いつも通りの朝、何にも変わらない目覚め。枕元で騒いでる目覚まし時計を黙らせてあくびをすると、窓の外の風景が目に入る。今日は雨のようで、少しけだるい。
 ベッドからでると、慣れた手つきでネクタイを締め、ブレザーを着ると部屋を後にした。
「お兄ちゃーーん。朝できたよー!」
 妹の声だ。朝から良くそんな声が出せると思う。
 階段をふらふらとした足取りで降りていくと、一階のリビングで妹が声を掛けた。
「あ、お兄ちゃん、トーストは何枚焼く?」
「……ん? えっと、一枚でいいや」
「了解! ちょっと待っててね」
 なんて朝からテンションが高いのだろう、出来るのならそのテンションを少し分けてもらいたい。なんて皮肉を言ってみるが、僕が弛んでいるだけなのかも知れない。
 ふと妹に目をやる、妹はトースターとにらめっこをしていた。
 そして「ん? 何、お兄ちゃん。この可愛い妹にいやらしい目を向けて……」そう冗談交じりに笑ってみせる。けれども、確かに妹は兄である僕から観ても可愛いと思える。顔はどこをとっても申し分ないくらいに整っており、身長は少し低いぐらいだが、それに丁度いい体のバランスが取られている。胸は、大きすぎず小さすぎず。けれども身長に合わせてやや小さめなところが個人的にはいい。綺麗な黒髪は今日はツインテールでまとめていて、妹の明るさを際立たせている。
「いや、別に。ねえ優花、何かいい事でもあったの?」
 それを聴いてうれしそうに笑う優花。
「それがさ、今日お父さんとお母さんからエアメールが届いたんだ」
 テーブルの上を指差しながらうれしそうに言った。それにつられる様に目をやると確かに開封済みのエアメールが一通。
「二人から? 珍しいね」
 封筒の上にあった折りたたまれた手紙を広げる。そこには夏休みに会えそうにないという内容と、冬休みには会えるという二つの内容が記されていた。
「そっか、やっぱり駄目になっちゃったか」
 しかし、すると優花はなぜ喜んでいるのだろうか。
「そうなんだよね、でも冬休みにスキー行くって」
「それでうれしそうなのか?」
「うん」
 ただそれだけでこんなに喜ぶとは、なんと無邪気なのだろう。優花の様な中学生は現代に果たして何人いるのだろうか。
「…………それに……おにいちゃんと二人きりで一緒にいられるし……」
「え、今何か言った?」
 聞き取れなかった為、優花に聞き直そうとするが「え、ううん。何も言ってないよ、お兄ちゃんの聞き間違いじゃない?」どうやらそうでも無かったらしい。
「そっか――って、あ、もうこんな時間……」
 妹の焼いたパンとトーストを急いで食べると、鞄を持って立ち上がる。
 丁度その時だった、部屋中をドアホンが鳴り響く。
「もしかして七海さんじゃない?」
「相変わらず時間ぴったり。それじゃあ、いってきます」
「――って、お兄ちゃん。ケータイ忘れてる!」
 ケータイは胸ポケットにいれていた気がするが、手のひらで叩いてみると、そこには何も入っていなかった。どうやら入れ忘れていたらしい。
「うん、ありがと。いってきます」
 優花からケータイを受け取ると、急いで玄関まで行き、靴を履いて傘を持って外に飛び出した。


「おはよう、春斗君……」
「七海、おはよう」
 外に傘を差しながら行儀よく立っているのは、幼馴染の夢七海だ。
「それじゃあ学校行こうか」
 そう言って二人で歩き始める。
 僕と七海は気がついたら一緒にいた。それは別に深い意味があるわけじゃなく、単純に小さい頃から一緒にいた。記憶が正しければ僕と七海の両親が友達で、海外に住んでいた七海の両親が日本に移住したんだと思う。
 その証拠に七海の髪は綺麗な金色である。両親がアメリカに住んでたとは言え、父親がハーフなため、実際にはクオーターと言う事になる。そのため髪の色は金色だが、顔立ちや背丈はどこと無く日本人のもので、そのアンバランスさが上手い具合にバランスが取れている。と、七海について語ってみるのだが、そんな彼女は友達というより家族という方がとてもしっくり来る。
「ん? どうしたの春斗君」
「いや、相変わらずいつになっても春斗君って言うなと思ってね」
「えっと、なんだかもうそれで定着しちゃって。嫌、かな……」
「ううん、別に気にしてないよ」
「そっか、ありがと」




 あの女はなぜいつもお兄ちゃんと登校しているのだろうか。思わず手に持っていたグラスのコップを壁に向かって投げつける。グラスは見事に粉々に割れ、破片が床に飛び散り高い音がフローリングを転がった。
「いつも十五分も余裕を持って来るなんて信じられない。十五分もあったらお兄ちゃんとたくさん会話が出来るのに!」
 トーストを握りつぶし、テーブルの上に叩きつけ、椅子を蹴りつける。
 カーテンを少し開けと、二人が歩いている姿が目に入った。
 きっとあの女、あたしからお兄ちゃんを奪い取ろうとしているに違いない。
 その場にしゃがみこんでうつむきながらも右手を握り締める。昨晩お兄ちゃんのメールを確認したが、ほとんどはあの女からのメールであった。もはや疑う余地は無し、これ以上手を拱いているいる訳にもいかない。
 落ち着く為に手を緩めると、部屋に散らばったガラスの片付けに取り掛かった。




「春斗君、今日はお弁当?」
 昼休み、購買部へ行こうとしていた僕の元へ七海が弁当を片手に歩いてきた。
「あぁ、七海。ううん、今日は違うよ」
「そうなんだ。……えっとさ、今日は春斗君の分も作ってきたんだ」
「え、本当? ありがとう。それじゃあ――」
「……屋上で食べようか」
 二人で歩き出す。階段を登って屋上に出ると、雨はすっかり上がり、雲を蹴散らすかのように日が差し込んでいた。
 屋上のベンチに二人で座ると、お弁当をひざの上に広げる。
 七海がお弁当を作ってくれるのは何も珍しいことじゃない。高校に入ってからは基本的に優花が作ってくれるお弁当を食べている。けれども元々、朝の手間を掛けさせない様に購買部で昼食を済ませようとしていた僕は、優花にその旨を打ち明けたところ「あたしの料理を食べたくないんだ」とか何とか言われ、泣きつかれてしまった。しかし、何とか説得することに成功し、週に二日は購買部で昼食を買う、ということで同意してもらったのだ。
 もちろんその事は親しい七海も知っている。だから僕がお弁当で無い日には僕の分を作ってくれるのだ。
「ごめんね。いつもいつも作ってくれて。本当に僕はパンでいいのに……」
「だめだよ。春斗君は顔に似合わず夜食したりするんだから、お昼ぐらいはちゃんとしたご飯を食べなきゃ」
 七海の鋭い指摘。確かに昨日も深夜にカップラーメンを食べた。深夜にお腹が空くと、手軽なカップラーメンについつい手が伸びてしまうのだ。しかしなぜそれを七海が知っているのだろうか。
「で、でもさ。ちゃんと夜は優花の作ってくれた料理を食べ――」
「――またすぐ優花ちゃんに頼ってる。自分でも意識しなきゃ意味ないじゃない」
「ご、ごめんなさい」
 なんだか優花と同じ事を言われた気がする。
「こんなダメな兄さんじゃ優花ちゃんも大変だね」
 七海はため息をつきながらも箸を進めた。
「う~ん、やっぱり自分で弁当を作らなきゃダメなのかな」
 これは今咄嗟に思いついた事ではなく、前々から考えていた事だ。七海が言った通り、確かに僕は優花に頼りっぱなしだ。それは他人に言われるまでもなく自分が一番わかっていることだし、どうにかしなければならないとも思っている。もちろん、余りにも優花が何でも出来てしまうのでついつい頼ってしまっている僕の頼り癖をどうにかしない事には何も始まらないのだが。
「…………お料理、覚えたい?」
 七海の箸が止まる。決してこっちを見ることはなかったが、そうはっきりとした声で言った。
「そうだね、出来るのなら」
 お弁当に入っていた卵焼きを箸で切り分けながら答えてみた。
「じゃあさ、今日の放課後、あいてるよね」
「うん? よくわかったね、今日は空いてるよ――って、あれ。もしかして……」
 七海の方を少しだけ見た。七海も同様に僕を横目で見つめ。
「……今日、家で料理を教えてあげるよ」
「ほ、本当? ありがとう、本当にありがとう! 僕は家で作れないからさ……」
 それは願ってもない事だ。七海の料理のレパートリーの多さや上手さはいつもご馳走になっている僕が良くわかっているし、自宅のキッチンは使えない。まぁ、理由は言うまでも無いが。
「うん、それじゃあ帰ったら家に来てよ。私は待ってるから」
「それじゃあ、お邪魔しようかな」
 七海は笑顔でうなずくと、おにぎりをその小さな口でかぶりついた。その時の笑顔は乱暴な日の光よりも強くて、なんだか見ているだけで柔らかな気持ちにさせてくれた。

 ――そう、微かな違和感を残したまま。




 今日は開校記念日ということで、私は日ごろできない場所の掃除をしている最中だった。
「……ふぅ、やっぱりゴミが溜まってたか。掃除しておいて正解だね」
 掃除機とはたきを上手に使い分け、流れるように進めていく。けれども今日は今朝のガラスを片付けたせいで手に創膏が貼ってあり、思うように作業が進まない。
「あとは、お兄ちゃんの部屋だ」
 自然と笑みがこぼれる。いつもはお兄ちゃんに頼み込んでも掃除させてくれないが、今日は掃除が出来るのだ。もちろん、それだけが笑みの理由では無いのだが。
 掃除機を持ち、右手にはたきを持って階段を登る。足取りは不思議と軽かった。
「失礼するよ、お兄ちゃん」
 ゆっくりとドアノブをひねり、静かにドアを開ける。
 想像とは裏腹にお兄ちゃんの部屋は片付けられており、一見すると、どこにも掃除する場所は無いように感じられた。しかし、それではつまらない。部屋に入ると、掃除しそうもないような場所を探して「お兄ちゃん、こんなところに埃が残ってる。掃除しなくちゃ!」そうわざとらしく言ってみる。
 カーテンレールの上など、普通は掃除しないだろう。モップを利き手である左に持ち替え、掃除を始める。しかし、やり始めると、とたんに掃除はあっという間に終わってしまった。やりごたえがなさ過ぎて思わず唇を尖らせると、ベッドに目が行った。
(……少しぐらいなら……いいよね?)
 ベッドに入ると、お兄ちゃんの匂いが鼻を通りぬけ、その香りで不思議な浮遊感を得た。なんと幸せな匂いなのだろうか。枕に顔を埋めると、瞳を閉じる。
 こんな時、いつも思い出すのはお兄ちゃんに抱きしめてもらった最後の記憶。多分小学校五年生ぐらいの時だろう、この記憶が一番新しいため、恐らくそれ以降抱きしめてもらっていないのだと思う。
 幸せな記憶ではあるが、その時は自分の不注意によってお兄ちゃんを傷つけてしまった。何度も謝ったし、がんばって手当てもした。それでもきっと自分は嫌われてしまったのではないかという不安で頭の中が真っ白になり、死んでしまおうとも思った。
 けれどもそんな不安はすぐに消し飛んだ。なぜならば、そんな自分をみて何も言わずに抱きしめてくれたのだ。その瞬間、不安は解き放たれ、涙が溢れ出した。泣いたのだ、自分よりも辛いであろうお兄ちゃんではなく自分が。けれどもなぜか幸せだった。それはお兄ちゃんに対してとてもあってはならない事、それでも何故か幸せだったのだ。
 今となってはその傷も癒えてしまって、多分お兄ちゃんは覚えてないだろう。けれども信じているのだ。いつかまた抱きしめてもらえると。今度は覚えることが出来ないくらい純粋で、痛みもない幸せも一杯に抱きしめて。




 自宅に帰ると、いつも玄関まで駆けつけてくる優花の足音がしない事に気がついた。休日だから出かけているのだろうか、それも静かでいいのだけれど。
 靴をそろえると、いつも通り階段を登り、部屋の前までたどり着いた。そこでとある事に気がつく、扉が少し開いているのだ。考えられることはひとつ。
 ため息をつくと、扉をゆっくりと開ける。予想通り、彼女はいた。
 ベッドで幸せそうにすやすやと眠る優花。
「ねえ、優花。起きてよ、いつもあれ程言っているのに――」
「…………お兄ちゃん……むにゃむにゃ……えへへ……」
 優花をゆする手を止める。いや、止まってしまった。こんなに幸せそうに寝ているのを見て、起こすのは気が引けたからだった。
「――まったく」
 幸せそうに眠っている妹にタオルケットを掛けなおすと、私服を持って廊下に出て行くことにした。




 ここはどこだろうか。目を開けると見慣れない天井に違和感を覚えた。
「そうだ! いけない……今何時……」
 すべてを思い出し、焦りから勢い良く起き上がる。窓の外は日が沈んで暗くなっていた。それが不安を煽る。ベッドを出ては急いで部屋から出ようとした。しかしその途中で机の上に置いてあるメモ書きに気がつき、それに恐る恐る手を伸ばす。
「お兄ちゃんの字だ……許してくれるって……」
 自分を気遣ってくれているやさしい文面と、言いつけを破った自分への説教。その両方がとても愛しく思えて、そのメモ書きを大切に折り畳み、仕舞った。
 けれども、許せない文字もそこには綴られていた。そう、お兄ちゃんの所在である。あたしは思わず握り締めた左手を右手で押さえ込んだ。
「なんでなの? お兄ちゃん……」
 開いていた窓から心地よい風が吹き込む。その風はまるで自分の怒りの熱をもって行ってくれるような気がして、惹かれるままに窓の傍まで行き、外を眺めていた。




