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133 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:23:44 ID:C6YpgTjh
 その日の街には、いつになく冷たい空気が降りていた。
 曇天の空と、丘からの冷たい吹き下ろしは言うまでもなく、今日はおまけに霙まで降っている。
 雨だけでも相当に煩わしいものだったが、霙ともなれば、街が更に冷え込むというのは言うまでもない。

 宿場から外に出ると、雨とも雪ともつかないべたついた塊が、ジャンの頬と頭に降りかかった。
 それらを難なく片手で払い、ジャンは迎えの馬車へと乗り込んだ。

「今日は寒いね。
 あんまり遅くなると、風邪をひくかもしれないから気をつけてね」

「ああ、大丈夫だよ。
 君こそ、あまり無茶して体を壊すようなことないようにね」

 見送りに出てきたリディと簡単に言葉を交わし、ジャンはクロードに馬車の扉を閉めるように言った。
 馬車が出る準備が整うと、リディは少しだけ寂しそうな顔をしてジャンを見る。

 正直なところ、この見送りに対して、ジャンは複雑な気持ちだった。
 リディが自分に対して向けて来る視線。
 その向こう側にどうしても、あの雨の日の瞳を思い浮かべてしまうのだ。
 母を亡くし、一人で頑張って生きてきたことに対する寂しさを、ジャンに埋めて欲しいと願うような瞳を。

 彼女の甘えを許してはならない。
 この土地に腰を下ろすつもりのない自分にとって、他者との過度な関わりは余計なしこりを残す。
 リディに対しても、そしてルネに対しても、自分はあくまで一人の旅の医者であり続けなければならない。

 蹄の音と共に宿場が遠ざかり、ジャンとクロードを乗せた馬車が丘の屋敷へと向かう。
 霙を乗せた風は馬車の中にまで入ってこなかったが、それでもジャンは、空気そのものが妙に湿っているような気がしてならなかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




134 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:24:43 ID:C6YpgTjh
 空から落ちる霙の粒が、宿場の窓ガラスに降り注ぐ。
 ガラスに張り付いたその塊は、室内の熱気に当てられ瞬く間に水滴と化す。

 部屋の掃除と片付けを済ませながら、リディはふと、厨房に置かれていたカップに目をやった。
 ジャンが出掛けに飲んで行ったコーヒーが、底に少しだけ残っている。
 どさくさに紛れて洗ってしまわなかったのが幸いとばかり、リディはそれを恐る恐る手に取った。

 カップを口につけ、リディは感情の求めるままに、中に残っていたものを注ぎ込む。
 酒場の店主や妻もその場にいなかったため、思いの他、行動が大胆になっている。

 ゆっくりと香りを味わうようにして、リディは飲み残しのコーヒーを口に含んだ。
 ほろ苦い、それでいて酸味のある味が、口の中に広がってゆく。
 いつも入れているコーヒーと同じ味なのに、不思議と甘い感じがした。

「んっ……ふぅ……」

 口の中にあったものを全て飲み干して、リディはほっと溜息をつく。

 あの日、ジャンの毛布で自分を慰めてから、リディの気持ちはむしろ強くなっていった。
 それこそ、部屋の掃除の際に持ち出したジャンの枕やシーツなどを使い、夜な夜な自分を慰めた。
 今日のように、ジャンの飲み残した僅かなコーヒーでさえも、捨てるのが惜しくて自分で飲んだ。

 こんなことをしても、何も変わらないということはわかっている。
 だが、そうでもしなければ、自分の気持ちを抑えられそうにもない。

 母の話をしたあの日から、リディはジャンに避けられていると感じていた。
 寝床と食事に感謝の言葉こそ述べてくれるものの、それ以上は何も言ってはくれなくなった。
 昔話に花を咲かせることもないし、食事時以外は自室に籠って何やら本を読んでいる。
 当然のことながら、リディのことを女として意識するようなことはない。

