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73 : ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :
 気がつくと、既に太陽は東の空から顔を見せていた。
 朝の陽ざしに照らされながら、ジャンは大きく伸びをして立ち上がる。

「っと……。
 ちょっと寝過ぎたかな?」

 枕元に置いた眼鏡をかけて、ジャンは時間を確かめる。
 部屋にある時計を見ると、既に八時を回っていた。

 慌てて着替えを済ませ、足早に食堂へ向かった。
 髪に寝癖が残っていたが、そもそもジャンの髪は癖っ毛である。
 多少、金髪がうねっていたところで、そこまで変な髪型にはならないだろう。

 食堂の戸を開けると、既に宿の客の何人かは席に着いて食事を始めていた。

 空いている椅子とテーブルを見つけ、ジャンもそこへ腰かける。
 食堂に入って来たことに気づいたのか、すぐにリディがジャンの下へとやってきて尋ねた。

「おはよう、ジャン。
 昨日はよく眠れた?」

「ああ。
 久しぶりに、上質なベッドで寝た気がするよ。
 この前の街で泊まった宿は、シーツにダニが湧いてて最悪だった」

「この季節にダニって……。
 ジャン……あなた、少しは泊まる宿を選びなさいよ」

「部屋の空いていた宿が、そこしかなかったんだから仕方ないさ。
 まあ、その分、昨日はリディの用意してくれたベッドの有難味がわかったけどね」

 冗談交じりに感謝の言葉を述べたものの、ジャンの頭は冴えなかった。

 確かに、リディの用意してくれた部屋は、ジャンが今まで泊まって来た宿の中でも上質な方だった。
 部屋は古いが手入れは行き届いており、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
 今朝、珍しく寝坊をしてしまったのも、ベッドに敷かれた布団があまりにも気持ちよかったからだ。

 ところが、そんな安眠を経たにも関わらず、起きたばかりのジャンの頭には芯に響くような頭痛が残っていた。

 昨日、噴水のある広場の近くで立ち寄った酒場の酒。
 消毒液を薄めたような味のする質の悪いそれが、昨晩の間にジャンの身体に回ったのだろう。
 たった一口しか飲んでいないのに二日酔いを引き起こすとは、よほど酷い作りの酒だったに違いない。
 昨晩の内に、身体の中で毒に変わったのではないかと勘ぐってしまうほどだ。

「ねえ、ジャン。
 朝ごはん、パンとミルク粥のどっちがいい?」

 既に食事を終えた客の席の皿を片手に、リディがジャンに聞いてきた。
 頭が痛く、朝から重たいものを食べる気にもなれなかったため、ここは素直にミルク粥を注文しておく。
 米を牛乳で粥状になるまで炊いただけのものだが、本格的に活動を始めていない胃には調度良かった。


874 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:40:22 ID:pTHhFeTR
「ところで……こっちには、いつまでいるつもりなの?」

 コーヒーを運んできたリディが、再びジャンに尋ねた。

「今日、父さんの骨を埋めたら、明日にでも発つつもりだよ。
 あまり長居していると、街の人に何を言われるかわからないしね」

「そうなんだ……。
 でも、ジャンのお父さんが街を追い出されたのって、もう十年近くも前のことでしょ。
 たぶん、みんな忘れているんじゃないかなぁ……」

「そうは言っても、リディみたいに覚えている人がいるかもしれないだろ。
 僕が父さんの息子だって知ったら……きっと、嫌な顔をする人だっていると思うよ」

 少量の砂糖を入れただけのコーヒーを口にしながら、ジャンはどこか寂しげな口調で答えた。

 この街の人間が、自分のことをどう思っているか。
 父の所業を考えれば、それを予想するのは造作もないことだった。

 人体実験紛いの研究を続け、最後には街を追放された藪医者の息子。
 妖しげな本を買い漁り、悪魔に魂を売ったとまで言われた父親の業は、息子である自分もまた背負わざるを得ないのだろう

