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521 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:30:05 ID:IV/TJIB5
 人気の少ない裏通りの一角に、その古びた酒場はあった。
 街外れの酒場の中でも一際古く、また治安の悪いことでも有名な場所だ。

 酒場の中では男達が、めいめいに酒を飲んでいる。
 どの者の顔を見ても、過去に何かしらの悪事をしでかしてきたであろう、強面の連中しかその場にはいない。
 女もいるにはいるが、派手な化粧をして男に色目を使っているような者ばかりだ。
 中には娼婦と思しき者も混ざっており、露骨に男の股間にあるものを撫でたり、その腕に抱きついて甘い声を出していたりした。

 汗と油と酒の匂い。
 それらが混ざり合い、酒場の中には独特のきつい臭気が溢れている。
 慣れた者でなければ、こんな場所ではまともに食事も摂れないだろう。

 ならず者たちの天国。
 この酒場を一言で表すのならば、まさにそれが相応しい。
 だが、そんな酒場の中において、今日は明らかに場違いな人間が店の中を歩いていた。

 豪快な笑い声と共に肉を食いちぎり、酒を飲み干す男達。
 そんな彼らを避けるようにして、その女性、リディ・ラングレーは店の奥へと足を進めた。

 テーブルの横を通り過ぎる度に、彼女に好奇の視線が向けられる。
 こんな場所に、堅気の女が何の用だ。
 そう言わんばかりの眼差しで、男も女もリディのことを訝しげに眺めた。

 もっとも、それさえも何ら意に介さず、リディは無言のまま店の一番奥にあるテーブルについた。
 そこには既に先客がいたが、リディは構わず相席の形をとった。

「あん……?
 なんだ、お前は……?」

 先ほどまで、一人で酒を飲んでいたのだろう。
 席に座っていた男が顔を上げ、実に不可解だと言わんばかりにリディを見る。
 その顔にはあちこちに傷があり、表の世界の住人でないことは一目瞭然だった。

「失礼するわ。
 あなた……今は一人なのかしら?」

「なんだい、姉ちゃん。
 ここは、あんたみたいな堅気の女が来るところじゃねえぞ。
 さっさと帰らねえと、今にその辺の野郎に犯されちまいかねないぜ」

「あら、心配してくれるの?
 見た目と違って、意外と優しいのね」

 男は面倒臭そうな顔をしてリディを追い払おうとしていたが、当のリディはまるで聞いていないようだった。
 そればかりか、どこか挑発的な態度を織り交ぜながら、時に誘うような目で男を見る。


522 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:30:50 ID:IV/TJIB5
「ところで……あなた、仕事を引き受けてみる気はない?」

「仕事だぁ……?
 どうせ、下らねえ仕事だろ。
 言っておくが……俺は金にならん仕事はしない主義でね。
 何をして欲しいのかは知らんが……二束三文で俺を雇うつもりなら、他を当たりな」

「二束三文ねぇ……。
 なら、これを見てもそう思う?」

 店の中に運び込んだ鞄から、リディは思わせぶりに一つの袋を取り出した。
 それをテーブルの上に置くと、なにやら重たい音がしてグラスが揺れる。
 袋の紐を解いて中を見せると、そこにはぎっしりと硬貨が詰まっていた。

「これでも、二束三文のはした金って言うつもり?」

 男の前で袋の中身を見せつけながら、リディがにやりと笑う。
 さすがにこれには驚いたのか、男も辺りの様子を気にしつつ袋の中を覗きこんだ。

「ほぅ……こいつは凄えな……」

「でしょ?
 今までコツコツと貯めて来た、私のヘソクリよ。
 とりあえず、ここにあるので半分って感じね。
 後の半分は、仕事が上手くいったらってことでいいかしら?」

「ふん……やるじゃねえか、姉ちゃん。
 ただの堅気の娘だと思っていたが……意外と交渉ってやつに長けているみたいだな」

「悪いけど、誉めても報酬は増えないわよ。
 それよりも……私の仕事、受ける気ある?」

「まあ、内容によるな。
 いくら金を積まれても、俺の手に負えん仕事なら受けるわけにはいかねえ」

 そう言いながらも、男の目は完全に袋の中の硬貨に釘づけになっている。
 袋から一枚の硬貨を取り出すと、男はそれを片手で弄びながらリディを見た。

「どうやら、交渉成立ってことでいいみたいね。
 だったら、私のやって欲しい仕事の内容を話すわ。
 お金をあげるのは、その後よ」

 リディの手が、男の手から素早く硬貨を奪い取る。
 そして、呆気にとられている男を前に、彼女は淡々とした口調で仕事の内容を話し始めた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




