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559 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 18:49:28 ID:byUvzcKP [2/19]
窓の外はすっかり夜の帳が下りていた。
見えるのは街灯に照らされた駐車場と、その先に見える暗い森ばかり。
そんな景色の見える窓際のベッドに少年は居た。
ここは郊外に建つ病院、手旛南病院の四人部屋である。
カーテンに囲まれたベッドの上で少年はただ記憶を反芻する。



――数時間前。
少年が目を覚ました時、そこにあの夜に出会った少女が居た。
顔を覗き込む少女と目を合わせたのは、
ほんの僅かの出来事だっただろう。
そしてまた、少女はあの夜と同じように驚いた顔をして、
額を撫でていた手を引っ込め、すぐに駆けだしていった。
少年は頭がはっきりしないまま、それをただぼんやりと見送った。

自分が居たのはベッドの上。
周辺を見回しても目に映るのは見慣れない物ばかり。
すぐにそれらが映像等で見たことのある、
病院の病室のものであるとに気付いた。
自分の着ている着衣も患者が着用するものだ。
その上、頭には包帯が、着衣の下の胴部には何か固定具らしきものが
巻かれているようで、どちらも痛んだ。
どの事実から考えても病院に運ばれたに違いないことはすぐにわかった。

しかし何故、こんなことになっているのか。
記憶を辿ろうとするが最後に思い出せるのは
深夜の道路で少女が尻餅をついた所と、耳に飛び込む車の排気音だけだ。
そこから先がまったくの空白になってしまっていて、
気付けば深夜の道路から日光の差し込む昼間の病室に居るのである。
時も場所も何もかも変わってしまっていることに少年が混乱していると、
医者や看護婦がやって来てこの状況の説明をしてくれた。

自分が車に轢かれかかった少女を助けたこと。
少女を抱えて跳んだ際、車は躱したものの車道と歩道の境目の凸に、
頭をぶつけたて気を失ったこと。
それが原因なのか一週間近くひたすら眠り続けていて、
既に四月に入ってから数日が経っているそうだ。
いつまでたっても一向に目を覚まさないことに、
このまま二度と起きないのではと心配されていたらしい。
後、どこにぶつけたのか知らないが、
脇腹の肋骨が折れていたので、そこも既に手術したと告げられた。
少年は驚愕し、耳を疑った。

轢かれかかった少女って――。
俺が、あいつを助けた?
そんな馬鹿な。

その話が本当なら頭を打ったところから記憶が途切れるならわかる。
だが実際には何故か、助けようと飛び出したことすら記憶にない。
だから信じられないと少年は医者に告げたが、
頭を打った衝撃で前後の記憶が混乱しているのだろうと言われた。
そういうことはあるのだそうだ。
少年は納得こそしなかったが、それ以上の追求はしなかった。
それより気になっていることがあり医者に伝える。
右半身に痺れがある、と。
医者の答えはこうだった。
右半身は左の脳で制御しているが、怪我したのはその頭の左側なので、
左脳にダメージが入っていると考えられる。
後遺症になる可能性もあるが、それは事故直後にはさして珍しくないとのこと。

560 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 18:51:35 ID:byUvzcKP [3/19]
脳は一度破損した部分は元に戻らないが、代わりに冗長性があり、
リハビリによって今までと違う場所に制御を代行させられるそうだ。
特に若い内は脳も成長段階にあるから、
それに対応するように脳も作られていき、なお回復しやすいらしい。
だから、まああまり気にしないように。
医者はそう励ましたが、少年の顔は決して晴れることはなかった。




またか。
俺はいつも――失っていくばかりだ。

少年は物思いに耽るのを一旦止めて、時計を見た。
時刻は午後7時半過ぎだ。
消灯時間は9時だと聞かされていたが、
それまで少年にはすることが何も無かった。
目覚めたという知らせを聞いて駆けつけて来た母親の帰り際、
家にある物を持ってくるように頼んだが、届けに来るのは明日になる。
かといって眠ることも出来なかった。
薬の影響で意識そのものは通常より朦朧としているが、
つい数時間前までひたすら眠り続けたためか
怪我の痛みと併せて、睡眠に繋がらないのだ。

そうして暇を持て余していた時、ふと誰かが病室に入ってくる足音がした。
少年のベッドはカーテンに覆われているため、
外から誰が入ってきたのかはわからない。
もう面会時間は終了している時刻の筈なので、
恐らくはこの病室の誰かの所に医者か看護師でもやってきたのだろう。
するとその足音は少年のベッドを覆うカーテンの前まで来た。
しかしおかしなことにそこで立ち止まったまま、
中の自分に声を掛けたりカーテンを開けようとはしない。
カーテン越しに見えるその人影は看護婦にしても
小さめに見える背丈で、どこか見覚えがあった。
その影がまるで逡巡しているように落ち着き無く動いている。

――まさか。

少年の脳裏に心当たりがよぎった瞬間、
人影はやっと動きを止めて、ゆっくりとカーテンを少しだけ引いて
恐る恐るといった様子で顔を覗かせた。
「あの、すいません――」
少年はその顔を見て驚いた。

あの少女だった。
あの夜に悲しげな表情を浮かべていて、
そして目を覚ました時に自分の顔を覗き込んでいた、あの少女がそこに居た。
少女は少年と目が合うと、逡巡する様子を見せつつも、
強張った顔を少し緩ませてぎこちなく微笑んだ。
「……よ、よかった。起きて、たんですね。」
「あ……。」
彼女はカーテンを開けベッドの縁にやって来た。
少年は戸惑い、どう声を掛けるべきか逡巡し、言葉が出ない。
すると少女の方から緊張しきった面持ちで、
素っ頓狂に大きな声を出した。
「あ、あの! 私のこと、覚えてます、か!?」
「……確かあの夜、道路で……。」
「は、はい、そうです。それにさっき起きた時も――」

