまった。
 わけが分からず呆けていた僕だったが、理由を知らないのはどうやら僕だけなのだと思い知る羽目になる。
 少しの間を空けて、友人達が次々と席を立ち始めたのだ。それも、誰も僕に説明する素振りも見せず、ましてや僕の顔を見ようともしない。
「え、なに、移動?」ようやっと搾り出したセリフがこれだった。
 しかし、誰も僕の声を聞こうとしない。当然、答えない。
「・・・すまん」最後に立ち去った彼は俯きながら、やはり僕の方を見ずにそう言い残して去っていった。
 僕は友人を失った事実についていけず、ただ呆然と、出入り口を見つめていた。
『影』は今日もそこに立っていた。なにをするでもなく、僕を見ていた。

805 名前:兎里 ◆j1vYueMMw6 [sage] 投稿日:2010/08/02(月) 00:17:31 ID:5W0Ta3JA
―2日目―
 2日目には、居場所を奪われた。
「・・・我らがサークル、『エレドネィ』は本日を持って解散となった」
 昨日は何かの冗談かと思っていた僕も、2日連続でみんなから相手にされなければ、流石に異常だと思うし、不安にもなる。
 友人に尽く無視された僕は、助けを求めるように所属サークルのボックスを訪れた。
 だがしかし、そこにあったはずのものは何もなく、打ちっぱなしのコンクリートの壁だけがやけに目立っていた。そこに茫然自失と立っていた部長は、生気のない顔で僕を見つめて言ったのだった。
「なんで、なんでですか」
「君達の・・・いや、なんでもない」部長はフラフラと、覚束ない足取りで僕の横を通り過ぎる。「誰のせいだとは言わない。けど、このサークルは僕の全てだったんだよ」
 振り返っても、そこに部長の姿は、誰よりも真剣に直向に打ち込んでいた、部長の眩しい姿はなかった。
 その代わりに、開け放たれたままの扉の向こうに、妖しく微笑む『彼女』がいた。


―3日目―
 僕は生活が出来なくなった。
「・・・なんだよ、それ」手をワナワナと震わせて、受話器の向こうに問いかけた。怒りと、絶望から震えが止まらない。
「言ったとおりだ。今後一切の仕送りを取りやめる」
「なんでだよ、親父!」
「自覚がないのか、まったく」父はやれやれとため息を零す。「学業を疎かにし、サークル活動にも打ち込まないだけに飽き足らず、人様に迷惑ばかりかけているそうじゃないか。
俺は、そんなことをするために1人暮らしをさせてるわけじゃないぞ」
 言葉が出ない。本当のことを言われたからじゃない。その逆、笑えるほどに真逆なことを口走るものだから、思考がついていけなくなった。小さな自室で、僕は改めて絶望を感じる。
「学費だけは出してやる。バイトでもなんでもして、猛省しろ」
「・・・バイトは今日辞めたよ」正確には、『辞めさせられた』だが。
 受話器からの声が途絶える。少ししてから、またため息が聞こえてきた。
「今月だけはどうにかしてやる。だが、それ以降は、お前が更正するまでは断つからな」
「誰が」
「誰が密告したか、か?」
「――。いや、やっぱりいい」一方的に電話を切る。「・・・なんでここまでするのさ」
 振り返り、真後ろの彼女に問う。彼女は上品に口元に手を当ててはいるが、唇の両端は歪に吊上がっていた。
「“猶予”だと言ったでしょう?もっと早くに罪を贖っていれば、ここまではやらなかったわ」
「―っ!!僕がっ、僕が何か間違ったことを言ったか!?」
「あら、今度は逆ギレ?」
 あくまでも態度を崩さない彼女に思わず詰め寄る。すぐに軽率な行動に後悔する。
「時刻は22時49分。まだまだ余裕はあるわ。あと1時間11分の間に決めなさい」
 そう言い放つ彼女の手には刀身が細く長い刺身包丁が握られ、その切っ先は一直線に僕の喉を捉えていた。
「自分の過ちを認め、再び私を、私だけを愛すると誓うか。それとも━━」彼女の手が僅かに揺れる。
 少しだけ、本当に少しだけ、包丁の先端が僕の喉に触れた。たったそれだけで血の気が引き、転がるように、僕は背後の壁まで逃げ出した。そのまま腰を抜かし、情けない悲鳴が漏れる。
「ふふっ、あはははははははははは!!いいわ!可愛いわよ、すごく!!」
 スイッチの入った彼女は誰も止められない。動けない僕の胸倉を掴むと、彼女は床に向けて僕を放り投げた。仰向けになった僕にすかさず馬乗りになると、そのままの体勢でまた包丁を突きつけてくる。
「ねぇ、わかってるでしょう?貴方は私のモノなの」包丁を逸らしたかと思うと、彼女は僕に覆いかぶさり、唇を重ねてきた。
暴れるように動き回る彼女の舌に、僕の口内は為す術なく蹂躙される。「・・・そして、私は生まれたときから貴方のモノ」
 僕はもう、完全に脱力していた。彼女には一生、適うことはないのだと悟る。

806 名前:兎里 ◆j1vYueMMw6 [sage] 投稿日:2010/08/02(月) 00:17:52 ID:5W0Ta3JA
『影』がこちらを見ていた。ただ黙って、僕を見下ろしてる。
「血を分け、肉を分け、そして心を分けた存在だもの」
 両手で僕の顔を掴み、艶かしい手つきで撫で回してくる。そのまま再び唇を重ねたかと思うと、急に口を離して今度は顔中を舐めまわしてきた。
「ふふふ・・・私達は2つで1つ・・・・生まれたときから決まってる。そうでしょう?」
「・・・世間一般として、僕達は結ばれてはいけない立場だろう」そう、これが喧嘩の原因だったはずだ。というか、僕は昔からこれを訴え続けている。
「そう。なら死んであの世で結ばれる?」再び包丁がつきたてられる。
「なんで・・・そこまで・・・・」
「しらばっくれても無駄。綺麗ごとを並べても無駄。貴方だって私のことが好きなんでしょう?」
「そんなこと」
「小学3年生の時、同学年の男子を殴って注意を受ける。以後、数件同じような事件を起こす」彼女はさも楽しそうな声で羅列していく。「中学1年生の時、遂に相手に重傷を負わす。
裁判沙汰になりかけるが学校側の仲裁で踏みとどまる」
「・・・やめろ」
「それ以降、表向きには事件を起こさなくなるが、仲間を使うなどの裏工作を多用し、水面下で暴力事件を起こし続ける。現在までの推定件数は14件。軽度のものを含めればちょうど20件。
暴力の対象になった者は年代様々だが、いずれも、妹にちょっかいを出した者、妹に乱暴を働いた者、妹に好意をほのめかした者、妹に求愛をした者」
「やめろって!!」
 ありったけの声で叫ぶが、耳に入ってきたのはこの上なく情けない声だった。彼女の歪んだ笑みがさらに深まる。
「さて、狂っているのはどちらなんでしょうね、兄さん?」
 視界が歪む。今僕の視界にあるものは妹だけであり、同様に、僕の心の中を占拠するのも妹だった。
『影』は、『彼女』は今、ぴったりと妹と重なっていた。
 ただ僕の視界だけに存在し、黙ってなにもしない、圧倒的な存在であった『影』。僕を突き動かしてきた『彼女』。
 ようやくその存在を理解した僕は、妹を抱きしめ、狂ったように笑い続けた。  
最終更新:2010年08月04日 20:54