523 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:31:37 ID:IV/TJIB5
 リディが酒場で仕事を頼んだ男と再び会ったのは、それから数日の間を挟んでのことだった。

 所詮はならず者。
 約束など守らず、金を持ってとんずらする可能性もある。
 そう思っていたリディだったが、どうやら相手もそこまで非道な男ではなかったようだ。
 もっとも、単にリディの出した前金に目が眩み、更なる欲に突き動かされてやってきただけかもしれないが。

 今、リディと男は暗く湿った地下の一室にいた。
 そこは、リディの経営する宿場の地下。
 普段は酒樽などを置いている、一種の物置である。

「よう、姉ちゃん。
 約束通り、あんたに頼まれたものを持って来たぜ。
 こっちが薬で……それから、こっちが例のものだ」

「ありがとう。
 持ってきた物は、その辺に置いておいて。
 あっ……でも、袋の中身がここで逃げ出さないようにしておいてよ」

「そいつは心配要らねえよ。
 こいつらの袋の縄は、きっちりと閉めてあるんだからな」

 そう言って、男は自分の手にある袋に目をやった。
 中には何か生き物が入っているらしく、常に忙しなくもぞもぞと動いている。

「それじゃあ、残りの報酬を渡すわね。
 でも……実は、その他にも貰って欲しいものがあるんだけど」

「貰って欲しいものだと?
 言っておくが、下らねえもんだったらお断りだぜ」

「あら、失礼ね。
 下らないかどうかは……それは、あなたの目で確かめてみればいいことよ」

 リディの顔に、一瞬だけ妖艶な笑みが浮かぶ。
 それは思わず魅了されてしまいそうな程に美しいものだったが、同時に病的な禍々しさも含んだものだった。

「あなたに貰って欲しいのは……この、私よ」

 自分の胸に手を添えて、リディが男にゆっくりと近づく。
 初めは彼女の言葉の意味がわからなかった男も、すぐにそれに気づいて笑みを浮かべた。

「ほう……そういうことか。
 だが、どうしていきなり、そんなことを言い出した?
 まさか、お前……好き者なのか?」

「いいえ、違うわ。
 でも……あなたの仕事、私の思っていたよりも早かったから。
 そんな人に追加で報酬をあげたいって思うの、普通じゃないかしら?」

「なるほど、それがあんたの身体ってわけか。
 まあ……俺もそういうのは嫌いじゃないが……どうしてまた、こんな場所を選んだんだ?」


524 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:32:22 ID:IV/TJIB5
「宿の部屋だと、他のお客さんに聞かれるかもしれないでしょ?
 でも、この地下室なら、どんなことをしても誰かに聞かれる心配はないわ。
 それに……こういう雰囲気の中でするのも、悪くないと思うけど?」

「へっ、やっぱり好き者じゃねえか。
 だが、俺もそういうのは嫌いじゃねえぜ。
 あんたが抱いて欲しいって言うなら、俺もとことんお付き合いさせてもらうぞ」

 男の顔が、欲望を丸出しにして醜く歪んだ。
 今にもこの場で服を脱ぎ出しそうな勢いだったが、済んでのところでリディがそれを制した。

「待って……。
 さすがに、いきなり脱ぐのは無粋ってものじゃない?
 夜は長いんだし、ゆっくり楽しみましょうよ」

「そうかい?
 だったら、あんたが俺にご奉仕してくれるってことで構わないか?」

「ええ、それでいいわ。
 でも……自分が脱ぐところを見られるのは恥ずかしいから……ちょっと、後ろを向いていてくれるかしら?」

「おいおい、なんだそりゃ?
 だが……まあ、俺としちゃあ、あんたを抱ければそれでいいからな。
 それに、お楽しみはじっくり味わった方が、昂奮するってもんだ」

 にやけた笑いを浮かべながら、男はそのままゆっくりと後ろを向いた。
 彼の後ろでは、何やら服が擦れるような音がする。
 きっと、リディが彼女の衣服を脱ぎ棄てているのだろう。
 布が床に落ちるような音がして、男はリディの準備が十分に整ったことを悟った。

