489 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:53:49 ID:HEywCc/i [5/15]
月野繭香≪つきのまゆか≫にとって、学校というものは、至極つまらない場所だった。
こんな感情を抱き始めたのは、いったい何時の頃からか。
思えば、小学生の時から既に、そんな気持ちは芽生えていた。
繭香の家は、未だ下町風情の残る街の中においても、一際裕福な家の一つだった。
それ故に、周りの人間は皆、彼女に対して妙に気を使った接し方しかしてこない。
男も女も、繭香と話す時は、まるで腫れ物に触れるような態度でしか近寄って来ない。
物心ついた時から、繭香に対する周りの態度は既にそうだった。
まだ、物の分別もつかない年齢の時から、繭香は周りの子が妙によそよそしいのを感じていた。
今になって考えてみると、あれは親が自分の子に言い聞かせていたのだろうと思う。
あの子は良家のお嬢様。
だから、お付き合いする際には、失礼のないようにせねばならないと。
繭香にしてみれば、まったくもって要らぬ世話だった。
家の名前など関係なく、本当は周りの子と一緒になって遊びたかった。
それこそ、男の子も女の子も関係なく、服の汚れなど気にせずに外を駆けまわりたかった。
だが、そんな彼女の気持ちとは反対に、周りは繭香に対する態度を変えようとはしなかった。
小学校、中学校と上がる度に、繭香はそれを強く感じた。
幼い頃は、単に大人しく礼儀正しい子としか見られていなかった繭香。
しかし、年齢を重ねるにつれ、周りの評価というものも徐々に変わってくる。
中学に上がると、繭香に対する周囲の評価にも変化が現れた。
もっとも、それは決して繭香が望んだ形ではない。
改善などという夢のような言葉ではなく、むしろ改悪とさえ呼べるものだった。
490 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:54:27 ID:HEywCc/i [6/15]
―――― 無闇に近寄ってはいけない子。
それが、中学において繭香に貼られたレッテルだった。
名家の令嬢で品行方正。
誰にでも優しく、常に清楚で大人しい。
だが、それ故に、決して無礼を働いてはいけない人間。
いつ、誰が言い始めたのかは分からないが、気がつけば、そんなイメージだけが独り歩きしていた。
当然、本音で語り合える友達などいない。
周りは全て、先入観だけで自分を見ている。
それは、繭香に無用の期待を強いるもの。
繭香に道化を演じるように、無言の枷として彼女を縛る。
人は皆、他人に何らかの期待を抱いている。
繭香はそれを、幼い頃から知っていた。
父も母も、繭香を月野家の娘として恥じないように行動するよう躾けてきた。
家でも外でも、決して本当の自分を出す事は許されない。
父母の期待を裏切れば、後に待つのは地獄だけだと分かっていたから。
無償の愛などありえない。
自分は月野繭香として、周りが望むように生きねばならない。
誰にでも優しく、清楚で大人しく。
俗っぽい趣味には手を出さず、学業でも常に優秀である。
絵にかいたような、理想のお嬢様であること。
それが、周りが繭香に求めたものだった。
正直なところ、これを演じ続けるのは息苦しかった。
自分の意志など関係なく、あるのはただ、周囲からの視線のみ。
しかし、繭香は苦痛を感じながらも、いつしかそれを受け入れていた。
期待を裏切った時、人がどれほど冷酷になるか。
その事を知っているだけに、自分は道化を演じ続けるしかない。
ある種、達観した考えの下、繭香はただひたすらに、本当の自分を隠して生き続けた。
(本当の私を知れば、皆が私を嫌いになる……)
虚構の偶像によって生み出された、束の間の人間関係。
しかし、例えどのような関係であっても、それを失うことは恐ろしかった。
誰にも見てもらえず、独りになること。
孤独という名の悪夢は常に、繭香の心の奥で彼女の恐怖心を煽り続けていた。
491 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:55:06 ID:HEywCc/i [7/15]
