※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

116 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:23:01 ID:WBUL+36S
 学校を出て駅から反対側に少し進んだ所に、寂れた停留所がひとつある。
 昔はそれなりに利用されていたらしいが、地理的な利点を考えて新設された駅側のバス停のせいで、それはまもなく廃線にされた。
 我が校の生徒も、大半がそちらを利用していて、わざわざこちら側に足を運ぶ物好きなど誰も居ない。今も私がひとりベンチに座っているだけで、制服を着た人間はおろか、通行人すら見えなかった。
 私は、そこで彼女を待っていた。
 時間は放課後を少し回ったぐらいで、季節柄日が落ちるのも早く、夕方ももう終盤を迎えていた。青かった空も、今では赤く焼けている。
「ごめんなさい。待たせちゃって」
 と、言いながら駆け寄って来たのは、恋人である田中キリエだった。
 いいえ、全然待ってませんよ。
 なんて、ありふれたやり取りがしてみたいと思ったが、実際にそれなりの時間待っていたので、私は黙って微笑んでいた。
 何故、こんな中学生のカップルみたいに、人目を避けてこそこそと待ち合わせているのか。そんなことを聞くのは、野暮というものだろう。
 私は錆びたベンチから腰を上げ、カバンを手に持った。
「それじゃあ、行きましょうか」
「うん」
 喜色満面といった様子で、彼女は頷いた。

 昼休みの約束通り、私達ふたりは並んで下校する。
 わざと人の少ない路地を選んで、まるで逃亡者のように身を窶しながら、ゆっくりゆっくり駅へと歩いて行った。
 そんな平和な帰り道の中でも、私はいつ昼のことをぶり返されるのかと、内心びくびくしていた。
 しかし意外なことに、田中キリエがそのことを話し出す気配は一向に表れなかった。てっきり、昼休みのような押し問答が繰り返されると思っていた私は、どこか拍子抜けしてしまう。
 一応待ち時間の間に、中々筋の通った言い訳を考えていたのだけれど、どうやら使う機会は消えたらしい。
「寒いね」
 彼女は、自分の吐く白い息を見ながらそう言った。かけている大きな黒縁眼鏡も、少し雲ってしまっている。
「そうですね」
 私も応えた。
「自分は寒いの苦手なんで、ここ最近は特に辛いですよ。寝る時なんかは、湯たんぽ必須の人間ですからね。私個人としては、早く春が来て欲しいものです」
「春かぁ。春になったら、私達も三年生だね。鳥島くんは卒業したらどうするの? やっぱり進学?」
「まあ、進学でしょうね。学歴は持っておいて損は無いですから」


117 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:24:10 ID:WBUL+36S
「行きたい大学とかはあるの?」
「今は特に。でも、結局は自分の偏差値に見合ったところに行くと思いますよ。大学に入ってから、やりたいことも無いですし」
「そっかー、それなら私も大変だな。鳥島くん頭いいから、ついていくのも一苦労だよ」
 彼女がそう言って苦笑するのを、私は複雑な心持ちで見ていた。
 ついていくのも一苦労、か。
 もしかして彼女は、私と同じ大学に進学するつもりなのかしら。
「まあ、私も言う程頭いい訳じゃないですけどね」
「そんなことないよ。テスト後に貼り出される順位表見ると、鳥島くんいつも上位に居るもん」
「いえいえ」
 と、やんわり否定しながらも、実際に私はかなり頭がよかった。順位表でも、十位から下に落ちたことがない。
 けど、それにはちゃんと理由がある。
 一番の理由としてはやはり、私に友達がいないからだろう。
 いや、いないと言うのは少々言い過ぎかもしれない。もちろん私にも、クラスで談話を興じたりする友人はそれなりにいた。
 しかし、それはあくまで上辺だけの付き合いに過ぎない。放課後に一緒に帰ったり、休日に楽しく遊んだりする友人は、私にはひとりもいなかった。
 そのせいか、基本的に私はいつも暇なのである。その上無趣味。
 家に帰ってすることといえば、帰結的に勉強しかなくなる。帰れば勉強、休日も勉強。これで頭がよくならなかったら嘘だ。無駄に、偏差値ばかりが上がっていった。
 田中キリエと付き合ってからは、幾らか改善されたとはいえ、私の生活基盤は未だ変わらずにいる。
「けど、今はそんな遠い未来よりも、目先の期末テストを心配しなくちゃ、だけどね」
 彼女は憂鬱そうに溜め息をした。
 だけど私にはイマイチ、試験を憂うという気持ちがわからなかった。勉強関係で困ったことなど、今まで一度も無い。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だと思いますよ。高校のテストなんかだと教師の気質が特に表れやすいんで、返って対策がしやすいですし」
「うわっ、余裕の発言だね」
「余裕なんかじゃないですよ。ところで、そう言う田中さんはどうなんですか? 田中さんも結構、頭よさそうに見えますけど」
「私は全然だよ」
 と言って、彼女は肩をすくめた。
 が、それは只の謙遜だろうな、と私は思った。
 彼女が切れ者であることは、もう十分すぎるほどに理解している。勉強の出来ない切れ者など、見たことがない。


