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599 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:28:42 ID:26hAdXll
 屋敷の外から聞こえる雨音と、衣服を脱ぐ音だけが部屋に響く。
 呆気にとられるジャンを他所に、クロードは次々と着ている服を脱ぎ、椅子にかけてゆく。
 胸元に巻きつけていた晒のような布もとり、最後は下着さえも脱ぎ去って、一糸まとわぬ姿となる。

「あ、あの……」

 突然のクロードの奇行に、ジャンは言葉を失って立ちつくすしかなかった。
 だが、彼が言葉を失ったのは、何もその行動に対してだけではない。

 自室に客人を連れ込んで、前置きもなしに衣服を脱ぎ去る。
 知らない者が聞いたら変な誤解を生みそうな行為だが、それ以上に、ジャンは衣服の下から現れたクロードの身体に釘付けとなった。

 ルネほどではないにしろ、その肌は白く美しい。
 均整の取れた体つきも相俟って、見る者を魅了しないかと言えば、それは嘘になる。

 そして、何よりもそれ以上に特異だったのが、クロードの胸元にある二つの膨らみだった。

 その顔立ちと声色からして、彼は間違いなく男性である。
 少なくとも、ジャンは今までそう思っていた。
 現に、生まれたままの姿となったクロードの下半身には、列記とした男性器の姿が見て取れる。

 しかし、その一方で、彼の胸は女性のそれを思わせるほどに、柔らかな膨らみを帯びていた。
 決して大きくはないが、形の取れた二つの乳房。
 晒布で締めつけていたこともあり、服の上からでは気づかなかった。
 が、一切の縛めを解かれた今、胸元だけ見れば、彼の身体は間違いなく女性のそれだった。

「もう、おわかりでしょう、ジャン様……」

 躊躇いも恥じらいもない、鋭く刺すような視線。
 裸体をさらしているにも関わらず、クロードはまったく臆することなくジャンに語りかける。

「私は『ふたなり』なんですよ。
 生まれた時は、自分のことを純粋な男だと思っていましたがね。
 大人になるにつれて、胸元が女性のように大きく膨らみ……果ては、女性特有の月の物まで始まるようになりました」

「月の物って……。
 それじゃあ、君は……」

「ええ。
 私は生まれつき、男の身体と女の身体を併せ持っていたのです。
 ここからでは見えませんが……女性が子を作り、育てるための場所も持っております。
 その一方で、男としてのそれも、何ら問題なく機能しますが……」


600 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:29:58 ID:26hAdXll
 自分の下半身に目を落としつつ、クロードがどこか憂いを帯びたような口調で言った。

 両性具有。
 またの名を、ふたなり。

 父の持っていた医学書からの知識で、ジャンもそういった人間がいることは知っていた。
 が、実際に目の前にするのは初めてであり、やはり驚きを隠せない。

 男でありながら、同時に女の身体も併せ持って生まれてきてしまったという事実。
 それを知った時、目の前の男は、どれほど深く苦悩したことだろうか。
 今までは純粋な男だと思っていた自分の身体が、徐々に異質な物へと変貌してゆく様。そのことに、どれほど震え、また怯えたことだろうか。

「先ほど、ジャン様にはお話したはずです。
 御主人様は、人を容姿で判断するような狭量な御方ではないと」

「あ、ああ……。
 確かに、君に言われると……そう納得せざるを得ないかな……」

「御主人様はお優しい方です。
 現に、私のような者でさえ、こうして召し抱え……果ては、執事長という役職まで下さるのですから……。
 人として扱われず、周りからは化け物と呼ばれてきたようなこの私に、生きる意味を与えて下さったのですから……」

 己の裸身をさらしたまま、クロードは胸元に手を添えて静かに言った。
 その言葉に、何も返すことができないまま、ジャンは茫然と立ち尽くしている。

 生まれながらにして、人とは異なる肌や瞳を持ってしまった少女、ルネ。
 そして、その身体が大人に変わるにつれて、男でも女でもない存在となってしまった青年、クロード。

