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629 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:10:08 ID:Dwn9Nfj7
第二十三話~令嬢の誤解~

 食事を済ませたあと、俺と華はこの町が建てた図書館へと足を運んだ。
 移動手段は徒歩。実はさっきまで食事をしていたファミレスと自宅、あと自宅から図書館までの距離は
そう遠くはない。自転車に乗らなくても二十分少々歩けば到着する。
 女性に長く歩かせるのは良くないということは経験上知っているのだが、華はどうやら例外であるらしく、
図書館に着くまで疲労を訴えたりすることはなかった。
 それどころか上機嫌ですらあった。弾んだ声音で何度実家の素晴らしさを語られたことか。
 実家に帰りたくない、というわけではない。だが帰りたいわけでもない。ちょうど中間ぐらいだ。
 フリーターとなった今の状況では一旦実家へ戻り態勢を立て直すべきなのだが、退職してからすぐに
実家へ戻らなかったため、すでに悪い方向へ向かってしまっている。
 下手をすればこのままずるずるとフリーターのまま、数年間過ごすことになってしまう。
 切り詰めた生活を送っていくよりは、就職してそれなりの暮らしのほうがずっといい。
 早いところなんとかしなければならない問題だ。
 もっとも、今抱えている問題の方がずっと深刻で、恐ろしく解決困難なのだが。

 平日らしく、図書館の駐車場には軽自動車が二台駐まっているだけだった。
 来館している人間はかなり少ないと見ていいだろう。理想的な状況だ。
 華は、俺の隣で周囲を鋭い目つきで見回していた。
「駐車場、ここだけですか? 近くに車が駐められそうな場所なんかありましたか?」
「ここだけだ。他には……駐めようとすればどこでも駐められる」
 人が居ないわけではないが、かといって昼に散歩しても誰ともすれ違わない程度の大きさの町ではそんなものだ。
 事実、ここに来るまですれ違ったのは車だけだった。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「いえ。あの女が来るんなら、車のはずだと思ったので」
「あの女……って、かなこさんか」
「前、一度だけ大学に高級車でやってきたことがあったんですよ。運転手付きでした」
「ああ。あの車ね」
 覚えている。やけに丈が長くて、かすり傷一つ付いていなさそうな程に滑らかなボディをした黒塗りの高級車が
この駐車場に駐まっていた。その時はともかく、今はあれが菊川家のものだとわかる。
 あの車を見た後で俺は首を絞められて意識を失い、かなこさんとの会食の場へ連れて行かれたのだから。
「あれだけでかい車なら、ここに歩いてくるまで嫌でも目に入ってくるだろ。
 それに、このタイミングでかなこさんが図書館に来るはずがない」
 無事なのかどうかも怪しいし。大して筋トレもしていない俺が、どうしてそうすることができたか不明だが、
腹に拳を打ち込んで窓の外に飛ばしてしまった。無事かどうかは確認していない。
 無事だったとしても、俺が図書館にやってきたタイミングで鉢合わせするとも考えにくい。
 俺の身の回りでは考えられないことばかり起こっているが、今だけはそう信じたい。
「来ていたとしても、どうだっていいことですし、ね。私が付いているからには安心ですよ、おにいさん」
「ありがとよ」
 四つ歳の離れた従妹に勇ましく頼り甲斐のある台詞を言われたが、俺は平静を装った。
 図書館では騒がないでほしいが、いざという事態になったら華は約束なんか忘れてしまうだろうから、
注意することもしなかった。



630 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:12:37 ID:Dwn9Nfj7
 自動になっていないドアをくぐり抜け、館内へ足を踏み入れる。土足でもオーケーなのはありがたい。
 中にいる人間はカウンターの向こうで黙々と仕事を進めている職員だけで、
フロアに用意されている席に座って本を読む人間は誰一人としていなかった。
「あの女の姿も見当たりませんね。よっぽどおにいさんのボディブローが効いたみたいです」
「単に来てなかっただけだろ」
 あと、わざと殴ったみたいな言い方をするな。殴ったのは事実だけど、殴るつもりはなかったんだ。
「そうと分かってもゆっくりしてる場合じゃありません。早いところ用事を済ませてきてください」
「お前は? 一緒に行かないのか?」
「私は誰か来ないか警戒しておきます。もしかしたら今から、ってことも考えられますしね」
「わかった。じゃ、行ってくる」
「はい」

