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211 :傷が消えぬ日まで [sage] :2007/12/18(火) 01:02:42 ID:guwR8E1H

 深い闇の中に音もなく銀色の刃が走って、僕の右腕が薄く切り裂かれる。
 滲む血に赤く染まった肌を見て、八重子は微笑を零した。
「瞬君の血、とってもきれい」
 うっとりとした声だ。八重子は鼻歌を歌いながら、果物ナイフの切っ先を、また僕の肌に軽く押しつける。
 痛みと共に、また新たな傷が刻まれた。滲み出す血を、八重子は瞬きもせずにじっと見つめている。
「これはわたしがつけた傷。わたしが瞬君につけた傷。どれだけときが経っても、決して消えないわ
たしの傷」
 呪文のように呟きながら、八重子は僕の腕に傷を刻み続ける。
 赤い血と絶え間ない痛みと、呪文のような八重子の声。
 僕は耐えられなくなって、低く嗚咽を漏らしてしまった。八重子が弾かれたように顔を上げる。
「どうしたの、瞬君」
 なんでもない、とくぐもった声で言っても、八重子は信用してくれない。
 心配そうに僕の頬を撫で、それからふと、自分が持っている果物ナイフに目を落とす。
 その瞬間、
「あ、ああ――!」
 八重子は目を見開き、果物ナイフを取り落とした。銀色の刃が床に跳ねて、耳障りな音を立てる。
「ごめ、わた、わたし、なんてこと――!」
 八重子はすっかり取り乱して、無数の傷が刻まれた僕の腕を手に取り、涙を流し始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたし、また瞬君にこんなこと。痛かったでしょ、ごめんなさい、
ごめんなさい!」
 頬を伝う涙を指で拭ってやりながら、僕は「いいんだよ」と囁き、彼女の体を抱きしめる。
 どんなに慰めても八重子は泣きやまず、やがて疲れたように眠ってしまった。僕は彼女の体をベッ
ドに運び、そっと毛布をかけてやる。
 涙の痕が痛々しい八重子の寝顔は、苦しむように歪んでいた。
 それをじっと見下ろしながら、僕はため息を吐く。
 八重子と僕が付き合い始めてから、もう一年ほどになる。
 最初からこんな風だったわけではない。快活で明るい彼女は、生来内気で何かと沈みがちな僕を、
いつでも楽しい気分にさせてくれた。
 彼女がこんな風になったのは、半年ほど前のこと。
 彼女自身が変わってしまったのではない、と思う。変わってしまったのは、周囲の環境だ。
 彼女の父親が、ある種の病気にかかってしまったのだ。
 ずっと昔に妻と離縁した八重子の父は、男手一つで大切に娘を育ててきた。八重子の方も父の愛情
を素直に受け取り、二人で支えあって生きてきたのだ。
 そんな、深い愛情で結ばれていたはずの親子の絆は、病魔によってあっけなく壊されてしまった。
 一言で言えば、心が壊れてしまう病気だ。まだまだ働き盛りと言ってもいい八重子の父親は、今は
病院のベッドの上で、一日中何もせずに口を開けたままぼんやり窓の外ばかり眺めている。愛娘の八
重子がどんなに必死に呼びかけても、全く反応を示さない。
「お父さん、忘れちゃった。わたしのこと忘れちゃった」
 当時、八重子は狂乱状態で泣き喚いた。もともと情が豊かな女性だったから、最愛の父親に忘れら
れたという衝撃は、彼女の心を粉々に打ち砕くのに十分だったらしい。
 一日をほとんど嘆き悲しむことに費やす彼女を、僕は必死に慰め続けた。だが、八重子の父親が娘
のことを忘れてしまったという現実を変えることは出来なかった。


