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193 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:02:35 ID:JFImW/Mk
*****

 俺は、今まさに食べられそうになっている。
 抽象的にではなく、具体的に。
 具体的すぎて、捕食対象となっている俺に戦慄が走っている。
 背後から、よく分からない何かが、床にへばりついて移動してくる。俺の後ろをついてくる。
 走りながら肩越しに目をやると、そいつは俺の影と同化しているようで、真っ黒だった。
 しかし、そいつの大きさはとてもじゃないが俺の影とは比べものにならない。
 でかすぎる。
 床から剥がして、ヘリコプターに結びつけて上に引っ張れば、高校の体育館ぐらいは覆い隠すんじゃないだろうか。
 その巨体のあらゆる所に目がくっついている。
 その全てが俺と目を合わせようとしてくるんだから、たまったものではない。
 もっとも、一番に俺の心を恐慌状態にさせるのは、びっしりと生えそろった犬歯を見せびらかす、そいつの口である。
 上顎にも下顎にも、犬歯が何重にもなって生えている。
 三重、いや四重ぐらいか? それ以上ははっきり認識できない。
 もしここで足を滑らせてしまえば、あの犬歯によって骨ごと砕かれ、すり潰されてしまうのは間違いない。
 そうならないために、俺は必死になって逃げているのだ。

 まあ、夢の中の話なんだが。
 いつまで走ってもどこにも辿り着かないし、力を抜いても入れても足が止まらない。
 勝手に腿が持ち上がり、脚が地面を蹴ってくれる。
 全自動で走っている状態とでも言おうか。
 車とかバイクとかで移動してる時って、こんな感じなのだろうか。
 夢の中だけでなく、現実世界でもこれぐらい移動が楽だったらいいのに、と場違いなことを考えてしまう。

 前を見る。
 この悪夢の中では一度も見たことのない、しっかりと服を着ている人間が目に入った。
 歴史の教科書に載っていそうな、礼装をした紳士だった。
 両手には白い手袋。左手に握ったステッキが地面に立っている。
 目深に被ったシルクハットと、うつむき加減な姿勢のせいで、紳士の顔は見えない。
 ちと怪しいが、きっとこの紳士は悪夢から脱出するための鍵となる人物に違いない。
 ああ、助かった。これで朝を迎えられる。
 そう、終わらない悪夢などないのである。



194 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:05:23 ID:JFImW/Mk

 紳士がステッキを持ち上げ、俺の方へと放り投げる。
 ステッキは俺の左肩を通り過ぎ、背後へ。
 軽い、乾いた音がした。ステッキが地面に落ちたようだ。
 振り返ると、なにも無かった。
 追いかけてくる黒い影も、不気味な無数の瞳も、犬歯だらけの口も。
 まるで掃除機に吸い込まれたか、落とし穴に落っこちたみたいに、気味の悪い化物は居なくなっていた。
 安堵して、紳士と向き合う。

 ありがとう、助かったよ。 と感謝の言葉を述べる。
 すると紳士はシルクハットを少し持ち上げた。締まった顎と、口、鼻が見えるようになった。
「お礼をいただいてもよろしいかな?」
 くぐもった小さな声だった。
 俺は反射的に応えた。もちろんです。
「それでは私はその柔らかそうなお口をいただこう」

 紳士がシルクハットを外した。
 途端、紳士の頭上から黒い影が、一直線に吹き出した。
 黒い影というより、そういう毛並みをした生物のように見て取れた。
 逃げようと思っても、もう遅い。
 逃げるより先に、黒い毛並みの生物の先端が、俺の顔――いや口目掛けて伸びてきた。
 生物の先端には口だけがあった。
 紅い唇、黄色くなった無数の犬歯、ぎょろぎょろした小さな目をいくつも表面に生やしている舌。
 指でぷちっと潰せてしまいそうなぐらい小さい、たくさんの目玉たち。
 きょろきょろと黒い瞳を動かし、俺と目を合わせて、嬉しそうにぐにゃりと曲がる。
 それらが網膜に焼き付き、肌が粟立つ。