 華と別れ、カウンターの前へ。向こう側では女性職員がコンピューターに入力作業を行っていた。
 遠慮するような静けさのタイプ音が止んでから、職員は立ち上がった。
「返却ですか?」
「いえ、ちょっと聞きたいことがあって。今、いいですかね」
 一応確認をとっておく。
 職員は一度パソコンの方へ目をやって、また俺へと戻した。
「構いませんよ。答えられることなら」
 期待通りの返事をもらえた。左手に持っていた二冊の本をカウンターの上に置く。
「この間、だいたい二週間ぐらい前ですけど、このタイトルが無い本のことを聞きに来た女性がいませんでした?」
「んー……ああ! あの長い黒髪の美人さんですか。覚えてますよ。
 いきなりやってきて、これこれこういう本がありませんか、って聞いてきたんです。
 その本は以前さらっと読んでいたので内容は知ってましたから。ありますよ、って答えました」
「それから、この本を借りるんじゃなくて」
「ええ。わたくしにこれをくださいませんか、って言ってきました。
 くださいと言われても、一応町のものだからあげられないですよ、こっちとしては。
 で、何度か問答しているうちに館の責任者が出てきたんで、今度はそっちに聞きに行ったんです。
 断るんだろうなと思って見てたら、二三会話するだけで責任者が頷いて、その女の人は本を持って出ていきました」
「どんな話をしていたかは?」
「名前を聞かれて、それに女の人が答えて。で……いきなり態度が変わったんですよね。
 女の人じゃなくてこっちの人間が。急にぺこぺこ頭を下げて、なんでもお申し付けください、とか言って。
 それから、この本をください、はいどうぞ持っていってください、って感じでした」
「へえ……」
 さすが有力者の娘。図書館の館長クラスにまで名前まで知れ渡っているのか。
「その後は本を持って帰っていきました。私が知っているのはそれぐらいです」
 で、かなこさんは外に出て行って、帰ろうとしている俺を発見して捕まえたわけだ。
 こっち側の本――『無題』をかなこさんが所有することになったのはそこからか。



631 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:14:01 ID:Dwn9Nfj7
「他には何か?」
「その本なんですけど、昔からここの図書館にあったものなんですか?」
「んー……どうでしょうね。ずっと昔からここに勤めていたわけじゃないですし。
 引き渡した後、関係する書類を見たら館で所有していた期間は不明、って書いてありましたね。
 というか、書類そのものが曖昧で。タイトルの無い本なんか普通こんな場所では扱いませんよ」
「誰が寄贈したかとかも、やっぱり?」
「わからないですね。あ、でも…………」
 ここで、女性職員が背後を振り返り、次いでフロア全体を見回すように視線を泳がせた。
「どうかしました?」
「……上の人に見つかったらちょっとまずいんです。内緒にしてくださいね?」
 そう言って、身を乗り出してきた。俺も少しカウンターへ体を寄せ、耳打ちを聞く態勢を取る。
 自然に、俺の視線は横に向くことになる。視線の先には、入り口付近に立つ華の姿があった。
 そして、不機嫌な効果音を出しそうな顔に貼り付いている瞳と正面からぶつかった。
 なぜ、華の視線が俺に集中しているのだろう。
 警戒しているのはかなこさんに対してではなく、俺の動きに対してなのだろうか。
 女性職員とはしょっちゅうこの図書館に来ているせいで顔見知りではあったが、お互い名前も知らない。
 俺自身、この人と何らかの関わり合いを持とうとは思っていない。華に注意されるようなことはしていないのだ。

 入り口から目を逸らす。見えない重圧がかかっているような気がしたが、気のせいにしておく。
「なんか最近、館の責任者の羽振りがいいんですよね。いっつも上機嫌で。
 車も買い換えてました。役場に行くとか言って今日も出ていったんですけど、たぶん昨日みたいに
 夕方になった頃に帰ってくるはずですよ」
「そりゃ……また、どうしてですか?」
「予想ですけど、さっき話していた女性が来て数日が過ぎた頃からそんなふうなんで、
 女の人からお金をもらったんじゃないかな、って。本を渡したお礼みたいな感じで。
 きっとその本は特別なもので、あの女性はすごい大金持ちだったりして、とか!」
 耳のすぐ傍から弾んだ声音で話しかけられる。顔は見えないが、笑っているような気がした。
 入り口の方から床を踏みならすような音が聞こえてきた。が、無視する。
 今はそれなりに大事な話をしている最中なのだ。

