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351 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:29:23 ID:pP/NcvhP

 その日、陽神亮太は珍しく家を遅く出た。
 いつもであれば遅刻を気にして早目に出るものの、今日に限って寝坊をしてしまった。

 寝坊の原因は、間違いなく昨晩の寝不足にある。
 あの、神社での一件があった後、亮太は自室で独り繭香のことを考えていた。

 なぜ、繭香はあの場所で、あんな行動に出たのだろう。
 自分の行動は、繭香を傷つけてしまったのではないか。
 だが、あそこで繭香を抱いてしまうことが、果たして本当によかったのだろうか。

 いくら考えても、結論は出そうになかった。
 どれほど時間をかけようとも、同じような考えが堂々巡りで頭の中を回るだけだ。

「今日は、遅刻ぎりぎりかな……」

 自転車で坂を下りながら、亮太はふと、そんなことを呟いた。
 全身で風を切る心地よさはあるものの、どこか気持ちが晴々としない。

 大通りを抜け、バス停が近づく。
 校門の向こうに、見慣れた校舎が姿を現す。
 だが、今日に限って、通い慣れた校舎は酷く大きく恐ろしいものに感じられた。
 まるで、全てを飲み込まんとする怪物のように、亮太の前に立ち塞がっているように見えたのだ。

 あの門の向こうには、きっと繭香もいる。
 昨日のことがあるだけに、どんな顔をして話をすればよいのか分からない。
 そう考えている間にも校門との距離は縮まり、亮太は流されるままに門を抜けた。

 駐輪場に自転車を止め、鞄を抱えて通用口へと急ぐ。
 予鈴が鳴るまでには五分ほどあったが、それでも遅刻ぎりぎりだ。

 下駄箱で靴を履き変え、亮太は教室へと続く階段を目指して駆けた。
 周りには、他の生徒の姿はない。
 きっと、既に教室でホームルームの準備をしているに違いない。

 このままでは、本当に遅刻してしまう。
 そう思い、亮太が脚に力を入れた時、唐突に彼を後ろから呼ぶ声がした。

「おはよう、亮太君!!」

 人気のない通用口に響く、軽快な声。
 それが誰のものなのかは、顔を見なくとも直ぐに分かった。

「繭香……」

「どうしたの、亮太君。
 今日は、随分と遅かったんだね」

「あ、ああ……。
 ちょっと、昨日は寝付けなくてね。
 油断してたら寝坊したよ」

「そうなんだ。
 でも、亮太君が無事でよかったな。
 もし、交通事故とかに合ってたらどうしようって……心配したんだよ」

 そう言いながら、繭香は屈託のない笑顔を亮太に向けて来る。
 その顔からは、昨晩に感じた仄暗い灰色の空気は感じられない。
 妙に快活な部分はあるものの、それ以外は至って普通の繭香のままだ。



352 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:30:23 ID:pP/NcvhP

 昨日のあれは、いったいなんだったのだろうか。
 そう、亮太が考えた時だった。

「ねえ、亮太君……。
 昨日は……その……ごめんね」

「えっ……!?
 あ、ああ……」

「亮太君だって、迷ってたんだよね。
 なのに……私、一人だけ怒って、先に帰ったりして……。
 本当に、ごめんね」

「い、いや……。
 それを言うなら、俺も悪いところはあったしさ。
 驚いたとはいえ、女の子を突き飛ばしたんだもんな。
 繭香の方こそ、怪我はなかった?」

「うん、私は大丈夫だよ。
 だから、亮太君も、あんまり気にしないでね」

 そう言って、繭香は亮太に微笑んだ。
 いつも、繭香が亮太に見せていた、愛くるしさの中にもいじらしさを感じられる笑顔だ。

 昨日のことが、気にならないと言えば嘘になる。
 しかし、繭香の方から謝ってきたのだから、それをこちらから蒸し返すのも野暮というものだ。
 それに、亮太としても、昨晩のことはあまり考えたいと思わなかった。

