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105 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/09/14(火) 22:08:09 ID:X+WXGXmG
龍治さんと話した後、僕は結局会社には戻らず、そのまま家に帰った。
到底、会社で仕事の続きをするような気分にはなれなかったからだ。
家路についている間、僕の頭の中は様々な思考が錯綜した末、完全な混乱状態となっていた。
薬物中毒の奏者と壊れたピアノでも、もうちょっとまともな旋律を聞かせてくれることだろう。

「慣れ」は、人間が持つ最も有用な能力の一つと言える。
慣れによって人は、安月給に耐え、狭い家に堪え、社会への不満を抑え、先の見えない現状を受け止め、混乱する政府を受容し、鼠が踊る遊園地に満足するようになる。
そして、今僕を無意識のままに愛しの我が家へと導いてくれたのも、他ならぬ慣れの賜物だ。
実際の所、僕には帰り道の記憶がほどんど残っていなかった。電車に乗った記憶すら曖昧だ。

「あれ、今日は随分早いね。どうしたの?」
リビングに入ってくる僕を見た美香は、意外そうな声でそう言った。
「いや、今日は珍しく仕事が早めに終わったんだ」
「ああ、そうなの。じゃあ、ちょっと早めに夕飯作るね」
「分かった。頼むよ」
僕は飲み会などの特別な用事がない限り、あまりより道はせずにまっすぐ家へと帰るようにしていた。
だから、家に着く時間は毎回ほとんど一定だ。
美香が夕食を作る間、邪魔にならないよう果林の相手ができる時間帯を選んでもいた。

美香が夕食を作っている間、僕は少し緊張気味に果林と遊んだ。
幸いにも朝のように、果林に彼女の影を感じることはなかった。
そこにいるのは、確かに僕の愛娘だ。
僕は安堵の息をついた。

受話器が耳障りな音で鳴り出したのは、午後10時ごろのことだった。果林は既に布団の中で、美香は風呂に入っている。
僕はその時、リビングでソファの上に横たわり、煙草をぼんやりと吸っていた。

僕は、煙草を片手に受話器を取った。
「もしもし」
「おう、晃文か。俺だ俺、竹井だ」
竹井昇。
高校、大学と僕と同じところを出ている友人だ。
彼女のことももちろん知っている。
不器用ながらも情に厚く素朴な性格で、誰からも嫌われたことが無いような男だった。
他人の悪意や、理不尽な不幸の存在を知らない人間。
僕はそんな印象を持っているけど、だからといって彼を嫌っている訳ではない。
むしろ、そういう生き方を貫けている彼のことを、ちょっと尊敬してさえいた。
「ああ、お前か。ちょっと待ってくれ、灰皿取ってくる」
「何だ、まだ煙草吸ってるのか?」
「大した量じゃないよ。それに時々だ」
家ではあまり吸わないようにしていたけど、今日は色々あったせいか、気がついたら口にしてしまっていた。
やはり、多少平常心を失っているようだ。
「吸ってるんなら同じことだよ。ほら、『煙草は緩やかな自殺だ』とか、よく言うだろ。やめといたほうがいいって」
昔から、彼は大変な嫌煙家だった。
「ああ、そうだな。考えとくよ」
反論するのも面倒で、僕はとりあえずそう言っておいた。
だけど、緩やかな自殺じゃない人生なんて、一体どこにあるというのだろう。
どういうわけか、彼はそれが存在していることを絶対的に信じているようだ。
死は、常に自分とはかけ離れた場所にあるとでも思っているのかもしれない。
そうだとしたら、彼はどうやって、毎年正確に歳を重ねていく自分自身と折り合いをつけているのだろう。
僕には見当もつかなかった。



106 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/09/14(火) 22:09:22 ID:X+WXGXmG
「ところで、突然何なんだよ」
「いや、久々に声が聞きたくなってな」
彼は、少しうわずった声で言った。
これほど分かりやすい人間も、そうはいないだろう。
「他に用事があるんだろ?彼女のことじゃないのか?」
訂正する猶予を与えるための間を少し空けた後、僕はしょうがなくそう言った。
僕がそのまま気付かないふりをしたなら、彼はおそらく、本来の用事を告げられないまま通話を終えていただろう。
「ああ、何だ、分かってたのか。まあさすがにばれるわな」
電話だから当然顔は見えないけど、彼が苦笑している図は簡単に想像できた。

「もう、10年経ったんだな」と彼は感慨深げに呟いた。
もう、10年。まだ、10年。どちらの表現が正しいのか、僕は未だに分かっていない。
我ながら、未練がましいことだ。
「墓には、行かないよ」
自分で思ったよりも幾分冷たい声が、僕の口から飛び出してきた。
「そう意固地になるなって」
彼の言う通り、少し意地になっているのかもしれない。
だからといってそれは、墓参りに行くかどうかとはまた別の話だ。
「急にどうしたんだよ。今までそんな電話、寄こしたことなかったじゃないか」
最初は龍治さんから頼まれたのかとも思ったけど、龍治さんは、確かに諦めると僕に誓った。
龍治さんは、そんなことを言った後に、人づてに頼むなんてことはしない人だ。
「いや、な」と彼は少し言いよどんだあとに言った。「実は、今朝夢に出てきたんだよ」
何が?と聞きそうになって、僕はその言葉を飲み込んだ。
会話の流れからして、彼女以外にはありえないだろう。
「別に何を言うわけでもないんだよ。ただ、ずっとこっちを見てるんだ、あの綺麗な眼で。それがどうにも頭から離れなくてさ。思わず、」
電話したんだ、と彼は言った。
朝には娘に彼女の面影を重ね、昼には彼女の姪に彼女の面影を重ね、夜には彼女の夢を見た友人から連絡が入る。
まるで、死者である彼女が、何らかの方法で現世に帰ってきたかのようだ。
今日はお盆か何かだったのだろうか。
思わず壁にに目をやったものの、そこには、お盆なんてとっくに終わりましたよ、とでも言いたそうに九月を指し示したカレンダーが、ぽつんと寂しげに掛かっているだけだった。
今度、横に何か絵でもかけてやろう。
僕はそう心に決めた。