「お邪魔しま~す」
「あ。うん、どうぞ」
 七海は一人暮らしだ。理由は簡単、両親同士が友達だから。とは言ってもそれだけでは全く分からないだろう。詳しく説明すると、七海の親と僕の親は同業の良きパートナーであり、海外で仕事をしている。僕らの両親が普段家を空けているのと同様、七海の両親も家を空けている、というわけだ。
「どうしたの? 考え込んで」
「あぁ、なんでもないよ」
 招かれるまま廊下を抜ける。
 久しぶりに訪れた七海の家は昔と変わらず片付いており、フローリングも磨かれていてとても清潔感があった。
 七海の部屋の前を通った時、この清潔感のある部屋にとても不釣り合いなものがある事に気がついて足を止めた。
「どうしたの、春斗君」
 ある一室のドアの冊子に曲げられた五寸釘が打ち付けられ、それに鎖を通してドアノブに巻かれていたのである、確かここは七海の部屋であったと思うのだが、どうしてこうなってしまっているのだろうか。僕は徐ろにドアノブを撚ってみた。しかし、ドアノブ自体にも鍵がしてあり、それが僕の頭に疑問符を乗せる。
「やめて春斗君!」
「な、七海?」
 七海がそんな僕をみて顔を真っ青にすると、僕をドアの前から押して退かせた。
「ここは、やめて」
 その表情は険しく、僕はその必死さに不安を覚えながら、七海にも知られたくない事があるに違いないと納得し、それ以上の追求はしないことにした。
「……ごめん」
 洗面台で手を洗い終えると、早速キッチンへ移動した。
「じゃあ早速……」
「よろしくお願いします」
「それじゃあまず、カレーの作り方を教えたいと思います」
「わかりました、先生」
 一瞬空気が固まる。どうやら失言をしてしまったらしい。
「春斗君? そんな事を言っているとうっかり刺しちゃうかも……」
 意地悪そうに軽く笑うと、ふざけて包丁で刺す動作を軽く見せる七海。
「……ごめんなさい」
「よろしい――で、カレーの作り方ね」
「あ、うん。まず何をすればいいのかな? 具材を切る、とか……」
「なんだ、軽くなら知ってるんだ……そうだね、下ごしらえはやらないと後が大変だからね」
 七海は慣れた手つきでたまねぎの皮を剥くと、根を切り落とした。
「はい、じゃあまずここまでやってみて」
 見よう見まねでやってみる。さすがにこれは簡単だった。玉ねぎが滑るのを除けば。
「そうだね、上手い上手い……じゃあ、次はたまねぎをみじん切りにしよう」
「……みじん切りなの?」
「そうだよ。あれ? もしかしてカレーは簡単な物だとか思ってる?」
 具材を切って、炒めて、煮込んで、ルーを入れて。
「え、違うの? 僕はそうだと……」
「多分、春斗君が知っているのは本当に簡単な作り方だね。カレーってさ、すごい奥が深いんだよ。いろんな物を入れたり出来るしさ、作り方に一工夫いれると大分味が変わるんだよ」
 その後、七海に教えてもらいながら具材の下ごしらえは終わる。
 次は炒める段階で、七海はフライパンに薄く油を敷いた。
「それじゃあ炒めようか。今日は時間があんまりないからここだけ工夫をするね」
「……ごめんね、もっと時間がある時に頼めばよかったよね……」
「大丈夫だって、また教えるからさ」そう笑いながら答える七海。その後、フライパンに視線を戻すと、目を細めて、微かに口を動かした。
「…………もっと時間があれば……か……」
 七海が何かを言ったらしい。なんだろうか、聞き逃しては失礼だろう。
「え? ごめん、聞いてなかった」
「……ううん、なんでもない」
 最近はこんなことばかりな気がする。今朝の優花もそうだ、本人は何も言っていないと言っていたが、どうしてもすんなりと納得が出来ないでいる。
「――それでね、たまねぎを焦がさないようにちゃんと炒めるんだよ」
「焦がさないように?」
「そう、きつね色になるまでだね」
 炒め始める。焦がさないようにずっとたまねぎを動かし続けるのだ。
「………………」
「そうだね、その調子」
 少し小さくなってきたような気がする。
「………………」
「そうそう、がんばれ春斗君」
 小さくなったのか、些細な違いなのか、良くわからない。
「……えっと」
「何? 春斗君」
「正直、申し上げにくいのですが、何分ぐらい炒めていればいいの?」
「わかんない」
「そんな」
「だってさ、きつね色になるまでだよ? それはもう目で確認するしかないよ」
 一秒が一分に感じられる。結局は何分手を動かし続けていたのかわからないまま他の具材も入れ、しばらくしてから炒める工程が終わった。
「後は煮てルーを入れるだけだよ。大丈夫、もう大変な事はないから」
 そう言って鍋に水を入れるように指示する。
「僕さ、料理ってこんなに大変だとは思わなかったよ」
「はは。それがわかったのならよかった」
 具材と共に次第に上がっていく鍋を二人で監視し、しばらくすると七海がルーを入れた。
「…………あのね……」
 そう言いかけて七海は下を向く。
「えっとね…………ううん、なんでもない。ごめんね……」
 しばらくの沈黙の後、七海はその細い指で火を止めた。
「さ、出来上がりだよ。されじゃあ早速食べる?」
「そうだね。それにしても、慣れないから手首が痛いな」
 正確には疲れた、であるが、少し大げさに言ってみる。しかし、七海はそれを真に受けてしまったらしく「えっ、手首が痛いの!? ちょっと待ってて、湿布を持って――」そう慌てふためいた。
「大丈夫だって」
「――いいから。待ってて!」
 キッチンの奥に居た七海は湿布を取りに行くためにすれ違った。
「あれ?」「ちょっと」
 足が引っかかって二人して倒れてしまう。大きな音が部屋中に響き渡り、下になった僕の背骨が七海を受け止める代わりにきしむ。
「……っ!!」
 ほんの一秒未満の失神。いや、そんなものを失神と呼ぶ方がおかしいのかもしれない。
「…………春斗君……?」
 七海が僕の顔を見つめたまま涙を貯めている。もしかして痛かったのだろうか。それとも僕を気遣ってくれているのだろうか。
「七海こそ大丈夫?」
「…………う、うん……」
 思わず肩から力が抜ける。七海に怪我が無くて本当に良かった。僕は肘で体を支えると、体を起こす。しかし、七海は僕を見つめたままそれを制した。
「……ねぇ、春斗君……このままでも良いかな?」
 涙を貯めていた七海の手が僕の頬をなぞる。どこと無く頬が赤い気がするが、まさか頬を打ちつけてしまったのだろうか。
「七海? 何をして……」
 僕は訳が分からず、反射的にその手を払ってしまう。反射的だったのだ、けれどもそんな僕に「……ははは……冗談だよ?」そう笑う七海。けれどもいつもとは違った。それは目がうつろなこと。吸い込まれるような、宇宙のように暗い、暗い黒。
「僕は、起きたいな」
「……ごめんね……ごめんね」
 七海は相変わらずのうつろな目のまま立ち上がると、僕に手を差し伸べてくれた。


「うん、それじゃあまた明日、七海」
「……また明日。ちゃんとカレー、食べてね」
「もちろんだよ」
 手にはカレーのタッパーがある。僕と七海で先ほど作ったものだ。帰ったらこれを優花にみせてやるのだ。優花の驚く顔が思い浮かび、少し楽しくなった。
「……優花ちゃんによろしくね」
「わかってるって」
 笑顔でそう返すと、僕は歩き出した。
「…………また……明日……」


「ただいま。ごめんね優花」
 いつものように扉を開けて入ると、鍵を閉め、靴を脱いだ。
「……遅いよ、お兄ちゃん」
 優花の足音が近づいてくる。どこか不安定な足取りではあったが、僕を見ると途端にその足は安定を取り戻し、暗い顔も笑顔に変わった。
「ごめん、すっかり遅くなっちゃったね」
「ううん。お兄ちゃんがちゃんと帰ってきたから許す」
 苦笑いで誤魔化すしか無い僕の腕を優花はリビングまで引いていく。椅子に座ると、自分のタッパーからではない別の匂いに気がついた。
「……お兄ちゃん、今日はカレーだよ」
 優花は僕の前で立ち止まると、皿を目の前に置く。さっそくタッパーに目が留まったようで、「それは何か」そう言いたげな様子でタッパーを見つめた。
「――あぁ、これ? 七海の家で教えて貰ったんだ」
「…………へぇ、教えて貰ったんだ……七海さんに……」
「どうかした、優花。顔が暗いよ?」
 その一言に優花は我に返ると、苦笑いをした。
「そう? なんでもないって」
「でさ、これ僕が作ったんだ」
 差し出したタッパーをじっと見つめる優花。
「……そうなんだ、七海さんにも手伝って貰ったんでしょ?」
「うーん、僕だけだったらこんなに上手く作れないよ」
「…………あの女が作ったんだ……」
 優花がまた何かをつぶやく。その声は小さすぎて、けれども、表情から察するに、あまりいい事は言わなかったのかもしれない。
「うん、お兄ちゃんが作ったんでしょ? あたしが味見してあげる」
 笑顔でそう遮ると、優花は僕からタッパーを取り上げた。
「……優花、変だよ?」
「そんな事ないよ。お兄ちゃんが作ったんでしょ? うれしいな……」
 乾いた笑いで答える優花。体調でもすぐれないのだろうか。
「ご飯を用意してあるから食べてね」
「う、うん。優花は食べないの?」
「……あたしは、先に食べたから……」
 その直後、苦笑いが消える。
「そっか、じゃあ食べるね」
 優花はタッパーを持ったままキッチンの方へ歩いていく。その後姿は、普段あんなに明るい優花とはまるで別人にしか思えなかった。
「……いただきます」
 テーブルの上に置いてあるカレーを見る。やはり優花のカレーは綺麗というか、完璧な作りで、僕が作ったものとは比べ物にならないことは、見ただけでわかった。
 優花の料理の腕の凄さに改めて感心しながらも、スプーンを左手で持ち、いつもの様に口に運んだ。味は、もちろん美味しいの他に何も思いつかない、そんな出来だった。
 食べ終え、食器を洗うと、僕は一度部屋に戻ることにした。
「優花、ご馳走様」
「うん、おいしかった?」
 優花は丁度リビングに入ってきたらしく、いつもの笑顔で聞いてきた。
「すごいおいしかったよ。あれってどうやって作ってるの? なんだかルーで作るのとは全然味が違うというか……」
「ひどいよお兄ちゃん、ちゃんと香辛料の調合から作っているんだよ? ルーからなんて邪道だよ」
「香辛料の調合……って、そんなに大変な事をしているの!?」
 幸せそうに笑う優花。
「もちろん、ルーだと思うような味がだせないんだよ?」
「……大変じゃないの?」
「大変じゃないよ、最初からそうだもん。慣れちゃったよ」
 知らなかった。今まで何も気にせず食べていた自分が恥ずかしい。
「ごめんね、そんなに手が込んでたなんて……」
「あれ、なんでお兄ちゃんが謝るの?」
「……気持ちの問題、かな」
「えへへ。お兄ちゃんは楽しいね。ところでこれからお風呂?」
「そうだけど」
「――な、なんでもないよ」
 顔を赤らめながらキッチンの奥へと消えていく優花。今日の優花は変だとも改めて思った。




 リビングの時計は二時を指していた。もう既にお兄ちゃんも寝てしまっている。この時間なら問題はないだろ。
 タッパーに入ったカレーに視線を移す。お兄ちゃんがあたしに作ってくれたのは嬉しいが、“七海さんと一緒に”作ったのは嬉しくなかった。お兄ちゃんが作る、一番はあたしと一緒につくったのであれば、あたしはうれしさで可笑しくなっていたかもしれない。
 カレーを生ゴミの入った袋に突っ込み、臭いだす前に袋を縛り、その袋を大きなゴミ箱に投げ入れる。これで安心だ、毒物はちゃんと処理しなくてはならない。




 いつもと何ら変わらない朝。僕はいつもの様に窓の外を見た。外は晴天、今日は憂鬱にならなくて済みそうだった。時刻は朝七時ジャスト、いつもよりも三十分は早い。ゆっくりしていても十分間に合う時間だが、このままもう一度寝てしまうよりも折角早起きしたのだ、落ち着いた朝を過ごすとしよう。とりあえず着替えることにする。
 体を動かした瞬間、自分の指が何かに触れた。
「――って、優花!?」
 そこにはパジャマ姿の優花が幸せそうに寝息を立てていた。寝返りを打つと、僕の腕にしがみつく。
「……う……ん、えへへ……お兄ちゃん……すー……」
 別に今日が特段変わっているわけでは無い。気を抜くと、こうして優花が僕の布団にもぐりこんでくるのだ。しかし、そういえば優花は寝ているときいつも僕の名前を呼んでいる気がする。別に不快ではないが、時々考えることがある、優花は普段一体何を考えてすごしているのか、だ。僕の記憶の中で、優花が友達の話をした事は滅多にない。優花に友達がいる事は知っている、というか多すぎるぐらいだ。妹のこの性格を考えると、誰からにでも好かれることだろう。しかし、寝言にしてもいつも口にするのは僕についてだけ。まさか学校でさえそうとは思わないが、それでも時々わからなくなる。そもそも反抗期とは家族から反抗したくなる時期だ。親が普段家に居ないとはいえ、僕だって例外ではない。本来であれば優花は僕を鬱陶しく思って目も合わさないだろう。しかし、なぜかそうはしないのだ。それどころか日に日に優花の僕への接し方は別な意味で変わってきている。
 具体的に言うと、最近では家に居る限り優花は必ず僕の傍にいる。大体三日前だろうか、僕がソファーに座ってテレビを見ていると、優花は飲み物を持って僕の隣に座るのだ。
 それに二日前にしてもそうだ、僕が昼寝をしていると、優花も同じ布団に入って昼寝を始めた。さすがに違和感を覚えて、その時試しに僕は優花に質問してみた。「なんでそんなに優花は僕にべったりなの?」と。すると優花は「あたしがお兄ちゃんにべったりしたら嫌、かな……」なんて悲しそうな顔をしながら言うものだから、僕はやり辛くなって「別に嫌じゃないよ」なんて笑いながら言ってあげたけど、正直僕には不快という感情よりも疑問に感じた方が強かった。
 果たして優花は僕のことをどう思っているのだろうか、親への愛情が僕に向いてしまっているだけだろうか、それとも裏があるのだろうか。
 しかし、それを今考えたところで、本人に聞かない事には答えなんて知ることは出来ない。今はただ、普段通りにすごす他ないのだ。
「優花。ほら朝だよ、優花だって学校あるんでしょ?」
 優花を起こそうとするが起きる気配は全くない。
「……う~ん、ダメだよお兄ちゃん……」
 優花の夢の中で僕は一体何をしているのだろうか。
 ふと僕は、優花の目の下にうっすら出来ているクマに気がついた。
(優花がクマ? 珍しいな……)
 普段何時に起きているのかは知らないが、優花がこんな時間まで寝ているのは珍しい気がする、さては夜更かしをしたのだろう。だとしたら優花を起こすのはなんだか悪い気がしてくる。
 僕は着替えて朝ごはんを作っておくことにした。


