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60 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 07:58:43 ID:uJ5+ffLu
 朝方から降り続いていた冷たい雨は、今はすっかり止んでいた。
 空を覆っていた灰色の雲は姿を消し、その名残である残骸のようなちぎれ雲の間から、黄色い月が顔を覗かせている。

 乙夜の刻、宵闇の蚊帳が降りた街の宿場で、リディは独り窓に映る自分の影を眺めていた。
 消灯の時間は既に過ぎており、今は階下の宿泊客も眠りについている。
 そして、それは隣室にいるジャンも同様だ。

 窓に向かってほっと溜息をつくと、息のかかった窓ガラスが一瞬だけ白く曇った。
 腕の中に一枚の毛布を抱きしめて、リディは夕食時のジャンの様子を思い出した。

 今朝、自分はジャンの前で、迂闊にも亡くなった母親の話などをしてしまった。
 ジャンの中に自分の居場所を求めるあまり、返って彼に気を使わせることになってしまった。
 そして、その結果、ジャンは心なしか自分を避けているような気がしてならない。

 今日、夕食を食べていた時も、ジャンは必要以上に自分と関わろうとはしなかった。
 他愛もない会話の一つや二つは交わしたものの、話を始めるのは常にリディの方である。
 ジャンは決して自分から語らず、リディの話を聞くだけに徹していた。
 いつにも増して力を入れて夕食を作ったのに、向こうから感想を述べるようなこともしてくれなかった。

 やはり、今朝のことで、自分はジャンに嫌われてしまったのだろうか。
 だとすれば、どうしたらジャンは、自分のことを許してくれるのだろうか。

(折角、ジャンが帰って来てくれたのに……。
 これじゃあ、今まで頑張ってきたことも、全部無駄になっちゃうよ……)

 そもそも、ジャンが自分のことを嫌っているかどうかなど、実際には断言できないことである。
 生真面目な彼のこと、単にこちらに気を使い、不要なことを言わないようにしているだけかもしれない。

 だが、このまま何の進展もないままに時だけが過ぎて行くことは、リディにとって耐えがたい苦痛だった。
 相手がすぐ側にいるのに、決して手を触れることのできない現実。
 それがリディの不安を必要以上に膨らませ、想像を悪い方へと働かせてしまう。

「ジャン……。
 どうすれば、あなたは私を見てくれるようになるの……?」

 誰に言うともなく、ぽつりと呟くようにして零すリディ。
 ジャンがこの街に来て、リディの宿場で居候のような生活を続けて既に一週間と少しの時間が過ぎ去った。
 その間、当然のことながら、ジャンがリディのことを女として意識したようなことはない。


61 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:00:07 ID:uJ5+ffLu
 十年前、まだお互いに幼い子どもだった時と比べ、ジャンは立派な大人になって帰って来た。
 だが、大人になったのは、なにもジャンだけではない。
 リディもまた、この十年で大きく成長したことは、最早言うまでもないのだから。

 大人になったジャンは、リディが思い描いていた以上に素敵な男性だった。
 少なくとも、リディ自身にはそう思えた。
 ならば、そんなジャンに、自分のことも見てもらいたいというのは我侭だろうか。
 大人になった自分を、大人の女として見て欲しいというのは、独りよがりな願望なのだろうか。

「ジャン……。
 あなたはやっぱり、この街が嫌いなのかな。
 この街も、この土地も……それに、私も……」

 答える者などいないはずなのに、口が勝手に言葉を発していた。
 何かを言い続けていないと、それだけで不安に押し潰されそうになって怖かった。

 すぐ隣には想い人が寝ているというのに、自分は指一本さえ触れることができない。
 まったくもって、運命の女神とは意地が悪いとリディは思う。
 どれほどジャンと同じ場所にいられたとて、このままでは単なる生殺しだ。

 腕の中にある毛布を抱きしめ、慈しむ様にして顔を埋めた。
 そっと息を吸い込むと、毛布からはほのかに男の香りがした。

 昼間、ジャンのベッドのシーツと毛布を取り替えるという名目で、リディは部屋にあった毛布を持ち出した。
 代わりの毛布は置いてきたので、ジャンが寒さに震えるようなことはない。
 が、夕刻まで続いた雨のせいで、シーツと毛布を干すのは翌日に回す他なかった。
 リディの手元にあるのは、そんなジャンの使っていた毛布である。