118 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:25:16 ID:WBUL+36S
「けど、しいて言うなら、化学とか生物とかの理系科目はわりかし得意かな。私、お父さんが製薬会社に勤めてるせいか、小さい頃から理系関係のことには、よく興味を持ってたんだ。ほら、親の仕事は子供に影響するって、よく言うでしょ」
「へぇ、お父さんが製薬会社に勤めてるんですか。けど、それだと私とは真逆ですね。自分は文系科目は得意なんですが、理系科目はちょっと苦手でして」
 ――あなたって心が無いくせに、なんでこんなに国語の点数が高いのかしら?
 昔、斎藤ヨシヱにテスト結果を見せた時に、そう皮肉られたことを思い出した。
 どうやら、魔女の呪いはまだ有効らしい。
 田中キリエは、目を丸くして私を見ていた。
「意外だね、鳥島くんにも苦手な科目ってあるん――」
 中途半端に言葉を切って、彼女は何かを思い付いたように、ハッと顔を上げた。
「そっ、それならさ。今度、私と一緒に勉強しない?」
「一緒に勉強、ですか?」
「うん、私の家でさ。テスト期間中って、下校時間も早いでしょ? だから、学校が終わってから一緒に勉強しようよ。
「私の苦手な文系科目は鳥島くんに教えて貰って、鳥島くんの苦手な理系科目は私が教えるからさ。お互いがお互いの苦手なところをカバーし合えば、勉強の効率もいいし、一石二鳥だよ」
 彼女の誘いに、私はふむと顎を撫でた。
 確かに、田中キリエの提案は道理にかなっているように思えた。勉強というのは一人でやるよりも、人に教えてもらいながらやったほうが、何倍も覚えがいいものだ。
「いいですよ」
 断る理由も無かったので、私はとりあえず了承しておいた。
「本当? やったあ」
 田中キリエは、少々大袈裟すぎる程に喜んだ。
 そして、ルンルンとステップを踏み始め、私より先を歩く。余程気分がいいのか、鼻歌まで歌っていた。
 曲目は、ベートーヴェンの交響曲第九番“歓喜の歌”だった。
 安直な選曲だな、と私は思った。
「私、鳥島くんと付き合ってから、本当に幸せ」
 田中キリエが不意には立ち止まり、振り返って私を見た。その笑顔は、生まれたばかりの赤子のように、惚れ惚れするほど純粋無垢なものだった。