 一刻も早く、こんな関係は修復したかった。
 決して多くは望まない。
 四六時中、自分と一緒にいなくとも、昔のジャンに戻ってくれればそれでいい。
 そんなささやかな願いさえ、叶わないのが辛かった。

(ジャン……。
 あなたはこのまま、何もなかったみたいにして、私の前からいなくなるの?
 あの日と同じように、私に何も言わないで……)

 遠い日の、リディにとっては忌むべき記憶が蘇る。
 ジャンが父親と共に街を去った、あの暗く静かな夜のことだ。

 もう、いっそのこと、ジャンに想いを告げてしまおうか。
 もしくは、いつまでもこちらに遠慮がちなジャンに対して、何か行動を起こすべきか。

 きっかけは、ほんの些細なことでいい。
 何か、彼に自分の想いを伝えるための機会さえあれば、それで構わない。

 誰もいない昼下がりの厨房で、リディは夕食の用意を始めることさえも忘れ、そんな想いにふけっていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




135 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:25:21 ID:C6YpgTjh
 気がつくと、既に時刻は夕暮れ時となっていた。
 外の霙は未だ止む気配を見せなかったが、窓の向こうに見える景色が、徐々に闇に包まれていることからも想像はつく。

「やれやれ……。
 まさか、こんな時に霙まで降るとは思わなかったな。
 これじゃあ伯爵の病気が、ますます悪い方に向かってしまうよ……」

 帰り際、ルネといつもの談笑を終えたところで、ジャンは廊下を歩きながら、独りそんなことを口にした。

 リウマチにとって、冷えは大敵である。
 伯爵の身体のことも考えると、この霙で病気が悪化しないかと考えるのは自然のことだ。
 この寒さで、今までの治療が無駄になってしまうのではないか。
 そんな一抹の不安が、ジャンの頭に浮かんだ。

(このまま伯爵の病気が快方に向かわなかったら、今年はこの街で年を越すのか……。
 正直言って、早く街を離れたいんだけどな……)

 自分にとっては嫌な思い出の多い街で、新しい年を迎えること。
 それだけは、どうしても避けたいことだった。

 街の住民とはほとんど顔を合わせていないため、ジャンのことに気づいている者は少ないだろう。
 しかし、自分の父親の所業を覚えている者がいないとも限らず、彼らの視線は常に気になることである。
 なによりも、そんな風に自分を色眼鏡で見る人間がいる場所で、心から新年の到来を祝えるとは思えない。

 やはり、この辺りが潮時なのかもしれない。
 リディやルネと必要以上に関わりを持つ前に、さっさと街を出た方がよいのかもしれない。

 テオドール伯には悪いが、薬の処方箋をクロードに渡しておけば大丈夫だろう。
 この数週間の間に、伯爵の身体の調子もだいぶつかめてきた。
 どのような気候で、どのような症状が出た時に、どのような薬を煎じればよいか。
 それさえ書き残しておけば、後は屋敷の者でも薬を用意できる。
 こと、あのクロードであれば、自分以上に器用にこなしてしまうかもしれない。

(この街とも、そろそろお別れした方がいいかもしれないな。
 本当は、父さんの骨を埋めに来ただけだったのに……なんだか、随分と妙なことになったよ……)

 街に来てからのことを思い出し、ジャンは心の中でそう呟く。
 今では当たり前のように宿場から往診に通っていたが、これはあくまで借り暮らしなのだから。


136 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:25:51 ID:C6YpgTjh
 宵闇の刻が迫る中、ジャンは屋敷の出口に向かって足を急がせた。
 門の前ではクロードが、馬車を用意してジャンを待っているはずだ。

 そういえば、今の時刻はどれほどなのだろう。
 ふと、時間のことが気になって、ジャンは腰につけていた懐中時計に手をやった。

「あれっ……!?」

 おかしい。
 いつもあるべき場所に、愛用の時計の姿がない。

「しまったな……。
 ルネと話をしていたとき、部屋に置いてきたのかもしれない」

 先ほど、ルネと話していた時のことを思い出し、ジャンは思わず自分の頭をかいて言った。

 そう言えば、今日のルネは、なぜかジャンについてのことばかり聞いてきた。
 生まれた場所がどこなのかとか、いつから旅をするようになったのかなど、とにかくジャンについての話を聞きたがった。

