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380 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:19:30 ID:p0IB1Qrq
 窓から射し込む朝日に顔をしかめながら、ジャンはゆっくりと目を覚ました。
 昨日は寝坊をしてしまった上に酒も残っていたが、今日は割と目覚めもよかった。

 身体を起こし、頭を二、三回ほど振って意識をはっきりとさせる。
 枕元に置いてある眼鏡をかけると、今までぼやけていた視界が急にくっきりと開けた。

「今日は、薬の材料を探しに行かなきゃいけないんだよなぁ。
 その辺のバザーに来てる行商人が、運よく持っていればいいんだけど……」

 昨日、テオドール伯に渡した分で、ジャンの持っていた薬は最後である。
 他の薬なら余りもあるが、東洋医学に関する薬はあれで終わりだった。

 東洋の薬は、どちらかと言えば伝統的な薬草療法に近いものがある。
 この地で手に入る素材もあったが、足りないものは行商人から買わねばならない。
 稀に足元を見られることもあったが、それはそれ。
 旅を続けて行く間に、それなりの交渉術は身につけていた。

 本当ならばテオドール伯に頼んで、取り寄せられる素材は直々に取り寄せてもらった方が、話も早く済む。
 が、しかし、今は伯爵のリウマチも経過観察中である。
 素材の質の善し悪しで薬効も微妙に変わってくるだろうし、しばらくは自分で買い揃えることも視野に入れた方が無難だろう。

 着替えを済ませて階段を下りると、そこには既にリディが朝食の準備をして待っていた。

 他の宿泊客が食堂に来るには、まだ少しだけ時間がある。
 にも関わらず、リディは既に朝食の準備を完璧なまでに終えている。
 さすがというか、やはりこの辺りの手際のよさは、ジャンも感心せざるを得ない。

「おはよう、ジャン。
 部屋が変わったけど、昨日はちゃんと眠れた?」

「なんか、前も同じようなこと聞かれたような気がするけど……とりあえず、大丈夫だったよ。
 従業員用の仮眠室にしては、随分と立派な作りの部屋だったしね」

「お母さんが亡くなってから、殆どそのままの状態だったから。
 こまめに掃除はしていたけど、実はそれ以外、あまり手をつけていないの」

「そうか。
 まあ、何はともあれ助かったよ。
 しばらく厄介になると思うけど、できるだけリディに迷惑はかけないようにするよ」

「迷惑だなんて……。
 私は、全然そんなこと思ってないから、平気だよ」

 最後の方は、少し恥じらいの混ざった言い方になった。

 リディにとっては、ジャンがこの宿場にいてくれることが嬉しいのだ。
 そのためならば、部屋の一つや二つなど惜しくない。
 ジャンが望むならば、宿泊料などもらわなくても良いとさえ思っている。

 だが、それだけではジャンを宿場に留めることには繋がらない。
 寝床を用意するだけならば、誰にでもできる。
 これから先、ジャンに少しでも自分の好意を伝えるには、この宿場と自分自身が、彼にとっての拠り所になる必要がある。


381 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:20:31 ID:p0IB1Qrq
「ねえ、ジャン。
 今日も、夕飯までには帰るわよね?」

「ああ、そのつもりだけど」

「だったら、今日はジャンの好きな物作って待ってるよ。
 だから、なるべく早く帰って来てね」

「わかったよ。
 でも、夕食のメニューは、別に僕の好き嫌いに合わせる必要はないから。
 他のお客さんだっているだろうし、あんまり高級なものはお願いできないよ」

「そうは言っても、ジャンだって、もう居候みたいなものじゃない。
 遠慮なんてしないで、して欲しいことがあったら何でも言ってね」

「居候って……。
 まあ、確かにそんな感じにはなっているけどさ……。
 でも、僕は別に、好きでこの街に留まっているんじゃないんだよ」

 リディが持ってきたフレンチトーストを口にしながら、ジャンは少し項垂れるようにして言った。
 口の中に残るパンを、コーヒーを流し込んで無理やり飲み込む。
 簡単な朝食を終えると、コーヒーの湯気で曇ってしまった眼鏡をハンカチで拭いた。

