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14 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:06:15 ID:2Zg9Ktfl
 その日の朝も、梅雨時にしては晴れていた。
 夏の日差しの下、煩わしい雨から解放された人々が、何かに憑かれるようにして道を急いでいる。

 しかし、そんな空模様も、夕刻になれば様変わりするものだ。
 昼過ぎには空一面を覆ってしまった灰色の雲は、今や大粒の雨を辺り一面に撒き散らしていた。

 雨の多い季節とはいえ、誰もが常に傘を持ち歩いているわけではない。
 朝の天気だけ見て油断した生徒達が、それぞれに文句を言いながら下校して行く。
 折り畳みの傘を持っている者は良いが、そうでなければ雨宿りだ。

「やれやれ……。
 こんなことなら、今日は歩いて来るんだったかな……」

 軒先に滴る雫を眺めながら、陽神亮太はうんざりした顔をして言った。

 通学に自転車を使っている亮太にとって、この季節の雨は天敵である。
 朝、晴れていると思って自転車を使えば、今日のように夕方からは雨が降り出す始末。
 傘を差して自転車に乗るのは危険だし、かと言って、屋根もないような学校の駐輪場に自転車を放置しておけば、瞬く間にチェーンやギアが錆びついてしまう。

 生憎、今日は折りたたみ傘を鞄に入れて来るのを忘れてしまった。
 その上、置き傘の類もない。

「仕方ないな。
 濡れるの覚悟で、自転車で帰るしかないか」

 諦めにも似た独り言をこぼし、亮太は下駄箱の中から自分の靴を引っ張り出した。
 この視界が悪い中、自転車で帰る事を考えると気が滅入ったが、それも仕方のないことだ。
 そう、亮太が思った時だった。

「あ、あの……」

 自分が声をかけられたと気づくのに、数秒の時間を要した。
 亮太が振り向くと、そこにいたのは黒い傘を胸に抱えた少女。
 昨日、わざわざ自分にジャージを届けに来た、月野繭香だった。

「月野さん?
 どうしたの、こんなところで?」

「陽神君、今日は自転車だったんですね。
 だったら、調度いいです。
 この傘、先日お借りしたものですけど……今、お返ししますね」

 そう言って、繭香は亮太に傘を手渡した。
 まさに渡りに船といった状況だったが、それでも亮太は、不思議そうな顔をして繭香を見る。

 見たところ、繭香は自分に手渡した他に、傘を持っていない。
 通学にはバスを使っているようだったが、それでも傘なしで帰るわけにはいかないはずだ。



15 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:07:58 ID:2Zg9Ktfl
「ねえ、月野さん。
 傘を返してくれたのは嬉しいけど、君は大丈夫なの?
 学校にはバスで通っているみたいだけど、君だって、傘がなければ困るんじゃないか?」

「は、はい……。
 ですから……よかったら、一緒に帰りませんか?」

「一緒にって……そう言われてもなぁ……。
 俺、自転車だし……。
 月野さんと一緒にバスで帰って、自転車を雨ざらしにするわけにもいかないよ」

「それなら平気です。
 実は、今日は私もバスの定期券の期限が切れてしまって……。
 今日だけ切符を買うのも勿体ないから、歩いて帰ろうと思っていたところなんです」

「そうなの?
 だったら、別に問題ないかな。
 どっちにしろ、俺も自転車を押して帰らなきゃいけないし……」

 繭香の言葉に、亮太は何ら疑問を抱かずに頷いた。
 そんな彼の姿を見て、繭香も思わず笑顔を返す。

 定期券の期限が切れたというのは、実のところ嘘だ。
 ただ、亮太と一緒に帰るためには、そのくらいの嘘も必要だと思った。

 どのみち、自分は既に多くの者を欺いて生きているのだ。
 それに比べれば、この程度の嘘など可愛いものではないか。
 亮太も傘がなくて困っていたようだし、別に咎められるような事をしているわけではない。

「それじゃあ、俺は自転車を取ってくるから。
 月野さんは、ちょっとここで待っていてくれよ」

 繭香から渡された傘を片手に、亮太の姿が駐輪場の方へと消えてゆく。
 その後ろ姿を見送る際、繭香の胸の中を、ほんの少しだけ寂しい気持ちがよぎった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 降り続く雨の中、一つの傘の下で身を寄せ合って歩く少年と少女。
 少年は自らの傍らにある自転車を押し、少女の歩調に合わせて足を進める。