 無論、その場では余計なことは言わず、ジャンは必要最低限の情報を与えるだけに留めておいた。
 が、ルネの追及は治まることはなく、最後はジャンの持っていた懐中時計に興味を示した。
 二束三文で手に入れた安物の時計だったが、ルネは実に物珍しそうに、ジャンの時計に見入っていた。

 間違いない。
 時計を置き忘れたのはルネの部屋だ。
 一度、別れの挨拶をした後に部屋へと戻るのは気が引けたが、時計を置いたままにするわけにもいかなかった。

「ルネ、いるのかい?」

 扉を叩き、中にルネがいるかどうかを確認する。
 だが、先ほどジャンが部屋を出たばかりだというのに、部屋の中から返事はなかった。

「僕だ、ジャンだよ。
 悪いけど、ちょっと時計を忘れたみたいでね。
 取りに戻ったんだけど……開けてもらえないかな?」

 やはり、返事がない。
 我慢できずに扉に手をかけると、意外なことに鍵は開いたままだった。

「ルネ、入るよ。
 いいかい?」

 相変わらず何も返ってはこなかったが、ジャンはそっと扉を開けて、その先へと足を踏み入れた。
 部屋の中は思いの外暗く、先ほどまで話をしていた場所とは思えないほどだ。
 ランプの火も灯していないようで、ジャンは一瞬、部屋を間違えたのかと思ってしまった。


137 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:26:44 ID:C6YpgTjh
「ジャン……どうされましたの……?」

 部屋の中にはルネがいた。
 こちらに背をむけたまま窓辺に佇み、振り返ることなく呟いた。
 気のせいか、その声にはどこか生気がない。

「いや……ちょっと、時計を忘れてね。
 ドアの前で呼んだんだけど、返事がなかったものだから……悪いとは思ったけど、勝手に入らせてもらったよ」

「そう……。
 でも……別に、気にしませんわ……」

 そう言いながら、ルネはゆっくりとジャンのいる方へ振り返る。
 白金色の髪が揺れ、仄暗い部屋の中で別の生き物のようになびいた。

 薄暗がりの中、赤い二つの瞳がジャンに向けられる。
 その瞬間、ジャンは自分の背中に悪寒が走ったような感覚にとらわれ、思わず後ろに後ずさった。

「ル、ルネ……?」

 目の前にいたのは、確かにルネだった。
 だが、それはいつもの彼女ではない。

 宝石のように赤く清んでいた二つの瞳は、まるで錆びついた鉄のようにどんよりと濁っていた。
 白く、美しい肌は妖艶さを増し、同時に、まるで幽霊の如き冷たい気を放っている。
 項垂れるようにして下を向いた頭からは、特徴的な白金色の髪の毛が、柳の枝のように垂れ下がり揺れていた。

「ジャン……私、喉が渇いたんです……」

 ずるずると、何かを引きずるような動きで、ルネはジャンとの距離を少しずつ詰めてきた。
 相変わらず、その目は何かを渇望するようにして暗く淀んでいる。
 その周りにあるはずの白目は見えず、代わりにあるのは深淵の如き深い闇。
 宵の空をさらに黒く塗りつぶしたような中で、赤銅色の虹彩だけが輝いている。
 部屋の暗さと光の加減でそう見えただけかもしれなかったが、それでもジャンには、今のルネの瞳が闇の淵から獲物を狙う魔獣のものと同じに思えた。

 今、目の前にいるのは、自分の知っているルネではない。
 ただ事ではないと感じたジャンだったが、まるで蛇に睨まれた蛙のように動くことができない。
 進むことも、戻ることさえもできず、ただ目の前の異変に目を奪われてしまう。

