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111 名前: 黒い陽だまり ◆ 4kLn5BFD9Y 2010/08/26(木) 02:01:49 ID:YolO5loE0

十時頃、会社のデスクで累々と並ぶ仕事を黙々と消化していると、ポケットの中の携帯がこれみよがしに振動を伝えてきた。
メールが届いたようだ。
見てみると、送信者の欄には市川龍治と表示されていた。
彼女の、兄の名前だ。
ここ五年程は会っていなかった。
内容は、今日の午後に会えるかどうかを尋ねるものだった。

うちの課では、仕事の大部分は個人の裁量に任されている。
とにかく仕事の期限を守り、きちんとこなすことだけが要求される。
確かに仕事は多少残っていたが、どれも急を要するというほどではなかった。
時間が作れないわけではない。
しかし、気は進まなかった。
とはいえ、彼女が死ぬ前も死んだ後も、龍治さんには数え限れないほどお世話になっていた。
それを考えると、無下に断る事も出来ない。
僕は少し考えてから、午後三時に、彼女が死ぬ前に三人でたまに集まっていた喫茶店で会いたい、という旨の内容のメールを送信した。


その喫茶店は、あの日彼女と訪れたレストランから歩いて五分程度の所にあった。
大学から近いものの、少しわかりづらい場所にある上、独特のたたずまいをしているせいで大学生のたまり場とはなっておらず、落ち着いた雰囲気を保っている。
そこが気に入って、僕たちはよく談笑の場としてこの喫茶店を使わせてもらっていた。

少し薄暗い照明に、木目調の古びた壁。店内は、あの頃とほとんど変わっていなかった。
マスターも当然同じ人だったけど、対応を見る限り僕のことを覚えている訳ではなさそうだ。
多くはないだろうが、ここにも大学生が来ないわけではない。毎年新しく現れる大学生の顔を全て覚えていろ、という方が酷な話だ。

十分ほど待ったところで何とはなしに窓を見ると、ちょうど遠くの方から龍治さんがやって来るのが見えた。
昔から龍治さんは、別段変わった外見ではないのに、妙に存在感のある人だった。
例えば渋谷のセンター街で後姿をチラリと見ただけでも、僕はその人が龍治さんだとすぐに当てられるだろう。
表現しにくいのを無理やり言葉にするなら、彼はどこか街に溶け込んでいないところがあったのだ。
以前、街が彼を拒絶しているのか、それともその逆なのかをじっくり考えてみたことがある。
結局、結論は出なかった。
今思うと、どちらも当たりでどちらも外れな気がする。
それ以上は、僕には説明できそうもない。
龍治さんは、そういう人だった。
「やあ、久しぶりだね晃文君。わざわざ時間を取らせてしまって申し訳ない」
店の中に入った龍治さんは、手をあげながら柔和な笑顔で歩いてきた。
龍治さんの風貌は依然とたいして変わっていなかったけど、僕はそのどこかに小さな違和感を感じた。
「いえ、僕は別に大丈夫なんですけど、龍史さんの方こそお時間大丈夫なんですか?」
それは無視できるほど小さな違和感だったから、僕は気にせず話を続けた。

龍治さんは、僕が卒業した大学で教授をしている。
僕がいた頃は講師をやっていた。
頭でっかちではない柔軟な思考、斬新な語り口、権威に媚びない姿勢。
決して単位を取りやすいというわけでもないのに、当時から龍治さんのの講義は定員に収まったことが無いほど人気だった。
若くして教授になった今では、数多くの講義を受け持っていると聞く。
研究も精力的にしているようだし、そうそう時間が作れるというわけではないだろう。
「何、一杯の茶のためなら、世界なんて滅びたって構わないんだ。それに、たった一つの講義が休みになった程度で、学生達が気にするものか」
今頃、教室一杯の生徒達が待ちぼうけを食らわされているのだろう。
想像すると、すこし微笑ましい。
112 名前: 黒い陽だまり ◆ 4kLn5BFD9Y 2010/08/26(木) 02:03:16 ID:YolO5loE0