 医者である自分でさえ、ともすれば彼らに好奇の眼差しを向けかねないとも限らない。
 ならば、医学的知識もない一般の者からすれば、彼らの姿は正に異端者だ。
 下らない、迷信じみた差別に振り回され、彼らは今までも周囲の冷たい視線に耐え続けてきたのだろう。

「ジャン様。
 これは、私の御主人様からのものではなく、私自身の願いです」

「あなた自身の?」

「はい。
 私にとっての生きる意味とは、生涯をかけて御主人様に尽くすこと。
 お嬢様が養女になられてからは、その尽くす対象に、お嬢様も含まれるようになりました」


601 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:31:26 ID:26hAdXll
 迷いのない真っ直ぐな瞳と、真っ直ぐな言葉だった。
 異端者として忌み嫌われてきたクロードを、テオドール伯は何の偏見もなく召し抱え、その側へと置いた。
 その事実がクロードに、伯爵への極めて深い忠誠心を抱かせているのはジャンにもわかる。

「昨晩、お嬢様はジャン様のことをお話された際、珍しく笑顔になられたのです。
 普段であれば、決して笑うことなどないお嬢様が、ジャン様の話をされた時だけは、天使のような笑顔を浮かべたのです」

「天使って……。
 そんな、大袈裟な……」

「いえ、大袈裟などではございません。
 現に、私も今までお嬢様に尽くして参りましたが……あのような笑顔を見たことは、一度たりともなかったのです」

 最後の方は、少し残念そうな口ぶりだった。
 恐らく、ルネとてクロードに感謝していないわけではないのだろうが、それが彼女の笑顔に繋がるかと言われれば、必ずしもそうとは言い切れない。
 もっとも、己の職務に忠実になり過ぎるあまり、冗談の一つも言えないであろうクロードが、人を笑わせることができるなどとは考え難いということもあるが。

「今一度、無理を承知で申し上げます、ジャン様。
 お嬢様の、お話し相手になっていただけませんか。
 例えそれが、御主人様の病が快方に向かう間だけのものだったとしても……お嬢様の笑顔のためであれば、私は地に頭をつけてでも頼み込む次第です」

「わ、わかったよ。
 わかったから、そう改まらないでくれないかな。
 それと……まずは、早く服を着た方が……」

 断ることなど、この状況では出来なかった。
 ただ、目の前で頭を下げるクロードに対し、ジャンは当たり障りのない言葉をかけて、その場を凌ぐだけだった。

 クロードが伯爵に心酔してしまう気持ちは、ジャンにもわからないではない。
 己の存在全てを否定されたクロードに、唯一手を差し伸べたのが、テオドール伯だったのだから。
 そして、そんな伯爵への強過ぎる忠義心は、伯爵の養女であるルネにも向けられるようになったのだろう。

 本当は、ルネとこれ以上の関係になりたいとは思わなかった。
 昨日、厨房で話をしたのは、単にその場に現れたルネに合わせただけのこと。
 今朝のリディの態度もあり、ジャン自身、この土地に自分を縛り付けるような枷を残すべきではないと考えていた。

 だが、目の前でこうも頼み込まれれば、ジャンとて断るに断れない。
 クロードの望みは実にささやかなものだったが、本人にとっては重要なものなのだろう。
 そして、それはジャンにとっても同様だ。

 気軽に頼みを引き受けた結果、別れの際にルネを傷つけることになりはしないか。
 彼女に深い喪失感を抱かせるのであれば、自分はあくまで行きずりの医者であるべきではないか。


602 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:32:20 ID:26hAdXll
 そんな考えも頭をよぎったが、クロードの刺す様な眼差しの前には、ジャンも彼の頼みを断る口実が見つからなかった。

 彼らは今まで、はみ出し者として辛い人生を送ってきたのだ。
 ここで自分がクロードの頼みを断れば、それこそ二人を傷つけることになるかもしれない。
 ルネも、そしてクロードも、己の奇異な姿故に、ジャンから拒絶されたのではないかと思うようになるかもしれない。