 ふと、そんなことを考えながら目を落とすと、繭香の足元にある学生鞄が目に留まった。
 繭香の鞄にしては珍しく、今日は随分と膨らんでいる。
 まるで、食事を終えたばかりの鯨のように、今にもはち切れんばかりの様相を呈しているのだ。

「ねえ……。
 ところで、その鞄……随分と大きくないかい?
 今日、そんなに荷物が必要なこと、あったっけ?」

「うん、ちょっとね……。
 それよりも、早く行かないと遅刻するよ。
 急ごう、亮太君」

「ああ、そうだな。
 繭香の荷物、重そうだけど大丈夫?」

「平気だよ。
 ちょっと膨らみすぎちゃったけど、大して重いものが入ってるわけじゃないから」

 繭香が鞄を、亮太の前で大げさに持ち上げる。
 見たところ、確かに繭香の言う通り、そこまで重い物は入っていないようだった。



353 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:31:14 ID:pP/NcvhP

「よし。
 だったら急がないとな。
 繭香、走れる?」

「うん、大丈夫。
 亮太君も、転ばないようにね」

 始業ベルの音と共に、亮太と繭香は階段を駆け上がった。
 遅刻寸前で教室に駆け込むと、教室中の生徒の視線が一斉に自分に向けられて痛々しい。
 唯一の幸いは、未だ担任が教室に到着していなかったということだろう。

「ふぅ……。
 ギリギリセーフってところかな……」

 周りの目は気にせず、亮太は机の上に鞄を置いて突っ伏した。
 いつもは遅刻など決してしないだけに、こんな姿を人前でさらすのは少し恥ずかしい。

 だが、それでも亮太にとっては、繭香から昨日のことを気にしていないと言われたことは救いだった。
 こうなると、明け方までかけて悩み尽くしていたことが、急に馬鹿らしくなってくる。

 梅雨明け間近の夏空が、教室の窓越しに温かな光りを運んでいる。
 どこから見ても平穏無事な、何気ない教室の風景。
 そんな安穏とした空気の裏で、確実に狂気が進行していることを、この時の亮太が気づくはずもなかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 試験の終わった後の私立高校は、午前中で授業も終わりになることが多い。
 その授業でさえも形だけのものであり、試験と通知表が返却されれば晴れて試験休みに突入である。
 そして、流れるままに夏休みに入り、後は九月の頭まで学校はない。
 規律の厳しいことで有名な私立の高校ではあるが、こういったところは、公立高校よりも優れていると思わざるを得ない。

 午前中の授業を全て終え、天崎理緒は独り教室の椅子から立ち上がった。
 周りで談笑している友人に軽く挨拶をし、一足先に教室を出る。

 理緒が向かおうとしたのは、同じ一年の教室であるC組だった。
 昨晩、橋の上で考えた結果、月野繭香に聞こうと思っていたこと。
 自分の中での亮太に対する答えをはっきりさせるためにも、ここは臆さずに教室に向かわねばならない。

 そう思っていた理緒だったが、E組の教室を出るなり出鼻をくじかれた。

「えっ……。
 つ、月野さん!?」

 彼女の目の前には繭香がいた。
 手には大きく膨らんだ鞄を持ち、こちらをじっと見つめている。



354 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:32:06 ID:pP/NcvhP

「あの……天崎さん」

「な、なに?
 言っておくけど……亮太に会いたいんだったら、自分から声をかけてよね。
 あなた、亮太とは仲がいいんでしょ?」

「いえ、そうじゃないんです。
 今日は、天崎さんにお話があって来たものですから……」

「へっ……。
 わ、私に……!?」

 意外だった。
 同じ一年の中でもお嬢様との呼び声が高い繭香が、まさか自分から声をかけてくるとは。
 しかも、理緒は繭香と数回しか話しをしたことがないばかりか、あまつさえ嫌われているかもしれないと思っていたのに。

 だが、これは理緒にとっても好都合だった。
 亮太との関係を繭香に聞こうと思っていたところだが、実際はどう声をかけてよいか分からなかった。
 そんなところへ自分から赴いてきてくれたのだから、これほど都合のいいことはない。

