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119 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:37:28 ID:5Pit/50Q

「ま、繭香……」

「どこへ行くの、亮太君。
 私と亮太君は、ずっと一緒だって言ったよね?
 ずっと……離れないって言ったよね……」

「ごめん、繭香……。
 だけど……俺は行かなくちゃならないんだよ。
 こんな生活を繰り返していたら、それこそ取り返しがつかないことになる。
 俺も……繭香も……二人ともだ」

「どうして!?
 どうして亮太君は、私から逃げようとするの!?
 私は……私はこんなに亮太君のことが好きなのに!!
 私には……本当の私を見てくれる人は、亮太君しかいないのに!!」

「繭香……」

 色のない繭香の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 それを見た亮太の脳裏に、あの神社での出来事が蘇る。

 純粋すぎる程に一途な想い。
 そして、その想い故に、心の均衡を崩してしまった繭香。
 こんな状況でなければ、彼女の気持ちに素直に応えられただろう。
 が、しかし、今はそれ以上に、繭香の歪んだ心を元に戻すことを考えねばならない。

「亮太君……どうしても、行くんだね……」

 一歩ずつ、足元を踏みしめるようにして、繭香が亮太に近づいて来る。
 その手に握った包丁の切っ先を、しっかりと亮太の胸元に向けて。

「もし、亮太君が出て行くって言うなら……亮太君を殺して、私も死ぬよ……」

 じりじりと、繭香が亮太との距離を詰める。
 逃げ出そうと思えば逃げられたが、亮太はあえて、繭香がこちらに近づくのを待った。

「逃げないの、亮太君……?
 本当に……本当に殺しちゃうよ?」

 繭香の手にした包丁の先が、ついに亮太の胸まで数センチ程の距離に迫る。
 銀色の刃が亮太のシャツに触れ、胸に軽い痛みが走った。

 このまま刺せば、亮太は確実に死ぬ。
 今ここでやらねば、亮太は永遠に自分の側から消えてしまう。
 だが、そう思って刃を突き出したはずの繭香の腕は、亮太の手によってしっかりと止められていた。

「もう、止めるんだ、繭香……。
 これ以上……君は罪を重ねちゃいけない……」

「あ……」

 亮太の手が、震える繭香の手を静かに下ろす。
 力なく垂れたその手から、包丁だけをそっと奪った。



120 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:37:53 ID:5Pit/50Q

「どうして……」

 亮太の胸元で、繭香の声が微かに震える。

「どうして亮太君は……こんなに私に優しいの……?
 私は……本当の私は……こんなに汚くて、ちっぽけなのに……」

「どうして、か……。
 それは……俺も繭香のことが、好きだからだよ」

「嘘!!
 だったら、私を拒まないで!!
 私から逃げないでよ!!
 私だけの……私だけを見てくれる亮太君でいてよ!!」

「ごめん、繭香……。
 悪いけど、それはできないよ。
 俺は繭香のことが好きだけど……だからこそ、繭香と一緒に、この世界で生きて行きたいんだ。
 あんな暗闇に閉じこもっているんじゃなくて、ちゃんと日の光の当たる場所を、二人で一緒に歩きたいんだ」

「そんなの、私は嫌だよ。
 私と本当に向き合ってくれたのは、亮太君しかいないの!!
 私には、亮太君だけがいれくれればいいの!!
 他の人の目なんて……世界なんて……私には要らないもの!!」

 一度、思いの丈を口にすると、もう止まらなかった。
 今まで抑圧してきた全てのものが、身体の奥から止め処なく溢れ出て来る。

「亮太君が私を見てくれなくなるんなら、こんな世界、壊れちゃえばいいんだ!!
 本当の私を見てくれない人しかいない世界なんて……全部無くなっちゃえばいいのに!!」

「それは違うよ、繭香……。
 確かに……今まではそうだったかもしれない。
 でも、これから先も、未来永劫そうだなんて、誰にも分からないはずだよ。
 それこそ、俺にも、繭香にもね……」

