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121 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:22:16 ID:u4Rt96y1
 試験というものは、非情なものである。
 学校か、それとも塾かは覚えていないが、どこぞの教師が言っていたような気がする言葉だ。

 確かに、試験というものは容赦がない。
 その試験を受ける人間が、物事を習得するために必要としている時間など関係なく、日時を一律に同じとして実施されるのだから。

 中学や高校において、まず喜ばれないであろう学校行事の一つ、定期試験。
 繭香の通う高校においても、当然のことながら期末試験の日は徐々に近づいていた。

 いつもであれば、試験のために休み時間さえも勉強に費やしているところだろう。
 父や母の手前、学業は常に優秀な成績を修めねばならなかったから。
 そうでなければ、両親からの愛でさえも、享受する資格がないと思っていたから。

 しかし、今の繭香にとって、それはもうどうでもよい事だった。

 昨日の一件で、亮太は自分の事をどう思ったのだろう。
 彼を信じたいと思う気持ちは強かったが、それと同じくらい、不安も強かった。

 このまま、亮太が自分の事を色眼鏡で見るようになったら。
 今までのように、真っ直ぐに自分と向き合ってくれなくなったら。
 そう思うだけで、何事も手につきそうになかった。

 周りの評価とは関係なく、亮太には自分を見て欲しい。
 しかし、自分の全てさらけ出すほど、今の繭香には勇気もない。
 現に、自分は未だ亮太の前で、堅苦しい敬語で話している始末だ。

 自分を見て欲しいという気持ちと、全てを見せる事で嫌われてしまうかもしれないという恐怖。
 その板挟みが、繭香の枷となっていた。

 八方塞、四面楚歌。
 繭香には、こんな気持ちを分かってくれるような友人はいない。
 今の自分には、ただ、心の中で痛みに耐えることしかできないのだ。

 昼休み。
 木陰にあるベンチの上で弁当を広げながら、繭香は生気のない瞳で校庭を眺めていた。
 時折、箸を動かしてはみるものの、何を食べているかはよく分からない。
 ただ無意識に、目の前の食物を口に放り込んでいるだけだ。

「月野さん」

 突然、後ろから声をかけられて、繭香はハッとした表情で我に返った。

「あっ……。
 陽神、君……?」

 気がつくと、そこには亮太が立っていた。
 片手には購買部で売っているパンの包みを持ち、繭香のことを見降ろしている。


122 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:23:22 ID:u4Rt96y1
「ねえ、隣、いいかな?」

 そう言いながら、繭香が首を縦に振るよりも早く、亮太はベンチに腰を下ろした。

「昨日はごめん。
 なんか、友達のせいで、嫌な思いさせたみたいで……」

「えっ……!?」

「あいつは……理緒は、ちょっとがさつで無神経なところがあるからさ。
 たぶん、月野さんがあそこまで怒るなんて、考えてなかったんだと思う……」

「で、でも……。
 あの人が言っていたことは、本当ですよ。
 私の家、確かに礼儀には厳しいですし……」

「それでも、人によっては、やっぱり言われたくない事ってあると思うんだ。
 だから、あの時、それに気づけなかった俺にも責任はあるよ」

「そ、そんなことないです!!
 私は、ただ……陽神君に、変な気づかいをされたら、それは嫌だなって思って……」

「なんだ、そんなこと?
 だったら、気にする必要なんてないよ。
 噂とか、家とか……そんなこと関係なく、月野さんは月野さんでしょ?
 俺、そういうの、あまり難しく考えない方だからさ」

「そうなんですか……。
 あ、ありがとうございます!!」

 目の前を覆っていた霧が、一度に晴れてゆくような感じがした。

 やはり、亮太は最初から、繭香の思っていた通りの人間だった。
 周りが繭香のことを何と言おうと、亮太はあくまで、繭香と対等に向き合おうとしてくれる。

 それから繭香は、昨日のように亮太と談笑しながら昼食を口にした。
 今までは味のしなかった弁当が、急に美味しく感じられる。
 他愛もない話に花を咲かせていると、時間は瞬く間に過ぎていった。

「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。
 試験も近いし……また、図書室で勉強しないといけないからさ」

 パンの入っていた紙袋を丸め、そのまま鞄に押し込む亮太。
 そんな彼に名残惜しそうな視線を送ると、繭香は立ち上がろうとした亮太の手を咄嗟に抑えた。

「あの、陽神君……」

「なに?」

「私も……一緒に行ってもいいですか?」

「えっ?
 まあ、別に構わないけど……」

 亮太はなぜか渋い顔をしたが、繭香には関係なかった。
 ただ、少しでも彼と一緒にいたい。
 それが叶うだけで、幸せだったのだから。


123 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:24:08 ID:u4Rt96y1
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 物事というものは、全てが自分の思い通りになるとは限らない。
 頭では分かっていても、今の状況を受け入れるのは、繭香にとっては心苦しいものがあった。