「あの時の美人さん、知り合いですか?」
 女性職員は耳打ちを止め、いつもの貸し出し業務をするときの場所に戻ってそう言った。
「知り合いというか……なんというか。まあ、知り合ってはいるんですけどね」
 かなこさんとの関係は、どう言い表したらいいのかわからない。
 前世からの恋人だったということはない。それだけは認めたくない。
 俺の方は二度と会いたくないと思っているが、かなこさんはその真逆で俺に会いたがっているはず。
 金持ちでそのうえ美人の女性から言い寄られている状況だが、生憎俺に受け入れる気はない。
 俺はもっと平穏な、金はそこまで持っていなくても生活に困ることのない生き方をできればいい。
 欲が深すぎるとろくでもないことになる、ほどほどが一番だ、というのが今まで学んだことだ。
「そうですか。じゃあ、もし今度会うことがあったら私にもちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから、
 本のお礼をください、って言っておいてください」
 だが、演技でもこの女性みたいに欲深い方が大胆になれていいのかも。
 こんなだから俺は社会的には無職に見える地位にいても平気なんだろうな。



632 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:15:45 ID:Dwn9Nfj7
 職員に礼を言い、カウンターを離れる。
 入り口に向かうと、腕を組んで備え付けの木製の椅子に座っている華がいた。
 左足のつま先がいらいらを物語るかのように床を叩いている。そのたびに、破裂音に似た小さな音が鳴る。
「おにいさん、図書館は静かにしなきゃ駄目ですよ。
 誰もいないからって、仲良くぺちゃくちゃ喋るのはいただけませんね」
「うるさいのはお前だって同じだろうが。バンバン床を鳴らすんじゃない」
「誰のせいだと思っているんですか」
 俺のせいだとお前は思っているんだろう。だがそれは誤解だ。曲解だ。
 女性に話を聞きに行っただけでそこまで怒るお前がおかしい。
「もういいです。何にも無かったみたいだし、許してあげます。……それで、なにかいい話を聞けましたか?」
「あんまり。確信が深くなったのは、この本を作ったのも、図書館に預けたのもかなこさんじゃないってことぐらいか」
「ふうん……そんなところだろうとは思ってましたけど」
「どうしたもんかな、ここから」
 これ以上話を聞きに行っても大した話は聞けそうにない。
 図書館の責任者が戻ってくるのを待ってから話を聞くか?
「帰りましょうおにいさん、実家に」
 そうだな。一旦実家に帰って調べ…………待て。

「いきなり何を言い出すんだ。まだ何にもわかってないんだぞ」
「そろそろ気が済んだかな、と思って提案してみたんですけど。まだ、納得できませんか?」
「ちっとも、だ」
 華が肩をすくめ、こっちに聞こえる大きさのため息をわざとらしく吐いた。
 さらに、指で自分のこめかみを押さえる。
「そんなこと調べたって何にもなりませんよ。今こうしている時間も惜しいぐらいです。
 早くおじさんおばさんの居る家に帰って、就職活動に取り組んだ方がよっぽど今後のためになりますよ」
「だから、なんで香織とかなこさんを殴りたくなるのか、って理由がわかって治るまで実家には帰れないだろ」
「その症状が治るという保証はあるんですか?」
「そりゃ…………」
 反論するのをつい躊躇った。
 治るのか、治らないのか。動くにあたって確認するべきだった要素。
 今の今まで、俺は治すことだけを考えていた。だが、治せるという保証はどこにもない。
 症状のかかり方からして普通じゃなかった。
 今後本に操られないようにする方法なんて、どの医者でもわからないだろう。
 こっちの頭を疑われるのがオチだ。
 だから、自分の力でなんとかしなければならない。
 なにより、俺自身がこんな状態でいるのは嫌だ。これから香織に会えなくなるなんて御免だ。
「治ると信じて動くしかないだろ。治せないという保証はどこにもない」
「その逆の、治せる保証もないですよね」
「確かにそうだが、治せなきゃ俺が困る。お前は困らないんだろうが」
 即、華が無言で頷く。本人以外の反応なんてこんなものだ。
 もっとも、華の場合はこいつなりの特別な理由があるのだろうが。