「それじゃあ、僕はもう行くよ。
 今日は市場で薬に使うための素材も買わないといけないしね。
 行商人から、うまく仕入れられるといいんだけど……」

 椅子の下に置いてあった鞄を手に取り、ジャンは忙しない様子で食堂を出た。
 その後姿を、リディは皿を持ったまま見守ることしかできない。

 我ながら、不器用な性格だとリディは思う。
 ジャンに気持ちを伝えるだけならば、直接口にして告げた方が、どれだけ早いことか。

 だが、ジャンの気持ちを考えれば、軽率な行動に出るのは躊躇われた。
 それは、先ほどのジャンの口から出た言葉からもわかる。

 ジャンは、この街を嫌っている。
 彼がこの宿場に泊まっているのは、必要悪に過ぎない。
 向こうからすれば、一刻も早くこの街を離れたいと思っているに違いないのだ。

 気持ちを伝えるのは今ではない。
 この街が嫌いであっても、それでもなお、リディの側にいたいと思わせられなければ、ジャンは間違いなく自分の下を去る。

(ジャン……。
 私は絶対、あなたにとっての居場所になってあげるからね。
 それまで、ほんの少しだけ……我慢して待っていてね……)

 このチャンスは、きっと神様がくれたものなのだ。
 だからこそ、リディは自分の想いを成就させるための機会を、軽率な行動で失いたくないと思っていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




382 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:21:44 ID:p0IB1Qrq
 その日の往診は、昨日よりも簡単に済んだ。
 伯爵に昨晩の様子を尋ねたところ、久しぶりに良く眠れたという。
 なんでも、身体が芯から暖まったような感じがして、夜の寒さが関節に響くこともなかったらしい。

 体質など、そう簡単に改善されるわけではない。
 ましてや、リウマチは完治させるための術などない。
 そうわかっていても、自分の与えた薬に効果があったことは嬉しかった。

 この調子なら、当分は同じ薬を処方し続けるので大丈夫だろう。
 幸い、必要な素材も朝方の内に買い揃えることができていた。
 これで駄目なら、伯爵の力も借りて、必要な薬草の類を様々な経路でかき集めてもらわねばならなくなるが。

(はぁ……。
 とりあえず、思っていたよりは、問題もなかったかな……)

 帰りの馬車に揺られながら、ジャンはぼんやりと考えた。
 しがない旅の医者の自分が、テオドール伯のような高貴な者の診察をする。
 最初は緊張していたものの、二日目にして早くも伯爵邸の空気に慣れてきている自分がいた。
 長年、旅慣れてきたせいか、環境の変化に戸惑うようなことは少なくなっていたのかもしれない。

 そんなことよりも、ジャンにはやはり、昨日の帰りに見た不思議な少女のことが気になった。

 今日、伯爵の屋敷を訪れたとき、彼女は姿を見せなかった。
 伯爵やクロードに彼女のことを聞こうとも考えたが、診察に関係のないことを勘繰るのも気が引けた。

 あの娘は、いったい何者なのか。
 昨日から、それだけが気になって仕方がない。
 窓越しに見た血のように赤い瞳が、頭に焼きついて離れない。

「着きましたよ、ジャン様」

 クロードに言われ、ジャンはそこで我に返った。
 あれこれと考え事をしている間に、いつの間にか宿場に戻って来ていたようだった。

「あ、ああ……。
 悪いね。
 ちょっと、考え事をしていて……」

 別にごまかす必要などないのに、ジャンは思わず言葉を濁らせて言った。
 クロードの刺すような視線に見据えられると、それだけで心の中を見透かされているようで怖かった。