 本当は、いけないことだとわかっていた。
 自分の立場を利用して、ジャンの使っていたものを手に入れる。
 もし、これがジャンに知られれば、自分はますます嫌われてしまうかもしれない。

 しかし、そんな理性とは反対に、リディは自分の感情と行動を抑えることができなかった。
 今まで我慢をしてきた分、とうとう想いが外に溢れ出てきてしまったと言った方が正しいか。

「ん……ふわぁ……。
 ジャンの匂いだ……。
 暖かくて優しい……それに、懐かしい匂い……」

 毛布に染みついた香りを吸い込むたびに、リディは自分の脳がとろけそうになるのを感じていた。
 旅を続けていたために変わってしまった部分もあったが、本質的には何も変わらない。
 昔、この街で一緒に過ごしていた時と同じ、優しいジャンの空気がそこにあった。

 まるで、ジャンの代わりとでも言わんばかりに、リディは毛布を固く、きつく抱きしめる。
 ほんの少しでもジャンを感じられるものが側にないと、心が不安に負けてしまいそうになる。


62 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:01:07 ID:uJ5+ffLu
 柔らかく温かい毛布を抱きしめている内に、いつしかリディの手は寝衣の中に伸ばされていた。
 自分の敏感な部分に指で触れると、そこが微かに湿っているのを感じた。

 もう、これ以上は我慢できない。
 寝衣として身につけていたネグリジェを脱ぎ捨て、リディは一糸纏わぬ姿となる。
 その胸元に、ジャンの香りの残る毛布を埋め、露わになった胸に自分の手を這わせた。

「あっ……んぅっ……」

 押し殺そうとしても、自然と声が出てしまう。
 一度身体が求めてしまうと、もう自分ではどうすることもできなかった。

 母を亡くし、この宿場を一人で切り盛りせねばならなくなった時から、リディは寂しさに負けそうになると、ジャンのことを思い出して自分を慰めていた。
 しかし、今日のそれは、今までのものとは違う。
 毛布から伝わるジャンの温もりを感じながら手を動かすことで、今までになく気持ちが高ぶっている自分がいる。

 毛布の端を胸に被せ、その上から手を添えるような形で、リディは自分の胸を揉みしだいた。
 想い人の匂いに包まれた毛布の上から手を触れることで、まるでジャンに触れられているかのような錯覚に陥ってくる。

「んっ……くぅっ……はぁっ……」

 段々と、呼吸が荒くなってくるのが自分でもわかった。
 毛布の下で、二つのふくよかな膨らみが、大きく左右に揺れ動く。
 その膨らみは、細く、小さな指からなるリディの手には収まりきらず、毛布で包まねば零れ落ちてしまいそうだった。

 大人になったのは、ジャンだけではない。
 十年という歳月の間に、リディもまた一人の少女から大人の女性へと変わっていた。

 そんな自分自身を、ジャンに余すところなく見てもらいたい。
 大人になった自分の全てを、ジャンにしっかりと受け止めて欲しい。

「ジャン……。
 もっと、私を見て……。
 大人になった……私を見て……」

 壁一枚隔てた向こう側には、自分が想いを寄せるジャンが眠っている。
 このまま声を出し続ければ、ジャンに気づかれてしまうかもしれない。
 自分の行為がジャンに知られ、ますます疎遠な態度を取られるかもしれない。

 そう、頭ではわかっていても、溢れ出る想いは止められなかった。
 いや、むしろ、ジャンに聞こえてしまうかもしれないという現実が、返って背徳的な刺激となってリディを昂奮させていた。

「――――っ!!」

 動き回っていた自分の指が、胸の上にある敏感な部分に触れた。
 毛布の上から触れているにも関わらず、二つの突起は僅かな刺激にも反応するくらい敏感になっていた。


63 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:02:06 ID:uJ5+ffLu
 最早、胸を弄ぶくらいでは耐えられない。
 胸元から腹にかけて広がった毛布を伝わせるようにして、リディは右手の指を、そっと下へ伸ばしてゆく。
 そろそろと、それでいて迷いのない動きで、自分の最も敏感な部分へと指を伸ばす。

「んんっ……」

 指先が触れたとき、そこは既に十分過ぎる程濡れていた。
 少し指を這わせただけで、痺れるような快感がリディを襲う。
 ジャンの毛布を抱いていることで、いつも以上に感覚が過敏になっていた。