 路線バスで十分程かかる道は、歩いてゆくと、それなりに距離のあるものだった。
 いつもは、バスの座席の上でまどろむ暇もなく通り過ぎてしまう通学路。
 それも、こうして歩いてみると、なかなかに遠く感じられるものである。

 だが、今の状況は、繭香にとってはむしろ好都合だった。
 こうして他愛もない話をしながら、亮太と同じ時を過ごせるのだから。

「ねえ、月野さん。
 君の家って、どの辺りなの?」

「森桜町のバス停から、少し歩いた場所です。
 電車の駅まで遠いから、使うのは、いつもバスなんですよね……」

「それ、ちょっと不便だね。
 俺みたいに、自転車で登校したりとか、考えないの?」



16 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:09:08 ID:2Zg9Ktfl
「たぶん、無理だと思います。
 今日みたいに雨が降った時は、さすがに自転車を使うのは危ないですし……」

「そっか……。
 まあ、それもそうだな。
 雨の日は視界も悪いだろうから、転んでケガでもしたら大変だし」

 繭香の言葉に、亮太は妙に納得した表情で頷いた。

 彼にしてみれば、何気なく言った一言。
 しかし、それを聞いた繭香は、亮太の言葉を純粋に嬉しく思った。

 今まで、自分に向けられてきた心配は、裏を返せば心配している者自身の保身だった。
 親も、友人も、教師も、その誰もが、繭香が傷つくことで自分が恥をかく、もしくは自分が責められることを恐れていた。

 己の可愛さ故に向けられる、歪んだ同情。
 そんなもの、繭香は欲しいとも思わなかった。
 ただ、亮太のように、本心から自分の事を心配してくれる者が欲しかった。
 妙な損得勘定は抜きに、真っ直ぐに自分を見てくれる人と話したかった。

 学校でのこと。
 趣味の話。
 好きなものや、嫌いなものについて。

 僅かな時間の間でも、こうした話ができる相手と一緒にいるのは楽しかった。
 未だ、堅苦しい敬語を交えた言葉でしか話せないものの、自分から積極的に他人とかかわろうとしてこなかった繭香にとって、これは大きな前進と言える。
 もっとも、それは亮太の持っている、誰にでも対等に向き合おうとする姿勢があるからこそ出来たことなのかもしれないが。

 気がつくと、既に雨は止んでいた。
 空は未だ灰色の雲に覆われていたが、とりあえず、傘を差して歩く必要はなさそうだ。

「雨、止んだみたいだな」

「そうですね。
 でも……」

「それじゃあ、俺はこの辺で失礼するよ。
 傘、わざわざ持ってきてくれてありがとう。
 今日は、月野さんのお陰で助かった」

「私はただ……お借りした物をお返ししただけですから……」

 自分が本当に言いたかった言葉の続き。
 それを口にするには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。 
 本当は、最後まで一緒に帰りたかったのだが、今日のところは仕方がない。
 つくづく、梅雨の空とは、移り気で気まぐれなものだと思う。



17 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:10:24 ID:2Zg9Ktfl
 ふと、繭香が足元を見ると、そこには見た事もない花が揺れていた。
 いや、見た事もないというのは、少々語弊があるだろう。
 どこかで見た事があるのだろうが、その時は、さして気にも留めずに通り過ぎていただけなのかもしれない。

 雨露に濡れ、葉の先から小さな雫を垂らしている素朴な花。
 曇天の薄暗い空の下、黄色い花の色だけが、やけに映えて見えた。

「へえ、マツヨイグサじゃないか。
 こんな場所にも、咲いているんだな」

 花に見とれている繭香の後ろから、亮太が声をかけた。
 どうやら彼は、この花の名前を知っているようだ。

「マツヨイグサ?」

「そうだよ。
 宵を待つ草って書いて、マツヨイグサ。
 普通の植物と違って、夕方から夜にかけて花を咲かせるんだ」

 そう言われて、繭香は改めて足元の花を見つめた。

 確かに、亮太の言う通り、この花は今しがた蕾を開いたばかりのようだ。
 夕刻が迫ると花を畳んでしまうようなアサガオやヒルガオとは違い、これからが自分の時間だとばかりに、精一杯に花開いている。