「おい、そろそろいいか?
 なんだか、あんたの脱いでいる姿を想像しただけで、こっちも我慢できなくなってきたぜ」

「そう、焦らないで……。
 えっと……もう、大丈夫よ。
 こっちを向いて、私を見て……」

「ふふふ……。
 それじゃあ、いよいよいただくとするか。
 しっかし……まさか、こんな場所であんたみたいな上物が抱けるなんて、俺も思っていなかったがな……」

 もう、欲望堪えることなどできはしない。
 そんな表情を浮かべつつ、男はゆっくりとリディの方へ向き直った。

「がっ……!?」

 次の瞬間、男の頭に何やら固い物が振り下ろされた。
 それは一撃で彼の頭を割り、額からおびただしいまでの鮮血がほとばしる。

「あら、ごめんなさい……。
 一発で楽にしてあげるつもりだったのに……手が滑っちゃったわ」

 目の前で頭を押さえて呻く男に、リディが冷ややかな眼差しを送りながら言い放った。
 その瞳には光はなく、口元には氷のような微笑が浮かんでいる。
 一糸纏わぬ姿の彼女の手には、薪割りの際に使う頑丈な鉈が握られていた。


525 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:33:18 ID:IV/TJIB5
「あ……あぁ……」

 血だらけの頭を押さえ、男が縋るようにしてリディに手を伸ばす。
 だが、そんな男の手を一蹴すると、リディは再び手にした鉈を振り下ろした。

「がはっ……!!」

 鉈の強烈な一撃が、今度は男の首筋に食い込んだ。
 頸動脈を叩き斬られ、首元から赤い液体が凄まじい勢いで噴出する。
 その返り血を全身に浴びながら、リディは実に冷徹な顔をして男が絶命するのを眺めていた。

「ふん……馬鹿な男ね。
 あんたみたいな薄汚い野良犬に、大切な私の初めてをあげるわけないでしょう……。
 それに……あんたが私の頼みを聞いて仕事をしたことが他の人に知られたら、私の計画も台無しになっちゃうからね」

 既に物言わぬ肉の塊となってしまった男の頭を、リディは軽蔑するような目で見ながら踏みつけた。

 用が済んだ者は消えればよい。
 ならず者にかける情けなどない。
 そんなことを思いながら、リディは再び手にした鉈に力を込める。

 ガッ、ガッ、という鈍い音がして、男の身体に鋼の刃が食い込んで行く。
 幾度となくそれを叩きつけて行くと、やがて肉の千切れるような音がして、男の右腕がゴロリと身体から離れた。

「はぁ……はぁ……。
 これ、結構大変ね……。
 でも……このままだったら、隠そうにも隠せないわ……」

 切断された男の腕を見ながら、リディは肩で息をしながら呟いた。
 全身は男の血で真っ赤に染まっていたが、そんなことは気にする様子もない。

 床に置いた鉈を拾い、今度は男の右脚にそれを振り下ろすリディ。
 次いで、左脚、左腕と、その刃を乱暴に叩きつけて行く。
 最後に頭を切り落としたところで、ようやくリディは鉈を放り出して床に座り込んだ。

「ふぅ……。
 とりあえず、これでいいかな?
 後はこれを空いている樽に詰めれば、とりあえず問題ないわね」

 両腕と両脚、それに首と胴体に分けられた男の身体を見て、リディは何ら悪びれた様子のない口調で言い放った。
 そして、床に転がった男の部品をかき集めると、それを空いている酒樽の中に器用に詰めて行く。
 最後に別の樽の中に入っていた酒を注ぎ込み、そのまま蓋をして口を封印した。


526 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:33:58 ID:IV/TJIB5
 こうして酒に漬けて口を封じてしまえば、死体の臭いもある程度はごまかせる。
 いずれは捨てに行かねばならなくなるのだろうが、今はまだ、そんなことに時間を使っている場合ではない。

 汲み置きの水を床に巻いて、リディは辺りに飛び散った鮮血を丁寧に掃除した。
 最後に自分の身体についた血も洗い流し、あらかじめ持ち込んでいた布で身体を拭く。
 幸い、洋服に返り血がつくことはなかったようで、身体を拭き終わったリディは素早くそれを身にまとった。

