※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

187 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:14:23 ID:S8lbibsa
 ジャンがテオドール伯の屋敷から戻った時には、既に太陽は西の空に沈みかけていた。

 日中は陽射しに恵まれているものの、夜が近づくと途端に冷え込む。
 伯爵の屋敷のあった丘からの吹き下ろしが、夕方から夜にかけて街を冷やすためだ。

 ジャンとクロードを乗せた馬車が宿場に着いた時、通りにいる人影は既にまばらだった。
 昼間は活気あふれる市場としての顔を見せる商店街も、今はなりを潜めている。

「それでは、また、明日の昼ごろにお迎えにあがります。
 それまでジャン様は、どうか御身体をお休め下さい」

「わざわざ見送りまでしてもらって悪いね。
 本当だったら、僕がその足でテオドール伯の御屋敷に向かえればいいんだけど……」

「滅相もございません。
 本来であれば、こちらがジャン様のためのお部屋をご用意せねばならぬところを……旅の途中、わざわざ御引き留めまでして往診していただくのですから。
 せめて、お見送りくらいはさせていただかねば、御主人様としても納得はされないでしょう」

「そこまで気を使ってもらうと、なんだかこっちの方が申し訳ない気がしてくるよ……。
 まあ、なにはともあれ、僕もしばらくはこの街にいることになりそうだ。
 明日は行商人から薬の材料が買えないかどうか、その辺も調べてみることにするよ」

「左様でございますか。
 では、本日は、これにて失礼させていただきます」

 馬車を降りたジャンに深々と礼をして、クロードは再び馬車の中へと戻った。
 御者に簡単に支持を出し、馬車は丘の上の屋敷へと帰って行く。

 だんだんと遠ざかって行く馬の蹄の音を聞きながら、ジャンはクロードが最後まで表情を変えなかったことを思い出した。

(なんか、色々な意味で凄い人だったな……。
 きっと、筋金入りの使用人なんだろうな……)

 帰り道、ジャンはクロードに彼の立場について質問した。
 クロードは自分よりも少し上の年齢に見えたが、それにしては位が高そうに見える。
 思い切って尋ねたところ、彼の立場はツェペリン家の執事長ということだった。

 初め、その答えを聞いた時、ジャンは思わず自分の耳を疑った。
 執事長と言えば、使用人の中でも最高に値する地位である。
 クロードはまだ二十代に違いないが、その若さで、テオドール伯に仕える全ての使用人を取りまとめる立場にあるのだ。

 始終、感情を表に出さずに話すのは、きっとクロードの癖なのだろう。

 彼はテオドール伯に仕える最高位の使用人。
 だからこそ、任務に私情を挟むことなく、与えられた仕事だけを黙々とこなすことを生甲斐としているのかもしれない。
 そう考えると、彼の感情が希薄になるのも納得のゆく話だった。


188 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:15:36 ID:S8lbibsa

「さて……。
 とりあえず、夕食には間に合ったけど……明日から、どこに泊まろうかなぁ……」

 翌日からのことを考えながら、ジャンは思わずそんなことを口にした。

 リディには、明日には街を発つと言ってしまった。
 このまま彼女の宿場に泊まり続けても良いのだろうが、さすがにそこまで甘えられない。
 かといって、伯爵の行為に甘えて屋敷に部屋を用意してもらうのも気が引ける。

 ここは一つ、明日の内に別の安宿でも見つけておくしかないか。
 クロードの話では、街にいる間の滞在費用は伯爵家が出すとのことである。
 もっとも、それで調子に乗って最高級の宿に腰を下ろそうなどという、下品な下心は持ち合わせていない。

 今後の宿のことを思案しながら宿場の戸をくぐると、酒や料理の匂いに混ざり、男達の豪快な話声が聞こえて来た。
 日没までにはまだ少しだけ時間があったが、どうやら早くも階下の酒場が賑わっているらしい。

「おや、戻ったのかい、兄さん。
 リディの姉さんが、上で御待ちだぜ」

 一階の酒場を切り盛りしている店主の男が、ジャンの顔を見るなり言った。
 相変わらず、気さくで人当たりの良い男だとジャンは思う。
 昨晩に入った、不味い酒を出す店のマスターとは大違いだ。