119 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:26:28 ID:WBUL+36S
「今まで生きてきて、こんなに幸せだった時は無かったよ。これからも、ずーっとこんな毎日が続くと思うと、幸せでおかしくなっちゃいそう。最近は、バチが当たるんじゃないかって怖くなるぐらい」
 彼女は真面目な顔で、私に問いた。
「ねぇ、鳥島くん。鳥島くんは、私と付き合ってよかったと思ってる?」
「ええ、思ってますよ」
 私は即答する。
 その答えに満足したのか、彼女はうふふと笑って、再びステップを踏み始めた。
 そんな彼女の後ろ姿を、私は冷めた目で見つめている。
 これからもずーっと。
 なんだろう。さっきから、彼女の言葉がやけに鼻にかかった。まるで私達の関係が、永遠に続くような言い方をしているではないか。
 永遠の愛なんてものは、この世に無いというのに。
 そもそも人というのは、特定の人間を長く愛することが出来ない。
 肉親ならともかく、他人。
 一生ひとりの他人を愛し続けるなんて、それこそ無理難題であり、かつ難行苦行でしかない。
 付き合った当初は、大好きだの愛してるだの言い合っていた男女が、半年もすれば違う相手に同じことを言っている。
 そんなのは、もはやありふれた光景のひとつだ。私の通っている高校にだって、そんな男女はごまんと見れた。
 付き合ったと思ったら別れ、別れたと思ったらまた付き合う。まるでインスタントラーメンのように、恋愛というものは手軽に生まれていく。
 田中キリエも、今はああ言っているが、おそらく三年生になる頃には、二度と私に同じ台詞を吐かないだろう。その頃にはきっと、彼女の隣には違う男が歩いているに違いない。
 だから今の内、言わせるだけ言わしておけばいい。私は何も、気にすることはないのだ。
 ちょっと、寂しい気もするけど。
 そんなことを考えながら歩いていると、今度は鼻歌ではなく口笛が聞こえてきた。
 最初は田中キリエが吹いているのだと思ったが、それは違った。
 音の発生源は、私の口からだった。
 どうやら、無意識の内に口笛を吹いていたらしい。
 せっかくなので、前方を歩く彼女に聞こえないように、私は口笛を吹き続けた。聞き慣れたメロディーを、虚空に向かって演奏してやる。
 曲目は、フランツ・シューベルトの歌曲“魔王”だった。


120 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:27:59 ID:WBUL+36S
 駅には案外あっさりと到着した。
 我が校から駅までは、徒歩にして約三十分程かかる筈だから、どうやら体感しているよりも長く歩いていたらしい。
「もう、着いちゃったね」
 隣に立つ田中キリエが、名残惜しそうに呟いた。
 そうですね、と私も相槌を打つ。
 今現在、私達は駅から少し離れた通りに立っていた。
 さすがに駅前は人が多く、我が校の制服を着た人間もちらほらと見えるため、これ以上近付いたら、二人でいるところを見られてしまうからだ。今まで散々こそこそと隠れてきたのだから、最後の最後で手をぬきたくなかった。
 腕時計を見る。
 この時間だと、私の乗る電車は後十分程で到着する。
「鳥島くん」
 呼ばれて、視線を時計から彼女に移す。
 田中キリエは顔を赤くしていて、もじもじと身をよじりながら私を見ていた。
 これは何か言い出すな、と瞬時に思った。
「なんでしょうか?」
「あの、さ……。明日って、学校はお休みだよね」
「はい、日曜日ですから」
「だからさ、あのさ……良かったら、明日……その……」
 言葉尻をゴニョゴニョとさせるので、上手く聞き取れない。
 辛抱強く待ってみたが、次の言葉は中々出て来なかった。
 私は電車の時間を気にする。
 これ逃してしまったら、次に来るのは更に二十分も先になってしまう。
 あまり急かすような真似はしたくないが、仕方ない。
 手助けしてやるか。
「田中さん、いつまでもそんな風に気をつかわなくたって、大丈夫ですよ。もっと気楽にやってください。だって私達は――」
 恋人なんですから、と笑顔で付け加えると、彼女は漸く安心したように表情を崩した。
 我ながらキザな物言いだとは思うが、なんだかんだでうまくいくものだな。
 私の言葉に田中キリエは、そうだよね、恋人だもんね、と納得したように頷いて、意を決した表情で口を開いた。
「あの、良かったら明日、私と一緒にお出かけしませんか?」
 彼女がそれなりの勇気を振り絞って出した言葉は、まあ、なんというか全く予想通りだった。
 一緒にお出かけ。つまりは、デートのお誘いである。
 というか、恋人に休日の予定を聞かれれば、十中八九誰だって気づくだろう。むしろそのことを聞かれた時点で、自分から誘ってもよかったなと、今更ながら思った。