 フライパンを熱して油を薄く引いて卵を割って、水を少し入れてすぐふたをする。一番簡単な目玉焼きの作り方だ。これはさすがの僕でも知っている。しかし、それだけでは少ないと思い、味噌汁も作ることにした。
 朝を三十分早く起きたのは正解というか、ついていたというか。もし、いつも通りに起きていたら間違いなく朝ごはんはなかっただろう。
 そんなこんなで作り終えると、既に七時四十分になっていた。炊いてあったご飯をお茶碗に盛り付け、二人分をテーブルに並べると、丁度そこに眠そうな優花が下りてきた。
「あ、優花。おはよう」
 眠そうに目をこすりながら優花はその二秒後に驚いた表情と共に声を出した。
「えっ、もしかしてお兄ちゃんが、なんで……」
 そこまで驚かれるとさすがに傷つく。
「今日は僕が朝ごはんを作ったんだ。自信ないけどね」
 驚いた顔のまま目玉焼きと味噌汁と僕を交互に見る。
「お兄ちゃんが……あたしの為に……嘘、だよね……」
 そこまで僕は信用がないのだろうか、僕だって何にも作れないわけではない。
「お兄ちゃんが……あたしの為に……あたしの……」
 急に泣き出す優花に、僕はどうしたらいいかわからなくなった。
「な、どうしたの、優花? 僕、酷い事しちゃったかな」
 どうしたらいいかわからず、優花に駆け寄った。優花に座り込んで泣く優花の肩に手を乗せると、優花は僕に抱きつく。
「ゆ、優花。本当にどうして」
「あ、ありがとう……ありがとう、お兄ちゃん……」
 何がなんだか良くわからないまま、泣きじゃくる優花の頭を撫る。しばらく泣いた優花は落ち着き、朝ごはんを幸せそうに食べた。幸せになるほど上手く作れたものでは無いのだが、優花も僕が少しずつ変わろうとしている事に共感して喜んでくれているに違いない。
「うん……うん。おいしいよ、お兄ちゃん」
「そう? ありがとう、優花。それでも僕はまだまだだね」
「ううん、本当においしいよ、それにお兄ちゃんが作ってくれたんだもん」
 そう言われるとなんだか急に照れてくる。
「……お兄ちゃん」
「なに、優花?」
「お兄ちゃん」
 その優花の笑顔が、この晴天の朝より綺麗に見えた。




 マンションの一室。私はその現状とらめっこをしていた。
 そこに映るのは鈴井家全ての部屋、様々な角度から映されたその映像に、死角を作らない様にするのは大変であった。付けているイヤホンからは春斗君の声。
 もちろん、先ほどの出来事も全て見ていた。
「…………春斗君……」
 握り締めた左手で机を思いっきり叩きつける。部屋に響き渡る鈍い音、私は歯を食いしばった。
「優花ちゃん……妹なのに、それはいけない事なんだよ? 妹と結ばれるなんて、春斗君だって望んで無いよ」
 立ち上がる。そろそろ行かなければならない、迎えに。そして一秒でも早く春斗君に会うのだ。





「そっか、明日から優花ちゃんも高校生なんだね」
 久しぶりに七海が遊びに来た今日は梅雨も開け、夏、秋、冬と過ぎた春の事だった。紅茶を飲みながらしている話題は明日から僕らの学校に通い始める優花の事だった。
「はい、明日からよろしくお願いします。七海先輩」
「いつも通り七海でいいよ、なんだか調子狂っちゃうから」
 七海と優花が笑う。
 およそ一年ぶりに七海が家に遊びに来て、こうして優花と話をする訳だが、どうやら仲が良かった頃と変わってないようで安心した。
「ねぇ、春斗君。お茶のおかわりが欲しいな」
「あ、お兄ちゃん。あたしも」
「うん、わかったよ。ちょっと待ってて」
 やれやれと思いながら二人のティーカップを受け取り、キッチンまで歩いていく。ティーパックをカップにいれお湯を注ぐ、あまり長く入れておくと濃くなってしまう為、早めに渡して好きな濃さでティーパックを取ってもらう事にする。
 紅茶を淹れたティーカップを二人に渡すと、さっき紅茶を飲んだからだろうか、お手洗いに行きたくなってきた。
「あ、ごめん。席はずすよ?」
「うん、大丈夫」
 廊下へ歩いて出て行く。それにしても二人とも仲が良くて安心した。




「……優花ちゃん、こんな話をしに呼んだんじゃ無いんだよね?」
 優花ちゃんから笑顔が突然消え、軽く咳払いをするとティーカップをゆっくりと置いた。
「勿論です。七海さんには頼みごとがあったので呼びました」
 優花ちゃんの目は普段の優花ちゃんからは想像も出来ない程に鋭くなっていた。
「時間がありませんね、簡潔に言いましょう」
 私は優花ちゃんをただ無言で睨み付けた。
「明日からお兄ちゃんに出来るだけ近づかな――」
「――無理」
 即答。答えなんて考えるまでも無かった。優花ちゃんの目からは憎しみや怒り、それに近いような負の感情しか感じられなかった。
「……そうですか、ではこれをお兄ちゃんに見せるしかありませんね……」
「これ?」
 優花ちゃんは何も言わずに傍に置いておいた紙袋からとある物体をテーブルの上に置いた。
「これ、お兄ちゃんが観たらなんて言うでしょうか」
 それに私は、思わず声を失った。なぜ、これがここにあるのだろうか。
 それはいつかは見つかってしまうであろうと悟っていた物――私の設置したカメラのひとつだった。いざ見付かると動揺が隠し切れなかった。
「これ、お兄ちゃんだったらなんて言うんでしょうか」
 優花ちゃんは笑っていた。勝ち誇って、何も言わずに。
「…………めて……」
 私は思わず、そう口ずさんでいた。そういうしか無かったのだ。これがみつかってしまったら唯ではすまないに違いない。
「――は? 聴こえませんでした、もう一回“はっきりと”言ってもらえますか?」
 完全に勝利を確信した笑い。「これでもう誰も邪魔は出来ない」そう優花ちゃんは言いたくて仕方が無いのだろう。そして、あえてそう直接言いはせずに盗撮用カメラを紙袋に大事そうに仕舞う。
「……私は……もう……」
「なんですか? “ちゃんと”言ってもらわないとわかりませんよ?」
 高らかに、狂ったように笑い出す。春斗君に聞こえでもして、カメラの存在を知られてしまったら、どうしようか。どうしようも無い。
 優花ちゃんの望みは分かっていた。だから、それを私の口で言わせようとしている。私に出来ることは、無い。もう言うしか無かった。
「……私は、春斗君、に近づかない……ので……か、カメラの事を言わないでくださ……い!」
 言いたくなかったその言語。自らの敗北宣言。私には白旗を揚げるしか選択肢が残されていなかったのだ。
 もう何も考えられない。今私はどんな顔をしているのだろうか。ただ、溢れ出した大粒の涙が滝のように落ちていくのを見つめるしか無かった。
「わかりました、そこまで言うなら言いません。ただし、約束を破ったら……わかってますよね? 勿論、友達としてもダメですよ?」
「…………友達としても……ダメ……?」
 それは厳しすぎるのでは無いだろうか。ならば、私は春斗君にどうやって触れればいいのだろうか。
 もう涙も出なかった。
 うつむいたのと丁度、部屋のドアがゆっくりと開き、スリッパの音が入ってくる。
「席を外してごめんね」
 苦笑いをしながら入ってくる春斗君。イスに座ると、紅茶を口に含んだ。
「えっと……あれ、どうしちゃったの?」
 春斗君は会話が無い事に気が付いた。らしく、目をパチクリとさせている。
「え? そうかなぁ、気のせいだよお兄ちゃん」
 優花ちゃんはは私に微笑みかける。その笑顔を見て顔から血の気が失せるのを感じた。「帰れ」そう言っているのだろう、私はそれに従うしか無かった。
「えっと……ごめんね春斗君。課題が終わってないのを今思い出して……帰って急いで終わらせないと」
 もちろんそれは嘘。だが、春斗君は私を信じてくれているのか、目を見開いて驚いてみてくれた。
「……あれ、そうなんだ? うん、それじゃあ……」
「今日は呼んでくれてありがとう……“さよなら”……」
 本当の意味での“さよなら”。声が震えてはいなかっただろうか。春斗君にだけは悟られてはいけない。知られてしまったらきっと、私は嫌われる。春斗君に嫌われたら私はどうすればいいのか、私にとって春斗君は全てなのだ。
「一人で帰れるから……じゃあね……」
「あ、うん」
 何度も何度も、振り返れるだけ振り返り、手を振って春斗君と触れ合える最後の時間を身に、視覚に刻み付ける。きっともう手を振ることも叶わない。これが最後。これが私と春斗君の最後のやりとりなのだ。
「さようなら、春斗君」




「七海の様子、おかしかったよね?」
 七海さんが帰ると、お兄ちゃんがそう口を開いた。
「……そう? お兄ちゃんの気のせいじゃない?」
 お兄ちゃんは変なところで鋭い、普段はあたしのあからさまな好意を見せても眉ひとつ変えてはくれないのに。
「そうなのかな。まあ、僕が何かしちゃったのなら後でメールで謝っておけばいいかな?」
「……そうだね」
 “謝って”おく、か。もう七海さんはお兄ちゃんの前には現れない。たとえお兄ちゃんが“謝って”きたとしても、七海さんはその文章を読むだけである、返信してはいけない。それはお兄ちゃんに近づくことになるからだ。
「…………アハッ、本当に可哀想」
「――え?」
「ううん、何でも無いよ。お兄ちゃん」
 これで事実上お兄ちゃんはあたしだけのモノ。邪魔はいないし、あとはお兄ちゃんとずっとこのまま、ううん、もっともっと側にいられればあたしはそれで幸せ。
「それにしても、課題なんてあったかな」
「お兄ちゃんが忘れているだけじゃないの?」
「課題……課題……」
 お兄ちゃんが眉間を中指で押しながら階段を登っていく。考える時の癖だ、あたしはお兄ちゃんの事なら何でも知っている。考え事をしている間は足元が注意散漫になるから途中で躓くだろう、注意しなくては。
「お兄ちゃん、気をつけてね」
「――え? ああ、ゴメン」
 驚いた顔をして階段に目をやるお兄ちゃん。その表情もかわいいよ。
「全く……そうだ、今日はスパゲッティにしようよ、お兄ちゃん。何がいい?」
「……んー、カルボナーラ」
「わかったよ。お風呂、早く入ってね」
「了解~」
 再び考え込むお兄ちゃん。全く、聞いているんだか聞いていないんだか。
「さてと……」
 まず、何から始めようか。麺を茹でる? ソースを作る? お兄ちゃんの笑顔を見る為に頑張るとしますか。




 おかしい。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。
 いつかはこうなってしまうのだろうとは思っていた。それは事実だ、けれども心のどこかでそうはならないだろうとか、ゆるしてもらえるとか、思っていたのかもしれない、いや、思っていたのだ。
 だからいまこうしてどうすればいいのか、それがわからない。
 あの子、ゆかちゃんはいってしまうのだろうか。私がながいじかんをかけてとりつけたカメラ、私はただ、はるとくんが、はるとを見ていたかっただけなのに。それなのに言ってしまうのだろうか。
 もし、はるがこれを知ってしまったとして、軽蔑するだろうか、嫌われてしまうかもしれない。それはいやだ。私にとってはるとは、おとうさんとおかあさんにあんまり会ったことのない私にとって、家族であって、大好きな、たった一人のこころのささえなのだ。
『……心が壊れかけているのかしら、それとも壊れてしまった? まあ、どちらでも私は構わないけどね』
 だからはるに嫌われたらわたしはどうしたらイイかわからない、そのとき、私の存在価値はなくなってしまったようなものだろう。何としてもはるとにあのことを知られてはいけない、そう、そのためにゆかちゃんの言いつけを守ればいいのだ。
『一人称も言葉もはっきりしないし、もう壊れてしまったようね。ねえ私、もう演じるのを止めたら? あなたの本性ってそんな綺麗なものではないでしょう?』
 はると……はるに近づいてはいけない。たったそれだけじゃないか、見るだけで私は満足のはず、満足でなければいけない。なんだ、簡単なことじゃないか。
『返事はして欲しいわ、そのままで貫くなら私にも考えがあるし』
 はるを遠くから見ていよう、それでじゅうぶん幸――
「――あなたはだれ?」
『やっと返事をしたわね、私はあなた、あなたも私よ』
「何をいっているの?」
『……物分りが悪いのね、あなた』
「そのこえ、私?」
『そうだと言っているじゃない』
 なぜ私が私と会話をしているのだろうか。
「それで、あなたは何をしに来たの?」
『「しに来た」? 来たも何もはじめからあなたと私は一緒よ。私はあまりにも人格が不完全すぎるあなたを助けるために存在しているの』
「じんかく?」
 じんかくとはどういうことだろうか、わたしは別にじんかくが不完全だと思ったことはないのだが。
「わたしはちゃんとじぶんを持っているよ?」
『……本当にあなたはバカね。その人格、本当にあなたのものだと思っているの?』
 何をいっているのだろうか、わたしでなければ誰だというのだ。
『さっきは私は言ったわよね? 「心が壊れてしまった」って。あれね、正確に言うのならば人格のことを言ったつもりなの、その“あなたが自分だと思い込んでいる人格”、それが壊れかけているって意味なんだけど、理解してくれくれた?』
 わたしが演じている? それは嘘だ。そんなことを意識したことは無い。
「演じてなんかいない……」
『いいえ、演じているわ。さて、あなたのだ~~~い好きな鈴井春斗君。あなたはさっきなんて呼んでたでしょう?』
「えっと、はると」
 はるとと呼んでいたはずである。そう思って自信を持って解答する、勿論はるの名前を他の呼び方で読んだことは無いはずである。
 けれども私はその回答を待ってましたと言わんばかりに笑った……気がした。
『ねえ、あなた。“はる”って誰?』
 はる? “はる”は“はる”だ。私は何か間違ったことを言ったのだろうか。
『ほら、また“はる”って……“はると”はどうしたのかしら』
「何を言ってるの!? 私は最初から“はる”って言って――え?」
 私が笑う。私は何を言っているのだろうか。
『あなた……どう仕様も無い馬鹿ね。アハハハハハハハハ』
「はるとくん? はると? はる? あれ、私は何を言っているの? はるって――」
『――愛称』
 愛称。
『あなたが……不完全な人格である、演じる前の人格のあなたが呼ぶ鈴井春斗の愛称。これが証拠よ、あなたは作られた人格、そしてその人格は今壊れかけている。“はる”なんて愛称がでてくるのはあなたの不完全な人格が表にではじめているって事。だから私も出てきたの、不完全な人格のせいでその不完全な人格さえも壊さないように』
「わたしは……わたしはあなたが何を言っているのか……わからないよ……」
 もうわからない。誰か、助けてよ――――はる。