 自分と父は関係ない。
 そう思い込もうとしても、街の人間は別だ。
 こと、昔の父を知る者たちにとっては、ジャン自身もまた異端者に過ぎないのだから。

 自分の身体に流れる血が憎らしかった。
 旅先で、父親がおかしな研究に没頭するようになればなるほど、その血を引く自分もまた、汚らわしい存在のように思えて仕方がなかった

 ジャンが父と同じ医学の道を志した理由。
 それは、せめて自分が真っ当な医者になることで、自分に課せられた父の業を払おうとしたからに他ならない。

 困っている人を助けるなど、詭弁に過ぎない。
 自分は自分のために、そして父の積んだ咎を清算するために、医者をやっているに過ぎない。
 憎まれこそするが、間違っても感謝されるような人間ではないのだ。

 ジャンが同じ地に留まることを嫌うのも、その地に住まう人々に、自分の本性を見透かされはしまいかと心配だったからだ。
 死してなお、父はジャンのことを奇妙な枷で縛り付ける。
 過去の呪縛から逃れるためにも、一刻も早く父の遺骨を処分したいという気持ちでいっぱいだった。


875 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:41:14 ID:pTHhFeTR
「ごちそうさま……」

 ミルク粥を一通り平らげ、出されたコーヒーも飲み干すと、ジャンは食器を食堂のカウンターに戻した。
 リディは放っておけば良いと言っていたが、幼馴染に後片付けを押しつけるのも気が引けた。

「それじゃあ、僕は父さんの骨を埋めに行くよ。
 夕方までには戻るから、悪いけど、今日もあの部屋に泊めてくれないかな?」

「ええ、いいわよ。
 ジャンがよければ、それこそ、三日でも四日でも……」

「残念だけど、それはできないよ。
 僕は、いつまでも同じ場所に留まるのは好きじゃないんだ」

「そっか……」

 リディは肩を落として残念そうにしていたが、ジャンはそんな彼女の様子に気づくこともなかった。

 足元に置いた鞄を手に、ジャンは食堂を抜けて階段を下りる。
 一階の酒場は、まだ準備中のようだ。
 仕込みをしている店主に簡単な挨拶を済ませ、ジャンは朝の陽ざしの降り注ぐ通りへと出た。

「今日は天気がいいなぁ……。
 昨日の寒さが嘘みたいだよ」

 誰に言うともなく、そんなことを呟いて腕を伸ばすジャン。
 リディの宿場は商店街の通りに面しているため、朝からとても賑やかだ。
 通りでは既に朝市が開かれており、チーズやハム、それに野菜を売る商人達が、忙しなく働いている姿が目に入った。

 荷車を引いて商品を運ぶ者。
 道行く人に、今日のお勧めの品を売り込もうと声を張り上げている者。
 様々な店の商品を抜け目なく比べ、一番安く味の良い品を手に入れようとはりきっている主婦連。

 街から街へ一人で旅をしていると、時にこうした人々の喧騒が懐かしくなるときがある。
 だが、いつまでもノスタルジックな気分に浸っているわけにもいかない。

 父の遺骨を埋めるため、ジャンは街の奥に続く道とは反対の道を選んで歩きだした。
 向かうのは、街外れにある合同墓所。
 異端者として街を追放された父は、教会の墓地に埋葬される権利さえ持っていない。

 大通りから離れて行くにつれ、朝市を賑わしている人々の声もまた遠くなっていった。
 街の出口である大門を抜けると、早くも丘からの冷たい吹き下ろしが、ジャンの足元をすり抜けた。


876 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:42:15 ID:pTHhFeTR
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 宿場という場所は、昼時になると途端に静かになる。
 人で賑わうのは朝か夕方と決まっており、昼間の間は利用する客も殆どいない。
 もっとも、その間に夕食の仕込みや部屋の片づけ、掃除などを済ませておかねばならないため、決して暇というわけではないのだが。

 街で買ってきた鶏肉を、リディは手慣れた様子で裁いてゆく。
 今日の夕食は、チキンのハチミツソースでも出すか。
 そんなことを考えながら、鶏肉の皮を器用に剥がす。

「それにしても……」

 剥がした皮を鍋に放り込み、リディは呟いた。

「ジャンったら、あの時の約束を忘れちゃったのかな……」

 骨のついたままの鶏肉を並べ、今度は野菜を取り出して包丁を入れてゆく。
 いつもなら軽快なリズムに合わせて手が勝手に動いてゆくが、昨晩、ジャンが言っていたことを思い出すと、どうにも気分が乗ってこない。