 自分の秘所へと指を滑り込ませ、リディはそれを中で激しく動かした。
 深夜、自分の他は誰もいない、音の無い世界だからだろう。
 そこまで大きな音ではないにも関わらず、自分の身体が生む厭らしい音が、リディの耳にもはっきりと聞こえた。
 吐き出される欲望の証がシーツを濡らし、ジャンの使っていた毛布もまた濡らしてゆく。

「あっ……はぁっ……やぁっ……だめっ……!!」

 ジャンに聞かれてしまうかもしれないという考えは、既に頭の中から消え去っていた。
 身体が命じるままに手を、指を動かし続け、波のように襲ってくる快楽に身を委ねて声を上げた。

「ジャ、ジャン……。
 私……私……」

 絶頂が近づき、リディは思わずジャンの名を叫んで毛布をつかんだ。
 その端を口に咥え、一瞬、眉根を寄せて身をよじる。

「はぅっ……んんぅぅぅっ!!」

 ジャンの残り香が口いっぱいに広がったところで、リディは自分の身体に電気が走ったような感覚に襲われた。
 そのまま指を動かし続け、怒涛の如く押し寄せる快感に身を任せて一気に果てた。

「はぁ……はぁ……」

 今まで溜まっていた欲望を全て吐き出したことにより、リディは自分の頭が少しずつ冴えてゆくのを感じていた。
 未だ、頭の一部はぼんやりとした感覚が残っていたが、それでも意識は鮮明だ。

(ジャンの毛布……汚しちゃったな……。
 明日、晴れたら洗濯しなくちゃね……)

 本当は、洗濯などしなくない。
 洗って日に干せば、それだけでジャンの匂いが失われてしまう。
 もっとも、このまま自分の欲望の痕を残したまま、ジャンに毛布を使ってもらうわけにもいかないが。

 仕方なく、リディは起き上がって寝衣を着ると、事の終わった後の毛布にくるまって眠りについた。
 明日、この匂いが消えてしまうのであれば、せめて今夜はジャンの温もりに包まれて眠りたい。
 毛布に残ったジャンの匂いを感じながら、ジャンに抱かれる夢を見ていたい。

 空は、いつしか雲がなくなり、月が完全にその姿を現していた。
 青白い月光に照らされながら、リディはジャンの毛布で体を包み、一時の幸せを噛み締めていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




64 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:02:53 ID:uJ5+ffLu
 代わり映えのしない日々ほど、月日の流れるのは早く感じられるのかもしれない。

 ジャンが故郷の街に戻ってから、早くも二週間ほどの時が流れようとしていた。
 極月の頭に差し掛かり、今年も残すところ後一月もない。
 伯爵の病も、徐々に快方に向かっている。

 自分がこの街を離れるのも、そう遠い日のことではないとジャンは感じていた。
 年の暮を名もなき土地で過ごすのは少しばかり寂しかったが、辛い思い出のある生まれ故郷で過ごすよりはマシである。

 それに、自分の父を異端者扱いし、自分諸共この街から追放したのは教会の力も大きい。
 ジャンは無神論者というわけではなかったが、こと、この街において、教会の鐘を聞きながら聖夜を過ごす気持ちにはなれなかった。

 今日もまた、迎えの馬車がジャンのいる宿場へとやってくる。
 丘の上の伯爵の家に往診に行き、病気の経過を診て症状にあった薬を煎じる。
 そして、その後はルネの話し相手となり、彼女に旅先で見たものや聞いたものなど、自分が体験してきた様々なことを話す。

 多少の変化はあったものの、この街に帰ってきてから、特に代わり映えもなく続いている日常だ。
 何も知らない者から見れば、ジャンが流浪の医師であり、この街に対して複雑な感情を抱いたまま過ごしていることなどは、想像もつかなかったに違いない。

 だが、そんな平穏な日常においても、ジャンは己の立場というものを考えずにはいられなかった。

 あの日、リディが彼女の母親の話をした時から、ジャンはリディと少しばかりの距離を取って生活していた。
 いずれは街を去るであろう自分は、リディの心の拠り所になどなれはしない。
 それに、彼女に不要な期待を抱かせて、妙な依存心を煽ってしまうのも憚られた。

 一方、テオドール伯の娘であるルネに対しても、それは同様だった。
 クロードはジャンにルネの話し相手になるよう頼んだが、それとて伯爵の病が快方に向かうまでの、ほんの一時のことでしかない。
 過剰にルネを喜ばせて別れを辛いものにするのは気が引けたし、下手な同情心を向けて、後で裏切られたと思われるのも嫌だった。