転機というものは、本人の意思とは関係なく唐突に訪れる。
高校に上がった繭香にとっても、それは同じだった。
繭香の通う高校は、市内にある私立の進学校だ。
元より勉強は不得意でなかったため、入るのにそう苦労はしなかった。
もっとも、中にはこの高校へ入るために、暇さえあれば足しげく学習塾へ通う者もいるらしいが。
中学とは違い、高校は比較的同じレベルの人間が集まりやすい場所である。
生徒は皆、入試という関門をくぐり抜けて集まった者達なのだから、考えてみれば至極当然のことだ。
繭香にとってもそれは同じだったが、彼女からしてみれば、新たなスタートを切るのに好都合だったといえる。
学力も、なにより考え方も同じような人間の集まる私立高校。
経済的にも裕福な層が集まっているわけであり、自分のことを色眼鏡で見る者も少ないだろう。
そう思ってのことだった。
ところが、実際に高校生活が始まってみると、彼女の期待は脆くも崩れ去った。
私立の高校とはいえ、地元の人間が全く通わないわけではない。
繭香の中学から入学した者も、当然のことながら複数名存在する。
そんな者たちの噂話は、繭香が新しい人間関係を築くよりも先に、早くも校内に浸透し始めていた。
噂を聞いた人間は、繭香とは初めから距離を取っている。
それでいて、繭香にステレオタイプな名家の令嬢の姿を重ねるのだから始末に悪い。
結局、ここにも自分の居場所はなかった。
平穏な日常を送るためには、自分が周りの考えている月野繭香の姿を演じ続けるしかない。
そうでなければ、彼らは裏切られたと感じ、更に自分との距離を取るに違いないのだから。
いつ終わるとも知れぬ、道化の上に成り立つ人間関係。
正直、もう疲れ果ててしまった。
このまま自分は、一生周りの顔色を窺いながら生きてゆくしかないのだろうか。
そんな繭香に転機が訪れたのは、高校に入学してから二月程経った頃。
湿った空気が煩わしい、六月のある日のことだった。
492 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:56:07 ID:HEywCc/i [8/15]
その日、繭香はいつもの如く、校門前のバス停に立っていた。
彼女の家は、ここからバスで十分程の場所にある。
停留所から少し歩くものの、近所のバス停と家との距離は目と鼻の先だ。
ところが、その日に限り、なぜかバスは時間通りに来なかった。
電車とは違い、道路の状況に左右されるバスのこと。
数分の遅れなどは、日常茶飯事のことである。
しかし、それでも今日のバスは、繭香が首を傾げる程に遅れていた。
既に、時計の針は予定時刻よりも三十分を過ぎている。
これほどまでに遅れるとは、いったい何があったのか。
「ねえ、今日のバス、やけに遅くない?」
後ろから声がして、思わず繭香は振り向いた。
見ると、自分の他にもバスを待っていた数人の生徒が、自分の携帯電話を片手に喋っている。
「なんか、今、友達からもらったメールなんだけどさ……。
駅前の交差点で、交通事故があったらしいよ」
「げっ、マジで……。
じゃあ、今日はバスが来ないかもしれないってこと!?」
「たぶんね。
このまま待ってても、もう無駄じゃないかなぁ……」
横から聞こえてくる、誰とも知らぬ生徒達の会話。
それを耳にした繭香は、半ば絶望に近い気持ちになって俯いた。
自分の家の近くは、残念ながら目ぼしい電車の駅がない。
歩いて最寄りの駅に向かうと、それだけでも二十分はかかってしまう。
このまま歩いて帰るにしても、やはり時間がかかり過ぎる。
その上、ふと空を見上げたところ、灰色の雲が一面を覆っている。
今日はうっかり傘も忘れてしまったため、帰宅途中に降りだされたら最後、ずぶ濡れになる他に道はない。
「やれやれ……。
今日はもう、バスで帰るの諦めよっかなぁ……」
後ろで話していた女子生徒の一人が、そんなことを呟いているのが聞こえてきた。
「諦めるって……。
じゃあ、どうやって帰るつもりなの?」
「とりあえず、彼氏にメールして迎えに来てもらうわ。
彼、バイク持ってるからさ。
後ろに乗っけてもらえば、バスなんかよりも早く着くし」
「いいわね、男持ちって。
それじゃあ、私は独り寂しく、電車で帰ることにしますか」