「わざわざ伝えてくれて、すみません。
 昨日は明日にでも発つ予定だったんですが……僕も、もう少しだけこっちに留まることになりそうです」

「そうかい、そいつはよかった。
 リディの姉さんの作る夕食があるなら別に必要ないんだろうが……しばらくいるってんなら、たまには、俺の店でも飲んで行ってくれよ」

「ええ。
 それじゃあ、早速今晩お世話になります。
 実は……帰りがいつになるかわからなかったんで、リディに夕食は要らないって言っちゃったもので……」

「気づかいが裏目に出たな、兄さん。
 まあ、そうがっかりしないで、今日は好きなだけ飲んで行けよ。
 最初の一杯なら、俺の奢りでタダにしておくさ」

「ありがとうございます。
 でも、あんまり飲み過ぎると、そのリディに叱られそうで怖いですけど」

「なるほど。
 そいつは違いねえ!!」

 ほんの軽い冗談のつもりだったが、ジャンの言葉に店主は豪快に笑って答えた。
 街の人間はジャンに冷たい者が多いのではないかと勘ぐっていたが、この男だけは、他人を色眼鏡で見るようなことはしない人間に思えた。


189 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:16:36 ID:S8lbibsa

 ジャンがカウンターの前にある席に腰を下ろすと、店主の男は店の奥から一本のボトルを出して来た。
 言われるままに、ジャンはグラスに注がれたワインに口をつける。

 口に入れた瞬間、甘酸っぱい果実の味と香りが広がった。
 プラムやベリーを思わせるような香りと、程良い渋み。
 それらの味を上品な酸味が上手にまとめ、飲み干した後の口当たりも良い。

 昨日の晩、一口飲んだだけで悪酔いしそうな酒を飲んだ後だったが、まったく気にせず飲むことができた。
 むしろ、この酒が薬となって、昨晩の酒を中和してくれるのではないかとさえ思ってしまった。

「良いお酒を出しているんですね。
 どこで手に入れた物なんですか?」

「残念だが、そいつは企業秘密ってやつだ。
 どんなに粘られても、こればっかりは教えられねえ」

 店主の男が悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
 もっとも、ワインの出所を教えたくないというのは本音なのだろうが。

 それからジャンは、差し出されたパンとチーズを片手に男と他愛もない話をして楽しんだ。
 が、しばらくすると、店も本格的に忙しくなり、男は客の相手をするので手一杯になってしまった。

 店の奥では、客の注文を受けて料理を作る女性の姿も見受けられる。
 どうやら店主の妻のようだが、こちらもまた忙しそうだ。
 作った料理を運んでは店の奥に戻るの繰り返しで、とてもではないが話しかけられそうな雰囲気ではない。

 話相手を失い、ジャンは何をするわけでもなく目の前の皿に残っているチーズを摘まんだ。
 最初に勧められた一杯より先は何も飲んでいなかったので、そこまで酔いが回っているわけでもない。
 それよりも、ハムとチーズくらいしか口にしていないため、空腹感の方が大きかった。

 こんなことなら、リディに夕食を作ってもらうのを断るべきではなかったか。
 そう、ジャンが考えた時、彼の横の席に誰かが座る音がした。

「ねえ、ジャン。
 隣、いいかしら?」

 声をかけてきたのはリディだった。
 いつもは二階の宿場にいる彼女が降りてきているということは、夕方の仕事は一通り終わったのだろうか。


190 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:17:45 ID:S8lbibsa

「どうしたの、リディ。
 宿場の仕事、終わったのかい?」

「どうしたのってことはないでしょ。
 ジャンこそ、夕食の時間に間に合ったんなら、どうして直ぐに帰って来たって言ってくれなかったの?」

「いや、ごめん。
 なんか、中途半端な時間に戻って来ちゃってね。
 お店の親父さんの勧めもあったし、仕方ないからちょっと飲んでた」

「ちょっと飲んでたって……。
 でも、夕食まだなんでしょ?
 空き腹にいきなりお酒なんて入れたら、それこそ身体に毒だよ」

「そんなこと言ったって、リディには夕食は要らないって言っただろ。
 今さら、何か作ってもらうっていうのもなぁ……」

「大丈夫だよ、ジャン。
 こんなこともあろうかと、ちゃんとジャンの分は取っておいたから。
 それよりも、ジャンが無理して身体を壊しちゃう方が、私は心配だよ」

 別にそこまで悪い事をしている気などなかったが、リディは本気でジャンを心配しているようだった。
 それに、たしかに腹が減っているのも事実だ。
 店主の男には悪いが、酒を飲んであれこれと語らうのは、また今度の機会にさせてもらうしかなさそうである。