「まあ、話があるって言うんなら、私は聞いてあげるわよ。
 調度、私もあなたに聞きたいことがあったしね」

「それは奇遇ですね……。
 では、こんな場所で立ち話もなんですから……よろしければ、屋上で話しませんか?」

「屋上?
 なんだって、またそんな場所で?」

「人に聞かれると……ちょっと、恥ずかしい話しなので……。
 あの……駄目、でしょうか?」

「いや、別に駄目ってことはないわよ。
 分かったわ。
 今から、屋上で話しましょう」

 繭香の申し出を断る理由は、理緒にとっても特になかった。
 なにより、理緒自身、人前で話すには少々気が引けるようなことを聞こうとしていたのだ。

 屋上に続く階段を、理緒が軽快な足取りで昇って行く。
 その後ろから、繭香が妙に大きな鞄を抱えて着いて行く。
 他の生徒は皆、真っ直ぐに通用口に向かってしまっているためか、幸いにして誰ともすれ違うことはなかった。

 正午を迎えたばかりの屋上は、夏の風が吹き抜けていて心地よい。
 空に浮かんでいる雲が、校庭に小さな影を落としながら流れてゆく。

 両腕を青空に向かって突き出しながら、理緒は大きく体を伸ばした。
 いざ、繭香に亮太との関係を聞くことになると、やはり緊張するものだ。
 心を落ち着かせるためにも、まずは新鮮な空気を取り込むことから始めたい。



355 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:33:13 ID:pP/NcvhP

 夏の日差しが降り注ぐ中、理緒は屋上に流れる清んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。
 そして、未だ鞄を持ったまま後ろに佇んでいる繭香の方を向き、思い切って尋ねてみた。

「ねえ、月野さん。
 あなた、私に聞きたいことがあるって言っていたけど……いったい、どんな話なの?」

「私の話は、別に後でも構いません。
 まずは、天崎さんからどうぞ」

「そう?
 だったら、先に聞かせてもらうけど……」

 緑色のフェンスに寄りかかるようにして、理緒は繭香の方を向いたまま言った。
 フェンスを形作る針金に指を絡ませたまま、決意を固めて繭香に問う。

「あなた……亮太とは、どんな関係なわけ?」

「どんな関係……。
 それは、どういう意味ですか?」

「そんなの決まってるじゃない。
 あなただって、自分と亮太の間に妙な噂が流れているのは知っているんでしょう?
 私が聞きたいのは、その噂がどこまで本当なのかってことよ」

 噂を流したのは、何を隠そう理緒自身。
 それだけに、どこか白々しいとは思ったものの、自分の言葉を撤回しようとは思わない。
 亮太と繭香の関係を知るためには、この程度の嘘は何ら恥ずかしいと感じない。

 ところが、そんな強張った表情の理緒とは反対に、繭香は軽い吐息と共に言葉を吐きだした。
 その、あまりに予想と違う反応に、理緒の方がぎょっとした顔で繭香を見る。

「なぁんだ、そんなことですか……」

 今まで表情一つ変えずにこちらを見ていた繭香の顔が、ふっと笑った時のそれに変わった。
 目を細め、どこか虚ろなその顔に、思わず理緒は何かを感じ取って後ずさる。

「亮太君は、私にとって大切な人です。
 出会った時から、ずっと……あの人の真っ直ぐな瞳が忘れられないんです……」

「な、なによ、それ。
 答えになってないわよ!?」

「私と心から向き合ってくれたのは、亮太君だけだったんです。
 だから、亮太君だけが、本当の私を見てくれる……。
 亮太君だけが、本当の私を分かってくれる人なんです……」

 そう言いながら、繭香はじりじりと、理緒との距離を縮めてくる。
 その瞳を改めて見た理緒は、喉まで出かかった悲鳴を辛うじて堪えるので精一杯だった。

 焦点が合わず、仄暗い沼の底のようにどんよりと淀んだ目。
 真夏の太陽の下、まるで白昼夢に支配されているかのように、繭香はゆっくりと理緒に近づいてゆく。



356 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:34:06 ID:pP/NcvhP

「ねえ、天崎さん……」

 もう、手を伸ばせば届きそうなくらいに近づきながら、繭香は理緒の名前を呼んだ。
 その言葉には、既に感情らしいものさえ感じられない。
 別世界の幻に向かって話しかけているように、繭香の口から出る言葉もまた虚ろなのだ。