「今時、ドフトエフスキーなんて流行りませんよ」
「いやいや、最近の学生はこういう冗談を分かってくれなくてね。理解してくれる人間と話すのが久々で、つい嬉しくなってしまったようだ」
「僕がいた頃も、そんな小難しい冗談が分かる人間はそういなかったと思います」
僕にしたって、龍治さんに勧められていなければドフトエフスキーなんて読みはしなかったと思う。
「ああ、確かに君は、あの頃から中々異質な存在だったな。しかし、あの頃の学生にはまだ君みたいに個性的で面白い奴が何人かはいた。ここ数年は一人も見ないな」
龍治さんはそう言って、小さく苦笑した。その体は驚くほど小さく見える。
恐らく、昔から深い親交のある僕だから気づいたんだと思う。
龍治さんの体は、どこか以前と違っていた。
知性をたたえた静かな眼差しは、確かに変わっていない。
しかし、あの頃の龍治さんの中にあった決定的な何かが、全く消えて無くなっていた。
それは、少し見る分にはわからないほど些細な変化だ。
だけど、それなしでは十年前の龍治さんを語れないほど、重要な何かを今の龍治さんは失っていた。
以前は、大きいとはとても言えないその体躯から、圧倒的な圧力―『カリスマ性』とでも言えばいいだろうか?―を放っているような人物だった。
目の前の人間からは、それが欠片も感じられない。
そして、あの精力に溢れた青年と、目の前にいる小さな男性をつないでいるのは、十年という歳月だと言う。
だとしたら、僕はその十年を好きになれそうもなかった。

「何となくなんですけど」と僕はしばらくしてから呟いた。「今は世界が面白すぎるんで、学生の方で面白くなる必要が無いんだと思います」
「どういうことかな?」
唯一昔と変わらないその静謐な眼差しで、龍治さんは僕の視線を鋭く捉えた。
「この前テレビで見たんですけど」と僕は説明のために話しだした。
「街角で聞いた今年の上半期のニュースランキングを特集した番組をやってたんです。首相の辞任は四位だったんですけど、一位は何だったと思います?」
僕がそこまで言うと、龍治さんはゆっくりと目の前の紅茶を口にした。
深く味わっているのが、傍から見ているだけでもよく分かる。
昔から、ここの紅茶は龍治さんのお気に入りだった。

少し飲んだあと、龍治さんは満足げにカップから口を離した。
この人は、本当にうれしそうに紅茶を飲む。
たとえ紅茶アレルギーの人であっても、この姿を見たら思わず紅茶を口に運んでしまうことだろう。
龍治さんが紅茶アレルギーの人と無縁であることを願うばかりだ。

紅茶の余韻を楽しみながらも、龍治さんは僕の質問について深く考え込んでいるようだった。
「それ以上のニュースなんて、あったかな」と龍治さんは長い沈黙の末に、諦めたような口調で答えた。
「もしかしたら僕が忘れているだけで、本州が真っ二つにでも割れたのかもしれない」
「一位は、Wカップでした」
ちなみに、僕はWカップを見ていない。全く興味がなかったからだ。
龍治さんは、遠くを見るような瞳で外を眺めた。

「少し予感はしていたけど、なげかわしいことだね。それで?」
少しばかりの間があった後、彼はそう答えた。
「自分が住んでいる国のトップの首がすげ変わったことより、遠くで開催されたスポーツ大会のほうが大きな扱いを受ける。これって、凄く面白くないですか?」
「確かに」と、彼は得心のいったような顔と、諦念の滲み出たような声で答えた。
「わざわざ自分たちが面白くなる必要性が感じられないほどに、愉快な話だ」
「多分」と僕は答えた。「そういうことなんじゃないかと思ってます」
「久々に君とこういう会話が出来て、本当に楽しいよ」
彼は人懐っこい笑顔でそう言った。
「そう言ってもらえると、こちらも嬉しいです」
もちろん悪い気はしないけど、僕はこういう会話をしに来たのではない。
「で、本題は何なんですか?」
そのことに気づいた僕は、龍治さんに続きを促した。
「ああ、その目も久しぶりに見るな。怜悧でこの上なく澄んでいるのに、不思議な意志を感じさせる力をどこかに秘めている。とても面白い」
龍治さんは、楽しげに笑っている。
「話をそらさないでください」
気恥ずかしさもあって、僕は少しつっけんどんに言った。
113 名前: 黒い陽だまり ◆ 4kLn5BFD9Y 2010/08/26(木) 02:03:58 ID:YolO5loE0