「あの……」

「なんでしょうか?」

 ジャンの言葉に、クロードが間髪いれずに尋ねる。
 一瞬の間さえ置かずに言われたことで、ジャンは喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。


383 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:22:39 ID:p0IB1Qrq
 やはり、聞けるはずもない。
 あの少女が何者で、伯爵と何の関係があるのかなど。

 所詮は単なる好奇心。
 それ以上の、なにものでもない。
 興味本位で余計な詮索をして、クロードや伯爵から睨まれるのは得策とは思えなかった。

「いや……なんでもないよ。
 もうしばらくは、経過を診させてもらうことになると思う。
 効き目がないようだったら、別の薬も試してみる必要があるけれど……」

「わかりました。
 では、本日はこれで……」

 相変わらず、愛想笑いの一つもないまま、クロードが馬車の扉を閉めた。
 御者に「出せ……」とだけ告げ、今しがた来た道を戻って行く。

 丘の上にいた時は感じなかったが、街に降りると早くも冷たい風がジャンの頬を打った。
 思わずコートの襟を締め、足早に宿場へと戻る。
 一階の酒場の店主に簡単な挨拶をして二階へ上がると、そこにはリディが夕食を用意して待っていた。

「お帰りなさい、ジャン。
 今日も寒かったね」

「ああ、そうだね。
 冬場に冷たい風が吹くのは変わらないな。
 十年前も、今も……」

「そう言うと思って、今日は温かいスープを作っておいたわよ
 荷物を置いたら、食堂まで来てね」

「助かるよ、リディ。
 正直、コートを着ていても、外の寒さには耐えられそうになかった」

 古めかしいコートを脱ぎながら、ジャンはそう言って安堵のため息を漏らす。
 仮住まいとはいえ帰る場所があることが、今のジャンにとっては数少ない癒しだった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




384 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:24:21 ID:p0IB1Qrq
 それから数日は、比較的穏やかな日々が続いた。

 朝、仕事の支度を済ませ、昼から夕方にかけて伯爵のいる屋敷へと向かう。
 そこでテオドール伯の容体を診察し、経過を診ながら薬を出す。
 それ以外は特に変わったこともない、至って平穏な日々だった。

 だが、そんな毎日を送っていながらも、ジャンは心のどこかで早く街を離れたいという気持ちを抱いていた。
 自分の父を追い出した街の人間が、今に自分のことも色眼鏡で見るのではないか。
 異端者として、再び街から排斥されるのではないか。
 そう考えると、あまりいつまでも街に居座ることは、やはり躊躇われた。

(テオドール伯の身体が快方に向かうまでは、街にいるって言っちゃったからなぁ……。
 でも、正直、そう簡単に人の体質が変われば苦労はしないよ……)

 丘の上の屋敷の一室で、ジャンはその日に買い集めた薬草の類を煮詰めながら考える。
 乾燥させた薬草の類を粉末にした物とは違い、時には直に薬を煮出さねばならない物があることが、西洋医学と東洋医学の大きな違いだ。
 手持ちの薬を与えるだけで済む従来の医療とは異なり、医者がその場で薬を処方せねばならないのだから。

 一昔前ならば、自分は教会から魔女の仲間として真っ先に弾圧を受けていただろう。
 それでなくとも、自分の父は如何わしい研究の果てに街を追い出された負い目のある男だ。
 その息子である自分が、街外れの屋敷で薬草を煮詰めている姿を見ればどう思われるか。
 答えなど、今さら口にするまでもない。

「さて、と……。
 後は、もうしばらく薬を煮詰めないと駄目だろうな」

 鍋にかけている火を弱火にしつつ、ジャンは誰に言うともなく呟いた。
 行商人から手に入れた東方由来の薬草が入った鍋からは、何やら異様な臭いが漂っている。
 履き潰した古靴下を煮詰めたような、そんな匂いだ。
 傍からすれば毒にしか思えない香りだが、これが薬として効くのだから、不思議なものである。