 口に生物が突っ込んだ。ついでに鼻まで一緒に覆い隠された。黒い煙のようなものが視界を侵していく。
 黒い生物は、熱湯のような液体を口移ししてきた。
 口内が熱さに負けて、ただれていく。舌はしおれていき、歯はボロボロになっていく。
 その時点で俺は膝をついた。痛さと、気持ち悪さで立っていられなかった。
 視界が暗転。口内から体の奥へ、何かが侵入してくる音が、骨を伝って脳を刺激する。
 ごきり、ずるり。ぴちぷち、ぶち。ごりぐりごり。
 生物の体は胃まで到達していた。体のライフラインをふさがれてしまい、もはや息はできない。
 頭の中が真っ白になり、一気に身体が軽くなる。

 ああ、また俺は死んでしまったのか。
 もはや何度目になるか分からない夢の中での死を認め、俺は全てを諦めた。



195 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:07:34 ID:JFImW/Mk
*****

 瞼を薄く開けてみる。
 朝の陽光が隙間から入り込んできた。目を閉じる。
 いまだ続くまどろみの中、なんとなく悟った。
 悪夢から覚めて、俺は現実世界に戻ってきたのだ、と。

 顔にかかる陽光、まぶしい。
 部屋中に漂う塗料のうっすらした匂い、心地良い。
 三月下旬の時期、部屋の中で過ごすのはまだ辛いから、暖房器具が欲しい。
 あおむけの状態から寝返りを打つと、揺らされた脳が面倒くさがって起きるのを拒否する。
 俺の体温を宿した布団が身体全体を包んでいる。
 いい感じだ。まだ眠気が持続している。意識が身体の中をゆらゆらと漂って、留まらない。
 このまま誰にも邪魔されなければ、もう一度睡眠状態に移行できる。
 重たい頭を枕に沈め、呼吸する。

「お兄さん、起きて」
 もう後は何もせず眠るだけ、というところで邪魔をする声が耳に入った。
 妹の声。
 その声の調子は相変わらずで…………あれ?

 おかしい。なんで妹が俺を起こそうとしているんだ。
 今日は妹と何か約束していたか? いいや。入学祝いを買いに行く約束は済ませた。
 何か他の約束していたっけ?
「ほら、早く起きて。朝ご飯用意してるんだから、手間かけさせないで」
 朝ご飯。妹が俺の朝ご飯の用意をして待っている。
 罠か何かかと疑ってしまうのは、今までこんなことをされたことがないせいだ、きっと。
 上体を起こして、薄目のまま、妹の姿を探す。
 左側にいた。妹が穿いているデニムパンツがそこにあった。
 さらに上へと視線を移す。
 妹の顔があった。腕組みをして、半眼で見下ろしている。
 右手にフライパン、左手にお玉でも持って、腰に手を当てていれば個人的にポイントが高かったのだが、そこまでは望むまい。

「……おはよう」
「おはよ。二度寝するんならご飯食べてからにしてね。
 せっかく作ったんだから、捨てるのがもったいないわ」
「ああ、悪い。ちょっと待ってくれないか」
 きびすを返して部屋から出ようとする妹を引き止める。
「なに?」
「これは現実か? 俺はもうすでに夢の中にいるのか?」
 まだ俺は目の前に居るのが妹だとは確信していない。
 朝ご飯を作ってくれる優しい妹の存在を望んだこともある。ただしそれは中学二年の時までだ。
 もうあれから三年経っている。叶うには遅すぎるし、なにより唐突過ぎる。
 ここが悪夢の続きだと言うことも考えられる。
 このまま妹の後をついていって、朝ご飯を食べてみたら、実は朝食の材料が寝ている間に取り出された俺の内臓だったりするかもしれない。
 そして、「昨日私をたった一人で家に帰らせた罰よ」とか言われて、俺の視界がブラックアウトして、目が冷める、と。
 二回連続で悪夢を見るなんて御免だ。
 悪夢の後はすっきりするから、たまに見るのは構わない。だが連続はいかん。
 というわけで、俺はまだここから動かない。
 たとえ妹が何を言おうと。