121 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:30:13 ID:WBUL+36S
 それはさておき、デートの誘いに乗ることは決定である。
 先述したように、私は基本的に暇人なので、もちろん明日も何の予定も入っていない。真っ白で、空っぽだ。
 それに、今回は田中キリエからのお誘いなので、エスコート云々は全部彼女に任せてしまえばいいし、心理的にも色々と楽だった。
 だから私は、二つ返事で了承――
「はい、それじゃあ明日――……ああっと……すいません。……明日はちょっと“ヘビセン”の方へ家族と買い物に行く予定があるので、だから、ごめんなさい。明日は少し、都合が悪いです。本当、すいません」
 ――しなかった。
 苦笑を浮かべて、からくり人形のようにペコペコと何度も頭を下げる。
 天国から、一気に地獄へ。
 先程の幸せな表情とは打って変わり、田中キリエの顔は悲愴感溢れるものへと変化した。
 そんな彼女を見ていると、私は罪悪感を感じた。針で突いたみたいに、胸の辺りがチクチクと痛む。
 やっぱり、オーケーしとけばよかったかな。
 そのような後悔が襲ってくる。
 無言で佇んでいる私に気付いたのか、彼女は取り繕うように言った。
「う、ううん。お願いだから、謝ったりとかしないで。明日の今日でいきなり言い出した、私が悪いんだから。鳥島くんにだって、都合とかあるもんね」
 そう言って田中キリエは、あははと笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなく感じた。
 気まずい沈黙が流れる。
 私はふと、どうしてデートを断ったぐらいでこんな雰囲気になるのだろう、と疑問に思った。そんな顔をされるほど、自分は悪いことしている訳じゃあないと思うんだけど。


122 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:31:27 ID:WBUL+36S
 ああ、なんかだんだんうんざりしてきた。
 思わず嘆息を漏らしそうになるのを必死で堪え、目の前で萎縮する田中キリエを見下ろす。
 まあ断ったのは自分だし、フォローでもするかな。
 そう思って、口を開きかけたのだが
「それじゃあ、私行くね。また明後日」
 などと言い残して、田中キリエは駅前の人込みの中へと駆け出して行ってしまった。
 彼女の姿は雑踏に紛れ、すぐに視認出来なくなる。
 取り残された私は、開きかけの口をそのままに今度こそ嘆息をした。
 ……なんだかなあ。
 まあ、いいけど。
 と、あまり自分ものんびりしていられないことを思い出した。
 急がなくては、乗車予定の電車が到着してしまう。
 そのことに気付いた私は、小走りで駅へと走りだし、途中ちらりと腕時計を見たのだが、まあ、これもまた予想通りのオチだった。
 絶え間無く運動を繰り返していた両足は、緩やかに減速していく。
 時計の針は、ちょうど電車が駅から発進している時間を指していた。
 いやはや。
 残り二十分、どうするかな。
 私は行き場の失った足を休憩させ、所在なげに立ち尽くす。
 すると、風がびゅうと吹いて私の体を叩いた。
「寒い……」
 亀のように首を引っ込ませて、外気の寒さから守るために、両手をポケットにしのばせる。
 コツン、と右ポケットに硬い感触を感じた。私の携帯電話だ。
 取り出してみる。
 携帯電話は、しばらく機種変更していないため、塗料が剥げて緑と黒の斑模様になっていた。買い換えよう、買い換えようといつも思うのだが、面倒臭いのもあって未だに機種変更していない。
 私はその硬い表面を、乾燥した手で撫でながら考える。


123 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:32:32 ID:WBUL+36S
 やるなら、今か?
 直前になって、田中キリエの誘いを断ったのには、もちろん理由がある。
 昼休みに感じた、あの感覚。
 あれが私の勘違いならば、何の問題は無い。このうっかり屋さんめ、で済む話なのだ。
 けれど、もし勘違いでないとしたら、状況は少し煩雑としたものになる。
 あれが本物ならば、もうあまり時間は残されていない。信号でいうなら、青信号から黄信号に変わったところ。前と同じことを繰り返したくないのなら、早急に動いたほうがいいだろう。
 しかし、同時に躊躇いもあった。
 自分が今やろうとしていることは、目の前に垂れ下がったチャンスを、自らの手で握り潰すということだ。それが惜しくない訳がない、無念だと思う気持ちも確かにある。
 だが、そこに私情を挟んではいけない。
 ほんの少しでもリスクを内包しているのなら、やはり黙過すべきではないのだ。事態が厄介なものへと変わる前に、さっさと終わらせたほうがいいに決まってる。
 よし、思い立ったら即行動。
 ぐずぐず迷ったりせずに、早く済ませてしまおう。
 そう思って、私は携帯電話を開こうと指に力をこめたのだが、既の所で止める。
 ……やっぱり、今はやめとくか。
 思い返してみれば、今日はとことんツイてなかった。
 やることなすこと全てが裏目に出て、あちらこちらで墓穴を掘りまくる一日だった。
 こういう日は何もしないで、じっとしているのが最善である。やるのは日付が変わってからでも遅くないし、ここは慎重にいくべきだろう。
 急がば回れ、だ。
 さっきと言っていることが全然違うけど。
 私は携帯電話をしまうと、駅へと歩き出した。
 実行は、今夜の散歩のついでにでもやっておこう。
 そう思いながら、自分もまた雑踏の中へと加わっていった。