「今度は、私の番です。
 天崎さんは……亮太君にとっての何ですか?」

「えっ、私!?
 わ、私はと亮太は……ただの腐れ縁よ!!
 中学が一緒だったから、今でも気軽に話しているってだけで……」

「…………嘘ですね、それ」

 しばしの沈黙の後、繭香はバッサリと切り捨てるように言い放つ。
 心の奥底をナイフで抉り出されたような気分になり、理緒は何も言い返すことができなかった。

「天崎さんも、亮太君のことが好きなんですね。
 でも、それは駄目です。
 亮太君には、私だけを見ていてもらいたいから……。
 本当の私を見てくれるのは、亮太君しかいないから……」

 繭香の手が、その腕に抱えられていた鞄の中に伸びる。
 中からタオルにくるまれた何かを取り出すと、繭香は鞄を自分の後ろに放り投げた。

 ドサッという音がして、鞄が砂埃を上げながら屋上の床を転がる。
 その音を合図に、繭香はゆっくりと手にした塊をタオルの拘束から解き放つ。

 屋上を吹き抜ける風に、繭香の手にしたタオルが揺れた。
 そのままタオルから手を離し、繭香は中にあったものをしっかりと手に握り締める。

「ちょっ……月野さん!?」

 繭香の手にした物を目にし、理緒は短い悲鳴を上げながら言った。
 鈍い、銀色をした物体が、繭香の手の中で夏の日差しを反射して輝いている。

 それは、学校の屋上で清楚な女子高生が握るには、余りにも不釣り合いで物騒な代物。
 研ぎ澄まされた刃を持ち、本来であれば魚をさばくために用いられる調理道具の一種。
 が、今はそれも、単なる凶器としての役割しか果たしていない。

 鋭く細長い形をした刺身包丁。
 繭香の手に握られている刃の先は、真っ直ぐに理緒の喉元を狙っていた。

「ごめんなさい、天崎さん。
 でも……あなたが悪いんですよ。
 あなたが、亮太君を惑わすから……。
 亮太君を……私だけを見てくれるはずの亮太君を、変えてしまおうとするから!!」

「な、なに言ってるのよ、月野さん!!
 あなた……ちょっと、おかし……!?」



357 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:34:51 ID:pP/NcvhP

 それ以上は、何も言葉が出なかった。
 代わりに聞こえてきたのは、激しく何かが噴き出す音と、喉から空気が漏れる音。
 目の前の景色がだんだんと真っ白になり、理緒は力なくその場に倒れ伏した。

 ベチャッ、という音がして、理緒の身体は真紅の泉にその身を沈めた。
 彼女の首元からは、泉の源である赤い鮮血が止め処なく溢れている。

 薄れゆく意識の中、理緒は天を仰ぐような姿勢で繭香を見た。
 繭香の手に握られた包丁は、理緒の首を斬り裂いた時についた血で真っ赤に染まっている。
 最早、起き上がることさえも叶わなくなった理緒のことを、繭香は冷ややかな顔で見つめていた。

「まだ……終わりませんよ、天崎さん」

 既に返事をすることはないであろう理緒に向かい、繭香がぽつりと呟いた。
 そして、手にした包丁を逆手に構え、その切っ先を理緒の顔に向ける。

「この口が悪いんですよね。
 あなたが亮太君に、変なことを吹き込むから……。
 例え間接的にでも……亮太君の唇を、あんな形で奪って見せつけるから……」

 理緒の頭に、繭香の手にした包丁が振り下ろされる。


―――― ザクッ……ザクッ……ザクッ……ザクッ……。


 刃が肉を斬り裂く音がするたびに、その切っ先が理緒の口内を犯すようにして突き刺さった。
 舌を切り、口を裂き、肉を抉り、喉の奥を蹂躙してもなお、繭香は理緒の口に刃を突き立てることを止めようとはしない。
 理緒の顔が口から溢れた赤黒い血液にまみれたところで、ようやく繭香は刃を収めて立ち上がる。