「すいません、親父さん。
 それじゃあ、お代はここに置いておきますんで……」

「おう、ありがとな。
 しばらくこっちにいるってんなら、また飲む機会もあるさ」

 ワインのボトルを布で拭きながら、店主が答えた。
 ジャンは代金が足りているか勘定するように伝えたが、「信じているから必要ない」の一点張りで、金を数えることなどしなかった。
 まったくもって、最後まで気前の良い男だ。

 ほのかにワインの香りが漂う一階を離れ、リディと共に二階に上がる。
 食堂に移ると、リディはすぐさまジャンの分の夕食を持ってきた。
 昨日の夜に食べた賄いのシチューなどではなく、鶏肉にハチミツソースをかけた、割としっかりとした料理だった。

 何時に帰るかも伝えていないのに、妙に手際が良い。
 そう思ったジャンだったが、リディ曰く、宿場の経営者として基本のことらしい。
 部屋が満室にでもならない限り、常に急ぎの来客でも対応できるように準備をしておくこと。
 それが、宿の評判を高く保つための秘訣なのだそうだ。

 空腹だったことも相俟って、皿の上の料理はすぐになくなった。
 食器を片づけに来たリディに、ジャンは少し困った顔をして告げる。
 話の内容は、もちろん明日の宿のことだ。


191 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:19:04 ID:S8lbibsa

「ねえ、リディ。
 ところで……明日もあの部屋、空いてたりってするかい?」

「えっ!?
 まあ……別に、急なお客さんがいるわけでもないし……。
 多分、大丈夫よ」

「だったら話が早いな。
 実は、テオドール伯の病気なんだけど、どうも治療に時間がかかりそうでね。
 しばらくは、この街に留まって診察を続けないといけないんだけど……生憎、明日の宿がないんだよ」

「なんだ、そんなこと。
 それなら、あの部屋をジャンに貸してあげるわよ。
 この街にいる間、そこで暮らしたらどう?」

「でも、さすがに宿の一室を、そう何日も借りるわけにはいかないよ。
 僕だけじゃなく、他のお客さんだって泊まるだろうしさ」

「そうねぇ……」

 食事の終わった皿を片手に、リディもしばし考え込んだ。

 一家の私財を全て投げ打って手に入れたこの宿は、決して大きい物ではない。
 設備は驚くほど整っているものの、宿泊客のための部屋が、そう何十もあるわけではないのだ。

(お客様用の部屋は、数も限られているしなぁ……。
 私は別に、ジャンに貸してあげてもいいんだけど……)

 リディにとっては、ジャンに部屋の一つを貸すことなど何の負担でもなかった。
 むしろ、ジャンが自分の側に留まってくれるのであれば、部屋の一つや二つ、安いものだ。

 だが、そうは言っても、ジャンはあの通り生真面目な性格である。
 自分がリディの商売の邪魔になっていると感じた瞬間、この宿を出て行ってしまうかもしれない。

 宿泊客を泊めるための部屋は貸し出せない。
 だとすれば、考えられる案はただ一つだ。

 食器を片付け終え、再びジャンの下に戻るリディ。
 ジャンは部屋に戻ろうとしていたようだったが、彼女はあえて、それを引き留めた。

「ねえ、ジャン。
 もし、よかったらでいいんだけど……」

「なんだい?
 言っておくけど、僕にタダで部屋を貸すなんて提案は、さすがにお断りだよ。
 いくら昔の仲でも、君にそこまで甘えられない」

 先手を打たれた。
 そう思ったリディだったが、今さらここで引くつもりもなかった。
 ジャンを少しでも自分の側に繋ぎ止めておきたいという想いは、絶対に譲ることのできないものだったからだ。


192 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:20:35 ID:S8lbibsa

「実は、この宿場なんだけど、従業員用に作った部屋が空いているの。
 三階にある仮眠室みたいな場所なんだけど、そこだったら、ジャンにずっと泊まってもらうこともできるよ」