196 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:10:00 ID:JFImW/Mk

「……夢かどうかわかんないんなら、叩かれてみる?
 痛ければ現実よ。痛くなければお兄さんは変態になってるわ」
「いや、そこまではしなくていい」
 夢の中に居ても痛みを感じるということはよくある。俺にその手の基準は適用されない。
「よし、お前がリアルな妹だという証拠を見せてみろ」
「どうやって?」
「お兄さん大好き、と言ってみろ。いつもの声よりキーを上げて、可愛くな」
「わかったわ」
 妹が距離を詰めてきて、目の前で床に正座した。
 妹の手によって、頬を左右から包まれる。
 ひんやりしていて気持ちいい。もしも今が夏だったら、快適に思える冷えっぷりである。

 視界いっぱいに妹の顔が映り込む。
 妹との距離は、拳二つ分ほど。
 妹の強気な瞳が、俺を真っ直ぐに見つめていた。
 さらに目を吊り上げ、睨んでくる。頬が紅潮している。まるで恥ずかしがっているよう。
 目を逸らされた。俯いているせいで前髪が垂れ、表情が確認できない。
 唯一確認できるのは口の動き。これだけ近くに居ても聞こえないほどの、小さな声で呟いている。
 妹が一度頷いた。
 再度目を合わせ、ゆっくりとしゃべり出した。俺の言ったとおり、少しだけ高い声で。
「お兄さん……大好き。
 私、ずっとお兄さんにこうしたいと思ってた。
 いつまで経っても、お兄さんがこんな近くに来てくれなかったからできなかった。
 何度も近くに行こうと思ったわ。できなかったのは、勇気が無かったからなの。
 でも、今日ならできる。こんなことしちゃいけないんだって、本当は分かってるわ。
 寝起きのお兄さんに、こんなことするなんて……どうしても駄目なの。気持ちを抑えられない。
 ごめんね、お兄さん。駄目なあなたの妹を、許してちょうだい」
 妹の顔が近づいてくる。
 おい、どうして目を瞑っている。どうして手をそんなに揺らしている。
 どうしてお前は、俺にキスをしようとしている?

 ここでキスをしたら、葉月さんに浮気だと言われるのか?
 いや、バレなければどうということは。しかしそんなのは不誠実極まりない。
 寝ぼけていたということにすればいいんじゃないか?
 いや、駄目だ駄目だ!
 たとえ夢の中であっても、寝ぼけていたとしても、妹とキスしてはならん!

「駄目だ妹! 俺たちは兄妹なんだから! そういうのは小学校で卒業して――」
 最後まで言い切るより早く、頬をぶたれた。一発目は右、二発目は左。
 とどめの一発は額へ向けたフルスイングのビンタだった。
 ビンタを受けた勢いで、後頭部が枕に沈んだ。しかし、もはや眠気など沸き起こらない。
「……と言うとでも思った? このねぼすけ長男。
 さっさと布団から出なさいよ。朝食の皿が片付かないでしょ。
 だいたい、声のキーをあげろって、なに? 
 地声なんか聞くに堪えないとでも言いたいの? 可愛くないって言いたいの?
 二度と布団から出られないような体にされたいのかしら、お兄さんは」
「ごめんなさい。すぐに起きることにします」

 この反応、間違いなく現実の妹。
 辛く当たってきて、なにかのきっかけで優しくなる。逆のパターンもある。
 バリエーション豊かな反応は、感情が豊かな証拠。
 兄として諸手を挙げて喜ぶべきことだ。
 身内に虐待された過去があっても、内向的にならず、良く喋る女の子になった。
 なんとなく嬉しくなり、天井を見上げながら、小さな声で笑った。
 このまま明るい社交的な女の子になってくれたら嬉しいな、でもいつか俺の手の届かないところへ離れていくんだろうな。
 なんてことを考えてから、立ち上がって伸びをする。
 さあ、今日は何をして過ごしましょうかね。