633 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:17:39 ID:Dwn9Nfj7
「とにかく、俺はまだ調べる。お前、手伝う気がないんなら帰っていいぞ」
「手伝ってるつもりはありません。私はただ、おにいさんの身に危険が及ばないように動いているだけです。
 あと、実家に帰るよう促すことも、こうしている目的のひとつです」
 なんて不要な存在なんだ。邪魔者兼ボディガードなんて要らん。
「俺の気が変わることはない。そうしているだけ無駄だぞ。今からでも大学に行ってきたらどうだ」
「いえ、大学に通う目的はもう達成しています。
 私があの大学を選んだのは、所在地がおにいさんが住んでいる町にあるから、それだけです。
 おにいさんの近くに居を構えた今となっては、これ以上通う意味なんかありませんね」
「……あっそう」
 そんな調子でいいのか、大学生。
「お前、将来の就きたい仕事とかないのかよ。大学は最後まで通った方がいいぞ。
 高卒の俺が言っても説得力ないだろうけど」
「理想はおにいさんの隣に永久就職することです」
 ……おい。恥ずかしげもなく、しかもこんなときにそういうことを言うな。反応に困る。
「強引な手段をとることも前は考えていましたけど、今となってはその必要もなくなりました。
 だって、このままいけばおにいさんは香織さんのところにも菊川かなこのところにも行けないでしょう」
「……俺がこうなったことを喜んでいるのか」
「いいえ。そこまでは考えてないです。おにいさんが危険にさらされることはまったく望んでいません。
 でもまあ、結果的におにいさんはまだ無事ですし。それにこのまま行けば…………」
 突然そこで言葉を切って、華は固まった。
 目は俺ではなく、俺の右斜め後ろ辺りに向けられている。
 華が立ち上がる。表情は険しく、怒っていることを露骨に表現している。
 その視線を追い、俺も振り返った。

 まず、総毛立った。
 まさかこんな、俺が図書館に来たタイミングでこの人までが来ることはないと、安心していた。
 そう、安心しきっていたのだ。
 だから、振り返ったとき、最初に目にした人物がかなこさんだとわかったとき、いきなり袋小路に追い詰められたような気分になった。
「ようやく、見つけましたわ。雄志様」
 最初に、かなこさんはそう切り出した。
「見つけた、って」
「ずっと探していたのですよ。気がついたら屋敷から居なくなっていて、それに……そこの女も居なくなっておりました。
 これはもう、雄志様が拐かされたのだとすぐに察しましたわ。そして、こうして発見することが叶いました。
 ……現大園華」
 俺の後ろにいる人物に狙いを定め、言う。
「よくもやってくれましたわね。本当に邪魔な存在ですわ、あなたは。いつもいつも邪魔をして」
「それはこっちの台詞です。いつまでもいつまでも、妄想を垂れ流しておにいさんに近づいているくせに」
「妄想、とは?」
「あなたが前世でどこぞのお姫様だった、とかいう虚言ですよ。勝手に思いこむのは構わないんですけど、
 それにおにいさんを巻き込むのはやめてもらえ――いえ、やめなさい」
「……ふふっ」
 かなこさんが目を細め、口元に手を当てて、上品に笑う。
 極上の冗談を言われたときのように、肩まで震わせている。
 嘲るようなその笑みは、止めなければいつまでも続きそうだった。



634 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:19:36 ID:Dwn9Nfj7
「何がおかしい!」
 華の大声が後ろから飛んできた。
 背にしているから表情はわからないが、怒っているということだけはわかった。
 振り向いて確認する気はない。かなこさんを前にして、その姿を視界から外してしまうのは躊躇われた。
「いえ。予想が大体当たってしまったもので、ついおかしくなってしまいました。失礼を。
 やはり、あなたもそう言うのですね。天野の娘も同じ事を言っておりましたわ。
 前世などあるはずがない、の一点張りでした」
「あなた以外の人間は皆同じ意見ですよ。現に、おにいさんだって信じていませんしね」
 どちらかと言えばな。もしかしたら違うかも、程度には疑いを持っているが。
「そうでございましょうね。雄志様は昔から、正直になれないお方でした」
「ふん……おにいさんの一番古い過去を知っているのは私だけですよ」
「わたくしが言っているのは、その時のことではありませんわ。
 雄志様がわたくしの心と体の両方を守ってくださっていたときのことを言っているのです」
 小さな舌打ちの音が背後から聞こえた。
「あなたに話は通じませんね。いつも平行線です」
「前提が違うのでしょう。前世のことを信じているわたくしと、信じない者とで話が通じるはずがありませんもの」
「ですね。はっきり言って、いくら話したって無意味ですね」
「ええ、無意味です。もともと、わたくしはあなたたちのような人間との会話に意味など見いだしてはおりません。
 雄志様と話をするときだけ、会話が成り立っていれば構いませんでした」
「……とんだお嬢様もいたもんですね」