 ジャンは、この街で生まれ育ったリディの幼馴染だ。
 軍隊の真似ごとをして棒きれを振り回すような同年代の少年とは違い、どちらかと言えば、内気で読書が好きな方だった。

 そんなジャンでも、やはり一人の男の子だったのだろうか。
 家が貧しく、時に他の子どもたちから馬鹿にされることの多かったリディを、最後まで庇ってくれていた。
 決して腕っ節が強いわけでもないのに、年上の少年相手に飛びかかって、酷い怪我をさせられたこともあった。

 どんなに喧嘩が弱くても、どんなに周りから馬鹿にされようとも、リディにとってジャンはナイトだった。

 ジャンはリディに言った。
 君を虐めるやつは、みんな僕がやっつけてやる、と。

 リディもジャンに言った。
 だったら、守ってくれたお礼に、私がジャンのお嫁さんになってあげる、と。

 二人とも、まだ十歳を少し過ぎたばかりの頃の話だ。
 そんな二人を引き裂いたのが、ジャンの父親がこの街を離れることになった一件だった。


877 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:43:02 ID:pTHhFeTR
 まだ子どもだったリディには、ジャンの父親が何をしたのかまでは分からなかった。
 ただ、何かとんでもなく悪い事をして、そのとばっちりでジャンも街を出て行かねばならないのだと思った。

 正直、ジャンと別れるのは辛かった。
 自分を守ってくれる存在がいなくなることが怖くて、言い様のない不安に駆られたことを覚えている。

 せめて、見送りぐらいはさせて欲しい。
 そう思ったリディだったが、そんなささやかな願いさえ、彼女の両親は叶えてはくれなかった。

 月の明かりさえない新月の晩、ジャンと彼の父親は、逃げるようにして街を出た。
 リディがそれを知ったのは、彼らが街からさった翌朝のことだった。

 これからは、自分の力だけで生きて行かねばならない。
 母は決して身体の強い方ではなかったし、父は飲んだくれで役に立たない。
 ジャンがいなくなってからというもの、リディは人が変わったように働いた。
 それこそ、母の手伝いをする傍ら、自分も街の工場に出かけて仕事をするようになった。

 ジャンと別れたリディを支えていたもの。
 それは、幼き日に彼と交わした約束だった。

 ジャンが自分を守ってくれた代わりに、自分がジャンのお嫁さんになる。
 他愛もない、冗談半分の約束としか思われていないかもしれないが、リディにとっては本気だった。
 それだけジャンの存在が、彼女の中で支えとなっていたのだ。

 ジャンは街を出て行ったが、もしかしたら戻ってくるかもしれない。
 自分との約束を覚えていて、いつの日か、ふらりと目の前に現れるかもしれない。

 そんなことを夢見ながら、小さな宿場を経営して早数年。
 気がつけば、ジャンと別れてから十年以上の歳月が流れていた。

 さすがに、ここまでの月日が経ってしまえば、ジャンも帰っては来ないだろう。
 そう思っていた矢先、彼はリディの前に戻って来た。
 出来過ぎた物語のような展開に、彼女自身、目の前で起きていることが信じられなかった。

「はぁ……。
 でもなぁ……。
 ジャンは別に、私に会いに来たってわけじゃないんだよね……」

 気がつくと、野菜を切る手は完全に止まっていた。

 ジャンがこの街に帰って来た理由。
 それは一重に父の遺骨を墓に埋めるためだ。
 彼は決して、望郷の想いに駆られて戻って来たのではない。
 父の形見を生まれ故郷に帰すため、必要悪として帰って来ただけだ。

 それに、ジャンはこの街のことを、あまり快く思っていないようだった。
 まあ、無理もないだろう。
 彼にしてみれば、父親の巻き添えを受けて街を追い出され、本人の意思とは関係なしに白い目で見られるようになったのだから。