 結局、ジャンはクロードの頼みを聞き入れて、ルネの話し相手になる他になかった。
 無論、伯爵の病気が快方に向かうまでという条件付きではあるが、それでもクロードは納得してくれたようだった。

 自分は別に、同情からルネの話し相手を引き受けたわけではない。
 彼女に過度な期待を抱かせないよう、適度な距離を保ちながら接するように注意せねばならない。

 そう、自分の肝に銘じながら、ジャンは服を着直したクロードと共に部屋を出た。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 冷たい雨が、午後の街を濡らして行く。
 夕暮れ時には早すぎる時刻だというのに、灰色の空の下、街は入相の頃のように薄暗い。

 午後の仕事を一通り終えたリディは、宿場の自室で窓の外を眺めながら考えた。
 雨は未だ止む気配を見せず、憂鬱な気分だけが広がってゆく。
 夏の暑い盛りに降る雨ならばまだしも、冬の冷たく湿った雨は、どうにも好きになれない自分がいる。

 今朝、ジャンと食堂でした会話を思い出し、リディは頬杖をついたまま大きな溜息を洩らした。

 自分はなぜ、ジャンにあんな話をしてしまったのだろう。
 何の前置きもなくあんな話をすれば、ジャンが困ることなどわかっていただろうに。

(馬鹿だな、私……。
 あんな言い方したら、まるで私の方が、ジャンに甘えているみたいじゃない……)

 心の中でそんなことを呟いたが、ジャンに甘えたいというのはリディの本心でもあった。

 ジャンがこの街を訪れてから、早くも一週間と少しが経とうとしている。
 相変わらずこちらの気持ちは告げられないままだが、ジャンが自分の側にいる生活は、決して悪いものではない。

 だが、リディが望むものは、そんな中途半端な関係ではなかった。
 自分がジャンにとっての居場所になり、ジャンにこの街に留まってもらうこと。
 そして、最終的には自分にジャンの想いを告げ、幼き日の約束を果たすこと。

 そう、頭では理解していたが、やはり心の寂しさだけは埋められなかったのだろうか。

 もっと、ジャンの側にいたい。
 十年間、ずっと会えなかった分だけ、彼に自分を見てもらいたい。
 十年分の寂しさを、彼の胸で癒して欲しい。

 それらの想いが高まって、今朝はつい、ジャンに自分の弱い一面を見せてしまった。
 自分の寂しさをわかって欲しいという気持ちが先走り過ぎて、返ってジャンに気まずい思いをさせてしまった。


603 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:33:08 ID:26hAdXll
「はぁ……。
 この分だと、私……嫌われちゃったのかなぁ……」

 今朝の食堂にあった重い空気は、リディとて気づいていた。
 失敗したと思った時は既に遅く、ジャンはリディの言葉に何も答えてはくれなかった。

 今さらながら、自分の軽率な行動が悔やまれた。
 感情に任せて甘えた結果、返ってジャンを遠ざけてしまった。
 本当は、自分の方がジャンの居場所になってあげなければならないのに、それさえもできなかった。

 時間は無尽蔵にあるわけではない。
 今のまま無難な関係を続けていても、進展はまったく望めない。
 このままジャンとの距離が縮まらない内に、彼が自分の前から去ってしまうこと。
 それだけは、なんとしても避けねばならない結末だ。

「でもなぁ……。
 私がジャンのためにできることって、いったいなんだろう……」

 自分は別に、何か特別な力があるわけではない。
 知識ならばジャンの方が圧倒的に上であるし、ジャンが往診に通っている伯爵のように、富や権力に恵まれているわけでもない。

 結局、自分にできることは、ジャンのために快適な寝床と食事を用意することくらいだ。
 傍からすれば他愛もない、誰にでも出来ることに思われるだろう。

 だが、宿場の仕事とは、そもそも旅の人間の疲れを癒すところにある。
 ならば、自分がジャンのために精一杯仕事をすれば、それはジャンにとっての癒しにもなるのではないか。