「悪いわね。
それじゃあ、また明日」
493 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:57:26 ID:HEywCc/i [9/15]
そう言って、繭香の後ろでバスを待っていた女子生徒達は方々へと掃けて行ってしまった。
後に残されたのは、八方塞がりになった繭香のみ。
当然のことながら、繭香にはバイクで迎えに来てくれる彼氏などいない。
電車で帰るにしても、駅から家までは二十分。
その間に雨に降られれば、結果は同じことだ。
だが、歩いて帰るという選択肢は、今の繭香にとっても利点は何もない。
(どうしよう……)
こんな時、気軽に声をかけられる友人がいれば、どれだけ助かることだろう。
ちょっと同じ方角に帰る友人に、一緒に帰ろうと言えばよい。
雨が降りだしても、相手と二人で一つの傘を共有すれば濡れずに済む。
家の名前や他人の目など関係なく、誰とも気さくに話せる人が羨ましい。
電車で帰るか、歩いて帰るか。
どちらに進むかも決められないまま、時間だけが過ぎてゆく。
その間にも繭香の前を、家路を急ぐ生徒達が次々に通り過ぎてゆく。
いつしか空は先程よりも黒く染まり、今にも大粒の雨を降らせそうな様相だ。
まるで、今の繭香の心情を代弁するかのようにして、徐々にその黒さを増してゆく。
このまま雨が降りだしたら、それこそ自分は帰れなくなる。
そう、繭香が思った時だった。
「君、どうしたの?」
突然、後ろから声をかけられた。
それが自分に向けての物だとは分からずに、繭香は振り返るまでしばらくの時間を要してしまった。
「あ、あの……」
それ以上は、喉から言葉が出なかった。
今まで、いきなり声をかけられることなどなかっただけに、柄にもなく緊張してしまっていたのだ。
繭香に声をかけてきたのは、同じ高校の制服を着た少年だった。
取り立てて優れた容姿でもなければ体系でもない、どこにでもいそうな、至って平凡な高校生。
通学用の自転車に乗り、前籠には学生鞄が無造作に放り込んである。
鞄についているクラス章を見る限り、彼は繭香と同じ一年生のようだった。
もっとも、大きな高校だけに、繭香は彼の顔はおろか名前も知らない。
「なあ。
君、一人なのか?」
再び、少年が聞いてきた。
494 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:57:49 ID:HEywCc/i [10/15]
「は、はい。
あ、あの……。
私に、何か……?」
「いや、何ってわけでもないんだけど……。
君、バスを待ってるんなら、今日は諦めて帰った方がいいよ。
たぶん、駅前の事故のせいで、今日は時間通りに動いていないはずだから」
「それは知っています。
でも、私の家、バスじゃないと帰りづらくて……。
それに、歩いて帰るにしても、今日は傘も持ってないし……」
「なんだ、そうだったのか。
でも、こんなところで待ってても、どうしようもないと思うけどな。
なんだったら、俺の自転車の後ろに乗ってくかい?」
少年が、自転車の後ろを叩きながら軽く笑った。
普通ならば、この様な申し出などは、新手のナンパとして断ってしまう。
だが、今の繭香にとっては、まさに渡りに船であった。
なによりも、こんな風に自分に接してくれたのは、今まで生きてきた中でも彼が初めてだ。
打算も下心もない、純粋な親切心から来る行為。
今時、珍しいくらいに紳士的な少年である。
「それじゃあ……お言葉に甘えても、よろしいでしょうか……」
最後の方は、恥じらいから声が小さくなってしまった。
同学年とはいえ、男の人の自転車の後ろに乗せてもらうことなど初めてだ。
「よっし。
だったら、君の家の方角を教えてくれるかな。
俺、この辺の地理には詳しいから、たぶん迷わずに案内できるよ」
「えっと……。
私の家、森桜町の方なんですけど……」
自転車の後ろにそっと腰かけて、繭香は申し訳なさそうに言った。
こんな時でも、お淑やかな姿を演じてしまう自分が情けない。
「森桜町か。
この天気だったら、ちょっと急がないとマズイかもな……。
君、悪いけど、後ろに跨るようにして乗ってくれない?