 華のつぶやきに返事せず、かなこさんは俺に向き直った。
 その穏やかな笑みには狂気が隠されている、と心に言い聞かせなければ、こちらまで流されて頬を弛めてしまいそうだ。
「申し訳ありませんでした」
 ……え。
 謝られるようなことをされた覚えもないのに、頭を下げられた?
 心構えが弛緩した。置いてきぼりをくらったような気分だ。
「わたくしは、今まで誤解しておりました」
 そうでしょうね、とつい言いたくなったが、口には出さない。かなこさんが言葉を繋ぐまで待つ。
「雄志様が望んでおられることを、わたくしは理解していないどころか、今まであのようなことをしてしまって。
 本当に、過去のわたくしに折檻してやりたいところですわ」
 理解しがたいことを言われ、思考が止まった。俺が望んでいることを、かなこさんは知っている?
 望みなんか、俺には特にない。全くないわけではないが、どれも小さな事柄ばかりだ。
 日常で、いいニュースが流れて欲しいとか、夕方スーパーに行ったとき安売りされている総菜が残っていたらいいなとか。
 まさかそんなことをかなこさんが察するはずもない。話題を持ちかけられたことすらないんだ。
 なのに、俺が望んでいることがかなこさんにはわかるっていうのか?



635 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2008/01/07(月) 03:24:00 ID:Dwn9Nfj7
「凡なる人間と同じように、平穏に、ただ天寿を全うするまで過ごすことが雄志様の望むことである、と誤解していたのです。
 だからわたくしもそれに合わせ、雄志様の伴侶となり歩む道を進んでいこうと考えておりました」
 それこそが俺の望む人生なんですけど。
 好きな女性と結婚して家庭を持ち、平凡に一生を暮らせたら最高じゃないか。
 先行きの不透明な今の状態、そして現代社会では、そんな人生すら危ういというのに。
「ですが、それは違ったのですね。わたくしの見立て通り、雄志様は愛に生きるお方でした」
 愛って。俺のどこをどう見たらそういう見解に至るんだろう。それこそ誤解だ。
 これは駄目だ。なにか、違う方向にかなこさんは物事を考えている。止めなければ。
「あの、俺は普通の生き方が好きなんですよ。特に夢がなくても、絶望しないで、小さな幸せを感じられるような生き方がいいんです」
「正直ではありませんね。わたくしはそんなところも好きですわ」
 不意に、満面の笑みを浮かべられた。こんな台詞を言われたら胸が熱くなって、言葉が詰まるのは必然だ。
「ですが、もう言葉は要りません。雄志様のお言葉と、行動に矛盾があることに気づきました。
 この時代でのわたくしの父、菊川桂造の誕生日パーティーの翌日、雄志様はわたくしを拒絶しました」
「当たり前じゃないですか」
 と、華が割り込んできた。
「ベッドに体を固定するような女を受け入れるような男じゃないんですよ、おにいさんは」
「黙りなさい。あなたの出る幕は既にありません。
 ……それで、なぜ拒絶されたのか、わたくしには理解できませんでした。雄志様はわたくしを求めているはず。
 体を重ねれば、雄志様は満足してくださると、そう考えていたのです。浅はかな考えでしたわ」
 確かにあの行動は浅はかではあった。その後に首を絞められたこともそう。
「その上、雄志様のお命まで奪おうとしました。あれが、あれこそが、最大の過ちでした。
 雄志様は、わたくしに命を奪われることを望んでなどおりませんものね」
「そりゃあ……だいたいの人間はそうですよ」
 口を開いてわかった。喉の奥が乾いている。なにか飲み物が欲しかった。
 だが、状況は安らぐ暇など与えていない。緩やかな緊張感が俺を縛り続けている。
 かなこさんは目を閉じて可愛らしい笑みを浮かべた。
 次の瞬間に、目を開けて俺に告げる。俺の望みがいったいなんであるかということを。

「命を奪うべきなのはわたくしではなく、雄志様の方ですものね。
 以前、この場所で初めて――いえ、久しぶりに再会したときにわたくしが言った、本のお話に出てくる姫が真に願っていたこと。
 それに応えるように、雄志様も願っておられたのでございましょう?」
「……あなた、何を……?」
 口を開いたのは華だった。
 俺は何も言わない。喉が渇いていたから。
「今朝、雄志様の拳を受けたときに悟りました。わたくしを殺したいと、望んでおられることを。
 命を奪い、最期を看取り、存在の全てをその心に刻みたい。
 ああ、迂闊でしたわ、わたくしは。愛するお方に殺されることこそが望みだったことを忘れ、幸せを押しつけようとして。
 殺されることに怯えていたのかもしれません。許してくださいまし。
 ……さあ、雄志様。あとは望むままになさいませ」
 あと、それよりもなによりも、かなこさんの言っていることが、

「わたくしを、どうぞお好きなように、存分に、望むままに殺し、心に刻み、そして――愛してくださいませ」

 最大の誤解だったから。