561 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 18:54:02 ID:byUvzcKP [4/19]
「……ああ。覚えてる。それに看護婦から聞かされた。
 女の子が詰め所に俺が起きたことを知らせに来てくれたって。
 その格好……やっぱりそっちもこの病院に入院してたのか?」
少女のネグリジェ姿を見て、少年は尋ねた。
「あ、はい。ええっと……慎治、さん、ですよね?」
ベッドの横の患者名が貼られている部分を見ながら、
確認するように少女は少年に尋ねる。
「……ああ。」
「名字の方の読み方は『まかみ』でいいんですよね?」
「ああ、それで合ってる。間上慎治(まかみしんじ)。」
少年――――間上慎治はとてもそっけない態度で少女に答えた。
すると、少女も自分の名を名乗った。
「私は双葉です。七尾双葉(ななおふたば)。」
「双葉……」

慎治は双葉と名乗るこの少女をまじまじと眺めた。
数時間前に目覚めた時、彼女の髪は多少なりとも寝癖のようなもので乱れ、
グレーのパジャマらしき味気ない服を着ていたと慎治はおぼろげに記憶していた。
だが今は着替えて身なりを整えたのか、髪は櫛がかけられたように整い、
服はどこか色っぽさのあるピンクのネグリジェを着ている。
そのネグリジェの下に浮かび上がった身体の起伏は、
どれをとっても彼女が痩せ気味な体付きをしていることを伺わせる。
細めの首から、なで気味の肩、やはり細めに見える腕、
その首から手の先までの一連のラインに加えて、
胸だけには例外的に多少の起伏がある。
150cm台くらいの身長と適度に幼さの残る顔立ちから、
年は中学生くらいに思えたが、
その年齢にしては体が病弱そうに見える。

そんな印象を受けるのは顔立ちや髪型のせいもあるだろう。
彼女は整った顔立ちをしていたが、
目の下は窪んで黒ずんだ隈のようになっている。
顔全体も体と同じように単に痩せているのではなく、
もっとそれ以上に何かが痩せていた。
普段、容姿にあまり気を遣っていないのか、
髪は肩より先まで長く伸ばされているのだが髪先を見る限り、それが意図した髪型ではなく、
単にいつまでも髪を伸びるままに任せたようにしか見えない。
今では櫛がかけられているようだが、
数時間前のように髪がボサボサのままなら、なおその印象は強まっただろう。

先程からのやたらつっかえてばかりのぎこちない話し方や、
目線が定まらないおどおどした態度。
そんな人見知りしそうな態度と併せて、暗そうな見た目。
そのうえまるで、慣れない癖に無理に虚勢を張って
明るく振る舞おうとしているような様子。

まるで物語にでも出てくる病弱少女のようだった。
不治の病でいつも床に伏せっていて、
そんな生活なためか人に慣れておらず、
体調の悪さと相まって人とうまく話せないような――。

もっとも今回の場合、そんなことはないだろう。
この少女が入院しているのは自分が助けた際に
何か怪我でもしたせいで――

「!」


562 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 18:56:51 ID:byUvzcKP [5/19]
しばらく見とれていた慎治だが、ここで肝心な事を思い出した。
この双葉という少女がここに来た理由は、普通に考えたら一つしかない。

助けられた礼を言うためだ。

そのことに気付いた途端、慎治は表情を硬くし、身構えた。
だが双葉が次に聞いたのは意外な事だった。
「あの、今歩けますか?」
「え? ……まあ、歩行器を使えば一応歩けるが……。」
慎治はベッドの横に置いてある歩行器に目をやった。
少し前、看護婦に付き添われて試しに歩いてみたことを思い出す。
しかし何でそんなことを。
慎治が疑問に思うと、双葉はとても思い詰めた顔をして言った。
「ちょっと話がしたいんです。
 慎治さん、私の病室まで一緒に来てくれませんか?
 ここじゃ人が居ますから。
 誰にも聞かれたくないんです。」
そう言って双葉は、このカーテンで仕切られたベッドの内側から、
見えない外側の病室全体を見回すような素振りを見せた。
確かに慎治の記憶ではこの4人部屋の病室は全て患者で埋まっており、
どこのベッドもカーテンが閉め切られていた筈である。
ここで話をすれば暇を持て余した他の患者達の興味を
誘ってしまうのは想像に難くない。
今している会話にも、確実に聞き耳を立てられているだろう。

――仕方ない。

「……わかった。」
慎治はベッドから下りると歩行器を掴む。
折れた脇腹の肋骨が軋み、気を抜いていた慎治は顔を歪めた。


     *      *      *      *    


歩行器とは移動式の手すりのようなものだ。
これを使えばもたれるようにして歩くことが出来るのだが、
慎治もそのようにして歩行器を掴みながら、ゆっくりと病院の廊下を歩く。
無理に早く歩を進めることは出来ない。
脇腹と頭が痛む上、右半身に痺れがあるからだ。
亀のようにゆっくりと左右の足を動かして着実に進む。
その慎治に歩調を合わせるように双葉の歩みも遠慮がちだ。

お互いに雑談などは交わさず、無言だった。
慎治は無駄なことは何も言わずただ歩を進める度に痛みで少し顔を歪ませる。
双葉はそんな慎治に話しかけづらいのか、ただ先導するように歩くだけで、
ほとんど声を掛けて来なかった。
そんな沈黙が続いたためか、慎治はおかしな事に気付いた。

この双葉という奴は平然と歩いていて外傷も見あたらないが、
一体どこを怪我したんだ?
それに人に聞かれたくないから自分の病室に来て欲しいと言っていたが、
ってことは、こいつの病室は今、他の患者がいないのか?