そんな御姫様みたいな座り方だと、降り落としちゃうかもしれないからさ」
「えっ……。
で、でも……」
「いいから早く。
後、俺の腰、しっかり掴んでおいてくれよ。
急ブレーキかけたりすると、その衝撃で後ろにひっくり返るかもしれないから」
「わ、わかりました」
495 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:58:41 ID:HEywCc/i [11/15]
少年の強い言葉に、繭香は半ば流されるようにして身体を動かした。
後ろの荷台に跨るようにして腰を降ろし、学生鞄を肩からかける。
両手を彼の腰に回すと、否応なしに体が近づいてドキリとする。
同学年とはいえ初対面。
そんな男子の背中に自分の身体を預けてしまうなど、今までには考えられなかったことだ。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、自分の名前や立場など気にせずに、こうして気さくに話かけてくれたことが嬉しかった。
曇天の下、繭香を乗せた自転車が走る。
不安定な二人乗りながらも、少年は可能な限り急いでくれているようだった。
このまま行けば、程なくして家に着くだろう。
そう思った繭香ではあったが、天気というものは、実に気まぐれで移り気なものである。
先ほどまでは辛うじて保っていた空は、ついに限界を迎えて大粒の雨を降らせ始めた。
梅雨時の雨は長く穏やかだと言われるが、今日に限ってそれは当たっていない。
雨は瞬く間に勢いを増し、少年と繭香の身体を濡らしてゆく。
「やれやれ、気まぐれな空だよな、まったく……。
降るなら降るで、もう少し穏やかにしてもらいたいもんだよ……」
自転車をこぐ足を止め、少年が憎々しげに空を見る。
この雨では、もう二人乗りのまま走り続けるのは危険だろう。
少年は仕方なく繭香を降ろし、そのまま二人で近くのコンビニの軒先へと避難した。
雨は一向にやむ気配もなく、空は相変わらず黒い雲に覆われたままだ。
「なんか、格好つけて、返って悪いことしちゃったな。
結局、君を家に送る前に、二人ともずぶ濡れになっちゃったわけだし……」
そう言って、少年は繭香の方へと顔を向けた。
が、すぐにその顔を横に逸らし、なにやら気まずそうな表情で空を見る。
顔を赤らめ、落ち着きのない様子で手を動かしている少年。
そんな彼の姿を不思議に思った繭香だが、ふと自分の胸元に目をやったとき、その疑問は解けた。
雨に濡れ、水気をたっぷりと含んで身体に貼りついた白いシャツ。
柔らかな布地に隠されていた、健康的な身体のラインがはっきりと浮き出している。
それだけでなく、シャツの下に着ていた下着までもが浮き出して、繭香の胸元を妙に艶っぽく強調していた。
「あっ……」
自分のあられもない姿に気づき、思わず胸の前を腕で覆う繭香。
少年が先ほどから気にしていたのは、きっと、繭香のそんな姿を直視することを避けてのことに違いない。
496 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 15:59:14 ID:HEywCc/i [12/15]
互いに視線をそらしたまま、なんとも言えない気まずい空気が流れてゆく。
その間にも、雨は容赦なく二人の前に広がる道路を打ちつけてゆく。
激しい雨音にかき消され、他の音が殆ど聞こえなくなっているだけに、どうしても近くにいる相手のことを意識してしまう。
それが互いの心の中で、恥じらいの気持ちを更に強めてゆく。
どれくらい固まっていたのだろう。
時間にして五分程のことだったのかもしれないが、繭香にとっては一時間近くの時が流れたようにも感じられた。
コンビニの自動ドアが開き、中から客が出てきたことをきっかけに、少年は繭香に背を向けたまま自分の鞄を取った。
二人と同じく軒先に退避させていたため、鞄の中身はそこまで濡れているわけではない。
その鞄から紺色のジャージを取り出すと、少年は半ば押しつけるようにして、繭香にそれを手渡した。
「これ、着てろよ。
そんな格好じゃ、その……俺も、目のやり場に困るって言うか……」
男としての素直な気持ちを抑えた、ぎりぎりの言葉だった。
借り物の、しかも男子生徒のジャージを着ることに、繭香自身も抵抗がなかったわけではない。
だが、それでも彼女は少年からジャージを受け取ると、何も言わずに素早くそれを上から羽織った。
このまま人目を気にしつつ、胸元を隠し続けているよりはマシだったからだ。
「それじゃあ、俺はちょっと、この店で傘でも買ってくるよ。
このままじゃ、二人とも帰るに帰れないからさ」