「なあ、墓に行きたくないのは分かったよ。無理強いする気もない。でも、一つだけ聞かせてもらっていいか?」
「何だ?」
「あのさ。死ぬ前のあいつと、死んだ後のあいつ。今のお前にとっては、どっちの方が大きいんだ?」
僕は、何も答えられなかった。
死ぬ前と、死んだ後。
どちらも、計りようもないほどに大きすぎた。
もっと言えば、僕の中で、彼女はまだ死んでいないのかもしれない。
彼女の死を認めるたくないから、墓を目にしたくないという心理。
その可能性に気づいた瞬間、僕は自分の心の中に、生命維持装置に繋がれ、呼吸だけ続けさせられている彼女がいる姿をイメージした。
もし実際に、そんな状態の彼女が僕の目の前にいたなら。
おそらく僕は、苦悩しながらも、生命維持装置のスイッチを切ると思う。
彼女に意識があったなら、そんなふうに生きながらえることを望みはしないだろうから。
なら、僕の心の中の彼女に対しても、同じことをした方がいいのだろうか。
分からなかった。


107 :黒い陽だまり ◆riLyp5qrlZvj :2010/09/14(火) 22:10:41 ID:X+WXGXmG
「いや、悪い。こんなこと聞いたって、答えられねえよな」
しばらく沈黙が続いたあと、彼は慌てたような早口でそう言った。
僕が、機嫌を悪くしたと勘違いしたらしい。
「もう切るぞ」
少し一人になりたかったのもあり、僕は彼の勘違いに乗る形でそう言った。
「ああ、分かった。じゃ、また今度」
彼はそう言って電話を切った。
僕はその後しばらく受話器の前に立ったまま、どんな絵を壁に掛けるかについて色々と悩んでみた。
よし、草原の風景画にしよう。
僕がそう決めたのは、それから数分後のことだった。



その日の夜、僕は布団の中で考えていた。
これから僕が考えることは、全て妄想だ。
それがもし妄想じゃなかったとしたら、僕が今まで地面と思って歩いてきた大地が、地面ではなかった、ということになる。
そんなことはありえない。妄想は妄想でしかないはずだ。

まず、彼女が死ぬ前に言っていたあの言葉、あれは「転生して僕と結ばれたい」という意思表示で、実際に彼女の転生が行われたとする。
これで前提条件は整った。さあ、思考を始めるとしよう。

仮説1。彼女は果林に転生した。
根拠は、彼女と果林がかなり似ていることと、今朝の夢だ。
血の繋がっていない果林と彼女が、あれだけ似ているのだ。関連付けて考えたくもなる。
ただ、夕食前に遊んでいるときは、彼女の影を感じなかった。
また、彼女と重なって見えたのも今日が初めてだ。
人格だって彼女と同じとは思えない。
転生しているとしても、果林が完全に彼女そのもの、というわけではなさそうだ。

仮説2。彼女は希ちゃんに転生した。
いや、彼女が死んだときには既に希ちゃんは生まれていたから、転生というよりは乗り移ったと言ったほうが近いかもしれない。
今日見た希ちゃんの写真は、ほとんど彼女そのものだった。
正直、日曜に会うのが少し怖いほどだ。
しかし、彼女が死んだ後、何度も希ちゃんと僕は会っている。
その時も希ちゃんは彼女に似ていたけど、今ほどではない。
乗り移るまでに、何年かのタイムラグがある。
多少不可解な話だ。

仮説3。彼女の魂が二分され、二人に転生した。
あくまで妄想とはいえ、あまり考えたくない仮説だ。
しかし、これなら二人とも彼女に似ていることの説明がつくし、二分されたせいで、二人とも完全に彼女の人格にはなっていない、とも言える。

あれでもない、これでもないと、まるで転生そのものが事実であるかのように悩みながらも、僕は自分でも気付かないうちに深い眠りに入っていた。

その日の夢には、彼女も果林も希ちゃんも出てこなかった。
繋がれる者のいなくなった生命維持装置が、主を求めるようにぽつねんと横たわっている。
ただそれだけの夢だ。
僕は生命維持装置の前で立ちすくみながら、考えた。
もし。
もし、そこに繋がれていたのが彼女だったとしたら、彼女は一体、どこにいったのだろう。
思考がそこまでたどり着いた所で、僕は唐突に夢から覚めた。
朝だ。今日も朝が来た。これまでと、何も変わらないはずの朝が。