「で、でも……私は……!!」

「それに、繭香は前に言ったよな。
 俺のことを助けたい。
 俺のことを元に戻してやりたいって……」

「…………」

「だから、今度は俺が繭香の力になりたい。
 繭香が胸を張って外の世界を歩けるように、俺も精一杯協力する。
 理緒の事で、しばらくは会えなくなるかもしれないけど……俺は、いつまでも繭香を待つよ」



121 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:38:56 ID:5Pit/50Q

「亮太君……」

「もう、こんなことは止めよう、繭香。
 俺と一緒に、外の世界に目を向けるんだ」

 亮太の手が、繭香の瞳から零れ落ちる涙を拭いた。
 その瞳は、真っ直ぐに繭香のことを見つめている。
 あの日、初めて繭香と出会った時の、一点の迷いも穢れもない真摯な眼差しで。

「そっか……。
 亮太君も、私のことを、そこまで考えてくれていたんだね……」

 ゆっくりと、肺の中の空気を吐き出すようにして、繭香が力なく呟いた。

「でも、それは無理だよ……。
 だって、私は……もう、繭の中の蛹には戻れないから……。
 それに、私には……外の光は眩しすぎるから……」

 そう言って、繭香は亮太の腕をしっかりと握り締める。
 未だ包丁を握ったままの腕を、そっと持ち上げて自分に向けた。

 陽神亮太は、自分と同じように迷っているのだと思っていた。
 だからこそ、彼を迷わせる存在を排除し、正しく自分を見てくれない亮太を癒そうと考えた。

 しかし、今日のことではっきりと分かった。
 亮太は最初から、何も迷ってなどいなかった。
 ひたすらに真っ直ぐに、自分と真摯なつき合いをしようとしていただけだ。
 ただ、その瞳に映っていたのが、繭の中に閉じ籠っていた方の繭香ではなかったというだけで。

 自分が宵の迷い蛾ならば、亮太は宵の闇を照らす灯火だ。
 赤々と燃え、闇の中で卑屈に丸くなっている蛹を、外の世界へと誘う存在。
 光に憧れる夜の虫たちを、常に魅了してやまない者。

 だが、そんな光を手に入れることは、迷い蛾である自分には決して敵わない夢だ。
 手を伸ばせば、自分の方がその身を炎に焼かれてしまう。
 永遠に届くことのない、切なく儚い虫の夢。

 恋敵を殺害し、暗闇に監禁し、最後は刃を突き付けて脅しても、亮太の心が折れることはなかった。
 自分には、最初から光を手にすることなど不可能だったのだ。
 ならば、せめて最後はその光に、身を焦がすことを承知で飛び込むしかない。

「もう……こうするしかないよね……。
 私と亮太君が、永遠に一緒になるには……こうするしか……」

 何かにとり憑かれたように、繭香はその言葉を繰り返す。
 そして、そのまま亮太の腕を押さえ、彼の手に握られたままの包丁を、自分の胸に突き立てた。



122 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:39:30 ID:5Pit/50Q

 一瞬、何が起きたのか、亮太には分からなかった。
 包丁を持った亮太の腕を繭香が握り、それを繭香自身の胸に突き立てている。

 柔らかく、それでいて生温かい感覚が、包丁の柄を通して亮太の手に伝わった。
 それは、肉に刃がめり込む感触。
 刃の先端が突き刺さったその先から、赤い雫がゆっくりと滴り落ちてくる。

 鮮血が自分の指先を濡らした時、亮太はようやく目の前で起きたことを理解した。
 慌てて繭香の胸に刺さった包丁を引き抜こうと手をかけるが、刃は深々と彼女の胸に突き刺さったままだ。
 まるで、獲物に食らいついた鮫のように、その身体にしっかりと食い込んでいる。

「ま、繭香!!
 なにやってるんだよ!!
 いきなり……なんてことするんだよ!!」

「あはは……。
 ごめんね、亮太君……。
 でも、私にはもう……こうするしかなかったんだ……。
 こうやって、亮太君の手で殺してもらうことでしか……ずっと、一緒にいるための方法が……見つからなかったから……」