 ルネの指が、動けないジャンの顔にそっと触れた。
 これが同じ人間のものかと思われるくらい、その指先は冷たかった。


138 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:27:27 ID:C6YpgTjh
「私の渇きを……あなたが癒してくれませんか……?
 私は、あなたに癒して欲しいのです……」

「い、癒して欲しいって……。
 ルネ……君はいったい、何を言って……」

「あなたが欲しいのです……ジャン……。
 あなたの身体に流れるものを……私の身体に注いでください……」

 ルネの指が、ジャンの頬を撫でながら首筋へと移る。
 あどけなさの残る少女の顔は消え失せて、その口から漏れる吐息がジャンの顔にかかる。
 美しいと感じるよりも、恐怖の方が大きかった。

「血をください……ジャン……。
 私に……あなたの血を……」

 光を失った瞳のまま、ルネの顔に怪しげな笑みが浮かんだ。
 微笑とも、冷笑ともつかぬ、底しれぬ暗さを湛えた病的な微笑み。
 それを目の当たりにした瞬間、ジャンの心の中で精神の堤が決壊した。

「う、うわぁぁぁぁっ!!」

 悲鳴と共に、ジャンはルネを振り払って部屋を飛び出した。
 懐中時計のことなど、もうどうでもよい。
 今はただ、この恐怖から逃げたいという一心で一杯だった。

 廊下を抜け、階段を下り、目の前の扉を開け放って外に出る。
 そこは正門とは反対の裏口であったが、そんなことに構っている暇はない。

 クロードが用意しているであろう馬車に乗る余裕など、今のジャンは持ち合わせてはいなかった。
 ただ、この屋敷から一刻も早く離れたいという感情に突き動かされ、街に向かう丘を駆け下りた。

 道のない丘の草原を下り、雑草と枯れ草がジャンの身体を打った。
 降り続く霙は髪と顔にはりついて、瞬く間に彼の体温を奪ってゆく。
 が、どれほど草木に阻まれようとも、どれほど冷たい霙が降ろうとも、ジャンは走ることを止めなかった。

 草原を抜け、街道へと入り、転がるようにして街の入り口である門をくぐる。
 街から伯爵の屋敷までは、人の足では普通に歩いて二刻ほどもかかるものだったが、気がつけばジャンは街に戻っていた。
 あれだけの距離を走り続けたという自分の体力にも驚いたが、それ以上に、恐怖から解放されたという安堵の方が大きかった。

「はぁ……はぁ……」

 行き交う人々の好奇の眼差しにさらされながらも、ジャンは呼吸を整えながら宿場への道を歩き始めた。
 レンガの敷き詰められた道を歩くと、足の裏や指先を鋭い痛みが襲ってくる。
 かなりの距離を走ったためか、足の裏が切れて、肉刺が潰れている可能性が高かった。

 全身を襲う寒さと足の痛みに耐えながら、ジャンはとぼとぼと街の中を歩き続けた。
 霙に当たって外套はすっかり濡れてしまっていたが、そんなことは、今のジャンにとってはどうでもよかった。


139 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:28:00 ID:C6YpgTjh
「ただいま……」

 一階の酒場の迷惑にならないよう、ジャンは宿場の裏口を開けて中に入る。
 リディに三階の部屋を貸してもらえるようになってからは、これがジャンの日課にもなっていた。

「お帰り……って、どうしたの、ジャン!?
 あなた、びしょ濡れじゃない!!」

 頭の先から足の先まで、霙に濡れて帰宅したジャン。
 その姿を見て、さしものリディも思わず声に出して叫んでしまった。

「平気だよ、リディ……。
 それよりも……僕の部屋、片付けは終わっているかな?」

「うん。
 それは大丈夫だけど……。
 でも、あなたこそ、一度体を温めた方がいいんじゃない?
 そのまま寝たら、絶対に風邪ひくわよ」

 この地方に降る冬の雨は、独特の冷たさを持っている。
 最も寒い季節のものになると、肌に触れただけで氷の刃で切りつけられたのではないかと思うほどだ。
 ましてや、それが霙ともなれば、身体の芯から凍りつくような寒さに襲われることだろう。

「離れ屋にあるお風呂、用意しておくから。
 今日はそこで、ちゃんと温まってね」

「ああ……。
 それじゃあ、そうさせてもらうよ……」

 気の無い返事のまま、ジャンは力なく三階へ続く階段を上がって行く。
 その後姿を、リディは不安そうにして見つめている。

(ジャン、どうしたんだろう……。
 丘の上の御屋敷で、何かあったのかな……?)