124 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:33:45 ID:WBUL+36S
 カリカリ、と紙面に文字を書き込む音が自室に響く。
 数学の証明問題は思ったよりも手強く、何度も手を止めたり、椅子の前脚を浮かせてのけ反ったりとしながら、なんとかクリアした。
 私は言い様の知れぬ達成感を感じ、ふぅと一息ついてから、持っていたシャープペンシルを離した。
 机の上には、文字がびっしり詰まったノートと、使いこまれた参考書が並べられている。テスト期間が近いので、今夜は普段以上に勉強していた。
 壁に備えつけられてる掛け時計を見て、時刻を確認する。時計は、もうじき今日が終わることを告げていた。
 ちょうどいい時間だな、と私は思った。
 ノートや参考書を机の中にしまい、椅子から腰を上げて、大きく伸びをする。長い時間座っていたせいか、体中の間接が悲鳴をあげていた。
 さて、それじゃあ準備するかな。
 クローゼットを開け、中から厚手のコートとマフラーを取り出した。最近はよく冷えるので、防寒を怠ってはならない。
 それらを片手に持って、部屋の電気を消してから、自室を出た。
 と、いけない、いけない。
 踏み出した片足を慌てて戻して、ベッドの上に投げ捨てられていた携帯電話を、ポケットに突っ込む。
 普段利用する機会が少ない分、私は携帯電話を忘れることが多い。けど、別段それで困ったこともなかった。着信なんて、稀にしか来ない。
 私は階段を下りて、玄関で靴を履いた。
 コートを羽織り、首元にマフラーを巻く。中にも大分着込んでいるので、寒がりの私でも、これで大丈夫だろう。
「いってきます」
 振り返って、冷たい廊下に向けてはっきりと声を上げた。
 しかし、返事は返って来ない。リビングには光が灯っていて、人の気配もあるというのに。
 もう一度言ってみようかしら、と思って再び口を開けるが、やっぱり止めた。
 返事が返ってきたことなど、一度も無いことを思い出したからだ。
 私は、そっと家を出た。

 深夜の空気は刺すように冷たくて、鋭利な刃物を思わせる。
 思わずぶるりと体を震わせて、私は門を出た。
 出発する前に、我が家を振り返る。
 自室の隣の部屋の電気が、まだついていた。あそこはリンちゃんの部屋だ。
 きっと、まだ眠れずにいるのだろうな、と私は思った。


125 :名無しさん@ピンキー:2010/11/16(火) 11:51:16 ID:7YYpU1zl
124
GJ!!
なんということでしょう!!今週は停滞作品復活祭か!?


126 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:58:09 ID:WBUL+36S
 妹の姿を思い浮かべる。
 彼女は小さい頃から、慢性の不眠症を抱えていた。
 いつも目の下にクマをつくっていて、よく眠い眠いとぼやいていたのを思い出す。
 発症したのは、たしか彼女がまだ幼稚園児の時だったか。
 母は最初、子供だから色々と不安定なのだろうと、あまり気にしていなかったのだが、一向に回復の兆しが見えなかったので、遂にリンちゃんを病院に連れていった。
 しかし何回診察を受けても、不眠の原因はわからなかった。
 当時、リンちゃんは規則正しい生活を送っていたし、ストレスらしいストレスも無い、何の変哲もない至って健康な女の子だったからだ。本人も、特に心当たりが無いと言っていた。
 医者には、副作用の少ない睡眠薬を服用することを進められたが、リンちゃんがそれを強く拒否したので、結局、彼女の不眠症は治らずじまいに終わったのだ。
 それは高校生になった今でも続いているようで、彼女の部屋の電気が消えることは滅多にない。
 早く治ればいいのに。
 私は部屋の窓を見つめる。
 その時。
 んっ?
 今、一瞬。カーテンが揺らいでいたような気がした。
 風かしら、と最初は思ったが、外はこの寒さだから窓を開けている筈がない。それでいて