 亮太と共に向かった図書室で待っていたのは、昨日、亮太の前で繭香の事について話した女だった。

 天崎理緒。
 亮太曰く、中学時代からの腐れ縁。
 根は悪くないが、少々がさつで無神経な部分もあるらしい。

 もっとも、そんな些細な事は、繭香にとってはどうでもよかった。

(この女が、余計なことを言わなければ……)

 昨日、自分のいる目の前で、理緒は繭香が周りからどう思われているか、亮太に喋り続けた。
 そのせいで、繭香がどれほど不快な思いをしていたか。
 どれほど、不安な気持ちに襲われたのかも知らずに。

 図書室に入るなり、亮太は理緒に昨日のことを謝らせた。
 理緒も口では謝ってくれたものの、どこまで本心かは分からない。
 きっと、そこまで深刻になることではないと、どこかで高をくくっているはずだ。 

 黙々と課題をこなす繭香の反対側で、理緒は事あるごとに、亮太にあれこれと質問している。
 やり方というよりも、答えその物を聞いているような理緒の態度に、繭香は苛立ちを隠しきれなかった。

 自分は今まで、周りの期待するような自分を作ることに必死になってきた。
 当然、辛い努力を続けねばならなかった事なども数多い。

 それに比べ、この女はなんだろう。
 自分から努力する事を放棄し、ただ亮太に頼るだけ。
 その場限りの間に合わせで、全てをやりくりしようという適当な態度。

(不愉快だわ……)

 見ているだけで、虫唾が走った。
 亮太の言った通り、確かにこの女は、がさつで無関心だ。
 その上、亮太の良心に甘え、自分で努力することさえもしていない。
 今ならば、亮太が自分を図書室に同行させるのを渋ったのも、なんとなく分かるような気がする。

 気がつくと、鉛筆を握っていた繭香の手は、完全に動きを止めていた。
 予鈴が鳴り、次の授業の始まりを告げられたことで、繭香は初めてそのことに気づいた。



124 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:24:49 ID:u4Rt96y1

「嘘、もう時間なの!?
 あのバーコード、ハゲの分際で、遅刻だけはやたらと厳しいのよね!!」

 遅刻を注意するのに、ハゲは関係ないだろう。
 そう思った亮太だったが、あえて口にするのは止めておいた。
 理緒の数学嫌いは、今に始まったことではない。
 その嫌悪の矛先は、自然と担当の教師にも向けられる。

 机の上に広げていた勉強道具をかき集め、理緒はそれを強引に鞄にねじ込んで席を立つ。
 鞄の口から顔をのぞかせている教科書はそのままに、慌てた様子で駆け出してゆく。

「それじゃあ、俺達も、そろそろ戻ろうか。
 なんだかんだで、数学の先生に睨まれるのは、俺もごめんだからね。
 月野さんも、次の授業があるんだろ?」

「それなら大丈夫です。
 私、次は古典なんですけど……あの先生、いつもまともに出席は取りませんから」

「そうなんだ。
 でも、今日はなんだか、無理につき合ってもらったようで悪かったかな。
 月野さん、あまり勉強がはかどってなかったみたいだし……」

 亮太から心配そうな視線を送られて、繭香は思わず胸を抑えた。

 理緒に対して不快な思いを抱いてから、彼女のノートは白紙のままだ。
 まさか、そのことから、自分の黒い一面を悟られてしまったのではないか。
 繭の中に隠れ潜む、醜く汚い蛹の部分を。

「そ、それは……。
 実は、私も途中から、よく分からなくなってしまって……」

 繭香の口から適当な嘘がこぼれ出た。
 教科書に載っているようなレベルの問題など、繭香にとっては難しくもなんでもない。
 これはあくまで、自分の醜い部分を隠そうとしているだけの話だ。

「なんだ、そうだったのか。
 そんなことなら、直ぐにでも言ってくれればよかったのに」

 何ら勘繰ることもせず、亮太は繭香に向かって言った。
 その言葉を聞き、繭香はほっと胸をなでおろす。
 どうやら、自分の知られたくない感情は、亮太に悟られずに済んだようである。