「はぁ……はぁ……。
 これで……もう、亮太君を迷わす口はありませんよね……」

 興奮も覚めやらぬ様相で、繭香はかつて天崎理緒であったものの側からそっと離れた。
 先ほどまでは肩で息をしていたにも関わらず、直ぐにいつもの平静を取り戻している。

 何も言わず、血だまりに沈む理緒の残骸を見降ろしながら、繭香は返り血を浴びた制服を脱ぎ棄てた。
 シャツも、スカートも、靴下さえも脱ぎ捨てて、下着だけの姿になる。
 誰かに見られたら、などという羞恥心はない。
 血濡れた服を無造作に丸め、包丁をくるんでいたタオルで靴についている血も丁寧に拭き取る。

 最初に放り投げた鞄の中から、繭香は代えの制服を取り出した。
 普通は一帳羅でしかない制服も、彼女には数枚の代えがある。
 今までは金持ちの家に生まれたことを疎ましく思っていたが、今日に限っては、自分の生まれと育ちに感謝しなければいけないと思った。

 新しい制服を素早く身につけ、血に染まった衣服と凶器を鞄に詰める。
 去り際に、既に物言わぬ塊と鳴り果てた理緒の方へと顔を向け、繭香は感情のこもらない眼差しを送り呟いた。

「さようなら、天崎さん……。
 もう、何も話すことはありませんよね……」


358 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:35:45 ID:pP/NcvhP


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 帰り際、駐輪場で自転車の鍵を外そうとした瞬間、陽神亮太は自分を呼んでいる声に思わず振り向いた。

「あっ、亮太君!!」

 見ると、繭香がこちらに向かって手を振っている。
 片腕には朝方に見た大きく膨らんだ学生鞄を抱え、その長い髪を風になびかせながら駆けてきた。

「ごめんね、急に呼び止めたりして。
 亮太君は、今帰るところなの?」

「ああ、そうだよ。
 今日は、学校も午前中で終わりだし、部活もないからね。
 試験も終わったし、久しぶりに羽を伸ばそうかなって思ってさ。
 繭香も、これから帰り?」

「うん。
 天崎さんに呼ばれて、ちょっと遅くなったけどね」

「理緒が?
 そう言えば、今日は四限が終わった後、姿が見えなかったな」

 いつもであれば、帰り際に一声かけてくるであろう理緒。
 最近は繭香と一緒に帰っていたため、あまり意識はしていなかった。
 が、いざ繭香の口から聞かされると、妙に彼女のことが気になって来る。

「なあ……。
 理緒のやつ、また、繭香に失礼なこととか言ってなかった?」

「それは大丈夫だよ。
 話はすぐに済んだし、天崎さんは一足先に帰ったみたいだから。
 それよりも……亮太君は、今日はこれから、どこかへ出かけたりするの?」

「いや、特に予定はないかな。
 久しぶりに、机の上で埃を被っていた本の続きでも読もうかと思ってたんだけど……」

「へえ……。
 亮太君、読書家なんだね」

「そんな大層なものじゃないよ。
 気が向いた時に、自分の好きな本を適当に読み漁るくらいさ」

 他愛もない会話が、二人の間で繰り返される。
 昨晩、あれだけのことがあったのにも関わらず、繭香の様子は至って普通に見えた。



359 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:36:28 ID:pP/NcvhP

「ねえ、亮太君。
 今日は、お昼ごはんをどこかで食べたりするの?」

「いや、別にそんなことはないよ。
 親は夜まで仕事だから、家に帰って自分で作らなきゃならないね。
 そうでなければ、コンビニでパンでも買うかな」

「いつも購買のパンなのに、それじゃあ栄養が偏るよ。
 もし良かったら……私の家に、食べに来ない?」

「えっ……。
 で、でも、それは……」

 昨晩の神社での記憶が、再び亮太の頭を掠めた。
 このまま繭香の申し出を受け、再び昨日のようなことになったらどうするか。
 今度ばかりは、自分も理性を抑えられる自信がない。
 かといって、自分を求めてくる繭香に対し、傷つけずに断るための言葉も見当たらない。