127 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 11:58:55 ID:WBUL+36S
 妹の姿を思い浮かべる。
 彼女は小さい頃から、慢性の不眠症を抱えていた。
 いつも目の下にクマをつくっていて、よく眠い眠いとぼやいていたのを思い出す。
 発症したのは、たしか彼女がまだ幼稚園児の時だったか。
 母は最初、子供だから色々と不安定なのだろうと、あまり気にしていなかったのだが、一向に回復の兆しが見えなかったので、遂にリンちゃんを病院に連れていった。
 しかし何回診察を受けても、不眠の原因はわからなかった。
 当時、リンちゃんは規則正しい生活を送っていたし、ストレスらしいストレスも無い、何の変哲もない至って健康な女の子だったからだ。本人も、特に心当たりが無いと言っていた。
 医者には、副作用の少ない睡眠薬を服用することを進められたが、リンちゃんがそれを強く拒否したので、結局、彼女の不眠症は治らずじまいに終わったのだ。
 それは高校生になった今でも続いているようで、彼女の部屋の電気が消えることは滅多にない。
 早く治ればいいのに。
 私は部屋の窓を見つめる。
 その時。
 んっ?
 今、一瞬。カーテンが揺らいでいたような気がした。
 風かしら、と最初は思ったが、外はこの寒さだから窓を開けている筈がない。それでいて、カーテンが揺らぐということは、もしや中から――
 と、そこで慌てて思考を打ち切り、私は顔を赤くして頭を振った。
 馬鹿か、そんな訳ないだろう。
 ほんの少しでもそんなことを考えてしまった自分が、急に恥ずかしくなる。
 今のは、ただの私の見間違いだ。そうあって欲しいという自身の願望が、それを見せたに過ぎない。
 兄を慕っていた妹は、もういない。
 彼女は私のことを嫌悪し、心底恐れている。その事実は変わってないし、これからも変わらない。
 変な幻想を抱くのは、よせよ。
 私はがりがりと頭を掻く。
 途端に居たたまれない気持ちになり、足早に家を後にした。
 もう一度我が家を振り返る気には、なれなかった。



128 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 12:00:25 ID:WBUL+36S
 何故、こんな夜更けに出歩いたりするのか。
 一言で言えば、それが私の習慣だからだ。
 深夜になると必ず散歩をする。
 最初に始めたのは、確か中学生の時だったと思う。
 どうしてこんなことを始め出したのか、今ではもう動機はわからないけれど、なんせ血気盛りな中学生の頃だ。多分、深夜に出歩く俺カッコイイとか思ってたに違いない。
 私の散歩コースは、隣町の自然公園まで歩き、そこでゆったりしてから帰宅する、というものだった。
 始めた最初の頃なんかは、ただ徒に近所をほっつき歩いているだけで、たとえ家を出ても直ぐに戻っていたのだけど、今ではむしろ、日に日に外出時間が長くなっている。
 警察の補導にさえ気をつければ、深夜という時間帯は考えごとをするのに最高だった。
 私は針穴みたいに小さい星屑を眺めながら、自然公園へと足を進めて行った。

 自然公園に着いた。
 隣町だけあって、ここまで歩くのには中々時間がかかった。既に時計の針は、最後に見た時から一周以上している。
 私は、入口付近に設置されている自動販売機で、暖かい缶コーヒーをひとつ買ってから、公園の中へと足を進めていった。
 するとすぐに、左右に枝分れした標識が現れる。左右それぞれに“北ブロック”“南ブロック”と彫られていた。
 自然公園は、主に北と南のブロックに分けられる。
 南側の方は、主にレジャー施設として利用されることが多く、広大な芝生や子供用の遊具、アスレチックなどが豊富に設けられていて、休日などはよく家族連れで賑やかになる。
 それに対し北側は、主に散策やランニングのコースとして使われていた。季節ごとの観葉植物も沢山植えられているので、ついでに植物鑑賞も楽しめる。