 鍋の中で薬が煎じられている音だけが、石造りの部屋に響いていた。
 普段は厨房として使われている場所だが、今はジャンが薬を作る場として貸し出してもらっている。

 自分と鍋以外、音を立てる者さえもいない場所。
 そんな場所だからこそ、ジャンは扉の向こう側にいる来訪者の気配に容易に気づくことができた。

「そこにいるのは誰だい?」

 恐らくは、扉の向こう側にいるであろう相手に向かって、ジャンは問いかける。
 別に遠慮などする必要もないはずだが、相手に警戒心を与えないよう、できるだけ優しい声で言った。

 金具と金具が擦れ合う、軋むような音が部屋に響いた。
 木製の扉が開かれ、その向こう側から黒いドレスに身を包んだ一人の少女が姿を現す。

「君は……」

 忘れるはずもなかった。
 雪のように白い肌と、色のすっかり抜けてしまった髪。
 そして、血のように赤い二つの瞳。

 間違いない。
 この屋敷に初めてやってきた時、窓辺からジャンのことを見つめていた少女だ。


385 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:25:42 ID:p0IB1Qrq
「あの……」

 少女が何か言いたそうに、それでいて、どこか申し訳なさそうな口調で言った。
 見たところ伯爵の血縁者のようだが、それにしては、妙に怯えたような態度が気にかかる。 
 貴族の血を引く者ならば、もっと堂々としていてもよいだろうに。

「僕に何か用かい?
 今、テオドール伯のために、薬を煎じているところなんだけど……」

「すいません。
 特に、用があるというわけではないのですが……。
 ただ……厨房から、少々、おかしな匂いがしていましたもので……」

 口調は丁寧だったが、それでも威厳の感じられるようなものではなかった。
 世間知らずの箱入り娘が、好奇心から厨房を覗いたのかもしれない。
 ただ、それにしては、やはり過剰に何かを恐れているような態度が気になったが。

「なんだか、変に気を使わせちゃったみたいで悪いな。
 この、変な匂いなんだけど……実は、テオドール伯のために煎じている薬の匂いなんだ」

「お薬……ですか?
 では、あなたは、お父様の主治医の方で……?」

「まあ、そんなところだけど……。
 ところで、お父様ってことは、君は伯爵の娘さん?」

「はい。
 ルネ・カルミア・ツェペリンと申します……」

 少女がジャンに頭を下げながら言った。
 人の上に立つ者の態度ではないと感じたが、それ以上に、ジャンには少女の年齢が気になった。

 見たところ、彼女は十四歳か十五歳くらいの年齢だと思われる。
 しかし、テオドール伯は見ての通り、七十の齢を越えている年齢だ。
 娘というには歳が離れ過ぎており、どちらかと言えば、孫娘と言った方がしっくりくる。

 人間離れした容姿に加え、明らかに離れ過ぎている伯爵との年齢。
 疑問に思うことは多々あったが、今はそれを尋ねるのも憚られた。

「ところで……」

 なるべく、相手に警戒させないよう、ジャンは可能な限りの優しい笑顔を作ってルネに語りかける。
 子どもの患者に問診をする際、その緊張をほぐす時に使う手だった。

「まだ、名前を言っていなかったね。
 僕はジャン・ジャック・ジェラール。
 君のお父様の病気を治すために、クロードさんに頼まれた旅の医者さ」

「お医者様なのに、旅をなさっているのですか?
 でも、どうして……」

「別に、深い理由があるわけじゃないよ。
 ただ、同じ場所に留まり続けるのが苦手なだけさ。
 もっとも、伯爵の病気が快方に向かうまでは、しばらくこの土地にいることになると思うけど……」


386 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:26:48 ID:p0IB1Qrq
 伯爵の娘相手ではあったが、ジャンはあえて砕けた言葉を使って話し続けた。
 その方が、相手に警戒心を抱かせずに済むし、なによりも会話が途切れて微妙な空気になるのを避けることもできた。