「そうだよね……。
 私だって、ジャンのためにできること、あるはずだよね」

 外は未だ雨が降っていたが、リディの気持ちは少しだけ前に向いて動き出していた。
 一人でじっくりと考えたせいか、幾分か気持ちも落ち着いてきたようだ。

 今日はジャンのために、久しぶりに豪華な夕食を作ろうか。
 連日の往診で、ジャンとてきっと疲れているはずだ。
 少しでも美味しい物を食べてもらいたいというのは、リディの純粋な想いでもある。

「よしっ!
 そうと決まれば、行動開始よね。
 今日は久しぶりに、気合入れて夕食作るわよ!!」

 机を両手で軽く叩き、そのまま勢いをつけて立ち上がる。
 自分にできることは決して特別なことではないが、それでもジャンのことを癒してあげたいという気持ちだけは、誰にも負けないつもりだった。


604 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:34:00 ID:26hAdXll


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 夕刻が近づくにつれ、雨も幾分か小降りになっていた。
 窓辺を雫が流れ落ちるような激しさは既になく、ポツポツと、小さな水滴が窓に張り付いてくるだけである。

 この分であれば、夜にはこの雨も止むだろう。
 窓の外で、雨に濡れている木々の梢を見ながら、ジャンは少しほっとした。

 このまま夜半まで雨が続けば、必然的に夜は冷え込むことになる。
 リウマチを患っている伯爵にとっては、あまり好ましいことではないからだ。

「お茶が入りました、お嬢様」

 白磁の陶器が乗った盆を持ち、クロードが部屋へと入って来た。
 相変わらず、無機的な表情は変わらない。
 己の秘密をジャンに明かした時とは違い、その顔はいつもの冷静なそれに戻っている。

「ありがとう、クロード。
 では、お茶にしましょうか、ジャン様」

 目の前で紅茶を入れるクロードに簡単な礼を述べ、ルネがジャンに向かって言った。

 今、ジャンがいる場所は、他でもないルネの部屋だ。
 伯爵の娘の話し相手とはいえ、自分は流れ者の医者である。
 執事や女中が見張る中での会話になると思っていたが、ルネはあえて自分の部屋で話を聞きたいと申し出た。
 どうも、他人に見張られた状態で話を聞くのは、ルネにとって好ましいことではないらしい。

「では、ごゆっくりと……」

 紅茶を入れ終わったクロードが、ティーポットを乗せた盆だけを持って部屋を出た。

 そういえば、ジャンはこの屋敷でクロード以外の使用人と話をしたことがない。
 廊下を数人の執事や女中が歩いているのは見かけたが、ジャンと話をするのはクロードだけだ。
 そして、伯爵やルネと直接話をしているのも、クロードだけのように思われた。

 現に、今もクロードは、執事長という立場でありながら、ルネの部屋に自ら紅茶を運んできた。
 己の深い忠誠心故に、伯爵やルネの世話を可能な限り自分で行いたいという感情の現れなのだろうか。

 そんなクロードが、自分とルネが一つの部屋で二人きりになることを許す。
 普通に考えれば、これは理解し難いものがある。

 こちらを信用してくれているのか、それとも試しているのか。
 どちらにせよ、目の前の令嬢に失礼なことがあってはならない。
 ルネに非礼を働けば、それは即ち、ジャンの身の保証がなくなるということである。


605 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:35:06 ID:26hAdXll
「どうされました、ジャン様?」

 先ほどから何も言わずに黙り込んでいるジャンの顔を、ルネが覗きこむ様にして見る。
 相手の視線に気づき、ジャンは思わず咳払いをすると、少し慌てた様子でルネの方へ顔を向けた。

「えっと……。
 いや、ちょっと外を眺めていたんだ。
 少しは小降りになったとはいえ、まだ雨が止まないからね。
 このまま夜まで降り続いたら、伯爵の病気にも良くないと思ったんだよ」