「陽神君、お花に詳しいんですか?」

 繭香が亮太に聞いた。
 今時の高校生で、植物に詳しい男子生徒などは珍しい。

「いや、別に俺も、そこまで詳しいわけじゃないよ。
 ただ、田舎の爺ちゃんの家に行った時、たくさん咲いているのを見たから。
 それで、覚えていただけさ」

「そうなんですか。
 でも、変わった花ですね。
 昼間は大人しくしておいて、夜になると花を咲かせるなんて」

「まあ、確かにそうかもね。
 でも、他と少しだけ違っていることなんて、どんな世界にでもあるものだろ?
 人間だって、植物だって、それは同じだよ。
 だから、俺は別に、変わった花とは思わないけどな」

 あくまで、さらりと流すようにして言う亮太。
 そんな言葉の一つ一つでさえ、繭香には心地よく感じられた。

 変わり者を奇異の目で見て拒絶するのではなく、そのままの姿を受け入れる。
 そんな事ができるのは、やはり亮太の持つ一種の才能なのかもしれない。
 そして、それは繭香にとって、亮太が自分の心の枷を外してくれるのではないかという、淡い期待を抱かせることにも繋がっている。

 梅雨の日の空気は、湿って重い。
 それでも、亮太を見送る繭香の周りからは、陰鬱で湿った空気は消え去っていた。




18 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:11:43 ID:2Zg9Ktfl
 それから数日は、とくに何事もなく穏やかに過ぎ去った。
 六月の長雨は止むことなく、今日も妙に生温かい雫を街に振りまいている。
 数日前の気まぐれはどこかへ消え去り、当分の間、太陽の姿は拝めそうにない。

 その日、繭香が亮太の姿を見かけたのは、偶然からのことだった。
 昼休み、購買部へ足りなくなった学用品を買いに行ったところ、たまたま亮太と鉢合せたのだ。

「あっ、陽神君」

「ああ、月野さんか。
 もしかして、月野さんも購買部のパンを買いに来たとか?」

 そう言う亮太の手には、少し潰れて形の歪んだ焼きそばパンが握られていた。

「いえ、私はただ、ノートを買いに来ただけですから」

「そうなんだ。
 まあ、この時間のパン売り場は、女の子には近寄りづらいかもしれないね。
 俺も、さんざん押されまくった挙句、手に入ったのはこれだけだったし……」

 学校の購買部は、昼ともなると人で溢れかえる。
 運よく早めに辿り着ければ良いが、そうでなければ、満員電車のような人の壁を押しのけた挙句、残り物を掴まされることになるのだ。

 今日、亮太が手に入れたのは、最後に余っていた唯一の焼きそばパン。
 それ以外は、既に他の生徒達によって、買われてしまった後だった。
 育ち盛りの高校男子にとって、これでは昼食として、いささか物足りない
 もっとも、繭香にとって、これは好機以外の何物でもなかったが。

「あの、陽神君。
 もし、よかったら……お昼、私と一緒に食べませんか?」

「月野さんと?
 まあ、俺は別に構わないけど……。
 この雨じゃあ、外で食べるってわけにもいかないよな……」

「それだったら、生徒用の休憩室で食べませんか?
 あそこなら、この時間でも空いていると思いますから」

「そうかい?
 だったら、ここは月野さんにお任せしようかな」

 そう言って、パンを片手に繭香と一緒に歩きだす亮太。

 生徒用の休憩室は、購買部と同じ一階にある。
 普段は殆ど使用する者がおらず、昼食時でも人影はまばらだ。
 自販機の類こそ置いてあるものの、食堂とは違い、テーブルの数も少ない。
 そのため、飲み物を買う時を除いては、あまり使われることのない場所だった。



19 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:12:45 ID:2Zg9Ktfl
 一階の角にある休憩室は、どことなく日陰になっていて薄暗い。
 もっと明るい造りにすれば、人も集まり易いだろう。
 そう思った繭香だったが、今は他の生徒がいない事が、返って好都合だった。