 結局、その時は、授業に遅れるという理由で亮太と別れた。
 嘘をついてしまったことに罪悪感を覚えたが、今の亮太との関係を壊したくないと考えると、致し方なかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





125 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:25:27 ID:u4Rt96y1
 六月とはいえ、下旬にもなると日は徐々に短くなる。
 未だ、六時頃になっても外は明るいものの、夏至の日から比べれば確実に短くなっていることだけは確かだ。
 時計の短針が進むよりも遅い、微々たる変化ではあるが。

 日の落ちかけた校庭には、既に生徒の姿はない。
 試験前ということで、部活動はどこも休みに入っている。
 勉強や委員会の仕事で学校に残っていた者達も、今はその殆どが帰宅していた。

 宵闇の迫る街中を、亮太を乗せた自転車が走る。
 その後ろには、なぜか繭香も乗っている。
 腰に手を回すだけではなく、繭香は顔を亮太の背につけるようにして、自分の身体を彼に預けていた。

「それにしても、随分遅くなっちゃったな。
 こんなことなら、もう少し早く、今日の勉強を切り上げるんだったよ」

 顔だけは前を向いたまま、亮太が後ろにいる繭香に言った。

 昼休み、繭香の勉強がはかどらなかったことを知った亮太は、繭香に放課後に一緒に残って勉強しないかと提案した。
 無論、繭香がそれを断るはずもなく、二人は今の今まで図書室にこもって勉強をしていたのだ。
 そして、気がつけば時刻は六時を当に過ぎ、慌てて学校を出る事になったのである。

 本来、繭香はバスで通学しているはずだったが、今日は亮太の自転車に乗せてもらっていた。

 運悪く、否、繭香にとっては運よくと言った方が正しいのかもしれない。
 彼女がバス停に着いた時は、次のバスが来るまで十五分近く待たなければいけなかった。
 ただでさえ帰宅が遅れているのに、ここで待ちぼうけするのも好ましくない。
 そんな亮太の判断から、繭香は再び、彼の自転車で送ってもらうことになったのである。

 夕方とはいえ、六月の下旬は蒸し暑い。
 それでも、亮太の背中で風を感じている繭香にとっては、今の空気は至極心地よい物に感じられた。

「ねえ、月野さん。
 今日は、森桜町のバス停まで送れば大丈夫かな?」

「はい、そこで大丈夫です。
 バス停から家までは、五分とかかりませんから」

「そうなんだ。
 電車の駅に遠いっていうのは不便だけど……まあ、バス停が近いから、まだマシだよね」

 他愛もない会話を繰り返しながら、亮太は力強くペダルを踏む。
 だが、二人も乗せた自転車を操りながら、意識を他所に向けて走り続けるのは少々危険だった。

「あっ……!!」

 次の瞬間、亮太は思わず声を上げてハンドルを切った。
 家路に急ぐ彼の前に、路地裏から一匹の猫が飛び出したのだ。
 タイミングからしてぶつからないと分かっていても、物陰から唐突に飛び出されれば、慌てない方がおかしい。



126 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:26:12 ID:u4Rt96y1
「だ、大丈夫ですか……陽神君?」

 見ると、繭香が自分の顔を上からのぞきこんでいる。
 自分と違い、どうやら彼女はそこまで激しく転倒したわけではないようだ。
 自転車が完全に倒れる瞬間、うまく受け身を取ることが出来たのかもしれない。

「ああ、平気だよ。
 それよりも、月野さんこそ怪我はない?」

「私は大丈夫です。
 でも、陽神君の腕が……」

 そう言って、心配そうに亮太の腕を見る繭香。
 半袖のシャツからのぞいた彼の腕は、転んだ時の衝撃で大きく擦りむいていた。

「ああ、これか。
 この程度なら、別に大したことないよ。
 唾でもつけておけば、直ぐに治るって」

「だ、駄目です!!
 傷口から変なバイキンでも入ったら、化膿しちゃいますよ!!」

「化膿って……。
 家に帰って、直ぐに洗えば平気だよ」

 怪我をしたとはいえ、たかが擦り傷。
 高校生にもなって、この程度で大騒ぎするのも馬鹿らしい。

 そう思った亮太だったが、繭香は治療をすると言って譲らなかった。
 ポケットから取り出した汚れのないハンカチを手に取ると、それで亮太の腕の傷を軽く撫でる。
 そして、そのまま傷口に布地を押し当てて、彼の腕から流れる血が止まるのを待った。