197 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:12:51 ID:JFImW/Mk

 妹お手製のブレックファーストを食べ終え、皿を流し台に持って行く。
 コーヒーメーカーに残っていた、ちょっとのコーヒーをカップに注ぎ、ダイニングテーブル席につく。
 ガラス戸の向こうには元気いっぱいの太陽と、それに照らされた庭の植物があった。言うまでもなく、晴天である。
 聞こえるのはテレビの音声のみ。
 リビングには暖房が効いていて、身震いすることはない。
 快適そのもの。もっともリビングから出てしまえば快適ではなくなるんだが。

 なんだか、面白みというか、変化がないな。いつも通り過ぎる。
 昨日から葉月さんと付き合い始めたというのに、何も心境に変化がない。
 もうちょっとワクワクというかソワソワというか、意識に変化があってもよさそうなものなのに。
 中学時代に女の子と初めて付き合った時には、もっとテンションが高かったはずだ。
 だから今回もそうなって然るべき。
 ――いや、もしかしたら。
 中学時代のその経験があったから、葉月さんと付き合いだしても何も思わないのか?
 だって、今回で女性と付き合うの、二回目だし。
 実は最初に付き合った女は、俺を踏み台にして弟にアプローチするような奴だった。
 しかし当時の俺が彼女に夢中になっていたのも事実。
 浮かれて弟に自慢とかしてたし。妹はその頃俺と話そうとしなかったから、何も言っていない。

 葉月さんは男と付き合ったことがあるんだろうか。
 葉月さんぐらい良い意味で目立つ人なら、男と付き合った経験があってもおかしくない。
 まあ、経験がない方が嬉しい、という願望は確かにある。
 だけどそれは心の中で望むものである。俺の一方的な感情だ。
 葉月さんに押しつけようとは思わない。
 交際経験があっても俺は何も思わない。幻滅などするはずがない。
 むしろ、これから俺が幻滅されるかもしれないな。
 好きとは言っても、友達以上恋人未満というか、友達の壁を乗り越えて先に進む気が弱いというか、中途半端な感情なんだ。
 惚れた弱みにつけ込んだって感じだ。自分で自分に幻滅する。自己嫌悪。
 いかんいかん、しっかりしなければ。
 葉月さんにだらしないところは見せられない。

「――――市では本日、今年三月中の最高気温を記録する見通しです。なお、周辺の各県では……」
 弟の奴は、ソファーを独占して、今日の朝のニュースを見ているようだった。
 局を変え、興味あるニュースを見て、また局を変える。その繰り返し。
 こいつが同じ番組を熱心に見続けてることって、特撮番組の放映される日曜日の朝ぐらいだ。
 他に趣味とか無いのかな。もしくは毎日やり続けてることとか、興味のあることとか。
 一緒に遊ばなくなって久しいから、弟のことがわからない。
 わかっているのは、特撮好きということと、成績不良、運動は得意、とにかく女にモテる、ということぐらいか。
 それと、幼なじみの葵紋花火が好き。

 そうなんだよ、こいつの一番わからないところは、花火に対する感情だ。
 一番好きな女性を聞かれれば、花火だとはっきり口にするような男だ。
 なのに、花火と付き合っているような素振りは見せない。
 もちろん、ただ黙っているだけとも考えられる。弟だからって、俺に事実を報告する義務はない。
 でも、聞いたら答えてくれるかもしれない。
 よし、やってみようか。