 肌が何かに包まれている感じがする。なんだ、また雨か。
 私は昨日は眠れたのだろうか、まあ眠れても眠れなくてもどうでもいい。私のことはどうでもいい、はるがこの湿度を不快に思っていないだろうか、この湿度のせいで不眠になってしまったりはしていないだろうか。
「………………」
 駄目だ、気になる。
 布団をめくって、湿度でベタつく床を歩き、パソコンの前まで来ると、椅子に腰掛けて電源を入れた。起動している時間が私をイラつかせる。どうしてすぐに立ち上がってくれないのか、一秒でも時間が惜しいのだ、本当にこのパソコンはそれが分かっていない。
「おはよう、はる」
 ソフトウェアを立ち上げる。読み込まれればすぐにはるが観えるはずだ。
「……あれ?」
 おかしい。画面には何も映らない、これの何処にはるは居るのだろうか。探してみてもはるはいない。私の知らない景色が映されているだけ。
『何をしているの?』
 声。後ろから聞こえる、まさか泥棒だろうか。
 急激に上昇する心拍数に促されて振り返った。けれども誰もいない、私の空耳だろうか。
『相変わらずバカね。画面の何処を探してもはるはいるはず無いじゃない』
 今度は右から。
「だ、誰?」
『もう忘れたの? ここまで馬鹿だと、壊れてしまってもいい気がしてくるわ』
 そこで寝ている間に見たであろう夢が頭の中を駆け巡る。そうだ、私だ。
「はるが居ないってどういうこと?」
『何言ってるの、カメラがバレて、はるに近づくなと脅されたでしょ。あの子はあなたがはるに近づくことを快く思っていなかったのよ? カメラなんてとっくに撤去されてるに決まってるじゃない』
「じゃあ、はるは何処?」
『何処って、はるは鈴井家にいるでしょ。あなた、考えないの?』
「考える?」
 はるは自宅にいるのか、ならよかった。
『そう、少し考えればこんな事、誰だってわかるでしょう?』
「………………」
 どうして考えるのだろうか、わたしははるを観ていれば幸せなのに。
『本当に馬鹿な人格ね、あなたは』
 私が私に何度も馬鹿と言ってくる、けれどもどうでもいい。はるがいる、それだけ分かればあとはどうでもいいのだ。
「早く着替えなきゃ、はるが学校に行っちゃうかもしれない」
『突然ね、でもわかってるの? 直接の接触はダメ、そんな事をしたらあなたははるに嫌われることになる』
 分かっている。私ははるに相応しくない。元々私ははるを観られればそれで十分なのだ。
「……はる」


 傘をさして雨の道を歩く、はるの家まではそう遠くはない。徒歩一分もかからないだろう。『そういえば、あなたは随分と起きる時間が遅かったわね。はるはもう登校してしまっているんじゃない?』
 それは嫌だ。はるを観る時間が減ってしまう。
『あ、そこの曲がり角を曲がればすぐね。でも本当に分かってる? 近づいてはいけないのよ?』
「わかってる」
 曲がり角で止まると、はるの家の方をそっと覗き込む。勿論はるにバレてはいけないのと、周りから不審に思われない程度に、だ。
『……丁度出てきたみたいね』
 はると優花ちゃんが家から出てくる。はるだ、はるがそこにはいた。
「…………はる」
 ビニール傘を片手に優花ちゃんと会話をしている、本当に楽しそうだ。優花ちゃんが鍵をかけると、二人ならんで歩き出した。
『嬉しそうね、はる。あなたも目をそんなに濁らせて、本当に楽しそうね』
「………………」
 はるが笑ってる、それは素直に嬉しい。けれども、側にいる優花ちゃんがちらりと一瞬だけ、もしかしたら私も気がつかなかったかも知れないほど自然に、私を見た気がした。そして、その表情は何処か勝ち誇ったような、私を嘲笑ったようにもみえた。
 よかった、この距離なら許してもらえるようだ。
『もうストーカーね』
「……うん、でもはるには迷惑をかけないよ? 観ているだけ。それだけで私は幸せなの」
『それでも気持ち悪いわ』
「……ごめんなさい」
 距離を保つようにして歩く。近すぎるとはるに近づいたことになるし、遠すぎるとはるが観えない。昔から分かっていることだが、ストーキングは意外と難しい。
「はる、はる」
『うるさい。そうやってつぶやくのを止めたら? 聞いているこっちが不快だわ』
「……ごめんなさい。でも“はる”って口に出すと心地いいから」
『そんなの知らないわよ』
「……はる……はる」
 知らないうちに口がその言葉を刻む。
『分かったわ、あなたには理解力が無いのね』
 私は呆れたのか、何も言わなくなった。
 はるが大通りへ出る。大通りははるや私の様に登校する学生が長い行列を作っており、大通りへ出たはるは勿論その行列の一部となる。行列にまぎれると言う事は、ストーキングがしやすくなる反面、はるを見失いやすくなるという事。今の様に落ち着いてはるを観ることは出来ないだろう。
『ねえ。馬鹿なあなたに一応忠告しておくわ、あの列の中で「はる」と連呼してみなさい? 浮いてしまうと思うのだけれど』
「……我慢する」
 大通りは朝だというのに、朝だからだろうか、車の行き来が激しい。タイヤが道路と擦れる音はまるで私を急かすかのように感じてとても気分が悪い。周りにいる学生の笑顔や会話も、実は私がストーキングをしていることを全員知っていて、それを笑い、私を責め立てているのではないかという、ありもしない被害妄想が頭をよぎり、落ち着かない。
 学生の動きが、まるではるを私の視界から遮る為に動いているように見えてくる。どうして私の邪魔をするのだろうか、私はただはるを見ていれば幸せなのに、それさえも許されないと言うのだろうか。
「………………」
『人が苦手?』
 そうなのだろうか、そんな事は考えもしなかった。そう言われてみればそういう気がしなくもない。
 駄目だ、息苦しい。もう帰ってしまおうか。けれども帰りたくはない、息苦しさとはるを観ていたいという気持ちを天秤にかけたとき、勝つのははるだ。はるを観るためならこのぐらいの事を我慢するなんて簡単な話ではないか。
『お馬鹿さん』




 昇降口までやってきた僕らはお昼にまた会う約束をしてから別れた。
 優花は名残惜しそうに僕の側を離れようとはしなかったが、説得をしたところ、埋め合わせとしてお昼休みに会うという提案をしてきた。
「それじゃあ後でね」
「……約束、忘れないでよ」
「大丈夫だって」
 去っていく優花。その後姿を見送ると、携帯を取り出して時間を確認する。ホームルームまでは五分ほど時間に余裕があり、急ぐ必要は無さそうだった。
 それにしても優花は兄離れが出来ていないような気がする。妹に慕われるのは嬉しいが、優花もそろそろ兄離れしてもいい年齢である、何時までもこのままではこちらが心配になってしまう。それだけではない、どちらかと言えばこちらの方が重要なのだが、僕への甘えが日に日に明らかなものになっている気がするのだ。離れるのでは無く近づく、これはどういう事だろうか。確かに、人は環境や精神の変化で退行と言って、幼く振舞うようになる事もある。両親の不在が多い我が家だ、親から受けるべき愛情が不足しているのかも知れない。だから僕からの愛情をいまだに欲していて、そこに偶然環境の変化が訪れた事によって退行の引き金となってしまった。これなら考えられそうではある。だが、僕の把握している限り……勿論、優花のすべてを知っている訳では無いが、そういった変化が優花にあったかと言うと、そこまで劇的な変化は無かったように思う。ならば優花に何が起こったのか、それはわからない。だが、このままではいけないと言う事ははっきりしていた。
「僕はどうしたらいいのだろうか」
 優花と距離をとってみる。それとも優花への態度を変えてみようか。試す価値はありそうだ、だが先程の反応。あの表情をされ続けるというのか、あれは誰がみても苦痛の表情だ。だめだ、結末は見えている。ならばどうしたらいい、面と向かって「兄離れしろ」と説教をしてみるのもいいかもしれない。だが、それで本当に優花のためになるのだろうか。
 答えが出ない。


「どうした?」
 僕には何が出来るだろうか。
「なあ、立たないのか?」
 出来れば優花を泣かせる事無く気付かせてあげたい。
「おい、鈴井! 号令だぞ、寝ているのか!?」
 いや、もしかしたら泣かせず、という考え自体間違っているのだろうか。
「おい春斗、先生怒ってるぞ」
「鈴井、お前私の言っている事が分からないのか!!」
 だとしたら僕は優花を突き放す事が最善の選択だと選ばなくてはいけない、ああ、駄目だ。唯単に僕が優花を甘やかしていているだけではないか。
「……わからない」
「ほう、鈴井。いい度胸だ」
「は、春斗が壊れた!?」
 突然肩をゆすられて我に返る。腕を視線で辿っていくと、康広の顔がみえる。どうやら僕を揺すったのは康広らしい。
「康広、どうしたの?」
「もう授業が終わったんだ、早く――」
「――鈴井。今すぐにたちあがれ、何の反抗かは知らんが、お前も昼休みが減るのは嫌だろう!?」
「あれ、山田先生。どうしたんですか?」
 山田先生がため息をつく。その背景に違和感を覚え、教室を見回すと、クラスメートが全員立ち上がって僕を観ている。所々から笑い声が聞こえるが、この光景は異常だ。どうしたというのだろう。
「鈴井。号令だ……」
「――礼!」
「え、あれ?」
 クラスメートが頭を下げ、頭をあげるのを皮切りに、所々から大小様々な笑い声や恐らく僕のことを言っているであろう声が教室を包む。
「はあ。放課後、職員室に来い」
 山田先生は教科書を丸め、自身の肩を叩く。
「……はい」
「あ、春斗先輩。お疲れっす」
 苦笑いをしながら康広がつぶやいた。
 山田先生は頭を掻きながら教室を去っていく。その後ろ姿を見ながら思わず頭を深々と下げる、状況を理解したからだろう、顔が自分でも分かるほど熱くなっていた。
「どうしたんだ? 春斗、ぼうっとして。考え事か?」
「…………まあ、そんなところかな?」
「ふうん」
 康広は納得してみせる。どうやらこちらの意図を汲み取ったらしい、この反応は康広の癖でもあり良いところでもある。彼はとても勘が鋭いのだ。ちょっとの仕草の変化や言動ですぐにこちらの考えている事を読まれてしまう。まあ、今回はあからさま、誰が見ても何か考え事をしていると分かるであろうが、察しても深入りしてこない辺りはさすが康広だと思う。
「学食行くか? それとも今日は弁当?」
「ん、と。今日はお弁当かな。優花と約束しているんだけど」
「そっか。仲がいいのは何よりだ」
「……うん」
「………………」
 康広は何も言わなかった。何となくやりにくい空気が辺りを包み込む。僕自身の問題なのに何をやっているのか、そんな事を思い、後悔すると共にどう切りだそうか考えていると、僕を呼ぶ声がした。
「――お兄ちゃん」
「お呼びだぜ? 行ってこいよ」
「う、うん」
 声の主は優花だった。左手と右手にそれぞれお弁当を持っており、片方は恐らく僕の分だろう。
 やや急ぎ足で優花の元へと向かうと、そんな僕を見て優花が微笑んだ。
「お昼、食べよう?」
「……うん」
 駄目だ、本人を目の前にすると尚更どうにかしなくてはという思考に至る。
「どうかした? まさか……」
「何でも無いよ。お昼、何処で食べたい?」
「――え、あぁ、うん。屋上なんてどうかな?」
「朝雨降ってたけど、どうかな。落ち着けるスペースがあればいいけど……」
「とりあえず行ってみようよ」
「そうだね」
 僕に大きめの方の弁当箱を突き出される。どうやらこれが僕の弁当らしい。それを受け取ると、弁当箱を持っていた手、空いた方の手をそのまま僕の空いている手まで伸ばし、掴んだ。
「優花?」
「手、つないでもいいよね?」
「………………」
 優花を兄離れさせるための案の一つ、優花を遠ざける。一番現実的で今すぐにでもできる事だろう。それを実行するなら、今この手を握ったままではいけない。手を離すのだ、出来れば自然に行うのがベストであろう。
「…………お兄ちゃん?」
 けれども、それは出来なかった。それは手を繋いでいるわけではなく、どちらかと言えば優花が僕の手を掴んでいるからだ、こう表現する方が正しいだろう。つまり、自然に手を離せないのだ。手を離すのであれば振り払う形になってしまう。
「……何でもない」
 いつの間にか入りすぎて硬くなっていた腕の力を抜く。本当に自分は優花に甘い、どうしてこの腕を振り払うというそんな簡単な事が出来ないのだろうか、自分が嫌になる。
「ヘンなお兄ちゃん」
「そんな事はないよ」
 引っ張る力がほんの少し強くなる。
 優花は何を考えているのだろうか、どんな表情をしている? 後姿しか見えていない僕には何も分からなかった。僕は優花の事を分かっているつもりで、表情を掴めない今のように、実は何も分かっていなかったのかも知れない。
 階段を登り切ると、優花は器用に弁当箱を持ったままドアノブを捻り、ドアを開放った。
 薄い、若干錆び付いた音を響かせ、湿っぽい空気に眩しいほどの光が差し込む。眩しい。
「到着~」
 優花の足取りが少し軽快になり、僕の腕を引いたまま小走りで屋上の真ん中へ進む。
「ちょっと待って。優花っ」
「あはは。何でお兄ちゃん疲れきっているの?」
 優花が僕の腕を開放し、両方の腕を揚げてみせる。
「腕を持って引っ張るから、僕と優花の歩幅は違うじゃないか……」
 ごめんねと軽く謝ると、近くにあったベンチの座る部分を軽く手で払い、腰掛けた。
「お昼食べよう?」
 重たい体を起こし優花の隣に腰掛ける。優花はナプキンを膝の上に広げ、中に仕舞われていた箸を僕に渡す。
「今日はね、ウィンナーを入れたんだ。たこさんウィンナーだよ、可愛く出来たと思うんだけど……」
 優花が蓋を開け、僕に見せる。弁当箱には優花の言うとおり、タコさんウィンナーがお弁当箱の端に可愛く収まっていた。
「本当だね、上手くできてる」
「でしょう? 食べてみて!」
 僕のお弁当箱を受け取り、早速タコさんウィンナーを口に運ぶ。皮がパリッとしていて、歯で破ると旨みが口の中に広がった。
「ん、美味しい」
「本当、やった!」
 優花が嬉しそうに足をゆっくりとばたつかせる。弁当箱が落ちてしまうのではないか。少し心配になった。
「ねえお兄ちゃん」
「ん? 何、優花」
「“あーん”して?」
「え……」
 優花が小さな口を開けて目を閉じる。タコさんウィンナーを食べさせて、ということらしい。
「………………」
 優花が期待をして待つ。僕は箸でタコさんウィンナーを一つ摘むが、そこで僕の手は止まった。
 本当にいいのだろうか。優花をこのままにしておいて、だ。もしこのまま僕が優花の口にタコさんウィンナーを運んだとして、優花は喜ぶだろう。けれどもそれは果たして正しいことなのだろうか。優花を兄離れさせたいと願うのなら、僕は何をすべきか決まっているのではないか?
「――駄目だ」
「え?」
「駄目だ、優花。もうそんな事する歳じゃないだろう?」
「………………」
 タコさんウィンナーを摘もうとしていた箸を動かし、玉子焼きを代わりに摘む。そして口へ運んだ、勿論自分の口にである。
「お兄ちゃん」
「何?」
 優花を横目で見る。優花は僕が横目で見たのを確認すると、再び口を開いた。
「“あーん”して?」
「………………」
 優花の表情は変わらない、再び口を開けて待つ。
「だからダメだって」
「周りにはだれもいないよ? 恥ずかしくなんか無いよ?」
 首を傾げて僕の肩をそっと揺する。
「恥ずかしいとか恥ずかしく無いとか、僕が言いたいのはそういう事じゃ無いんだ。優花はもうそんな事をする歳じゃ無いだろう? 僕はもう、そういう事をしてあげるつもりは無いよ」
 思い悩んでいた考えを優花に打ち明ける。とうとう言ってしまったのだ、もう悩まない。
「どうしてそんな事言うの、誰かにそうしろって言われたの?」
「僕がそう決めた。優花も兄離れしないといけないって思うだろ?」
「何で、あたしはお兄ちゃんが大好きだよ。何で好きなのに離れなきゃいけないの? そっか……お兄ちゃんはあたしが嫌いになったんだ……」
「嫌いじゃない、優花は大切な妹だ。大好きだよ? でもね、これは話が違う」
「好きなら一緒にいようよ。何もおかしく無いよ」
 優花が僕にしがみつく。
「僕はね、優花……普通に育って、普通に巣立って欲しいんだ。だから、何時までも僕に甘えてはいけないよ。優花はもう僕の元から巣立たなきゃいけないんだよ」
 そう言い終えると、僕は優花をそっと引き離し、立ち上がった。
「お弁当、家に帰ったら洗っておくね」
「…………嫌」
 優花は僕の座っていた位置に掌を突きながらそうつぶやいた。
「………………」
 かける言葉がない。あったとしても話しかけてはいけない。僕の意志は本物だ、優花にもそれを分かってもらわなければいけない。
 僕は自分に再び言い聞かせ、その棒立ちの足を動かす。一歩、一歩。踏みしめるように、地を感じるように歩く。
「……嫌だ。絶対に嫌。あたしはずっとお兄ちゃんの側にいる。あたしの居場所はお兄ちゃんの側だけでいい。あたしはお兄ちゃんから離れたくない……」
 扉に手をかける。この扉を抜ければ、少しは世界が変わるのだろうか。きっと変わるに違い無い、変わら無いならば、自分の手で変えていけばいい。
 ドアノブを捻り、引こうとする。ドアはサビに引っかかり、少し鈍い音を立てた。
 その音に戸惑いつつも、引く力を強めてみることにする。きっとさらに鈍い音をたてながら不恰好に開くことだろう、そんな事を予測してみる。
 けれども開き始めたと確信した瞬間、それらは全て外れることになった。
「――っ?」
 後ろから押された。誰に? 勿論、押すことが出来たのは一人しかいない。
「……行かないで。あたしの側にずっといてよ、お兄ちゃん」
「………………」
 優花が腹部を腕で挟み込み、抱きしめる。
「――お兄ちゃんが好き。ずっと一緒にいようよ。二人でずっと一緒、それでいいよね?」
「優花、もう変わらないと駄目なんだ。好きとか嫌いとか、そうじゃない。優花には優花の未来があるし、僕には僕の未来があるんだ。変わっていかなきゃいけない、僕たちはそれに気付くのが遅かったんだ。だから今からでも変わっていこう、大丈夫だ、優花なら変われるよ」
「あたしの未来はお兄ちゃんと幸せになる未来だけ。他の未来なんかいらない、そんなの未来なんて見たくない!!」
 挟みこむ力が強くなる。その締め付けに耐えられず、僕は優花を振り払う。
「それでも前に進まなきゃ駄目なんだよ。優花になら分かるだろう!?」
 優花の体が離れ、振り払った反動でお互いが向きあう形になる。僕を見つめる優花の表情のない目に僕は思わず優花から目を逸らす。
「…………なら前に進まなくていいよ。ずっとこのままでもいい、未来なんていらない。ずっとこのまま……ずっとこのまま」
 優花の冷たい手が僕の頬に添えられる。
「何を言って……っ!?」
 そのまま口付けされた。優花の柔らかい唇が僕の唇に添えられ、冷たい両の手で挟まれた僕の顔はその突然の出来事に驚いてなのか、動けなかった。
「ん……ちゅ……んん……」
 優花の舌がゆっくりと僕の唇を割って入ってくる。舌と舌が合わさり、ざらついた感触が僕の思考を白く染めながら奪っていく。
「……れろ……ぷは……」
 唇が離れ、互いの唇が唾液で濡れる。優花の吐息を感じ、焦りと不安が押し寄せた。
「……お兄ちゃん」
 表情のない目は変わらない。僕の目を掴んで離さない。まるでそれは底の見えない深い深い海の様で、寒気がした。
「何でこんな……」
「えへへ。大好きだよ、お兄ちゃん」
「僕たちは兄妹で……」
「もう前に進まなくてもいいんだよ。ずっと一緒にいようね? 大丈夫、皆が遥か前であたしたちを笑っても、蔑んでも、あたしはずっとお兄ちゃんの味方、側にいるよ」
「――キス」
 何が何だか分からなかった。どうしてこうなっているのか。優花が言う「好き」の意味、僕の優花へ対する「好き」の意味の違い。優花の突然の行動、発言。それらが渦のように僕の頭の中をかき乱し、まるで氷漬けにでもされたかのように僕は動けずにいた。
「大好き、お兄ちゃん」
 優花は再び僕に――