 それに、何よりもジャンは、ルネの純粋さに惚れ込みそうになる自分がいることに気づいていた。
 無論、そんなことは叶わぬ夢である。
 身分の違いもさることながら、ジャン自身、自分はルネとは違い、酷く穢れた存在であると感じていたからだ。


65 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:03:29 ID:uJ5+ffLu
 生まれながらにして他者とは異なる異質な容姿を持ちながら、その心だけは純粋なものを忘れずに生きてきたルネ。
 その一方で、不貞の父を持ち、その穢れた血筋を引き継いで、親子共々街を追い出された自分。

 異端とされた理由には、二人とも己自身に責任があるわけではない。
 が、しかし、自分とルネでは、あまりにも流れている血に違いがあり過ぎるとジャンは考えていた。
 純粋な心を持った貴族の令嬢と、不貞の父を持った旅の医者では、比べるまでもない。

(結局、僕は行きずりの医者でしか過ぎない。
 その場で苦しんでいる人を助けることはできても、それから先、誰かの支えになることなんて、出来はしない……)

 その日の診察を終えた後、ふとそんな考えがジャンの頭をよぎった。
 今までも、旅の途中で訪れた街や村を離れた時に、同じ想いに駆られたことがある。

 結局、自分がしているのは、偽善としか言えない行為なのだ。
 その辺の野良犬や野良猫に、気まぐれで施しを与えるのと同程度の行い。
 どれほど立派な医師であろうとしたところで、流れ者である自分にできるのは、その程度のことである。

 クロードは、ルネとは友人のような対等の関係になるよう望んできた。
 ルネ自身もそれを望んでいる節はあったが、それでもジャンは、彼女に自分自身のことを話すのだけは避けてきた。
 己の内面は一切語らず、あくまで旅先で見たものと聞いたことだけを伝える。
 そうすることでしか、今のルネと適度な距離を取る方法が見つからなかった。

 帰り際、ルネはいつも、伯爵邸の窓辺から去り行く馬車を眺めている。
 その姿を頭に思い描いただけで、ジャンは自分の心が痛んで仕方がなかった。

 これ以上、ルネに近づいてはならない。
 また、リディに対しても、居候の関係以上になってはならない。
 なぜなら、自分は彼女達の拠り所になれるような、懐の深い男ではないのだから。

 丘の上の屋敷から街まで続く一本道を、馬車を引く馬の蹄が規則的に叩く。
 時折、砂利を踏むような音を混ぜながら、夕暮れ時の街に向けて馬車は丘を下って行く。

 この生活は、あくまで一時のものなのだ。
 それが終われば、自分はまた当てのない旅に出る。
 そして、この土地に戻ることは、恐らく二度とないだろう。

 行きずりの人間として、あくまで他者とは一定以上の距離を取り続けること。
 それこそが自分の生き方として正しいものだと、少なくとも、この時のジャンはそう思っていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




66 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:04:14 ID:uJ5+ffLu
 冬が訪れると、この土地では曇天が続くことも珍しくない。
 日が短いことも相俟って、丘と街を覆う空気も冷たさを増してくる。
 どんよりと曇った空には月明かりは勿論のこと、星の瞬き一つ見えることはない。

 丘の上の屋敷からは、街の灯りが良く見えた。
 晴天の刺すような日差しに比べ、夜の街を照らす灯りは、自分にとっても暖かいものだとルネは思う。

 この季節、陽射しが強くないことは、ルネにとっては好ましい。
 ところが、こと最近に至っては、曇天の空が自分の気持ちを代弁しているかのようで煩わしかった。
 強い日差しは自分にとって毒だとわかっていても、灰色の空を見ていると、それだけで憂鬱な気持ちにさせられてしまう。

 冬の雨と風、それに日の射さない日々が続くことが、養父であるテオドール伯の病を悪化させるということは言うまでもない。
 しかし、それ以上に、ルネは自分の中に一抹の不安を抱いて過ごすことが嫌だった。

 ジャン・ジャック・ジェラール。
 養父の主治医としてこの屋敷を訪れたその青年は、自分の容姿や出生に関係なく、実に気さくに接してくれた。
 クロードに頼まれてのことではあったが、自分の話し相手にもなってくれた。
 そして、なによりも、彼はこんな自分の姿を見て、何ら恐れることもなく話しかけてくれた。