198 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:15:08 ID:JFImW/Mk

「なあ、弟」
「ん? どうかしたの、兄さん?」
 首だけで振り向き、次に身体の向きを変え、弟は俺と向かい合った。
 真剣な話でもないんだから、そんなに構えなくてもいいんだが。
「お前さ……花火の奴と付き合ってるのか?」
 数秒間の間。
 弟は二回まばたきをしてから、口を開いた。
「付き合ってはいないよ。よく遊びには出掛けてるし、連絡も取り合ってるけど」
「ああ、なんだ。そうだったのか」
「……花火に何か言いたいことでもあるの?」
「そうじゃない。お前らが上手くいってるのか、ちょっと気になっただけだ。
 仲良くやってるなら言うことは無い。幸せになれよ、応援してやるから」
「ありがとう、兄さん」
 話を終わらせるため、カップの中身をあおり、飲み下してから席を立つ。
 流し台で洗い物をする妹のところへ行き、カップを置く。
 弟の方を見る。あいつはまた、テレビにリモコンを向け、番組を変える作業に没頭していた。

 ふうむ。やはり付き合ってはいないか。
 しかし、聞く限りだと、ほとんど付き合っているのと変わりなさそうだ。
 よく遊びに出掛ける、連絡を取り合っている。俺が思いつく恋人同士の行いだ。
 弟はそれより先に進んでいない、ということなんだろうか。
 キス――昨日の葉月さんみたいなのではなく、もっと穏やかなもの。
 そういうのはまだやっていないのかもしれない。

 そう。そこもわからないところなのだ。
 付き合おうと思えば恋人になれるというのに、関係を深めようとしない。
 なんでだろう。俺に気を遣っているとか、俺よりも先に恋人を作ることはできない、とか?
 ありえる。伯母に虐待された頃から、弟は俺に遠慮するようになって、喧嘩はもちろん、反論することすらほとんどなくなった。
 兄に反抗しない教育を施されたみたいな徹底ぶり。
 もしも俺が一生独身で居たら、こいつまで独身で居るんだろうか。
 それはそれでぞっとしないな。なんて可哀想な兄弟なんだ、って世間に思われるぞ。

 弟が俺に彼女ができるのを待っているんだとしたら、葉月さんと付き合いだしたということを教えてやらないと。
 たぶん、弟も花火もお互い付き合いたくて仕方ないはず。
 好き合っているのなら、早く付き合うべきだ。
 俺みたいに、思い詰めるまで相手を好きになっていないのに付き合い始めた奴とは、違うんだ。



199 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:17:51 ID:JFImW/Mk

「おーい、おと――」
「お兄さん、悪いんだけどちょっと手伝って」
 弟を呼び出そうとしたところで、妹が声をかけてきた。
 ちょうど洗い物を終わらせたらしく、濡れた手をタオルで拭っていた。
「なんだよ、大した用事でもないんならお断りするぞ」
「それなりに大事な用よ。私がこれまで、どうでもいい用件でお兄さんを呼んだことがある?」
「……ないと言えば、ない」
 だが、この言い方には誤りが含まれている。
 妹。そもそもお前が俺に頼み事をしてくるようになったのは最近になってからだろうが。
 やりとりが面白くならない。ツッコむ余地を与えてくれ。
 もうちょっと色々な用事で俺を呼んでみせろ。話はそれからだ。

「で、何を手伝って欲しいんだ」
「新学期の準備」
「あれ、それはもう終わったろ?」
「違うわよ。その、なんていうか……制服がおかしくないかとか、チェックして欲しいなって」
「サイズはちゃんと合ってるだろ? それとも……」
「それとも?」
「いや、なんでもない」
 それとも太ってサイズが変わったのか、などと口にして寿命を縮めるはずがない。
 伊達に危機にさらされてきたわけではない。これでも学習能力は高いのだ。自分ではそう思っている。
「変なお兄さん。だいたいいつも通りだけど」
「お前はお前で、俺に遠慮しなさ過ぎだな」
「なんで私がお兄さんに遠慮しなきゃいけないのよ。
 そんなことするぐらいなら、あの暴力女に喧嘩売ってきた方がだいぶ建設的だわ」
 この妹には、葉月さんと仲直りして俺のストレスを解消しようという建設的な考え方ができないのか。
 葉月さんと喧嘩してお前のストレスは減っても、俺のストレスは増すばかりだ。
 昨日なんか顎の骨がピンチだったんだぞ。
 このストレッサーめ。どこまで俺を危うい目に合わせるつもりだ。