129 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 12:01:45 ID:WBUL+36S
 私がいつも利用するのは、北ブロックのほうだった。
 “北ブロック”と書かれた矢印の標識に従って、自然公園の中枢へと向かっていく。
 相変わらず、自然公園には人っ子ひとりいない。
 私は数年間、この北ブロックに通い続けているが、未だに此処で誰かと出くわしたことがなかった。まるで、この北ブロックだけが世界と隔離されてしまったように、過度なまでに閑散としている。
 この有様だからかな、と私は周囲を見回した。
 昼の和かな雰囲気に対して、深夜の北ブロックは、ただただ不気味でしかない。
 生い茂った木々がコンクリートの道の上で天井をつくり、木の葉を擦り合わせてざわざわと音を立てる。しかもやけに街灯の数が少ないので、嫌でも暗闇が目立ち、どこか動物的な本能が警鐘を鳴らすのだ。
 だから、みんな無意識に此処を訪れることを避けているのかもしれない。なんて、勝手な憶測をたててみる。
 しばらく歩いていると、お気に入りの古い木製ベンチを見つけた。この散歩のゴール地点である。
 私は、夜露で湿ったそれに腰を下ろし、缶コーヒーのプルタブを引き上げ、熱い液体を喉に流し込んだ。
 落ち着くなあ。
 全身が弛緩するのを感じる。この瞬間だけは、何物にも代え難いといつも思う。
 私は、ぐにゃぐにゃに柔らかくなった意識の中で、ぼんやりと前方を眺めた。
 目の前には、背の高い森林達でも覆い隠せぬほど大きくそびえ立つ、この市で一番の高度を誇る高層マンションがあった。
 出来た当初なんかは、マスコミにも騒がれていた高層マンションだ。芸能人の誰々が買ったー、なんて言って一時期クラスでも盛り上がっていた。
 あそこのてっぺんには、一体どんな人が住んでいるのだろう。
 ボーっとしながら、きらびやかに光る最上階を見つめた。
 時は一刻と過ぎていく。
 と、まずい。
 少しまったりしすぎたか。危うく、本来の目的さえ忘れてしまうところだった。そんなことになっちゃあ、正に本末転倒だろう。


130 :私は人がわからない ◆lSx6T.AFVo :2010/11/16(火) 12:02:44 ID:WBUL+36S
 私はポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開いた。
 ディスプレイに映る日付は、既に変わっている。昨日の不幸な一日はリセットされ、新しい一日が始まったのだ。
 大丈夫、これでいつも通りだ。
 指を動かし、メニュー画面からアドレス帳を開く。
 登録数が異様なまでに少ない私のアドレス帳の中には、ひとつ新しい名前が増えていた。今日の昼休みに登録されたばかりのものだ。
 一応、保険をかけておいて正解だったな。つくづくそう思う。
 私はその名前まで矢印をスクロールし、数秒迷ってから、親指で通話ボタンを押した。携帯電話を耳に当てる。単調な電子音が鼓膜を揺らす。
 そして数回のコールの後、電子音が途切れ、相手が出た。
 応答の声は無い。
 おそらく、見知らぬ番号からの着信に警戒しているのだろう。
 なら、こっちからいくか。
 私は舌で唇を湿らせてから、おもむろに口を開いた。
「ああ、どうも。夜分遅くにすいません、鳥島タロウですが――って、ちょっ、ちょっ、ちょっと、切らないで切らないでっ! 切らないでくださいっ!
「……ふぅー、危なかったなぁ。今、絶対に切ろうとしてたでしょう? 気配でわかりましたよ。ああ、危ない。せめて、話くらいは聞いてくださいよ。乱暴だなぁ。
「えっ? どうやって番号を知ったか、ですか? ……まあ、細かいことはいいじゃないですか。私なりに、色々と調べたんですよ。
「ハハハ、嫌だなぁ。勿論、用なら有りますよ。私だって、ふざけてあなたに電話した訳じゃあ、ありません。
「ああ、それがですね。さっさと、と言うわけにもいかないんですよ。あまり、電話で話せるようなことでも、ないですしね。
「はい、はいはい、ええ、そうです。まあまあ、そんなこと言わないで。
「だから、前田さん――今日のお昼頃って、時間空いてますか?」