「いいか、鈴井。高校生としてだな、しっかりと自覚を持たないといけないんだ」
 どうして優花は僕にあんな事をしたのだろうか。
「高校生というのはだな、大人として社会へ出て行く手前なんだ。ルールや規則と言うものを意識しなくては後のお前の為にもならないだろう?」
 そうだ、僕にも優花にも未来がある……僕は何も間違ったコトは言っていない筈だ。
 なのにどうして優花は僕にあんな事をしたんだ? 何かが違う気がする。僕の考えている事と優花の考えていること、根本から違っていたと言うことなのか?
「……ん。おい、鈴井。どうした?」
 キスの意味。挨拶、愛情表現。挨拶は無いだろう、過去に優花があんな挨拶をしてきたことはないし、口論している場で突然挨拶はしない。
 だとしたら優花の「好き」とは恋愛感情? 優花は甘えの延長線上として兄離れが出来ていなかった訳では無かった、むしろ間違った方向に進んでしまっていた? だとしたら僕はどうしたらいいのだろうか、今まで悩んでいた事とはワケが違う。
「――鈴井!」
「……へ?」
「まただ、またお前は何処か上の空。ひょっとして、お前……体調が悪いのか?」
「体調?」
「号令の時といい、今といい、ずっと呆けているじゃないか、反抗でなければ体調が悪いとしか思えないだろうが」
「いえ、別に体調が悪い訳では……」
「――そうは言っても、顔色が良くないぞ、お前」
 山田先生は頭を掻きながら机においてあったマグカップに手を伸ばした。
「とりあえず、家に帰って早めに寝ろ。今回は多めにみてやるから……」
「は、はい。すみません」
 横目で心配そうにみつめられる。僕は謝りながら職員室の扉を開けた。
「失礼しました」
 謝罪の意も込めて頭を下げる。本当に僕は何をやっているのだろうか、自分や優花の問題を考える前に、他人に迷惑をかけていてはどうしようもないではないか。
 職員室を出て扉を閉めると、僕は思わず溜め息を付いた。どっと疲れが押し寄せてくる。今日は先生の言っていた様に、早めに寝るとしよう。そして明日、また改めて考えればいいでは無いか。
「――っ」
 足が重い。これから帰らなければいけないのだ、きっと本能が理解しているのだろう、帰ってはいけないと。
「そんな事言ってもな……」
 太股に爪を食い込ませると、僕は無理やり足を上げ、歩き出した。
 職員室から昇降口まではそこまで離れていない、数歩進むと自分の靴入れの前にたどり着いた。靴入れを開け、中の靴を取り出す。右手で持ちながら、左手で上靴を脱ぎ、代わりにそれを突っ込む。
 随分遅くなってしまった。外は日が落ちかけており、空が真っ赤に染まっている。部活をしている生徒の元気な、けれども何処か疲れているような掛け声や笑い声が聴こえる。
 忘れ物が無いか確認し終えると、イヤホンを耳に押し込み、携帯を開け、音楽の再生ボタンを押した。
 携帯をポケットに仕舞い、歩き出す。音楽で気を紛らわしているおかげか、先程よりは足が軽い。
「……ん?」
 校門の辺りでふと後ろを振り向くと、視界の端で何かが動いた気がした。
 その方向を凝視する。長くて綺麗な髪が校舎の壁からはみ出ていた。
「金色?」
 僕はそれに見覚えがあった。と、言うよりこの学校に金色の髪をもつ人物は一人しかいない。
「七海、なのか?」
 思わず手を振って呼んでみようと思ったが、僕が手をあげようとした瞬間、七海は校舎の影に隠れてしまう。
「……どうしたんだろう」
 普段の七海であれば、僕を追いかけてくるだろう。それをしないと言う事は恐らく何か用事があると言うことに違い無い。
「まあ、いいか」
 踵を返し、再び歩き出す。
 優花は……もう家に帰っているだろうか。