「仮眠室か……。
 でも、いいのかい?
 従業員用ってことは、下のお店の親父さん達だって使うんじゃないか?」

「それは大丈夫。
 あの人達の部屋は、ちゃんと一階に用意してあるから。
 三階の部屋は、今は誰も使ってないのよ」

「そういえば、リディの他に、この宿場で働いている人は見なかったな。
 やっぱり、一人で切り盛りしているってことかい?」

「うん、まあね。
 さすがに、人を雇うような余裕はないし……。
 昔、お母さんが寝ていた部屋を利用して作ったんだけど、今は持て余してるの」

 決まりの悪そうな顔をしながら、リディがジャンに言った。

 以前、今は亡きリディの母が使っていた部屋を、従業員用の仮眠室に改造したのは事実だ。
 しかし、作ったのはいいものの、人を雇ってまで宿を大きくするような余裕もなく、結局は部屋を遊ばせているだけだった。

 宿泊客を泊めるために貸し出そうとも考えたが、他の部屋に比べると少し狭い。
 それに、隣室が自分の部屋であることを考えると、四六時中気を使ってしまいそうで嫌だった。

「従業員用の仮眠室か……。
 まあ、リディが良いって言うなら、遠慮なく使わせてもらうけど……。
 本当に大丈夫なのかい?」

「うん、平気だよ。
 どうせ、これから先も人を雇う余裕なんてないだろうしね。
 それに、部屋だって、誰かに使ってもらった方が嬉しいはずだから」

「わかったよ。
 だったら、今日からその部屋にお世話になることにするよ。
 明日の朝になって荷物を動かしたりするのは、さすがに慌ただしくなりそうだからね」

「そうね。
 それじゃあ、私は部屋を少し片付けて来るから。
 掃除が済んだら呼ぶから、ジャンはそれまで二階にいて」

 最後の方は、どこか嬉しそうな表情でリディは言った。
 そのままジャンを二階に残し、三階へと続く階段を上って行く。

 リディの足音が遠ざかって行くのを聞きながら、ジャンはふと、今日の帰りに見た少女のことを思い出した。

 幽霊のように白い肌と、ほとんど色の無い白金色の髪。
 抱けばそれだけで折れてしまいそうに細い身体と、血のように赤く染まった二つの目。
 同じ赤でも燃えるような熱さはなく、どこか寂しく儚げなその視線は、忘れようにも忘れられない。


193 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:22:25 ID:S8lbibsa
 少女が普通の人間でないことは、ジャンも薄々気がついてはいた。
 医師として各地を転々とする生活を続け、早数年。
 自然の悪戯は、時に生まれながらにして、人間離れした容姿を人に与えることもある。

 伯爵の屋敷に着いた時に感じた視線も、恐らくは彼女のものだったのだろう。
 あの時は、相手が二階から見降ろしていることに気がつかなかったに違いない。

 彼女はいったい何者なのか。
 自分には関係ないと思いつつも、ジャンはそれだけが気になって仕方がなかった。

 医師として、彼女のことを憐れむ気持ちもあった。
 また、ジャン自身、その容姿に幻想的な美しさを抱いていなかったかと言えば、それも嘘になる。

(まあ、今は考えても仕方ないか。
 機会があれば、伯爵の屋敷に行った時に聞いて見るか……)

 受付の前にある椅子に座ったまま、ジャンはぼんやりと天井を仰いで考えた。
 もっとも、その時はそれ以上の感情を少女に抱くこともなく、今日の出来事をすぐに頭の隅に追いやった。
 ジャンにとってはむしろ、自分のことを煙たく思う人間が多くいるであろう街に、思いのほか長く滞在することへの居心地の悪さの方が大きかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 夜になると、街は凍てつく風に支配される。
 丘からの吹き下ろしが通りを駆けまわり、ガタガタという音を立てて窓ガラスを叩く。
 十年以上も前から変わらない、この街にとってはごく当たり前の冬の光景だ。

 その日の夜、仕事を終えて自室に戻ったリディは、ベッドの上でジャンの顔を思い浮かべていた。

 十年前、自分の前から別れも告げずに街を去ったジャン。
 あの時は、まだ幼い子どもだった自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。

 なぜ、ジャンまでが街を追い出されなければならないのか。
 この街に住めなくなることは仕方ないにしても、せめて別れの言葉くらい言って欲しかった。
 もしくは、必ず戻って来ると、自分の前で約束して欲しかった。

 だが、彼女の願いは何一つ聞き入れられることなどなく、ジャンはリディの前から姿を消した。
 そして、何の音沙汰もないまま、瞬く間に歳月は過ぎていったのだ。

 もう、ジャンには会えないかもしれない。
 宛てのない旅路の先で、生きているのか死んでしまったのか、それさえも分からない。
 心のどこかでジャンが帰ってくることを信じながらも、どこか自分の中に大きな空白が生まれてしまったような感じがした。
 ジャンがいなくなったことで生まれた虚無感は、何をしても埋められるようなものではなかった。