「うふふ……。
 待っててね、ジャン……。
 今、私があなたのために、あなたを癒す下ごしらえをしてあげるわ……」

 先ほど、男が部屋に持ってきた二つのもの。
 その内の一つ、薄汚い革袋を手にすると、リディはそれを持って地下室を出た。
 袋の中では何かがゴソゴソと動きまわっていたが、リディはまったく気にかけない。
 もっとも、彼女自身、その袋の中に入っているものを知っているのだから当然だ。

 階段を上がり、裏口を抜け、リディは夜の街に繰り出した。
 そのまま闇に紛れるようにして、人のいない裏路地を駆け抜ける。
 目指すは自分の生まれた場所、この街の南部に広がる貧民街だった。

 ジャンやリディの生まれた街は、南に行くほど貧しくなる。
 特に、南部の貧困は深刻で、仕事を失った職人や土地を失った農民たちが集まる場所となっていた。

 貧民街が近づくにつれ、リディの中で忌まわしき幼少の記憶が蘇る。
 今でこそ一人前に宿場の経営などしているが、もともとリディも、この貧民街の生まれだ。

(嫌な空気……。
 昔も今も、この場所の不潔な風だけは変わらないわね……)

 貧民街の生まれであることで、幼い頃より周囲から差別されて育ってきた自分。
 そんな自分を庇ってくれたのは、他でもないジャンだ。
 だが、そのジャンも、今では完全に別の女に骨抜きにされてしまっている。
 このまま放っておけば、彼は永遠にリディの手の届かない場所へと去ってしまうことだろう。

 寝静まった貧民街の路地裏を、リディはそっと足音を忍ばせて歩いて行った。
 時折、浮浪者のような人間が寝ているのに出くわしたが、彼らはリディのことなどまるで気にしていなかった。
 他人のことを気にかけている余裕など、恐らく彼らにはないのだろう。

 程なくして、貧民街の中央にやってきたリディは、そこで手にした袋の口を徐に開いた。
 すると、今まで中に閉じ込められていた者たちが、いっせいに外の空気を感じ取って飛び出してくる。

「さあ、行きなさい……。
 こんな薄汚れた街……あなた達の力で、さっさと消してしまいなさい……」

 きぃきぃという鳴き声を上げながら、袋の中にいたもの達が街の方々に散って行く。
 その姿を眺めながら、リディは実に満足そうな顔をして笑っていた。

 貧民街など、自分にとっては辛い思いでしかない場所だ。
 この地域で暮らしていた時の思い出など、酔った父に暴力を振るわれた程度の記憶しかない。

 辛く、悲しい記憶しかない場所になど、二度と戻らないと思っていた。
 だが、そんな場所でも利用価値があるならば、今のリディは感情を殺してまで舞い戻る決意ができていた。
 その結果、例え自分が間接的に多くの者を殺めることになったとしても、彼女の中に躊躇いはない。
自分がジャンを手に入れるためには、手段など選ぶつもりは毛頭なかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




527 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:34:43 ID:IV/TJIB5
 冬の街が悲鳴に包まれたのは、それから程なくしてのことだった。

 暮が近づき、新年を祝うような空気に満ち溢れていてもよさそうなものだが、今年に限ってそれはない。
 街にあるのは重たく暗いのしかかるような空気と、悲しみに暮れた人々の顔だけだ。

「なあ、聞いたか……。
 南のスラムの方で、また例の病気で死人が出たらしいぜ」

「おお、嫌だねぇ。
 こちとら清潔にしているからいいものの……それでも、いつこっち側に飛び火するのか、気が気じゃないよ」

「まったくだ。
 これがパリの街中なんかだったら、まず間違いなく全員お陀仏だからな。
 日頃から暮らしている場所を清潔に保つってことの大切さを、今になって知った気がするよ」

 外套姿の男達が、街の通りを歩きながら話していた。

 彼らの口にしている病とは、過去にも幾度となく多くの命を奪った恐るべき疫病のことだった。
 全身に黒い痣ができ、早い者では感染よりおよそ一週間で死に至る。
 歴史を揺るがすような大流行が確認されたのは既に400年もほども前のことだったが、それでも病気そのものがなくなったわけではない。
 現に、山を越えた隣の街では、既に百人以上の死者が出ているとのことだった。