そもそも慎治には、双葉が単に助けられた礼を言いに来た訳では
なさそうな様子であることも引っかかっていた。
もっと別の、何か重大なことを確認したがっているような――

まあいい。病室に行けばわかることだ。


563 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 18:59:23 ID:byUvzcKP [6/19]
慎治は考えることをやめた。
すると彼の興味は、普段見慣れない病院の様子に移っていった。

今歩いているのはとても長い廊下だ。
床も壁も照明も、全てが白い色している。
天井の照明がリノリウムの床に照り返して、白い輝きがなお増している。
窓の外は夜の闇に包まれているため、
コントラストで余計に白さが眩しく見える。
デザイン、照明の色などは違うが、
旅先のホテルに来たような感覚と言えばいいだろうか。
部外者にとっては全てが非日常的で、真新しい物珍しさがある。
正確には慎治には決してこれらが未経験というわけではないのだが、
それでも初めて入院する病院に興味を引かれる余地はある。
全てが慎治の好奇の対象となった。

そこで慎治は、前を行く双葉にある違和感を覚えた。
自分と同じように入院したばかりの筈なのに、嫌にこの場に馴染んでいるように見えるのだ。
だが、慎治はすぐに思い直した。

俺は怪我のせいで一週間も眠っていたんだ。
こいつがもう既にこの病院に慣れた様子でもおかしくない。

しばらく歩き続けて別の病棟に入ると、周囲の様子ががらりと変わった。
さっき通ってきたすぐ後ろの渡り廊下を振り返って比べると一目瞭然である。
病棟全体がとても古臭い。
「随分とボロイ……」
先程の一般的な病棟内より興味をそそられる場所だったためか、
慎治は努めて必要以上に喋らないようにしていたが、
自然とその感想が口をついて出た。
それを聞き取った双葉が、嬉しそうに口を開く。
「あ……ああ! そうですね。
 ここがこの病院の建物では一番古いんです。
 それは――」
二人の間にある沈黙は重苦しさがあったので、
何か話すきっかけが欲しかったのだろう。
先程まで黙っていた双葉は急に饒舌になり、
この病棟の成り立ちなどを話し始めた。
歩く度に体の痛む慎治は気分を紛らわすためにそれを黙って聞いた。

元々ここは城跡であったこと。
それが明治になってから陸軍が使うようになり、
元々この病院はそこの陸軍病院だったのこと。
第二次大戦後から国立病院となり、その辺りに建設された病棟だそうだ。
多少試験的な建築様式で特に耐震性、耐久性を重視して、
無駄と言えるほど建材の質や量が高く、極めて頑丈に作られているそうだ。
そのため取り壊しにかかる費用もとても高く、
私立病院に変わった際も、建物の耐用年数である60年が過ぎてからも、
取り壊されることなくいまだに使用しているらしい。

双葉の話を聞きながら少し休みたかった慎治は一度立ち止まり、
色合せ、くすんだ壁を撫でた。

一世紀前の遺物同然だな。
ボロイというか、ある意味レトロと言った方が――――
って待てよ。

慎治はおかしな事に気付いて、こちらが立ち止まったことに気付かずに
話を続けている双葉の後ろ姿を見た。

564 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:01:47 ID:byUvzcKP [7/19]

こいつは何でそんなやけに詳しいんだ?

「――それでなんだかんだで、古くても取り壊さなかったのは
 この病棟はマグニチュード8ぐらいの前代未聞の大地震が来ても
 耐えられる筈だかららしいです。
 建物はともかく設備までは古くないし――あ。」
慎治が立ち止まっていることに気付いて、双葉は心配そうに様子を窺う。
「あの、疲れたんですか?」
「いや、問題無い。行こう。」
「……頑張って下さい。あそこの一番奥の病室、
 あれが私の病室ですから。」

138病室。
そう書かれた古ぼけたプレートがかかっていた。
「じゃあ、入って下さい。」
病室の前に着くと双葉は引き戸を開けて、歩行器を使って歩く慎治に先に入るよう促した。
病室に足を踏み入れた慎治は驚いた。
「――っ」

ここ、個室なのか。
それに――

部屋の中にはベッドが一つと、
その他に備品らしき来客用のソファー等がある以外にも、
明らかにこの少女の私物と思われる様々なものが大量に持ち込まれている。
幾つものぬいぐるみの置かれた棚や、かなりの数の本の並ぶ棚。
他にも何を詰め込んでいるのかわからないダンボール箱がいくつかなど、
病院の病室というあくまで治療が終わるまで過ごすための一時的な場所が、
まるでここに住んでいるように一個人の色に浸食されていた。

一週間前に怪我をして入院した奴の病室じゃない。

ここでやっと慎治の中で、先程から感じていた違和感が繋がった。
続いて入ってきた双葉に尋ねる。
「なあ。もしかして、相当前からここに入院しているのか?」
「あ、はい。慎治さんに助けて貰ったおかげで、
 あの時、怪我なんてほとんどしませんでした。
 今、病院に居るのとは関係ないんです。」
「……」
「この、私の個室で話がしたかったんです。
 そこのドアと壁の厚さ、見ましたか?
 さっき言ったとおり、無駄に耐震性が高いから、
 壁がぶ厚くて防音効果まで高いらしくて、
 それでせっかくだからってドアも防音効果の高い物にしているらしいです。
 だからここなら人に聞かれる心配しないで済みますから。」

それでここに呼んだ訳か――。
納得した慎治は先程部屋の様子に気を取られて注意を払わなかった、
窓の外の美しい夜景に目を遣った。
この三階の病室は病院の周りを囲む木々の上をちょうど越す高さにあり、
遮る物の無い外の眺めは慎治の病室と比べて遥かに良かった。
眼前に広がる、街灯もなく闇の中にうっすらと浮かぶ田園と森。
そのすぐ先には総面積10キロ以上にも及び、
莫大な水を湛えた、手旛沼が見える。
広々とした沼の湖畔を取り囲むようにぽつりぽつりと明かりが見えるが、
ちょうど沼の水上にあたる部分には明かりがないので、
漆黒の闇に覆われた穴のようだ。

565 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:04:57 ID:byUvzcKP [8/19]
沼の対岸の向こうには住宅街が広がっており、
幾千もの建物から漏れる光が見える。
違う方角には市を一つ挟んだかなり遠くにある、
県庁所在地の都市部のビル街の光も見える。
近くから見れば、汚れた建物があり、
人々が歩いたり生活し、ゴミもあるだろう。
どれも綺麗でも何でもない。
だがそんな汚雑や生活感は夜の闇と距離に遮られ、ここまで届かない。
数多の宝石のような光の輝きだけが彼方で瞬くのだ。