「あの……ジャン様……?」

「なんだい?」

 鍋の火を気にしながらも、ジャンはあくまで固くならないように注意しながら尋ねる。
 心なしかルネの表情も、先ほどに比べると少しだけ緊張が解れているようだった。

「ジャン様は、色々な場所を旅してまわっておられたのですよね?
 だったら……一つ、お願いをしても宜しいでしょうか?」

「お願い?
 まあ、僕にできることであれば、別に構わないけど……」

「では、申し上げます。
 私に、ジャン様が旅して回った場所のことを、お話していただけないでしょうか?」

「僕の旅の話を!?
 まあ、あまり面白い話じゃないと思うけど……それでよければ、聞いてくれるかな?」

 伯爵の娘が直々に、自分に対して願い事をする。
 初めに聞いた時は何を言われるのかと思ったが、その内容を耳にしたジャンは、思わず肩すかしを食らったような気になって拍子抜けした。

 自分の旅の話など、貴族の令嬢に語るような話ではない。
 それでも聞きたいというのは、この娘の純粋な好奇心なのだろう。
 やはり、外の世界を知らない箱入り娘ということなのだろうか。
 高飛車な印象はないが、浮世離れしていることだけは確かなのかもしれない。

「それじゃあ……とりあえず、その辺の椅子に座ってくれるかな。
 こんな厨房で、立ち話もなんだしね」

「はい。
 よろしくお願いします、ジャン様」

 ジャンに促されるままに、ルネは近くにあった椅子に腰かけた。
 椅子は一つしかなかったので、ジャンは立ったままルネに向かって話をする。
 旅の道中は辛いことの方が多かったが、同時に地方の珍しい文化に触れる機会もあった。

 国の南端に近い、海辺の街を訪れた時の話。
 南部の国境近くにある、山間の村を訪れた時の話。
 そして、のどかな田園風景が広がる田舎の街に立ち寄った時の話。

 貴族の令嬢が好みそうな話ではないと思ったがジャンだったが、ルネは実に興味深そうに、ジャンの話に耳を傾けていた。


387 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:27:41 ID:p0IB1Qrq

「……で、そこの村には至るところにブラック・ベリーが実っていてね。
 秋に行くと、どこの家でもジャムを作っていたし、野原に生えているのを摘んで食べても、誰も文句を言わなかったよ」