「とりあえず、これで血は止まりましたけど……。
 まだ、どこか痛くないですか?」

「心配性だな、月野さんは。
 それよりも、君のハンカチ……俺の血がついちゃったけど、よかったの?」

「気にしないでください。
 こんなハンカチより、陽神君の怪我が酷くならない方が大事ですから」

 繭香の顔に、久方ぶりの笑顔が戻る。
 そういえば、今日は亮太と一緒にいても、心から笑顔になることは少なかったように思う。
 きっと、心のどこかで、常に不安を抱えていたからなのだろう。

 血の付いたハンカチを躊躇いなくしまい、亮太の自転車を起こすのを手伝う繭香。
 それから先は、再び亮太の背に身を預け、バス停までの道を走った。

 程なくして目的の場所につき、繭香は名残惜しそうに亮太の背中から身体を離す。
 そのまま自転車から降りると、バス停の向こう側に去ってゆく亮太を見守った。

 帰り道、繭香はふと、ポケットに入れていた自分のハンカチを取り出してみる。
 薄い水色をした布地には、亮太の傷を拭いた跡がしっかりと残っていた。



127 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:26:57 ID:u4Rt96y1

(これ……陽神君の……)

 鼓動が激しくなってゆくのが、自分でも分かった。
 胸の奥から湧き上って来る何かに突き動かされるようにして、繭香はひたすらに家までの道を急いだ。

 自宅の門が近づくにつれ、繭香は息が荒くなってゆくのを感じた。
 全力で走っているからなのか、それとも、何か別の感情によるものなのか。
 繭香自身、その答えは、どことなく気がついてはいた。

 鞄から取り出した鍵で扉を開け、家に入ると同時に素早く鍵を閉める。
 逸る気持ちを抑えながら脱いだ靴を揃え、そのまま二階の自室へと駆け上がった。

 無駄なく整理された、自分の机。
 その机と対になって置かれている椅子に腰かけると、繭香は先ほどのハンカチを取り出した。
 そのまま鼻と口を覆うように、そっと布地を顔に近づける。

 もとからハンカチについていた柔らかな匂いに混じって、泥と汗と、そして血の匂いがした。
 一点の汚れもない、優しく包み込むようなハンカチの香り。
 それを壊すようにして、布地に染みついたヒトの匂いが鼻腔を刺激する。

「んっ……はぁ……。
 これが……陽神君の匂い。
 あの人の……身体に流れていたものの匂い……」

 一度考え出すと、もう止まらなかった。
 自分の胸の奥から溢れ出て来る熱いものを抑えきれず、繭香はひたすらに、布地に残された匂いから亮太を感じた。

「陽神君……私……」

 周りの期待に応えるために、常に繭の中へ閉じこもるしかなかった自分。
 そんな自分に初めて向けられた、真っ直ぐな視線。
 その瞳を自分だけのものにしたいというのは、果たして本当に我侭なのだろうか。

「もっと……ずっと、一緒にいたいよ……」

 ハンカチを机の上に戻し、繭香は手前の引き出しをそっと開けた。
 中から取り出したのは、一本のカッターナイフ。
 仕込まれた刃を迫り出して、尖った切っ先を左手の薬指に突き立てた。

「――――っ!!」

 瞬間、その名の通り刺すような痛みが走り、繭香は思わず眉根を寄せた
 しかし、この程度で怯む繭香ではない。

 薬指の先端に、赤いものがぷっくりと膨らんでいるのが見える。
 指先を自分の口に入れることなどせず、繭香はそれを、机の上のハンカチに押しつけた。



128 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:27:45 ID:u4Rt96y1

 ハンカチに付いた亮太の血。
 薬指から出た繭香の血。
 その二つが布地の上で混ざり合い、赤い染みを大きく広げてゆく。

 いけないことをしているのは、繭香自身も分かっていた。
 自分のしている行為は、決して誰にも見られてはならないし、知られてもいけない。
 学校のクラスメイトはもとより、教師も、そして両親でさえも。

 そう、頭の中では分かっていても、繭香は自分の気持ちを抑えきれなかった。

 陽神亮太と、もっと一緒に繋がっていたい。
 彼と一緒の時を失うくらいなら、いっそのこと死んだ方がマシだ。

(陽神君の中のものが、私のものと混ざって行く……。
 私の中に、陽神君が流れて一つになる……)

 薬指に流れる血管は、心臓に直結していると言われている。
 その指先から出る血液と、ハンカチに残る亮太の血。
 二つが混ざり合うことで、少しでも自分が彼と深く繋がっていると感じられた。