 今日のジャンは、いつものジャンとは違う。
 こちらと一定の距離を保とうとしているのは変わりないが、それ以上に、何かに怯えて疲れているようにも見て取れた。

(ジャン……。
 何があったかは知らないけど、あなたのことは、私が癒してあげるからね……。
 だからあなたも、私を見て……)

 押さえこんでいた気持ちが、再び湧き上ってくるのが自分でもわかった。

 理由はわからないが、今日のジャンはいつにも増して疲弊している。
 ならば、そんな彼の心を癒すことができれば、自分もジャンの居場所になれる。

 それに、これは大人になった自分を見てもらう、またとないチャンスにもなりそうだった。
 ジャンを癒してあげたいという想い。
 自分を見て欲しいという想い。
 その二つを同時に満たすことができるのであれば、この機会を逃すわけにはいかない。

 善は急げ。
 そんな言葉を思い出しながら、リディは一足先に、離れ屋にある浴室の準備をしに部屋を出た。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




140 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:29:02 ID:C6YpgTjh
 外の空気は冷たかったが、その建物の中だけは、むしろ暑過ぎるくらいに温まっていた。
 まあ、無理もない。
 もうもうと立ち込める蒸気が石造りの建物を満たし、その中を常に温め続けているのだから。

 ジャンの国では、風呂と言っても蒸し風呂のようなものを用いるのが一般的である。
 着衣のまま蒸し風呂に入り、その後、別室で垢を落とすのである。
 夏は河で沐浴することもあるが、水が貴重な山間部では、冬場には蒸し風呂を用いることが普通だった。

 もっとも、それ以前に、今のこの国では風呂に入るという人間が少ない。
 田舎の村や街では入浴の習慣がある場所もあるが、都会に近づくにつれて、その傾向は強くなる。
 なんでも。体の洗い過ぎは返って毒になるとのことで、パリの貴婦人達は一年に数回しか風呂に入らない者もいるらしい。

 まったくもって、馬鹿馬鹿しい話だとジャンは思う。
 風呂に入らないということは、それだけ不衛生な状態に身を置くということに他ならない。
 その結果、返って疫病などが蔓延し、人々の死を早めているようにしか思えない。
 夏場、寄生虫だらけの河に飛び込んでまで沐浴したいとは思わないが、一年に数回しか風呂に入らないというのもまた、ジャンにとっては理解し難いことである。

 恐らく、風呂の入り過ぎが毒になるというのは、一種の流行りのようなものなのだろう。
 医学的根拠など何もないというのに、流行というだけで誰もが真似をする。
 体臭は香水で隠し、汚物は平気で路上に捨てる。
 ジャンも、都会を旅した時に何度か目にした光景だが、あれを真似しようとは絶対に思わない。

(それにしても……あれは、本当にルネだったのか?)

 部屋の中を漂う蒸気に身を任せながら、ジャンは今日の屋敷でのことを考えた。

 あの時、自分の前にいた少女は、間違いなくルネだ。
 では、彼女はいったい、なぜあそこまで豹変してしまったのだろうか。

 暗闇の中で光っていた二つの目は、ジャンの知るルネのものではなかった。
 自分では決して触れられないと知りつつも、外の世界の自然をこよなく愛していた少女の瞳ではない。
 貪欲に、血に飢えた獣の如く、獲物を求めて闇夜を彷徨う者の目だ。

「血か……。
 そういえば……ルネは、僕の血が欲しいって言っていたな」

 あのルネが、獣のようにジャンの血を求める。
 考えたくないことではあったが、あれが彼女の本性なのだろうか。
 外界との関わりを避けるようにして生きてきた少女は、話し相手として選んだジャンにさえも、偽りの姿を見せていたということだろうか。