夜景に見とれていた慎治に双葉が声を掛ける。
「えっと……じゃあ、慎治さん。そこの椅子に座って……あ、いえ。」
双葉は慎治がもたれている歩行器を見た。
「その小さな椅子じゃ背もたれもないし、座るのは危ない……ですよね。
 こっちのソファーじゃ低すぎて、立ち上がるの大変だし……
 じゃあ、私のベッドに腰掛けてくれますか?」
慎治は歩行器から手を離し、どすんと音を立ててベッドに腰掛けた。
そこは目の前の少女の汗や匂いが染みこんでいるであろう、
彼女のプライベートな場所である。
促されるまま座ってしまってから急にやたらそのことが気に掛かり、
両手や尻から伝わるベッドの感触が艶めかしく感じられ、
身を捩りたくなる衝動に襲われた。
「あ、ちょっとエアコンが効きすぎているみたい……。
 窓、少し開けますね。」
双葉が窓に手を掛け、少し横に滑らせた。
たちまち隙間から夜風が部屋に滑り込んでくる。
春に芽吹く様々な生命の香りを称えた、暖かな風が慎治の肌にも触れた。

冬にはこういった匂いがない。
凍てつく寒さが匂いを感じる鼻の粘膜を麻痺させてしまうことで
空気中の匂いまで凍らせてしまう上、
そもそも匂いの元である植物も枯れ果てている。
双葉と出会ったあの夜もどちらかと言えば、冬の余韻を色濃く残す夜だった。
それがいまやどうだ。
この新たな生命を孕ませた夜風は、次の季節に変わりつつある証拠だ。
ここに来るまでの間に少し窓の外に目をやったとき、
桜の木は緑色で花が咲いているように見えなかったが、それもきっとあと数日で終わる。
もうじき桜舞う春が訪れるだろう――

双葉はしばらくその風に当たったのち、
心を落ち着けたのか、丸椅子に腰掛けて慎治を見た。
「じゃあその、話に入りますね。
 えっと……その……」
しかしやはり中々言い出せないのか、
それとも話す内容をまだ決めかねているのか。
双葉はしばらく逡巡した後に何かを思いついたように甲高い声をあげた。
「あ、そうだ! 慎治さん、事件の事どのくらい聞かされてますか?
 例えば、えっと、あの時の車がハイブリットカーだとか!」
「……ハイブリッド? …………ああ、あったっけ、そんなの。」
それはまだ聞いてなかった。
慎治がそういう顔をすると、双葉は説明を始めた。
「はい。警察の人から聞いたんです。
 ガソリンと電気を組み合わせたタイプの方らしくて、
 電気で動いている時は電気自動車と同じだから排気音がしないんです。
 あの時の車って規制が掛かる前の車種で、音は出さないらしいですから。
 それをアクセル全開にして急加速したから、ガソリンエンジンに切り替わって
 あんな風に突然爆音が近くに……
 それで、だから、あの、その……」

566 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:06:56 ID:byUvzcKP [9/19]
双葉は再び言葉を詰まらせ、しばし逡巡する。
そしてやっと意を決したらしく、慎治に伝えた。
「慎治さん。私のこと、助けてくれてありがとうございます。」
「――っ。」
「慎治さんが、居てくれなかったらきっと私はもう……」
双葉は心持ち顔を赤くしながら、上目遣いで慎治を見上げた。
だがその視線を向けられた慎治は、急にはっとした顔をしたのち、
目を逸らし、顔を強張らせた。
「勘違いするな……!」
「……え?」
「……俺は人助けなんてする性質じゃない。
 そんなことしたって何の特になるんだよ。」
慎治は怒った顔で、語気を荒げて吐き捨てるように言う。
これに双葉は困惑を隠せない。
「で、でも、慎治さんは私のことを――」
「知らん。」
「知らないって、そんな――」
「覚えてないんだ。」
「え?」
「……何て言うか…………車道に飛び出して助けた時、
 頭を打って意識を失ったって聞いているが、
 なのに飛び出した筈の辺りのタイミングから、
 もう記憶が途切れてるんだよ。
 最後の記憶の時点じゃ、俺はただそっちが尻餅をついたのを
 見ていただけで、まだ突っ立ったまま全く動き出してなかった。
 まあ、医者は頭打ったせいで前後の記憶が少し飛んだのかも
 しれないって言ってたが…………ただな。」
慎治は双葉に疑うような目を向けて尋ねた。
「本当に俺が助けたというのは正しいのか?
 実際は記憶が途切れた時点で、意識を失って俺は倒れた。
 そっちは実は自力で車を躱しているのに、
 何故か俺が助けてくれたと狂言を抜かしている。
 正直、こっちの方がまだ俺にはしっくり来る。
 目撃者は居ないらしいしな。」
この慎治の物言いに、双葉は声を荒げて否定した。
「違います! そんなこと――!」
「するとも思っちゃいないさ。……そんな意味不明なことを。
 ただな、それでもまだそっちの方が正しいような気さえしてくるんだよ。
 要は俺にとっての実感じゃ自分がしたことじゃ無い。
 これは他人事なんだ。それに――」
ここで、比較的淡々と説明をしていた慎治が
再び語気を強めて敵意を露わにした。
「他人事なのは実感だけじゃない。
 もう機会は無いだろうが、それでも仮にもし今度、
 お前が同じ目にあったと仮定した場合、俺は絶対に助けたりはしない。
 誰が相手でもそうしてやる。
 人間の命になんて何の価値もありゃあしないからな。」
「……え?」
「……誰が死のうと、どうなろうと、俺には関係ないね。」
そう言うと慎治は双葉に見せつけるように、ゆっくりと頬を吊り上げる。
「――っ!」
誰がどうなろうと知らないばかりじゃない。
不幸になれば俺は嬉しい。
お前が不幸になれば嗤ってやるよ。
慎治の見せた狂気の貌は明らかに双葉に向けてそう語っており、
その言外の言葉を向けられたためなのか双葉は身を竦ませた。
すると慎治はおぞましい笑みを解き、無表情のまま淡々と言う。
「礼なんていい。助けたのは俺がした事じゃない。
 それよりここに俺を呼んだのは、そんな御託より
 もっと別の、何か他の話があるからじゃないのか?」