 休憩室の窓から見える花壇に、アジサイの花が雨に濡れているのが見える。
 それを横目に、亮太と繭香は向かい合うようにして席についた。

「ねえ、陽神君。
 もしかして……今日のお昼、それだけなんですか?」

 亮太の手元にある焼きそばパンを見て、繭香が心配そうに尋ねた。

「ああ、そうだよ。
 今日は、ちょっと四限の授業が長引いてさ。
 慌てて購買部に向かったんだけど、残念ながら、これしか買えなかったよ」

「そうなんですか……。
 あの……。
 もし、よろしければ、でいいんですけど……」

「なに?」

「私のお弁当、少し食べていただけませんか?
 私、小食だから……いつも残してしまっていて、少し勿体ないと思っていたんです」

 これは、嘘ではなく本心だった。

 繭香の弁当は、早朝にやってくる家政婦の人が作っている。
 夕食の時もそうなのだが、どうもあの家政婦は、繭香の食べる量というものを誤解しているらしい。

「なんか、こっちがねだっているような気がして悪いな。
 でも、折角だし……月野さんがいいって言うなら、今日はもらってもいいかな?」

「はい。
 それじゃあ、遠慮なくどうぞ」

 自分の作った物でないというのが少し寂しい気もしたが、それでも繭香は、亮太のために何かできた事だけでも嬉しかった。

 今までは、頼まずとも周りが自分のために何かをしてくれた。
 しかし、それはあくまで、外向きに作り上げた繭香の姿に対して向けられたもの。
 名前や外見に関係なく、純粋な気持ちから手を差し伸べてきたわけではない。

 そんな自分が、今は亮太のために何かができる。
 傍から見れば些細な事かもしれないが、繭香にとっては重要だった。

 先日の帰りと同じように、互いに談笑しながら食事をする亮太と繭香。
 周りに他の生徒もいないためか、繭香もいつも以上に気兼ねなく話をしていられる。

 ところが、そんな二人の会話を遮るようにして、唐突に携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 音の主は亮太の携帯らしく、ポケットから取り出した電話を慌てて開く。



20 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:13:48 ID:2Zg9Ktfl
「あっ、しまった!!
 ちょっと、ゆっくりし過ぎたかも……」

「どうしたんですか、陽神君?」

「俺、昼休みに、友達に宿題を教えることになってたんだよね。
 図書室で待たせてたの、すっかり忘れてた!!」

「そうですか……。
 だったら、仕方ないですね……」

「ごめんね、月野さん。
 今日の借りは、必ずどこかで返すからさ」

 そう言うと、亮太は携帯をズボンのポケットにねじ込んで、そのまま鞄を手に休憩室を出て行った。
 後に残された繭香は、独り窓の外のアジサイを眺めながら溜息をつく。

 別に、自分は亮太の彼女でも何でもない。
 なによりも、彼とはまだ出会って日も浅い。
 それなのに、この寂しさはなんなのだろうか。

(私は……もっと、陽神君と一緒にいたいのに……)

 誰かと一緒に同じ時間を過ごす。
 今までは、ただ煩わしい事としか思わなかった。
 あの日、亮太の自転車に乗せてもらう、その時までは。

 清らかで穢れのない、誰にでも笑顔で接することのできるお嬢様。
 そんな作り物の姿に関係なく、人として対等に向き合ってくれた亮太。
 その存在は、今や繭香の心の中で、代えの効かない程に大きなものになっていた。



21 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:14:35 ID:2Zg9Ktfl
 早朝から降り続く雨は、夕刻になっても止む気配を見せなかった。
 それどころか、校舎の外に響く雨音は、ますますその強さを増しているようにも感じられる。

 その日の授業を全て終え、亮太は足早に下駄箱へと向かっていた。
 天気予報によれば、今日は夜から雨の降りが激しくなるという話である。
 あまり遅くまで学校に残っているのは、自転車の使えない亮太にとって望ましいことではない。

「ねえ、亮太。
 悪いんだけど……生物と化学のノート、ちょっと貸してくれない?」

 隣を歩きながら、亮太にノートの普請をしてくるのは理緒だ。
 この歳の少女にしては、理緒は悪筆な方である。
 その上、整理整頓も決して上手くない。
 故に、暗記系科目の重要事項をまとめるためには、もっぱら亮太のノートに頼っているのが現状だ。