「………………」
 心の中で「ただいま」と言い、扉を掌で抑えながら息を殺す。玄関で靴を脱いだら、音を立てないよう足早に廊下を歩き、階段を登る。登り切ったらあとは自分の部屋に篭ればいい。とにかく、優花と顔を合わせてはいけない。今、優花と顔を合わせても恐らくいざこざにしかならないと思うからだ。
 一拍置いて覚悟を決めると、音を立てないようにゆっくりと扉を開いた。
「――お帰りなさい。お兄ちゃん」
「………………」
 そこには、優花がいた。
 いつもと変わらない、微笑でそこに立っていた。
「……優花」
「おかえり、お兄ちゃん」
 僕は思わず、後ずさった。
 優花はそんな僕を見て首を傾げる。そして、動けない僕に近づくと、そっと抱きついた。
「ほら、早く上がってよ。夕飯、食べよう?」
「………………」
「お兄ちゃん?」
 無反応な僕を心配したのか、目を覗き込まれる。優花のぱっちりと開いた大きな目に吸い込まてしまうのでは無いかと錯覚してしまう。
 僕は思わず、優花を突き放した。
「……いや、いいよ。今日は疲れたから、風呂に入って寝る」
 いつもは可愛らしい妹が今はとても怖い。この笑顔も僕を別の意味で愛しているからこその笑顔なんだと思うと、そんな可愛らしい妹が別の人物のように感じられる。そんな落差が、僕には耐えられなかった。
「――え?」
 顔を伏せて優花の横を通りすぎようとする。すると、優花が僕の手をとった。
「じゃあ、一緒に……入ろ?」
「――ッ」
 優花が頬を染めながら惚けた表情をする。僕はその表情に寒気がした。
「一人で入ればいいだろう?」
 靴を素早く脱ぐと、早足で廊下を歩く。
 逃げ出したい気分だった。今は優花の側に居たくない。
 一緒に入りたいと思っているのだって、恐らくは下心があってのことだろう。欲求としては素直だ。けれども僕等は兄妹なのだ。許されることではない。
 僕は何も間違っていない、きっとそうだ。自分に言い聞かせる。言い聞かせていないと、今まで信じていた正しい事が分からなくなりそうで、恐ろしかった。
 照明に照らされて出来た僕の影が階段に張り付いて揺れている。まるで今の自分の心境のようで、心苦しくなった。
「お兄ちゃん。お風呂、湧いてるからね?」
 僕は返事をしなかった。
 そのまま脱衣所に向かう。優花の言う通り、準備が終わっているらしく、バスタオルも畳まれた状態で定位置に置かれていた。
 僕は学生服を脱ぐと、ワイシャツを洗濯機に突っ込む。
「………………」
 背後にあった鏡に自分の裸が映っている。優花は、この体に欲情しているのだろうか。当たり前ではあるが、そんな事を考えながら鏡を見たのは初めてだ。なんともいえない気持ちになる。本当に、どうしてこうなってしまったのか。僕は、僕と優花は兄妹。それだけでは駄目だったのだろうか。
 ため息をつきながら、浴室に入ると、浴室内は相変わらず柔らかい光に包まれていた。
 バスチェアに腰掛け、シャワーの蛇口をひねる。お湯が勢い良く流れだし、頭に刺さる。水の音が頭蓋骨を伝い、うるさいくらいに耳の中に響き回る。けれどもそれのお陰で、余計な事を考え無いで済んだ。
「はあ」
 ため息。
 ため息。
 今日はため息ばかりついている気がする。
「――駄目だ。今だけは忘れよう」
 シャンプーボトルを乱暴に押し、掌にシャンプーを出すと、頭を掻き回した。
 乱暴に泡立て、滅茶苦茶に手を動かす。
「………………」
 ――けれども、その手は止められた。
「お兄ちゃんの髪……傷んじゃうよ?」
「――ッ」
 優花の手が僕の手首を掴む。
 僕は思わず奥歯をかみしめた。
「何で入ってきたの?」
「やっぱりダメだった?」
「ダメだって言っただろう?」
「好きなのに一緒に入っちゃいけないなんておかしいよ」
 どうして今なんだ。
 僕は言ったではないか、なのにどうして入って来たんだ。
 優花は僕が悩んでいる事を分かってくれていないのか。
 自分が何をしているのか本当に理解しているのだろうか。
 優花は何を考えているのか。間違いだということには気がついているのだろうか。
 兄妹とは一体何なんだ。
 人を好くとはどういう事なのだ。
 そもそもどうして優花は優花なのだろうか。
 どうして僕は僕なのだろうか。
 頭がパンクしそうだ。
「あたしが頭を洗ってあげるね、お兄ちゃん」
 もう分からない。
「……どうして」
 分からない。
「うん?」
 分からない。
「どうして、“僕”なんだ!?」
 優花の手首を掴み返し、優花に向き直る。優花は頬を染めながら、驚いた顔をしていたが、やがて肩の力を抜くと、答えた。
「知らない」
「“知らない”って……」
 思わず手を離してしまう。
「――ただ、お兄ちゃんが好きなの。お兄ちゃんの側にいたいの」
 どうしてそんなに幸せそうな顔をするのだろうか。
 僕は今、何を思っているのだろうか。自分の事なのに自問自答をしている、少し不思議な感じだ。
「……一緒にいられないなら――」
 優花がうつむく。その視線を追っていくと、全く隠していない優花の胸が目に入ってしまい、恥ずかしさから思わず目を逸らしたが、優花は僕の腕を掴んで続けた。
「――死ぬよ。お兄ちゃんと一緒にいられないなら私はいらないもん」
「なに言って……」
 胸が痛い。
 優花が泣いていた。声を殺すように。
「お兄ちゃん……すき、だよ。一緒にいてよ……永遠に……」
「だって、それは」
 優花が僕に抱きつく。
 痛い。優花が泣いているからだ。
 僕は優花の背中に腕を回す。
「僕たちは兄妹なんだよ、優花」
「嫌。兄妹は幸せになれないの?」
「……なれないのかも知れ無い」
「なら、もういたくない。一緒に死んでよ、お兄ちゃん。向こうに行けば、きっと皆祝福してくれるよ?」
「してくれないよ。皆悲しむ」
 優花は腕に力を入れて、僕に体を預ける様に押す。
「僕じゃ無くて他の人はどうかな。きっと優花を幸せにしてくれる人もいると思うんだ」
「そんな人、いない。お兄ちゃんがいいの!」
 泣きながら優花は僕の首筋を何度も舐め上げた。ザラついた感触が不思議な気分にしてくれる。
「あたしならお兄ちゃんの側にずっといてあげられる。キスだって、エッチだって。お兄ちゃんを満足させられる自信はある。だって兄妹だもん、きっと、最高の相性だよ?」
 首筋に吸い付き、体を密着させる。
 二人とも何も着ていないため、肌が触れて、擦れて興奮してくる。こんなに気持ちのいい肌触りの素材があっただろうか、そう思わせる程だった。
 優花の甘ったるい匂いが雄としての本能を逆撫でして、雌である優花を意識させる。
 雄と雌、二つが本能で確かめ合うと言ったらあれしかないではないか。
 心臓が急に力強く動きだし、自分のモノにだんだんと血が集まってくる。
「……お兄ちゃんも興奮してきたんだね。嬉しいな。このまま、シよ?」
 優花がシャワーヘッドを持ち、僕の髪を洗い流す。優花の柔らかい手で頭を撫でられ、その感触のせいで優花をさらに意識してしまう。
「ダメだって、僕と優花は兄妹で」
「兄妹か……わかったよ、お兄ちゃん。あたしね、ここでセックスしてくれなかったら、あたしと一緒にいてくれなかったら……自殺するよ」
「何言ってるのかわかって……」
 優花は僕の前に顔を持ってくると、その濁った目で僕をみつめた。
「何言ってるのかわかっているよね、お兄ちゃん。気持ちよくなって、幸せになって、いっぱい愛し合うのと、あたしが死んで皆悲しむの。どっちか選んで? お兄ちゃん」
 僕は荒い息を必死に落ち着かせながら生唾を飲んだ。優花は目を閉じ、舌を出しながら僕の返事を待っている。
 僕は、どうしたらいいのだろうか。
 胸が痛む。優花は今悲しんでいるのか、ならば悲しまない様に僕は優花を……いや、でもこれは話が違う。悲しむとか悲しくないとか、そういった感情で動ける事ではないだろう。
 けれども、感情で選ぶ選択肢でもある。僕が優花を本心でどう思っているのか、優花は妹? 家族? それとも異性として意識している相手?
「お兄ちゃん……」
 もし、ここで僕が拒めば、優花が死んでしまう。その後の事を考えられるか? いや、無理だ。想像なんて出来ない、なぜなら優花は僕にとって大切な存在だから。ならば優花を選択しようか、それも考えられない。そんな事が認められる筈は無いからだ、優花は幸せになれるだろう、だが様々な人に迷惑をかけてしまう、僕自身もそれで幸せになれるのか、未来が全く想像できない。
「あたしね、お兄ちゃんが考えている事がわかるんだ……お兄ちゃん、皆が幸せになれる様に考えているんでしょう? お兄ちゃんは優しいものね。でもね、皆が幸せになるって、すごく難しいし、誰かが幸せになれば、誰かが不幸せになるんだよ?」
「どうして……そんな事が断言出来るの?」
「――あたしにはわかるから」
 表情を一切変えずに口だけを動かしてそう断言した。表情が変わってないにも関わらず、背中を冷たい物が駆け抜ける。
「そうか」
 優花はもう決断しているのだ。何があろうとその意志が揺るぐことは無いだろう、後は僕の決断待ち。慌てているのは僕だけなのだ。
 冷静に考えるのだ。
 僕は優花をどう思っている? 勿論好きだ。優花の事をここまで優先して考えている時点で僕も妹離れが出来ていなかったのかも知れない。
 僕は、僕しか優花を幸せに出来ないのだろか。優花はそれで幸せなのだろうか。
「優花は、幸せ?」
「お兄ちゃんと一緒にいられるなら……幸せ」
 優花には笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。
 僕にしか優花を幸せにできないと言うのならば、僕がする事は決まっているではないか。
「………………」
 優花に向き直る。
 僕の答えは決まった。
「ずっと……一緒にいよう」
 優花の舌に自らの舌を絡め、優花をそっと押し倒す。優花はそれを受け入れ、沢山の唾液を舌に纏わせながら僕の舌に絡め、必死に僕にしゃぶりつく。
「ん……ちゅ……ぅむ……」
 優花が僕の上に乗り、僕の唇をついばむ。何も考えられない。優花を感じる、それだけだ。
 僕の妹はこんなにも柔らかくて、小さくて、気持ち良くて、僕を満たしてくれるのか。
 もう兄妹や背徳感なんてものは、性的な快感の追い風でしかなかった。
 こんな綺麗で可愛い雌で妹とこうしてセックスをしているのだ。興奮しないわけがない。
「……おにぃちゃん……すきぃ……あいしてるよ……もっと……もっとちかくにきてよぉ……」
「優花……」
 耳元で小さく、舌足らずの発音でそうおねだりをする。
「もっと……ひとつになろう……おにぃちゃんのと、あたしのえっちなのできすするの……」
 優花が背中を丸める様に、僕に見せる。そこは、もうすでに酔いしれていた。水では無いそれはすぐに優花の愛液だとわかった。
 小さくて綺麗なスジがあいて、ピンク色の性器が顔を覗かせている。
 僕はそこに指を伸ばし、触れてみると、ぬるっと抵抗無く滑り、すくってみると、愛液が指に絡み付いて糸を引いたまま照明に反射して光っている。
「おにぃちゃんのえっち……」
 惹かれるがままに優花のスジへ顔を近づける。優花の性器は愛液を吐き出しながら僕のモノを待っているのだろう、小さく震えていた。
「ひゃっ……あっ……んっ……あぅ……」
 舌を這わせて愛撫する。
 クリトリスや膣口の形をなぞり、可愛い声で鳴くところを丹念に舐め取って行く。刺激を与える度に、体を小さく震わせ、愛液が更なる快楽を求めて大量に吐き出される。
「……あぁ……ひん……あっ……んっ……」
 優花の膣に舌を刺し込んでみる。その異物感と快楽に体を震わせながら体を大きく反らし、僕の頭を抱え、性器に押し付けた。
「おひぃちゃん……ひくぅ……いくぅ!あっ……あふ……あっ、あ、いや……あああああああああああああああああああ!!」
 快感の波打たせながら腰を自分で僕の口に押し付ける。それによって、これが潮だろうか、僕の口に愛液の混ざった液体が入ってくる。優花のモノである、僕は抵抗無くそれを飲み込んだ。
 不快感は無かった。それどころか、僕のモノは最高に硬くなり、優花に入れるのを今か今かと脈打っている。
「おにぃちゃん……すき……せっくすしよう……なかでいっっぱいだしていいんだからね?」
 優花が僕の上に跨る。そして、僕のモノを握ると、惚けた顔でゆっくりと、膣に沈めた。
「……い、うぅ……」
 優花がその痛みに顔を歪める。けれども、どこか満ちたような、幸せそうな顔をして僕に微笑みかけると、奥まで僕のモノを受け入れた。
 そうだ、僕は禁忌を犯してしまったのだ。
 近親相姦。
 優花と僕は繋がったのだ。二人だけの繋がり、二人だけの世界。
 僕と優花は今、膣とペニス、愛液で繋がれた世界なのだ。
「おにいちゃんとせっくすしてる……あはっ……しあわせだよ、おにいちゃん……」
 優花が僕にディープキスを求める。僕は快楽の言うがままに、優花に舌を伸ばした。
 本当に相性が良かったのかも知れない。
 優花の細かいヒダやイボや絡みつきや締め付けは、僕の一番感じるもので出来ていた。
 優花が腰を動かせば、膣が僕を刺激し、膣自体も刺激され、僕と優花は舌を貪りながら、互いの名を呼んで、喘ぎ声を聞かせあう。
 優花は何度も絶頂の快感に僕の名を乗せて叫び、僕も優花の名を呼びながら優花の膣内に、子宮の中に沢山の精子を放った。
 何度だしても、優花の体や膣の快感が蘇り、すぐに互いの体を欲する。それは、お風呂から上がっても続き、リビングのソファーで、優花の部屋でも同様だった。
 僕は優花に溺れた。




 今日もはるを観れた。
 幸せだ。
 それに今日ははるが手を振ってくれそうになった。はるが私に気付いてくれた。今日はなんて素晴らしい日だろうか。
 ただ、少し悩んでいたみたいだった。何かあったのだろうか、悩みなら聞いてあげたい。いや、それは贅沢だ。それに私は本来、はるに触れてはいけないのだ。それこそはるの迷惑。私は今の幸せを感じながら、はるが誰かと幸せになるその時を待ち続ける。それが一番なのだ。
「はる……はる……」
 抱きまくらに腕の力をゆっくりといれる。
 これははるだ。たまに言うことを聞かなくなる体をなだめるためのお薬だ。こうしてはるを呼びながら抱き締めると、指先がピリピリして心地良くなる。きっとはるを抱き締めていると体が錯覚して満足するのだろう。
 はるに触れていいのははるに相応しい人だけ。私は違う。私は欠陥品だから、はるに触れたら天罰が下る。
 はるはたった一人、私を、私自身をみてくれた人だから、天罰が下って、はるに嫌われでもしたら、きっと私は壊れる。欠陥品だから、もうすでに壊れていると言えば壊れているのだが、そうではなくて、もっとバラバラに、跡形もない位に壊れてしまうだろう。
 そうは言っても、これだって贅沢なのだ。
 まず私が存在している事自体がおかしい、それに加え、はるを知ってしまった、それだけで本来ならば大罪なのだ。
 どうして私は存在しているのだろうか。
 誰からも必要とされず、ひとは皆、私を怒りや不満の捌け口にする。私を作ってくれた両親でさえも私を能無しだと罵って何処かへ行ってしまう。どんな顔だったのかも曖昧で、声を聞いたのだって、三年程前が最後だ。
 私をみてくれたのははるだけ。笑顔で私に接してくれて、私の名前を呼んで、私に手を差し伸べてくれた。
 はるだけなのだ。はるだけ。だから、はるの幸せになる様にしよう。私は十分すぎる幸せを貰ったから、はるが幸せになる様に私ははるを見守るのだ。
 はるが幸せになったら、私ははるの足枷だから、はるを解放してあげよう。
「はる……はる……」
 明日もはるに会えるだろうか、明日のはるは幸せだろうか。
『――随分と大層な思い入れね。それに、自分が足枷だと分かっているのなら、さっさと開放してあげればいいのに』
「………………」
『結局は我が身が可愛い、か』
「あと、少し……少しだけ」
『少しってどのくらい?』
「はるが誰かと結ばれるか、学校を卒業したら……その時は……」
『――あと、長くて一年とちょっとってところかしらね』
 自然と抱き枕を抱きしめる力が強くなっていた。




「お兄ちゃん……ちゅっ……」
 優花の部屋で目覚めた僕は隣で寝ていた優花にキスをされた。
「……優花?」
「おはよう、お兄ちゃん」
 再び目を閉じると、僕の懐に体を摺り寄せ、そっと頬ずりをした。
「……お兄ちゃん」
 優花の匂い。
 昨日のあれが脳裏に浮かぶ。そうか、僕はやってしまったのか。
「………………」
 優花が僕の背中に腕を回す。
 そうだ、こうやって僕と優花は、兄妹の超えてはいけない壁を超えてしまった。僕はなんて事をしてしまったのだろうか、いつもそうだ。罪悪感は必ず遅れてやってくる。
「お兄ちゃん、ずっと……一緒だよね?」
 どんな表情をしているのかはわからない。ただ、その声は少し低く、たった一言にも関わらず、それだけでどんな表情をしているのか分かった気がする。
 僕はどんな返事をすればいいのだろうか。
 昨日、優花が僕を脅した際の文句「してくれなかったら、あたしと一緒にいてくれなかったら、自殺する」それは本気だろう、目を見ただけで嘘でない事が伝わってきた。ならば昨日の僕の選択は正しかったのだろうか、“妹の命”と“倫理”のどちらかを取る、僕は妹の命を選択したわけだが、この選択も言い方を変えれば“優花の意志”と“僕の意志”だ。
 僕は、自分の意志とはなんだったのだろうか、常識としての倫理が僕の意志だったのだろうか、いや、そんな事はない。今までの僕は優花と向きあえていなかったのではないか、多分、僕はあの時優花が泣いて、僕の胸が痛んでいなかったら、間違いなく僕は“倫理”を選択していただろう。
 僕は真剣に考えて、優花を選んだのだ。ならば恥じることは無いではない、僕は優花を幸せにする。きっとこの選択が正しかったのだ。今はそう思う。
「うん。勿論、ずっと一緒だよ。優花」
「あたしの事……好き?」
 その一言に心臓が跳ねる。今なら言える、そんな気がした。
「――好きだ、優花」
 優花を抱きしめる。
 体温を感じる。心が暖かくなっていく。
「お兄ちゃん……本当に? 本当に好き?」
「好きだよ、本当だって」
 抱きしめられる力が強くなる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「優花……」
 頭を撫でてあげると、優花はすすり泣きながら僕の胸の中で震えた。
「学校に、行かなくちゃ」
「……うん」
 優花が顔を上げる。優花は目尻に涙を貯めながらも、微笑んでいた。
 時計を確認すると、いつも起きる時間よりも三十分ほど早かった。随分と早起きだ。
「優花、シャワー浴びてきなよ。その……べたついて気持ち悪いでしょ?」
「…………うん」
 優花が頬を染める。
「――ょに」
「ん?」
 優花が僕の腕を引きながら、恥ずかしそうに言った。
「一緒に入ろう?」
「う……うん」
 僕等は遅刻してしまうのだろうか。