 だが、ここで繭香のことを袖にしてしまうのは、あまりも酷い気がしてならなかった。
 なにしろ、自分は昨日、既に繭香のことを傷つけているのだ。
 ここで申し出を断れば、繭香は本当に自分に拒絶されたと思うかもしれない。
 あの時、神社から無言で走り去った繭香の瞳を思い出すと、どうしても断るに断りきれなかった。

「仕方ないな……。
 それじゃあ、今日はお言葉に甘えて御馳走になるけど……本当にいいのかい?」

「大丈夫。
 亮太君一人に御馳走出来ないほど、私も落ちぶれてなんかいないから」

 そう言うと、繭香は亮太の自転車の後ろに自分から飛び乗った。
 今日に限って妙に繭香が積極的なのが気になったが、昨日のようにいきなり迫られないだけマシだろう。

 繭香を後ろに乗せたまま、亮太の自転車が校門を抜ける。
 バス停の前を通り過ぎ、繭香の家のある森桜町を目指して道を走る。
 あの日、初めて出会った時のように、繭香の存在を背中に感じながら。

 昨日のことは、何かの間違いだったのだろう。
 そう思ってペダルを踏む亮太だったが、既に彼の日常は、水面下で崩壊の時を迎えていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




360 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:37:49 ID:pP/NcvhP

 繭香の家に上がるのは、亮太にとっても初めてのことだった。
 いつもはバス停までしか送っていなかったため、家の場所までは知らなかったのだ。

 今日は繭香の案内で、森桜町のバス停から一緒に歩いてきた。
 バス停からは近いと聞いていたが、ものの五分とかからない。
 自転車を降りて押して行っても、十分に時間の余裕はあった。

「それにしても、繭香の家って広いな。
 俺の部屋なんて、この家の風呂場くらいの大きさしかないのかも……」

 リビングに通された亮太が、部屋の中を感心した表情で見回している。
 豪邸とまではいかないものの、やはり繭香の家は金持ちのそれだ。
 同じ私立高校に通っているとはいえ、自分の家とは雲泥の差である。

「そんなに感心されると、ちょっとくすぐったいよ。
 確かに大きな家かもしれないけれど、家族は私と両親の三人だけだもの。
 無駄に広くて、持て余しているって言った方が正しいかな」

 何かを刻む音と共に、キッチンの奥から繭香の声が返ってくる。
 トン、トン、という小気味良いリズムは、野菜か何かを切っている音だろうか。

 繭香の話では、彼女の両親はいつも仕事で遅くまで帰らないとのことだった。
 その上、今日は家政婦も休暇をとっている。
 繭香が学校から早く帰って来るという話を聞き、ここぞとばかりに休みをもらったのだ。

 まあ、早い話が、学校が早く終わるならば、たまには自分で家事をやれということである。
 多少の不満がないわけではなかったが、それでも今日は、むしろこの状況に感謝していた。
 何しろ、自分のこの手で作った料理を、亮太に食べさせることができるのだから。

 程なくして調理を終え、繭香は出来上がったものを亮太の前に運んできた。
 トマトソースとバジルを使ったパスタと、朝方から仕込みをしていたというカボチャのスープ。
 ソースを作るのに使ったトマトは、中身だけくり抜かれてサラダの容器になっていた。
 その容器の中にマヨネーズで和えたツナを詰めるなど、簡単ながらも芸が細かい。

 およそ、金持ちの娘が作ったとは思えない、どこか家庭的な雰囲気の漂うメニュー。
 だが、嫌みのない感じが返って幸いしたのか、亮太は変に気取ることなく繭香の作った料理を口にすることができた。