567 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:08:38 ID:byUvzcKP [10/19]
「……!」
「何となくそう思ってたけど、違うのか?
 何も無いなら帰らせてもらうが……。」
慎治がそう告げると双葉は口をきつく結んだまま、
顔を伏せて黙り込んだ。
しばらくの沈黙ののち、双葉はぽつりと言った。
「……あります。」
「……」
「今から本当のことを話します!
 だから、最後までちゃんと聞いて下さい。」
決意を決めた眼差しで双葉は慎治を見上げた。


     *      *      *      *    


この人はあたしを助けたことを否定し、感謝の言葉を拒絶した。
でも、素直に答えてくれる人が私の気持ちなんてわかるのだろうか。
そんな人は上辺だけで悲しむのがせいぜいじゃないだろうか。
だから、この人の答え方は決して間違っている訳じゃない。
むしろ都合が良かった。

最初この人の目覚めるのを待ちながら、期待を寄せていた。
でも一昨日、ここでお父さんと一緒にこの人のお母さんから
聞かされた。
目が覚めるのがあまりに遅く、
医者にもう起きない可能性も高いと言われた、と。
私は再び絶望しかけた。
それでもやはり諦めきれない想いから、藁にもすがるように
この人のベッドまで行って寝顔を見ていたのだ。
そうしてどれくらいの時間が経ったのか、突然この人が突然目を覚ました。
諦めきれない一心でそこに居ただけで、
起きた時のことなど何も考えていなかったあたしは
この人と目を合わせた途端、頭の中が真っ白になってしまった。
そのため思わず駆けだしてそのまま逃げてしまったのだ。

そのことを反省して、今日中に行動しようと誓った。
入念な準備をしたかったけど、それを行動を後回しにする言い訳に
しようとしている自分に気付いていたから。
機会を逃してしまう恐怖が、準備不足で失敗する恐怖を上回った。

準備は少ししか出来なかったが、やれることはした。
寝癖を直したり、格好も一番マシなネグリジェに替えたり、
間に合わせだけど一応身なりは整えた。
そして何より、どうやってあれをこの人に伝えるか、何度も練習した。
そうして、再びこの人の元に戻って来た。

でも、思うようにいかなかった。
緊張しきってしまってうまく喋ることが出来ず、
それでも何とか自分の病室に連れてくるところまでは成功した。
だが、ここからすぐに話を切り出そうと誓っていたのに、
助けられたお礼や関係の無い話が口をついて出た。

恋の告白ときっと同じなのだろう。
伝えなければ結局機を逸してしまうのに、失敗を恐れて現状にしがみつく。
だから現状維持の言葉しか出てこない。

でもそんな時、この人はあたしの当たり障りのない言葉を拒絶した。
助けた男と助けられた女という、まだか細く危うい繋がりは、
あっけなく切られてしまったのだ。

568 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:10:38 ID:byUvzcKP [11/19]
それが却って良かった。
これですっきりした。
しがみつける物が無くなったから、やっと踏ん切りもつく。

それにそもそも私を拒絶したこと自体、本心なのだろうか。
誰がどうなろうと知らないと言っているのに、
あんな状況で咄嗟に飛び出てあたしのことを助けてくれた。
どんなに善良でもあの時のあたしを助けるとは思えない。
だってあの時、あたしは本来なら問題無く躱せただろうから。

慎治さんは私の体を抱えて立たせ、それから横に全力で跳んだのだ。
こんな2つもステップを踏んでなお間に合っているのだから、
四肢さえ動く人間ならどんなに最低でもぎりぎり躱せるだろう。
それに尻餅をついたまま動かなかったから、
ドライバーが私に気付くのが遅れたのだろう。
逃げようと動いていればもっと早くにドライバーの目に止まり、
ブレーキを掛けるなり、ハンドルを切るなりしていた筈であって、
なお躱し易くなっていた筈だ。
あれはひやりとする場面ではあっただろうけど、
それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
余計な助けは、タイミング次第では邪魔にすらなったかもしれない。

それなのにこの人は何をしているんだろう。
慎治さんと目を合わせた時、距離は少なくとも8mくらいはありそうだった。
間に植え込みもあったので、それを飛び越えるのも時間のロスになる。
相当に早いタイミング――
あたしが確実に自力で逃げられる筈の時点で、
既に飛び出していたようにしか思えない。

つまりこの人はもしかしたら――

だから、賭けてみよう。
私はこの人に"気に入られたい"わけじゃない。
伝えてみよう、この人に。


決意を決めた双葉は口を開いた。
「さっき言ったこと、慎治さんに感謝しているっていうの、あれは嘘です。」
「……嘘?」
「私、慎治さんのこと、本当は憎んでいます。」
「――っ。」
慎治は少し驚いた顔をした。
「あの日、どうして私があんな時刻に出歩いていたのか、
 わかりますか。」
「…………いや。」
「それは……それは――」
双葉は思い切って告げた。
「私、死のうと思ったんです。」
力強く、はっきりと発声されたその声は確実に慎治の耳に確かに届いただろう。
だがしかし、慎治は今度はさして驚かなかった。
それを双葉ははっきりと目にした。

やっぱり。
この人はここまではわかっていたんだ。
だったら――

「慎治さん、一から全部話します。
 長くなりますけど最後まで聞いて下さい。」

双葉は過去に遡って、話を始めた。

569 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:12:15 ID:byUvzcKP [12/19]


     *      *      *      *    


物心ついた頃から私は病気だった。
世の中に症例のほとんど無い、先天性の奇病にかかっているのだ。
家庭はとても裕福なのでお金には糸目を付けずに治療することが出来たが、
そもそも完治に繋がる治療法はまったく存在せず、
効果の薄い対処療法を続けるしか無かった。
今まで生きてこれたことは奇跡だったそうだ。

病気は私の体をベッドの上にくくりつけ、
そこで高熱や悪寒や息苦しさに苦しみながら過ごすことを強要した。
昏睡状態になることも珍しいことではない。
極限の苦しみが私を覆い尽くし圧死させようとする。
死の実感だけが手に触れられそうな程、はっきりと感じ取れた。
悪夢同然で無きに等しき意識のために言葉すら思い浮かべられないが、
それでも私は自分を覆い尽くす苦しみに向かって確かに懇願した。