「そうですわね。
 でも……私は、晴れの日よりも雨の日の方が好きですわ。
 真昼の日差しは、私にとっては、少しばかり意地悪ですから……」

「君の身体のことは、クロードさんから聞いたよ。
 でも、今はその話をするのはよそう。
 君だって、こんな話をするために、僕を部屋に招いたわけじゃあないだろう?」

「うふふ。
 お優しいのですね、ジャン様は」

 紅茶を一口だけ飲み、ルネはジャンに微笑みかける。
 以前、ジャンが初めて屋敷を訪れた時に、窓辺から不安そうにこちらを見降ろしていた顔ではない。
 厨房で出会った時もそうだったが、あの少女にこんなにも穏やかで純粋な笑顔が作れることが、ジャンは不思議でならなかった。

「それじゃあ、今日は何の話をしようか。
 君が聞きたいというなら、僕の旅した場所のことは、余すことなく話すつもりだよ」

「そうですね……。
 では、ジャン様。
 雨についてのお話など、お持ちでしょうか?」

「雨、か……。
 特にこれといって、珍しい話はないけど……」

「別に構いませんわ。
 私、雨が好きなんです。
 いつもは見慣れた庭の草木も、雨に濡れた姿を見ると、いつもより美しく思えるんです。
 雨露に濡れて装いを変えた花壇の草花を見ると、それだけで、草花の息吹を感じられる気がしますわ……」

 最後の言葉を言った時、ルネの視線は、どこか遠くを見つめるような視線になっていた。

 生まれながらにして日光に弱く、外の日差しの下を歩くことさえも許されない。
 その容姿故に外界から隔絶され、決して表の世界を知ることなく育った少女。

 それなのに、どうしてこうも、ルネは自然の変化を繊細なまでに感じ取ることができるのだろうか。
 恐らく、永きに渡り閉鎖された世界にいたことで、逆に感覚が鋭敏になっていたのだろう。
 四季折々の自然の変化、空気の流れ、そういったものの変化を、普通の人間よりも強く感じられるようになったに違いない。


606 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:36:41 ID:26hAdXll
 彼女は純粋だ。
 ルネの言葉を聞いたジャンは、改めてそう思った。
 その肌の色、髪の色と同じく、その心もまた穢れを知らない。
 人々の好奇の眼差しに怯えながらも、心の奥底にある、美しいものを愛でる感情は失われていない。

 だが、それ故に、ジャンはルネのことが少しだけ怖くもあった。

 彼女は周りの変化に敏感な人間だ。
 それはなにも、自然の変化だけとは限らない。

 自分と関わる他人の目、口調、そして放たれている空気から、自分がどう思われているのかを察知する。
 下手に気づかいを見せれば同情から話し相手になったと思われるだろうし、距離をとり過ぎれば、それは拒絶として受け取られる。

 クロードは、自分を信頼してルネの話し相手になって欲しいと申し出てくれた。
 だからこそ、自分はその期待に答えねばならない。

 いずれは街を去ることを考えると、ルネと深い関わりになることは避けたかった。
 が、すぐさまクロードの身体のことが頭をよぎり、その考えを否定する。
 あんなものを見せられては、ジャンも引くに引けなかった。

「それじゃあ、今日は僕が南西の山間部を旅した時の話をしようか。
 幸い……って言うのもおかしな言い方だけど、僕が訪れた時、そこは雨だった」

 もう三年、いや、四年ほど前の記憶だろうか。
 まだ父と共に放浪の旅を続けていた頃の話だが、ジャンはあえてそこは伏せて話を始めた。
 目の前で期待に溢れた眼差しを向けてくるルネに対し、不貞の父の話をすることなどは、あまりに無粋に思えた。

 あの日、自分が山間部の村を訪れた際、そこでは雨が降っていた。
 雨天の最中に山を歩くことは不快で仕方がなかったが、村に着いたことで、その苦痛からも解放された。
 そして、村で一晩過ごした翌日の朝、ジャンは森の広がる峡谷にかかった、大きな虹を見たのである。

 雨が美しい物を生みだすと知ったのは、この時が初めてだったように思う。
 それまでは、ジャンにとって雨など煩わしいだけの存在だった。
 こと、父と旅をするようになってからは、道中の雨に幾度となく悩まされてきた。
 その記憶があまりに強かっただけに、山と山を繋ぐ橋のようにして現れた虹は、ジャンにとって衝撃だった。