 優花とシャワーを浴びた僕は、制服に着替え、リビングのテーブルにいた。
「待っててね、もうできるから」
「うん、ありがとう。優花」
「よっと……」
 優花がご飯の盛られたお茶碗を二つ運んでくる。
 それらをテーブルの上に置くと、優花は椅子を引いて座り、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
 今日の朝食は和食である。ごはんに味噌汁、焼き魚、サラダと、優花は朝食であっても手を抜かない。
 どうして手を抜かないのか。今なら分かる、全て僕の為だったのだ。
 優花はずっと僕の事を愛していた、こうして料理を作り始めたのも優花が幼い頃、正確な日にちまでは覚えていないが、そんな頃から僕を想い続けていたのかもしれない。
「優花」
「なに? お兄ちゃん」
「美味しいよ」
「本当!?」
「優花の料理はどれも美味しいから幸せだな」
 優花が嬉しそうに目を輝かせ、僕の言葉に聴きいる。
「……やった、お兄ちゃんが幸せだって……良かった……」
 優花がお茶碗を持ったまま呟き始める。そして、僕の目を覗き込むと、優花はすがる様に続けた。
「……ねえ、お兄ちゃんのお嫁さんに……なりたいな……」
「それって……」
「ダメ?」
 僕は言葉に詰まった。
 「お嫁さん」その言葉に罪悪感を覚えたからだ。
「僕と優花は兄妹だから、してあげたくてもしてあげられないんだ。だから――」
「――ううん、わかってるよ。だから、結婚は出来なくてもいいの、ずっと、ずっと一緒にいてくれるって意味で、あたしをお嫁さんにしてくれますか?」
「優花……」
 手に持つ箸が震えている。
 僕の返事に不安なのだろうか、顔も若干こわばっている様に見える。
「勿論だよ。優花は大切な妹で彼女でお嫁さんだ」
「お嫁さん、あたしが……」
 優花はその言葉を何度も声にだし、僕に向き直ると、満遍の笑みで言った。
「――ありがとう、お兄ちゃん」
 僕は恥ずかしくなって思わず視線を逸らすと、時計が目に入った。
「あ」
「どうしたの? お兄ちゃん」
「もうそろそろ家を出ないと遅刻しちゃう!」
「え?」
 ご飯を急いで頬張る。
 優花も時計をみて危機を感じたのか、僕同様に慌てていた。なんだかその姿が可愛い。
「ほら優花、急いで……」
 食器を流し台に持って行くと、僕は洗面所に急いだ。


 優花の指が僕の指を撫で上げ、そして絡まった。
「手、繋ご?」
 指を交差させ、恋人握りで繋ぐと「行こっか」そう耳元で囁いた。
 優花は僕に寄っかかりながら歩く。体は密着し、腕に優花の仄かな胸の柔らかさや華奢で、けれども抱き留めたくなる様な肢体、優花の優しい香りが彼女は女の子であると僕に再確認させた。
「お兄ちゃんとこうやって歩くのが夢だったんだ」
 陶酔したようにゆっくりとそう言葉を紡いだ優花は、握っている指に少し力を入れると上目遣いで僕を見つめて言った。
「だいすきだよ、おにいちゃん」
 その妖艶な表情に思わず胸が高鳴る。今すぐにこの少女を抱きしめたい、そんな衝動に駆られた。けれども、ここが外であることを辛うじてわきまえていた僕の体は寸前のところで立ち止まれた。
「おにいちゃん?」
「優花、やっぱり僕達がこういう関係にある事を周りに悟られてはいけないよ」
 優花もそれは理解していたらしく、残念そうに肩を落とすと、名残惜しそうに手を離す。
「じゃあ、人目につかないところならいいの?」
「人目って、まあ、そうなるのかな」
「分かったよ、お兄ちゃん」
 そして頬を染めながら一歩下がると恥ずかしそうに言った。
「じゃあ、お昼休みに旧校舎へ行こう?」


 旧校舎はその名の通り、昔使っていた校舎である。現在は敷地の奥に取り壊される事なく残されており、古びた外観はその不気味さから人を寄せ付けず、所謂七不思議と言った物も囁かれる場所でもある。校舎内は立ち入り禁止。大分年数が経っているため、床が抜ける、崩れる等の心配もあるそうだ。確かに、人目につかないという点ではこんなに素晴らしい場所はないかもしれない。
 そんな場所に今僕はいる。正確には旧校舎三階の倉庫と思われる場所である。物が多いため、いざとなれば隠れられそうなのと、優花たっての希望なのが一番大きい。
 おそらく理由は部屋の奥に置かれたベッドだろう。お世辞にも綺麗とは言いがたいが、一応マットレスは置かれており、どこから持ってきたのか、優花がその上に薄いシーツを被せて簡易ベッドにしてしまった。
「ドキドキするね」
 そう言って天蓋の白いカーテンを閉める。この部屋自体のカーテンは元々閉まっており、室内はこれ以上ないくらい暗かった。
「もうガマンしなくてもいいよね?」
 優花が僕に抱きつく。女の子の匂いに僕も我慢が出来なかった。優花を抱き留めて離さない。そしてどちらからとも無く唇を重ねては舌を送り込んだ。
「ん……ちゅる……」
 舌のザラついた感触と共に唾液が絡まって糸を引く。口の周りがそれに濡れようとも求め続けた。
「制服が汚れちゃうよ?」
「おにいちゃん……ぬがして」
 優花は一度セックスを始めると暫くは何も出来なくなってしまう。言動は舌足らずで、腰は抜けて立てなくなり、思考もままならなくなってしまうようで、服を脱ぐ事など当然出来無いようである。
「ほら、脱がしたよ」
 衣類を枕元に追いやると、優花は再び僕に抱きついてきた。直に触れる肌と肌、その触り心地に、それだけでイッてしまいそうになる。
 優花を寝かせ、キスを交わすと、秘所をそっと指で撫でる。優花が甘く鳴いて身体を震わせるのに愛おしさを感じながら、優花が鳴き続けて秘所を女にするまで愛撫しつづける。指に絡みつき、僕を誘惑する優花の愛液が秘所から離れようとする僕の指を繋ぎとめる。僕はそんな愛液を舐め取ると、その舌で直接愛液を掬い取る。美しく染まった桜色の谷は愛液によってその美しさを増し、下からその谷を登っていくと、小さな蕾がぷくりと膨れていて、そこに触れてやりでもすれば、嬉しそうに震え、さらに美しくなりたがって愛液を流す。
「あ……」
 谷は増水し溢れる。愛液が太ももを伝い、優花の女が目を覚ます。
「おにいちゃん……はやくぅ……」
 優花は僕を急かすが、自身では入れられないために舌足らずの囀りで僕を求める。僕もそれに応えて自らのモノを谷に添える。僕と優花の交尾。今から僕らは一つになるのだ。
「おにいちゃん……だいすき」
「優花」
 優花の膣に僕のモノが埋まってゆく。恐ろしいほどの快感が背中を駆け抜け、奥まで埋まる頃には僕の理性はすっかり壊れかけていた。この快感が僕の倫理を砕く、粉々に。




 はるが優花ちゃんとどこかに行ってしまった。お昼ご飯だろう、優花ちゃんの料理は手も凝っているし、味も申し分ないからはるは幸せだ。私の不味い料理をはるに食べさせてしまった自分が恥ずかしい。
『そう言えばお昼ご飯を忘れて来たわね』
 朝も食べずに来てしまったが、別にお腹は空いていなかった。そもそも食欲が無い、はるを見ていれば食欲なんて忘れるのだ。はるが笑顔でいてくれれば全てが満たされる。欲求なんて私には勿体なさすぎるから、休む為に、夢の中のはるに会う為に寝る以外はこれでいいのだ。いや、そう願わなければいけない。
『夢の中のはるはあなたに優しいものね。現実味が無いわ、どうして夢の中ではるに触れているのよ。夢なら許されると思っているのかしら?』
 夢の中でならはるに迷惑はかかっていない。そう思っていたのに、それははるに近づくことになってしまうのだろうか。だとしたらすぐにやめなければいけない。はると私は違う、はるは人で私は物。確かに物は夢なんて見てはいけないのかもしれない。
『でもそうは言ったって、夢の中で触れることと、ベッドで妄想して自分を慰める事だけは止められないんでしょう? 惨めになるからそんな事言わないことね。あ、“言って”はいないか』
 けれども確かに結局はそうなってしまうのかも知れない。夢の中での私は悪者で、禁忌である筈の“はるに触れる”という行為を平然と遣って退ける。でも、それが幸せでもあるのだ。何しろ、夢の中であればある程度の事は許される。はるとお話しすることも、抱きつくことも、肌を重ねることも、それは私の中の理想だから。実際に触れている訳では無いから。言い訳がましいが、きっとはるもそのぐらいは許してくれる筈だ。
『さあ、聞いてみれば?』
 聞くということははるに触れることだ。それははるを穢す事になるではないか。
『まあ、妄想と夢を取り除いたらただの“七海”だものね』


「なぜそんな事も出来ないんだ!」
 お父さんは私を殴りつけた。
「ああ、ダメね。本当に貴女は私の娘なのかしら」
 お母さんは私を叩いたっきり見なくなった。
「どうしてお前の髪は黄色なんだよ!!」
 幼稚園では皆私の髪を引っ張った。
「それじゃあね」
 お父さんとお母さんは何処かに行ってしまった。
「夢さん。授業について来れてない、大丈夫?」
 先生は飽きれながらそう言った。
「あの子、キモいよね。なんか怖い」
 クラスメイトは私に聴こえる様に言った。
「夢、遅いぞ。体力が無さすぎるんじゃないか!」
 体育教師は眉をひそめ、それを生徒が笑う。
「何で生きてんだよ、キャハハハ!!」
 トイレで水をかけられて殴られて物を隠された。
 皆が私を嫌う。
 私へ向けられる全ての物は憎しみと嘲笑と暴力と憐れみだけ。それが当たり前だった。
 人としては不完全。人間としては欠陥品。物としては滑稽。それが私。
 幼少の頃は表情のない子、人形みたいな子、何を考えているのか分からないなんてよく言われた。それは私が私として存在せず、作られも成長もし無かったから。感情は何時の間にか抑えていたし、そもそも、感情がわからなかった。産まれてからマイナスの感情をぶつけられて育った私に幸福や愛情を知る術はなかったわけだ。
 そんな私でもある日、それらを知る事になる。それがあったからこうして今、私は存在しているのだ。
「一緒に遊ぼう?」
 勉強の合間に外へ出てきて一人ブランコに座っていた私にそう言ってくれたのははるだった。
言葉が出なかったのを覚えている。何を言ったら良いのか、そもそも私に発せられた言葉なのだろうか、この少年はどうして唇の両端を引きつらせているのか。
 そして、少年の伸ばした手に触れた時、はじめて私が生まれたのだった。
 私は数えきれない物を少年から貰った。人格、幸福、愛情、恋、挙げはじめたらキリがない。今だって私にそんな世界を教えてくれるのは少年――はるだけだ。私ははるに作ってもらったから私ははるの物。"モノ"なのだ、はるが望む事は私の望む事で、私ははるを欲してはならない。はるへの想いは最大の禁忌ではるに触れる事ははるへの穢しとなる。はるは私を見てくれるが、はるはヒトで私はゴミなのだ。私ははるを見てはならない。
 ゴミには充分過ぎる幸せを貰ったのだ、今日も禁忌を犯す自分を恥じて死後の罰を覚悟し、はるの幸せを願い続ける。




「それじゃあ、またね」
 制服を整え、昇降口まで来た僕らはそう言って別れた。臭いとかでバレたりしないだろうか、いや、そもそも今の自分は不審では無いか。何にせよもうじきに昼休が終わる。それまでに教室に戻らなければ、臭いや不審どころの話ではない。僕は少し早足で教室に戻ることにした。
 午後の授業とは午前に比べて時間も短くすぐに終わる物だ。勿論、昼食後の眠気とお昼の多少暑すぎる日差しの猛攻撃を受ける事になるが、そのぐらいはもはや慣れたものである。
「なあ、春斗。俺はもう寝たい、ノートを取っておいてくれ」
「……ええ、なんで僕が」
「よ、よし。ジュース一本奢ってやる」
「それならいいよ」
 それを合言葉に康広は崩れた。人とは本当に眠いときは本人も気がつかないうちに眠ってしまっているものだ。今の康広はそれを逆手にとって意図的に、いや、遠慮無く寝たのだろう。後ろで幸せそうな寝息が聴こえてきたが、そんな風に寝られる康広が本当に羨ましい。いけない、授業に集中しないと本当に僕も寝てしまいそうだ。唯でさえ昼休に優花を抱いたのだから、肉体的にも疲労は溜まっているはずなのだ。気を抜いてはいけない。


「で、そんな顔をしてんのか」
「まあね。ジュースの為に頑張ってやったよ」
「ああ。そんなに飲みたかったのね、ジュース」
 康広が顔を引きつらせながら僕のノートで自身を扇ぐ。きっと康広が言うように今の僕は余程酷い顔をしているに違いない。自分でも自覚がある、とにかく眠い。
「少し寝ていけば? もうホームルーム終わってるから問題無いだろ」
「……でもジュースが」
「明日の休み時間にでも奢るよ」
 康広が肩を上げて見せる。僕は重いまぶたが閉まりきらない様に力を込めて瞬きをすると康広に「よろしく」と挨拶をして眠る事にした。
 腕枕を作って顔を伏せる。寝にくいこの体制だけれども、断言しよう、今なら寝れる。
 僕は呼吸を整えると――


 頬が痛い。
 腰は錆びついてしまったのでは無いかというぐらいにぎこちない音を立てている。そうだ、僕は疲れて寝てしまったのだった。
 教室の大きな窓からは赤色の光が突き抜け、床を照らしている。僕は椅子を引き、立ち上がって欠伸をすると、周囲を見渡した。
 後ろのドアに目をやると、彼女はいた。ドアの影に隠れながら顔を少しだけ覗かせてこちらを観察している少女――七海だった。もしかしたら僕を待っていてくれたのかも知れない。そういえばこうして七海と帰るのも久しぶりだ。
「ああ、ごめん。七海、今支度を……」
 そう言って鞄に手を掛けるのと同時に、ドアが少し乱暴な音を立てた。無人の廊下に反響する上履きの足音、七海は走りだしていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 僕は鞄を手にすると、七海を走って追いかける。廊下へとび出すと、七海の長い髪が夕日の中で揺れていた。七海は足が遅い、この距離からなら追いつける。
「――待てってば」
 七海に追いつきその肩を掴むと、七海は全身を使って振りほどいた。
「何だよ、僕が何かした?」
 七海の腕をとる。振り向いた七海は目を見開き、僕の掴んだ手首と僕の顔を頻りに視線で行ったり来たりさせると、身を強ばらせた。
「ご、ゴメンなさい。ごめんなさい。ゆ、許して……」
「あ」
 僕はやり過ぎたと後悔をしながら手を離す。七海は身を強ばらせたまま手首を摩ると、小さな歩幅で後ろに下がり「ごめんなさい」そう小さく呟いて走りだしてしまった。どうやら七海に怖い思いをさせてしまった様だ。確かにあれでは怖がられても仕方がない。
「ん?」
 しかし引っかかるものがあった。久しぶりに七海と会話と呼べない対話をしたわけだが、七海はあんな人物だったであろうか、もっとしっかりとした少女では無かったであろうか。あれはそれとは逆、とても弱々しく感じた。いつもの七海であれば、笑って答えるか「女の子にそんな事したらだめだよ」なんて僕を叱ってみせるだろう、やはり先程の七海は変だ。まるで人が変わったみたいにも感じた。
 弱々しい少女、けれどもその姿にそれ以上の違和感を覚えていない自分がいる。弱々しい七海、僕はそれに見覚えがあったからだ。
「ああ、そうだ。そういえば――」
 昔の七海は臆病で、僕の側にずっと付いていたんだ。いつも暗い顔をしていたけど、僕と遊ぶ度に心が開けてきたのか、少しずつ、少しずつ笑顔が増えていって、僕らは友達でいつも一緒に公園で遊んでいたんだっけ。
 僕の思い出にはいつも七海がいて、弱々しくて臆病な少女だったけど、僕には大切な存在で。いつも隣にはその笑顔があって。
 ふと、左手を握ってみる。子供の頃よく握った手も今となっては手を繋ぐことすら無くなった。隣にも七海はいない。彼女はいつから僕の隣にいなくなったのだろう。
 僕は夕日を握りつぶすように左手に力を込める。
 やはり、何かが違った。