 正直、これから先、ルネと普通に会話できる自身がなかった。
 そればかりか、今日の一件で、自分は伯爵邸での仕事さえも失うかもしれない。
 この街から離れられるのは願ってもないことだが、主治医として、患者の容体を快方に向かわせられないまま治療を終えるというのも納得がいかない。
 そうは言っても、結局のところ、自分がしてしまった行いを取り消すことはできないのだが。

 まったくも考えがまとまらないまま、ジャンは大きく項垂れて溜息をついた。
 すると、その吐息に合わせるようにして、浴室の扉がすっと開かれる。
 何事かと思い目をやると、そこには寝衣のような服をまとったリディの姿があった。


141 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:29:57 ID:C6YpgTjh
「リ、リディ!?
 君、宿の仕事はどうしたんだい!?」

「今は何もないわよ。
 お食事は出し終わったから、今頃は皆、勝手に食堂で食べている頃ね。
 食器はテーブルに置いておけば、後で私が片付けるって言ってあるし」

「そういうことじゃないよ!!
 そもそも、どうして君が、僕のいる風呂に入って来るんだ!?」

「あら、別にいいじゃない。
 どうせ今は、お客さん達はお食事中で、ここを使う人は誰もいないしね」

「いや……でも……。
 男と女が一緒の風呂に入るなんて……」

 突然のリディの来訪に、ジャンはなんとかして彼女を追い返そうと試みた。
 いくら幼菜馴染とはいえ、もう二人とも大人である。
 例え着衣のままであっても、一緒の風呂に入るなど許されるはずもない。

 だが、そんなジャンの考えなどお構いなしに、リディはジャンの隣に腰を下ろしてきた。
 肌が密着するくらいまで近づかれると、それだけで相手のことを意識してしまう。

「ねえ、ジャン。
 よかったら……私がジャンの背中、こすってあげようか?」

「なっ……。
 馬鹿なこと言うなよ!!
 僕だって、もう子どもじゃないんだし……そのくらいは、自分で出来るさ!!」

「そう……。
 ジャン、私にそういうことされるの、嫌いなの?」

 リディがジャンに寄り添うようにして、その身体を更に近づけてきた。
 自分の腕に柔らかいものが当たっていることを感じ、ジャンは思わず顔を赤くして距離を取る。

 いつもは仕事着とエプロンに隠されて気づかなかったが、リディの胸は明らかに、ジャンの知る一般女性のそれを越える大きさだった。
 診察の際、時に女性の患者の胸を診ることがあるジャンでさえ、その胸元に目が行かないと言えば嘘になる。
 患者を診る時とは違い、明らかに別のものを意識してしまう自分がいるのが情けない。

「いや……別に、そういうわけじゃないけどさ。
 でも、いくら居候みたいな暮らしだからって、君にそこまで甘えられないよ。
 それに、今はちょっと、そんな気分じゃないってのもある……」

 壊れそうになる理性を懸命に保ちながら、ジャンはリディに告げて立ち上がった。
 そして、そのまま小走りに扉に向かい、身体を洗う部屋へと逃げ込んだ。

「はぁ……。
 まったく……リディのやつ、いったい何のつもりなんだよ……」

 蒸し風呂から洗い場へ出ると、そこは幾分か涼しい空気に満たされていた。
 後ろからリディが追って来ないことを確かめつつ、ジャンは手早く衣服を脱いで、持ち込んだタオルで体を擦る。
 無心に体を洗うことで、ジャンは今しがた湧いてきた煩悩を、なんとか心の隅に押しとどめようともがいていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


142 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:31:01 ID:C6YpgTjh
 霙の舞い散る丘の上、テオドール伯の屋敷の一室で、ルネは部屋に残された懐中時計を手にしていた。
 赤い瞳の見つめる先で、時計は無情に時を刻み続けている。