「じゃ、私の部屋に来て頂戴」
「待て。そういうことなら弟の奴も読んだ方がいいだろ」
「お兄ちゃん? お兄ちゃんならさっき出て行ったわよ。ほら」
 弟の座っていたソファーには、今は誰も座っていなかった。
 テレビの電源も切れている。リビングには俺と妹の二人きりだった。
 というか、両親が居ない今は、この家で二人きりなのだが。
「あいつどこに行ったんだ? 何か聞いてるか?」
「気がついたら居なかったわ。花火ちゃんのところにでも行ったんじゃないの?」
 妹が加勢を求めてくることを予測して逃げたんじゃないだろうな、あの野郎。
 お前なんかあと二年ぐらい花火とお友達のままで居ればいいんだ。
 悶々としたまま高校生活を送り続けるがいい。
「仕方ないな。弟が居ないなら、俺が手伝ってやるしかないか」
「何よ、仕方ないって。私だって、本当はお兄ちゃんに手伝って欲しかったんだからね!」
「はいはい。どうせ俺は嫌われ者ですとも。ほれ、さっさとやって終わらしちまおうぜ」
 弟と妹の部屋に向けて歩き出す。
 妹は小声で文句を言いながらついてくる。

 葉月さんと付き合いだしたこと、妹にも言ってやらないとな。
 不機嫌になったら困るから、今はまだ黙っておこう。
 とりあえず、妹の手伝いが終わるまで。



200 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:23:04 ID:JFImW/Mk
*****

 家を出て、あてもなく歩き出す。
 すると、どうしても足が花火の家への進路を選んで、歩き出す。
 僕には居場所が少ない。
 自分の家、お祖母ちゃんの家、花火の家、通っている高校。
 僕という人間を知っている人たちは、そこにしかいない。
 たまには他の場所に行くこともあるけれど、それは買い物をするためとか、やむない事情があってのこと。
 必要がなければ行くことはない。暇を持てあましていても、足を運ぼうという気にならない。
 男友達は何人か居る。話しかけてくる女の子はたくさん居る。遊びに誘ってくる相手は男女問わずいる。
 下心や好意をあそこまでむき出しにされて、気付かないわけがない。
 彼ら彼女らの誰かと関係を結ぼうとすれば、いずれ固い信頼関係もできることだろう。
「……でも、それは」
 努力すればの話だ、と空に向けて呟く。
 僕には知らない人との関係を開拓していこうという気がない。
 今仲の良い人間との関係を保っていられれば、それでいい。それ以上は望まない。

 いいや。たった一人、例外がいた。
 花火だ。幼なじみの、葵紋花火。
 昔から仲が良くて、今までずっと変わらず好きな、気の強い女の子。
 花火の彼氏になりたい。花火に僕の彼女になって欲しい。
 初恋だった。
 花火に恋をし続け、成就させないまま、僕はこの年齢まで育ってきた。
 なぜ幼なじみの関係から、恋人の関係にシフトしないのか。兄さんもきっと気になっているだろう。
 でも、それを兄さんに言われたくなかったな。
 自分こそ葉月先輩といい雰囲気なのに、いつまでも付き合わないくせして。
 それに僕が花火と付き合わないのは、兄さんのせいだ。いや、僕のせいでもあるけれど。
 兄さんに彼女ができないと、僕は花火と付き合う決心をつけられない。

 こんな自分になった原因はわかってる。僕の心の弱さとトラウマが原因だ。
 伯母さんに暴力を振るわれていた時からだった。
 僕は兄さんに感謝するようになった。同時に、申し訳ないと思うようになった。
 僕と妹を守ってくれてありがとう。
 妹を守ってあげられなくて、代わりに兄さんに辛い思いをさせてごめん。
 こんな僕が兄さんより先にいい思いをするわけにはいかない。
 そう思うと、僕には花火と付き合う決心を固められなかったんだ。
 兄さんはきっと、俺に遠慮するなと言う。
 これでも弟をやってきて長いから、兄さんの考えぐらいは読める。
 でも、もはや兄さんの言葉だけでは、僕の考えは変わらない。