「羨ましいですわ……。
 ジャン様は、私の知らない場所のことも、色々と知っておられるのですね」

 ルネが、妙に感心した様子で言った。
 ジャンにしてみれば下らない話でしかないというのに、何故、この少女はここまで目を輝かせて話を聞けるのか。

 そう、ジャンが不思議に思った時、何かがガタガタと揺れるような音がした。
 続いて、熱い金属に触れた水が、瞬く間に蒸発してゆくような音が聞こえて来る。

「あっ、しまった!!
 薬、火にかけてたのを忘れてた!!」

 慌てて鍋を火から外し、こぼれた部分を布でふき取る。
 気付いたのが早かったためか、煮詰めすぎて薬が駄目にならなかったのが不幸中の幸いだ。

「す、すみません。
 私が変なお願いをしたばっかりに……お父様のお薬が……」

「いや、君のせいじゃないよ。
 僕も不注意だったし、君があまりに面白そうに話を聞いてくれていたから、少し調子に乗っていたかもしれないしね」

 鍋に残った薬をかき混ぜて、ジャンはそれを冷ましながらルネに告げる。
 古靴下を煮詰めたような匂いは相変わらずだったが、今日の分の薬はなんとか煎じ終えた。

「それじゃあ、僕はそろそろ、この薬を君のお父様のところへ持って行くよ。
 でも、どうして急に、僕の話を聞きたいなんて言い出したんだい?」

「それは……」

 何気なく尋ねたつもりだったが、ルネの顔に一瞬だけ影が射した。

「それは……私を見ても、ジャン様が恐れなかったからです……。
 私に初めて会った方は……大抵は、私のことを恐れて近寄ろうとしませんから……」

 ルネの赤い瞳が、錆びついた鉄のような色に見えた。

 彼女の言わんとしていることは、ジャンにも分かる。
 明らかに白すぎる肌と、色の抜け落ちたような髪。
 そして、血のような赤い色をした二つの瞳。

 生まれつき、そういった姿をしている人間がいることは、ジャンも父の持っていた医学書で読んだことがあった。
 先天的に身体が弱く、強すぎる陽の光は返って毒となる。
 稀に、食用のウサギにこのような姿をしたものが現れることがあったが、人間で同じような姿をした者を見たのは、ジャンも初めてだった。


388 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:28:43 ID:p0IB1Qrq
 恐らく、その特異な容姿から、ルネは長らく他者からの好奇と偏見の眼差しに晒されてきたのだろう。
 それが彼女を極端なまでに内向的な性格にし、貴族としての威厳や誇りさえも奪い去ってしまったに違いない。

 ジャンが初めてこの屋敷に来た時、彼女はこちらの様子を窺うようにして二階から覗いていた。
 これも、見知らぬ相手に怯えていたと考えれば納得が行く。
 相手が自分の敵となる者か、それとも味方になる者か。
 それを見定めようとしていたのだろう。

「ルネ……って言ったよね。
 僕は君のこと、別に怖いとは思わないよ。
 むしろ、僕にはとても繊細で綺麗に見える。
 その髪も、瞳の色もね」

 お世辞ではなく、それはジャンの本心だった。

 異端者として扱われ、身内以外には心を開く相手さえも見つけられなかったであろう少女。
 彼女の境遇と自分の境遇を重ね合わせ、その悲しみと苦しみに共感したという部分もある。
 が、それ以上に、ジャンには目の前にいる少女のことが、純粋に穢れのない存在に映っていた。

 他人のことを色眼鏡でしか見ない、故郷の街の人間達とは違う。
 その肌の色と同じように、外の穢れた世界を知らず、ガラスのように繊細な心を持っている。
 同じ異端者でありながら、不貞の父を持ったジャンとはえらい違いだ。

「あの……ジャン様……」

 去り際に、ルネが名残惜しそうにジャンに言ってきた。

「明日も来られるのでしたら……また、お話を聞かせていただけますか?」

「えっ……!?
 まあ、僕は別に構わないけど……」

「よかった。
 お父様やクロード以外の者とお話するのは久しぶりだったので……今日は、ありがとうございました」

 服の裾を摘まみ、ルネは深々とお辞儀をして一礼した。
 本来であれば自分の方が目下の存在であるため、ジャンは少々気まずくなる。
 が、それでもルネが最後に少しだけ見せた笑顔が、ジャンの心をどこか晴れやかなものにしていたのは事実だった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




389 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:30:25 ID:p0IB1Qrq
 夜の帳が空を包み、街と丘を漆黒の闇が覆い隠す。

 ジャンの去った後、テオドール伯の屋敷は元の静けさを取り戻していた。
 もとより、来客さえ殆どない丘の屋敷である。
 使用人の数も今は限られており、重要な仕事は全てクロードがこなしていた。
 執事長という職に就いてはいるものの、彼とて後ろで命令ばかり下しているわけではないのだ。

 山から吹き下りる風は、丘を抜けて街へと下る。
 木々の梢を震わせ、街の窓ガラスを叩いては、冬の訪れを告げる冷たい空気を運んでくる。

 その日は珍しく、月の出ていない新月の晩だった。
 いつもであれば青白い月明かりが丘を照らしているが、今日はそれさえもない。
 暗く深い、影よりも濃い色の闇が、夜半の世界を支配している。

 片手に古びたランプを持ったまま、クロードは屋敷の階段を上った。
 伯爵を始め、他の者は既に寝静まっている時刻。
 足音で寝ている者を起こさないように気をつけつつ、夜の廊下をそっと歩く。