212 :傷が消えぬ日まで [sage] :2007/12/18(火) 01:03:45 ID:guwR8E1H

 そうして一ヶ月ほどの時間が過ぎたころ、彼女の奇行は始まったのだ。
「ねえ瞬君、俊君は、わたしのこと忘れちゃったりしないよねえ?」
 うつろな微笑を浮かべながら八重子が聞いてきたのに、僕は「当たり前だろ」と答えることしか出
来なかった。
 八重子は一瞬嬉しそうに微笑んだあと、すぐに顔を曇らせた。
「でも、お父さんも、きっと昔はそう言ってくれたと思う。それなのに、わたしのこと忘れちゃった」
 八重子の瞳から涙が溢れ、ぽろぽろと零れ落ちる。
「だから、ね」
 不意に、彼女の唇が笑みを形作った。
「わたしのこと、忘れないようにしてあげる。俊君の体に、わたしのこと刻み付けてあげる。そうし
たら、わたしのこと忘れないでいてくれるでしょう?」
 一体何をするのだろう、と不思議に思っていると、八重子は黙って果物ナイフを取り出し、僕の腕
に冷たく光る刃を押し付けた。
「何するんだ、八重子!?」
 僕は驚き、彼女の手を振り解いた。「動かないで!」と彼女は悲痛な叫びを上げた。
「これは儀式なの。俊君にわたしの存在を刻み付けるための儀式なの。こうしないと、俊君はわたし
のこと忘れてしまう。わたし、瞬君にも忘れられちゃったら、もう生きていけない!」
 暗い部屋に響き渡るその叫びが、僕の胸を深く抉った。
 僕が黙って差し出した腕を手に取り、八重子は嬉しそうに果物ナイフを握り締めた。
「ありがとう、瞬君。今から、わたしのこと、俊君の体に刻み付けてあげるからね……」
 そして、彼女は「これはわたしがつけた傷。わたしが瞬君につけた傷」と呟きながら、僕の体に傷
を刻み始めたのだ。
 この儀式は傷が癒えるたびに幾度も繰り返され、いつも唐突に終わった。
 僕が泣いたり八重子が急に正気づいたり、切欠は様々だったが、いつだって終わり方自体は一緒だ。
「ごめん、ごめんね瞬君、わたし、なんてこと――!」
 自分のしたことに初めて気付いたように取り乱す八重子を、僕が必死で慰める。しかし彼女は泣き
やまず、やがて疲れ果てたように眠ってしまう――その繰り返し。
 眠る八重子の顔を見つめながら、僕はときどき考える。彼女は狂っているのだろうか、と。
 そのたび、すぐに否定する。
(違う、彼女は狂ってなんかいない。お父さんのことで、少し疲れているだけなんだ)
 だから、彼女を気違い扱いして病院に押し込もうだなんて、一度たりとも考えたことはない。
 状況に終わりが見えないことは事実だ。彼女はこんな状態でも優しさを失っていないらしく、僕の
皮膚は本当に薄く切り裂かれるだけ。一生消えない傷跡なんていつまで経っても刻まれないし、それ
故すぐに消えて、元通りになってしまう。
 僕の腕に傷がついている間は、八重子は落ち着いていた。だが、傷が消えるとすぐに不安定になり、
また僕の腕を取って儀式をやり直すのだ。
 そんなことを、もうずっと繰り返している。終わりなんて、見えない。
「やだ、瞬君」
 不意に、八重子の閉じられた目蓋から涙が零れ落ちた。
「忘れないで。わたしのこと、忘れないで、お願い」
 僕は眠りながら苦しむ八重子の手を、ぎゅっと握り締める。その腕には、八重子が刻んだ無数の薄
い傷跡がある。おそらく、一週間も経つころにはすっかり消えてしまう切り傷だ。
(僕は大丈夫だよ、八重子)
 声には出さずに、語りかける。
(もっと深い傷を刻んでくれたって、大丈夫だ。それで君が安心できるって言うなら、いくらでも痛
みを受け入れる)
 言えば逆に八重子を躊躇わせ、苦しめることになるだろう。
 だから僕は、この思いを押し込めたまま、ただ時を待つのだ。
 彼女が本当に僕の腕を深く抉り、傷と共に自分の存在をも刻み付けられたと確信できる、そのときまで。
 窓の向こうに目を向ける。闇は深く暗く、夜明けはまだ遠いようだった。