 淡々と話を続けるジャンの横で、ルネは食い入るような眼差しを向けながら、その話に聞き入っている。
 きっと、彼女の頭の中では、ジャンの話している場所の光景が、ありありと再現されているに違いない。
 一度も見たことのない場所でさえ、その豊かな想像力で頭の中に思い描き、感動を共有する。
 旅先で見た物の話を続けながらも、ジャンはそんなルネの姿に、やはり神秘的な何かを感じていた。


607 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第七話】   ◆AJg91T1vXs :2010/11/29(月) 07:51:52 ID:26hAdXll
「……で、そこの村には、ちょっと変わった伝説があってね。
 なんのことはない、子ども向けの御伽話なんだけど……そこに出て来る主人公の名前が、僕の名前と同じなんだ」

「まあ、そうですの?
 それでしたら……きっとその方も、ジャン様のようにお優しい方なのでしょうね」

「いや……。
 まあ、確かに気立ては良い人だとは思うけど……。
 でも、その話の中のジャンは、僕とは似ても似つかない怪力の大男だよ」

「見た目は関係ありません。
 例えその方が大男であったとしても、ジャン様と同じ御名前の方でしたら、お優しいに決まっています」

 まだ、話の最初すら口にしていないのに、ルネはジャンに向かってきっぱりと言い切った。
 その口調は丁寧かつ柔らかなものだったが、同時に自身に溢れた気丈さも併せ持っている。
 厨房で初めて話した時とは違い、もしかすると、これが彼女の本来の性格なのかもしれない。

 面と向かって自分のことを優しいなどと断言され、ジャンはどこかくすぐったいような気持ちにさせられた。
 自分の気持ちをはぐらかすようにして懐中時計に目をやると、既に時刻は夕食の時間に近づいていた。

「おっと、もうこんな時間か。
 残念だけど、今日はこの辺で御暇させていただくことにするよ」

「あら。
 もう、そんな時間になりましたの?
 もし、ジャン様がよろしければ、クロードに御夕食の用意をさせますのに……」

「いや、さすがにそこまでは甘えられないよ。
 僕だって一応は、お金を貰って仕事をしに来ているんだからね」

「そうですか……。
 では、ジャン様。
 続きは、また明日にでもお聞かせ下さい」

「ああ、そうさせてもらうよ。
 それと……その、ジャン様ってのは、やめてくれないかな?
 何度も言うようだけど、僕は行きずりの医者にしか過ぎないし……クロードさんからも、君とは友人のようにつき合うよう、言われているからね」

 去り際に、ジャンはルネに向かってそう告げた。

 ルネと初めて会った時に砕けた話し方をしたのは、相手を警戒させないための措置だ。
 しかし、クロードからルネの話し相手になるよう頼まれた後も、ジャンはルネと友人のような話し方をするよう努めていた。

 養女とはいえ、相手は伯爵の娘。
 普通であれば、そのような接し方はルネに対して非礼に値する。
 が、しかし、生まれながらにして人の目を気にして生きてきたルネにとって、身分も容姿も気にせずに話ができる相手は貴重だった。
 そのことを汲んだ上で、クロードはあえて、ルネと話す時は畏まらないようジャンに告げたのだ。

「わかりました。
 では、この次からは、ジャンと呼ばせていただくことにします。
 これでよろしいのでしょう?」

 部屋を出るジャンを笑顔で見送りながら、ルネは最後にそう言った。
 本当であれば、あの敬語混じりの口調もなんとかして欲しいところだったが、さすがにそこまでは要求できない。
 養女とはいえ、ルネも貴族の令嬢である。
 彼女の言葉の一つ一つに気品があることは、むしろ自然なことなのだから。

 帰りの馬車に揺られながら、ジャンはふと後ろを振り返った。
 細かい様子はわからなかったが、遠ざかって行く屋敷の窓辺から、こちらを見つめている確かな視線を感じたからである。