「失礼いたします……」

 廊下の一番奥にある部屋の戸を軽く叩き、クロードは呟くようにして言った。
 扉の向こうから答えはなかったが、彼は何も言わずにドアの取っ手に手をかけると、それを静かに前に押した。

 暗闇の中、ランプの明かりに照らされて、一人の少女の姿が映し出される。
 窓辺に佇むその身体は、少し力を入れて抱けば折れてしまわんばかりに細い。

「まだ、起きておられたのですね……お嬢様」

 クロードがやってきた部屋。
 それは、ルネの部屋に他ならなかった。
 音を立てないように注意を払いながら、クロードはランプを持っていない方の手で扉を締める。
 深夜、突然の来訪であるにも関わらず、ルネは全く意に介していない様子でクロードを見る。

「ねえ、クロード……」

「なんでしょう?」

「今日、お父様の主治医の方とお話をしましたわ。
 あの方、とっても面白い方ですわね」

「ジャン様に会われたのですか?
 しかし……珍しいこともあるものですね。
 お嬢様が、初めてお会いになった方と、何ら臆することなくお話をされるなどとは……」

「心配してくれているのね、クロード。
 でも、私は大丈夫ですわ。
 あの方は、他の人とは違う。
 とっても優しくて……親切な人でしたわ……」


390 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第五話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/22(月) 08:32:40 ID:p0IB1Qrq

 薄明かりの中、ルネの顔にふっと柔らかな笑顔が浮かんだ。
 それを見たクロードは一瞬だけ戸惑うような仕草を見せたものの、すぐにいつもの調子になって切り返す。

「それはなによりです。
 ルネ様のお姿を見て、ジャン様が驚かれると思っていましたが……どうやら、私の取り越し苦労だったようですね」

 ルネのことを、クロードはジャンに告げていなかった。
 告げる必要もないと思っていたし、万が一、ルネが傷つくようなことがあってはならないと考えてのことだった。

 もっとも、今のルネの表情を見る限りでは、自分の考え過ぎだったらしい。
 ジャンがルネの姿を見て何の偏見も抱かなかったということには驚いたが、クロードとしては、そちらの方が都合もよかった。

「クロード……」

 ランプの灯りの向こう側で、ルネが呟くようにして言った。
 その声の調子から、クロードはこれから目の前の少女が告げるであろう言葉を悟る。

「喉が……渇きました……」

 どこか力の無い、魂の抜けたような声だった。
 先ほど、ジャンとの語らいを思い出して、笑顔を浮かべていた少女のものではない。
 知らない者が聞けば、これが本当に同じ人間の発している声なのかと疑いたくなるところだろう。

「かしこまりました、お嬢様……」

 ルネの言葉に、クロードは何の躊躇いも見せず上着のボタンを外す。
 胸元をはだけ、肩口をさらすと、立て膝をつくような形で腰を落とした。

 ルネの細く白い手が、露わになったクロードの肩にそっと置かれた。
 色白の指が絡みつくようにして肩を押さえ、ルネはクロードの首筋に唇を這わせる。

 唇が触れる温かい感触が伝わった瞬間、クロードの首筋に鋭い痛みが走った。
 だが、刺す様な痛みは一瞬だけで、すぐに全身の感覚が麻痺してゆくような高揚感が身体を駆け巡る。

 自分の身体を流れるものが吸い出されてゆく感覚に身を委ねながら、クロードは事が終わるまで、始終ルネにその身を任せていた。
 やがて、ルネが彼の首筋から口を離すと、何も言わずにハンカチを取り出して首元を押さえる。

「渇きは治まりましたか、お嬢様……」

 首元に残る微かな痛みを感じながら、クロードはルネの方に向き直って言った。
 その言葉に、ルネも無言で頷く。
 彼女の口からは、クロードの首から啜ったと思しき鮮血が雫になって垂れており、それが一筋の赤い線を描いていた。