「いや、悪かった。気を悪くしないでくれ。じゃ、本題に入ろう」
龍治さんはそう言ったあと、またゆっくりと紅茶を口にした。
「実は、話したいことが二つほどある。まず一つ目だが、これは言わなくても分かってるんじゃないかな」
分かっていた。
彼女の、墓参りの誘いだ。
「その話でしたら、毎年断っているはずです」
「もう十年になる」と龍治さんは諭すように言った。
「それだけあれば、八歳だった子供はもう大学生になる。その子供次第だが、もしかしたら個性的な大学生にだってなれているかもしれない。違うかね?」
違わない。
確かに、恋人の死を乗り越える期間として、十年という歳月が短すぎるとは言えないだろう。
「僕も」と、僕は半ば自問するように言った。「僕も、よく分かってないんですけど」
「彼女が死んだときに僕が感じたあの感情は、どうも悲しみという言葉をつけていいような代物じゃない気がするんです」
「興味深いことに違いはないんだが」と彼は苦笑しながら言った。「君はもう少し分かりやすい物の言い方を学んだほうがいいかも知れないな」
「昔から努力はしてるんですが」と僕も顔をしかめた。「中々難しいもんです」
「まあ、それはそれで個性とも言えるのかな。さあ、続きを聞かせてくれ」
「分かりました。彼女が死んだとき、僕は確かに塞ぎこみました。周りの人は皆その原因が、彼女の死にあると思ってました」
「違うと?」
龍治さんは、僕の眼の奥にある何かを見つめるような視線を送ってきた。
「もちろん違いません。でも、それで全てではない気がするんです。それに、本当に何となくなんですが、原因となる感情が悲しみや喪失感だけとも思えません。
そのことについて僕の中で整理ができるまで、彼女に会うことは出来ません」
彼女との最後の会話の内容は、誰にも言っていない。
龍治さんにもだ。
この僕の思いは、おそらく龍治さんには想像もつかないんだろう。
当たり前のことだ。
当人だって良く分かっていない上に、龍治さんはあの会話を知らないんだから。
それでも龍治さんは、僕が何かを抱えていることを何となく感じとったらしい。
龍治さんは、恐ろしく深いため息をついた。
強く、老いを感じさせる。
十年前を知る僕にとって、その姿は正視に耐えない。
「なんだかね」と彼は郷愁を誘うような声で言った。「妹の死によって本当に何かを失ったのは、肉親以外では君だけじゃないかと思うんだ」
そんなことは、ない。
「もっと多くの人達です」
「うん?」
「これから彼女と出会うはずだった人達も、皆、得られたはずの何かを失いました」
彼はまたあの遠い眼差しで、どことはなしに上の方を見た。
別に、何が見たいというわけではない。
それが考えに耽る時の癖だということは、昔からよく知っていた。
「君は、若いんだな」
その声には、微かに羨望の響きが含まれていた。
「あなたと十も離れてませんよ」
僕は、それをあえて無視するようにして言った。
龍治さんという人間と、若さへの羨望の二つが、僕の中で全く一致しなかったのだ。
「老いはそんなもので決まりはしないよ。君は確かに若い。僕はそう思う」
そう言う彼の姿からは、確かに若さが感じられない。
僕はその時、この世で最も残酷なのは殺人鬼でも独裁者でもなく、案外時間だったりするのかもしれないとぼんやり思った。
「しょうがない、諦めるとしよう。だが、万が一決意が変わったら連絡してくれ。命日までまだ一週間ある」
「一つめの話は、終わりですね」
114 名前: 黒い陽だまり ◆ 4kLn5BFD9Y 2010/08/26(木) 02:05:11 ID:YolO5loE0

「急かさなくてもすぐ話すさ。二つ目の話だが、仕事は普段何時頃に終わるかね?」
「大体六時ぐらいですかね。相当早い方だと思います」
質問の意図はよくわからなかったけど、僕はとりあえず答えた。
退社時間が早いのは、別にうちの会社の方針というわけではない。
ただ単に、僕がそれまでに仕事を片付けているというだけのことだ。
割合暇な部署なので、それでも十分にこなせている。
「ふむ。で、年収はどのくらいだ?」
隠すような関係でもない。
僕はその質問に対して事実を答えた。おそらく、同年代の平均ぐらいのものだろう。
「そうか」と彼は言ったあと、しばらく考え込んだ。
「君は、希を覚えているか?」
市川希。龍治さんの姪の名前だ。龍治さんのお兄さんの子供と聞いている。
確か初めて会ったときは7歳だったはずだ。
両親とは小さい頃に死別しており、それ以来龍治さんと二人で暮らしていた。
そのせいか、龍治さんは本当の子供のように希ちゃんを可愛がっていたし、希ちゃんの方も龍治さんに懐いていた。
「もちろん覚えてますよ」
「君が、希にとても懐かれていたことも?」
もちろん覚えている。
龍治さんの家にはたびたび遊びに行っていて、その時にはよく希ちゃんと遊んであげていた。
僕の何を気に行ったのかは未だに分からないけど、希ちゃんは僕が来るたびに全身で喜びを表現してくれた。
夏休み中は、家庭教師のまねごとをして宿題の手伝いをしたこともある。
勉強嫌いの希ちゃんが、その時ばかりは喜んで勉強してくれたことは、今でもよく覚えている。