 胸元に深々と突き刺さった包丁と、止め処なく溢れだす真紅の液体。
 喉の奥からも血が昇り、繭香は思わず咳き込みながら、赤い飛沫を吐き出した。

「繭香……どうして……なんで……」

「私ね……本当は……醜い蛾なんだよ、亮太君……。
 醜い蛾が……光を求めるなんて……そんなことは……許され……ないの……」

「なに言ってるんだよ、繭香!!
 なんなんだよ、それ!!」

「だから……光と一つになるには……自分から炎に……飛び込むしかないの……。
 その身を……焼いてもらうことでしか……一つになる方法なんて……ないんだ……よ……」

「でも……だからって……こんな!!」

「亮太君……。
 私は……亮太君の心の中で……ずっと……一緒だよ……」

 だんだんと、繭香の視界がぼやけてきた。
 胸を刺した時に感じた激しい痛みも、今は殆ど感じられない。

 今ならば、迷い蛾が炎にその身を捧げる気持ちがはっきりと分かる。
 彼らは別に、無知から炎に飛び込んだわけではない。
 ましてや、衝動に駆られて自分を見失ったわけでもない。

 ずっと前から、彼らはきっと知っていたのだ。
 自分が光と一つになるには、その身を炎で焼く他にないことを。
 己の醜い姿を焼いてもらい、灰になることでしか、光を手にすることができないことを。
 焔に焼かれ、その一部になることでしか、ずっと一緒にいるための術がないことを。



123 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:40:10 ID:5Pit/50Q

 繭香が殺したかったもの。
 それは他でもない、自分自身だ。
 最愛の亮太でも、彼を奪おうとした天崎理緒でもない。

 繭の中に籠る醜い蛹と、その殻を破って現れた不格好な蛾。
 そんな醜い己の内面を、自分はことさらに嫌悪していたのではあるまいか。

 だからこそ、自分は最愛の人に命を絶ってもらうという選択をした。
 愛する者に、その身を焼き尽くしてもらうことで、醜い己の姿は美しく浄化される。
 そうすることで、初めて焔の光と一つになることができるのだ。

(私……天崎さんに、酷いことしちゃったな……。
 殺すことなんてしなくても……私が亮太君と、永遠に一つになることはできたのに……)

 目の前で、亮太が自分のことを呼ぶ声がする。
 しかし、その声でさえ、繭香の耳には徐々に届かなくなってくる。

「ご、ごめんな……さい……」

 薄れゆく意識の中で、繭香は最後に一言だけ呟いた。
 ごぼっ、という濁った音がして、口から赤黒い血の塊が吹き出る。

 その言葉は、自ら殺めてしまった理緒に対するものなのか、それとも、狂気から闇に閉じ込め続けてしまった亮太に対するものなのか。

 亮太が繭香の言葉を聞いた時、その答えを知る者は、既に彼の腕の中で息を引き取った後だった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





124 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:40:55 ID:5Pit/50Q
 八月は、一年の中でも最も暑い月の一つだ。
 真夏の蒸すような重苦しい空気は、夜になっても一向に涼しくなる気配を見せないでいる。

 月野繭香の起こした一連の事件は、公には発狂の末の自殺として発表された。
 当初は亮太が警察から疑念の目で見られることになったが、彼も直ぐに釈放されることとなった。

 あの後、月野家の地下から発見された、亮太を監禁していた際の生々しい痕跡。
 それに加え、今までの一連の出来事を、主観的にではあるが克明につづった繭香の日記。
 それらの物証が上がるにつれ、警察もまた、亮太の話を信じざるを得なかった。

 思い込みから恋敵を殺害し、更には想い人を監禁するという前代未聞の事件。
 だが、それでも未成年が引き起こしたものとして、事件そのものが公の場で騒がれることは殆どなかった。
 学校と、繭香の両親の力もあり、全ては闇に葬られたのではないかと亮太は思っている。