「仕方ないな。
 でも、俺も明日は授業でノートを使うから。
 悪いけど、三限が始まるまでには返してくれよ」

「大丈夫、大丈夫。
 どうせ、その辺のコンビニでコピーを取るだけだから」

「やれやれ……。
 少しは自分でも努力するってことを、いいかげんに覚えてくれよな……」

 大げさに肩をすくめ、亮太は渋々とノートを理緒に差し出す。
 こんな事は既に日常茶飯事なのだが、それでも一方的に利用されているだけのように思ってしまうのは気のせいか。
 いつか、ノートの使用料でも、本気で請求してみようかと思うくらいだ。

 嬉々とした表情でノートを鞄に仕舞いこむ理緒を他所に、亮太は下駄箱で靴を履き変えた。
 傘立てから飾り気のない黒い傘を取り、そのまま外へ出ようとする。
 が、外の激しい雨からふと目を逸らした瞬間、亮太の脚が思わず止まった。

「あれ、月野さん?」

 そこにいたのは、月野繭香だった。
 白い、少々高級感の漂う傘を手に、誰を待つともなく佇んでいる。
 繭香は亮太の姿を見つけると、直ぐに軽く頭を下げて、笑顔に溢れた表情のまま近づいてきた。

「陽神君、もう帰るんですか?」

「ああ、そうだよ。
 今日は、なんだか雨が激しくなりそうだからね」

 こうして話している間にも、外の雨音はますます強くなってきているようだった。
 どうやら風も強くなっているらしく、ガラス窓を雨粒が叩く音が、そこかしこから聞こえて来る。

「あの、陽神君。
 もし、よろしければ……今日も……」

 そう、繭香が言いかけた時だった。



22 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:15:28 ID:2Zg9Ktfl
 亮太の後ろから、繭香の知らない女子生徒が姿を現した。
 その少女、天崎理緒は、鞄を肩にかけながら、亮太に向かい急かすようにして言う。

「ほら、何やってんのよ、亮太。
 雨、酷くならないうちに、早く帰ろう」

「ああ、ごめん。
 ちょっと、この娘と話していただけだから」

「この娘って……。
 亮太、あなた、この娘が誰だか分かって話してるの!?」

「誰って……。
 同じ、一年生だろ?
 そう言う理緒こそ、月野さんのこと、何か知ってるのか?」

「知ってるもなにも……月野繭香って言ったら、女子の間では有名なお嬢様よ」

 理緒の視線が、亮太を挟んで反対側にいる繭香に向けられた。

 月野繭香の名前は、一年の間でもそれなりに有名だ。
 今時、珍しいくらいに清純で、穢れを知らないお嬢様。
 それ故に、多くの男子生徒を魅了しながら、誰一人として近づくことを許されない高嶺の花。
 女友達の間で言われている話は、少なくともこのようなものである。

「それにしても……」

 亮太と繭香の顔を見比べながら、理緒が妙に意味深な顔をしながら続けた。

「亮太も随分と勇気があるわよね。
 あの、難攻不落の城と言われている月野繭香に、まさか自分から手を出すなんて」

「手を出すって……。
 別に、俺は変な気持ちで月野さんと話していたわけじゃないぞ。
 それに、月野さんが理緒達の間でどう言われているかなんて、全然知らなかったんだし」

「そうなの?
 まあ、亮太はその辺り、妙に疎いところがあるからね。
 でも、月野さんがお嬢様ってことは本当よ。
 それこそ、今時珍しいくらい清純派な、絵に描いたような人なんだから」

 それからしばらくの間、理緒は繭香がいかに清らかな少女であるかを得意げに語った。
 時折、何も知らずに繭香と話をしていた亮太のことを、あれこれと冷やかすような言葉を混ぜながら。

 正直、繭香にしてみれば、理緒の話は鬱陶しい以外の何物でもなかった。
 当の本人を差し置いて、その人間が周囲から持たれている印象についてベラベラと話す。
 そのことで、本人がどれだけ苦しまされてきたかも知らない癖に、まったく無神経にも程がある。



23 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:16:14 ID:2Zg9Ktfl
 今まで、亮太は繭香のことを、何の先入観もなく見てくれていたはずだ。
 ただ、それはあくまで、亮太が繭香のことについて、あまり知らなかったからという話。
 ここで、自分が周りから持たれている印象について語られれば、それは亮太の瞳に不要の色眼鏡をかけさせる事に繋がるかもしれない。

(陽神君は、私が何と言われているか、知らなかったの……?)