 今朝七海に話しかけてみると七海は僕と視線も合わせず、俯いたまま微動だにしなかった。名前を呼んでも反応をしない。どうやら昨日のことをまだ怒っている様に見える。
 僕は七海に「昨日はごめん」そう謝ると、退散する事にした。とりあえず、ほとぼりが冷めれば七海もいつも通り口をきいてくれるに違いない。
 席に戻り、鞄を机の横に引っ掛けると、康広が相変わらずの陽気な顔で前の座席に座る。
「なあ春斗。前々から気にはなっていたんだけど、夢とお前って仲いいのな」
「そう?」
「ああ。あの夢とね……」
 少し意味深な表情でそう反芻すると、僕の顔を横目で見た。
「七海がどうかした?」
「………………」
 康広は何も答えない。ただ僕を横目で捉えたまま瞬きを二、三回やってみせると、申し訳無さそうに重い口を開いた。
「春斗。お前、イジメられた事は?」
「イジメ? 無いけど……」
 康広は目を見開いて口をあんぐりと開けると、僕の目をまじまじと見つめ「本当か、ソレ?」と聞き返す。
「本当だって。そんな事で嘘ついてどうするんだよ」
 康広が眉間にシワを寄せて首を傾げる。七海の話から急にイジメの話に変わったりと、康広の考えている事が全くわからない。今度はこちらから聞いてみることにする。
「で? それが七海の話とどう繋がるの」
「……春斗。まず初めに、お前は鈍感だ。それは自覚があるか?」
「鈍感。僕が?」
 康広は「その時点で鈍感だ。まあ、自分で気がつくものでも無いけどな」と切り返すと、少し声を潜めて続けた。
「放課後、時間あるだろ。その時話してやるよ」


「お前は鈍感だから、本当はこのまま知らなくてもいい事なのかも知れない。でも、俺はあえてお前に言っておく事にする」
 放課後、屋上まで上がってきた僕らは缶ジュースを開けてベンチに座った。
 缶ジュースは康広の奢りで、こちらは昨日のノート代である。それにしても、夕方とはいえなぜ日の直接当たるこの場所なのだろうか。
「だから、この話を聞いてお前がどう思うかは俺には分からないが、それなりの覚悟はしてくれ」
 康広はハンドタオルを頭に乗せて前屈みになると、話は始まった。
「そうだな、簡単に言ってしまえば夢は周りから快く思われていない。理由は様々だが、誰もが夢を嫌っているんだ。教師でさえ呆れている節がある」
 僕はその言葉を理解できなかった。
 聴こえなかった訳ではない、聴こえてはいるものの、その意味を脳が処理をしようとしなかっただけだ。だから、僕は不抜けた声を漏らしその言葉の処理を始めること無く康広の言葉をただ聴き続ける事になってしまった。
「嫌ってるんだ、お前以外。かく言う俺自身も夢を嫌っている訳では無いが、進んで好きになろうとは思わない。いや、どうでもいいんだ。“キライ”、“スキ”以前の問題だな。興味がわかない。ただのクラスメート、そんなところだな。まあ、今は俺の主観なんてどうでもいい。話を元に戻すと、嫌われている夢は受けているんだ――」
 七海が嫌われている。僕が辛うじて理解できた言葉はそれだけだった。いいや、本当は康広の言葉一語一句の意味を理解なんて出来ているのだ。けれども、脳がそれを認める事を拒否しているから、だから「何を?」そう聞き返したつもりが、口は真相を聞くまいと、動くのを止めていた。
「――イジメを」
 僕は今、どんな顔をしているのだろうか。
 きっと間抜けで不細工な顔を微動だにせず晒している事だろう。
 どうやら僕は鈍感らしい。きっと敏感な方がいいとは思うが、今だけは鈍感でよかったと思える。「七海は嫌われていて、周りからイジメを受けている」そんな事実、知らないほうが良いに決まっているでは無いか。でも良いのは僕だけなのだ。僕が良い思いをしていたさっきまで、七海は悪い思いをし続けていたという事になる。
 これは知れて良かったのか。そうなのだろうか、そうに違いない。でも何が良かったのだろうか、僕が七海の現状を知って何が良かったと言うのだろうか。頭がこんがらがってくる。
「春斗、お前と夢がどうして仲が良いのか、それはお前等以外誰にもわからない。けれども、この事実を知ったからって、お前自身が夢と距離を取ったり、イジメをどうにかしようとか、そう言うことは考えない方がいいと俺は思う」
「な、なら……どうすれば」
 康広の肩を揺すった拍子にハンドタオルがズレ落ちる。康広は落ちたタオルケットを見つめたまま、肩で息をすると、缶ジュースを一気に煽った。
「……それはお前が考えるんだ。でも、今の夢に味方するやつはお前だけなんだ。それだけは忘れてはいけないし、それに酔ってもいけない」
 タオルケットを拾うと、ゴミ箱に空き缶を放り込む。ゴミ箱は綺麗な放物線をなぞるが、縁に当たって跳ね返る。
「あー、メンドクサ……まあ、後は春斗、お前次第だな」
 空き缶を拾ってゴミ箱に突っ込むと、開の悪いドアを抉じ開ける。物騒な音が響き渡り、康広がそれに少し反応すると、ぶつくさ言いながら帰ってしまった。
「……僕次第……」


 康広から知らされた周りからの七海の見解、それが僕の中でなんとも言えない感情となって未だに渦を巻いていた。この胸の奥から湧き上がるものは怒りであろうか、それとも憎しみであろうか、あるいはまた違った物なのかもしれない。
 何故七海は周りから嫌悪されているのだろうか、それが僕には理解が出来ない。人から嫌われる要素が彼女にあるとは到底思えないが、僕個人の感性が万人共有のものではないから、そう言い切ることは出来ない。もしかしたら僕の感性がその万人の感性とズレていて、七海を嫌悪しなかったとも考えられる。
 どちらにせよ、七海は僕にとって大切な人物だと言う事に変わりは無いのだ。僕以外の全ての人々が七海を蔑もうが、僕だけは七海の見方で居るべきではないか。
 それにしてもどうして僕はそんな状況に気づけなかったのだろうか。僕は馬鹿だ。七海と幼い頃から側にいて、苦しんでいたであろう彼女と本当に僕は向きあえていなかった。ただ笑って日常を過ごしていただけだ。それに最近は友達、幼馴染としても七海に接してさえいなかった。優花を悲しませない様に優花を愛そうと努力して、優花の体を抱いていただけでは無いだろうか、結局僕は優花を選んだ代わりに七海を犠牲にしたのだ。
 笑えない。七海は、ひとりだった。
 今からでもやり直せるだろうか。やり直そうと思うのならば、七海を助けようとするのならば、僕がするべき事はある。今から七海に会いに行くのだ。
 ベッドから起き上がると、僕は扉を開けた。
 七海の家まではすぐだ。もう日が暮れるけれども、その前に辿り着く事が出来るだろう。
 玄関でスニーカーを履いていると、リビングの扉がゆっくりと開いた。
「お兄ちゃん。どこかに行くの?」
 優花がエプロン姿に鍋つかみをはめて顔を出した。
「今から七海に会ってくる」
「………………」
 その直後、僕は優花に腕を掴まれた。
「……もう暗くなるからダメだよ。ほら、夕飯も出来るしさ」
 優花が笑う、口元だけ。
 僕はその表情に寒気がした。確かに笑ってはいるのだ、口調も穏やかなものである。けれども、僕には優花が笑っているようには見えなかった。これはあの表情だ、僕が優花にお風呂場で迫られたときのあの表情。それに近い。
「そんなに遅くはならないよ、一時間以内に帰ってくる」
「……一時間も?」
 「も」の部分だけを強調し、優花は僕の腕を強引に引っ張った。僕は体制を崩してフローリングに叩きつけられる。
「優花、何でこんな事を」
「……ダメだよお兄ちゃん。七海さんの所は“何”があっても絶対に許さない。あんな女の所になんて行く必要は無い」
 僕はその言葉に驚愕した。
「そうか、優花もなのか」
「……これはお兄ちゃんの為なんだよ。行ったってお兄ちゃんは不幸になるだけ」
 優花が僕に抱きついて「もう夕飯だから、ね」と耳元でささやく。
 またあの渦が僕を飲み込んでいく。僕はこの感情を優花にぶつけない様に抑えつけながら、先程から疑問に思っている事を聞いてみることにした。
「優花、僕は間違っているのかな?」
「……何も間違ってないよ。何も、何も……」
 また僕は七海の手を握れなかった。


 中庭で優花はそっと、僕の手を握った。僕もその手を握りかえす。
 その意味は分かっていた。だから僕らはどちらからとも無く歩き出すと、人気のない道を抜け、あの場所へ向かった。
 優花と僕が昼休みで過ごす場所と言えばこの旧校舎、そういつの間にやらなってしまっていた。お昼を食べた後はここで優花と身を寄せ合ったり肌を重ねたり。今日は後者だったらしい。
「……お兄ちゃん」
「優花……」
 優花が僕に口づけをする。僕はそんな優花を拒むこともせず、受け入れる。相変わらず柔らかい優花の唇は重ねていてとても気持ちが良い。優花の温かい舌が僕の口内を巡り、脳が少しずつ麻酔で溶かされていく。
 優花は最高の少女だ。妹と言えどこんなに可愛い少女に愛して貰える僕は何という幸せ者であろうか。優花の肌の柔らかさが僕の指先で感じられる。優花の瞳を覗き込む、ガラスの様に透き通ったその瞳は真実の鏡の様に僕の心を見透かす事だろう。けれども脳裏を過ぎったのは優花では無く、何故か七海の顔であった。
 どうしてここで七海が出てくる。七海に怯えられた事を今でも気にしているのか、それとも七海の評価を、状況を知って友人として腹立たしさが残っているのか。どちらにせよ、今優花を抱くに当たってそれらは必要ない。
 僕はそれらを忘れる為に、優花を抱きしめる力を少し強める。今は優花に溺れよう。
「……っん」
 優花が頬を赤く染め、体を僕に預ける。僕は優花の首筋に軽くキスをすると、その髪を撫でた。




 はると優花ちゃんはどこへ行くのだろう、私は気になってついて行く事にした。
 優花ちゃんははるの手を引いて裏庭を抜けて行く。昼休みと言えど、こんな薄暗い所でお昼を好き好んで食べる人などおらず、二人と私、それ以外に誰もいなかった。
 私は物陰に隠れながらはるの背中をみつめた。心無しか足早な、急いでいる様に見える。
 この先には旧校舎がある、はるはそこでお昼を食べるのだろうか。
 はると優花ちゃんは旧校舎を目の前に立ち止まるが、一言会話を交わすとためらう事なく入って行った。
『こんなところでナニをするのかしらね』
 お昼を食べるに決まってるでは無いか。すると、私は私の頭に手を乗せながら『お馬鹿さん』と耳打ちしてから続けて。
『あなたも本当はわかっている。認めていないだけ。だから行ってはいけないわ、今すぐに引き返すべきよ』
 どうして引き返さなければいけないのか。私を無視すると、歩き出す。私ははるが見れればそれで良いのだ。


「……おにいちゃん」
「優花……」
 優花ちゃんははるに××をした。それを受け入れたはるは優花ちゃんを抱きしめて×を挿れる。×を出しては絡めあい、気持ちよさそうに××をたのしんでいる。
『あらあら。糸まで引いちゃってるわね』
 優花ちゃんが制服を脱ぎ始めるとそれにならってはるも制服を脱ぐ。優花ちゃんの××にはるが吸い付いて舐め上げると、優花ちゃんは甘くて切な気な声をあげる。
 それが視界に入った瞬間、私はその場に崩れ落ちていた。
『見て、すごいわね。×××に指を挿れたり撫でたり。あ、舐めてる舐めてる』
 はるが指で××を掬って糸を伸ばしてみせて、それに優花ちゃんが恥ずかしそうに頬を赤らめる。
『あ、体が暑くなってきた。あなた、興奮しているのね』
 優花ちゃんははるの××を掴んで×めて口に××った。初めて生で見たはるの××は×××ていた。本当にウレシそうに、美味しそうに×××優×ちゃんの頭を撫でて微笑むはる。
『んっ、濡れてきちゃったか……変えのショーツは一応ある、わね』
 はるの××を×××優花ちゃんの×××にあてがって腰を×××て。そうか、優花ちゃんとはるは×××を×××るのか。
『はぁ……はぁ……なんで××××しないのよ、したくて堪らないんでしょう!?』
 私が股を抑えながら隣で座り込んでしまう。私も私も息が荒い。
『はぁ、はぁ、ダメ……あなたが達し無いと……はぁ、暑い……あなた、相変わらず濡れすぎよ……』
「……おにぃ、ちゃんっ」
『はやく××××××××……あっ』
 優花ちゃんは私だ。優花ちゃんは私だ。はるに××××××のは私だ。はると××××××××××私だ。
『あぁっ、ん、ん……』
 ××××××××××××××××××××××××××。×××××××××××××。
『×××××××××××××××』


「優花」
「いっぱいだしたね、おにいちゃん」
 はるが結ばれた。優花ちゃんと結ばれた。
 良かった、はるは幸せになれたんだね。もう私はいなくて良いんだよね。
 はるが優花ちゃんとキスを交わす。可愛くて何でも出来る優花ちゃんであればはるは絶対に悲しまない。妹だけれども、妹だからこそはるに最も相応しいのかも知れない。
 私の用は終わった。終わらなくてはならない。はるは幸せになった、つまり罪を償わなければ。はるに私を作ってもらった分の精算をしなければ。
 はる、私は幸せでした。はるを思ってごめんなさい。そして、ありがとう。
 私ははるに気が付かれないようにそっと、這うように旧校舎を後にする。気付かれてしまったら、きっと悲しむに違いないから。
「はる、はる、はる、はる、はる」
 死ぬ前に、死んでからはるの名前を忘れないように体に覚えさせよう。私は物覚えが悪いから、お勉強も料理も全く覚えられないし、すぐに忘れちゃうけど、はるの名前だけは忘れないように、ずっと、ずっと、ずっとはるの名前を覚えていられるように。
最終更新:2011年03月26日 00:01