「味付けは、一応レシピ通りにしたつもりなんだけど……どうかな?」

 こちらの様子を探るようにして、繭香が亮太の顔を覗き込む。
 この状況で、自信と不安が入り混じった瞳を向けられて、不味いと言える者がいるだろうか。
 もし、仮にいるとするならば、それは神をも恐れぬ蛮行を平気で犯すような輩に違いない。

「いや、すごい美味しいよ、これ。
 その辺のファミレスなんかで出してるのより、全然美味い」

「よかった、亮太君に喜んでもらえて。
 じゃあ、遠慮しないでどんどん食べてね」



361 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:38:32 ID:pP/NcvhP

「ああ。
 それじゃあ、お言葉に甘えていただくよ。
 でも……これ、一人分にしては、少し多くないかな?」

「それなら大丈夫。
 これ、私と亮太君ので、二人分だから」

 そう言って、繭香も亮太と向かい合わせになるようにして席に座った。
 大皿に盛られたパスタにフォークを伸ばし、亮太と一緒に一つの料理を口にする。

「ねえ、亮太君。
 もしよかったら、私が食べさせてあげようか」

「えっ……!?
 いや、その……気持ちは嬉しいけどさ……」

「うふふ、冗談だよ。
 でも、亮太君が食べさせて欲しいっていうなら、私はいつでも食べさせてあげるよ」

 何の恥じらいもなく、繭香は亮太に笑顔で答える。
 傍から見れば、単に愛らしいだけにしか映らない繭香の好意。

 だが、それでも亮太は、そんな繭香の態度に違和感を覚えずにはいられなかった。
 下校時には分からなかったが、なんだか今日の繭香は妙に積極的だ。
 その上、こちらに向けられる笑顔からも、不自然なほどに作り物めいたものを感じてしまう。
 まるで、心の奥底に隠した深い闇を、亮太に探られまいとするように。

 やはり、ここに来たのは間違いだったのか。
 そんな雑念が頭をよぎり、亮太は思わずフォークを握る手を置いた。

「どうしたの、亮太君?」

「いや、なんでもないよ。
 ただ、ちょっと喉が渇いたかなって思っただけだから……」

 こちらの考えを悟られないようにしつつ、亮太はコップに注がれた水を一気に飲み干した。
 冷たい水が喉を通ると、それだけで気が楽になる。



362 :迷い蛾の詩 【第六部・赫禊ぎ】  ◆AJg91T1vXs :2010/09/22(水) 23:39:08 ID:pP/NcvhP

(俺、何考えてるんだ……。
 繭香はただ、一緒に昼食が食べたくて、俺を誘ったんだろ……)

 頭の中で自分に言い聞かせるようにして、亮太は再びフォークを手に取った。
 しかし、二口、三口と食べてゆくにつれ、どうにも頭が重たくなってくる。

「あれ?
 亮太君、手が止まってるよ」

「あ、ああ……。
 ちょっと、ね……」

 そう、口で言うだけが精一杯だった。
 いつしか亮太は完全に睡魔に支配され、やがてその場に崩れ落ちるようにして倒れ込む。
 食器と食器がぶつかる音がして、飲みかけのスープがテーブルに零れた。

「うふふ……。
 駄目だよ、亮太君。
 食事中に寝るなんて、お行儀が悪いんだから。
 でも、それも仕方ないよね。
 私と亮太君が、ずっと一緒にいるためだもん。
 亮太君には、私だけを見てもらいたいんだから……」

 動かなくなった亮太に向かい、繭香は淡々とした口調で話しかける。
 その目は深い闇に支配され、今や完全に光を失っている。
 昨晩、神社で見せた瞳と、天崎理緒を刺殺した際に見せた瞳。
 それと同じものが、今の繭香の目には宿っていた。

「さあ、行こう、亮太君。
 私が亮太君を……もとの亮太君に戻してあげるよ……」

 既に、答える者は誰もいないと分かっていながらも、繭香は倒れたままの亮太に向かって語り続ける。
 こぼれたスープの雫が床に滴り落ちてもなお、繭香は亮太に向かって話すことを止めなかった。