そう言うと、少年は繭香の返事を待たずにコンビニのドアをくぐって行った。
後に残された繭香は、未だ雨を降らせ続ける黒雲を、ぼうっとした顔で眺めながら考える。
あの少年は、なぜ自分に、ここまで優しくしてくれるのだろう。
何か、打算があってのことなのだろうか。
自分が良家のお嬢様であるから、少年は繭香を助けたのか。
いや、それはない。
少なくとも、今まで出会ってきた男の中で、それを理由に繭香に近づいた者はいなかった。
年頃の欲と本能に忠実な男子にとって、繭香のようなお嬢様は、むしろ面倒臭い女だったはずだ。
では、それ以外に何か理由があるのだろうか。
残念ながら、今の繭香には思いつきそうにもない。
自分が外に向けて見せている顔のことを考えると、少年が自分に近づいてくる理由が他に思いつかないのだ。
497 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 16:00:25 ID:HEywCc/i [13/15]
そうこうしている内に、少年がコンビニから戻ってきた。
右手には一本の黒い傘を持ち、左手には口の開いたままの財布を持っている。
少年の目は、自分の手にした財布の中身に向いているようだった。
その瞳が、どこか寂しげだったのは気のせいか。
「あの……。
傘、買えました?」
「ああ、なんとかね。
けど、今日は生憎、持ち合わせがなくってさ。
ちゃんとしたやつを買ったら、それで財布の中身が空っぽになっちゃったよ」
少年が、苦笑しながら繭香に言った。
彼は買ってきたばかりの傘の包装を剥がし、それを繭香に差し出して言う。
「これ、君が使いなよ。
俺はどうせ、こいつに乗って帰らなきゃならないしさ」
少年が、コンビニの軒先に止めた自転車を軽く小突いた。
「そ、そんな……。
でも、それじゃあ、あなたが濡れてしまいます」
「もう、十分に濡れているから一緒だよ。
それに、俺のことだったら大丈夫。
このくらいの雨、俺はなんとも思わないからさ」
「そうなんですか?
で、では……ありがたく、お借りします……」
「ああ、そうしてくれると、俺も嬉しいかな。
それじゃあ、俺はそろそろ行くよ」
サドルに着いた水滴を払い、少年は再びハンドルを握って自転車に飛び乗る。
そのまま立ち去ろうとする彼であったが、繭香はぎりぎりのところで少年を引き止めた。
「あ、あの……!!」
自分でも、信じられないくらい大きな声だった。
大地を穿つ雨音が、一瞬だけ聞こえなくなった程である。
「今日は……その……本当に、ありがとうございました!!
私……なんだか、迷惑かけっ放しで……」
「なんだ、そんなことか。
別に、全然気にすることじゃないよ。
人として、当然のことをしたまでなんだから」
あくまで軽く、流すようにして少年は言う。
しかし、繭香には、少年の行為が決して普通の人間には真似できないものだということが、よく分かっていた。
今時、ここまで無償で他人に優しくできる人間は、少なくとも繭香の知っている者の中にはいなかったからだ。
「あの……最後に、お名前だけ聞かせてもらっても宜しいですか?
この傘とジャージも、いつかはお返ししなくてはいけませんし……」
498 名前:迷い蛾の詩 【第壱部・恋時雨】[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 16:00:54 ID:HEywCc/i [14/15]
「名前?
そういえば、言ってなかったっけか」
少年の言葉に、繭香は傘を胸に抱いたまま頷いた。
「俺、陽神亮太≪ひのかみりょうた≫。
クラスは一年E組だよ」
「私、月野繭香って言います。
E組の陽神君ですね。
今日のお礼は、いつか必ずしますから……」
「へえ、月野繭香さんか。
なんか、綺麗な名前だね」
繭香が最後の方に言った言葉は、少年はよく聞いていなかったようだ。
名前に対して率直な感想を述べた後、少年は雨の中へと自転車にまたがり走り去った。
黒い雲から降り注ぐ雨は、未だその勢いを弱める様子はない。
そんな中、傘を渡されたにも関わらず、繭香はしばしの間、その場でぼうっと呆けていた。
(私の名前が、綺麗……)
別れ際、亮太と名乗った少年の言った言葉が頭に響く。
今までにも、容姿や服装を誉めてもらったことはあったが、名前を誉めてもらったのは初めてだ。
「陽神亮太君、か……」
雨空の下を行き交う人々の姿さえ、今の繭香には見えていない。
彼女は、ただひたすらに、自分の心の奥から湧き上って来る感情に酔いしれていた。
最終更新:2011年02月08日 07:28