助けて。
苦しいの。
だから、殺して。
もう、楽にして。

だが、答えは返ってこなかった。
あともう少し苦しみを強めれば、私は窒息して闇に呑まれるだろう。
だが苦しみはあと少しの所で、必ず踏みとどまり、ただじっとこちらを見つめるだけだ。
その時間はとてつもなく長い。
苦しみというのは時間をとても長く感じさせ、
それがあの極限の拷問であれば何十倍、何百倍にも感じるからだ。

地獄そのものだった。

もちろん、苦しみにもいつか終わりは来る。
体調が良くなれば昏睡状態から目を覚まし、地獄からも解放された。
こういった場合、普段は健康な人なら自分の命が繋がったことに安堵するのだろう。
だが、私はその度に絶望した。
わかっているからだ。

何も終わらない。
すぐにまた、次の苦しみがやって来ると。

完治しない以上は終わりなど無い。
体調が悪い時は病気に苦しみ、
体調が良い時にも次の苦しみへの恐怖におののくしかないのだ。
そんな生活が今までの人生の全てだった。

普通の子のように、まともに学校に通ったことなどなかった。
決して通えないわけでもない。
必ずしもベッドの上で過ごさなければならない程常に衰弱しているわけではないし、
少なくとも突然意識を失って倒れてしまうようなことは非常に少ない。
ほとんどの場合、体調が良い時から悪くなって昏睡に陥るまでには
最低でも数時間はかかった。
だから今までに二回だけ、通おうとしたこともある。
だが、私は他の人間と同じように学校生活を送ることは出来なかった。

570 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:13:46 ID:byUvzcKP [13/19]

体調が良い時のみなので、登校するのはまばら。
それなのに登校しても、体調が悪化してすぐに早退。
同級生の他の女子達の中に溶け込もうと努力したこともある。
実際に挑戦してみると自分はお喋りが苦手ではないらしく、
うまくやれないわけではなかったし、
決して一方的に虐められたというわけではなかった。
だが、それでも私は一人のままだった。

最初に学校に通っていた時、自分が病気であることを
周囲の人間は気遣ってくれるようだった。
でもすぐに何かが噛み合わないことに気付いて、
しばらくしてようやく理解した。
彼らの気遣いは、完全に上辺だけ取り繕ったものか、
もしくは自分の体験した苦痛に照らし合わせて
理解した気になっているかのどちらかだと。
よく話していたクラスの女子達が、陰口を言っているのを聞いたことがある。
こっちの苦しみを全く理解しない物言いに、つい怒ってその女子達を大声で責めた。
するとそれ以来、私は避けられるようになり、
それがきっかけで結局学校に通うのをやめてしまった。

数年後、二度目に通った時は、前回の点を改めた。
病気が一体どれだけ苦しいか必死に説明すれば周囲は引くだろうし、
仮に説明しても理解などしてもらえない。徒労に終わるだけだ。
本音は胸の中にしまいこんで、自分を偽ればいい。
そうするとうまくいった。
例え自分の陰口を言っていようと、本人が居ない時なら陰口は
平然と皆の話題に出てくるものだ。
少なくとも自分が居る時には表立って悪口は言わず、
居ない人間の陰口に参加し賛同しても構わない以上、
特別馬鹿にされているというわけではない。
そういう理屈はわかっていた。
だが結局は耐えきれず、また行くのをやめてしまった。

人の輪に入り溶け込むためには
周囲に合わせなくてはならないのに、私は根本的に違いすぎたのだ。
よく人付き合いには我慢も必要だと言われる。
だが逆にその自分を抑える苦労もまた、同じ程度のものであれば、
他人と共有して分かち合う喜びにもなるのだろう。
だが、私は他人とは桁外れの苦しみを抱えているために、
その差の分、必死に自分の気持ちを押し殺していなければならない。
自分を偽ることはただ疲れるだけだった。

何よりそんな友達ごっこは、病気の苦しさから比べたら些細なものでしか無かった。
病気はあまりに直接的に苦しみを肉体に伝え、精神を消し炭にせんばかりに焼き続ける。
どんな喜びも、あの業火には焼け石に水も同然だ。
この14年の人生の中ではそれなりに体調が良かった時間も決して
少なくないだろう。
だが昏睡状態の間に、実時間の数百倍にも及ぶ苦しみの時間を体感している。
それは圧倒的な力を持って、覚醒している僅かな時間の記憶や感覚をあっさりと塗りつぶし、
私の人生の体験の全てをあの地獄の渦中にしてしまう。
ささやか程度の喜びでは、何にもならないのだ。
だから楽しみを得るために様々な行動を起こそうとする
人間としての極自然な行為、
努力ですらない努力が私には出来なかった。


571 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:16:12 ID:byUvzcKP [14/19]

いくら病気で体が悪いとはいえ、
傍目から見れば私は少女の姿をしているだろう。
だが、病気で味わう体感時間と苦痛による疲弊で、
私の心は既に老婆を通り越して何百歳、何千年という年齢を迎え、
その人生経験によって壊れていたのかもしれない。
だから私は誰とも心を繋げなかった。

結局私は床に臥せり、今日に至るまで永遠に思える時間を一人で病気と戦い続けた。
もっとも惰性でたまたま生き延びていただけだ。
それでも本来いつ死んでもおかしくはないのにここまで生き残ってきたのは、
やはり縋るものが残されていたからだと思う。

それは誰かに対する淡い期待だった。

今まで、他人と付き合うことで目に付いたのは、
人と人との関係の軽薄さと、心に届かない力無さだけだった。
愛情、友情、親子愛、連帯感――。
世間には人と人との関係を語る言葉が溢れていて聞き触りがいいが、
どんな関係も内実の所はそんなものなのだろう。
それでも仮に。
本当にかけがえの無いものが、私を絶望から救ってくれるとしたら――