 山の向こう側の隣街で流行っている疫病が、なぜ今になってこちらの街にやってきたのか。
 それは、誰にもわからないことだった。

 山向こうの街は、ここより山間部にある田舎の街。
 衛生状態は都市部と同じく決してよいとはいえないが、それだけに、好んで街に向かう者もいない。
 山に阻まれたその街からも、人が訪れることはほとんどなかった。

 もとより閉鎖された環境で流行っていた疫病。
 それが、なぜ山という障壁を越えて、この街に突然やって来たのか。
 そのことを説明できる者は、今の街にはいなかった。

 向こう側の街から感染者が流れて来たのか、それとも風に乗って病が街まで運ばれて来たのか。
 そのどちらにせよ、恐ろしい疫病が街を蝕んでいるという事実には変わりがない。
 既に病はスラムを抜け、街のあちこちにまで広まっていると聞く。
 聖夜が近いにも関わらず、教会から聞こえてくるのは讃美歌よりも鎮魂歌の方が多いというのだから悲惨なものだ。

 外套の首元を手で抑えながら、ジャンは重苦しい表情で街の大通りを歩いていた。
 この街を抜ける冬の風は冷たいが、街を歩いていて感じる寒さは、決して風のせいだけではないだろう。

 自分がルネと暮らすようになってから程なくして、街では疫病が流行り出した。
 それは医師であるジャンにとっても他人事ではなく、昼間から夕方にかけて街に往診に出かける日々が続いていた。

 いずれは伯爵家の婿養子として迎えられる立場とはいえ、医者として病に苦しんでいる人間を放っておくわけにはいかない。
 それに、伯爵もルネも、ジャンが街の人を助けたいということに関しては快く賛同してくれた。


528 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:35:27 ID:IV/TJIB5
 既に先代ほどの力を失ったとはいえ、腐っても彼らは貴族である。
 中には過去の栄光にしがみついて己の至福を肥やす俗人同然の人間もいるが、本来、貴族とは『高貴な行い』をする者に与えられる称号だ。

 心に剣を持ち、弱き者の盾となる。
 戦が始まれば自ら剣を持って先頭に立ち、領民が飢饉に苦しんでいれば、彼らを救うために自らの私財を投げ打ってでも援助を惜しまない。
 このような貴族など見かけなくなって久しいのだが、本来の貴族とは、こういった行いができる者のことを指す。
 領民から税をむしり取るだけむしり取っている今の貴族達など、所詮は名ばかりの貴族に過ぎない。

 テオドール伯はこの土地を治めているわけではなかったが、それでも彼の中には、未だ古き良き時代の貴族の考え方が根付いていた。
 街の者が疫病で苦しんでいるのであれば、それを救うために動くのが貴族の務めである。
 ジャンが医師として街の人を助けるのに賛同したのも、当然と言えば当然であろう。

 だが、そんな彼らの気持ちとは反対に、街を歩くジャンの心は暗く沈んでいた。

 疫病など、治す方法は存在しない。
 全身に黒い痣が現れたところで、その患者は既に末期である。
 ジャンにできることと言えば、そういった患者を部屋の一室に隔離して、これ以上の犠牲者を出さないようにさせること。
 それ以外には、気休めの薬を渡して患者を慰めることだけだった。

 医師として、目の前の患者を見殺しにすることしかできない現実。
 そのことは、ジャンの中に凄まじい焦燥感をもたらした。
 それは、ルネを助けられないで悩んでいたとき以上に大きなものである。

 自分の目の前で人が死んでゆくのを、指をくわえて眺めているしかない。
 あまりにも無力な自分自身に、ジャンは早くも限界を感じつつあった。

 往診をしたところで、患者を救えるわけでもない。
 自分には、病が広がるのを防ぐための手立てもない。
 唯一、屋敷で待っているルネの存在だけが、今のジャンにとっての癒しだった。
 彼女と毎晩の如く愛し合うことでしか、卑小な自分を慰めることができなかった。

(ルネ……。
 僕は本当に、君に相応しい男なのか……)

 答えなどわかりきっているはずなのに、ついそんな言葉が頭をよぎってしまう。
 ルネが惚れたのはジャンという人間そのものであり、そこに付随している能力ではない。
 自分がルネに抱いている感情も、また同じだ。