 誰も知らない、繭香だけの秘密。
 互いの身体に流れるものを重ねることで、相手との繋がりを感じることのできる、血の儀式。

「陽神君……。
 どこにも……いかないでね……」

 水色の布地が、赤い鮮血で染められる。
 ここまで汚れてしまえば、もう使うことはできないだろう。
 だが、今の繭香にとってみれば、そんなことは些細な問題でしかなかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





129 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:28:20 ID:u4Rt96y1
 翌日も、梅雨時にしては晴れ渡った空だった。
 六月も終わりに近づいてくると、晴天の日も増えてくる。
 この分なら、梅雨が明けるのも時間の問題なのかもしれない。

 その日から、繭香は積極的に亮太に会いに行くようになった。
 狙い目は、昼休みではなく放課後だ。
 試験が近いということを口実に、学校に残って一緒に勉強することができる。
 放課後ならば、鬱陶しい理緒も周りにいないために好都合だった。

 理緒とは違い、繭香は亮太に最初から最後まで頼りきることはない。
 どちらかと言えば、自分で出来ることは自分でやりきる人間だ。

 ただ、それだけに、亮太との勉強は互いの身になるものだった。
 互いに分からない箇所を教え合う、自主学習としては理想の姿。
 たかが試験のための勉強でも、こうして相手のためになれるのが、繭香には嬉しかった。

 ほんの一時のことでしかないが、それでも繭香にとっては至福の時。
 今まで色褪せていた学校生活が、急に楽しく感じられてくるから不思議なものだ。

 だが、永遠というものは、決してこの世に存在はしない。
 それは、人と人の関係においても同じ事。
 変革のない世界など存在せず、物事は常に流動的に動いてゆく。
 気まぐれに川筋を変える沢のように、時に良き流れに、時に悪しき流れに変わりながら、その流れに身を任す者達を翻弄するのだ。

 清楚で清純で、穢れを知らないお嬢様。
 そんな印象の強い繭香が、放課後まで学校に残り、男子生徒と一緒に勉強を続ける。
 その上、帰宅まで一緒となれば、妙な噂が立たない方が不思議というものだった。

 いつもであれば、決して人の集まることのない繭香の机。
 そんな彼女の机の周りには、その日に限ってクラスの女子によって囲まれていた。

「ねえ、月野さん。
 あなた、E組に彼氏がいるって本当なの?」

 クラスメイトの一人が、繭香に聞いてきた。
 詳しく答える必要はないと思った繭香は、適当な事を言ってごまかそうとする。

「べ、別に、彼氏じゃないですよ。
 陽神君には、ただ、勉強を教えてもらってるだけですから……」

「へえ、勉強ねぇ……。
 でも、ただ勉強を教えてもらうだけで、家まで送ってもらうものかなぁ?」

「家って……。
 ど、どうして、そんなこと……」

「どうしてって……。
 月野さん、本当に知らないの?
 あなたとE組の陽神君のこと、既にあっちこっちで噂になってるわよ」

 年頃の少女が少年と二人きりで遅くまで学校に残り、しかも毎日男の自転車の後ろに乗って帰る。
 これでは、二人のことが噂にならない方が不自然だ。
 まあ、この程度であれば、繭香としても許容範囲ではある。



130 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:29:12 ID:u4Rt96y1
「それにしても、月野さんも意外と隅に置けないわよね」

 問題なのは、今、この場で話をしているクラスメイト達だった。
 こちらの気持ちなどお構いなしに、勝手な想像の下、話を膨らませてゆく。

「初心な顔して、その裏ではしっかり男を捕まえているんだもんね」

(ちがう……)

「本当、羨ましいわよね。
 月野さん、可愛いから……きっと、どんな男でも引手数多なんでしょうけど」

(煩い……)

「あーあ。
 私も彼氏欲しいなぁ。
 どこかにいい男、転がってないかなぁ」

(転がっていないかなんて……。
 私の陽神君への気持ちは、そんな軽いものじゃない……)

「ねえ、月野さん。
 もしよかったら、私にも陽神君を紹介してくれない?
 別に、彼氏とか、そういう関係じゃないんでしょ?」

 繭香の机を囲んでいる女子生徒の一人が、少し意地の悪い笑いを浮かべて言った。
 本人にしてみれば、単にからかっただけの話。
 ちょっとした冗談のようなものだったのだろう。

 だが、次の瞬間、教室中に乾いた音が響き渡り、その場を覆っていた空気が一瞬にして変わった。

「もう、いいかげんにしてよ!!
 清純とか、清楚とか……そんなの、あなた達が勝手に思ってるだけじゃない!!」

 気がつくと、繭香はクラスメイトの一人の頬に、思い切り平手打ちを食らわせていた。

「ちょっと、なにするのよ!!
 こっちは冗談のつもりだったのに……そんなに怒らなくてもいいでしょう!?」

 頬をはたかれた生徒も、負けじと繭香に詰め寄った。
 いつもなら、ここで繭香が身を引いて終わりになるはずだ。
 しかし、今日に限っては、繭香も決して引き下がる姿勢を見せなかった。