彼女が死んでからも惰性で時々遊びに行っていたけど、少しづつ訪れる間隔が伸びていき、三年の夏にはもうほとんど行かなくなっていた。
希ちゃんが、成長していくとともにどんどん彼女に似てきたからだ。
ほどなく、希ちゃんを見るたびに彼女を思い出してしまうようになった。
あまり来なくなったことをひどく悲しむ希ちゃんに愛情を感じていなかったわけではないけど、
僕は希ちゃんに彼女の面影を見てしまうことに耐えられなくなっていた。
一ヶ月に一回くらいの頻度でしか行かなくなった頃には、僕が帰ろうとするたびに希ちゃんは泣きながら必死でぼくに抱きつき、決して離そうとしなくなった。
一番ひどかった時は、結局龍治さんの家に泊まることにして、希ちゃんが寝ている隙に帰ることにしたほどだ。
しかし、希ちゃんは寝ている間に僕がいなくなることを恐れて、決して眠ろうとしなかった。
結局、朝方になって希ちゃんがうたた寝した隙に逃げ帰った。
あの年齢であそこまで眠らずに耐えたのは、今思うと相当つらかったはずだ。
「お兄ちゃんがもううちに来なくなっちゃう」と龍治さんに涙ながらに相談したこともあるらしい。
それを聞いて心が痛みはしたものの、小さい頃の記憶なんて、大人になればそのうち忘れてくれるだろう、ぐらいに考えていた。

「もちろん覚えていますよ。希ちゃんがどうかしたんですか?」
「今、希は高校二年生だ。大学受験も考えている」
「はあ」
「大学受験には、何が必要だと思う?」
「忍耐、ですか?」
「いいや、もっと根本的なものさ。勉強、だよ」
言われてみれば、確かにその通りだ。いくら忍耐力のある人間でも、なにも学んでいなければ受験はできないだろう。
「私は、そろそろ希を塾にでも入れようと考えていた。しかし、希はそれを強く拒絶している」
「まあ、勉強嫌いな子供でしたからね」
「そういうことじゃない。希は、勉強することに反対したわけじゃない。塾で勉強することを拒絶したんだ」
一体、何が言いたいのだろう。
「君は、夏休みに希の家庭教師をやってくれたことがあったな」
「ほんの真似事みたいなものでしたけどね」
「希は、あの時以上に熱心に勉強したことがない」
少し、話が見えてきた。
115 名前: 黒い陽だまり ◆ 4kLn5BFD9Y 2010/08/26(木) 02:06:06 ID:YolO5loE0

「家庭教師を、今一度やってくれないか。希はそれを強く希望している。というか、そうしてくれなければ大学受験なんてしない、とまで言っている」
「急にそんなこと言われても、困ります」
「頼む。希の将来がかかっているんだ。君だって希と久しぶりに会いたいだろう。時給は二万円出そう。日曜だけでもいい。もっと言えば、勉強を教える必要もないかもしれない」
「え?」
「希は、お前に会いたがっているんだ。病的なほどに。昔からことあるごとに懇願されたが、全部断っていた。
君が会いたくないなら、私にはどうしようもないと思っていたんだ。だが、もう見ていられない。希を助けてやってくれ。
それに、君にとってもふんぎりをつける良い契機になるんじゃないか?」
確かに、その意見も分からないことはない。
「君と会わなくなってから、希は段々無気力になってきている。希に、活力を戻してやってほしいんだ。
おそらく、君が話すだけで希は元気になるだろうし、勉強もやってくれるはずだ」
希ちゃんがそんな状態になったのは、僕の責任だ。
そのことを考えると断りづらい。
一度成長した希ちゃんと話してみたい、というのもある。
それに、日曜はどうせ家でごろごろしているだけだ。
考えてみると、断る理由は一つもなかった。
「分かりました、やらせていただきます。ですけど、いつ出来なくなるかは分かりませんよ」
「いや、それで構わない。ありがとう、助かったよ」
龍治さんはほっとしたように笑った。
こころなしか、僕には龍治さんが昔の姿に少し戻ったように見えた。
龍治さんが急速に老けこんだのも、希ちゃんのことでの心労が原因かもしれない。
僕は、少なからず責任を感じた。

「ところで、希ちゃんは今どんな感じなんですか?」
子どもにとっての十年は、恐ろしく長い。外見だってあの頃とは相当変わっているはずだ。
「ああ、ちょっと待ってくれ。ちゃんと写真を持ってきてるんだ」
龍治さんはそう言って、一つの写真を机の上に置いた。
そこには、十日後に命日を迎える彼女が写っていた。
恐らく、龍治さんが彼女の形見として携帯していたのを、間違えて出してしまったのだろう。
ただ、少し僕の知っている彼女より若く見える。
まあ、それもおそらく気のせいだろう。

「龍治さん。写真、間違えてますよ」
僕は茶化すようにして、龍治さんにそのことを伝えた。



「え?いや、その写真で合っているよ。それが、希だ」
龍治さんはごく自然な口調で、そう答えた。