 最初の内は、互いに単なる好奇心だったのかもしれない。
 ジャンはルネの容姿に、ルネはジャンの話に、それぞれ興味と関心を抱いていた。
 そんな関係だった。

 だが、ジャンの話を聞いている間に、ルネは自分の中で、ジャンの存在が大きなものになっているのを感じていた。
 その一方で、ジャンが決して自分のことを語らずに、ルネ自身と距離を取ろうとするのも気になった。

 自分はこの容姿故に、理由なく疎まれ、忌み嫌われてきた。
 自分を他の人間と同じように扱ってくれたのは、養父やクロードだけだった。

 養父であるテオドール伯の性格は、ルネもよくわかっている。
 気難しそうな顔をしているが、彼は人を見た目で判断することをしない人間だ。
 そして、身寄りのないルネに手を差し伸べるだけの、懐の深さも持っていた。

 クロードに関しては、最早言わずもがなである。
 彼は、その特異な身体故に、ルネのこともまた差別と偏見の眼差しで見るようなことをしなかった。
 その上、彼の伯爵に対する忠誠心は極めて強く、それはルネ自身にも向けられている。
 そんな彼が、ルネの不快に思うようなことを口にするはずもない。

 自分は愛されている。
 決して万人に好かれているというわけではないが、自分の側には娘として可愛がってくれる養父も、どんな願いでも聞き入れてくれる使用人もいる。
 そう、頭で理解しようとしていたが、ルネはその先に更なる愛情が欲しかった。

 同情や慈愛、それに忠誠心などではない。
 他者とは異なる容姿にとらわれず、自分の内面を見据えた上で、それでも無条件に愛してくれる者が欲しかった。

「ジャン……。
 あなたはどうして、私の前に現れたのですか……」


67 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:23:38 ID:uJ5+ffLu
 細い指で窓ガラスを撫でると、夜露に濡れた窓に一筋の線が生まれた。

 ルネにとって、ジャンは初めて自分のことを恐れずに接してくれた人間だった。
 伯爵やクロードもそうだったが、ジャンの存在は、身内のそれとは決定的に違う。

 初対面の、しかも明らかに異質な容姿をした者に対し、何ら臆することなく話をする。
 その上、クロードから身体や出生の秘密を聞いたにも関わらず、彼は何の偏見も持たずにルネと話をしてくれた。

 そんなジャンだったからこそ、ルネもまた自分の内なる姿を躊躇いなくさらけ出すことができた。
 無論、一度に全てを見せるわけにはいかなかったが、少なくとも、他の人間には決して見せないような笑顔を意識せずに出すこともできた。

 それだけに、ここ最近のジャンの様子は、ルネにとっても気がかりだった。

 ジャンは明らかに、ある一線を越えることを躊躇っている。
 自分のことは決して語らず、あくまで旅先で見たものの話しかしない。
 ルネが望むものは何でも話してくれたが、ジャン自身のことについては、まったく話してはくれなかった。
 こちらから尋ねてみたこともあるが、その時も、適当に話を逸らされて終わってしまった。

 ジャンは、自分に差別と偏見の眼差しを向けるような人間ではない。
 では、なぜこうまでして、ジャンは己の内なる部分を語ろうとはしないのか。
 それがルネにはわからなかった。

 このまま、今の距離を保ったまま、ジャンはこの屋敷を去ってしまうのだろうか。
 致し方ないことと知ってはいても、やはり受け入れられない自分がいる。

「失礼いたします、お嬢様……」

 そこまで考えた時、戸を叩く音にルネは自分の意識を現実に引き戻した。
 あの声は、クロードのものだ。
 こんな夜更けに彼が訪れる理由。
 それは、ルネも十分にわかっている。

「入りなさい、クロード」

 扉の向こう側にいる者だけに聞こえるよう、ルネは決して大きくはない声でクロードを招き入れた。
 金具の擦れるような音がして、クロードがルネの部屋に入って来る。

「お嬢様。
 今宵の御加減は、いかがでしょうか?」

「少しだけ、喉が渇いていますわ。
 まだ、当分は我慢できると思いますけど……」

「そうですか。
 しかし、遠慮されることはありません。
 衝動が抑えきれなくなってからでは、手遅れになる可能性もあります故に……」

「そうですわね。
 でも、あなたは大丈夫なのですか?
 ここ最近、随分と私の渇きを癒してくれていましたけど……」


68 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:24:26 ID:uJ5+ffLu
 ルネの赤い瞳が、不安そうな表情でクロードを見る。
 彼の身体のことを考えると、ここで自分の欲望のままに、クロードの首筋に口をつけるのは躊躇われた。