「あなた達に、なにが分かるのよ!!
 私は……私は……!!」

 それ以上は、上手く言葉に表せなかった。
 ただ、とめどなく溢れ出る感情を、抑え込む事ができないだけだ。

 自分の荷物さえそのままに、繭香は教室を飛び出した。
 己の行いを悔いた時は、時既に遅し。
 今まで、繭によって守ってきた自分のイメージを、まさかこんな形で壊す事になろうとは。



131 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:29:54 ID:u4Rt96y1
 階段を駆け上がり、繭香は屋上へと続く扉を開け放った。
 立入禁止の校則など関係ない。
そのまま外へ飛び出すと、しがみつくようにして緑色のフェンスに指を絡めた。

(どうしよう……どうしよう……どうしよう……どうしよう……どうしよう……)

 今まで、自分の心の奥に隠していた、醜い蛹の一面。
 それを表に出してしまったことが、亮太に知られたらどうなるか。

 答えなど、誰かに聞くまでもないだろう。
 今度こそ、自分は亮太に嫌われてしまう。
 そう思うと、もうなにも考えることができなかった。

 五限の始まりを告げる予鈴が、校舎の中に響き渡る。
 しかし、その音を聞いてもなお、繭香は教室に戻る気配を見せようとはしない。
 屋上の隅で丸くなり、亮太に嫌われる恐怖に怯え、ひたすらに泣いた。

 一時間、そして二時間と過ぎ、やがて六限の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
 それを耳にした時、繭香はようやく腰を上げ、屋上から下の階へと続く階段を下りだした。

 亮太の事を勘繰られ、思わず感情的になってしまった自分。
 その上、今日は授業もサボってしまった。
 どうか、この事が亮太の耳に入っていませんように。
 今はただ、そう願う以外に方法はない。

 長い廊下を抜け、繭香はE組の教室に向かう。
 いつも、放課後に会う約束をしている以上、亮太に会わないわけにはいかなかった。

 その日の授業を終え、帰宅を始めた生徒たちとすれ違いながら、繭香はE組の教室まで辿り着いた。
 が、教室の中を除いたところで、思わず扉の向こうに身を隠してしまう。

 E組の教室には、確かに亮太の姿があった。
 いつもであれば、直ぐにでも声をかける繭香だが、それはできそうにもない。
 なぜなら、彼の横には、あの天崎理緒の姿もあったのだから。

 こちらの気持ちなどお構いなしに、亮太の前で要らぬことをベラベラと喋った女。
 亮太の迷惑も顧みず、勉強の事は彼に頼り切っている女。
 繭香にとって、理緒はそんな印象しかない嫌な女だ。
 そして、それは今も変わらない。

「ねえ、亮太。
 今日、C組で起きた喧嘩の話、聞いた?」

 相変わらず、理緒は亮太に下らない噂話を吹き込んでいるようだ。
 聞き流してしまおうと思った繭香ではあったが、それでも何故か、今日に限って理緒の話が気になった。

 教室と廊下を隔てるドア越しに、繭香はそっと聞き耳を立てる。
 もっとも、理緒の地声はかなり大きく、そこまで近づかなくとも十分に繭香のところまで聞こえていたのだが。



132 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:30:30 ID:u4Rt96y1

「今日の昼休みにあったことなんだけどさ。
月野さんが、朝子のことを引っ叩いたんだって」

「月野さんが?
 それって、彼女がそこまで怒るようなことを、誰かが言ったんじゃないの?」

「いや、それが全然なのよね。
 朝子も軽い冗談を言っただけみたいだったし……。
 私も、初めて聞いた時は、びっくりしたけどね」

「冗談、か……。
 でも、人によっては、言われたくないことだってあると思うし……」

「そうは言っても、いきなり平手打ちってのはないわよ。
 まあ、大人しい顔している人間ほど、怒らせると怖いって聞くけどさ」

 そこまで言った時、扉の揺れる音がして、亮太と理緒は音のした方へと振り向いた。
 開け放たれた扉の向こう側。
 放課後の廊下に佇む少女の姿を見て、二人は何も言えずに言葉を失う。