 ――僕は、変わることができるんだろうか。
 弱さを乗り越えて、兄さんのような強さを得ることが。
 どうして兄さんはあんなに強いんだろう。どこであんな強さを得たんだろう。
 僕にはわからないよ、兄さん。



201 :ヤンデレ家族と傍観者の兄 ◆KaE2HRhLms :2010/08/08(日) 10:27:34 ID:JFImW/Mk

 ふと、ポケットの中で携帯電話が振動していることに気付いた。
 表示されていたのは、葉月先輩の番号だった。
 どうして僕にかけてくるのかがわからないけど、だからって無視するわけにもいかない。
 通話ボタンを押して、久しぶりに葉月先輩と話をする。
「もしもし、葉月先輩ですか?」
「ええ、そうよ。弟君、今どこにいるの、家?」
「違いますけど、どうかしましたか? 兄さんなら家にいますけど」
「まだ家に居るの? どうして会いに来ないのよ。ケイタイ古いのと交換してまで、連絡待ってるのに!
 九時になっても連絡してこないなんておかしいわ!」
「……はあ」
 久しぶりに話すけど、ここまで落ち着きがない人だったっけ。
 もしかして、また兄さんが葉月先輩絡みでやらかしたのかな?
 たとえば、昨日妹と買い物に行っている時に、アクシデントで妹に抱きついたところを、葉月先輩に見られたとか。
 そういう事実があったって聞いたわけじゃないけど、あっさり想像できてしまう。それが兄さんの面白いところ。
「兄さんと遊ぶ約束をしてたんですか? そういうことなら、今から兄さんに連絡しますけど」
「約束はしてないけど……普通会いに来るものでしょ! あんなにはっきり言ったくせに、待たせるなんて!
 あれを聞いて勝手な勘違いだって言われても、私は絶対に認めないわ! 認めさせてやるんだから!」
 葉月先輩も面白いなあ。
 後輩から、きりっとした美人に見えるところがいいって慕われてるのに、実際は兄さんが絡むとすぐ落ち着きを無くすんだもん。
「もういいわ。こうなったらこっちから会いに行ってやるんだから!
 ごめんね弟君! また今度会いましょ!」
「ええ、はい。また今度」

 通話が切れた後、携帯電話をしまう。
 葉月先輩と兄さんの間に何が起こったのか、昨日の二人の様子と、電話での発言の端から辿って、想像してみる。
 兄さんは、葉月先輩に送られて、帰宅した。
 妹は先に帰ってきていた。二人の間に何が起こったのか、何も知らない。
 兄さんの携帯電話は壊れていた。今はSIMカードを古い端末に入れて使っている。
 葉月先輩は、さっき携帯電話を交換したと言っていた。葉月先輩の携帯電話も壊れた、のかも。
「連絡を待ってる……それに、あんなにはっきり言ったくせに、勘違いだって言われても認めない、か」
 兄さんが葉月先輩に向けて言ったのは、なんて台詞だろう。
 二人きりで、はっきり言うこと。さらに、葉月先輩が勘違いと認めたくない、中身のある台詞。
 それってもしかしたら、付き合おうって、言ったんじゃないか? それも、兄さんの方から。

 まさか兄さんが、いやでも、あり得ないとは。
 完全な否定はできない。
 いくつか情報が足りなくて不確定だけど、可能性が高い。
 兄さんと葉月先輩が付き合いだした可能性が、ある。

 もしもそうだとしたら。
 嬉しいことに、連鎖して僕も動き出せる。言いたくても言えなかったことをはっきり伝えられる。
 僕は花火のことが好きだ。ずっと一緒に生きていきたいんだ――って。
 これまで何年も我慢してきた台詞を、ようやく花火に伝えられる。
 ようやく、花火を取られるかもしれないって不安から解放される。

 これからは、花火を僕だけの女性にできるんだ。