 考えていても始まらない。
 自分は医者として、できる限りのことをするだけだ。

 迷いを振り切るようにして頭を上げると、ジャンは気を取り直して歩を進めた。
 いつしか辺りには雪が降り出し、街をゆっくりと、しかし確実に白く染め上げてゆく。
 肩にかかった雪を払いながら、ジャンはクロードの用意した馬車の待つ広場へと急いだ。

 この角を曲がれば、もうすぐ広場だ。
 待ち合わせの時間には早かったが、ジャンはともすれば足早になって道を歩いた。
 この雪の中、いつまでも冷たい風に当たっていたいとは思わなかった。


529 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:36:55 ID:IV/TJIB5
「ねぇ……」

 ジャンが曲がり角を曲がろうとしたその時、後ろから唐突に彼を呼ぶ声がした。
 名前を呼ばれたわけではないので、一瞬、自分が呼ばれたことに気づかなかった。
 が、それでもジャンは足を止め、声のする方へとゆっくり振り返る。

「あっ……」

 自分の目の前にいる相手の姿を見た途端、ジャンは言葉を失った。

 肩にかかる、丁寧に結ばれた赤い髪。
 こちらを見据える二つの瞳は、薄暗く淀んだ色を湛えている。
 目の下には未だうっすらと隈が残り、あまり寝ていないのだということが直ぐにわかった。
 心なしか、顔も少しだけやつれているような気がする。
 単に疲れていると評するには、あまりにも雰囲気が変わり過ぎた幼馴染がそこにいた。

「リディ……」

「ジャン……。
 久しぶりだね……」

 どこか力のない、乾いた声だった。
 以前の彼女が持っていた、明るくはつらつとした様子はまるでない。

「ジャンは……今日は、何しにこの街へ来たの……?」

「な、何しにって……。
 僕は医者だからね。
 街が疫病で大変なことになっているって聞いて、往診に来たんだよ。
 僕にできることなんて限られているけれど……それでも、何もしないよりはマシだろうから……」

「そうなんだ……。
 偉いね、ジャンは……」

 虚ろな瞳でジャンを見ながら、リディはゆっくりと近づいてきた。
 普通に歩いているだけなのに足音さえ立てず、その身体はゆらゆらと風に揺れている。
 まるで、目の前にいるのは生きた人間ではなく、幽霊の類ではないのかと思ってしまうほどだ。

「ねえ、ジャン……」

「な、なんだい……?」

「ジャン、往診で疲れているんでしょ……。
 もしよかったら……私のところで、ちょっと休んでいかない……?」

「えっ……で、でも……」

「休んでいくよね?
 休まない理由なんてないよね?
 ジャンだって……疲れたまま往診なんてしていたら、今に病気をうつされちゃうよ……」


530 :ラ・フェ・アンサングランテ 【第十六話】  ◆AJg91T1vXs :2011/01/28(金) 00:37:30 ID:IV/TJIB5
 既にリディは、互いの顔が触れるほどの距離にまで近づいてきていた。
 彼女の手がジャンの肩をしっかりとつかみ、灰色に濁った瞳がジャンに向けられる。
 はぁっ、という音と共に白い息をかけられると、それに混ざって何やら甘い香りがした。
 ルネのつけていたものとは種類が違うが、どうやらリディが使っている香水のようだった。

「ねえ……休んで行くよね、ジャン……。
 それとも……私の宿で休むのは、そんなに嫌なのかな……?」

「い、いや……。
 別に、そういうわけじゃ……」

「だったら、休むってことで決定ね。
 ジャンにも帰りの時間があると思うけど……それまでは、お茶でも飲んでゆっくりしましょう……」

 虚ろな瞳を携えて、リディはジャンに病的な笑みを投げかける。
 そんなリディの言葉に対し、ジャンは無言のまま頷いた。
 いや、頷くしかなかった。

 ここで断れば、何をされるかわからない。
 そんな恐怖にも似た感情が、ジャンの心の中に湧いてきた。
 それだけリディの全身から放っている空気は異様であり、相手に反論をさせないだけの強烈な圧迫感を持っていた。

 リディにその手を引かれるまま、ジャンは雪の降る街中を歩きだす。
 こんな形でリディの宿場に戻るとは思っていなかったが、彼女の手を振り払って逃げ帰ることさえも、今のジャンにはできそうになかった。