「つ、月野さん……」

 理緒の口から出たのは、それだけだった。
 噂話を噂の当人に聞かれてしまったという気まずさもあるが、それ以上に、目の前に佇む繭香の視線が怖かった。

 どんよりと、光を失って淀んだ瞳。
 絶望という名の言葉に支配され、その背中には、灰色に濁った重たい空気を背負っている。
 それは、まるで今まで晴天だった空を、一瞬にして曇天に変えてしまえるかのような力さえ持っているかのように錯覚させた。

 このままでは、自分も平手打ちを食らわされる。
 そう思って身構えた理緒だったが、彼女の予想に反し、繭香は教室に入っては来なかった。

 繭香の濁った瞳から、一滴の涙が頬を伝って流れる。
 喚くこともせず、叫ぶこともせず、繭香はそのまま二人に背を向けると、脱兎の如く教室の前から走り去った。

「月野さん!!」

 繭香が走りだすと同時に、亮太の足も教室のタイルを蹴った。
 後ろで理緒が何か言っていたような気もするが、今の亮太には聞こえない。
 階段を駆け下りる繭香の後を追い、放課後の校舎を亮太は駆けた。

 放課後の階段を、何かから逃げるようにして繭香が走る。
 途中、すれ違う生徒達の視線を感じたが、今の繭香にとっては些細なことだ。

 廊下の反対側から歩いて来る生徒にぶつかりそうになり、繭香はそれを払いのけるようにして走って行く。
 後ろから、何やら悪態が聞こえたが、そんなことはどうでもよい。

 一階の廊下を駆け抜け、下駄箱の前まで辿り着く。
 靴を履き変えようとしたその時、繭香の腕を誰かが掴んだ。



133 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:31:53 ID:u4Rt96y1
「おい、ちょっと待てよ」

 声の主は亮太だった。
 あれから直ぐ、繭香のことを追ってきたらしい。

「は、離して下さい!!
 私は……」

 亮太の手を振りほどこうと、繭香は懸命に腕を振った。
 しかし、亮太もまた引く事なく、繭香の肩を掴んで振り向かせる。

「いいから、ちょっと落ち着きなよ。
 君と友達の間で何があったか知らないけど……いきなり逃げることはないだろ?」

「でも……天崎さんの言っていたこと、本当です。
 私……クラスの子に冷やかされて、頭にきて……」

「だったら、尚更逃げたりしちゃ駄目だよ。
 確かに、いきなり手を出したのは良くないと思うけど……月野さんにだって、理由があったんでしょ?」

 亮太は腰を落とし、繭香と同じ目線に立って言った。
 一瞬、二人の視線が重なったが、繭香は直ぐに視線をそらす。
 胸の前で拳を握りしめたまま、側にいる亮太にしか聞こえないくらいの声で尋ねた。

「陽神君は……私のこと、怒らないんですか?」

「怒るも怒らないも……まだ、理由も何も聞いてないからね。
 一方的な噂話だけで人の中身を決めつけるなんての、俺、好きじゃないからさ」

「ひ、陽神君……」

 それ以上は、言葉が出なかった。
 ただ、亮太の優しさに触れたくて、それだけで涙が溢れてきた。

 いつしか繭香は亮太の胸に、その顔を埋めて泣いていた。
 亮太はそんな繭香の肩をそっと抱くと、そのまま彼女に寄り添うようにして、下駄箱の前を後にした。

 通用口の付近は、生徒の出入りが激しい。
 あんな場所で泣いていては、いつ、誰に見つかり、何を言われるかも分からない。

 亮太が繭香を連れてきたのは、以前、二人で昼食を食べた休憩室だった。
 ただでさえ活用する生徒が少ない上に、今は食事時でもない。
 幸いにして、休憩室には他の生徒の姿はなかった。

「そろそろ、落ち着いて話せるかな?」

 繭香がひとしきり泣いた後、亮太はそう言って彼女の顔を覗き込んだ。
 その言葉に、繭香はただ、何も言わずに頷いて答える。

「それじゃあ、話せるところだけでいいから、話してくれないかな。
 あのまま逃げられたんじゃ、俺としても、なんだか気分が晴れないからさ」

「はい……。
 でも、私が話すことなんて、殆どないですよ。
 天崎さんが言っていたこと、全部本当ですし……」

「理緒が何を言っていたかなんて、そんなのは関係ないよ。
 それに、月野さんにだって、理由があったんでしょ?
 俺が聞きたいのは、そこだけかな」


134 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:33:16 ID:u4Rt96y1
 怒ることも、恐れることもしない。
 そんな亮太の態度に押され、繭香も少しずつ、今日の昼休みにあったことを語りだした。