死を望む傍ら、ほんの少しの希望を常に抱き続けた。
だが時と共に莫大な苦しみが積み重なっていく中、
死を望む願望はどんどん大きくなるのに希望はあまりに朧気な灯火でしかない。
いつしか夜空に浮かぶ彼方の星のような僅かな光は
闇に覆い尽くされてゆき――
年が14歳になった頃。
今からほんの数ヶ月前、遂に私は耐えられなくなった。
本来ならそろそろ受験を意識し未来の高校生活に思いを馳せ始める時期に、
私は自分の命を自分の意志で絶つことを決心した。

最初は飛び降りをしようと思い、病院内で適切な場所を探した。
結局、3階にある自分の病室では高さが不十分だと思い、
一番高さのある本館の第一病棟から飛び降りることに決めた。

深夜に第二病棟から抜け出し、
第一病棟の非常階段を一歩一歩登り、遂に最上階の8階に到達した。
高さがあるうえ、非常階段は吹き抜けのようなもので、しかも今は二月だ。
冷たく寒い強風が轟音を立てて鳴り響き、肌に突き刺さる。
運命は最後の最後まで自分を歓迎してくれないのだと感じた。
だが、これでこそ私の命の幕切れには相応しい舞台だ。

私は手すりから、目も眩むような彼方の地面を覗き込む。

ここから飛び降りれば頭は潰れ、
あらゆる関節は千切れるか奇怪に折れ曲がり、
もはや遺体とは呼べない見るに堪えない姿になるのだろう。
だが、死んだ後のことなど関係ない。
今、吹き付けている風のように、どれだけ運命が私につらい仕打ちを
しようとも、少なくともここから自分の意志で飛び降りれば、
この人生の最後の最後にこの夜空を舞えるのだ。
だから、行こう――

その筈だった。

「どうしてっ………!」

572 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:17:26 ID:byUvzcKP [15/19]
それが、出来なかった。
手すりの上に乗ろうとする度、
否応無く体が竦み上がって、足から崩れ落ちてしまう。
何度やっても、結果は同じだった。
何も出来ない自分の不甲斐なさにただ泣くことしか出来なかった。

それから一月後。
死ぬという逃げ道すらも断たれて抜け殻のようになっていた時、
本館のロビーの自動販売機の近くで、
柄の悪そうなの二人組の男がしている話が偶然耳に飛び込んできた。
この病院から田園を挟んだ向こうの山の上、
新興住宅地近くの道路を走り屋がよく走っていて、
深夜には80km以上の猛スピードで飛ばしているという話だ。
わざわざ旧式のガソリン車使って、爆音を立てる車が集まるらしい。
そこで閃いたのだ。
車に飛び込んで死んでしまおう、と。
だから――


     *      *      *      *    


「――だから、あそこに行ったんです。
 速度がしっかり出ている車じゃないと死ねないと思ったから……。」
「……」
慎治がずっと黙ったまま聞いている中、双葉はただひたすら話を続けていた。
話を始める前にはあれほど言葉を選んで、
たどたどしくしか話せなかったのが嘘のように、
口からどんどんと言葉が出て行く。
双葉は気付いていた。
話しているうちに募ってゆく、自分の気持ちの昂ぶりに。
「それで、車が来た時にここに飛び出せば今度こそちゃんと死ねる筈と思って
 あそこに立っていたら慎治さんが居て、それについ驚いた時に
 重なるように車の爆音が聞こえて、尻餅をついて……」
「……」
徐々に言葉を選ぼうと、考えようとしなくなる。
胸の奥から湧き上がる感情に身を委ね、どんどん早口で大声になってていく。
「でもその時、気付いたんです。これなら確実だって。
 普通に立っている時に撥ねられて遠くに飛ばされたら衝撃が分散するし、
 尻餅をついた状態なら姿勢が低いからドライバーが気付くのも遅れます。
 自殺にはもってこいですよね。」
話している内に自分を晒け出すことに対する恐怖も募っていく。
しかしもう今更止められない。
既に双葉の感情の堰は決壊寸前だった。
「運命なんだ、って思いました。
 だって、そうでしょ!?
 単に車の爆音がしただけなら、私だって転んだりしないです。
 慎治さんを見て驚いて、注意が向いたタイミングであの爆音がした。
 そんな偶然が揃ったから――
 いや、そもそも自分の意志で飛び降りることが出来なかったら、
 あそこに行くことになったんです。
 死ぬ時まで私は運命に好きなように決められて……!」
「……」
「でも、だからこそ諦めがついたんです。
 これは決められたことなんだ。
 これでやっと楽になれるって。
 なのにあなたは……それを認めずに、変えてしまった。」
「……」
もう止められなかった。
俯き、膝を握りしめながら、叫んだ。

573 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:18:41 ID:byUvzcKP [16/19]
「慎治さん。どうして、あたしを助けたりしたの!?」
「……」
「あなたが助けたりしなければ、あたし、死ねたのに!
 苦しみからも解放されて、楽になれたのに!
 唯一のチャンスだったのに!
 なのに、どうして助けたりしたの!?」
「……」
いくら叫んでも、慎治の方からは何一つ返事が返ってこない。
それでも双葉は慎治に訴えかける。
「どうして……? どうしてよぉ……。」
目尻から次から次へと涙が零れ落ちていく。
「うっ……ひっく……えっく……」
もう全てを話し終え、もはや出せるのは嗚咽だけとなった。
だが、それでも慎治はただ黙ってこちらを見ているだけなのか、何もしてこない。

既に激情を吐き出しきったためか、流れる涙と共に興奮もゆっくり静まってゆく。
だが話している内に募った恐怖は、彼女の身の内にそのまま残された。
抑えきれない衝動を言葉と共に出しきった今、
その恐怖だけが際限なくどんどん膨れあがっていく。

話を終えた今、双葉がすべきことは慎治の反応を確認して、"それ"を確かめることだ。
そのためにわざわざこの病室に呼んで、自分の心の全てを吐露したのだから。
だが双葉には俯いた顔を上げて、慎治の様子を直視する勇気が持てなかった。
頭の中に響くのは否定的な言葉ばかり。

やっぱりわかってくれるわけなんてない。
なんて馬鹿な事考えてるんだろ。
こんなこと高望みだ。
だってさっきまでこの人はあの様子だったんだから、
このまま無視されるか、くだらないと一蹴されるに決まっている。
よくても普通の人がするような上辺だけの同情が関の山だ。
でも、そんなずっと昔に捨てた物なら、最初からいらない。
だから。
だからもう――諦めよう。

ネグリジェの裾で涙を拭う間に双葉は覚悟を決め、ゆっくり顔を上げた。
だがその瞬間、双葉は固まった。

慎治の目尻から涙が零れていた。

……え?