878 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:44:02 ID:pTHhFeTR
 ジャンにとって、この街には辛い思い出が多すぎる。
 それはリディも分かっていた。

 だが、ジャンがこの街を嫌っていることは、リディにとっても辛かった。
 この街を嫌っているのであれば、自分もまたジャンに嫌われているのではないか。
 そんな感じがしたからだ。

「いけない。
 さっさと準備済ませないと、夕食の時間に間に合わなくなっちゃうわ」

 いつの間にか仕事の手を休めて考え込んでいた自分に気づき、リディは再び野菜を切り始めた。
 と、そこへ、今度は受付の方から来客を知らせる鐘の音が聞こえて来る。

 こんな時間に、いったい誰だろう。
 まったく、間の悪いことこの上ない。
 そう思ってはみたものの、来客は来客である。
 宿泊客ならば、このまま無視するわけにいくはずもない。

 水で軽く洗った手をタオルで拭きながら、リディは早足で受付に出た。
 旅の人間が早くに街へ着いたのかと思ったが、そこにいた者の姿を見て、すぐに違うと悟ることができた。

「あの……。
 お泊りでしょうか……?」

 受付の向こう側にいたのは、細身で鋭い目つきをした一人の男だった。
 まだ若いが、格式のある黒い正装に身を包んでいる。
 帯剣していないところを見ると、貴族ではなく使用人なのだろうか。
 執事長にしては若すぎる気もしたが、下っ端の使い走りとも思えない。

「お忙しい時間に申し訳ありません。
 ですが、私は宿泊するためにこちらを訪れたのではありません」

 指先一つ、目元さえも動かさずに、男が言った。
 その言葉に、リディは訝しげな顔をして男を見つめる。

「お泊りになられないんですか?
 だったら、どのような御用件で……」

「これは失礼。
 私は、人を探していましてね。
 昨晩、隣町に向かわせていた遣いの者から、この街に私が探している人間が向かったとの報を受けました」

「そうだったんですか。
 だったら、お客様の中に、あなたがお探しの人がいるかもしれませんね。
 よろしければ、帳簿をお見せしましょうか?」

「いえ、結構です。
 そこまでしていただかなくとも、私が今から言う者の名前を知っているかどうか……。
 それだけで構いません」


879 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第二話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/11(木) 00:44:59 ID:pTHhFeTR
 先ほどから、男は表情一つ変えずに話していた。
 口調は丁寧なのだが、それが返って不自然なまでに無機的な印象を与えている。
 気品に満ち、整った顔立ちをしていたが、その瞳には感情らしいものがまったく感じられない。
 青く澄んだ二つの瞳は空の色と言うには程遠く、その視線は、全てを射抜くような氷の矢を思わせる。

「ジャン・ジャック・ジェラール。
 この名前に、聞き覚えはありませんか?」

 帳簿を出そうとしたリディの手が、男の言葉の前に動きを止めた。

 この男は、ジャンを探しているのか。
 だとしたら、なぜ。
 どうやら高貴な人物に仕える者のようだが、そんな男がどうしてジャンを探しているのか。

 男の言葉に、しばし驚いた顔をして固まるリディだったが、当の男は気にも止めなかった。
 ただ、ジャンがこの場にいるのかどうかだけをリディに尋ね、彼が出かけていることを告げると、そこで初めて残念そうな表情を浮かべた。

「すいません。
 夕方までには戻ると言っていましたけど……」

 別に謝る必要などなかったのに、リディは男に頭を下げた。

「あなたが謝る必要などありませんよ。
 彼がここにいないというのであれば、しばらく待たせてもらうだけです」

 男の顔からは、既に先ほどの残念そうな表情は消えていた。
 そのまま受付の側に置いてある木製の椅子に腰かけると、男は無言のまま、人形のように固まって動かなくなった。

 一瞬、男が本物の人形になってしまったのではないかと思ったリディだったが、直ぐに夕食の準備が途中だったことを思い出した。
 彼女が慌てて厨房へと戻って行く間にも、男は何も言わずに正面の壁を見つめているだけだった。