 定期的にルネを襲う、耐え難いほどの渇き。
 それは時に激しい衝動となって、生きている人間の血を求めた。

 本来であれば、月に二度ほど血を啜れば衝動も納まっていた。
 が、しかし、ここ最近に至っては、三日に一度の頻度で血を口にせねば満足できない自分がいる。
 一度に飲み干す血の量こそ減ったものの、回数そのものは増えている。
 結果としてクロードからもらう血の量が劇的に増えたわけではなかったが、それでも、こう間を開けずに血を求め続ければ、今にクロードの身体が持たなくなるのではないかと思ってしまう。

「私のことなら、心配は不要です」

 薄暗がりの中、クロードは表情一つ変えずにルネに告げた。
 やせ我慢などではなく、きっとそれは本心なのだろう。

「ありがとう、クロード。
 では、今宵もあなたの血で、渇きを癒させてもらうことにしますわ……」

 胸元をはだけ、露わになったクロードの首筋に、ルネはそっと唇を這わせて歯を突き立てた。
 流れ出る鮮血をこぼさないように気をつけつつ、それを丁寧に吸ってゆく。

 喉の奥を、鉄のような匂いのする液体が通り過ぎるのがわかった。
 いつもであれば、それだけでも十分に満ち足りた気分になる。
 だが、今日はいくら血を口にしても、ルネの中にある渇きを完全に抑えることはできそうになかった。

「どうされました、お嬢様」

 いつもより早くルネが口を離したことで、クロードは訝しげな顔をして後ろを振り返った。

 この数日間、初めは遠慮をしているのかと思ったが、やはり違う。
 ルネは他人の血だけではなく、何か別のものを求めている。
 それが、彼女の身体を襲う渇きと相俟って、衝動が生まれる周期さえも不安定なものにしている。
 確信はなかったが、クロードにはそんな気がしてならなかった。

「ごめんなさい、クロード。
 でも、駄目なのです。
 どれほどあなたの血を飲んでも、渇きが満たされなくて……」

「なるほど。
 やはり、そういうことですか。
 どうやらお嬢様は、私の血の他にも欲しているものがあるようですね。
 それが、お嬢様の内なる衝動と重なって、執拗なまでに渇きを覚えさせている……。
 そういうことではないでしょうか?」


69 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第八話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/06(月) 08:25:16 ID:uJ5+ffLu
「私に……欲しているものが?」

「ええ。
 ですが、それは私の口から申し上げるものではありません。
 お嬢様自身、既にお気づきのはずであると思われますが……」

 クロードの言葉に、ルネは無言のまま自分の胸に手を置いた。
 自分の心の奥底で、自分が求めているものは何か。
 そんなことは、聞かれるまでもなく明らかだった。

 自分が心の奥底で求めているもの。
 それは紛れもない、あのジャンだった。
 つい先ほど、クロードの血を啜っていた時でさえ、自分はジャンの血を啜っている想像に駆られていた。

 間違いない。
 自分はジャンを求めている。
 だが、向こうがルネのことをどう思っているのか、それはまだわからない。

 今までも、ジャンはルネに可能な限り、気さくに接するよう努めてくれた。
 だが、その一方で、決して己の内面を語ろうとはしなかった。

 自分はまだ、どこかで信用されていないのではないか。
 そんな不安が頭をよぎるが、すぐに今しがたの行いを思い起こして首を振る。

 秘密があるのはジャンだけではない。
 ルネとて、その心の内に仄暗い秘密を抱えている。
 定期的に襲ってくる衝動を満たすため、他人の血を啜らねば生きていけないという深い闇を。

 このことがジャンに知られたら、さすがに彼も自分を恐れるに違いない。
 その容姿だけでなく、行動までもが異質な存在であると知られたら、ジャンとてルネを受け入れることはないだろう。

 自分の秘密は、決してジャンに知られてはならない。
 しかし、ジャンのことを考えると、この衝動を抑える術が見つからない。

 己の内なる衝動に怯えながら、ルネは何も言わずにクロードを返した。
 今に感情を抑えきれなくなり、自分が自分でなくなるのではないか。
 一度そう思うと、それだけで体が震え、怖かった。

(ジャン……助けて下さい……)

 目の前のガラス窓が、ルネの目にぼんやりと曇って映った。
 赤い瞳から流れ落ちた雫は、その瞳の色とは反対に、実に清らかな輝きを持ってルネの足元へと舞い降りた。