双葉はわけがわからなかった。
何故、そんな表情をするのか。
答え自体はあまりに簡単で、冷静ならば何の造作も無くわかることだ。
だがそれを見た瞬間、双葉の体の中は一瞬でわけのわからない、
膨大な感情に満たされた。
心臓はおかしくなってしまったように早鐘を打ち、
その初めての体験に双葉は何も考えられず、ただ感じることしか出来なかった。
自分が何を確かめようとしていたのか、それすらも忘れてしまっていた。

この人はどうして――

そうして双葉が呆然していると、
慎治の口からぽつりぽつりと重くか細い言葉が漏れ始めた。
双葉は目を奪われたように慎治を注視する。
「その……俺は……俺は……」

574 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:19:46 ID:byUvzcKP [17/19]
だが慎治は何かを言おうとしたその瞬間、急に細めていた目を見開き、
彼に視線を向けている双葉と目を合わせた。
その途端
「……ぁ。……っっ!!!」
慎治は突然小さな声を上げ、口を塞ぐように自らの手で押さえた。
「あ……その……これは……」
一度は合わせた目を双葉から逸らし、視線を当て処もなく泳がし、
しどろもどろになる慎治。
その行動の意味は双葉にもわかった。
知られたく無い本心を慎治は見せてしまったのだ。
それを悟った瞬間、双葉の胸が一際大きく高鳴った。

「――!」

もはや双葉には先程の慎治が何を言おうとしたのかなど、どうでもよかった。
言葉が聞けなくとも、言葉よりも先にある慎治の気持ちはわかったからだ。
水道の蛇口を限界まで閉めても残った僅かな水滴が滴り落ちるように、
慎治が流した涙も、何かを言おうとした時に漏らした僅かな言葉も、
どちらも彼の嘘偽りの無い想いが溢れ出てしまったものだということを。

そこで初めて双葉は慎治の気持ちのみならず、本当に全てを"わかった"。
慎治の本心がわかったことで、自分自身の心を満たした感情にも、
やっと理解が追いついた。
この感情は何というものなのか。
そしてどうして慎治を見てそんな感情が湧いたのか双葉は理解し、
名付けられていなかったその感情にふさわしい言葉が宛てがわれた。

その瞬間、双葉は『歓喜』で満たされた。

あ、ああ。
やっぱり、そうだった。
この人は、この人は――。

先程まで悲しみの涙を流し強張りきっていた双葉の顔が、
全く別の新たな涙が零れると共に綻んでいく。

しかし、慎治の方は別だ。
自分のしたことに動揺しきって平常心を必死に取り戻そうとしているのか、
今度は慎治の方が双葉を見ておらず、その変化に気付いていない。

すると双葉は椅子から立ち上がり、慎治が視線を向ける前に
彼の前に置いてある歩行器を掴んで部屋の端に引きずっていって、慎治から離した。
「……?」
歩行器は慎治が自分の病室まで歩いて戻るために必要な器具だ。
動揺しきっていた慎治だが、その双葉の意味不明な行動に目を丸くした。
双葉は椅子まで戻ってくると、目尻から流れた最後の涙を拭い、
慎治の名を呼んだ。

「慎治さん。」
「――っ。」

慎治の視線の先――そこには、花開いていた。
今まで15年以上も茎だけは成長はしてきたが、
蕾を堅く閉じたまま一度たりとも開くことの無かった、
咲き方すら知らなかった花が、咲いていた。
双葉は今まで誰にも見せたことの無い、
本当に屈託の無い表情を慎治に見せていた。

575 名前:第二話「見えない糸」  ◆Thmxzr/sD.HF [] 投稿日:2010/08/20(金) 19:21:28 ID:byUvzcKP [18/19]

「ねえ、話しよ。」
「……え?」
「歩行器は帰るまで没収するからね。」
「え? ちょ――」
「駄目。さっきは帰るなんて言ってたけど、そこの時計見てみてよ。
 まだ時間は8時25分でしょ。
 帰るのに15分としても消灯時間まで20分もあるじゃない。
 それまでどうやって時間を潰すの?」
「あ……その……」
「ねえ、どうするの、ねえ?」
双葉は慎治に無遠慮に顔を近づけて迫る。
そこには先程まであった、どこか物怖じして人見知りしそうな印象や、
無理矢理取り繕った不自然な明るさが微塵も無くなっている。
何より、それらの根源となる底知れぬ憂いのようなものが消え去っていた。
天真爛漫――――全ての振る舞いが自然なままに明るかった。
嵐が吹き荒れた後、空が雲一つ無く晴れ渡るように、
涙を流し終えて赤くなったその顔に、年相応の少女だけが残されている。
そのあまりの変わりようと積極性のためか、慎治はたじろいだ。
「いや、30分なんてすぐじゃ――」
「甘い。」
双葉は慎治の眼前に指を突き出した。
「――っ。」
「慎治さんって入院生活を舐めてかかってるでしょ。
 そういえば、慎治さんって高校生だよね。
 もしかして学校で勉強しているよりは楽とか少しは思ってる?
 でもね、ここでの時間は長いよ。
 それはもうっ、滅っ茶苦茶ね、長いんだから。」
「……」
「でも楽しければきっと……。きっと短くなる筈だから。
 長くても苦しいだけじゃ仕方ないでしょ?
 どんなに短くても……それでもいいじゃない。
 それはかけがえの無い時間なんだから。
 だから、ね?」

その時一陣の風に乗って、窓の隙間から何かが病室に滑り込んだ。
二つの桃色が部屋を舞う。
こんなにも早く咲き、そして散っていったのは、
一体どこの若木のものなのだろうか。
ふわりとベッドの端に舞い降りたのは、二枚の桜の花びらだった。