194 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:23:29 ID:S8lbibsa

「ジャン……。
 ようやく、戻ってきてくれたんだよね……」

 誰に言うともなく、灯りの消えた部屋の中でリディは呟く。
 あまりに突然なジャンの帰郷。
 嬉しさと戸惑いと、その両方の感情が合わさって、自分でも気持ちをうまく表現できない。

 リディの中のジャンは、十年前に別れた時の姿のままだ。
 少なくとも、今まではそうだった。
 ジャンのことを想うことはあっても、その姿はリディの頭の中で考えた想像の産物である。

 しかし、昨日の夜にジャンが戻ってきたことで、十年前から止まっていた時間の歯車が再び動き出した。

 リディの前に現れた、大人の姿のジャン。
 癖のある金髪や翡翠のような色の瞳はそのままに、顔からは随分と幼さが抜けていた。
 身体つきは相変わらず華奢に見えるが、背丈はリディのそれをはるかに越していた。

 自分の心の中にしまっていた、幼き日のジャンは消えた。
 今、リディの側にいるのは、彼女が想像した夢物語の主人公ではない。

 ジャンは戻って来てくれたのだ。
 大人になって、それこそ、リディの思い描いていた姿よりも、はるかに立派で素敵な男になって。

「でも……」

 そこまで考えて、リディはふっと溜息をつく。

「ジャンは……ずっと、この街にいるわけじゃないんだよね……」

 ジャンが街に留まることになった理由。
 それは、自分の患者であるテオドール伯の往診のためだ。
 伯爵の病が完治するか、そうでなくとも快方に向かえば、ジャンはすぐにでも街を離れるつもりなのだろう。

 このままでは、ジャンが再び自分の前からいなくなってしまう。
 あんな思いをするのは、もうたくさんだ。

 十年間。
 自分は、十年間も待ったのだ。
 例え望みは薄くとも、いつかはジャンが戻って来るかもしれないという、儚い希望にかけてきた。
 父が亡くなり、母を失ってもなお、この街で宿場を続けてこられた理由。
 それは一重に、ジャンが帰って来ることを信じてのことだった。

 今、自分の隣の部屋には、夢にまで見たジャンがいる。
 だが、そんな彼を離したくないという気持ちとは反対に、どうすれば彼をこの街に引き止められるのかが思いつかない。
 どうすれば、ジャンに再び自分のことを見てもらえるようになるのか。
 それが分からない。


195 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第四話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/18(木) 08:31:16 ID:S8lbibsa


―――― 約束通り、ジャンのお嫁さんにして!!


 これは駄目だ。
 そもそもジャンは、幼き日の約束さえ覚えているかどうか怪しい。
 まずは、約束を思い出してもらわないことには、この台詞に効果はない。


―――― 私もジャンと一緒に旅がしたいの!!


 たぶん、これも駄目だろう。
 宿場の仕事を捨ててまで自分に同行することなど、あのジャンが認めるはずもない。
 それに、医学の知識が何もない自分がジャンの旅に同行しても、足手まといになるだけだ。


―――― 私の病気を治せるのは、ジャンだけなの!!


 最早、論外である。
 恋煩いに、つける薬などありはしない。
 これはリディ自身が一番よくわかっていることだ。
 それに、こんなことを言ってジャンを困らせ、嫌われでもしたら元も子もない。

 結局、その日の晩は、ジャンを引き止めるための良い言葉が思い浮かばなかった。

 手を伸ばせば、すぐに届きそうな場所にいるにも関わらず、常に別れのタイムリミットに怯える不安感。
 それを打ち払うには、一刻も早くジャンを自分に振り向かせねばならない。

(こうなったら、ジャンにも私のことを見てもらうしかないよね……。
 大人になった私を見てもらって……それで、ジャンにも私を好きになってもらって……最後に気持ちを伝えればいいんだ。
 よし、そうしよう!!)

 時間に限りはあるが、希望を捨てるにはまだ早い。
 これから先の生活で、徐々にジャンの瞳を自分に向けさせて行けばよいのだから。

 機会は必ず訪れる。
 その言葉を信じ、リディは胸の前で手を合わせたまま静かに床に就いた。