 自分の知らないところで、亮太と妙な噂になっていたこと。
 それが原因で、クラスの女の子に冷やかされたこと。
 最後には、性質の悪い冗談を言われ、とうとう頭にきて逆上してしまったこと。

 繭香が全てを話し終えるまで、亮太はただ、彼女の話を黙って聞いていた。

「なるほど。
 そんなことがあったんだね」

 繭香の話を全て聞いても、亮太はその態度を変えることはなかった。
 あくまでいつも通り、何の差別も偏見もない瞳で繭香を見つめてくる。

「陽神君は……私の事を、酷い人とは思わないんですか?」

「酷いなんて……そんなことはないよ。
 そりゃ、叩いた相手には、後で謝らなきゃならないだろうけどさ。
 でも、俺は月野さんが、全部悪いとは思わない」

 一瞬、亮太の言っていることが、繭香には分からなかった。

 他人の期待を裏切る事は、それそのものが罪である。
 そう信じて生きてきた繭香にとって、今日の昼休みの出来事は、一方的に糾弾されてもおかしくないはずだった。
 そして、自分の醜い一面を知った亮太もまた、自分の事を拒絶するとばかり思っていた。

 そんな繭香を他所に、亮太は独り話を続ける。
 繭香の問いに答えるというよりは、自分の考えをひたすらに述べているような話し方だった。

「前、言ったことあるよね。
 人によっては、言われたくない事もあるって話」

「あ……」

「それに、噂とか家とか関係なく、月野さんは月野さんだって話もね。
 だから、俺は何にも気にしてないよ」

 あくまで優しく、いつもと変わらない口調で、亮太は繭香に向かって言った。
 その言葉に、繭香は再び亮太の胸に顔を埋めて泣いた。
 もっとも、今度は悲しくて泣いたわけではない。
 亮太の気持ちに触れ、嬉しかったからこそ流した涙だ。

「あ、ごめん……。
 俺、もしかして、変なこと言ったかな」

「いえ……そんなこと、ないです……。
 ただ……陽神君に嫌われなくて、よかったと……」

「おいおい、大げさだな。
 人には色々と事情もあるんだし、こんなことで、簡単に好いたり嫌ったりなんてしないよ」

 亮太にとっては、繭香を落ち着かせるために口にしただけの一言。
 無論、本心からそう思っていたのには間違いないが、そこまで重たい意味を込めたものではない。
 ただ、率直に、自分の考えを述べただけだ。



135 :迷い蛾の詩 【第四部・闇紡ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/15(水) 13:34:01 ID:u4Rt96y1
 ところが、繭香にとってその言葉は、暗闇に落ちかけた自分に向けられた一筋の光明のように感じられた。

 亮太は、自分のことを嫌っているわけではない。
 その事実が、彼女の中で今まで躊躇っていたものを押し上げる源となる。
 心の枷の一部を外し、亮太との距離を縮めるための一言を告げる。

「あの……。
 今日は、もう一つだけ、我侭を聞いてもらってもいいですか?」

「我侭?
 まあ、ものによるかなぁ……」

「私……陽神君のこと……名前で呼んでもいいですか?」

 言った。
 あの日、バス停で知り合ってから、初めて繭香の方から亮太に何かを頼んだ。

 傍から見れば、下らないこと。
 大した決意もなく、簡単に言えることかもしれない。
 それでも、繭香にとっては大切な一言だった。

「なんだ、そんなこと。
 別に、俺の方は構わないよ。
 ただ……」

 繭香の言葉に軽く頷きつつも、亮太は最後に言葉を濁らせた。

「それにはちょっと条件があるかな」

「条件、ですか?」

「そうだよ。
 俺のことを名前で呼ぶなら、俺と話すときは、敬語を使わないこと。
 それと、俺も月野さんのことを名前で呼ぶけど、構わない?」

「は、はい!!
 勿論、大丈夫です!!」

 それは、繭香にとって願ってもないことだった。
 嬉しさのあまり、いつも以上に即答する繭香。
 が、額を亮太に小突かれたところで、早くも自分が先の約束を守れなかったということに気がついた。

「あっ……訂正するね。
 勿論、大丈夫だよ」

「なんだ、ちゃんと普通に喋れるじゃん。
 だったら、今度からは、そんなに固くならないで欲しいかな」

 休憩室の椅子から立ち上がり、亮太は繭香に微笑んだ。
 繭香もそれに、笑顔で答える。
 今しがた泣き腫らしていたにも関わらず、彼女の瞳には、既に涙の色は浮かんでいなかった。