 早瀬川に沿って作られた遊歩道を、亮太は何をするでもなく自転車を押して歩いた。
 あの日、繭香がこの世を去ってから、彼の心の中に残るのは強い罪悪感の念だけだ。

 自分が繭香のことを意識していたのは、いつの頃からなのだろうか。
 初めて出会った時から、なんとなく不思議な感じのする子だとは思っていた。
 その気持ちが好意に変わるのも、そこまで時間がかからなかったように思う。

 好意を抱いているからこそ、彼女とは真摯に向き合いたい。
 そう思って行動してきたつもりだったが、繭香が亮太に求めていたものは、亮太の意図したものとは似て異なっていた。

 繭香が悩んでいる時は力になり、繭香が寂しそうにしていれば声をかける。
 そんな当たり前の優しさではなく、彼女が欲していたのは無償の愛だ。
 前置きも、飾りもいらず、ただ自分の全てを受け止めて欲しいという純粋な気持ち。

 地下に監禁されてからも、自分はどこかで繭香を救おうと考えていた。
 心を病んでしまった繭香を、なんとかして元の繭香に戻そうと考えていた。

 しかし、それは繭香にとって、要らぬ世話に他ならなかったのだろう。
 なぜなら、病んでいるか否かに関係なく、繭香はただ、亮太に自分のことを見て欲しいと思っていただけなのだから。


125 :迷い蛾の詩 【最終部・待宵草】  ◆AJg91T1vXs :2010/10/03(日) 19:41:32 ID:5Pit/50Q

 事切れる直前に、繭香は自分のことを醜い蛾と言った。
 そして、自分から炎に飛び込むことでしか、光と一緒になることはできないとも。

 月野繭香という少女を迷い蛾に例えるならば、陽神亮太は間違いなく、闇夜を照らす灯火だった。
 暗い繭の中に閉じ籠り、本当の姿を晒すことを恐れ続ける卑小な蛹。
 その蛹を、宵闇に誘うようにして揺らめく赤い蝋燭の火。

 繭香が自ら死を選んだのは、間違いなく自分のせいだろう。
 他の人間からすれば、単なる自意識過剰に思われるかもしれない。
 だが、それでも亮太は自分の繭香に対する接し方が、今さらになって悔やまれた。

 灯火になって光を与えようとしたからこそ、繭香は壊れ、散ってしまった。
 では、自分は繭香にとって、どうあるべきであったのか。

 ふと、足元に目をやると、夏の夜風にマツヨイグサの花が揺れていた。
 繭香と初めて一つの傘を差して帰った日に、道端に咲いていた黄色い花。

 マツヨイグサは、その特性から、夜に活動する昆虫によって受粉の手助けをしてもらう。
 昼間、青空の下を優雅に飛んでいる蝶ではなく、夜の帳が降りた世界を舞う迷い蛾の力を借りるのだ。

 宵の闇を待って花を開き、月を眺めて迷い蛾を待つ。
 避けることも、拒むこともせず、花びらの全てを使って包み込むように、迷える蛾をその花の中に受け入れる。
 繭香にとって、自分はそんなマツヨイグサのような存在であるべきではなかったのか。

「繭香……」

 風に揺れる花を見つめながら、亮太は独り繭香の名前を呟いた。
 もっとも、いくら名前を呼んだところで、彼女は決して戻ってはこない。

 気がつくと、亮太の側を一匹の白い蛾が舞っていた。
 足元に咲くマツヨイグサには目もくれず、亮太の周りをくるくると舞っている。
 不器用に、それでも懸命に羽ばたいて、迷い蛾は月明かりの下で舞い続けた。
 まるで亮太に自分の存在を示すかのように、強く、一心にその羽を動かして。

 早瀬川の水面を、少し強めの夜風が撫でる。
 その風に乗るようにして、迷い蛾は名残惜しそうに舞いながら、月に向かって空へと昇って行った。


―――― ずっと、一緒だからね……亮太君……。


 月夜に消える迷い蛾の姿を追いながら、亮太は自分の横をすり抜ける風の中に、そんな繭香の声を聞いたような気がした。