 今日、ジャンに自分が見せてしまった醜い姿。
 飢えた獣のように、人の生き血を求めて迫る己の本性。

 あの時、ジャンは自分のことを、心底怯えた目で見つめていた。
 衝動に駆られ、自分で自分を抑えきれなかったとはいえ、なんという失態をしでかしてしまったのか。

 もう、ジャンが自分の下へ戻って来ることはないだろう。
 あんな姿を見れば、怯えない方が無理というものだ。
 養父の往診には出向いてくれるかもしれないが、これから先、自分の話し相手になってくれるとは到底思えない。

「ここにおられましたか、お嬢様……」

 いつの間にか、ルネの傍らにはクロードの姿があった。
 その表情は、心なしか己を責めるようなそれに変わっている。

 ジャンが屋敷を逃げ出した後、ルネの異変に気づいて彼女の下へと駆けつけた時、全ては既に遅かった。
 感情のまま、欲望に身を焦がして血を求めるルネ。
 ジャンの名を叫びながら暴れる彼女を取り押さえ、自分の腕の血を吸わせることで、ようやく落ち着かせることができた。

「ここは冷えますよ。
 今宵は一段と寒くなりそうな気配です。
 早く、部屋にお戻りください」

「ええ、わかっています。
 ですが……私はもう、ジャンとお話することができないと思うと……」

 ジャンが部屋に忘れていった、古ぼけた懐中時計。
 それを固く握り締め、ルネは言葉を震わせながらクロードに答えた。

「お嬢様が気を病まれる必要はございません。
 ここ最近の、お嬢様のご様子を知りながら……ジャン様を信じて注意を怠ったのは私です。
 責めるのであれば、どうぞ、この私に罰をお与えください」

「その必要は、ありません。
 あなたを罰したところで……ジャンが戻って来るわけでもないのですから……」

「しかし、それではお嬢様のお気持ちが納まらないでしょう。
 お嬢様のためでしたら、私はどのような罪でも……どのような咎でも背負う覚悟でございます」


143 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第九話】   ◆AJg91T1vXs :2010/12/11(土) 01:31:44 ID:C6YpgTjh
「ありがどう、クロード。
 ですが……今のあなたは、よくないことを考えていますね?
 私のために、ジャンを傷つけてでもこの屋敷に引き止めようと……そう、考えていたのではないですか?」

 いつもの屈託のない笑顔からは想像もできない、氷のような微笑だった。
 まだ幼さの残る顔であるにも関わらず、クロードはそんなルネに何も言えずに引き下がる。
 赤い、血のような色をした瞳に見据えられ、心の奥底まで覗かれているような気にさせられた。

「私のために、ジャンが傷つく……。
 そのようなこと、あってはなりません。
 あの人が私を恐れても……それは、仕方のないことですから……」

 最後の方は、憂いを込めた言い方になった。

 そう、これは仕方のないこと。
 自分は所詮、外の人間とは関わることさえ許されない存在。
 だからこそ、ジャンのことも諦めなければならない。
 そうすることが、きっと、互いのためにもなるはずなのだ。

「わかりました、お嬢様。
 ならば明日、改めてジャン様に、今宵のことを……お嬢様の秘密をお話しましょう。
 それで、ジャン様が理解を示されたならば、今まで通りの関係を続けることもできるはずです」

「そうですね……。
 でも、それは……」

「希望は最後までお持ち下さい。
 まだ、答えは出たわけではないのですから……」

 慰めにしかならないということは、クロードにもわかっている。
 だが、そうでも言わなければ、ルネがこのまま壊れてしまうのではないかと思い、心配だった。

 明日、ジャンを迎えに行った際に、改めてルネについての秘密を話そう。
 彼女の出生や伯爵との関係だけでなく、その身体に秘められし、呪われた運命の話を。

 全ては、己が忠誠を誓った者のため。
 その笑顔を守るためであれば、自分は悪魔にでもなれる。

 傍らで不安そうに佇むルネを気遣いながらも、クロードは自分の中で、ある決意を固めていた。