 繭香の胸の中で、不安だけが膨らんでゆく。
 このままでは、亮太が今までのように、自分の事を真っ直ぐに見てくれなくなるかもしれない。

(陽神君も、私から離れてゆくの……?
 嫌だ……。
 そんなの、嫌だよ……)

 もう、これ以上は耐えられそうになかった。
 次の瞬間、繭香は深く息を吸い込むと、自分でも信じられないくらいの大声で叫んでいた。

「もう、やめてください!!」

 一瞬、何が起きたのか、誰も分からなかった。
 下校中の生徒達の動きが止まり、亮太や理緒だけでなく、様々な方向からの視線が繭香に向けられる。

「あっ……」

 自分のしてしまった事に気づき、繭香は思わず辺りを見回した。
 亮太と繭香、それに理緒。
 三人に向けられる、好奇の視線。
 時が止まってしまったかのような静寂が訪れ、外に降る雨だけが、バケツをひっくり返したような音を立てて大地を打っている。

「わ、私……」

 今更ながら、頭が熱くなってくるのが分かった。

 これ以上は、この場にいられない。
 そう思っても、既に後の祭りである。

「私……あなたが言うほど、お嬢様じゃありませんから!!」

 それだけ言うと、繭香は雨の中、傘も差さずに飛び出した。
 大粒の雨が容赦なく身体を打つが、そんな事に構っている場合ではない。
 今はただ、ひたすら逃げ出したかった。
 もう、一秒たりとも、あの場所にいたくはなかった。

 濡れた身体のままバスに飛び乗り、繭香は奥の座席に素早く滑り込む。
 いつもであれば短く感じるバスの時間が、今日に限って異様に長く感じられた。

 森桜町のバス停につくなり、繭香は逃げ出すようにしてバスを飛び降りる。
 やはり、手にした傘は閉じたまま、ひたすらに家までの道を走った。



24 :迷い蛾の詩 【第参部・鬱蛹】 ◆AJg91T1vXs :2010/09/12(日) 13:17:06 ID:2Zg9Ktfl
 地面を打つ雨の音と、自分の脚が濡れた水しぶきを上げて道路を蹴る音。
 それ以外には、何も聞こえて来るものはない。
 濡れた前髪を伝わって、額から頬にかけて雫が流れる。
 瞳から溢れ出るものは雨に混ざり、どちらが顔を濡らしているのか、繭香にも分かっていなかった。

 やがて、繭香の目の前に、見慣れた門が姿を見せる。
 それでも足を止めることなく、繭香は取り出した鍵で素早く戸を開けて家の中に駆け込んだ。

 誰もいないと分かっていながらも、いつもであれば形だけの挨拶をする。
 しかし、今日はそんな何気ない習慣でさえ、繭香の頭から消え去っていた。

 玄関に靴を放り出し、そのまま二階にある自室へと走る。
 廊下に雫が落ちて濡れたが、そんな事は関係ない。

 自室の扉を開け、しっかりと鍵をかけると、繭香は着ていた制服の上下を無造作に脱ぎ捨てた。
 スカートも、シャツも、下着さえ放り捨て、生まれたままの姿になってベッドに転がりこむ。
 薄手の毛布で、雨で冷えた身体を隠すようにして包み、ひたすらに泣いた。

 陽神亮太が自分に向き合ってくれたのは、単に自分が外に見せていた姿の事を知らなかったから。
 だとすれば、今日、あの女の言った言葉で、亮太も自分と距離を取るようになるかもしれない。

(そんなこと、ないよね……。
 陽神君に限って、そんなこと……)

 そう、心の中で繰り返すも、不安は決して消えなかった。

 生まれて初めて、自分に向けられた真っ直ぐな瞳。
 それを失ってしまうことが、繭香には、ただひたすらに怖かった。